2014年5月31日土曜日

テニス部の試合を応援に行く

普通科のペア 強いぞ~ 
ソフトテニス部のIH団体戦を応援に行ってきた。以前から一度は応援に行ってあげたかったのだが、やっと実現したわけだ。場所は舞洲のテニス場である。一番奥のコートで、第1回戦が行われた。相手は、府立I高校である。本校のソフトテニス部は、かなり強い。技術も体力も、そしてメンタル面もよく鍛えられている。結局、1ゲームも落とすことなく勝利した。

実は、前任校で、3年間ほどソフトテニス部の顧問をしていたことがある。テニスの試合は時間が読めない。接戦になると長くなる。3年担任の時、個人戦の応援で試合のはしごをしてクタクタになったこともある。ほとんど1回戦負けだったけれど…。1日仕事だった。(笑)

団体戦は、3チームが1セットずつ戦うようだ。最初に普通科の2人が登場した。彼女たちは私が1年で担任したW君と2・3年で担任しているK君である。強い強い。相手の前衛の構えるラケットめがけてスマッシュを決めたりする。ロブも絶好のポイントに決める。全く危なげがなかった。凄いな。中学での実績もあり、テニスをしに本校に来ているので強いのは当然かもしれないが、普段の教室では見れない姿を見せてもらった。体育科の2チームも、少し調子が悪かったようだが、先行されても絶対デュースに持ち込み、勝つのだった。さすが強豪校である。

女子のソフトテニスには流儀があると、思う。いつも笑顔で試合する。勝てば、必ず大げさに喜ぶ。礼儀正しく相手にプレッシャーをかけるのだ。応援するメンバーも、様々な応援の掛け声があって、一体で応援する。まさに青春物語。久しぶりに接して、なつかしかった。(笑)

ヘルニアによる左肩の痛みがひどくて、1回戦だけ応援して帰らせてもらった。だが、長年の約束が果たせて私自身は満足している。いい時間を過ごさせてもらった。テニス部のみんなありがとう。

追記:K君からの連絡によれば、ベスト5で力尽きたそうだ。残念だが、近畿大会もまだある。最後まで頑張ってほしいと思う。

2014年5月30日金曜日

日経 井上陽水の氷の世界

今朝の日経の文化面に、井上陽水が「氷の世界」をメインにしたツアーをしている、という記事も載っていた。へぇーと思ったのだ。私の高校時代は、拓郎・陽水・かぐや姫の時代だった。私は、拓郎派だったが、もちろん、陽水もかぐや姫も大好きである。妻は、完全に陽水派である。妻によると、拓郎は、田舎っぽく、陽水には都会的センスがあると、いつも主張する。(笑)特に、大人になってからの曲には、その差が歴然だというのである。

なるほど…と思うこともある。たしかに陽水の歌詞は洗練されている、と思うのだ。「心もよう」を始めて聞いた時は衝撃を受けた。この曲は大ヒットし、アルバム「氷の世界」が出たと思う。「あかずの踏み切り」「氷の世界」「帰れない二人」「小春おばさん」…。名曲ばかりである。特に歌詞がするどい。

ただ、高校生だった私には、拓郎は「陽」であり、陽水は「陰」の関係にあった。私は、拓郎の「陽」を好んだのだと思う。

「傘がない」は陽水の、ある意味プロテストソングだ。「都会では、自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた。」と、くる。だが、問題は今日の雨であり、彼女に会いに行きたいのに傘がないと歌う。拓郎の代表的なプロテストソングは、「晩餐」だろう。「僕らは夕食時だった。(リフレイン)つけっぱなしのTVだったから。(リフレイン)岡山で戦車が運ばれるとニュースで伝えていたけれど。僕らは食べる時間だったから。」新聞の片隅とつけっぱなしのTV。両方とも、若者の政治へのシラケを歌っているのだが、まさに「陰」と「陽」である。

好みの問題だと思うのだが、陽水が、今「氷の世界」を歌うことに違和感はない。だが、拓郎が「人間なんて」や「伽草子」をメインにツアーしたとしたら、正直違和感を感じてしまう。でも、私はやっぱり拓郎派なんだなあ。(笑)

日経 ロバのパン屋の記事

http://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20130807000079/2
日経の最終面には文化のページになっていて、「私の履歴書」をはじめ、なかなか面白い記事が多い。今朝は、「ロバのパン屋」の本家である京都のパン屋の社長さんの話が載っていた。私が子供の頃、「♪ロバのパン屋は~チンカラリン」という楽しい音楽とともに、馬車に曳かれた移動パン屋が時折やってきた。京都が総本家だとは知らなかった。記事を読むと、いくつかチェーン店があったようだ。ふわっとした蒸しパンが売りだったそうだ。そういえば、蒸しパンを食べた記憶があるような気がする。私の記憶では、曳いていたのはロバではなかった。記事によると木曽馬だったらしい。また偽者の業者も出現したらしい。うーん、そっちのほうだったかな、などと考えていたのだった。

ロバのパン屋の歌がYouTubeにあった。凄い時代になったもんだ。私の記憶にある歌はすこし歌詞が違うような気がするのだ。子供の頃の話しだし、それも思い違いかなあ。(笑)

ともかく、朝から、なにか、ほんわかした雰囲気で今日が始まったのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=3Ck5JKVaGRM

2014年5月28日水曜日

ムビラサミット 是非関西でも

http://ameblo.jp/mbirasummit/
右の五十肩、左の頚椎ヘルニアによる痛みをこらえながら、先日送られてきた道祖神のDoDo World Newsを楽しく見ていた。田中真知氏の「コンゴ・アゲイン」という特集記事はキンシャサの大学で日本語を教えていた高村伸吾さんとまたまた丸木舟で、キサンガンニからザイール河を40日間かけて下る話だ。(田中真知氏は奥さんと20年以上前に丸木舟で一度ザイール河を下っている。これも私は楽しく読ませてもらった。/アフリカ旅物語・中南部編)パートナーの高村さんは、京大の院で文化人類学を学んでおられるとのこと。もしかしたら、公開講座の際にお会いしてるかもしれない。

また「マダガスカル川くだりとツィンギー12日間」を旅して、というツアーリポートも楽しく読ませてもらった。いいなあ。マダガスカル。55万円かぁ。

さて、今日のエントリーのメインは、そのDoDo World Newsに載っていた小さな情報記事。東京で素敵なイベントが行われるらしい。タイトルは、「ムビラサミットEAST Vol.9」(ムビラというのは、ジンバブエの指ピアノである。私もジンバブエのハラレで買って持っている。実に魅力的な楽器である。) 

指ピアノ奏者を日本中から集めた祭典らしい。一度聞きに行ったこともあるサカキマンゴー氏をはじめ(10年10月31日付ブログ参照)、なんと早川千晶さんも参加するらしい。東京・浜松町というから、羽田空港の近くだろう。アフリカンレストランで行われるらしい。うわあ、行きたい。だが、大阪人としては到底無理だ。あーあ、である。是非関西でもやってほしいもんだ。

2014年5月27日火曜日

タンザニアのマサイマーケット

http://www.on-the-pla.net/diary/2011-11/diary2011-1110.html
世界一周デート(吉田友和・松岡絵里著/幻冬舎文庫)上巻・アフリカ編で、最も面白かったのは、タンザニアのマサイマーケットの話だ。アルーシャから、「ダラダラ」(乗り合いバス:ケニアで言うマタツー)を乗り継いで1時間半。原色に満ち溢れた、”ザッツ・アフリカ”の世界だという。(笑)

マサイが愛する赤い布や車のタイヤを使った黒いサンダルが青空商店に並び、女性用の布カンガが山積みになっている。食用の緑のバナナが巨大な房ごとに埃っぽい地面に置かれ、トマトやじゃがいもなどの野菜やマメも並んでいる。と言ってもマサイの主食は牛乳と牛の生血、祝いの時には肉である。吉田氏の表現をかりれば「ザ・肉食系」となる。マーケットのニョモ・チョマ(スワヒリ流の肉のバーベキューの店)には山羊の生首が網の上に乗っていたりする。その店の奥の広場には、赤い布をまとったマサイ族の男たちがぎっしりと、まるで赤い海のように集まっており、牛や山羊などの家畜の取引が行われていた。牛は一頭50000シリング(約6万円)かららしい。

マーケットの帰りのダラダラでの話。子供は助手席に座ることが多いらしい。そこに座っていたおじいさんが、窓からお母さんの手で5歳くらいの子供を受け取った。赤の他人のひざの上でおとなしく座っている。さらに、赤ちゃんを連れたお姉さんが、赤ちゃんを窓から助手席に入れた。男の子のひざの上には赤ちゃん。助手席は三段重ねである。二人が感心していると足元の生きたニワトリが泣き声をあげる。マサイマーケットは、家に着くまでがマサイマーケットだったという話だ。実に楽しい。

…私もブルキナで、トゥルカナのマーケットを覗いたことがある。ゴロンゴロンというサヘルに近い街の近く。こちらは、赤い布ではなく青いターバンが特徴的だった。ほんとアフリカのマーケットはワクワクするのだ。

2014年5月25日日曜日

毎日 変なムズング・変なゴリラ

今朝の毎日新聞の朝刊「時代の風」に、公開講座でお話を伺った京大の山極寿一先生のコラムが載っていた。多文化共生という問題について、示唆に富む内容だったので紹介しておきたい。

山極先生が子供の頃「変なガイジン」という言葉が流行したことがある。日本語や大阪弁のような地方の言葉を流暢に話すのに、しぐさは日本人の常識的ではないという外国人のことだった。

御自身も30年前からアフリカでゴリラの調査をし始めたとき、現地では変なガイジンだった。と、いうより、スワヒリ語では、変な「ムズング」(ガイジンにあたる言葉で、もともと白人に対して使われていたようだ。我々がアジア系の人々にガイジンという言葉を使わないように、スワヒリ語でも他国籍の黒人には使わない。)だった。現地の言い回しや表現も交えてスワヒリ語で話すと、みんな目を丸くしたそうだ。しかも彼らにとって珍しくも高い価値もないゴリラを見たいだけというのだから、ますます変なムズングだったわけだ。

さらに、山極先生は、野生のゴリラを観察するために、ゴリラのしぐさや声をまねて、ゴリラのような振る舞いをすることで、群れに溶け込むことに成功する。子供ゴリラと取っ組み合って遊び、おばさんゴリラにからかわれ、オスゴリラ隣り合って昼寝する。ゴリラからは「変なゴリラ」と思われていたと思う、とも。

今では、多くの外国人が日本に暮らすようになり、変な言葉も変なしぐさも、あまり気にならなくなった。もう「変なガイジン」は死語になった。それは私たちが文化の枠を超えて、人間として共有できる作法に敏感になったからだと、山極先生は言われる。日本人の作法を逸脱するガイジンたちの行動を通して、私たちは外から自分たちの文化をながめ、その欠点に気がつくようになったのである。トイレは水洗になり、男女の別が常識になった。妻の前を威張って歩く夫の姿を見かけなくなり、レディーファーストが励行されるようになった。ひょっとしたら、日本人が世界の隅々に出かけていって多様な文化を肌で知り、自分が「変なガイジン」になった経験を通して、人間の作法を考えることになったのかもしれない。

一歩進んで、人間を超えて生きる作法にも目を向けて欲しいと山極先生は訴える。ゴリラの母性の強さとあっさりした子離れに感心した。派手な身振りでメスに求愛するオスも、決して強制的にメスを意のままにすることはない。そこには自然の作法とでもいうようなエチケットが存在する。これらを現代の暮らしの中で再検討することが、今求められている、と。

頚椎ヘルニアの疑い

先週は右肩の五十肩だけでなく、左肩が無茶苦茶痛かった。遠足で行ったUSJでも正直楽しむどころの騒ぎではなかったのだ。昨日、H城鍼灸院に行ってきた。院長先生は、私の問診を終えてから、肩と首をじっと見て、「急性の頚椎ヘルニアですねぇ。第六脊椎です。」と言った。レントゲンを撮ったわけでもないが、信頼できる「鍼の神様」の言うことなので、なるほど、と納得した。

その後、かなりの数の鍼が打たれた。特に、首の動脈のすぐ横のツボにも打たれた。下手に打つと、天井に届くほどの大出血となるらしい。(笑)さすが神様である。

この頚椎ヘルニア、すっと治ることもあるらしいが、下手をすると人生が狂うこともあるようだ。うーん。鍼灸院をでたら、とりあえず痛みは引いたのだけれど、またすぐ右肩が痛くなった。すぐには直らないらしい。整形外科に行ってレントゲンを撮っても、痛み止めをくれるだけらしいので、帰りに寄ったドラッグストアーで、痛み止めを買って飲むことにした。すると、嬉しいことに一気に痛みが引いたのだ。かなり胃腸が荒れるらしいけど、肩の痛みとはかりにかけると胃腸の痛みを私はとる。それくらい、この一週間痛かったのだった。ふー、やれやれであある。明日も夜に鍼灸院に足を運ぶ予定だ。

2014年5月24日土曜日

アルバニアのオイルライター

エレサレム在住の息子夫婦から、父の日・母の日のプレゼントが送られてきた。毎年ありがたいことである。今年は、先日旅したと言うアルバニアのオイル・ライターである。国旗をデザインした、いかにもというライター。オイルの瓶(プラスチックだが…。)も、黒いケース(これもプラスチックである。)いかにもと、いう感じ。息子夫婦のみやげ物のセンスはなかなかのものだ。(笑)

決して豊かではない留学生生活を送っているのだが、夫婦で力を合わせて頑張っているようだ。2人はともに筋金入りのバックパッカーである。きっと、コツコツと旅行資金を溜めていたのだろう。LCCを使えば、安価でバルカン半島まで足を伸ばせることができたようだ。おそらくは、かなりの貧乏旅行であったのではないか、と思う。アルバニアは、日本にいると、およそ旅行先として浮かばないトコロである。今年の元旦にエントリーした書評で、アルバニアについて書いたが、なかなか面白そうな国なのである。

私は、自分が生きてきた時代は今よりも幸せだと思っている。高度経済成長時代だったし、どんどん豊かに便利になってきた。今は全てが便利すぎるような気さえする。だが、一点だけ今の方がはるかにいいと思うのは、世界各地に容易に旅できるようになったことだ。学生時代、インドに行きたかったが、到底かなう夢ではなかった。妻との新婚旅行も中国の桂林に行きたかったが、ツアーで1人30万円以上。到底かなわなかった。そんなわけで、私が海外に出れたのは35歳の時だった。だから、息子夫婦の生き方には、大いに肯定的なのである。と、いうより、息子をバックパッカーに追い込んだのは、私たち夫婦なのである。(12年10月11日付ブログ参照)高2でアイルランド一人旅に行かせたのは、今でも間違いではなかったと思っている。私たちが出来なかったことを子供にして欲しいと思うのは、親というものの宿痾なのかもしれない。

2014年5月23日金曜日

五十肩 in The USJ

JAWSの後で
中間考査が終わり、今日は遠足である。今年は3学年全体で、USJに行ってきた。体育科担任のO先生の、「体育科の生徒は普段、練習や試合で休日もなく頑張っているので、たまにはゆっくり遊ばせたい。」という思いからである。普通科の我が4組などは女子の約半数が1年間有効のパスポートをもっていたりして、約10年ぶり2回目の私などよりよっぽどUSJについては詳しい。(笑)

今日の私の仕事は、卒業アルバムの遠足のページのために写真を撮り溜めしておくことだ。各クラスに写真屋さんからデジカメを配布してあるが、みんなクラスで動くわけではないのであまり多くを期待できない。そこで私の出番なのである。(笑)

とりあえず、普通科の運動部系男子集団についていった。「JAWS」にまず入ることになった。10年前に1度行ったとはいえ、私が入った事があるのは「ウォーター・ワールド」「タワーリング・インフェルノ」だけである。(笑)ただ、私の五十肩はあまりよくない。何かの拍子に変に力を入れると激痛が走り、悶絶する。「JAWS」のアトラクションは、なかなか刺激的であったが、五十肩は、なんとか乗り切れた。(笑)だが、次に向かった「ジェラシック・パーク」はどうも耐えれそうにない。ここで彼らと別れ、ぶらぶらしながら、生徒を見つけては写真を撮っていたのだった。
フラッシュ無しなら撮影OKだったロックショー
すると偶然、「ターミネーター」の開演間近に出くわした。まだ入場可能ということで、待ち時間なしで一人で入った。これがまた大いに刺激的で楽しいアトラクションだった。3Dにはかなり肩に力が入ったが…。またまた、ぶらぶらしながら、生徒の写真を撮っていた。最後に、これだけは見たいと思っていた「ユニバーサル・モンスター・ライブ・ロックンロールショー」に並んだ。文化祭の演出の参考になるかなと思ったのだ。久しぶりに、本格的なアメリカン・パフォーマンスを見せてもらった。世界を見渡すと、アメリカの功罪は多いが、こういう部門のアメリカの凄さには、いつも舌を巻く。

USJは、アメリカナイズされた見事な非日常的な空間だ。10年の間にさらに進化を遂げていた。100枚以上撮った生徒の写真の表情にも、その満足感が表れていた。卒業アルバムのいいページができると思う。

2014年5月22日木曜日

ボゴ・ハラム対策へ米兵派遣

毎日新聞の夕刊の報道によると、ナイジェリアの女子生徒捜索・救出のために米兵80人を隣国チャドに派遣したとのこと。
まずは、無人偵察機で情報収集するらしい。米議会やメディアからは、特殊部隊派遣を要請する声も強いとのこと。大軍を派遣するわけではないが、アメリカが大きく動き出したようにみえる。

昨日エントリーした内田樹・中田考の「一神教と国家」を読んでいると、イスラム原理主義がアメリカと敵対する理由がおぼろげながら判ってきた。

ボゴ・ハラムがそこまで認識しているのかはともかく、イスラムは、そもそもグローバルな存在なのだ。遊牧民的な伝統に裏打ちされたイスラムの人々は、シャリーアによって身体的に(反対に言えば内面以上に)助け合うことで生き延びてきた。オスマン帝国の解体後、欧州に植民地化され、国境が無理やり引かれた。欧米が作り上げた近代国家は、イスラムの対極にある。キリスト教的な個人主義から生まれた個人主義が民主主義と資本主義を発展させ、国民国家(=近代国家)となった。自己の富を、国家という規模で囲い込むシステムであるといえる。リヴァイアサンという偶像だと内田・中田は語り合い結論付ける。イスラム世界もも分割され、本来の構造を失い、国民国家化されてしまった。しかも、グローバル化というアメリカによるローカル化が進み、ますます格差が拡大しているという。イスラム原理主義がアメリカと対立するのは必定、というわけだ。

要約がすぎるかもしれないが、なるほど、そういう視点もあるな、と思う。

…ボゴ・ハラムのやっていることは、百歩譲っても暴挙である。ここで、威信を失いかけているアメリカが登場することも必要悪なのかもしれない。ただ、イスラム原理主義対アメリカの対立の構図がかなり見えてきた。中立的な立場で見ても、全面的にアメリカや欧米が正義だとは言い切れないと思うのだ。いままで構造的暴力という視点で見てきたが、イスラムやキリスト教の一神教理解と近代国家論の視点で見ることもあらためて重要だと思った次第。

2014年5月21日水曜日

内田樹・中田考「一神教と国家」

今日も毎日新聞の夕刊に、ボゴ・ハラムの犯行らしきナイジェリアでの爆破テロのニュースが載っていた。118人が死亡したらしい。さらに中央アフリカのキリスト教徒とイスラム教徒の対立から、少なくとも39人の子供が殺害され、153人が負傷、6000人以上が武装勢力に取り込まれた(ユニセフによる)と報じられていた。

少なくとも日本では、ますますイスラムの立場が悪くなっていくように感じる。私は仏教徒だが、教師として、地球市民としては、異文化理解を進めながら多文化共生を進める立場にある。これらの問題の全てが宗教対立ではなく、経済格差なども絡んだ構造的なものである、という前提のもとで異文化理解を進めるべきだと思っている。

内田樹と中田考(同志社大学の一神教センター元教授)の対談「一神教と国家」(集英社新書本年2月19日発行)を今、読んでいる。極めてタイムリーで、しかも示唆に富む内容である。

ここで中心的に語られているのは、グローバリゼーションと国家の問題である。このお二人の切り込み方は鋭い。まだ途中なので書評は避けるとして、イスラム原理主義=悪という概念にストップをかける必要がある、と感じてきた次第。今日も採点作業後で、両肩が痛むので、完読後に、この本の内容についてはエントリーしたいと思う。

2014年5月20日火曜日

今年も国際理解教育学会へ

おなじみの奈良教育大学
http://www.chinmasa.com/spot/
result29201/cate0108/detail5669/
先日、国際理解教育学会から6月の研究発表大会のプログラムが届いた。私の研究発表は予想どうり第2日目だった。同志社女子大、聖心女子大(東京)、京都橘大、埼玉大、広島経済大、そして今回の奈良教育大と、研究発表は6年連続となる。

正直なところ、発表したところで何の見返りもない。(笑)私は研究者でもない、ただのリタイア間近のフツーの高校教師でしかないからだ。だが、この研究発表は、現役の間は続けたいなと思っている。発表する場があるからこそ、新たな教育実践に挑戦をしようという意欲もわくわけで、(大乗仏教的に言えば)煩悩即菩提である。そういう愚直な実践者がいてもいいのではないかと思うわけだ。

今回のプログラムを見て、今年は教育現場の実践者の報告が少ないと感じた。1年目などは、同じ分科会にアフリカに関する実践報告が並んでいたりして、司会者に「アフリカ三部作」などと呼ばれ盛り上がったものだ。また2年目も、シュミレーションゲームに関する実践が並び、発表後に討論会となったりして大いに盛り上がった。ちなみに今年の私の発表は、「多文化共生」というテーマでくくられているようだ。

旧知の方々も、今回も頑張っておられる。同じ高校教諭のY先生、U先生。大学の教員になられたM先生。残念ながら、1日目のものもあり全部は聞くことは出来ない。と、いうのも、1日目の土曜日は、柔道部と弓道部のIH予選があって、是非とも応援に行きたいと考えているからだ。このところ、研究発表の日だけ参加という、極めて消極的な参加が続いている。埼玉・広島と弾丸ツアーだったこともあるけれど…。(笑)今回も、体調を考えて午後には帰ることになりそうだ。ま、それもしゃあないか。

2014年5月19日月曜日

生徒に肩を揉んで貰った日

中間考査が始まった。3年生は選択科目が多くて、1時限目こそ全員で英語の試験だったが、2限目以降はない生徒もいれば、2限目なしで3限目ありの生徒もいるといった非常に複雑な時間割になっている。こういう日だが、普通科5クラスの生徒は、進路用の写真撮影と卒業アルバム用の写真撮影を2限目以降4限目まで講堂で行った。私は、学年の卒業アルバムの係なので、試験監督を終えてから、ほぼずっと写真撮影の現場にいた。進路の写真の方は真面目に撮るのだが、卒業アルバムの方は笑顔の写真である。舞台側のこっちは、わいわいと盛り上がっていた。(笑)

ところで、右肩の五十肩はあいかわらず痛い。変な動かし方をしたら、ズキッと痛む。文字通りの悶絶である。さらに今日は左肩までパンパンに張って、無茶苦茶痛い。男子生徒が撮影に来ると、「すまんが肩揉んでくれんかなあ。」と頼むはめになった。およそ20人ほどの生徒に入れ替わり立ち代り揉んでもらった。これで、やっと楽になった次第。持つべきものは良き生徒である。

放課後、またまた痛くなって、ついに早めに帰宅し、湿布を張ったのだった。うーん。でもまだ痛い。疲れが溜まっているのかなあ。

2014年5月18日日曜日

バラナシの日独枢軸?

バラナシの屋上を望む
http://www.imnothome.com/gallery/
「世界一周デート」(吉田友和・松岡絵里著/幻冬舎文庫)のアジア編を読んでいて、わかるわかると大笑いした部分がある。インドのバラナシ(ベナレス)での話である。バラナシの様子については、沢木耕太郎の深夜特急をはじめ、様々なバックパッカー本で読んでいるので、なんかもう行った気になるほどなのだが、今回の話は新鮮なエピソードだった。バナラシの安宿の屋上で、少しばかり体調を崩した著者が読書にいそしむ話が出てくる。この屋上では夜に各国の旅行者が集まってパーティーをしたりする。隣のビルの屋上にハシゴを渡して行ったりするところは、さすが全てが混沌(カオス)のバナラシである。(笑)

面白かったのはここからだ。著者が参加したパーティーは、地元のインド人、フランス人、ドイツ人、ロシア人…。ちょっと引用してみよう。

すっかり出来上がってはしゃいでいるフランス人、インド人、イスラエル人。ドイツ人と日本人の私は、とりあえず散らかっているお皿を集めては洗ったりして、「私たちは律儀で損な国民性だねえ」なんて話していた。

…そうなのだ。日本とドイツの国民性には、大きな共通点がある。これまで海外で何度となく、ドイツとの共通点を見出してきた。アメリカのメリーランド州・ボルティモア。ここには他民族の移民街が多くあって、バス移動の際、その相違を現地の日本人ガイドさんが解説してくれた。やはりドイツ人街は圧倒的に清潔なのだ。南アのヨハネスブルグの空港で、ルフトハンザに乗るドイツ人が、搭乗口から直角に曲がり、さらに直線で100m以上直線状に整列して待っていた。しかも30分前に、である。ウェールズ人の青年に聞いたら、ドイツ人は、いつもこういう感じだという話だった。うーん。日本人以上に律儀で几帳面かもしれない。最後の極めつけは、イスラエルでの話だ。

死海から帰るバスが故障して、砂漠で立ち往生した時のことだ。無線で運転手が連絡を取っているのだが、結局後ろから来るバスに次々乗っていく羽目になった。我々日本人の感覚からは、砂漠に取り残されているのだし、老人や女性からと、まず考える。ところが、そういう感覚はなく、どんどん我先に乗っていく人が多い。結局、若いバックパッカー集団(彼らはこういうトラブルを楽しんでいて、カードゲームをやりだした。笑)と、ドイツ人カップルと私・妻・嫁さんの日本人家族が残されたのだった。ドイツ人カップルは、先の大戦の件での遠慮もあるのか、なかなか乗らなかった。次に来たバスは、3人が限界だった。故障したバスの運転手は「ジャパニーズ、君たちが乗れ。」と言った。ドイツ人カップルに、「お先に。」と言って乗ったのだが、さも当然という感じの謙虚さだった。うーん、なんとなく同類の連帯感。

ドイツは領邦国家で長く統一が遅れた。ちょうど日本が廃藩置県する頃と同じ。以後、保護貿易体制を取り、英仏に追いつき追い越そうと勤勉に努力を重ねる。その辺も似ている。プロテスタントといってもルーテル派が多い。だからカルヴァン派的な個人主義=民主主義=資本主義という英仏の近代の方程式ではなく、まず国民国家化を目指したのも似ている。この辺は、比較文化論の興味深いテーマだ。

律儀な国民性の日独枢軸。この分野では、イタリアは異質で枢軸たりえない。(笑)私の出合ったイタリア人は、ブルキナの空港でエールフランスに搭乗する列の前にいたカップル。私の着ていたユネスコのサッカーのユニフォームを見て「俺たち、イタリア人だ。それ、いいね。」と自己紹介した後、すぐに堂々と長い~キスをするような奴らだったぞ。(笑)

2014年5月17日土曜日

毎日 スーダンからの衝撃

http://www.tamilnetonline.com/petition-
to-pm-amnesty-in-support-of-eelam-tamils/
さきほど毎日新聞朝刊を読んで衝撃を受けた。「キリスト教改宗、死刑判決」ハルツームの裁判所が15日、キリスト教徒の男性と結婚した妊娠中の女性に対し、異教徒との性的交渉をもった故に、むちうち百回の刑と、(結婚による)イスラム教からキリスト教への改宗が「背教の罪」にあたるとして死刑判決を言い渡したという。

スーダンは1983年以降シャリーア(イスラム法)による統治が行われており、こういう裁定が下されたらしい。この女性は、そもそもイスラム教徒の父、エチオピア出身のキリスト教徒の母との間に生まれた。幼児期に父と離れ、母にキリスト教徒として育てられたとも伝えられている。

当然のように、アムネスティ・インターナショナルは非難声明を出しているという。(画像はアムネスティ・インターナショナルのロゴの1つ。)

…シャリーアで統治するということは、現代ではこういうカタチになるのだろうと思う。ボゴ・ハラムの女子生徒集団拉致事件とともに私は大きな衝撃を受けた。イスラムの「神の決めた絶対的な法」という概念と、キリスト教という「神の法」をもたない「人が決めた法=人権」のぶつかり合いである。おそらく両者の正義は平行線である。衝撃を受けた多神教的な風土に住む私は、沈黙を守るしかないのだろうか。

…このところ、世界が先鋭化しているように思う。冷戦時の構造が完全に崩れ、極めてスキゾな世界になっていることだけは間違いない。

http://mainichi.jp/select/news/20140517k0000m030038000c.html

団Tシャツの杞憂

http://www.shiki.jp/navi/news/renewinfo/024015.html
本校の団活動では、毎回団の色をベースにしたTシャツをつくる。体育祭の時に着用する、まあユニフォームだ。3年生としては、そのデザインなど全てをまかされる。昨日の金曜日が、団メンバー全員のサイズや色指定(緑色でも何種類かある。)の締切日だった。木曜日の放課後に、特別活動部から、3年生の担任団に、2クラスしか提出されていないと連絡があった。我が4組もまだだった。Tシャツの担当者は、責任感のある子なので大丈夫だと思ったのだが、ふと不安がよぎった。1・2年生のサイズ表(クラスの名簿にサイズをそれぞれ書き込むことになっている。)が、まだ完成していないのではないか、という不安である。特に、1年生には長欠生徒がいて、その対応に困っているのではないか?

こういう運営上の締め切り厳守は(日本と言う極めて効率性を重視する社会では)重要な教育活動だと、私は思っている。さて、うちの生徒がサイズ表の催促をしに、1・2年生を回るとして金曜日は少し特殊な日なのだ。1・2年生は、武道科と体育科である。5・6限は専攻実技という授業で、各人の専攻する柔道とか野球とかいった実質上クラブ活動の授業なのである。終礼のSHRなしという場合も多い。

出勤後、私は1・2年生の時間割を調べてみた。2年生など朝のSHRを逃すと4時間目の数学だけが、全員にアピールできる時間だということがわかった。これは、SHRで「どうなっている?」と聞いていては間に合わないかもしれない。そこで、まだ誰も来ていない教室の黒板に、1・2年生の時間割も含め指示を書いておいた。「SHRに遅れてもいいから対応せよ。」

すると、職員朝礼の5分前に、担当者が職員室に走ってきた。どうやら、あと提出だけだったらしい。「なーんや。」私の心配は杞憂に終わったのだった。だが、多くの生徒は、私の黒板に書いた指示を見たはずだ。物事を進めるということは、緻密な作業だ。勝利からの逆算が必要である。締め切りに間に合わせるために、どれだけ多くのことを思索し実行する必要があるか。それを教えたかったのだ。

さすが3年生。これまでの経験でちゃんとやってくれていたし、私の意図するところを充分に汲んでくれていたと思う。担当者の顔にちゃんと書いていたのだ。「ご心配、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ~ん。」(笑)

2014年5月15日木曜日

「世界一周デート」を読みながら

先日なんとなく本屋に行ったら、「世界一周デート」(吉田友和・松岡絵里著/幻冬舎文庫)という本を見つけた。久しぶりにこういうバックパッカー本を気楽に読むのもいいな、と思い買い求めた。ところが、この新刊文庫は後編だったのだ。調べてみたら上巻は「怒涛のアジア・アフリカ編」とあるではないか。アジア編ならまあ読まなくともいいと思うのが、アフリカ編が入っているとなると、絶対読まねば、というわけでアマゾンで注文したのだった。(笑)

今日から通勤電車で読み出したのだが、なかなか面白い。著者の吉田友和氏が始めての海外旅行ということで、タイの入国カードに戸惑う話が出てくる。今でこそ、私も別段どういうことでもないのだが、そういえば最初の頃は緊張したものだ。記入事項が間違っていたら入国できないのではないかとか、やたらチキンハートになってしまうよなあ、わかるわかる、と思う。

私の最初の入国カード記入はアメリカ行きだった。しかしながら、大阪市教育委員会主催のの出張研修旅行だったので、VIP扱い。関空の会議室のようなところで、当時まだあった出国カードと、入国カードをJTBのスタッフに囲まれながら記入したのであった。今では考えられないが…。まさに大名旅行だった。

ひとり旅ではそうはいかない。ニューヨーク行きの時は、聖書をひたすら読んでいたフィリピーナの横で、辞書(英和と和英がいっしょになった小さめの「本」の辞書である。)を見ながら、慎重に記入した思い出がある。それ以後は、まあ慣れて問題はなかった。…ところが、である。

最も四苦八苦したのが、パリからブルキナファソのワガドゥグに入った時である。エールフランスのそれは、完全フランス語だったのだ。いや、無茶苦茶小さな文字で英語があったかもしれない。ともかく、かなり苦労した思い出がある。帰路は、私とIさんがビールを飲んでいる間に、文化人類学者の荒熊さんがカードを書いてくれた。(ます、チェックインをすませてから屋台の飲み屋で見送りパーティーを開いていただいたのだ。)ありがたかった。あの時は、フランス語の辞書など持ち合わせていなかったし、そもそもフランス語忌避症にかかっていたし…。だいたいが、ブルキナから飛行機にのるような人間で、フランス語が出来ない奴など想定されていないのだった。(笑)

フランスの中華思想バリバリ。それがエールフランスだ。二度と乗るか、と悪態をついて、今日のエントリーを終えたい。

2014年5月14日水曜日

”WICKED” その2 友情

我が4組の団活動の方は、体育祭のダンスを中心に着実に進んでいる。担任としては、大いに満足している。文化祭の舞台の方も、同時に進めなくてはならない。ちょうど今日は、PTAの行事が午後に予定されていて、教師は15:00くらいからPTAとの会議があるが、生徒は半ドン(週休二日制になって死語になりつつあるコトバだ。)だった。で、今日は舞台のシナリオを書く予定の男子を中心にミーティングを開くことにした。朝のSHRで紙を配り、いろいろなアイディアやキャスティングへの希望などを全員に書いてもらい、リーダーに渡すよう指示しておいた。

放課後、まず皆の意見を集約してから、いろいろと話をした。さすがリーダーというより「責任者」である。ミュージカル・WICKEDの内容については熟知していた。私自身、よく知らなかったので、授業のない空時間にウィキのページを印刷して、何度も読んだ。あらすじを理解するのにだいぶかかった。

ごく簡単にWICEDの内容をまとめると、次のようになる。
「OZの魔法使い」でドロシーが竜巻でやって来た時、偶然悪い魔女がその下敷きになる。それが、この物語の主人公、緑色の顔をした魔女である。正しい魔女の導きで、OZに向かうことになるのだが、この正しい魔女と緑の悪い魔女は実は友人関係にあった。
ともに学ぶことになった魔法の学校で、最初2人の仲は決してよくなかった。だが、あるきっかけを通じて2人は友人となる。ここに、名家の出の男性が登場。実は、後に三角関係になる。魔法の実力を認められた緑の魔女は、OZへ向かうことになり、正しい魔女もついていく。OZの魔法使いは、実は魔法が使えず、緑の魔女を利用しようと図り、ひと悶着ある。OZの未来のために、結局緑の魔女は悪名を残して消え、正しい魔女が「正しい」という名誉を受けて残ることになる。だが、大どんでん返し。緑の悪い魔女は生きていて、正しい魔女がぞっこんだった名家の男性と、こっそりOZを立ち去るのだった。

このミュージカルの基本ポリシーは、差別問題と「正義」にある。緑の顔で差別される姿は、アメリカに根強い差別を表しているようだ。一方、悪い魔女と正しい魔女という、表面的な「正義」への疑念が示されている。何が「正義」なのか。結局大どんでん返しで、ハッピーエンドなのは悪い魔女であったりする。

彼らは、こうしたWICKEDの深い理解の上で、さて25分と言う短い舞台のスパンで、何を表現するか議論になった。なかなかたいしたもんだ。このWICKEDをやろうとリーダーシップをとった女子生徒のN君も参加してくれて、喧々諤々の議論となった。結局、差別を乗り越えた「友情」を基本ポリシーとして、回想シーンを挿入しながら、オリジナル化していくということになった。その上で、いろいろなコンセプトも提示されたのだった。

で、とりあえず、演技構成案を組んでいけるところまで話が進んだのだった。終了後、シナリオ組の男子3人は、ニコニコしていた。「今日で一気に進んだ気がします。」

…うん。私もそう思う。後は、彼らに「遠心力」で接したい。

ボゴハラムVTRへの違和感

ナイジェリアのボゴ・ハラムの女子生徒拉致事件で、リーダーと称するが男の映像が何度も流れた。いわゆる「ドヤ顔」で、語る姿に怒りがこみ上げたのは私だけではあるまい。一方で、明らかに無理やりムスリムの姿をさせられた女子生徒たちの姿も流された。異様な印象を受ける。

私は、イスラムの人々と様々なところで接してきたが、決して違和感はない。礼拝を知らせるアザーンの響きも好きだ。イスラムの人々は親切な人が多いし、もちろん怖そうな人もいるが、それは日本だって同じだ。単純に、ボゴ・ハラムの映像を見て、全世界的にイスラム=悪と見られることには強く反対したい。

妻は、私同様、市井の宗教学の徒の一人である。ボソッと「イスラムの人々が、この暴挙をどう見ているのか、知りたいねえ。」とつぶやいた。私は、宗教学の徒であると同時に、アフリカを中心とした開発経済学を学んでいるので、うーんと唸る。全世界的な構造的暴力の中で、イスラムの人々が置かれている立場は、われわれ先進国日本に住む多神教的な風土に生きる立場とは、明らかに異なる。たしかに私も、イスラムの側からの声を聞いてみたいと思う。だが、欧米など先進国のキリスト教的風土に生きる人々とは、かなり違うものになっているような気がする。

ボゴ・ハラムのVTRを身ながら、そんなことを考えていたのだった。

2014年5月13日火曜日

佐藤優「外務省に告ぐ」を読む

新潮文庫の佐藤優の新刊「外務省に告ぐ」を手に入れた。まだまだ途中なのだけれど、ちょっとエントリーしておきたい。示唆に富む文章が、もうすでにいくつかあったのだ。

ロシアはソ連と異なり、共産主義に基づく世界革命の野望はもっていない。ただし、ロシアは帝国主義国だ。まず、相手国の立場を考えずに自国の要求を、最大限に表明する。これに対して相手国がひるみ、国際社会も沈黙するならば、ロシアはそのまま権益を拡大する。相手国が激しく反発し、国際社会からも顰蹙を買い、結果としてロシアの国益が毀損されるような状況の時にだけ、妥協し、国際協調に転じる。

…外務官僚にはこのロシアが帝国主義国であるという本質が見えていない、という佐藤優の指摘の部分である。帝国主義国というものを見事に描いている文章だ、と私は思う。中国も、そしてアメリカも、英仏も、あてはまるなあと、率直に思ってしまう次第。日本も同じと言われたくないトコロだ。

北コーカサス地方のチェチェン共和国などのムスリムは、本来シャフィーイー派が多いのだが、19世紀、ロシア帝国の支配を潔しとせず、オスマントルコ帝国に亡命した。ロシアに住むチェチェン人は110万人だが、トルコに200万人、アラブ諸国に150万人のチェチェン人末裔が住むと言われる。中東に住む彼らは、ワッハーブ派が多い。ここで、佐藤優は正確さをきす為に平凡社の世界大百科事典をひいて、ワッハーブ派について引用している。その上で、ロシアの事情を改めて平たく説明している。

…ワッハーブ派といえば、サウジアラビアの国教であり、シャリーア(イスラム法)に厳密に従うという理解を私はしていたのだが、佐藤優の説明では、コーランとハディース(ムハンマドの伝承集)の権威しか認めず、聖人や墓の崇拝(シャフィーイ派は崇拝する。)を激しく忌避するグループだということになる。アルカイダもワッハーブ派である。彼らによると、地上には1人のカリフによって支配される単一のイスラム帝国が建設されるべきだということになる。

1994年、民族独立戦争の性格が強い第一次チェチェン戦争が始まった。この時、中東のチェチェン人(ワッハーブ派)が流入してきた。96年停戦、その後、民族主義者(シャフィーイ派)とイスラム帝国建設を目指す中東のワッハーブ派義勇兵との間で内乱が起き、中東やアフガンの原理主義過激派から支援を受けたワッハーブ派が主導権を握る。これを99年プーチンが叩き潰そうとした。これが第二次チェチェン戦争。今は、ロシアにとって、民族主義者のチェチェン人(シャフィーイ派)は味方だということになっている。ロシアにとって悪いイスラム教徒は、イスラム帝国建設をもくろむワッハーブ派であるわけだ。なるほど。佐藤優の説明はわかりやすい。

2014年5月11日日曜日

沢木耕太郎ポーカー・フェースⅡ

沢木耕太郎の「ポーカー・フェース」を先日読み終えた。期待通りの素晴らしいエッセイだった。「あやとり」の糸が、どんどん形を変え、最後にそれぞれのエッセイの「タイトル」に帰着していく。まったくもって素晴らしい作品群だ。

最後に『沖ゆく船を見送って』という作品がある。次に書く内容は沢木耕太郎が引用している部分なので、これから作品を読む方にも期待をいだかせるだけだと思うので、ちょっとエントリーしておきたい。シーナ・アイエンガーの『選択の科学』という本からの引用である。

細長いガラス瓶にラットを一匹ずつ入れて水で満たし、泳ぐか溺れるかしかないという状況を作り出す。すると体力的には同じはずのラットが、固体によって、わずか15分で諦めるようにして溺れてしまうものと、60時間も泳ぎ続けてからようやく溺れるものとに別れた。その差はどうして生まれたのか?
次に、全てのラットを捕まえては水噴射を浴びせ、そこから助け上げてはケージに戻すということを繰り返した。すると、今度は水で満たされたガラス瓶の中に入れられても、15分で諦めるような行動を取るラットが一匹もいなくなり、すべてが力の限り泳ぎ続けるようになったという。それは、ラットでさえ、困難を切り抜けた経験を持つと、自分の力で状況をなんとかしようという「意思」が生まれることを意味しているというのだ。<私たちが「選択」と呼んでいるものは、自分自身や、自分の置かれた環境を、自分の力で変える能力のことだ。選択するためには、まず「自分の力で変えられる」という認識を持たなくてはならない。例の実験のラットが、疲労が募るなか、これといって逃れる方法もないのに泳ぎ続けたのは、必死の努力を通じて手に入れた(と信じていた)自由を、前に味わっていたからこそだ。>(櫻井裕子訳)

沢木は、ここからどのような教訓を見出すかは自由だが…として、ある視点をしめしている。私はこんなことを考えた。ピラミッドを作るのに、底辺をつくることが重要か、天辺をつくることが重要かということである。私は天辺だと思っている。

実は私は高校時は、校外で野外活動のサークルに入っていた。高校生としては、アホほどキャンプファイヤーの経験を積んだ。教師になり、赴任した商業高校では、生徒会やクラスのリーダー育成のためのキャンプを実施していた。その指導を意気に感じて全力でやっていた。私の指導するキャンプファイヤーは、かなり完成度の高いものであった。そこまでやるか、というほど練習を生徒に課した。先輩からは、もっと生徒の自主性を重んじてはどうか?と言われたことがある。若輩としては、大いに憤慨したものだ。最高のものを生徒に経験させてから、自主性を生かして自分たちのものをつくらないと、いいものはできない。と私は主張した。要するに、ピラミッドの天辺をつくり、そのあと底辺をつくるべきだ、と言ったのだ。安易に放り出して、自主性の名の下に、出来たものが悪くても納得することは誰でも出来る、今でも私はそう思っている。

2014年5月10日土曜日

日経 春秋 小保方さんの福音

https://www.youtube.com/watch?v=0fJaSs3uVC0
このところ、日経の「春秋」のファンになった。昨朝の春秋も面白かった。要約すると、こんな話だ。

ウクライナの理論物理学者ガモフの逸話。教会でもらったパンとワインを口に含んだまま、飛んで帰って、家の顕微鏡で見たが、肉にはならなかった。「この実験が私を科学者にした。」と彼は言った。ガモフ少年は、教会でいただくパンとワインはキリストの肉となる、という福音を科学的に実証しようとしたわけだ。
ところで、理化学研究所と小保方さんの論文をめぐる対立は訴訟に発展しそうだ。「STAP細胞はあります」「200回以上作製に成功しています」という小保方さんの言葉は、人の耳にだけ残って今も宙に浮いている。科学者の発言なのに、証明できていない。これではパンが肉になる、という話と区別がつかない。

…このSTAP細胞の話、完全文系の私など、全くよくわからない.。とにかく、手のひらを返したような理化学研究所と騒ぎ立てているマスコミになんとなく不信感を抱いているのだが、私は、これを読んで、思わずにんまりとしてしまったのだった。

2014年5月9日金曜日

ナイジェリア拉致事件 考

ボゴ・ハラムの関連地図
http://globalsolutionspgh.org
/2013/05/boko-haram-and-
the-fight-for-nigerias-north/
今日は、朝から隣のクラスになった元2年5組のI君(女子生徒だ。)が、早々と教室の鍵を取りにきた。体育祭のためのダンスの練習をするのだという。我が4組でも昼休みにクラス全員で次の振り付けを練習していたことが終わりのSHRに行ってわかった。掃除の後、ダンスの中心メンバーが、さらに2曲目のダンスの振り付けをシェアしていた。我がクラスの振り付け師N君(女子生徒だ。)を中心にガンガン進められている。すでにフォーメーションも考えてあるようだ。踊っている生徒たちを見ていると、ああ幸せそうだな、青春を謳歌してるな、と実感する。

それに対して、ナイジェリアでは…。
そう考えると胸が痛い。ボゴ・ハラムの女子生徒拉致事件。今日の毎日新聞朝刊には、ロンドンで、マララさん(パキスタンで原理主義者に襲撃された女子高生だ。)が、ナイジェリアの女子生徒を姉妹と呼び、世界にこう呼びかけたとある。「同じことが起きないようにするには声を上げることが必要だ。私たちが黙っていたら、こうしたことが拡散して、次々に発生するだろう。」「イスラム教は信者に教育を受けさせることの義務や他者への寛容を説いている。」「(ボゴハラムは)イスラムの教えを理解していない過激集団だ。」

一方、イギリスのキャメロン首相は議会で「(拉致は)悪魔の行為」と厳しく批判、ナイジェリアの治安部隊による救出作戦を支援するため専門家グループを派遣すると発表した。マリや中央アフリカに軍事介入しているフランスの外相は、国民議会(下院)で「救出するために現地周辺の仏軍戦力を利用し、特殊部隊を展開する準備が整った。」と述べた。これで、アメリカと英仏が救出支援に動き出したということになる。

一方、AP通信によると、ボゴ・ハラムがカメルーンとの国境の町で市場を襲撃300人ほどの死者が出たという。

鉄(武器)と血(兵士)で、ボゴ・ハラムに制裁を加え、拉致された女子生徒を取り戻すしかないのだろうか。現実的には、必要悪なのかもしれぬ。だが、その鉄と血の連鎖が新たな遺恨を生むことは間違いない。

とにかく、今は、マララさんのように、声を上げることから始めたい。人間は、ムスリムも、キリスト教徒もブディストも、そしてすべての地球にする人々は、悪意より善意のほうが上まわっている。誰しも幸せを求めている。そして、今や全ての地球に住む人間はなにかしら繋がっている。自分の幸せを求めるなら、他者の幸せを踏み台にしてはならない。それだけは少なくとも合意できるのではないか。

2014年5月8日木曜日

日経 春秋 ポリオ緊急事態宣言

http://www.jomf.or.jp/include/disp_text.html?type=n100&file=2011010105
日経の今朝の朝刊・春秋にポリオの話が出ていた。以下はその要旨である。

安保デモで騒然としていた1960年はポリオ大流行の年で、5000人が感染、300人が亡くなった。翌年、当時の厚相が決断し、冷戦下のソ連から生ワクチンを1300万人分を緊急輸入し、患者は減少した。80年を最後に日本はポリオ患者は出ていない。WHOは先日パキスタンやシリアなどでのポリオ感染拡大を受けて、緊急事態宣言を出した。背景には、甚だしい貧困、戦争、内乱。国際社会の力を集めて挑まねばならない。09年、世界の半数を占めていたインドは数年で制圧した。危機は克服できるのだ。

…日経の春秋の筆者は、当然ながら、このポリオがナイジェリアの固有種で、ボゴ・ハラムのイスラム原理主義者がシリアやパキスタンに進出したことで拡大しているという、恐ろしい事実をご存じないらしい。先日の京大の公開講座(3月29日付ブログ参照)で私も知り、驚愕したのだが、なんとも悲しすぎる事実である。春秋の指摘は当たっている。さらにその底に深い闇があるということだ。

…ずっとナイジェリアの少女たちの安否を気にしている。ウクライナも大変だが、また南シナ海も大変だが、私には彼女たちのことが気になる。私が同年代の女子高校生と常に接しているからだと思う。あまりに不条理である。その加害者であるイスラム原理主義者たちもポリオに犯されている被害者で、それをさらに世界の最貧困地域に撒き散らしている加害者でもあるわけだ。悲しすぎる構造的暴力である。西側の人権団体も、その事実を知るべきだ。結局のところ、貧困の撲滅しかないのである。地球市民として、そんなことを考えている。

2014年5月7日水曜日

アフリカの原理主義の暴走

マララさんのナイジェリアの少女拉致へのメッセージ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140507/k10014270881000.html
ケニアでのイスラム原理主義の報復が止まらない。報道によると、3日モンバサで、市中心部でナイロビから到着した混雑したバスに手榴弾が投げ込ま18人が死傷した。さらに翌日、ナイロビでも高速道路を走行中のバス2台で爆破テロが起こり、65人以上が死傷したという。ソマリアに本拠をおくアルシャバブ系のテロだと言われている。

さらに、ナイジェリアのイスラム原理主義、ボコ・ハラムが、大変な事件を起こした。キリスト教系の学校を襲い、女子生徒を多数拉致したのだ。これはさらに大きな衝撃を世界に与えた。彼女たちを売り飛ばすという声明を発表したのである。

サブ・サハラ=アフリカで南アを抜いて、GDP1位になり注目が集まる経済大国ナイジェリアだが、政府のガバナンスは極めて脆弱なことを露呈した。世界中からも非難が集まっている。当然のことだと思われる。

アメリカは救出に向けた専門家チームを派遣するという。このまま、アフリカのイスラム原理主義者たちが暴走を続けることを、世界が許すことになれば、冷戦後の混迷はさらに増すことになる。これは、フツーのイスラムの人々も同じ思いではないかと私は思う。アッラーがこのような暴走を是とするとは決して思わない。

それにつけても、一神教の世界は我々にとって理解することが難しい。白黒があまりにはっきりしていて、対立が対立を呼ぶ世界である。構造的暴力を確立した欧米側も正義だとは言えない部分もあるが、今回の事件、あまりに痛ましすぎる。これが、神の描いたシナリオだというのだろうか。

2014年5月6日火曜日

♪ ハチドリよ、ブンブン飛べ

昨日の春一番(昨日のブログ参照)で体調を崩してしまった。昨日の衝撃がまだ残っている。H氏から、わざわざ「アチャコ」について電話があった。H氏もかなりの衝撃だったようだ。(笑)我が妻も「♪無茶苦茶でっせ、無茶でっせ、ホラ、チッチッチ。」とアチャコ音頭を口ずさんでいる。(笑)

夕方、針治療を受けながら、ふと豊田勇造氏のライブで「大文字」を歌っていた時のことを思い出した。大文字の歌詞に、「♪ハリドリよ、ブンブン飛べ」というのがある。そこで、豊田勇造氏は、自分のハミングバードを高く掲げたのだ。ギブソン・ハミングバード。ギブソン社のアコースティック・ギターの名器だ。ハミングバードは、日本語に訳すとハチドリとなる。ピックガードの部分にハチドリが彫られているのだ。

何度も何度も聞いた「大文字」だが、やっと意味がわかったのだった。この大文字という曲は、ライブで盛り上がらず、焦っている自分を歌ったものだ。男の背中で大の字に山が燃えている。その火が消える前に、もういっぺん盛り上げなければ…という焦り。で、「♪ハリドリよ、ブンブン飛べ」とは、自分のギター・ストロークを歌っているのだった。大好きな歌の実に初歩的な歌詞の意味を今まで知らなかったのは恥ずかしい。

<豊田勇造 大文字のYouTube画像>
https://www.youtube.com/watch?v=yUNhHjVMLGU

2014年5月5日月曜日

雨中 春一番2014に行く。

春一番2014の第3日目に、妻と親友のH氏と3人で行って来た。私のお目当ては豊田勇造。妻は金子マリ。H氏は石田長生である。11:00開始12時間のライブで、出演順はわからない。だから、最初からお目当ての演者を待つしかない。(笑)ところで、今日は朝から雨であった。スーパー晴れ男&晴れ女の我が夫婦なのだが、きっとH氏がウルトラ雨男なのだということにしておこう。

会場は傘の使用禁止である。伝説の存在である主催者の福岡風太さんからのコトバである。だから、下手の前の方、若干屋根のある場所で、ゴミ袋を肩に、タオルを頭にしてコンサートを楽しんだわけだ。妻はレインコートを持ってきていたけど、私とH氏の分はなかったのだ。雨に濡れて…寒い。(笑)

なんと、豊田勇造がトップに出てきた。しかも「大文字」を最後にやってくれた。「♪さあもういっぺん、さあもういっぺん、火の消える前に」と観客と大合唱だった。私は大感激だ。これを聞きにやってきたからだ。しかも、その後、豊田勇造氏ご本人と握手できたのだ。それは、その30分後になんと金子マリが出てきたからだ。すぐ妻とH氏は、ステージ前に飛んでいった。(前で踊るためである。)そんなわけで我々の周囲が空席になり、豊田勇造が私の前に座ったのだった。彼も金子マリのステージを見に来たのだ。金子マリのステージは熱かった。凄いオーラだった。その終了後、私は彼に声をかけたのだ。「大文字を聞きに今日は来ました。」というと、豊田勇造氏から満面の笑みで握手を求めてきたのだった。H氏も戻ってきて、3人で少し話をした。いやあ、こんなことになるとは。…いいな春一番。

春一番は、ロングステージであるし、みんなビール片手に、好きな演者の時は前に出て踊る。ステージとのやり取りも、野外ならではである。私と妻のお目当ては早々と登場した。後は、H氏の石田長生である。なんと、さらに30分後に登場した。金子マリの時もそうだったが、皆ええっー、早やっという感じである。石田長生のステージも、素晴らしかった。ギターが凄い。上手い人がどんどん出てくるのだが、やはり違うのだ。しかも、「アフリカの月」を歌ってくれた。嬉しすぎるぞ。

雨だが、大満足である。もう帰っても悔いはない。寒いし、頭がガンガンしてきた。とはいえ、もう少し、ここにいたい。神戸の同年代のおっちゃん2人から日本酒まで振舞われたし…。すると、神戸のおっちゃんが叫んだ。「アチャコさんだ。」彼らは、ステージ前に走っていった。「?」風船で飾り付けた奇妙なオッサンが登場。反体制的なコミカルソングを、これまた音楽的に凄いバンドをバックに歌いまくる。これには、豊田勇造も金子マリも石田長生も、ぶっ飛んだ。それくらいインパクトが強かったのだ。

うむ。アチャコで3人ともお腹いっぱいになったぞ。と、いうわけで早めに帰宅し、風邪薬を飲んで、熱ーい風呂に入ったのだった。

最後に、豊田勇造さん、ありがとう。ほんと、雨の中、行ってよかったです。

2014年5月4日日曜日

沢木耕太郎「ポーカー・フェース」

新聞の広告欄で、沢木耕太郎のエッセイの文庫本が出たことを知って、すぐ買い求めた。帯には、「バーボン・ストリート」「チェーン・スモーキング」に連なる必読の傑作エッセイ集!とある。この2冊のエッセイ集も私は大好きだ。一刻も早く読まねばならない。

何度か書いているが、私は沢木耕太郎の大ファンである。何より文章が読みやすい。そして、素材も構成も素晴らしい。このブログでもエッセイ風の文章を書くことがあるが、常に沢木耕太郎のような文章を意識している。

最初のエッセイでは、沢木耕太郎が中国で初体験の盗難に合う話から始まる。エッセイの内容に深く踏み込むのは無粋なので、私も海外での初体験の盗難について書こうかと思う。

私も、沢木耕太郎と同じく、一度だけ盗難にあったことがある。ちょっと凄い場所だ。ニューヨークの国連本部である。国連本部のツアーが終わり、スーベニア・ショップに立ち寄った。国連本部と言えど、商業主義の総本家・アメリカである。様々な国連グッズが売られている。あれもこれもと、$30くらいの買い物をしただろうか。その後、ふと思い出した。ここ国連本部には独自の郵便局があって、国連が発行する切手が唯一通用する場所である。記念にと、自宅の妻宛に送っておこうかと思い立ったのだ。で、郵便局に寄り、葉書を書いていたのである、グッズの入ったブラスチック・バック(要するにビニール袋だ。)を横において書き、すぐ近くのポストに入れにいった。その間20秒ほど。その間に、プラスチック・バックが消えたのだ。

仕方なく、もういちどグッズを買い求めたのだけれど、なんとも後味の悪い話だった。だが、失くして大きな後悔が残るものではなかった。貴重品ではないし、取り溜めたフィルムでもないし、その場で買い直せばいいだけのことだった。その辺、私も沢木耕太郎と同様、すぐ気を取り直した。海外での貴重な時間をうじうじと後悔するようなことに使いたくないし、常にポジティブな思考で乗り切った。この経験が、さらに海外での行動に役立った。$30は、そのための投資のようなものだった。

信じがたい話だが、中国であるにもかかわらず、沢木耕太郎のバックパックは後に帰ってくる。自分の勘違いで置き場所を間違えてしまったかもしれないと彼は考えるのだ。(ここまでなら内容をバラしてもゆるされるかなと思う。)実は、この箇所を読んで、もうひとつ思い出したことがある。

カリフォルニア州サンディエゴで、あるビルの駐車場にレンタカーを停めた。戻ってみると、いくら探してもレンタカーがない。冷や汗などというものではなかった。駐車券を見て、違うビルの駐車場だとわかったときは、全身の力が抜けたのだった。

この経験から、一人旅で無理をすると、つい、こういうミスをするということを学んだ。自分一人でどれぐらい出来るかの限界点を知ることになった。以後、疲れたなあと思うと、旅のギアを下げ、できるだけ休むことににしている。

生徒たちに、海外の話をよくする私だが、この辺の恥ずかしい失敗談は「ポーカー・フェース」を決め込んで、語ることはまずない。(笑)

2014年5月3日土曜日

野球部 春季大会を応援に行く2

29日が雨だったので、今日が野球部の春季大会・3回戦である。前からこの日は、近くにある私立高校の野球グランドに応援に行く予定をしていたので、場所は違うが行って来た。その場所が面白い。違う私立高校のグランドだが、ちょうど私の自宅の裏側の山の向こうにあるのだ。バイクでいけるところがありがたい。

相手は府立のO高校。有名な進学校である。公立高校の雄である本校野球部としては、前回同様一蹴するはずだった。が、そうはいかなかったのだ。何度も四球がらみで、満塁になるのだが攻めあぐねて得点できない。やっと2点入ったと思ったら同点に。今度こそ突き放したと思ったらまた同点に。反対に何度もあぶない場面もあり、ついに延長戦に突入したのだった。

押されぎみだった本校だったが、ついに二塁打、タイムリーヒット、そしてホームランと3点を入れて逃げ切ったのだった。終わってみれば6対3だが、ヒヤヒヤ・ドキドキの好ゲームであった。

今回の試合は、会場の関係で、多くの保護者の方の近くで観戦することになった。私が担任した普通科の生徒の保護者をはじめ、かわいがっている体育科の生徒の保護者も多くおられて、いろいろと話も出来た。一緒に一喜一憂していたわけだ。(笑)こういうことも大事だと思う。

5日に予定されている4回戦は、「春一番」(4月28日付ブログ参照)に行く予定を立ててしまった。4回戦に勝ったら、また応援に行くつもりだ。

追記(6日):本校野球部は、4回戦・秋季大会に対戦して敗れた私立K高校にリベンジできた。だが公立の雄といえど、ベスト8の壁はなかなか厚い。5回戦は6日に甲子園に2度出場経験もある私立U高校に惜敗した。残念ながら、私は体調不良で5回戦の応援に行けなかった。「4回戦でホームラン頼むで。勝ったらまた応援に行く。」と激励した5番打者のM君に申し訳ないことをした。生徒との約束を果たせなかったのは痛恨の極みだ。夏の大会では、その分も応援に行きたいと思う。

追記(7日):「昨日は行けなくてすまんかったなあ。」とM君と話をしていたら、K高校との4回戦では、1・3塁の場面で敬遠されたそうだ。練習試合で2本もホームランを打っているので、マークされたらしい。ある意味、たいしたもんではないか。ちょっと嬉しかった。「夏、また応援に行くで。」と言ったら、ニコッと笑ってくれたのだった。
ところで、我がクラスの弓道部のU君が個人戦も団体戦も優勝したらしい。大阪チャンピオンである。IH予選は6月だが、まずはめでたい。大いに褒めておいたのだった。バスケット部もベスト16で連勝中とか。みんな連休中頑張っていたのだった。授業で少しくらいウトウトしても許してしまう私であった。(笑)

憲法記念日によせて

http://bengosi.org/kenpou/tennou/s_01.html
中学生のころから、不思議なことがあった。それは日本国憲法の第一章・第一条が「天皇」になっていることだった。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義(戦争放棄)が日本国憲法の三大原則だと習うのだが、ならば、第一条は国民主権でいいのではないか?ずっとそう思っていた。70年代は、ベトナム戦争や日米安保改定のこともあって、左翼的な雰囲気が今よりはるかに強かった。天皇との距離は、極めて遠かったのだ。もちろん、第一条には最後に、「主権の存する国民」というコトバで示されているが、「天皇は象徴」という文言がメインである。

昨日、政治経済の授業でいよいよ憲法を教えることになった。生徒に、この不思議さについて問いかけたのだ。今の生徒たちにとっても天皇との距離は遠い。「天皇陛下の名前を知っているかぁ?」彼らは当然知らない。沈黙。「平成」というとんでもない答えが返ってきた。元号と天皇の名前について解説して、「昭和天皇」は「裕仁」というお名前だったことを教える。では今上天皇は?と聞くとやっと「明仁」という名前が1人から出た。うむ。当時の私もそんな感じだった。あまり学校では教わらない。当然だと思う。

第一条が天皇であること、それは日本国憲法の歴史的背景を知らねばならない。それは幕末・維新から明治、大正、昭和、そして敗戦という近現代史そのものでもある。

尊皇思想のルーツは水戸学である。幕末の水戸学の総帥徳川斉昭が攘夷を唱えたところから尊皇攘夷のスローガンが生まれ、それまで不遇をかこっていた京都の天皇に俄然光が当たる。尊皇攘夷をかかげて経済的自立を実現した雄藩が倒幕し政府を成立させるが、確固とした政治目標は植民地化を防ぐという一点しかなかった。まず、訪欧した山縣有朋が西郷を引き込んで、「廃藩置県」を行い、国民国家化する。これこそ明治維新の最大の革命であると私は思っている。岩倉訪欧団によって、民主主義化・資本主義化を行い近代国家化を目指すという目標を設定するが、木戸も大久保も、憲法については「日本的な」ものにすべしという結論を得る。この「日本的な憲法」こそ天皇制に他ならない。非キリスト教的個人主義といっても過言ではないだろう。

その後の近現代史は、この天皇制を確立しながら進むといってよい。大日本帝国憲法はその基軸である。基本的には、天皇主権というのは、まさに日本的な「たてまえ」でしかない。昔から天皇というシステムはブラックボックスである。だからこそ万世一系で続いてきたわけで、周辺の者が権力を行使してきた。それが昭和になって統帥権をもつ軍部を暴走させてしまう。

戦争責任が、「たてまえ」では「主権者」であった昭和天皇にかせられるか否か。非常に難しい問題だ。東京裁判で、天皇はその追求の危機にさらされた。GHQはその回避をはかる。それが彼らによって急いでつくられた日本国憲法の草案である。東京裁判より早く、日本の象徴と規定してしまえば、東京裁判で戦争犯罪人として断ずることは不可能になる。

このため、日本国憲法第1条は天皇なのだ。

昨日は、この半分くらいをひたすら講義した。50分だが、3時間分くらいのパワーを使ったのだった。いや、そもそも、この謎を解くために何十冊という本を読んだ。どれくらいのパワーを使ったか、そっちのほうが重要だと思う。

2014年5月1日木曜日

Ameba 全部クリアできなくとも。

4月後半のAmebaワールドは、センスのいいテニスコートのあるハイスクールのイベントだった。ついつい一生懸命取り組んでしまった。といっても、私はいっさい課金(オカネをはらって、イベントが進むアイテムを購入すること。)しない主義だ。

このところ、Amebaでは、課金しないと最後までクリアできないような、様々な手を打ってくる。無料で遊ぶのが醍醐味だと思っているので、その罠にはハマラナイ。とはいえ、あと一歩に迫りながら今回は全部はクリアできなかった。本来なら、家がもう一軒と花時計がGETできたのだけれど…。

とりあえず、GETしたモノをレイアウトして楽しむ。まあまあの出来栄えだ。無課金主義者としては、これで満足することにしよう。こういう、欲望を抑えることも人生では重要な資質だと思ったりする。

ちょっと、担任のクラスの話。今のところ、なかなかうまくいっている。もちろん100点満点ではない。体の弱い子もいるし、皆勤の日もそう続かない。先日のスポーツテストの日も、うーんと唸ることもあったのだが、最後のSHRに行って見ると、我がクラスだけ全員で笑顔でダンスの練習をしていた。団活動は着々と進んでいる。それで、十二分に満足した。

今日も団のTシャツのデザインのため、ベースとなる緑の色(3種類あったようだ。)について、担当生徒たちが喧々諤々。すでにデザインは決まっているようだ。これだけ生徒たちが真剣に頑張っているのだから、充分満足している。

100点満点でなくても満足できること。人生にとって幸せをつかむために重要なことだと改めて思うのだ。