2019年4月28日日曜日

デリダの「ゼロ記号」

Jacques Derrida
//www.youtube.com/watch?v=c3InSc0sFnw&app=desktop
「社会学史」の備忘録のアトランダム的つづきである。デリダの「ゼロ記号」について。無性にこの「ゼロ記号」という概念に面白さを覚えたからだ。社会学史の文脈を超えた話なのだが、面白い。構造主義には必ず中心がある。レヴィー=ストロースの親族システムのように、構造の中の諸要素の配置を規定し、構造を統合させるような中心。ところで、言語を構成する言語記号は、全てが対等ではない。その中心となる記号があり、それを「ゼロ記号」と呼ぶ。

連合赤軍の事件を扱った映画を例に著者は、「ゼロ記号」を説明している。彼らが、総括という名のリンチを行う際に発せられた「共産主義の地平では」というシニファンがそれである。銭湯に入った、薄く化粧をした、などの行為を批判する際に使われた。この「共産主義」が、連合赤軍の組織の構造の中心に置かれた特権的な記号である。しかも、この共産主義とは何か、誰一人明確には言えなかった。シニフェなきシニファンであり、これが「ゼロ記号」である。デリダによれば、このゼロ記号が付加されることで、構造がまさに構造として成立する。著者によると、「画竜点睛」、これで構造の中の要素の全ての意味が決定される。デリダの用語ではこれを「シュプレマン」(英語だとサプリメント)というそうだ。

この話は、レヴィー=ストロースへの批判のひとつとして、本書でかなり後に登場するのだが、私は大きなインパクトを受けた。身の回りにある「ゼロ記号」を探してみるのも面白い。こういう訓練が、関学のH君の言っていた「社会学的な眼」を鍛えるのかもしれない。

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