2021年7月31日土曜日

秘伝 教材研究(世界史編)Ⅲ

イギリスが名誉革命(と、言っても国王が逃げ出したに過ぎないが)で、「君臨すれども統治せず」の体制を立て、議院内閣制が成立したことと、フランスの絶対王朝が「朕は国家なり」体制のままであったことは、近代の初期、世界の覇権を争っていた長い英仏の戦争に大きな影響を与えている。これを考察したい。

最大の相違は、戦費の調達である。フランスの旧態では国民の税が主体である。前回話題になったカルヴァン派のユグノーの商工業者が主に収奪の対象になる。結局、彼らはフランスを脱出せざるを得なくなりオランダに逃げゴイセンになった。これに伴う財政破綻がそもそもフランス革命の原因である。一方、イギリスは、国債を発行する。国家が戦費を得るの保証人となったわけだ。この方法だと、国内だけでなく、他国からも戦費を集めることが可能になる。このイギリスの先進性が、最終的に勝利する。私は、こういう経済的な側面から歴史を見るのが有効だと思う。生徒は、大学で歴史を専攻する者より、経済・経営を専攻する者の方が多い。国債は、政治経済でも出てくる重要事項なのだが、高校生に全く属性がないので、歴史で教える、これが有効だと思っている。

ちなみに、アメリカの独立戦争の遠因は、この国債である。英仏の7年戦争の一環として、フレンチ=インディアン戦争が起こる。カナダ・セントローレンス川沿いを中心に五大湖周辺まで植民地化を進めていたフランス(キャデラックというGMの高級車の名前はデトロイトを拓いたフランス人の名である。)とイギリスの東海岸の植民地の戦いである。イギリス側が勝利したのだが、その後イギリス政府は、国債返還金の回収のために植民地から税を徴収しようとして猛反発を喰らったわけだ。ちょうど、ジョン・ロックの「抵抗権」という社会契約説も味方して、大義名分もあった。こういう政治経済とのつながりが重要だ。

世界史を基軸に、政治経済を教えていくという発想は、私がマレーシアで「総合科目」というカタチでEJU対策の授業の中で、自由に授業の流れを組めた故にあるのだと思う。私は、つながりを認識するうえで最も効果的な学習だと思う。

2021年7月30日金曜日

秘伝 教材研究(世界史編)Ⅱ

豪州パースのヘンリー8世
私は左派ではないので、マルクスを信奉していない。ただ、マルクスが社会の無意識を暴いたことについては評価している。剰余価値もそうだし、下部構造が歴史を動かしたという唯物史観もそうだ。ヨーロッパは、中世では、世界的には辺境であった。はるかに中国やイスラムの方が発展していた。それが、三圃式農業などの生産性の向上で、人口支持力が増え、ヨーロッパ世界が拡大していく。エルベ川以東への進出、イベリア半島のレコンキスタがその最たる例だが、十字軍もそういうベクトルの延長線上にある。単に中世に権力を増した教皇の思いつきではない。

この十字軍の後世への影響は大きい。イスラムとの戦争ではあるが、地中海貿易が発展しアジアの香辛料などがヨーロッパに入ってくる。この流れが、ヨーロッパでも商品経済を発展させ、都市の発達に繋がる。一方で、レコンキスタで生まれた新興国のポルトガル・スペインは、地中海貿易参入を阻まれ、大航海時代への道が開ける。また、古代のギリシア・ローマの学術・芸術の業績が逆輸入されてきた。これがルネサンスに昇華していく。ヨーロッパの近世を拓いたのは、実は十字軍なのである。こういう歴史の繋がりが面白いわけだ。

さて、近世の大事件はもうひとつある。宗教改革である。ルターが免罪符を批判したところから始まるが、この免罪符、そもそもは、ルネサンスの中心であったメディチ家出身の教皇・レオ10世がサン=ピエトロ寺院の改築費用を捻出するための方策であった。また、宗教改革による信者の減少を補う反宗教改革は、大航海時代で成功したポルトガル・スペインによってアジアと新大陸へと向かった。もう一度確認すると、ルネサンス・大航海時代・宗教改革という、それぞれの繋がりが世界史学習を面白くする。

宗教改革はさらに面白い。ルターの動きは、神聖ローマ帝国内の領邦国家の権力闘争に乗ったことは実に重要であるし、(この領邦国家であったことがドイツ発展の出遅れに繋がる)カルヴァン派の伸張は、さらに重要である。彼らが近代の資本主義化をけん引したからだ。ピューリタン、ユグノー、ゴイセン、プレスビテリアンといった各国のカルヴァン派は、この後のヨーロッパ史に大きな影響力を与えている。ルター派と共に複雑な宗教戦争の時代に入るし、市民革命の要因にもなっていく。

さて、ヘンリー8世の英国国教会の誕生も、スペイン王室とイギリス王室の愛憎ドラマがから講じることが多い。これに当時スペイン=ハプスブルグ家に支配されていたゴイセンの多いオランダも巻き込んで、プロテスタントによる新しい航海時代(ポルトガル・スペインの支配から、オランダ、さらにイギリスの支配へと続く)を開くきっかけとなっている。しつこいようだが、このような歴史的事項の繋がりが、世界史の醍醐味だと私は考えている。

2021年7月29日木曜日

秘伝 教材研究(世界史編)Ⅰ

https://kinarino.jp/cat8-
世界史の教材研究について、エントリーしようと思う。世界史はH高校時代に受験対応したことがあるけれど、専門ではない。これは、という内容だけ記しておこうかなと思う。

その是非はともかく、ヨーロッパ史が世界史の主軸となっている。ギリシア・ローマの古代史は、その変遷から学ぶことも多い。アテネの民主制は、王政から貴族政、ソロンの財産政治(財産を元に4等級に分けて、参政権と兵役の義務の分配)、僭主政治、その後の民主政治の確立(陶片追放、ペルシャ戦争・サラミスの開戦で無産市民が漕ぎ手として活躍、ペリクレスの直接民主制)、ペロポネソス戦争と衆愚政治と変遷する。どのような政体が良いのかの試行錯誤は、ローマでも同様で、貴族共和制から地中海製の覇者となり、下部構造の変化(奴隷経済化)と共に民主共和制も変化し、内乱の一世紀を経て、三頭政治、帝政となった全盛期(パクスロマーナの時代)、3世紀の危機があり、衰退へと向かう。

ここで問題になるのは、常に持てる者と持たざる者の葛藤である。様々な要因でこれらが変化していく。基本になるのは、持てる者は戦争に参加する権利があるという概念が一般化したことに注目したい。ローマ市民であるか否かは、戦争に参加できるか否かであった。(例外は、ギリシアのサラミスの開戦。ローマでは重装歩兵の没落の後、無産市民が傭兵化する。)

ギリシア・ローマの歴史は、ヨーロッパの「自由な個人vs不自由な共同体」という社会の二重構造誕生の歴史である。また、「法」という概念が一般化されたことも大きい。

しかも、ローマ帝国の領土であったか否かは非常に重要で、司馬遼の「街道を行く~愛蘭土編」に書かれていたと思うが、それ以外は、田舎であるという見方が今も存在する。(画像参照)

これに対して、エジプトやメソポタミアに始まり、広くアジアをも含んだオリエントの歴史は、専制の度合いがはるかに大きい。民主制を生んだヨーロッパとは社会構造が違うのである。ロシアは普通ヨーロッパに分類されるが、オリエントの要素というかアジア的なモンゴルとの関わりが強いので、専制的であるわけだ。これは、社会主義化したソ連でも、現在でも同様である。私は、こういうメタな視点を重視したい。

2021年7月28日水曜日

中学生1日体験入学 ’21

中学生の一日体験入学で100人もの参加者があった。昨年より倍増である。それだけ三崎高校に注目が集まっていると言える。昨日から、1年生を中心に準備がされていて、補習期間も終わり、一気に来塾者も少なかった。(笑)

今年のオープニングもVTRで始まった。いつ見ても演出が上手い。VTR終了後、体育館の二階から、どっと紙飛行機が…。私はこういう演出が好き。K先生の才能はかなりのものである。

面白かったのは司会。女子はしっかりと進行をするのだが、男子は道化役。なんと塾生のU君である。彼があんなに道化ができるのかと驚いた。これも紙飛行機に続くK先生の脱構築演出。さて、吹奏楽+男子応援団+チアガールズの登場。圧倒的な「三崎高校の青春」を中学生にぶつけたと言ってよい。

体験授業では私はO先生の手伝いをした。彼のPBL的な授業もいい。出来る限り暗記教科にしたくないとの思いが伝わってくる。この時、保護者の方が、「さきほどの応援に感動しました。」と言っていただいた。ありがたい言葉である。途中、ゴジラの乱入や、2年生の女子の視察もあって、その度に中学生諸君は驚かされたと思う。

その後は、塾の説明会があった。3班に分かれて来塾してくれた。今回は、若い講師陣にすべてを任せた。いろいろと思うところはあるのだけれど、あえて口出しせず。(笑)3年生の塾生・Mさんを呼んでセッションしたのはなかなかのアイデアであった。彼女のコミュニケーション能力は、3年生の中でも五本指に入る。

最後の体育館では、今日の思い出が詰まったVTR。これも俊逸だった。空席の体育館と中学生の満席の体育館が、1人の1年生の女子(ほとんど顔はわからないので、あくまで記号的な演出になっている。)の姿を挟んで、対照的に何度も見せていく。K先生の演出は実に面白い。三崎高校のwelcome精神を表しているように感じた。もちろん、はなはなでのスナップや体験授業のでのスナップも挿入しつつである。大したものだ。

そのK先生と終了後、少し話をした。先日の「三崎高校フェスティバル」も含めて、次年度のパワーアップが大変だと思っているのは共通認識だった。さらに「破天荒な熱意が三崎高校の魅力だと思う。」と言ったのだが、十分納得してもらえたようだ。

2021年7月27日火曜日

1年生のポスターセッション

補習最終日、愛車の校内駐車場はちょうど1年生の教室の前で、1年生がなにやら盛り上がっているように見えた。ちょうど、担任のK先生に会い、ポスターセッションをしているそうで、是非、塾講師の見学参加をと要請された。
伊方町の地方創生が大テーマで、総説(人口と高齢化、雇用創生など)、環境問題、教育問題、防災問題などのチームに分かれていた。各チームで順にプレゼンテーションをしているようだ。塾生もたくさんいるので、写真を撮るのも楽しい。
1年生であるので、多少稚拙なものもないことはないが、懸命に考えたらしい跡がポスターの中に散りばめられていた。こういう教育を通じて、三崎高校生が徐々に作られていくことに、改めて感慨深かった。
…プレゼンテーションの経験値が多いというのは、実に大きな財産となっていくはずだ。

2021年7月26日月曜日

鄭州 鬼畜のビジネス

洪水の大被害となった鄭州
朝からショッキングな映像がネット上に流れている。中国の洪水による地下鉄で溺死した遺体から、角膜を取っている写真が拡散されている。目のガーゼがあまりに不釣り合いである。(リンクを張っていおくが、閲覧注意。)

https://video.twimg.com/ext_tw_video/1417497798438789129/pu/vid/432x960/g5v3utg315GFRZ7V.mp4 *閲覧注意

https://www.ntdtv.jp/2021/07/51338/ *閲覧注意

このような鬼畜なビジネスをゆるしてはいけない。中国共産党の独裁政権下、不利益な情報を隠し、嘘にまみれたプロパガンダのみを発信していることを認識することが重要だ。このような情報統制下故に出来るのである。

角膜は需要があるのだという。金の為なら何でもやっていいのか?この裏に中国共産党がいることは間違いない。全てのビジネス組織は国営であれ、私営であれ中国共産党の指示のもとにあるからだ。ウィグルでも湾岸諸国の臓器移植ビジネスが盛んであるという。全くもってこのような鬼畜ビジネスは許されることではない。

私には、大切なマレーシアの中国系の教え子がたくさんいる。大陸にも、修学旅行でお世話になった王さん・洪さんという友人もいる。だが、この事実は拡散せざるを得ない。私が非難しているのは、中国共産党独裁政権である。中国人そのものではないことを明確にしておきたい。華やかなオリンピック報道の裏で、このような事実を隠されてはたまらない。よくぞ、この画像が流出したといえるだろう。

2021年7月25日日曜日

みさこうフェスティバル’21

毎年、三崎小学校の体育館で開催される吹奏楽部の「みさこうフェスティバル」、多くの地域の方々をお迎えして、19:00すぎに終了した。まずは、地域おこし協力隊のFacebook、次に未咲輝塾のFacebookを更新して、我がブログに帰ってきた。(笑)

いつもながらに思うのは、三崎高校は小規模校ながら、凄い学校だという事である。この「みさこうフェスティバル」は、当然のように県外の保護者やOGにも見てもらえるようにFacebookでLIVE配信されている。それ以前の事前のCMビデオも何本も作られ配信されているし、各メンバーの紹介ビデオも製作され、会場で上映されている。

演出もなかなかのものだ。風のプロフィールと題された木琴を数人で次々叩きながら、前では比較的静かなパフォーマンスで始まった。次に町内唯一の吹奏楽部を持つI中学の友情出演。流れを止めぬために最初にお願いしたのであろう。演出を手掛けたことがある私もそうする。途中で入れるのは流れ的にしんどいからだ。

第一部のメインは、地域の高齢者にも懐かしがって聞いてもらえるような曲を選んでいた。私は好きではないが「タッチ」(野球漫画=巨人の星である。その対蹠にあるような漫画なのである。)「パラダイス銀河」「Diamonds」など。

みさこう体操をはさんで、第二部は、まずみんなで楽しむ=踊るをコンセプトに、バレー部のミッキーマウス・チームを中心にチアガール隊、小学生のMSK48(なかなか可愛い)が登場。さらにサプライズで、本校の校長・教頭と小学校の校長・教頭が登場。エビカニクスというダンスを披露された。もちろん、本校教員も毎度のことながら頑張っていた。(笑)ちょっと静かに吹奏楽部員の紹介、顧問挨拶、合唱を披露した後(会場を一度落ち着かせて)、本格的な吹奏楽演奏、最後は吹奏楽部定番のスクウェアの「宝島」をI中学と合同演奏という流れは完璧である。

ただ、これでは終わらない。先日の野球部壮行会で披露したコンバットマーチなどの応援曲を、男子応援団・チアガールズと華々しくアンコールで閉めたのである。

コンセプトも流れもいい。八面六臂の活躍していた顧問のO先生と、三崎高校のエンジンK先生のご苦労が偲ばれるところである。惜しむべくは、三崎小学校の体育館を使わせていただいている故に、今年度は三崎小学校を巻き込んでの成功だと思うが、隣接する三崎中学校の学校長・教頭とも来ていただいていた。I中学吹奏楽部を招聘している関係で、難題ではあるが三崎中学からも何らかの出演が出来たらよかったと思った次第。これはおそらく来年度の課題と考えておられるはず。

とまあ、冷静に今回の演出を振り返ってみた。批評するのは簡単だが、実際のイベントを企画・運営するのは、並大抵の努力や才能ではできない。それを踏まえて、あえて批評してみた次第。

2021年7月24日土曜日

オリンピックが始まったが…。

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我が家にはTVがないので、YouTubeでブルーインパルスの飛行や開会式の様子を少し見た。実は、私は開会式の中でも入場行進が好き。国旗とアルファベット順で、入場してくる国をアナウンスより早くイメージするクイズのような感覚で、4年に一度楽しんできた。この不幸なオリンピックの開会式をLIVEで見れなかったのは残念ではある。

さて、隣国がまたまた馬鹿をしている。そのそも自分の国の放射能の方が高いのにフクシマを揶揄して、(オリンピックでは厳禁である政治的なアピールをした)選挙村にいながら自国の食材で調理したものを食しているらしい。そんなにいやなら、来なければいいのである。

サッカーの試合では、ニュージーランドに負け、10番の選手が試合後の握手を拒否したらしい。正しい歴史認識とともにオリンピックの精神などは、隣国の教科書にないらしい。

開会式の話に戻る。隣国のTVでは、ウクライナの入場行進の時に、チェルノブイリの写真を映し出して国の概要を述べていたらしい。ハイチも最近大統領が暗殺され内紛が続いているとか、各国のCDPやコロナのワクチン接種度などとともにLIVEしていらしい。何という馬鹿な放送局かと思う。当然ながら、各国の嫌度はさらに上がったであろう。ウクライナに対しては、自国の時には、セウォル号の沈没の写真を出してオアイコだというネットの反応があったが、まさにその通りだと思う。

昔、高校生だった息子が「賢いということはシミレーション能力の高さである。」と言っていたことがある。なかなかの慧眼である。言い換えれば、「馬鹿と言うのは、シミレーション能力が低い=こういう行動すれば、どう状況が変化するかということを読み取れない。」ということになる。ほとほと、呆れかえるような話である。

2021年7月23日金曜日

四国カルストに行く。

さて「四国カルスト」である。地理の授業みたいになるが、四国山脈はかなり高い。瀬戸内地方が降水量が少ないのはその影響である。四国に来て険しい山が多いのは実感できた。中でもこの四国カルストある愛媛県と高知県の県境は、標高1000mから1500mある。梼原も十分標高がある。「雲の上」というくらいだから、ここまででも、R196でだいぶ上ってきているのだが、さらに高度を上げることになる。かなり古い軽の愛車には絶対キツイのである。さて、Googleマップでは、梼原を北上するルートになっていたのだが、もう少しR197を東に進んで、四国カルストの東側から入ることにした。

ここでかなり迷った。高知県の交通案内は、愛媛県ほど親切ではない。しかも県道=林道は、舗装はされているが、カーブミラーもほとんどない一車線である。意外に交通量は少なく順調に、(と、いってもDでは苦しく、3rdで登るはめになった。一部は2ndに入れた。エンジンブレーキ以外でこれらを使ったのは初めてである。)天狗高原に到着した。

4連休初日。四国カルストは、かなり込んでいた。これは仕方がない。それだけの価値のある場所であるからだ。まさに絶景。愛媛No1ではないかと思う。ところで、我が愛車は、県境を越えるたびにお知らせをしてくれるのだが、何度も「愛媛県に入りました」「高知県に入りました」を繰り返した。日本でも珍しい所だろうと思う。


帰路は、西側の大野ヶ原まで走り、そのまま県道を進んだ。これが失敗。ひたすら山の中の一車線で、さすがの妻も弱音を吐いたくらいだ。なんとか肱川までたどり着いたのだが、まさに行きはよいよい、帰りは恐い。…絶景がぶっ飛んでしまうくらい、疲れて帰ってきたのだった。

2021年7月22日木曜日

高知県梼原 雲の上の図書館

4連休である。この間に「四国カルスト」に行く予定を立てていた。天気予報によると今日が最も良さそうなので、朝早めに三崎を出た。途中、高知県に入る。実は、四国カルストは県境沿いの尾根にあり、昨年は愛媛県外に出てはならないというお達しを守って行くことを断念したのだ。大洲市の肱川から鬼北経由で梼原(ゆすはら)町をまず目指した。ちなみに、人生初高知県である。

ここには、「雲の上の図書館」と呼ばれる凄い図書館がある。世界的な建築家・隅研吾氏によるもので、この梼原町には、他にもいくつか彼の設計による建物がある。この隅氏が若い頃、木造の芝居小屋を守る保存運動に関わり、木材の可能性に目覚め、「梼原は自分の原点である」と思われているようだ。ちなみに、隅氏は、いよいよ始まってしまうオリンピックのメーン会場・新国立競技場の設計者である。

https://www.kochike.pref.kochi.lg.jp/column/121496/

実際、行ってみて感激した。面白いのは、独自の”いろは”ウォールと呼ばれる48の本棚の分類がされていることだ。「い」は梼原の風を感じる~風土・風習・風景、「ろ」は高知から四国へ~空海も龍馬も歩いた道、「は」は日本を今一度洗濯いたし候、「に」は”脱”ウォール~龍馬脱藩の街だからこそ、「ほ」は背伸びコーナー~絵本を卒業したら、など、一般書に続き、「有為の奥山けふ超えて浅き夢みし」は、それぞれライブラリー1/自然の姿、2/歴史の流れ、3/創造のかたち、4/未来のおもい、コミュニケーションラウンジ”夢見楼”になっている。とにかく、魅力的な本がいっぱい。ここにしょっちゅう来れる子供たちも大人も実に幸せだと思う。

こういう町おこし、実にいいなあと思う。

2021年7月21日水曜日

教員免許更新制廃止 考

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE103VM0Q1A710C2000000/
先日、教員免許更新制が廃止されるとのニュースが流れたが、文科大臣は否認。一方で、3.5万人の廃止要請の署名が集まったいという。どうなるのか、まだわからない。

全くの悪法である。ハッキリ言って、この免許更新制度は、現役の教師にとって負担以外何物でもない。私はまだ被害が少なかった方(3万円の自費&3日間)だが、事務手続きなど全く無駄な労力を費やした。(今いる愛媛県三崎なら、松山等のホテル代なども自己負担になっただろう。)何より、そもそも何故更新しなければならないのかが不明だ。研修なら、教育委員会や部会でやっているし、自己研鑽も進めている。現場は忙しい。私など部活の主顧問ではなかったが、主顧問の先生方は、ブツブツ言っていた。当然である。

一刻も早く、このような制度は廃止して欲しい。私に残された免許はあと1年。これから先、どうなるかわからないが、免許はあった方がいいに決まっている。

2021年7月20日火曜日

秘伝 教材研究(地理編)6

マレーシアのカールスバーグ・ビール工場 https://www.jbja.jp/archives/35147
工業にも法則性がある。工業立地である。原料志向型、消費地志向型、労働力志向型、用水志向型、電力志向型、臨海志向型、臨空港志向型などの分類がある。

高校生にとって、工業は農業以上に属性がないことが多い。TV番組などでもあまり取り上げないし、世の中にどんな工業があるのか知らない。当然のことである。地理の教師は、そういう事情も踏まえて、できるだけ平易に教える必要があると私は思う。幸い私は、工業高校に15年もいたので、間接的に様々なことを教えてもらった。機械科の担任だったので、実習工場にもよく出入りして、旋盤や特機も知っている。

さて、原料志向型の工業には様々ある。水産資源がとれる港町や商品作物を生産する農村地域での食品産業などは分かりやすい。セメント工業は、石灰岩の産地が定番。製紙やパルプ工業は森林資源と共にある。鉄鋼業では、鉄鉱石と石炭が必要なので、そのどちらかがあるといい。日本では、鉄鉱石産地では釜石、石炭産地では室蘭など。イギリスのぺニン山脈はこの両方が揃っていて、産業革命時、ミッドランドの工業都市の強力なバックボーンとなった。

消費地志向型は、比較的重量のある工業製品で輸送にかかるコストが影響している。その最たるものはビールや清涼飲料水である。ブルキナファソは工業はほとんど未発達であったが、コカ・コーラ社の工場だけは首都ワガドゥグーの近郊にあったし、マレーシア・クアラルンプールでもビール工場は近郊(特別区であるKLとセランゴール州の境くらいに)位置していた。出版・印刷業も同様で、東京やNYCの主要工業になっている。

労働力志向型には2種ある。高度な技術を持った労働者志向型と安価で豊富な労働力志向型である。前者は、楽器、精密機械、ICT関連などである。浜松とかスイス、サンノゼなどの地名が浮かぶ。後者は、縫製、家電組み立て、輸送機械組み立てなどで、途上国が飛翔する際の工業だともいえる。縫製は、すでに中国からベトナムへ、さらにバングラディシュへと移転を繰り返している。アフリカの優等生モーリシャスも香港との関係で縫製でうまく飛翔した。家電組み立ては、マレーシアの飛翔に役立った。輸送機械組み立ては、さらに高度で、他の部品関連企業の集約が必要である。メキシコなどがその好例であろう。

用水志向型は、水の消費が半端ない工業で、まずは原料志向に近いが醸造業、製紙・パルプ工業、鉄鋼業など。電力志向型は、何と言ってもコストの90%を電気代が占めるアルミニウム工業、そして化学肥料工業なども挙げられる。

臨海志向型は、原料をほぼ輸入に頼っている日本などでは、石油精製、石油化学工業、さらには鉄鋼業が多い。臨空志向型は、製品が高額で小さく、航空貨物を利用することが可能なICチップを生産する電子・エレクトロニクス工業となる。

もちろん、これらはステレオタイプの分類であって、全てにあてはまるわけではないが、こういう法則性を知ることは重要であるし、特に理系の生徒には面白く感ずるはずだ。

秘伝 教材研究(地理編)5

https://jp.123rf.com/photo_12501672
地理という教科は、社会科の中でも法則性の理解が重要な教科である。だからこそ理系の生徒に向いているのかもしれない。ケッペンの気候区分の次に学習するのは、農業である。

気候・地形・土壌・社会的条件(技術や消費地からの距離)などの関係性というか法則性があって、それぞれの地域で適地適作で行われているからだ。

農業は、ビジネスである、というテーゼが実に有効である。教科書やサブノートでは、自給的な農業(遊牧や焼き畑農業など)からやる場合が多いが、今やこれらは例外的であるので、最後に回す方がいいと思う。

私は最初にヨーロッパ中世以来の三圃式農業から話を始める。小麦+飼料作物+牧畜がセットになった有畜農業である。ここで重要な法則がある。ヨーロッパは、Cfb・Cs・Dfなどの気候区である。これは、(イタリアのポー川流域などを除いて)米が作れないことを意味している。米作は、Af・Aw・Cw・Cfaなどの地域で可能である。(Dfの北海道は技術の進歩としか言いようがない。)米と小麦を比べると、カロリーは(最近小麦が上がってきたとはいえ)米の方が高い。つまり、人口支持力が高い。小麦だけではカロリー的に厳しいので、家畜を飼い補うのである。主穀農業と有畜農業の相違は生産する穀物のカロリーに由来する。

この三圃式農業で、土地が豊か故に小麦生産中心なのがフランス、家畜を豚にし、飼料もてんさいや豆にした合理的発展をしたのが、ドイツ。(豚は、牛や羊のような広い牧場を必要としないし、これらの飼料作物は土地を自然に耕す故)Cs気候で、硬質小麦(パスタの由来)と家畜が羊なのがイタリア、氷河地形で土地がやせている故に、小麦をあきらめ、牧草だけを栽培、それで乳牛を使い酪農化したのがデンマークという図式になる。

ここで、家畜の法則を教える。降水量と家畜の関係である。乾燥に強いのは羊やヤギで、豚は屋内で買うので関係なし、牛はどちらかというと雨が好きである。この法則は、後にアルゼンチンのパンパやオーストラリアでの、牛と羊の分布にはっきりと出てくる。

労働生産性と土地生産性の法則も重要である。集約的か粗放的かという技術的・あるいはビジネス上の条件と気候・地形・土壌などを組み合わせて、メタ的に世界の農牧業地を分類していくと実に面白い。地理の面白さは、こういうところにあると思うのである。重ねて言っておきたい。決して暗記教科ではないのだ。

2021年7月19日月曜日

日本史宿題 偉人レポート

https://clubt.jp/sp/product/214736_15792603.html
2年生のⅡ型(進学コース)の塾生に聞くと、日本史Bの教科書(当然山川出版社である。)に登場する「偉人」のレポート(A41枚)を書くという宿題が出たらしい。誰にするか、あーでもないこーでもないと考えていた。面白そうなので相談にのっていた。

私なら誰にするだろうか?「偉人」と言われたら、真っ先に浮かぶのは、山岡鉄舟だが、教科書には載っていなかった。この「偉人」という語には、完全無欠なイメージがある。うーむ。緒方貞子さん?中村哲さん?緒方さんも中村さんも最近過ぎて日本史の教科書には載っていない。なかなか難しい課題だ。

だとしたら誰だろう?私が日本史で詳しいのは幕末維新だが、「奇人」ならたくさんいる。

佐久間象山とか大村益次郎とか、高杉晋作とか、魅力はあるが、「偉人」というより「奇人」であると思う。かの吉田松陰も、純粋な革命家としては「奇人」の部類で「偉人」ではないと思う。私は勝海舟が好きだが、「偉人」と呼ぶには、あまりにハッキリものを言いすぎているかな。

会津藩の松平容保も好きだが、不運な人で、藩是から佐幕側に立たざるを得なかった。京都守護職という立場が後の歴史から見て悪すぎる。孝明天皇が最も信頼し、宸翰(しんかん:蛤御門の変の際に賜った漢文の文章)が与えられていたが、竹筒に入れたまま死後まで公表されなかった。会津の尊王の立場を示す決定的証拠を持ちながら、孝明天皇の想いを大切にしたわけだ。この「義」が凄い。「偉人」の資質をかなり持っているが、歴史的に、立たされた立場的に「偉人」と呼びにくい人物である。

徳川慶喜は、反対に資質はともかく「偉人」的な歴史的業績を残したと私は考えている。水戸学のDNAを発揮して、賊軍となることを徹底して避けた。結果的に英仏による植民地化を避けることに成功した。この歴史的な功績は大である。ただ、鳥羽伏見の戦いの逃げ方は、とても美しいとは言い難い。それ以前の振る舞いも英俊ではあるだろうが、人間的には疑問が残る。完全無欠な「偉人」とは言いにくい。

大久保利通は、明治新政府の設計図を書いた「偉人」であり、その是非はともかく功績は、維新の三傑の中で最大だと思う。ただ、超弩級の陰謀家・岩倉具視と共謀して錦の御旗をつくり、幼い明治天皇を立てたのは、歴史の闇の部分としてどうしても消せない。大久保もまた完全無欠のイメージの「偉人」ではないだろう。大久保から見れば、西郷も木戸も伊藤も山縣も板垣も大隈も江藤もその偉人度は下がる。

竜馬は、「偉人」といより、「英傑」だろう。たとえグラバー商会の工作員だったとしても、浪人の身分で海援隊を動かし、中岡慎太郎と共に薩長同盟を作り上げた行動力はたしかに凄い。だが、薩摩も長州も竜馬の大政奉還路線を否定した。暗殺されたのは悲劇でも何でもない。当時としては、当然の結末に見える。よって、いかに魅力的でも「偉人」と見るのは違う気がする。

よって、この幕末維新の4人の中では、松平容保が最も「偉人」に近いかな、と思う。

2021年7月18日日曜日

ゆとり教育の弊害「地名」

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000343.000013640.html
地理の教材研究の話をエントリーしていて、高校生の地名の認知がかなり下がっている事を考察しておくべきだと思った。これは、学力差などに関わらない公立高校の生徒に共通のことである。(画像参照:私立の中高一貫校やそれに関わる入試では十分やるようだが…。)つまり、公立小学校、中学校、高校と進んできた生徒についての、ゆとり教育の是非の問題である。他教科のことはともかく、地理のベースとなる地名に関しては、高校で学ぶまで白紙状態の生徒が多い。

これは生徒本人の努力不足とかではなく、ゆとり教育という美名のもとに、そういう地名を暗記させるということを忌避させられてきたが故の事態である。大学受験に際して、地名の認識が白紙では全く勝負できない。日本地理も世界地理も同様に、ドイツやフランスの位置さえ明確でないのが学力が高い生徒でも普通である。

私たち昭和の人間は、まず小学校で徹底的に、都道府県名や県庁所在地、山脈名、河川名、島、岬、湖、水道などを教え込まれた。世界地理は、私の場合、たしか4年制の時に自由研究で、世界の国名を国旗とともに首都名を調べ頭に入れた。だから、中学校では全く困らなかった。

地理の地名を入力するためには、大学受験までのいつかに、「強いて勉める」をする必要がある。いつだったか、ある中学校を営業で訪問した際、対応していただいたのが地理の先生で、時間の制限の中で世界地誌などは一部の地域を選び学ぶだけだという。そりゃあ、生徒の地名力が下がるわけだ。

社会科では何事もそうだが、興味があれば覚えるのは容易である。いかに興味を持たせるかが重要であるが、地名に関しては、興味を持たせていては時間がかかるだけで効率が悪すぎる。高校の地理教師が心を鬼にしても、強いて勉めさせねばならない。文科省のゆとり教育の弊害のひとつが、この地名問題にあると思う。

2021年7月17日土曜日

五輪選手村での政治行動 考

ジーンズが破れてきたので、大洲まで買いに行った。これまでユニクロの製品を愛用してきたのだが、ユニクロは、中国のウィグル人へのジェノサイドを支援しており、地球市民としては購入を控えたいところだ。それで、他の安い店で買った次第。

この「購入を控えたいところ」という日本語は、購入したくないのだが、はっきりと言わないでおこうという、実に日本的な抒情的表現である。隣国のような一時の日本製品ボイコットで、会社名を書いた紙を燃やしたり、踏んだりするような幼稚な行動は慎むというのが日本的である。

東京五輪不参加とか言っていた隣国の選手団が選手村で、ハングルで書かれた反日的な横断幕を掲げ、IOCの政治活動の禁止という憲章に触れるような行動を起こしたが、IOCに指摘され撤去されたのだという。

私は、もっとIOCには毅然と、五輪参加資格の取り消し、日本政府にはペルソナノングラータとして国外退去を命じてもらいたいと思う。彼らの幼稚度は、国際常識を超えている。特に今の政権になってからの度を越した行動が、世界的な幼稚度の認知に発展している。皆が甘く接するから、このような無法がゆるされると思うのだ。日本はまた「遺憾」としか言わないのだろう。

そもそも、コロナ禍の中で無理やり強行されようとしている、実に不幸な五輪である。こんな幼稚な輩は排除してもいいのではないのか。あきらかな五輪精神の冒涜だと思う。IOCのB氏は、これだけ日本に無理を言っているのだから、ヒロシマのパフォーマンスで自己満足している場合ではないし、毅然と動く責務があると思うが…。まあ、商業主義のB氏にとってはどうでもいいことなのだろう。お人好しの日本は、病理的にも経済的にも、精神的にも傷つくだけ傷つけばいいということか。

東京五輪が、ミュンヘン五輪のようにならなかればいいが…。

2021年7月16日金曜日

野球部壮行会

三崎高校では、今日の放課後、軟式野球部の壮行会が開かれた。コロナ禍のために無観客試合になってしまったので、全校応援も無くなってしまった。野球部員は塾生も多いし、私も応援に駆け付ける予定をしていたので、実に残念である。

先週の土曜日は、大分の高校が来て練習試合をするという予定だった。吹奏楽部も応援団もチアリーダーも、本番の代わりに出てくると聞いていたので、私も見に行くつもりだった。だが、雨で中止。うーん、さらに残念。というわけで、今日の壮行会が、吹奏楽部・応援団・チアリーダーの最初で最後の出番になったのだった。

学校長は、激励の言葉の前に、土曜日の練習試合の際、吹奏楽部が両校野球部のために1時間以上も演奏を続けてくれていたことに、感謝の意を表されていた。こういう生徒たちの想いが素晴らしいなと思う。小規模校故の連帯感だと思う。

いい壮行会だった。吹奏楽部も応援団もチアリーダーも塾生が多い。(現在、全校生徒の72%が塾生である。)高校生の「力」を大いに見せてもらった。

秘伝 教材研究(地理編)4

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12114975812
ケッペンの気候区分の仕上げは、仮想大陸を使っての各気候区の分布の法則性を確認する事である。地理という教科の主題は、結局のところ空間的な法則の把握である。地名などの必要不可欠なものは仕方ないとして、決して暗記科目などではないと私は思う。

この仮想大陸は、もし、宇宙のどこかに地球と全く条件の同じ星があったとして、気候区分はこのようになるという法則を記したものである。

北極と南極は、当然ながらEFとなる。その周囲はETである。これが第一の法則。

砂漠(BW)があれば、その周囲はBSになる。これが第二法則。

赤道直下は、Afとなり、その周囲はAwとなる。これが第三法則。

少しややこしいのは温帯であるが、Csは、BSと接している。しかも大陸西岸にある。CwはAwと接している。この辺、sつながり、wつながりで、関係が深い。CfaとCfbは似ているようで分布もかなり違う。Cfaは大陸東岸、Cfbは大陸西岸(ニュージーランドは例外)にある。これらが、第四法則。

冷帯は、DWはDfより大陸の内陸部になる。これが最後の第五法則。ちなみに、Dは北半球にしかないが、これはDの気候となる条件の大陸が北半球に偏っているからである。

この法則は、気候区分を示した世界地図と見比べるとおよそ当てはまっていることが確認できる。法則性を生徒に納得させることは、極めて重要だ。

センター試験などで良く出題されるのは、CsとCfbが多い。ここでポイントとなるのは、世界の砂漠の位置を頭に入れることである。BWの位置が分かれば周囲はBS、大陸西岸ならCsがあり、さらにその高緯度にCfbがあるというわけだ。サハラ砂漠や中央アジアの砂漠は当然ながら、南米チリのアタカマ砂漠、アフリカ南部のナミブとカラハリ砂漠、アメリカのモハーヴェ砂漠、オーストラリアのグレートヴィクトリア砂漠などの掌握が大切である。チリ、南ア、カリフォルニア、パースなどに共通の産物はワイン。砂漠が近くにあり、BSがあり、この辺りがCsであるからだ。もちろん大陸西岸にある。こういう法則性と現実が繋がると生徒も理解が進むというわけだ。

2021年7月15日木曜日

秘伝 教材研究(地理編)3

ブルキナファソのサヘルへの途中に寄ったモスク 気候区分はBSとBWの中間地帯 ちなみに雨季で緑もある
BW・BS・ET・EFは無樹木気候である。これらは、大文字+大文字で表される。

BW(砂漠気候)については、私はブルキナファソの北部、サヘルに行ったこともあるし、カリフォルニア州とネヴァダ州のモハーヴェ砂漠をドライブしたこともある。経験談としては、サヘルの村で野宿(ベッドと蚊帳は用意してもらったが…。)する前に、持っていた全ての衣服を着こんだことを話す。昼間はかなり高温だが、夜はぐっと気温が下がるのがBWだからだ。気温の年較差より日較差の方が大きいのである。たしかに朝方はかなり冷えた。ガイドのオマーン氏やドライバーは、そういう事実を全く無視して、カーペットの上にそのままでごろ寝だったけれど…。(笑)アメリカでは、給油に立ち寄ったガスステーションで不意にボンネットに手を当て火傷しそうになったこともある。

だが、BWの話で最もセンセーショナルな話は、砂漠における死亡事故の最多原因である。生徒諸君は、だいたい水分不足とか、熱中症とかだと考える。しかし、正解は水死である。砂漠にはワジと呼ばれる枯れ川がある。ここは、ラクダに乗った隊商にとっては、絶好の道でよく利用される。しかし、砂漠の怖さはここにある。遠くで豪雨が降った場合、鉄砲水となってこのワジに押し寄せるのである。砂漠の雨は、意外に降る時は降るのである。

BS(ステップ気候)は、BWの周囲に展開する。一番イメージしやすいのはモンゴルの草原だが、これに限定しない方がいい。ある程度の降水量があり、ブルキナファソのサヘルへの道などでは、雨季ゆえに草も生えていた。ただ、農業は厳しい。土壌がかなり乾燥しているので、日本で考えるような耕すという行為は難しい。家畜は羊やヤギが多かった。ウクライナのように、黒土のBS地帯もある。水さえ確保できれば農業ができる。それがBSである。

ET(ツンドラ気候)とくれば、地衣類やコケのみの植生で、これらを餌にするトナカイの放牧ができるくらいである。私はたとえ夏であっても行きたいと思わない。理由を生徒に考えさせる。ヒントは、この辺は冬の寒さが厳しく、雪解け水が豊富な湿地帯が多いことである。正解は、蚊が無茶苦茶多いことである。湿地帯でボウフラが繁殖するのである。以前グレートジャーニーというTV番組でツンドラ地帯を移動する場面があったが、養蜂家のような恰好が必須であった。また、Csのオーストラリア・パースで蠅が多くて難儀したので、妻が網つきの帽子をかぶっていたことがある。蠅と蚊を比較したら、やはり蚊のほうが嫌だと私は思う。

グリーンランドのET地帯では、小さな渡り鳥を虫取り網で採りまくり、穴に入れで発酵させるとうこともTV番組で見た。この鳥、凄く臭いらしいが、実に美味らしい。(臭い=美味?)イヌイットの海獣の取り方や海獣の骨でつくったけん玉の話もしたりする。

EF(氷雪気候)については、あまり面白い話はない。(笑)…つづく。

4度目の伊予市 82㎞

伊予市の皮膚科に通うのも4度目になる。今日も、朝7時前に三崎を出た。片道82㎞のドライブに出発である。今回は、今までと違って、晴天である。愛機G1Xを持って出た。

前回のエントリーで記したが、この82㎞(特に夕焼けこやけライン)には、撮っておきたい風景がある。9:00前に到着し、2番目に診察を受けて、2週間分の塗り薬を貰って帰ってきた。その間2分ほど。往復4時間で2分。(笑)まあ、それだけ良くなってきているのだが…。

G1Xで撮った気になる風景1 夕焼けこやけライン沿いにある飛行機の風車群。


G1Xで撮った気にある風景2 長浜にある肱川にかかる橋。この橋は船が通る時垂直に上がるらしい。(今でも日曜日には点検のため上げるとのこと。)


G1Xで撮った気になる風景3 小学校が廃校を記念に作られた社に守られたトトロ。


愛媛県は広い。まだまだ心象に残る風景があるはずだ。

2021年7月14日水曜日

秘伝 教材研究(地理編)2

https://chitonitose.com/geo/geo_lessons_climate_classification.html
地理編その2、ケッペンの気候区分の教え方の続編である。記号の法則性をしっかりと頭に入れたうえで、各気候区の特徴を話していく。これまでの海外の経験の中で、実際に体験していないのは、Dw、ET、EFくらいであるので、できるだけ体験的に話すこと、あるいは生徒の属性を刺激する事を旨としている。

Af(熱帯雨林気候)は、マレーシアで3年半住んでいたので十分に話ができる。スコールや植物の生育の早さなどを面白おかしく語ることが出来る。その他にも、アマゾンのピラニアの話をすることが多い。これは旅行人という雑誌に載っていた話だが、ピラニアは入れ食いで良く釣れるそうだ。これを刺身にして食した日本人旅行者がいたそうで、その後手にふくらみが出来、それが頭部に向かって毎日移動するという恐怖の話である。医者に駆け込んだら、ピラニアを生で食べただろうと言われ、淡水魚の寄生虫の怖さが伝わる話になる。あるいは、マラリアを運ぶ蚊は、夕方以降、足首しか狙わないこ、12回刺されると免疫ができる話など、これはアフリカで聞いた。ブルキナファソで、仏製のマラリア予防薬を買ったのだが、フツーなので、インパクトが全くないので見せることは少ない。(笑)それより、オオトカゲがマレーシアの道に出てきた話などのほうが面白い。ところで、Amという、AfとAwの中間型の気候区があることをここで教える。最も大きな違いは、高低差が激しい熱帯雨林に対し、Amのジャングルは、高さが揃っているくらいだ。よって、熱帯雨林=ジャングルではない。

Aw(サバナ気候)は、ケニアで体験した。雨季と乾季の差が激しいことを法則的に理解させる。もちろん、サバナ(熱帯草原)のことは重要。野生動物サファリの話も出す。乾季の轍(わだち:車の通った後)は、かなり凸凹でサファリで話をしていると舌を噛んでしまう。それほど過酷な気候であるわけだ。

Cw(温帯冬季少雨気候)は、何と言っても香港である。夏の香港は湿潤というには過酷で、数分歩いただけで、パンツまで汗でびしょびしょになった。カンフー映画などで、香港の人々がほとんど開襟シャツ姿なのを想起させる。私の知る限り、香港映画でコートを着ていた男が登場するのは少林サッカーだけである。Cwは香港映画の世界なのだ。

Cs(地中海性気候)は、イスラエルやオーストラリアのパースで経験した。温帯で夏乾燥するということは、乾燥帯に近い気候区であることを理解させたい。トマトなどは、水をやりすぎるとよくない。少ない水を実に溜めていく。これは、鉄腕ダッシュの今は無きダッシュ村で城島が失敗した話で、ブドウにしても同様、水が少ない方がいい。Csの気候は、トマトやブドウに適しているわけだ。意外にスペインの奇祭トマト祭りのことを生徒は知っていたりする。すでに地中海性農業の話になっていくのもいい。Csの小麦生産は硬質小麦になる。勘のいい子は、ここでパスタを連想してくれる。ピザの生地もそうだ。イタ飯は美味いよねえという話になる。

Cfa(温帯湿潤気候)は日本の北海道以外の気候区なのでいつも割愛する。四季が明瞭なのが特徴なのだが、夏夏夏夏ココッナツのマレーシアと比較すると面白い。マレーシアの学生たちには、「諸国民の春」「プラハの春」「アラブの春」といった「~の春」という世界史の語彙が分かりにくいのである。

https://www.pinterest
.jp/mekarauroko3103
Cfb(西岸海洋性気候)は、主に西ヨーロッパの気候と理解させる。ここで、登場するのは、トレンチコートの話である。銭形警部のトレンチコート。この時はちょっと本気で黒板に描く。このトレンチと言うのは、WWⅠの塹壕のことで、シトシト降る雨に対応するコートなのだ。よって、このコートを着て傘をさすことはNGである、というショウモナイ話をする。また、ロンドンの桜は、日本のように花びらではなく花ごと落ちる。風情がないわけだ。CfaとCfbは似て非なる存在であることを伝えたい。ちなみに、ニューヨークやワシントンD.C.はCfaなので、花吹雪が見られることも伝える。

Df(冷帯湿潤気候)とDw(冷帯冬季少雨気候)の違いは、北海道の人々の”しばれる”という表現から入る。寒いという意味だが、雪が降っているときと、降っていない時では、どちらが”しばれる”のだろうという質問をする。正解は、雪が降らないほうが”しばれる”のである。では、DfとDwでは、どちらが寒いか?意外に、この質問は難しいらしい。生徒の頭の中には、f:1年中雨がフルフル/w:冬に乾燥というテーゼが刷り込まれているので、降水量=雨オンリーに考えてしまい、混乱するのである。冬は雪やろ。Dwは、雪が少ないという意味で捉えれば容易にこちらの方が寒いことがわかる。植生などはタイガ(針葉樹林帯)が中心で、あまり差はない。時間があれば、シベリア鉄道の話などをする。シベリア鉄道の暖房は電源車を連結していても絶対石炭ストーブ。万が一にも凍死しないための配慮である。ちなみに、北海道がDfであることは、絶対確認しておくべき事項である。…つづく。

秘伝 教材研究(地理編)1

https://www.geography-lesson.com/koppen-climate-classification/
倫理の話は、この辺にしておいて、地理に移りたい。私の専門は倫理だが、地理はその次である。M高校では、ずっと受験の地理を担当していた。とはいっても、地理の秘伝といえる内容は、あまり多くない。まずは、ケッペンの気候区分かと思う。

その教授法は、まず、A:熱帯、B:乾燥帯、C:温帯、D:冷帯、E:寒帯というのを1分くらいでまず覚えさせる。次に、黒板に、18℃、-3℃の横線を引き、最寒月と書く。Aは18℃以上、Cは18℃~-3℃の間、-3℃以下は、DかEというのを覚えさせる。次に最暖月。10℃、0℃の線を引き、10℃以上はD、10℃~0℃がET、0℃以下がEF。これも丸暗記である。具体的な話は全くしない。とりあえず、A、C、D、Eを法則性で教えてしまうのである。

次に、小文字のfを雨が1年中フルフル、wをwinter(冬)乾燥、sをsummer(夏)乾燥で教える。では、Afは?熱帯で一年中雨がフルフルとなる。Csは、温帯で夏乾燥、Dwは冷帯でややこしいのは冬乾燥となる。この時点でも、どんな気候区かは具体的には教えない。

BはBWとBSである。これも、年降水量で区別する。0㎜、250㎜、500㎜で区分する。0~250㎜はBW、250㎜~500㎜がBSであることを教える。乾燥帯は、BW:砂漠気候、BS:ステップ気候という名前をここで教える方が価値的であるので教える。同時にBとEは、大文字+大文字であることを確認する。

私のケッペンの教え方は、この記号とその意味の法則性を徹底して教えること。日本語の名称など最後の最後である。

この法則性の最後は、CfaとCfbの相違である。最暖月の表にもう1本横線を引き、22℃で区分することを追加する。

これによって、Af、Aw、Cw、Cs、Cfa、Cfb、Df、Dw、ET、EF、BW、BSの記号が判別できるまで、暗唱させていく。具体的な話はこの後である。

2021年7月13日火曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅹ

https://amaterasu49.media/archives/4394
仏教の教え方の話を続けたい。四諦八正道を中心にしたベーシックの学習の後は、その後の歴史編になる。上座部と大衆部~大乗仏教の相違は重要である。ここでは、特に大乗仏教の教え方について記しておきたい。

大乗仏教の中心概念は、ナーガルジュナ(龍樹)の「中観」、世親の「唯識」、馬鳴の「如来蔵」の3つである。中観は、「空」という概念である。色即是空の空である。有るというのでもなく、無いというのでもないという概念だが、生徒と私の間にあるものとして説明することが多い。最も多い回答が空気。これは有る。信頼関係。嬉しいがもっと物理的に存在するものやで。正解は電波。携帯電話の電波、FMの電波…。有るけれど、この電波をとらえる機械がないと捕まえられない。無いわけではない。だが、見えない。空の概念はこの例が最も分かりやすい。つまり、人間の精神とは空である、というのが中観である。寝ているときは無に見え、起きて意識のある時は有に見える。死んでいるときは無に見え、生きているときは有に見える。だが、各人の精神は、年齢と共に肉体が変化しようとも、本質的に変わらない。空なのである。(この死においても空という概念が輪廻思想の原因となる。)

この空である人間の精神をさらに、深く洞察したのが唯識である。まるで、ドイツ観念論で教えた感性、悟性、実践理性、絶対的自我…といった掘り下げのような話である。目・耳・鼻・舌・皮膚で感ずる五識がまずあり、その下に意識(六識)、フロイドの唱えた無意識は末那識、さらにその下に阿頼耶識があるわけで、仏教は西洋哲学より、はるかに古いし深いことを教えたい。さて、仏教とは、仏陀になる教えである。仏陀になれる原因はどこにあるのか?如来蔵とは、如来=仏陀が蔵しているという意味で、唯識の阿頼耶識に仏陀になる因(仏性とか様々な言い方がある)があるという理論だ。原因と結果という縁起が貫かれている仏教において、この空な精神の最下層にある阿頼耶識に仏陀となる因が蔵しているというわけだ。

この三者の哲学を順を追って説明する事から大乗仏教の神髄を説くことが可能になる。中国で最も権威を持ち、日本の平安期に戒壇となった天台宗の教義に結びつくのである。西洋哲学では、人間存在とは基本的に有か無の二元論であるが、仏教では空が基礎概念となる。精神は空、肉体は仮(常に変化している)、そして精神と肉体は中として一体に存在しているとする。いわゆる「空仮中(円融)の三諦」である。私は、存在論としては仏教のほうがはるかに優れていると思う。

天台(比叡山)から、鎌倉仏教が生まれていく。日本の大乗仏教の基本はこれらの哲学にある。念仏とは本来仏を念ずることで、後に称名念仏などの易行に変化した。禅も天台の止観をルーツにしている。法華も最も重要さとされる経典である法華経を元に構築されている。

私は、これらの宗派を細かく説くことはしない。それ以前の重要なことを教えたいと考えてきたのである。

2021年7月12日月曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅸ

https://ameblo.jp/skmhira
i/entry-12268850796.html
仏教の教え方について記していこうと思う。仏教の定義は、①仏陀が説いた教え、②仏陀になる教えの2つある。共に、真理(宇宙の法:ダルマ)を覚った人間である「仏陀」が問題となる。(良く神と仏を混同する輩がいるが、仏陀は人間である。)①の仏陀は、歴史上の人物、ゴーダマ=シッダルタである。②の仏陀は、経典に登場する三世十方(過去世・現世・来世の東西南北とその間の八方+上下:すなわち全時間と全空間)の諸仏を意味している。

ゴーダ=マシッダルタ(シャキャー族の王子故に釈迦と呼ばれる)の生涯についてまず語る。四門出遊の逸話で、人間の苦悩の克服という仏教の本質に触れることが出来るからである。修行時のアーラダカーラマの無処有処とかウドラカラーマプトラの非想非非想処とかの逸話やスジャータの乳粥の逸話、食中毒での入滅とか、なかなか面白いので必ず語ることにしている。

教科書では、だいたい四諦八正道(4つの真理・8つの正しい修行法)が書かれているが、八正道は読み方くらいで十分だと思う。(”正しい”という語彙では全く具体的に説明できない故)それに対して四諦(苦諦、集諦・滅諦・道諦)はやはり重要である。特に、苦諦の四苦八苦はきっちりと解説する。私は、この後四法印(4つの法の印:諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)を教える。諸行無常は時間の変化、諸法無我は空間の変化を意味している。さらに、縁起(仏教ではえんきと読む。=因縁)を説く。

縁起には、一般的縁起と価値的縁起がある。四諦や十二縁起は価値的縁起である。これらをプリント上で統合する。(画像参照)仏教と言うのは、実に論理的なものである。縁起は、原因と結果というロジックであるが、四諦と四法印、十二縁起などが見事な結びつきを見せる。多くの高校生は、仏教と言うと線香臭いイメージをもっている。それを破すことが、私の仏教のベーシックな部分の教え方である。

2021年7月11日日曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅷ

https://www.bloomsbury.com/au/
eclipse-of-reason-9780826477934/
西洋哲学の木については、これまで記した中心的な流れ以外にも、共通テストに出てくるような哲学もあって、補足的に指導してきた。ウィトゲンシュタインなどはその1人だが、私が必要不可欠だと思うのは、フランクフルト学派である。(センター試験の出題者はフランクフルト学派が大好きでよく出題される。)ホルクハイマー、アドルノ、フロム、ハーバーマスといった人々だが、ナチスのファシズムを抜きに語れない。

特に私が重視するのは、ホルクハイマーの「道具的理性」である。この例として、アウシュビッツにユダヤ人を送り込んだドイツ国鉄の職員の話をする。ヨーロッパ各地から輸送の任についていた国鉄職員は極めて理性的であった。貨物車にユダヤ人を詰め込みながら、きっちりと運賃を取っていたのだ。彼らからすれば、そういう命令が出ていたのであろうし、自分の責任として理性的に従ったわけだが、今振り返ってみると、理性的行動といえるだろうか。理性が人間性に反し、道具的に使われている事を道具的理性というのである。

このような例は現在もいくらでもある。中国のウィグルの人々への迫害も同様だろう。不妊手術を行っている医師も、強制労働を強要している者も、新疆綿を使って利益を上げている日本の某企業の従業員も、権力によって人間性を圧殺され、道具的理性に堕しているといえるだろう。もしかたしたら、道具的理性すら失っているかもしtれないが…。

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅶ

https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1092290.html
生の哲学や実存主義は反理性的であるが、構造主義は、西洋哲学の木を根底から揺り動かす。ソシュールは言語の構造を明らかにした言語学者であり、精神分析学のフロイドは、マルクスが社会の無意識を暴いたように人間の無意識を暴いた。さらにレヴィストロースは文化人類学者であるが、それまでの西洋中心主義や人間中心主義に楔を打ち込んだ。

ヘレニズムとヘブライズムを根っこにもつ西洋哲学の木は、イギリス経験論と大陸合理論、カント、ドイツ観念論そしてヘーゲルという太い幹を形成した。現代哲学はこの幹に反発したわけだが、(ニーチェにいたってはキリスト教を否定し破壊的な役割を果たしている)構造主義はその根幹を揺るがしたわけだ。この流れを一気に破壊的にしたのが、ポスト構造主義である。(ちなみにこのポストと言うのは単に後の意味で、構造主義と直接的つながりはない。)

フーコーは過激な哲学者である。近代社会が作り上げた物語を「狂気」という切り口から暴く。理性的という概念は19世紀以後のことで、思えば理性が確立されたがゆえに狂気というアンチ理性のテーゼが生み出された。思えば、19世紀以降の理性的視点から見れば、預言者・アブラハムなどは狂気の人ではないか。近代以後、理性による物語が形成され、理性的な尺度に収まらない人間は排除されてきた。しかも、これは権力によって強制されるようになってきている。ベーコンの「知は力なり」は、「知は権力なり」になったわけで、地は権力によって作られていく。まるで今回のコロナ禍を予期しているような言だ。

ドゥルーズは、コード(方向性)という概念で社会を分析する。近代以前は、神や王、父親といった権力をもつ者が他者を支配するという円錐形の社会であった。しかし、近代の資本主義社会では、彼らに代わりマネーが社会のトップにある。このマネーを獲得したものが権力を握るのだが、マネー自体は常に流動しているので、クラインの壺(非ユークリッドのメビウスの帯的な立体)型の社会となる。当然、権力はマネーの獲得に左右されるというコードだ。ポストモダンでは、こういった円錐型やクラインの壺ではなく、社会自体がコードを失い、各自がスキゾに、ばらばらの方向に走り出すとする。SNSの発達した現在を予測したものである。もう、パラノ(巨人の星やあしたのジョーのような根性もの)は流行らないらしい。(笑)

デリダは、ロゴスを否定する。私は男であるという時、私=男という意味だが、男という概念に含まれる全てが私に当てはまるわけがない。すなわち、最初の哲学者・タレス以来コトバで明確に述べてきたこと=ロゴスを否定するのである。このことは、この哲学の木自体の存在を否定するに等しい。デリダは、この木を形而上学と述べ一刀両断している。デリダも以前に、ウィトゲンシュタインも「語りえないことは沈黙せよ」と写像理論で哲学の限界を主張しているが、デリダは、脱構築する必要性を説いている。この哲学の木は、いわば模型であり、このすでに構築された模型をずらしながら固定化された概念を再構築する必要があるというのである。この脱構築、意外に私たちの周りにある。少し古い話になるが、ソフトバンクの携帯のCMで、上戸彩の兄は黒人であり、父は白い犬、というのがあった。常識をずらしていく手法だ。母は父の犬の勤める学校の校長であるとか、どんどんずらされていく。脱構築の説明にはうってつけである。

構造主義も面白いが、ポスト構造主義はさらに破壊的で興味深い。コギト(理性)の破壊、ロゴスの破壊にまで進んだわけだ。メタ的に振り返ると、西洋哲学の木はロゴスと神から生まれ、コギトを中心に大きく成長したが、朽ちて倒されようとしている。私は高校生に、この流れを伝えたかったのだ。

2021年7月10日土曜日

現代アフリカ文化の今 2

http://chalsuke.blog.fc2.com/blog-entry-88.html
K大学の荒熊氏との関わりを再確認した昨日、改めて氏が編者となっている「現代アフリカ文化の今」を読み直していたら、またまた発見があった。遠藤聡子氏と小川さやか氏が執筆者に名を連ねていたのだ。

遠藤氏には2度お会いしている。一度目は、ブルキナファソのワガドゥグで、荒熊氏と共に調査の同行時に。この時、日本から万が一のために持参したカップヌードルをお渡しし、ひどく感激していただいた。(笑)二度目は京大のアフリカ研で。その節は…と改めて丁重なご挨拶を受け、当時の所長にまでお礼の言葉を頂いた。氏は今、外務省アフリカ部アフリカ二課の課長補佐をされているとのこと。これまでの地域研究の成果と仏語の能力を活かされているのだろう。

氏の専門は、そのころからアフリカのファッションで、今回の論では「パーニュ」という服地の話で、既製品より布地を仕立てるのがアフリカ女性の特徴であるそうで、私が最も印象深かったのは、新柄が出て9~8週間で中国製のコピー商品が出回ってしまうらしい。ユニワックスという会社では、この被害を最小限に食い止めるために3か月周期で新柄を発表するとのこと。(コピーが出た1か月後の新柄発表ということになる。)

小川氏のことは何度かエントリーしているが、そもそも大阪の道祖伸主催のセミナーに参加した。参加者は極めて少数だったが、内容が面白く、その後、氏の著作を読んできた。タンザニアのマチンガ(古着を売るインフォーマルセクター)の話は実に興味深かった。その後の氏の研究は、その日暮らしの彼らのコミュニティ、中国のコミュニティに移っている。今回も香港のタンザニア・コミュニティの話であった。非常にアフリカ的なつながりに改めて惹かれる。現在は、国立民族学博物館から、R大の研究所に変わられたようだ。

マレーシアに渡り、また三崎に来ての6年弱。改めて諸行無常を感じる次第。

2021年7月9日金曜日

三崎高校との「縁」再確認

 地球研 https://www.youtube.com/watch?v=UMLK9k0PZT0
佐田岬半島の農業を世界農業遺産申請しようという運動があって、関係する大学の先生方が今日来校された。三崎高校の生徒や三崎中学の生徒が農業従事者に聞き取り調査をする取り組みが地方創生の活動として行われる見込みだ。ただ単にまとめてプレゼンするだけでなく、我が塾のJ先生の特技である演劇(彼はイタリア・ナポリで修業をしていたという稀有な経歴を持っている)を使ってやろうではないかということで、J先生もその会議に参加していた。会議後、報告を受けて、さらに関係の大学の先生方が塾の見学にも来られた。

その中心人物がA先生で、名刺交換して驚いた。京都の地球研の方であったのだ。地球研といえば、ブルキナファソでお世話になったS大の荒熊さんがおられたところだ。一度行かせていただいたこともある。その話をすると、良く知っておられて、互いに驚きあった。なんというご縁であろう。

これまでも、三崎高校との縁を感じたことがあった。Kさんが参加し、PBTのA君らと共に過ごした新世紀リーダー塾のこともそうだし、ケニア・マチンガ出身のお父さんもそうだし、奇遇としか言いようがないのだが、今回の邂逅もそうだ。いやあ、驚いた。世界は狭い。

2021年7月8日木曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅵ

現代哲学は、理性の哲学への反発から生まれている。マルクスは、労働こそ人間性を実現するという哲学の出発点をもつ。今や、社会主義は世界史の中の用語になってしまった感があるが、空想的社会主義も含めて、資本主義のアンチテーゼとして、資本主義の三大原理、その弊害、社会主義の政策の特徴と三段階で毎回教えている。マルクスは科学的に資本主義を研究し、法則性を提示したので科学的社会主義と呼ばれる。法則性のその1は、弁証法的唯物論であり、ヘーゲルの弁証法を学んですぐ教えるのが理想的だ。ただ、下部構造として、経済が歴史を動かし、上部構造(政治や社会、文化など)が変化する、という法則性を説明することにしている。唯物史観は今も生きているからだ。

これは、現在の歴史の教科書でも、政治の流れだけでなく必ず経済の進歩が時代ごとに必ず説かれていることからも、歴史学が唯物史観の上に立っていることを証明できる。例としてよく使うのは、エンクロージャーや農奴解放など土地経済から貨幣経済への変化が多い。こういうメタな事項が重要だと思う。高校の歴史は日本史も世界史も些細な項目の羅列で暗記科目となっているので、この場合はメタな視点を提供したいところだ。

マルクスでは、法則性その2で剰余価値についても説明をすることにしている。人間疎外の原因であるから、必要不可欠であると考えている。だいたい、教えている生徒を企業経営者にして、友人の誰かを雇うようなシチュエーションをつくる。商品の価格や友人の賃金なんかも提案させたりして、盛り上がるようにしている。こういう風にして説明すると、搾取の構造がわかりやすいからだ。

ショーペンハウエルと共に「理性」ではなく「意思」を重視する生の哲学では、やはりニーチェである。ニーチェの著作・『ツァラトウストラはかく語りき』は交響詩になっていて有名なので、(画像参照:これはカラヤン指揮の盤)このメロディーから紹介することが多い。ところで、哲学者の死に方という雑談を継続的に交えている。ソクラテスの毒杯を仰いだというところから始まり、ベーコンの大雪の中で冷凍の実験で肺炎になった話、カントの"Das ist gut."という謹厳実直な遺言も、ゲーテの”Je mehr Licht.”(もっと光を)と正反対のカーテンの開け閉めだった話とかであるが、ニーチェは最もひどい。梅毒である。ヒュームは懐疑論で無神論者と批判されひどい死に方をすると噂されていたのだが普通に死んだが、さすがキリスト教批判バリバリのニーチェである。

実存主義は、宗教的なキルケゴールとヤスパース、無宗教的なハイデッガーとサルトルにわかれるが、私の趣味でいうと後者である。昔「オペレッタ・ミカド’88~ミカドはジグソーパズルがお好き」という人形劇のシナリオを書き、演出・プロデュースした。国民を不特定多数の『ひと』に誘導しようして、皇太子ナンキプーによる革命が起こるというストーリーだが、猪瀬直樹の「ミカドの肖像」のオペレッタ・ミカドの話とハイデッガーの哲学を合わせた内容であった。ここでは、生徒に何故大学に行くのか?何故結婚するのか?何故茶髪にするのか?などという問いかけをするのが常である。

もっと好きなのは、サルトルである。「人間は自由の刑に処せられている」というアフォリズムは、私の生徒に対する基本的スタンスであるし、「実存は本質に先立つ」というアフォリズムは、ブディストである私にも極めてわかりやすい。さらに、実存の三段階については、毎回『典子は今』という映画の話で、即存在、対自存在、対他存在を説明する。サリドマイドで両腕がない典子さんは即自存在として生きることも可能だったはずだ。それが母の教育と自己鍛錬によって、対自存在として成長する。社会人になって、同じサリドマイドの友人を訪ねたところ、本人は自殺した後であったが、母親や兄を励ます存在になる。まさにサルトルの説く対他存在である。タイトルも、『典子は今』。その後に続く言葉は対他存在以外ありえない。私が倫理の授業で映画の話をするのは、このサルトルの時と、キリスト教理解のための『エレファントマン』くらいである。この時ばかりは、昔の浜村淳(よくラジオの深夜放送で映画紹介をしていた)となって映画の内容を説明する。(笑)

2021年7月7日水曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅴ

https://quotesgram.com/hegel-quotes-about-love/
カントの後はドイツ観念論だが、カントが行った理性の分析、すなわち感性・悟性・実践理性をさらに掘り下げていく。そんなに難しい話ではないが、フィヒテ以後、シェリングからヘーゲルにおいては、「矛盾」がキーワードになる。

ヘーゲルと言えば、まずは弁証法である。矛盾が見えない段階(正)、矛盾が見える段階(反)、矛盾が調和・統合される段階(合)の三段階の連続で発展するという図式、これも様々な例を挙げて説明する。これも滑らない話の1つに数えてもいいかもしれないが、我が家の焼きナスビ事件をいつも例にとる。私は焼きナスビが大好物なのだが、妻の作った焼きナスビは料亭などで出される皮をむいたもので、私が期待したスライスしたものではなかったので喧嘩になった話である。付き合って5年、結婚して1年、それでも矛盾は内在しており、露わになるという例である。この弁証法は、すぐにマルクスで再登場するのでよく理解させておきたいところである。

この弁証法の中で、高校生にとっては止揚(aufheben)の意味をしっかり押さえたいと私は考えている。この辺だと、他にも概念とか命題とか、これまで使わなかった語彙が増える。こういう語彙を普段の文章化の中で使っていく姿勢こその倫理の学習の効用であると思う。

ところで、このヘーゲルで近代哲学は一応の完成と見る。ヘーゲルで、西洋哲学の木の幹の部分(近代哲学)は終了。これ以降は現代哲学で、この理性、理性のヘーゲルに反対する方向性を示す。主な枝は、マルクス、そして生の哲学(ショーペンハウエルとニーチェ)、さらに実存主義(キルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトル)となる。

さらに構造主義(レヴィストロース、ソシュール、フロイド)、ポスト構造主義(フーコー、ドゥルーズ、デリダなど)が枝を伸ばすことになる。これらは、この西洋哲学の木自体への反動になっている。

2021年7月6日火曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅳ

https://www.youtube.com/watch?v=nsgAsw4XGvU
さて、カントである。昔の教科書は実践理性批判の内容が主だった。私は昔から純粋理性批判の内容を無理しても教えてきた。(最近の倫理の教科書には、このア・プリオリな認識形式のことも出ている。センター試験の進化的影響だと思われる。)なぜなら、これを教えないと、大陸合理論・イギリス経験論を繋いだということがわからないからである。

私は、このア・プリオリな(=先天的)認識形式をできるだけ平易に教えることにしている。まず感性による直観形式の話。カントは理科の実験の仮説を立てるように、人間は認識において、まずビビッと感じる。服を買う時とか、異性を見て一目ぼれするとか、高校生目線で例を引く。その後実験して認識する。実際に服を着てみての友人の評価とか、実際デートするとか…。本来は、空間と時間で認識するとかややこしい話が出てくるのだが、これはちょっと触れるだけ。仏教の諸法実相・諸法無我のところで再認識させることにしている。

実験にあたるのが、悟性が担当するカテゴリーである。これは、プリントでは、カップに入った湯気の出ている黒い液体を書いている。黒い液体と言えば?という問いに、生徒はコーヒーとか、ココアとか、コーラといった回答をいくつかしてくれる。今までで想定外だったのが、石油と墨。大阪の高校生の面目躍如である。そんなものがカップに入っているわけないのだが。(笑)この想定されるもの中から、これは、コーヒーだ!みたいに当てはめるということを教える。もう一つの例は、先生を出すことが多い。学校で男の人が歩いている。感性がビビッと感じた。で、みんなは知っている先生の名前をカテゴリーから選び出し、当てはめる。これはかなりわかりやすいらしい。ただ、全然知らない人だと認識できないことになる。ここが重要である。つまり、カテゴリーは経験なのである。

このア・プリオリな認識形式の結論は、カテゴリーにないもの、すなわち経験していないものは、認識できないということになる。哲学的に言うと「経験的対象を構成する」ということになり、これをコペルニクス的転回というわけだが、重要なことは、カントは形而上学の先生だったことである。実証不可能な内容を対象とする形而上学を、純粋理性批判の中で完全否定してしまったのである。

実践理性批判は、このような形而上学を再生する試みと見る方がわかりやすい。私はここで、功利主義(ベンサムやJ.S.ミル)の善=幸福といった経験主義的道徳の話をする。カントにとって、これらは各人の経験を基盤にしており、客観性や絶対性を否定しているので許されるべき道徳ではない。道徳に関しては、感性や悟性ではなく、実践理性によって、経験を超えた世界=物自体の世界を基盤にした絶対的な道徳でなくては、というわけだ。これすなわち道徳形而上学であり、形而上学の再構築である。

ちなみに、この道徳形而上学の善意思が従うべき道徳法則については、試験では毎回自分の言葉で説明するようにしている。「汝自身の格率が常に同時に普遍的律法の原理として妥当するように行為せよ。」語彙は難しいが、授業では、いくつか例を出す。その中で、滑らない話シリーズのひとつ『大学時代のカニ先生の授業』というのがある。

カニというのは、しゃべっているとだんだん泡を吹くというW先生の特徴からついた仇名である。この授業、私は最初出ただけで、ずっと自主休講していたのだが、ふと出る気になった。教室に行くと誰もいない。これはヤバイと出ようとするとW先生が来られた。おお、久しぶりと声をかけていただいた。W先生の授業は、学生ではなく教室の後方の天井あたりに視線を置かれて泡を吹かれる。(笑)90分間、私は1人、一番前の席でこの地獄に耐えたのだ。この時は同じ授業を選択している友人たちを恨んだ。しかし、まてよ、自分も同罪ではないか。

世界中の人が、同時に自分と同じようなことをしてもいいかどうかを考えて行動しなさいというのが、道徳法則の主旨である。W先生の授業を登録者全員がサボった場合どうなるか?後で聞くと、お前もかということになって、次々とこういうカントの道徳法則を知らしむるための1人地獄の犠牲者が出ていたらしい。また、無人の教室で後方を見つめ泡を吹いておられたという噂話も残っている。…これは、ちょっと怖い。

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅲ

https://www.slideshare.net/5csd/rene-descartes-77566531
さて、西洋哲学には、木に例えるならば幹がある。デカルト、スピノザ、ライプニッツという大陸合理論と、ベーコン、ロック、ヒュームと繋がるイギリス経験論である。これらがカントによって批判されながら統合される。その後、ドイツ観念論として、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルで完成される。「カント以前の哲学はカントに流れ、カント以後の哲学はカントから流れた。」と言われる所以である。

実は、この幹である「認識論」の流れは、高校生には難解である。と、いうより属性があまりない。理系の生徒はまだ、理科と数学の関連性(帰納法と演繹法)を感じさせることが出来るが、文系の生徒にはほとんど属性がない。(そもそも理科や数学が苦手である。)かく言う私も完全文系なのだが…。さて、ここでは、デカルトの第一証明、第二証明、第三証明を必ずやることにしている。第一証明は有名な方法的懐疑である。「われ思う故に我あり」で、これはシンプルに教えると比較的理解可能。第二証明は神の存在証明で、かなり哲学的思考力が試される。文系の生徒には、この文章が理解できれば哲学的才能があると言っている。この言に食いついてくることを期待するしかない、(笑)

我々は神の概念をもっているが、この概念はどこから得たものか?①我々の持つ観念は(1)経験によって得られたものであるか、または(2)空想的なものの観念のように、我々自らが作り出したものか、である。しかし、神の概念はそのいづれでもありえない。何故なら神は完全な存在なものであるが、このような完全なものが(1-a)経験によって得られるはずはないし、(2-b)不完全な人間が完全なものである神の概念を空想して作り出すことは不可能であるからである。③しかし我々は神の概念を持っている。それ故に、神の概念は我々が生得的に持っているものであり、④それは神自身が我々の心に植え付けたものであると考えるしかない。⑤故に神は存在する。

プリントでは、①や(1)(2-b)のようにこの論理を展開して記していいる。それでも難解なようだ。最大のポイントは(2-b)の箇所である。不完全なのこぎりで、完全に材木を半分に切れるだろうか?という例を私はいつも挙げている。如何に高校生のもつ経験値まで話を下げることが出来るか、が理解と属性を生むコツであると私は思う。

第三証明は、物体の存在証明である。これは、第二証明よりかなり短文である。神は完全なものであり、決して欺瞞者(うそつき)ではあり得ないから、我々が物体について、理性によって明晰判明に理解するところは真であるいわねばならない。

この第三証明は、日本人には理解しにくい。創造神という一神教の道理が前提になっているからだ。机やチョークを、これは誰が作ったかという問いで突き詰めていくと、神になる。その神はうそつきではないので、あるという論理である。ヨーロッパ哲学の基盤にヘブライズムがしっかりと根を下ろしていることを再考させるところである。

このデカルトによる二元論は実に重要で、近代科学の出発点になっている。動物もここでは物体になる。そもそも、創世記の天地創造で、神は野の獣と家畜を分けている。こういった発想は、日本の発想からは生まれてこない。まあ、イギリス経験論のベーコンの「知は力なり」も同様で、人間対自然という対立構造がその基盤にあるのである。

2021年7月5日月曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅱ

https://bibi-star.jp/posts/17281
私の倫理は、西洋哲学を最も基軸に置いている。その根っこにあたるのが、ギリシア哲学(ヘレニズム)であり、もう一つはユダヤ教・キリスト教(ヘブライズム)である。ヘブライズムのロゴス、合理的な精神と、ヘブライズムの唯一絶対の創造神の存在を抜きに西洋哲学は語れない。次にヘブライズムについて記しておきたい。

若かりし頃から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三宗教について興味を抱いて学んできた。これら三宗教の神はそれぞれ名称が違うが、基本的に固有名詞ではなく一般名詞であり、全く同一の神である。一神教がメジャーな海外では常識だが、日本人はこの事実をあまり知らない。私は教え子たちに当初からこの事実を説いてきた。ちなみに、イスラム教の側から教えると意外にわかりやすいと私は考えている。

三宗教の最大の共通点は、同じ神を信仰していることだが、(キリスト教で言う)旧約聖書の創世記や出エジプト記などは、ほぼ同じ土台である。創造神としての天地創造の記述、エデンの園と堕罪(ただしイスラム教では原罪思想はないが…。)、ノアの箱舟における終末観などは、極めて重要な理解のポイントである。

また、預言者の存在も共通している。イスラム教では数は絞られるが、アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダヴィデ、ソロモン、ヨハネ、イエスも預言者として認められている。(ムハンマドは当然であるが…。)この中で、最も私が重視するのは、アブラハムとイサクの生贄の逸話である。ユダヤ教の神殿がこの地に建てられ、イエスが父の家と呼んだ場所であり、ムハンマドがここから昇天したと言われている現在の岩のドームの話をしておくことが、倫理だけでなく、中東問題をはじめ、国際関係でも重要であるからだ。

相違点は多い。特に律法をめぐる視点である。ユダヤ教の律法は膨大であり、しかもその注釈書・タルムードを論議するという伝統が重要である。イスラム教では、クルアーンとハディースを中心としたシャリーアの法体系があるが、ユダヤ教に比べ簡潔で、しかもフィクフという段階的な構造があるので、個人的に臨機応変な対応も可能になっている。キリスト教は、律法の成就で、事実上守れないものとして否定している。故に、ユダヤ教・イスラム教にはそれぞれ食事規定があるが、キリスト教にはないわけだ。もっと言うと、ユダヤ教・イスラム教は神定法であるが、キリスト教にはそれがない。よって、神の設計図を求めて。近代哲学・近代科学が発達したともいえる。こういうメタな視点を高校生にも持って欲しいと私は考えている。

もちろん、文化的な側面からの相違も多く、興味深い所であるが、この辺は割愛したとして、生徒の興味を引く話題として、欧米の人々の名前は聖書にまつわるものが多いことが挙げられる。イエスに洗礼をしたヨハネは英語ではジョンあり、露語ではイワンになり、ドイツ語ではハンス、仏語ではジャンとなる。イエスの一番弟子ペテロは、英語ではピーター、露語ではピョートル、独語ではペーター、仏語ではピエール、伊語ではピエトロ(サン=ピエトロ寺院のピエトロ)となる。贖罪を説いたパウロは、英語ではポール、仏語ではポーラ、西語ではパブロになる。こういう異文化理解は、生徒の興味を大いに引く。有名人の名を連想させて一神教をぐっと近くにひきつけることが出来るのだ。ちなみに、福音は英語ではゴスペル、希語では、エヴァンゲリオンになる。この話もいつも盛り上がる。

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅰ

https://core.ac.uk/download/pdf/159349638.pdf
長らく高校の社会科教師をやってきた。ふと、これまでの実践の中で私なりの思う事、特に重要な教材研究について記しておこうと思う。

まずは、最も専門の倫理である。倫理は高校で初めて学ぶ教科であり、うまくリードしないと何を学んでいるのかがわからないままに流れていく。私はまず、昔々清水書院の教科書の巻末に合った「3つのコンフリクト」について教える。コンフリクトというのは、日本語に直すと「葛藤」になるが、人類はこれまで、自然、社会、自己自身について考えてきた。これは、自然科学、社会科学、人文学に繋がる思想遍歴でもある。倫理では、様々な哲学者の様々な思想を取り扱うが、およそこの3つのカテゴリーで分類できる。

ギリシア哲学の最初のミレトス学派は自然哲学と呼ばれ、世界のアルケー(根源)を探し求める。自然とのコンフリクトである。ギリシアの三大哲学者、ソクラテス、プラトン、アリストテレスもこの3つのコンフリクトで括ってみるとわかりやすい。著作を残さなかったソクラテスは、自然については何も述べていない。社会については「悪法も法なり」と述べている。善く生きる事(知徳合一や福徳合一)は自己自身とのコンフリクトにあてはまる。プラトンは、師ソクラテスの説かなかった自然とのコンフリクトについては、イデア論を、社会とのコンフリクトでは哲人政治を、自己自身とのコンフリクトでは、四元徳を説いている。師プラトンより真理を愛すると言ったアリストテレスは、もっと現実的な思想の展開を行う。自然については、アルケーとして、ピタゴラス学派・プラトンの系譜を継ぐ形相と、ミレトス学派以来の系譜を継ぐ質量を説いた。社会については、ポリス優先、友愛の重要性と配分的正義と調整的正義を説き、自己自身では、中庸を認識する知性的徳とそれを習慣づける習性的徳を説いた。

ギリシア哲学を教えた後の定期考査では、この三者の思想を3つのコンフリクトの表で整理させたうえで出題してきた。以後はこの3つのコンフリクトをあまり表に出さないのだが、例えば、社会契約説のホッブズ・ロック・ルソーなどは社会とのコンフリクトであるし、イギリス経験論や大陸合理論などで問題となる認識の問題は、自然とのコンフリクトであると考えた方が良い。実存主義などは、極めて自己自身とのコンフリクトである。

もちろん、この3つのコンフリクトは、集合のベン図のように重なり合っているといったほうがいい。あくまで、ひとつの視点なのだが、哲学者の思想をわかりやすくすることは間違いないと思う。この視点を提供してくれた清水書院は哲学者の「人と思想シリーズ」などでもお世話になった。倫理に関しては、清水書院を私は最も贔屓している。(ちなみに、歴史は山川、地理は帝国などと社会科業界では言われている。)

こんな感じで、少しずつ「秘伝」というタイトルで記しておこうと思う。おそらく多くの読者と無関係かもしれないが…。

2021年7月3日土曜日

K医院にて。

https://suzuri.jp/sayubuppan/5
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地元のK医院に糖尿病の月一の通院に行ってきた。K先生は、開口一番ワクチンの話をしてきた。何といっても三崎地区唯一のお医者さんであるから、我々夫婦に、赤紙が来ていることも、まだ接種していないこともご存じである。

ワクチンを拒否している我が夫婦としては、K先生が大好きなだけに困る。(笑)もちろん強制されていないが、私がもしコロナが陽性になったら、重症化することは間違いないらしい。大阪に帰ってら、陽性になる可能性が高いと心配されていた。それくらい糖尿病は恐ろしいそうだ。ワクチンを打って死ぬか、コロナで死ぬか?奇妙な二者選択みたいな話になった。

この3月末までは死にたくはないなと思う。今面倒を見ている三崎高校の生徒達のために、まだマレーシアにあってさらにロックダウンが厳しくなり来日できないL君と再会するために…。