2015年9月30日水曜日

毎日 「水説」 SDGs

http://www.unic.or.jp/activities/economic_social_d
evelopment/sustainable_development/2030agenda/
毎日新聞の今日の朝刊「水説」(中村秀明論説委員)は、「世界の変革に加わる」と題して、昨日私がエントリーしたSDGs(持続可能な開発目標)について述べられていた。MDGsが途上国の開発を中心課題としていたのに対し、今回のSDGsの本質は、「先進国の責任は非常に重い。そこに暮らす人はできることだけではなく、どんな犠牲を払えるかを考えなくてはいけない。」という環境平和学が専門の鳥飼行博東海大学教授のコトバに尽きるかと思う。

またこのコラムの中で、ホーキング博士と、世界の若者が呼びかけるSDGsのYouTubeが紹介されていた。早速見てみた。2つともなかなか素晴らしい。これは…生徒に是非見せたいと思った次第。

<ホーキング グローバル ゴールズ>
https://www.youtube.com/watch?v=w6vvaa4vEv4
<We the oeople グローバル ゴールズ>
https://www.youtube.com/watch?v=jV5f7YZJFQg

2015年9月29日火曜日

SDGs(持続可能な開発目標)

いよいよ、国連で、ポストMDGs(ミレニアム開発目標)としてSDGs(持続可能な開発目標)が話題にのぼりだした。MDGsの成果を踏まえ、グローバリゼーションの進展の中、17の目標が設定されている。以下は、IGESによる仮訳である。ところどころカタカナで示されているところは、いずれ政府が統一的な和訳を提供することになると思われる。

1.あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる。
2.飢餓を終わらせ、食糧安全保障および栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する。
3.あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する。
4.全ての人々への包括的かつ公平な質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する。
5.ジェンダー平等を達成し、全ての女性および女子のエンパワーメントを行う。
6.すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する。
7.すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な現代的エネルギーへのアクセスを確保する。
8.法粥的かつ持続可能な経済成長、およびすべての人々の完全かつ生産的な雇用とディーセント・ワーク(適切な雇用)を促進する。
9.レジリエントなインフラ構築、包括的かつ持続可能な産業化の促進、およびイノベーションの拡大を図る。
10.各国内および各国間の不平等を是正する。
11.包括的で安全かつレジリエントで持続可能な都市および人間居住を実現する。
12.持続可能な生産消費形態を確保する。
13.気候変動およびその影響を軽減するための緊急対策を講じる。
14.持続可能な開発のために海洋資源を保全し、持続的に利用する。
15.陸域生態系の保護・回復・持続可能な利用の推進、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、ならびに土地の劣化の阻止・防止および生物多様性の損失の阻止を促進する。
16.持続可能な開発のための平和で包括的な社会の促進、すべての人々への司法へのアクセス提供、およびあらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包括的な制度の構築を図る。
17.持続可能な開発のために実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する。

…あえて、WEBをコピーせず、コツコツと打ち込んでみた。MDGsと対比してみると、一気に開発途上国の貧困撲滅から、まさに地球規模の持続可能な開発へと発展したような感想をもつ次第。

http://www.csonj.org/mdgsnews/sustainable-development-goals-draft

2015年9月28日月曜日

ロシアに消えたサーカス芸人

ちょっと変わった内容の文庫本を読み終えた。「明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか」(大島幹雄著 新潮文庫/本年9月1日発行)である。私は、サーカスに別に興味を持っていない。と、いうより国内公演に行ったことがない。北京で修学旅行の付き添いで雑技団を2回見たことがあるくらいである。だから、あまりイメージが膨らまないままに読み進んだのだが、明治時代に、日露のサーカス団の交流があり、日露戦争やWWⅠ、さらにロシア革命、スターリンの粛清などに巻き込まれた日本人を追いかける話である。

このサーカスの人々は、もちろん多くは戦争などの時日本に帰国しているのだが、そのままロシア・ソ連に残った人々もいる。特に悲惨なのはスターリン時代の話だ。日本人である、というだけでスパイ容疑をかけられ銃殺されている人もいる。後に息子の努力で名誉回復するのだが、佐藤優の解説を読んでいると、フルシチョフのスターリン批判があって、粛清裁判で処刑された人々の名誉回復の申請が行われ、積極的に受理された。その中で、この申請も受理され名誉回復が行われるのだが1966年のことである。この時はすでにブレジネフやコスイギンによるソフト・スターリン主義に変更されつつあったので、当時の裁判官はかなりリスクを負っていたはずだ、と。ロシアのエリートの正義感と歴史に対する責任感、良心を貫こうとする姿勢が読み取れるという。

このところ、偶然なのかか、シベリア抑留関係やイルクーツク・バイカル湖などのTV番組を見る。抑留者は、常に友人を監視し、告発することで生き延びることを余儀なくされた。スターリン時代というのは、いかに非人間的であることか。この書を読んで、改めて認識した次第。

この本の中で、紹介されている「究極のバランス」を記録した映像がYouTubeにある。昔の映像なので見にくいが、凄い演技である。彼らこそ、「芸人」であると、思う。
https://www.youtube.com/watch?v=1_tcDMaHnAs

2015年9月27日日曜日

S先生の米寿を祝う同窓会

同窓会の会場 JR桃谷駅前
私の小学校時代は4組まであった。そのうち3組の担任の先生方がご出席いただいて小学校の同窓会があった。今回は、特に、S先生がめでたくも米寿を迎えられての同窓会である。S先生には4年生の時担任をしていただいた。とにかく怖い先生で、悪さをすると、漢字練習帳を何ページやってこい、という感じで特別な宿題を出された。またS先生は、長い間布団ではなく、板の上で就寝されていた。まさに臥薪嘗胆。常に自分に厳しく、生徒いや児童にも厳しかった。そんなS先生も、長年の闘病をされていて、今回の同窓会に出席する為に、かなり養生されておられたと幹事に聞いた。奈良のお住まいから、近隣の同窓生が車でお出迎えしての出席である。こういう会を開けたことの幸せを思うのだ。幹事やS先生の送迎をしてくれた友人に感謝である。

我が5・6年の担任のN先生は、新卒で、私たちが初の卒業生だった。だから比較的お若い。今も大阪市の「いきいき」という小学校で放課後の児童のお世話をしておられる。S先生と、今回はあまりお話できなかったのが、ちょっと後悔。とはいえ、来年古希を迎えられるので、また1組だけで集まろうという話ができていた。だから、米寿のS先生に、現状をご報告するだけにしたのだった。S先生には、多少なりとも喜んでいただけたと思う。

よくよく考えてみれば、S先生のオーラというか、威厳は何だろう。当時は、逆算してみると、およそ50歳前である。私ははるかにS先生の年齢を超えてしまった。50歳前で、あのような凛とした厳しさがあったのかなあ、などと考えてしまうのであった。

2015年9月26日土曜日

司馬遼、山崎氏と明治天皇を語る

明治天皇、東京へ「行幸」の図 これが「遷都」ということになっている。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1775400.html
ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーをさらに続けたい。劇作家の山崎正和氏との明治天皇についての対談が面白かった。

江戸期のの皇室について、「天皇の教養が痩せてきた。」宝暦事件の話が出てくる。桃園天皇の時代に竹内式部という学者が国学と武道を天皇に教えて弾圧された事件である。こういうイデオロギー的な教育が入り込む余地があったこと自体、室町時代の頃から見れば考えられない。それくらい文化の流入がなかったし、幕末の孝明天皇は、公家さえ遠ざけられていた。近衛が、天皇が酢のような酒を飲んでいるのを偶然知って自分の領地の伊丹から剣菱を献上した。「酒というものはこんなにうまいものか。」と言われたという。それくらい閉鎖された環境に天皇はあったわけだ。だから、ペリー来航の際、絵師の書いた牛のような図を見て、ヒステリックに攘夷を叫ばれたらしい。

ところが、日本人には古来京都への潜在的求心性みたいなものがあって、源平争乱時代になってから、武士の氏性が「源平藤橘」のうちのどれかということになってしまう。ほとんどインチキなのだが、みんな(豊臣家以外は)天皇の血統に入ってしまう。なんとなく、日本人は京都が日本の持ち主であることを知っていたんではないか。江戸時代、日光例幣使という公家の勅使が毎年参詣に行っていたが、宿場で使った残り湯は病気に効くという信仰があった。公家の法主をいただく本願寺派の多い北陸などは、維新後の天皇巡幸で大いに盛り上がったという。

明治6年、政府は(世界に普遍的な)太陽暦を採用する。五節句を廃して同時に紀元節と天長節を制定する。本来天皇は太陰暦・五節句の精神に繋がるのだが、近代国家になりたいがための象徴的な事件となった。しかし、日本皇室の万世一系を証明する記念日も同時に制定することになった。

台湾出兵の際、在外公使館から横槍が入る。これに西郷従道は「おいどんは勅諭をもっている。」と言って出発してしまう。この台湾出兵を、太政官の参議でない(長州の木戸が、政治を軍事に先行させる鉄則を守ったらしい。)がゆえに事前に聞かされていなかった陸軍卿・山県有朋が大久保に食ってかかる。これに大久保は、「言うことをきかんとか何とかいうが、いざとなれば天皇の命令一下でまとまるんだ。」と言い放つ。つまり、それまで天皇は軍隊に作動していなかったのである。
西郷隆盛も、陸軍大将で近衛都督で参議、つまり天皇の直参のような立場ながら、征韓論で下野する際、天皇に挨拶もなく鹿児島に戻ってしまった。西郷にとって観念の上では天皇は君主だったが、生活体験上は、島津家が君主だった。これが明治6年。軍隊が天皇を無視しているといえる。これに先ほどの大久保の一言が明治7年。山縣は、この大久保の言を後に統帥権に活かすことになる。この辺が天皇制国家の成立といっていいような気がする、とのこと。

ところで、大久保が暗殺されなかったら、山縣のような精神のいじけた天皇制国家をつくるようなことはなかっただろう、というのが両者の共通意見。統帥権山縣が生きている間は自身が官僚の親玉であり、軍の最高責任者だったからいい意味で作動し得たが、彼が死ぬと抑えていた穴ボコからヘンなものが出てくて独立していった。大久保なら、もっと普遍的な国家システムをつくっただろうというわけだ。

最後に、明治天皇は、時代のムードをつくったという話。あの空の抜けるような青さに似た時代感覚は天皇の人柄と無縁のものではない。人間として面白い人だったと司馬遼は言う。明治天皇の好きな人(山岡鉄舟や西郷隆盛、乃木希典など)は男性的である。しかもなかなかのユーモリストであった。英国帰りの蜂須賀侯爵が宮中に伺候した時、天皇の現れる前に菊の御紋の入ったタバコを数本ポケットに失敬した。これに気づいた天皇は「さすがは蜂須賀小六の子孫じゃのう。」といわれたという。(太閤記に小六が泥棒として出てくる:そういう下世話な本まで読んでおられたというわけだ。)またなかなか思いやりもある天皇だった。演習で田原坂を訪れた際に、「もののふの攻め戦ひし田原坂 松も老木となりにけるかな。」と詠み、侍従に「乃木に渡しておけ」と言われたという。(乃木は軍旗を奪われたことを苦にしている、これで慰めてやれということ。)明治天皇は宮中の生まれではあるけれど、人間の世の中に通じていた。こういう雰囲気というものが時代を覆っていた、と。

…明治天皇は、(欧州の皇帝とは異なり)あまり自分で事を決める、ということはされなかった。唯一決めた事例は、日露戦争で多くの兵を殺してしまい、自刃しそうだった乃木を「学習院院長」にしたことだと言われている。乃木が天皇崩御に際して、殉死したのは、まさに「士は士を知る者のために死す。」であるわけだ。私は個人的にこういう義的な話は好きだ。

2015年9月25日金曜日

司馬史観は「写生」の無さを嘆く

日比谷焼き討ち事件
http://rikukaigun.tuzikaze.com/meiji
-taisyou-syouwa-daiemaki..m29-m45.html
ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーを続けたい。司馬史観について、少しだけ記しておきたい。

かつて司馬遼は、昭和20年の初夏、関東平野を守るべく栃木の戦車隊にいた。ここに大本営の少佐参謀が来たそうだ。連隊の将校が、「我々は、水際で撃滅する任務をもっているが、東京から避難民が北上してくることが予想される。停滞して立ち往生してしまうと思われるが、どうすればよいか。」と聞いた。参謀はごく当たり前の表情で「轢き殺していく。」と答えた。この時、司馬遼は、「長州藩から引き継いだ遺伝因子」を思わざるを得なかったという。

その直後、厚木方面で演習というより実験があった。大本営は、この地域は深田、泥田で、戦車は走行不可能ということで無防備とすることに決めていた。南方方面からの報告では米軍の戦車はこのような土地でもやってくるというので、自軍の戦車で確認しようとしたのだ。土ダワラを敷いてみたら楽々通れた。鉄板を敷いたらこれも楽々。最後はそのまま泥田に入ったが通れた。なんという無計画さ。司馬遼は、この時も長州藩の遺伝因子を強く感じたという。

長州藩の無計画な暴走ぶり、目的のためには盲蛇になってしまうおそれるべき精神構造が長州藩の遺伝因子である。この暴走が奇跡的に成功した。(司馬遼は、この暴走の功罪を論じているのではなく、巨視的に取り上げているとことわっている。)その長州が明治陸軍をつくった。濃厚にその「やれば何とかなる」の体質を遺伝させたのだ。ところで大正・昭和の軍部の主導権を握っていた人には、東北人が多い。戊辰戦争で「賊軍」にされた藩から多くの軍人が出ている。彼らは西国諸藩出身者以上に「勤王屋」になり、陸軍の「長州的暴走性」の上に狂信性を加えた。「轢き殺して進め。」と言った参謀は、「天皇陛下のためだからやむをえない。」と付け加えたという。

…司馬史観は、個人的な経験にも基づいているわけだ。昨日エントリーした子規の「写生」とは、全く反対の「概念」で動く日本人。司馬史観には、この思いが貫かれている。

司馬遼は、ポーツマス講和条約後の「群衆」についてもこう述べている。江戸期の一揆は、飢えとか重税とか、形而下的なものであったが、明治38年の日比谷焼き討ち事件は国家的利己主義という多分に「観念的」なもので大興奮した。政府も新聞に真の(日露戦争のもしロシア陸軍が戦闘を再開したら負けてもおかしくない)事情をわずかしか渡さなかった。無知だったのであるが、真実を知ろうとするより大衆と激情を共有するほうが、錯覚に理性を委ねることのほうが甘美だったのである。司馬遼は、この理不尽で、滑稽で、憎むべき熱気の中から、その後の日本の押し込み強盗のような帝国主義がまるまるとした赤ん坊のように誕生したと考えている。この熱気は形を変えて教育の場の思想になった。つかのまの大正デモクラシーの時代ですら、江戸期の優れた思想家たち(荻生徂徠、三浦梅園らを司馬遼は挙げている。)については一語も語られることなく、むしろ南北朝時代の典型的な中世の情念が楠木正成などの名を借用することで柔らかい頭に注ぎ込まれた。大正期以後、熱気は左翼と右翼にわかれた。根は1つだった。(すなわち、「写生」ではなく「概念」から、感情的物語がつくられているということだと私は思う。)昭和前期を主導した軍人たちは、そういう教育を受けた擬似中世人たちで、先人である明治期の大山巌や児玉源太郎たちから見れば、似つかぬ古怪な存在になっていた。

…この司馬史観、かなりの批判があるが、私は批判があることを念頭においた上で、よく理解できるところである。

西郷の無私を形成した方法

ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)のエントリーを続けたい。本日はオムニバス的な備忘録としてのエントリーである。そうそう、ちなみに今日は先日(土曜日)の文化祭の代休である。

江戸幕府というのは大名同盟で、抜きん出た大名である徳川将軍家が盟主である実を失った時は、いつでも野党の大名で盟主としての実力を持つ者が取って代わってもよい、という暗黙のルールがあった。薩長の反逆は、忠義・不忠義という倫理問題ではない。幕府は力の上に成り立っていた。「幕府というのは、シツケ糸一本を抜くだけで解体するようにできていたのだ。」とは勝海舟の言葉である。うますぎる発言であるが、多分に真実性がある。

薩摩武士社会の郷中頭(や他の地域の若衆頭)というのは、教育権を代表しているという点で、体制的秩序と同格である。祭礼や海難救助や山火事などの非常時においては、若衆組の受け持ちだけに、首長は彼らの方針や処置方法にただ頷いて聴くというだけにすぎない。この習俗は、例としてはちょっと強引すぎるかもしれないが、大学紛争時、極度に学生側に社会が味方したり、会社の若衆組としての労働組合、旧軍の青年将校の跋扈などにイメージが重なる。他の中国やヨーロッパでは見られない。

西郷は、18歳で下級武士ばかりの下鍛冶屋町の郷中頭になった。普通20歳くらいで退隠するのだが、若者たちにひきとめられ、24歳まで務めた。薩摩にはオセシンという言葉があり、慣習の中で強い権威をもっている。(他藩にはそういう同藩の士を極度に尊敬するという風習はない。)オセシンは藩の役職ではなく、郷中の暮らしの中にある。この消息や機微は一種老荘的でさえある。「オセンシが言われた。」となれば、事情はわからなくてもともかく銃をとって戦場に行くというもので、西南戦争は薩摩しか、起こらず、起こらないといえる。

西郷は、この郷中頭として推される中で、自己の非力を思ったに違いない。無私になればよいと思った形跡はたしかにある。人間は生物である以上欲望で生命が成立している。無私であるなど不可能というに近いが、その生命に充満している欲望を圧縮して全体の2・3%でも真空をつくれば数万数億の人をも容れることができる、ということに西郷は気づいたかと思われる。智謀の士も胆勇の士も幾万という兵士も、この2・3%の真空の中に吸引できるとすれば、自ら智謀をもち腕力をもつ必要はない。そういうことを西郷は思ったに違いない。だから、西郷は、弟の従道や大山巌に判断させ、それを採用し、幕末の革命家として行動した。

従道は自分を大きく見せたいという人ではないが、「兄が幕末であれほど働いたのは私たちがいたからだ。」と言った。この言葉は真実だろう。と、同時に維新後、従道から見れば信じがたいほどの阿呆である桐野利秋や賢愚定かでない篠原国幹らにかつがれ、西南戦争を起こしたという恨みが込められているわけだ。

…この司馬遼の「薩摩の郷中組という視点」の重要性という主張は、「翔ぶが如く」に何度か書かれていたと思う。ただ、オセシンという言葉や西郷の無私の方法、従道の言葉などは、(だいぶ前に読んだので)記憶にない。改めて、記憶しておきたい話だ。

続 NHK LIFE 宇宙人総理深読み

http://hashgurus.com/image.aspx?q=%23nhk_life&idstr=639466668218032128
NHKのコント番組LIFEのシリーズ3が昨夜最終回だった。2度ほどエントリーしたが、私はこの番組が大好きである。9月4日のブログに「宇宙人総理の深読み」をエントリーした。この日は、生放送で、実際に宇宙人の移民計画について視聴者が投票するという企画だった。私も投票したのだが、正直なところ、あらかじめ結果(人生党の勝利)は決まっていたのではないかと邪推していた。ところが、最終回では、人生党が敗北した時のエンディングを放送したのだ。

シチエーションは、樹木希林演ずる総理の母がUFOで登場するので、同じである。総理は母と共に帰る予定だったのだが、地球の電化製品(総理の星ではレトロらしい。笑)を買いすぎて重量オーバー。結局帰れないかったのだが、この時の母のセリフが、前回の「深読み」より、ストレートである。「総理大臣だからって何でもできると思ったら大間違いよ。」(私の記憶なので、少し違うかもしれないが…。主旨は間違っていないと思う。)前回の宇宙人移民の公約をかかげ、選挙で勝ったとは言え、多数の反対がある中、移民はできない、という母の発言より凄い。

シリーズ3の終了が、NHK会長の意向でないことを祈りたい。深夜にシリーズ全放送分を再放送もするらしいが、それさえ、NHKのconcealmentのように感じる。

「NHKなんで」というコントのコンセプトも素晴らしい。昨日は無茶苦茶笑った。権力を揶揄することを笑いに変える事は、健全な社会にとって極めて重要なアイテムである。

一刻も早いLIFEシリーズ4の再開を望みたい。

2015年9月24日木曜日

司馬遼「明治国家のこと」を読む。

ちくま文庫の「明治国家のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)を読んでいる。先日エントリーした幕末編(8月30日付ブログ参照)の続編である。司馬史観=日露戦争以後の日本は誤てり。の話が何度も出てくる。これは予想通り。(笑)司馬史観批判の本も何冊か読んでいるので、冷静に読み進めた次第。それを差し引いても、面白い話が満載である。今日は、その中から坂の上の雲の主人公の一人である正岡子規についての話をエントリーしておきたい。以下、第三部の「松山の子規、東京の漱石」の趣旨をまとめてみた。

司馬遼は、俳人としての子規より、漱石とともに散文というものをつくってくれた子規を愛している。散文は誰でも参加できる言葉で書かれる。漱石のそれはやや難しかったが、子規のそれは同世代人にとって一番やさしい、わかりやすい文章を作り上げた天才であるという。そして、子規の最大の功績は、「写生」を主張したことだという。

「写生とは、物をありのままに見ることである。我々は物をありのままに見ることが、極めて少ない民族だ。だから日本はダメなんだ。」身を震わすような革命の精神で思った言葉が、(子規の)写生である。ありのままに物を見れば、必ず具合の悪いことも起きる。怖いことである。だから観念の方が先に行く。子規の写生の精神は、(決して)俳句や文章における写生ではない。

尊皇攘夷というイデオロギーで作られた(架空の一点としての)天皇。その観念主義の癖が日本を覆った。日本のマルキシズムも、水戸学の裏返しのようなものだ、と司馬遼は言う。日本にはロシアのような農奴制や中国の大地主という階級闘争的なものはなかった。武士と農民の関係は、かなり異なる構造をもつ。多くの左翼運動家は、(ロシアや中国と同一視して、マルクスの階級闘争という観念を信じ)大雑把にしか日本史を捉えなかった。つまり、子規の言う写生の精神がなかったのだ。観念であいまいにしていた、というわけである。
子規は、写生の精神さえあれば日本の文化は立派なものになると思い続けていた。

子規は自分自身を客観視できる人だった。これが大事。自分は見えにくい。我に囚われているし、自分が可愛い。自分には点数をつけたくないものである。しかし、子規には見えた。自分の胃袋、心臓の動き、頭脳や性質、自分とは何かが実によく見えた。

子規はいじめられっ子で泣き虫だった。一方、薬のない当時、健康のために灸(やいと)を子供も毎月した。どこの子も、ガキ大将も、毎月わんわん泣く。ところが、子規は泣かなかった。自分は弱虫でどうしようもないけれど、そういう痛さや熱さは我慢できる性質だったらしい。

人間はどこに勇気があるのか、どこが弱点でどこが人より強いのか、その組み合わせは人によって違うものだが、子規は自分の組み合わせをよく知っていた。

…坂の上の雲の主人公の一人に子規が入っているのには、少しばかり違和感があったのだが、この司馬遼の子規への熱い想いがあっての話だったのだと思う。子規の自分を写生し、その組み合わせを知っていた話に特に感銘を受けるのである。

2015年9月23日水曜日

ホロコーストの人権学習教材(1)

この休みを利用して、11月に実施する3年生全生徒対象の人権学習教材をパワーポイントで作っている。大分思案して、構想を練ったのだが、およそ70%くらい完成した。

基本コンセプトと、流れは次のとおりである。
(1)ホロコースト(ショア)の定義
(2)ホロコーストの背景
  その1 ルターの言葉とキリスト教世界のユダヤ教へ徒への憎悪の理由
  その2 ナチスの民主主義下の政権奪取
  その3 ナチスの反ユダヤ的基本的政策
  その4 ユダヤ教徒=ユダヤ人ではない 近代国民国家との違和感
(3)ホロコーストは焚書から始まった
  その1 焚書された人々
  その2 ハイネの言葉 本が焼かれたら次は人間である
(4)ホロコーストは段階的に進められた
  その1 ドイツ国内からの追い出し政策
  その2 ニュルンベルグ法の制定
  その3 強制収容所の設置
  その4 ヨーロッパのユダヤ人絶滅宣言
  その5 ポーランドにゲットー設置
  その6 行動部隊の虐殺・ガストラックによる虐殺
(5)強制収容所・強制労働収容所・絶滅収容所
  その1 総論とプワシュプ強制労働収容所
  その2 ポーランド人の虐殺とマイダネク絶滅収容所
  その3 アウシュビッツ強制収容所
  その4 ビルケナウ絶滅収容所
  
これに、ロマの人々や同性愛者、障害者の虐殺の話を入れていく予定である。まだ、変更していく可能性も高いが、人権学習として、しっかりとホロコーストとは何だったのかということを整理して教えていきたいと思うし、今のシリアやアフリカの難民問題など現在の問題と結びつけていけたらと思う。

ブルキナファソのクーデター報道

昔、私が撮影したワガドゥグ市内
先日から、ブルキナファソのクーデターのことを気にかけていた。今日の新聞報道では、各地の政府軍が、このクーデターに反対し、首都のワガに集結、暫定政府の首脳を開放させたようだ。

残るは武装解除である。先日の衝突で3人が死亡したという報道があったが、これ以上の死傷者が出ないことを祈るのみである。

…Newsweekの昨年の11月6日付記事によると、今回の騒動の元になったコンパオレ大統領の長年の支配を市民のデモで、比較的平穏に政権交代を実現させたことを「画期的だ」と評価している。私が、ブルキナに行った時も、市民の評価は散々だった。ワガの近くに大統領の出身地があるが、その私邸には動物園がある、とガイドのオマーンがわざわざ寄って教えてくれた。(笑)ワガには奇妙なデザインの公共建築物があって、(NPOの建物の)大家の優秀な大学生の息子は無駄な支出だと吐き捨てるように言っていた。ブルキナの市民は、こういう政治状況に対して意外な程敏感で、自分の意見をしっかり持っている。決して「画期的」でもないと私は思っている。日本以上に彼らは、民主主義を大切にしているのではないか。

…ところで、コンパオレ大統領は欧米諸国とは、したたかに結びついていたようだ。(カダフィとも仲がよかったけれど…。)米国は無人機、フランスは特殊部隊をブルキナに送り込んでおり、イスラム過激派対策の盾としようとしていたらしい。コンパオレは33台の車を連ねて家族や側近とともにコートジボワールに逃れたようだ。復権を目指しているように見えるとNewsweek。たしかに、見え見えである。ブルキナの今後に目を離せない。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2014/11/post-3450_1.php

2015年9月22日火曜日

Eテレ ナチの障害者迫害

ナチのT4作戦ポスター
http://www.geocities.jp/torik
ai007/1939/t4euthanasia.html
昼間、Eテレの再放送で、ハートネットという番組を見た。福祉関係の番組で、「シリーズ戦後70年 障害者と戦争ナチスから迫害をうけた障害者たち(3)命の選別を繰り返さないために」というタイトルである。

今、休みを利用して、ホロコーストについて人権学習の教材(パワーポイント)を製作中である。ホロコーストというと、どうしてもユダヤ人の大量虐殺の話が中心になる。しかし、ナチが政権を握った1933年から、すでに、障害者特に知的障害者への迫害が開始されている。障害の度合いが低い場合は断種法という法律で断種手術を受けている。しかもなんと5000人がその手術で命を落としているという。また重度の障害者はガス室で医者に殺され、その後検体解剖されたというのが、歴史的事実(T4作戦)である。

この番組では、そういう事実を確認するとともに、現在のドイツで子供たちに対して事実を知らせ、どうすれば過去の過ちを繰り返さないかという教育が施されているかも紹介していた。

ナチの障害者迫害制作の裏側には、生産者でなければ人間として認めないという論理があることがよくわかる。たとえば、障害者でも生産に従事できる人々は迫害を受けなかった。時代は、大恐慌の影響を受け、ドイツ経済が危機に瀕していた時代である。ナチは、この経済危機を乗り切るが、そこには経済効率と強者の論理が働いていた。これが、ドイツ国内のユダヤ人迫害へと繋がり、ポーランド人迫害へと連鎖していくわけだ。

…勉強になったのだった。人権学習の教材、ユダヤ人という視点以外からも迫っていきたい。

2015年9月21日月曜日

毎日 内田樹 「限りなく独裁」

毎日の朝刊に、安保法成立を受けて、内田先生のインタヴューが掲載されていた。いつもながら、内田先生の視点には膝を打つ。概要をエントリーしておきたい。

国民が今一番感じているのは「民主主義には欠点がある。」ということではないか。選挙で両院の多数派を占めれば、次の選挙までどんな政策でも強権的に実行できてしまう。政策が民意と離れていても、有権者には政権の暴走を止める手立てがない。

民主制と独裁は共生可能である。独裁とは「法の制定者と法の執行者が同一である」ことで定義される。その反対概念/法の制定者と執行者が別々なのはは、共和制であるが、日本の現在は形式上民主主義でも共和的ではない。首相は委員会で「早く質問しろよ。」というヤジを飛ばした。この言葉は、首相自身が国会審議を単に「アリバイ作り」のセレモニーに過ぎないと思っていることを露呈した。限りなく独裁に近い政体になっている。

自衛隊員に後方支援の大義名分を納得させれるか?大義名分を信じている兵士は強い。自分が何のためにそこにいるのか、その意味を理解している兵士は、どうしたらいいかわかならない状況でも最適解を選択できる。でも、自衛隊員がたとえば中東で米軍の後方支援に送られた場合、とっさの判断で最適解を選び取れるだろうか。難しいと思う。そこに大義名分がないからだ。自衛隊員に死者が出れば、おそらく日本のメデイアは死者を英霊にまつりあげると思われる。そして「派兵に大義はあったか」という責任論を「死者を犬死させる気か」というヒステリックな絶叫が黙らせることになるだろう。米国の9.11後は政府批判がほとんど不可能になった。日本なら、その程度では済まないだろう。

学生の反対運動が盛り上がってきたのは、法案が衆院で強行採決された後であった。立憲政治の手続きが踏みにじられたことに対する怒りである。学生たちのスピーチを聞いていると、彼らが心から怒っていることがわかる。切実さに胸が打たれる。安倍政権の人権抑圧的な政策がこのまま次々施行されるなら、若者にとって耐え難く息苦しい社会になるということについて、彼らは身体的な違和感、恐怖感を感じていると思う。彼らは一法案についてだけでなく、民意を組み上げ、異論との合意形成をはかることができなくなった今の政治システムそのものに対して「NO」と言っているのである。

…私は若者ではないが、この耐え難い息苦しさを感じる。何度もエントリーしているが、この法案に対しては、基本的に対中国へのブラフだと思っている。問題は、その手法なのだ。首相のヤジは、内田先生の言われるとおり。怒りを感じる。また、マスコミへの予言もまさに的確だ思うのだ。

2015年9月20日日曜日

ラグビーの試合に行ってきた11

ラグビーの試合を見に行くのは1年ぶりである。今年度は担任を明けてしまったし、体調のこともあって、見に行く機会を失っていたのだ。今年のラグビー部の3年生も教えていて可愛がっている。ついに約束を果たせる日が来たわけだ。しかし、当然文化祭の終了直後であることは、ここ何年か変わらない。今年は、人権担当としての仕事が主で、昨年度と比べ物にはならないが、疲れていることに変わりがない。珍しく、往復高速料金を支払っての観戦だ。(ちなみに私は顧問のクラブでも自費観戦を貫いている。)

会場は、昔私が住んでいた街にある府立Y高校である。ン十年前にすぐ近くで新婚生活を送った。(笑)なつかしい。対戦相手は、府立S高校である。前述のように、本校では昨日まで”オマツリサワギ”の日々であった。いつも、その切り替えが難しい。ラグビー部は練習の質を落としたりしないが、どうしてもメンタル面や走り込みで不利な日程になる。教えているS君が昨日も、危機感をみんなに訴えていたそうだ。こういう意識をもっている生徒が多くないと、足元を救われる。

相手校は公立。体格もそう変わらない。最初にトライを上げたのは相手校だったが、そこからシーソーゲームが続く。公立校同士だと、ミスがすぐ得点に繋がる。結局27対21で逆転勝利した。いやあ、スリリングなゲームだった。ひさしぶりに勝った試合を見て満足、満足。

…さて、この数日間の疲れを取ろうと思う。

2015年9月18日金曜日

毎日 発信箱 積極的平和主義

http://www.doobybrain.com/2011/03/11/al-jazeera-english-live-stream-from-japan-live-updates-on-earthquake-and-tsunami-3112011/
毎日新聞朝刊の発信箱というコラム(福本容子論説委員)「積極的平和主義」は、昨日の私のエントリーに対する回答のような内容だった。そのままエントリーしておこうと思う。

「ものの20分の間に軍(自衛隊)のヘリから隊員が4度降りてきて、住民を1人ずつ助け上げていった。」ー中東の衛星テレビ局「アルジャジーラ」(電子版)が鬼怒川の氾濫で自宅に取り残された人の救出劇を、ちょっと興奮気味に報じていた。

8人の脂肪が確認され、多数の家が流されたり水浸しになったりした今回の豪雨。被災した人の支援など「これから」が肝心なのだけれど、ペットのワンちゃんも一緒に助けられ、最後の行方不明が見つかるまで捜索を続けようとする国は、世界から見ると、なかなかあり得ないのだ。

実は平和度が高いと自然災害から立ち直る力も強いと指摘した国際シンクタンクがある。「世界平和度指数」を毎年発表している経済平和研究所。平和度指数というのは、人々が暴力や暴力の恐怖からどれくらい解放されているかを国別に採点したものである。気になる日本は、今年が162カ国中8位。過去最高が3位の優等生国だった。

日本も課題がまだいっぱい。でも災害の分野で世界の役に立てる経験や力は計り知れないほどあるはずだ。地球上では毎年平均して2500万人を超える人が洪水や台風や地震といった災害で家を失っている。9割近くはアジア。国際NGOのノルウェー難民委員会の代表が言うように、「洪水自体は災害ではない。洪水が発生した際の備えや防護が不十分なため、壊滅的被害を招く」のだ。

被害が壊滅的にならないよう、出かけて行って知恵や人やお金を出す。まさに日本らしい積極的平和主義。憲法違反までして平和度を落として、国際貢献どころか、国内の災害対応力まで危うくなるとすれば、誰が喜ぶの?

…ブルキナファソでクーデターがあったようだ。非常に心配している。今日はとりあえず、この話題に絞っておきたい。

2015年9月17日木曜日

ハンガリーの国境封鎖考

ハンガリー国境のフェンス http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2588988.html
ハンガリーが難民の大量流入に困り果て、国境封鎖を行っている。難民は、セルビアからクロアチア経由でドイツに向かっているようだ。幸い、クロアチアは、難民の通過に好意的である。このハンガリーの難民対策に、国際的非難が集まったが、私は東欧諸国の立場も理解すべきだと思う。

2013年度のIMFの統計では、ハンガリーのGDPは、世界平均の1.3倍、EU平均の40%。決して豊かだとはいえない。人道的な行為として、精一杯難民の通過を許したのは当然としても、経済的な負担は大きい。限界にきたのだろう。

ここで、問題になってくるのは、シリア難民を生んだ責任の意識の問題である。今回の大量のシリア難民を生んだ原因はいくつもある。歴史的な逆走して探ってみると、シリア内戦。ISの出現。その前身ともなったイスラム武装勢力。アサド政権の問題。ここに基地をもつロシアの支援。アラブの春。イラク戦争を行ったアメリカ。追随した西側諸国。さらに逆走すると、パレスチナ問題。結果的にシオニズムを後押ししたホロコースト、WWⅡのナチス=ドイツの存在。WWⅠ終了後の英仏のサイクス=ピコ協定。ドイツの3B政策…。

ドイツ、イギリス、フランスの責任は、世界史的に考えても大きい。ドイツが積極的に難民受け入れを行おうとしているのは、これまでの歴史認識という観点からも正しい選択であると私は思う。労働力不足を補いたい、あるいはユーロによって輸出が有利になり経済が好調なこともあるだろう。しかし、”個人”として、特に中東に対して贖罪的行為をするべきであるとの思いが、ドイツを動かしている”絶対精神”のように私は感じる。

それに対して、フランスとイギリスは、すでにムスリムと様々な軋轢があることで及び腰である。これも理解できないことはないが、そもそも中東の線引きをしたのは、この2カ国である。不思議に、この2カ国への歴史認識的批判はいつも大きくならない。近くは、アメリカのブッシュ時代の失政も大きいが、アメリカは、大西洋を挟んでいることもあって、沈黙している。実に都合のいいモンロー主義の再来だ。ロシアにいたっては、難民の方が忌避している。

東ヨーロッパ諸国は、これら中東の諸問題に大きな責任を負っていない。贖罪する必要を認めていないと私は思っている。ハンガリーはカトリックが主でカルヴァン派もいる程度である。多民族国家ではあるが、主たるマジャール人の比率はかなり大きい。どうしても内向きになる。まさに迷惑な話なのだろう。これは理解できる。

先日、ポーランドのワルシャワで、イスラム移民排斥のデモに出会った。ようやく経済が軌道に乗ってきたポーランドも、ハンガリー同様、単一民族国家に近い。しかもWWⅡでは、完全なドイツの被害国である。多文化共生を強制するのは酷かな、と私は思ってしまう。EUがこの難民受け入れでまとまらないのは、当然のことである。各国が抱える歴史的な経過、経済状態、国内の状況、実に様々であり、ステレオタイプにEUを論じるのには無理がある。

責任を取らねばならない過去をもつ国から、責任をとる。私はそれが妥当な道のような気がしている。とはいえ、日本も「構造的暴力」の一翼を担っていることを確認しておきたい。決して責任がないということにはならない。ガッチャン(強行採決)して積極的平和主義でござい、と言っているような反知性的政治が行われているのが日本の現実だが、本質的な平和への道とは何かを、(シリア難民だけでなく、アフリカのソマリアやナイジェリアなどの全世界的な難民問題も含めて)考えるべきだと私は思っている。

2015年9月15日火曜日

毎日 アウシュビッツ 中谷氏講演


アウシュビッツにて 中谷氏
アウシュビッツの公式ガイド、中谷さんが一時帰国し、2日間にわたり京都産業大学付属中高生約1500人に自らの経験を語ったそうだ。今日の毎日の夕刊に特集WIDEで報じられていた。テーマは、「既成概念に縛られないその想像力を世界へ」である。以下、記事の抜粋である。

様々な質問に丁寧に答えながら、「教科書では学べない歴史を学ぶことができる。そこがアウシュビッツのすごいところ。」と表現。また「現場にいた人はどんな気持ちでいたのか考えることが生きた勉強になる。」と強調。

アウシュビッツを長く案内していると、世界の情勢に無関心ではいられない。グローバル化した地球で起こる問題に重ね合わせて考える。「ユダヤ人は2000年も前から住む土地を奪われ、欧州にやってきた。歴史は繋がっている。」内戦が続くシリアなどから欧州を目指して移動する難民の報道に触れ、「中東の人がなぜ、住んでいる土地を追い出されるのか。考えて欲しい。」と呼びかけた。

「(ガイドを18年やっているが)まだまだ新しい発見がある。学びがある限り案内を続けたい。」という中谷さんはこう感じている。「遠い歴史を勉強すると、自分の立ち位置を確認できる。」そして、「人間はすばらしい存在だと信じるからこそ、最悪の状況でなぜ、虐殺行為が起きたのかを考え、人間の可能性の対極にある暗闇の側面を見つめたい。」と語った。

「アウシュビッツの教訓は今の世に通じる。」そんな思いから若い世代に「自分で学び、考える。」ことの大切さを伝えたかったのだ。アウシュビッツから生還し、館長を35年間務めて2012年に亡くなったカジミエシュ・スモレンさんの言葉「あなたたち戦後世代に責任はない。しかし、同じ過ちを繰り返さない責任がある。」をよく思い出すとも。

…中谷さんが、帰国されていたとは驚いた。私には、記事にある中谷さんの言葉が、1ヶ月半くらい前に聞いた、その声で語りかけてくるようだった。人権学習のためにつくる予定のパワーポイントの構想が少しずつできている。ここにある、中谷さんの言葉を是非とも入れさせてもらおうと思っている。

2015年9月14日月曜日

オペレッタ・ミカドと日本観

http://www.guidetolascruc
es.com/blog/starlight_
childrens_theatre_compan
y_presents_the_mikado/
「二十世紀と格闘した先人たち-1900年アジア・アメリカの興隆-」(寺島実郎/新潮文庫・本年9月1日発行)をまだ読んでいる。日本人の話も多いのだが、岡倉天心の章に、オペレッタ・ミカドの話が出てくる。著者の寺島氏はロンドン・サボイ劇場で150年ぶりの再演を見たそうだ。

オペレッタ・ミカドは、猪瀬直樹の本の中で紹介されていて、私もギルバート&サリバンの原作をもとに、全く違うオペレッタ・ミカドの人形劇のシナリオ「ミカドはジグソーパズルがお好き」を書き、公演した経験がある。主人公の名前は、今も覚えている。ナンキプーというけったいな(関西弁で変な、奇妙なという方言)名前だった。ミカドの皇太子である。私のシナリオでも、そのまま使った。ヒロインの名前はヤムヤム。これもそのまま。オペレッタ(小歌劇)なので、何曲か歌も書いた。大変だったけれど、今では、懐かしい思い出である。

*ミカドの画像をリサーチしたら、かなり現代的な演出のものもあった。機会があれば見てみたいなと思ったりする。

当時は日本ブームだった。だが、それはかなり歪んだもので、このミカドが、その象徴的存在であると著者は言う。森鴎外も留学先のドイツで1886年に見ている。19世紀のヨーロッパでは、日本は「極東の奇異な国」としてイメージが定着する。こういしたイメージに形成に対する日本人の問題意識を基盤に、この時期、日本人による日本人論・日本論が英文で世界に発信された。内村鑑三の「代表的日本人」、新渡戸稲造の「武士道」、岡倉天心の「東洋の理想」「茶の本」という系譜だ。

ここから岡倉天心の話が始まるのだが、私のエントリーは、違う方向に流れていく。一時期、地理の学習のイントロダクションとして、様々な国の日本を紹介した教科書を紹介していたことがある。なかなか酷いものが多かった。日本人は木と紙の家に住んでいるとか。茶色いスープ(味噌汁の話らしい)を飲むとか。浦島太郎がワニに乗っていたり…。

こういう誤解は、もしかしたらお互い様かも知れない、というのが私の意図だ。地理では、様々な興味付けをするために、世界各国の話が出てくるが、私はなんでも知っているわけではない。本で読んだ知識では間違いがあるかもしれない、という話を最初にしたのだった。

南アのプレトリアのバックパッカーズのTVで、日本の畳の生活や新幹線や東京のラッシュアワーなどが凄いスピードでフラッシュするCMを何度か見た。うーん、これが日本だと思われるとなあ、と苦々しく思ったこともある。さすがに、ITの進歩で、こういう誤解は少なくなったような気がするが、案外子供の頃にインプットされた知識や経験は大きな影響を与えるような気もする。社会科教師としては常に自戒しなければと思う次第。

2015年9月13日日曜日

F・ルーズベルトの対日観

http://www.biography.com/people/franklin-d-roosevelt-9463381/videos/franklin-d-roosevelt-%E2%80%93-new-deal-critics-11527747960
「二十世紀と格闘した先人たち-1900年アジア・アメリカの興隆-」(寺島実郎/新潮文庫・本年9月1日発行)を読んでいる。以前、このヨーロッパ編を読んだが、今回はアジア・アメリカ編である。先日、マッカーサーの章で、記念館の位置の謎についてエントリーしたが、今日はF・ルーズベルトについてエントリーしたいと思う。その人の歩んだ人生の中での(他国との)関わり方ということが、いかに大きな影響を与えるかという視点で書かれているこの章は、実に興味深い。

F・ルーズベルトが尊敬した遠縁のS・ルーズベルトは、新渡戸稲造の「武士道」の愛読者で、日露戦争時の仲介者となった大統領(テディと愛称され、ぬいぐるみのモデルでもある。米西戦争に勝利し、パナマ運河を完成させ、アメリカのパワーを世界的なものに脱皮させた。)で親日派なのだが、F・ルーズベルトは日本には懐疑的な姿勢をもっていた。

F・ルーズベルト(以後FDR)は、一族の先祖が中国貿易で財をなしたこともあって、中国に好感をもっていたようだ。ハーバード時代、松方正義の六男・乙彦と出会い、日本が百年かけてアジアを解放するという話を聞き、警戒心を醸成したようだ。たかが若き日のホラ話ではないか、というわけだが、それくらい印象に残ったようだ。その後、海軍に進んだFDRはオレンジ計画に関与する。これは、20世紀初頭に想定した戦争シミュレーションである。黒はドイツ、金はフランス、紫はロシア、赤はイギリス、そしてオレンジが日本。色は各国のコードであったわけだ。その後、黒とオレンジだけが残り40年間も逐次改定され続けたものだ。この間、FDRは、ベルサイユ講和会議で、日本にさらに警戒心を強めている。しかし、彼が病魔に襲われた1920年代は好転している。療養中のFDRは「我々は日本を信用できるか」という雑誌論文を発表、ワシントン海軍軍縮条約を結んだ日本は、国際社会の責任ある参画者となりつつあり、米国はその疑念を解消されるべきと説いている。「わが外交政策について」という論文でも同様の対日観に言及している。幣原外交を大きく評価していたのである。しかし、「昭和」に入りFDRの日本への期待は、失望・怒り・憎悪へと急速に高まっていく。1937年10月には、シカゴで、(日本をナチ・ファシスト同様の伝染病として扱い、世界平和のために隔離すべしという)「隔離演説」を行っている。

もともと警戒していた。一時は見直し、その信頼回復を他者にも説いたが、完全に裏切られたという思い。フツーの人間関係でも最悪、関係修復は極めて難しい。

アメリカの指導者が、対日観においてこのような歴史的変遷を経ていることを、当時の幼稚な日本外交はほとんど掴んでいなかったのではないか、その甘さが今更ながらに確認できる。佐藤優の外交の話などを読んでいると、各個々の人物のもつ資質が、いかに重要な情報かがわかる。

…一気に話は小さくなるが、私の中の(こういう諸外国に対する価値観とでもいってよい)資質も、極めて個人的な自分史に起因するのだと思う。TVや映画で見たあこがれのアメリカだった少年時代の影響は大きい。文化大革命に理想を感じた学生時代もあった。だが、実際にその地に立ってみて感じることのほうが大きい。だからこそ、教え子諸君には、是非とも海外雄飛して欲しいと願うところだ。実存は本質に先立つのである。

2015年9月12日土曜日

毎日 次期国連事務総長の話題

国連本部・歴代事務総長の写真
http://39every1.blog10.fc2.com/
blog-category-8.html
毎日新聞に、次期国連事務総長の話題が載っていた。どうやら、初の女性事務総長が誕生するような情勢らしい。この国連事務総長は、総会で1人の候補者が拍手で選ばれるのが慣例らしい。そこに至るまで、安保理の常任理事国5カ国の承認が絶対条件のようだ。5カ国は拒否権を使えるからで、選出に対する透明性という話も出ている。一方で、女性がトップになっていないことへも批判があるのだという。

下馬評では、東欧地域からの事務総長選出が未だ行われていないので、”東欧(の女性)から”という感じらしい。最有力なのは、ユネスコのボコバ事務局長(ブルガリア)らしい。その他にクロアチアの外相(女性)やスロベニアの大統領(男性)の名前も上がっているという。

ちなみに、これまでの事務総長の出身国は、ノルウェイ、スウェーデン、ミャンマー、オーストリア、ペルー、エジプト、ガーナ、韓国となっている。

ただ、東欧地域は、米露間の調整が難しいという見方があるらしく、ニュージーランドの前首相でUNDP総裁のクラーク氏(女性)の可能性も囁かれているという。なるほど、アジアから離れて見れば、オセアニア地域も選出されていない。

国連事務総長というと、かなりの権力をもっているような感じだが、やはり安保理の常任理事国のパワーの前に、なかなか国連の理想を貫けそうもない立場だ。先日の日経でも、WFPなどの経費がかなり逼迫していおり、難民や紛争地での食糧援助削減が進んでいる、との記事が載っていた。この辺の理想と現実の狭間で、なんとか調整していかねばならない立場ようだ。

ところで、国連事務総長の話となれば、先日の中国の軍事パレードの話になってしまう。もうすでに様々な批判がマスコミを賑わしたが、私も、国連に一筋の希望をもっている一人なので、なんとも情けなく感じた。中国が常任理事国のメンバーであり、参加するべき国連の事情(たとえば、中国が国連予算の分担金を大幅に増やしてくれるとか…。)があるのなら仕方がないが、次の自国の大統領選挙に色気を示しているという話がクローズアップされたのなら、自国の国益、いや自分の野心で動く事務総長ということになる。これは、批判されて当然だと思う。国連事務総長こそ、世界で最も私心のない人であるべきだ。

http://mainichi.jp/select/news/20150912k0000m030120000c.html

2015年9月11日金曜日

追悼 近所のおばあちゃん

この画像がおばあちゃんの犬に一番似ていた
http://petty.jp/4116
休憩時間になると、喫煙のために校外にでる。近くの公園やローソンなど灰皿のある場所が多い多いのだが、近隣の方とお話することもある。

中でも、よく挨拶したのが、いつもダックスフンドの散歩をしておられる近所のおばあちゃんであった。私がすぐそばの高校の教員であることもよくご存知で、時折生徒を褒めていただいたりしていた。このおばあちゃんのダックスフンド、私の顔をよく知っているくせに、シッポを振りながら必ず吠える。(笑)おばあちゃんに怒られても、また吠える。

ところが、このところ、おばあちゃんを見かけない。私と時間帯があわなくなったのか、あるいはご高齢なので入院でもされているのかなあと心配していた。

今日、偶然、おばあちゃんのところの娘さんに出会った。おばあちゃんのことを尋ねると、なんと今年の元旦にお亡くなりになっていたのだった。びっくりした。そんなにお会いしていなかったのだ。ダックスフンドは丸々太っている。「獣医に怒られているんですよ。」とのこと。

ダックスフンドは彼なりに、おばあちゃんが他界されたこと、いつもの散歩ができないことが大きなストレスになっているのではないかと思ったのだった。今日は、私を見ても吠えなかった。

2015年9月10日木曜日

日経 レスキュー・サウス アフリカ

帰宅して驚いた。鬼怒川の氾濫、えらいことになっている。被災された方の安全をまず祈りたい。

今朝の日経を読んでいて、南アのNGOの記事が出ていた。アフリカ・ウォッチのエントリーは久しぶりなので、このレスキュー・サウス・アフリカ(RSA)というNGOの記事について記しておきたい。このRSA、アフリカから唯一東北の大震災時に駆けつけてくれた救助隊である。

このRSAは、国連人道問題調整室(OCHA)を通して、JICAの資金で2014年から専門家をナミビアやマラウイ、ザンビア、モザンビーク、レソト、スワジランドの南部アフリカ6カ国に送り込み、各国の消防士に災害対応能力を向上させる訓練を行ってきた。RSAは,この対象をさらに南アフリカ地域の15カ国に拡大、南アの大学に招き2ヶ月半の訓練を実施したいとしている。これまで、米国国際開発局(USAID)の支援を受けていたが、震災後、JICAがその支援を引き継いだという。

代表のシェール氏は、「日本はこれまでアフリカを支援してくれた。(大震災時は)恩返しをする番だ。」という気持ちだったと説明している。人材育成を進め「南部アフリカ救助チーム」をつくり、やがては、訓練対象をアフリカ全体に広げ、アフリカ救助チームを育てたいという夢を語っているという。

…久しぶりにアフリカのいいニュースを読んだ、今日のエントリーはこれだと思っていたら、鬼怒川の氾濫。複雑な気分である。せめて日本の災害の経験、対策のスキルを、こうした世界中の災害対策のNGOに伝えていって欲しいと思うのだ。これは先進国の義務でもあると私は思う。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08H9F_Z00C15A9000000/
http://www.rescue-sa.co.za/
http://www.jica.go.jp/topics/feature/2014/150320_03_report05.html

2015年9月9日水曜日

マッカーサー記念館の謎解き

長い間謎だったことが、本を読んでいて一気に解ける時がある。今朝の通勤時がそうだった。読んでいた本は、「二十世紀と格闘した先人たち-1900年アジア・アメリカの興隆-」(寺島実郎/新潮文庫・本年9月1日発行)である。

この長い間の謎とは、陸軍元帥のマッカーサー記念館が、海軍の軍港であり、あのペリーが出発したバージニア州ノーフォークに、なぜあるのか?という不思議だ。(10年2月27日付ブログ参照)ちなみに、マッカーサーは、アーカンソー州の出身である。せめて、ニューヨーク州のウエストポイント(陸軍士官学校がある)でもいいと、ずっと考えていたのだ。わざわざ海軍の街にあることがおかしい。

で、寺島実郎氏は、彼の母親の故郷であるからと述べている。マッカーサーは、かなりのマザコンだったようだ。ピンキーと呼ばれた母親は、ウエストポイントにマッカーサーがいた2年間、彼の部屋の窓が見える部屋に住み、部屋の明かりが消えてから就寝していたのだという。(父親はフィリピンに赴任中だった。)ちょっと、不気味な話である。(著者の言。)

ともかく、偶然、謎が解けたのだった。こういう事って素敵だなと思う。この本については、また追ってエントリーしたい。

2015年9月8日火曜日

アルコールランプの話

http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/
syougakkou/kagaku/onndotokasa/ramp/
ramp3.html
我が家の晩ご飯、今日はうどんすきだった。(笑)食卓の上には、卓上のガスコンロが置かれ、土鍋が煮えている。「今日は少し涼しかったので。」と妻が言った。うん、美味。とはいえ、食後は汗だくである。(笑)

ところで、最近理科の実験では、小さな卓上ガスコンロで実験しているんだという。私の子供の頃は、なんといってもアルコールランプであった。アルコールランプの火の消し方なんか、試験に出た記憶がある。

理科の実験も時代とともに変化しているようだ。でもなんか、卓上コンロで実験というのは、なんか「鍋」をやっているようで、どうも変な感じである。そうそう、昔は理科準備室に遊びに行ったら、理科の先生がビーカーでコーヒーを沸かしてくれたりしていたのを思い出す。(笑)このところ、硬い話題が多かったので、久しぶりに、軽い話をエントリーしてみた次第。

2015年9月6日日曜日

「靖国戦後秘史」を読む。2

鎮魂社
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/
archives/1001310132.html
引き続き、「靖国戦後秘史」を読んでいる。今日は第2部。A級戦犯を合祀しなかった宮司についてエントリーしたい。このA級戦犯を合祀しなかった宮司とは、筑波藤麿氏のことである。

筑波氏は、皇族出身の初の宮司である。高松宮からの命で、宮司となった。その理由は、皇族出身(大学院在学中に臣籍降下し、筑波侯爵家を創設)ながら、(体調や気性のこともあって)軍人にならなかった人物であったことが大きい。学習院高等科から東大文学部国史科に進み、古代史を専攻。大学院終了後は自宅に史学研究部を置き、東大の研究者と共同研究を続けた。その理由は、例の平泉史学に支配されつつあったことにあるらしい。「ああいう過激な考えは自分に合わない。」と語ったという伝聞もある。軍人がこれまで靖国の宮司を続けてきた中、占領軍や世論に配慮してできるだけ軍と縁遠い人物として白羽の矢がたったようだ。

筑波氏は、皇族出身ながら、自己の信条として民主主義的な平和主義を信奉していた。生来の軍人嫌いであった。歴史家としての学識よって、たどり着いた思想でもあった。だから、以後32年にわたる宮司生活で、いかに靖国神社から軍事色を無くし、生き残りを図るかが彼の仕事となった。

http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx
/tag/%E9%8E%AE%E9%9C%8A%E7%A4%BE
鎮魂社という施設がそのシンボルだ。「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰めるため、(中略)万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。」というもので、要するに全世界の戦没者を祀る施設なのである。あまり目立つところにあるわけではないらしい。しかも松平宮司によって、高さmもの鉄柵で取り巻き、非公開となったらしい。(左画像)今は、鉄柵はないようである。(上画像/私が靖国神社に行ったのは、はるか昔・小学2年の時なので、確かな話ではない。)

こういう人だから、厚生省に残っていた元軍人官僚がやいやい言って、A級戦犯の合祀を求めて、祭神名票が送付されてきてから、1年3ヶ月後に初の打ち合わせ会が行われ、総代会にかけることが決まっても、筑波宮司が亡くなるまでそのままにしていたということだ。

…昨日記した松平永芳氏も、特異な人物だが、前任の筑波藤麿氏も、まさにその対局にある特異な人物だったわけだ。

2015年9月5日土曜日

「靖国戦後秘史」を読む。

「靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男」(角川ソフィア文庫 毎日新聞「靖国」取材班/本年8月25日発行)を読んでいる。昨日買って、序と第一部の「A級戦犯を合祀した宮司」の部分を読み終えた。実は、月曜の日本史演習で、東京裁判から靖国問題へと進む予定で超タイムリーだったのだ。日本の現代史にとって、極めて重要な箇所だと私は思っている。

この「A級戦犯を合祀した宮司」とは、幕末の四賢公・松平春嶽の直系の孫松平永芳元宮司のことである。かねてより、この事実は知っていたが、この本で新たな発見があったので、教材研究も兼ねてエントリーしておきたい。

祖父・松平春嶽は、戊辰戦争の戦没藩士を祭る碑を福井の足羽山に作っていた。同じように長州など各地でも招魂社が設けられ、その東京招魂社が後に靖国神社になった。春嶽は早い時期から靖国に連なる戦没者慰霊を率先して実践していたわけだ。藩内で洋学を推進したことと同時に、本人は精神的には国学を尊ぶ立場だった。一方、父の慶芳(ながよし)は、昭和天皇側近で信頼が厚かった。だから、昭和天皇は、A級戦犯合祀の際、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、(中略)親の心子知らずと思っている。」(富田宮内庁長官メモ)という不快感を示されたのだ。

松平永芳は、父の「ノブレス・オブリージュ(高貴な身分に伴う責務)」という徳義に倣い、海軍機関学校に進み、軍人になる。41年当時昭和天皇の侍従武官だった醍醐忠重少将の娘を妻とする。この義父醍醐少将(後中将に昇進)は、ボルネオ司令官、呉潜水戦隊司令官を歴任。戦後、ボルネオで部隊が華僑を虐殺したという責任を問われB級戦犯として処刑されている。また呉では、人間魚雷回天の出撃を命じた人物である。(こう書くと悪人然というイメージになるが、高潔な武人であったようだ。)…B級戦犯の義父。(靖国に合祀されている。)…靖国にある遊就館の目玉展示は人間魚雷回天。

ちなみに松平永芳は、学習院幼稚園から小・中学校は暁星に進み、1年間浪人している。このとき、福井出身の平泉澄東大教授の家に預けられた。あの口舌の徒・平泉澄である。(14年2月19日付ブログ参照)この時に平泉皇国史観を叩き込まれている。これが、この本の最大の発見である。そう、大川周明がA級戦犯なら、なぜ彼こそが訴追されなかったのか不思議なくらいの人物だ。

海軍兵学校に合格できず、機関学校に入学する。戦後は保安隊に入隊するが選んだのは陸上自衛隊。これは、(当時反政府デモが頻発し)天皇を守るのに必要だということと、旧海軍が平泉史学を忌避していた関係があったのではないかと推測されている。しかし病気で出世コースから外れ、戦史室の史料係長に就任。陸上自衛隊に平泉史学を吹き込む目論見ははずれた。一等陸佐で退官後は福井の郷土歴史博物館長であった。人物としては、純粋で高潔であったと誰もが認める。だが、猪突猛進型の性格であった。

松平永芳は、祖父を尊敬し、祖父のように偉大でありたいという思い入れが強かったようだ。同時に父に対しては、戦後の国家を危うく(天皇側近として、戦後民主主義を推進)したと考えていたようだ。その中心にあるのは「平泉史学」である。これに前述のような学歴や職歴のコンプレックスが混ざり合っていると取材班は見る。

第2章では、皇族の筑波宮司の長期にわたり、(天皇がA級戦犯合祀に批判的であることは周知の事実だったので)それまでA級戦犯合祀を伸ばし続けていたのが、靖国の神職の諍いから、No2の権宮司が昇進する人事が覆り、結局松平永芳に白羽の矢がたつ。これをコーディネイトしたのは、保守派の元最高裁長官の石田和外(かずと)であるらしい。平泉史学の徒・松平永芳からすれば、自分が靖国神社から戦後民主主義の日本を改革してみせようと乗り込んだというわけだ。したがって、当時の社会情勢が松平永芳を押し出したと見るべきだと、取材班は見ている。

…私は、戦後のリベラルな民主主義社会こそが絶対善である、とまでは思わないが、少なくとも平泉史学が軍部を誤った方向に導き、多くの純粋な若者を死に追いやったと思っている。平泉澄は、その責任を全く取っていない。昭和天皇を窮地に追い込んだ陰の人物である、と思っている。昭和天皇が、合祀後、靖国に参拝されなくなったのは当然だと思われるのだ。

10月の人権講演会に向けて2

Mさんのアフリック・アフリカHPでのアフリカ便りのチャガの人々の画像 
http://afric-africa.vis.ne.jp/essay/business01.htm
京都からMさんに御足労願い、10月7日の人権講演会の打ち合わせを昨日行った。これまで、様々な学校(知友の先生方がいるO大付属高校I校舎でもされていて驚いた。)などで講演をされておられるので、そのパワーポイントを見せていただきながら、お話を伺った。いやあ、久しぶりにアフリカの話を満喫したのだった。

Mさんの文化人類学のフィールドはキリマンジャロ山麓のチャガ人の村落だ。キリマンジャロコーヒーの生産者・商人としても有名で、高学歴者が多いので政府の役人を多く輩出しているキリスト教徒の村だということだ。ふと、私が、「ケニアなどでは、都市で死亡したとき、ハランベーをして(地縁で資金を出し合う)、故郷まで遺体を運びますが、タンザニアでは如何?」と質問したら、「タンザニアでもあります。」という答え。

そこから都市と村落の文化人類学的な、極めてマニアックな話になった。小川さやかさんの「マチンガ」(インフォーマルセクター)の話から、タンザニア人の上手く嘘をつく話。新人のJOCVなど大いに悩まされるそうだ。だが、これは彼らの生きる知恵。アフリカに学ぶ部分だ。成功者と情の経済。葬式と呪術の話…。話は、どんどんアフリカ人の本質的な部分にまで及んでいく。

経験と学識に裏打ちされたアフリカ論は、聞いていて実に楽しい。とはいえ、今回の講演は生徒相手である。こういう専門的な議論は理解できないだろう。だが、Mさんの懐は深い。本校OBの柔道家として、JICAでのボランティア経験者として、さらに文化人類学の研究者として…。きっと、本校生徒、というより後輩達に最もマッチした話を用意していただけるだろうと確信した。

ちなみに、話の中で、多くの相識の名前が出てきた。京大のアフリカ地域研究科の先生方や研究者は当然だが、荒熊さんの名前が出てきてびっくりしたのだった。(笑)アフリカ学の世界は、国際理解教育学同様、狭そうだ。

講演会が楽しみである。Mさん、よろしくお願いします。

2015年9月4日金曜日

NHK LIFE 宇宙人総理深読み

LIFE 最後の問題のシーン http://www.cdjournal.com/main/news/kiki-kirin/68154
昨日のNHKのコント番組「LIFE」は実に面白かった。すっと続いていた宇宙人総理というシリーズのデータ放送による投票も面白かったが、ラストは、まさに俊逸だった。投票の結果(ホントは決まっていたのだと思う。笑)、宇宙人総理の人生党が勝利する。勝利会見の途中で、富士山麓にUFOらしき光が現れ、総理は仲間と共に富士山麓に駆けつける。そこにはUFOが着陸していて、なんと母親(樹木希林だった。)が降りてこようとする場面だ。宇宙人移民の受け入れ公約第一号は、総理の母親だったのだ。だが、母親は、僅差の勝利で移民することを拒む

総理は、呟く。「お父さんか、おじいさんを呼べば良かったのかもしれない。」(と、いう感じのセリフだったと思う。たしかに、お父さん・おじいさんというセリフがあったのは確かだ。)

私は、このシーン、思わず深読みをしてしまう。もし、このセリフがうっちゃんのアドリブであり、(悪名高いNHKのトップの策動で)このLIFEが終わってしまったら、間違いなくこの深読みは当たっていると思う。もし、放送作家のものだったら、大したモノだ。

あの母親は、「安保法案」、お父さんは、総理になるのを有望視されながら他界した元外相。おじいさんは、元首相。もちろん、宇宙人総理は、総理本人と、読み替えると凄いパロディになるではないか。そうなると、宇宙人総理が時折、目から光線を出し、敵対者を黙らせるのだが、あれは小選挙区制光線=「専制のための超能力」とでもいえるのだろうか。

いやあ、面白かった。現実は、永田町では僅差どころか多数派かもしれないが、世論調査では負けている。誰かが、国会周辺のデモを揶揄していたが、この動きはさすがの日本人も「自由な個人」として自立していく過程なのかもしれない。

再度、申し上げておくが、私はこのグローバル化の中で戦争が起こる可能性は極めて低いと思っている。したがって安保法案はブラフであると思っている。戦争法案だとは思っていないわけだ。だが、その成立への専制的な過程が大いに問題だし、首相を始めとした権力側の反知性的な動き、その政治手法に反対を唱えざるを得ないと思っている。

2015年9月3日木曜日

中国を社会類型をもとに考える。

http://www.47news.jp/CN/201509/CN2015090301001037.html
中国で戦勝70周年のパレードが行われた。中国共産党の強烈な権力が、大気汚染をぶっとばし透き通るような青空の下、行われたことをTVで批判的に報道しているのを見た。あるいは、日本の記者に対し、「小日本」という侮蔑のコトバが投げかけられたとも。まあ、日本への戦勝パレードだから、日本人としてはあまりいい気分ではないのは理解できるが、私は今こんなことを考えている。

以前、千葉大学の加藤隆先生の「武器としての社会類型論」についてエントリーした。(14年10月・12/13日付ブログ参照)中国の社会類型は、ヨーロッパとは正反対で、上部に支配者で富をもっているが、不自由な共同体が位置し、下部に自由な個人が設定されている。被支配層の自由な個人の中には富をもつものもあるし、様々な価値も生み出すとされている。

科挙の伝統を持ち、君子たることを当然視されている支配層。彼らは権力をもっているが、個人的自由はかなり制限されている。現在の中南海の指導層も、儒教を否定的に見ているとは言え、中国共産党のエリートとして同じ社会類型の中に共同体として存在していると私は思う。

中国の社会類型で最大の問題は、被支配層だ。13.57億という膨大な人口。日本から見れば、かなり人権的にも弾圧されているように見えるが、「爆買」などの現象に見られるように、彼らのエネルギーは尋常ではない。人口圧というコトバがあるが、日本のような奥ゆかしさを「徳」とすることなど、およそ考えられない。人口圧は、支配層を常に恐怖に陥れているように思える。

中国文化の代表である儒教は、仁という家族の親愛の情を基盤にしている。その仁を礼として儀礼化することで、この膨大な数の個人の自由を制限する道徳である、と考えることも可能だ。血縁関係を基盤とした最も判り易い”愛し合うためのテーゼ”が仁であり、それだけ自由な個人を結びつけ、制御することが難しかったといえるのではないだろうか。

私は、別に現中国の指導部を支持しているわけではない。ただ、極めて大変だろうなと思っているのだ。この膨大なエネルギーをもつ自由な個人を制御するのは至難である。まして、人民の豊かさを追い求めて、資本主義導入に大きく舵を切ってからは、いかに食べさせるかから、いかに豊かにするか、さらにより多くの人民を豊かにするか、と変化してきた。専制政治と言われようが、民主化弾圧と言われようが、反日を利用していると言われようが、人民元を操作していると言われようが、そういう批判にいちいち耳を傾けていれないほど支配層が背負った責任は重いだろうと思う。ひとつ間違えれば、内乱になりかねない。薄氷を踏む毎日ではないか。だが、彼らは不自由な共同体のエリートの道を選んだ。それだけの力があるのだろう。果てしない権力闘争の中で生き残った13億分の9(最上位の中央政治局常務委員の数)だ。

だから、彼らのとる政治手法は、極めてプラグマティックだ。成果が上がればそれが正義。これは、彼らの宿命的なスタンスだと思う。今回のパレードも、様々な効果を狙ってのことだろう。私はあくまで冷静に中国を見ていきたいと思っている。

2015年9月2日水曜日

今、真面目に難民問題を考える。

http://jp.reuters.com/article/2015/09/02/eu-ger-idJPKCN0R20EU20150902
EUに押し寄せる難民のニュースが、このところ日本でも報道されている。悲惨な死亡事故のニュースも多い。先日はTVの報道番組で、アフガニスタンからイラン、トルコと歩き、ボートでギリシアの島にたどり着いた難民の姿を見た。彼らはここで不正入国だが、移動可能な証明書を得る。そこからアテネに向かい、また歩いてドイツに向かうのだという。国境警備を強化する国もあれば、難民に食料などを無償提供する国もあり、EUの人々も対応は様々である。

ドイツは、EUに押し寄せる難民のおよそ半数を引き受けている。もちろん、右派の反対も強く、ある村では暖かく難民を受け入れているが、その場所を知られて右派に暴力を振るわれるのを恐れていた。ドイツの「貢献」も、流動的である。とはいえ、ドイツの姿勢は、大きく評価できる。ナチによるWWⅡ、ユダヤ民やポーランド人などへの贖罪を、あくまで”個人”として引き受けている。ナチの行った暴虐をきちっと自己批判して、反省し、ドイツ国民として、一人ひとりが世界に貢献すべきだという姿勢。

日本では、内田樹先生の言われる(8月25日付ブログ参照)ように、公式なWWⅡにおける責任について公式な自己批判はされなかった。この理由は、浅学の私でも容易に推測できる。それは、どうしても昭和天皇の戦争責任論に関わってくるからである。私は、昭和天皇をあくまで「国家維持装置」的存在だったと思っているので、責任は限りなくゼロに近いと考えている。とはいえ、論争すれば無傷ではすまなかっただろうし、東京裁判がたとえ戦勝国のパフォーマンスで不完全なものであったとしても、マッカーサーとの合意のもと、日本国憲法第一条とバーターして、天皇の訴追を回避したことも理解できる。

よって、日本はWWⅡの責任は、「一億総懺悔」という「物語」となった、といえる。日本では個人主義はなかなか馴染まない。自由に責任が付与される個人主義が馴染まない。日本の本格的な民主主義はGHQによってもたらされたもので、自ら勝ち取ったものではない。だからこそ、曖昧な玉虫色をしているわけだ。ドイツ人のように、個人になりきれない日本人…。

しかも、この世界的な難民の問題に、日本は極めて冷淡だ。極東という地政学的なものもあるだろうし、日本語という世界でも類を見ないフクザツな言語を使用しているということもあるだろうし、島国的な閉鎖性、日本的集団主義などといった、様々なスタンスがあることもよく理解している。難民受け入れに対し、ハードルは、たしかに高いのは事実だ。

だが、いつまでもそれでいいのだろうか。異文化理解は実は、歴史的に見れば日本人の得意とするところである。日本の文化は、固有の文化の上に、中国やインド、朝鮮、欧米などの様々な文化が多層的に積み上げられたものである。グローバル化された現在、意外に、日本でも多文化共生への柔軟性は、すでにあるのではないだろうか。

先日TVで過疎の村への移住を促進する行政の苦労話を見た。今話題の国立競技場の建設も労働力不足から、どうしてもコスト高になるという。生産業の海外拠点も賃金上昇で撤退しリターンする企業も話題になっている。

ここは、様々なデメリットが予測されようとも、個人として自立している日本人や、集団主義であっても、ムラとして、あるいは企業として自立している日本の集団に期待して、難民受け入れの枠組みを再検討するチャンスなのではないか、などと理想論を振りかざしてみたくなるのだった。知性的なまともな政治家も、多少は永田町にいるはずだ。

2015年9月1日火曜日

10月の人権講演会に向けて

10月7日に、本校OBのMさんを招いて、人権教育講演会を行う予定になっている。体育祭・文化祭と、その後のシルバーウィークの関係で、ちょっと早いけれど3日の運営委員会で、一応の計画を提示しておいたほうがよいと判断。

で、今日は実施案・保護者宛の案内・アンケート用紙などを一気に作成した。Mさんとは今週金曜日に打ち合わせを行うことになった。久しぶりの再会で、実に楽しみである。

ところで、Mさんが関わっておられるタンザニア。私にとって、大きな憧れの地であるのだが、この際大いに勉強しておこうと思っている。Mさんが、夏休み中に一度本校柔道部を指導しに来ていただき、図書館に寄贈しようとされていた本がある、と柔道部のS先生に聞いたのは先日のことである。それは、タンザニアに関する60章の第2版だった。Mさんも寄稿されている。まずは、私の手元に置いて読み始めたところである。また、気になる箇所があれば、エントリーしていきたい。