2016年12月31日土曜日

IBTの話(66) 私費生用PP完成

昨日は午後半休をとった。とはいえ、自宅で私費生の国立大受験対策の3回目の講義用のパワーポイントを完成させたのだった。(笑)第1回目の講義は、工学を志す生徒に、世界の問題を知らしむることを主眼として、持続可能な開発目標について語る。第2回目の講義は、その目標が定められた原因を近代国家論とグローバリゼーションから見てみる。第3回の講義は、世界の現状を語ることにした。POST TRUTH をまずキーワードに、イギリスのEU離脱、アメリカ大統領選挙のトランプ氏の勝利を説明し、さらにロシア・中国の動きから「近代の逆走」という現象を明らかにする、という内容である。
アニメーションを駆使して、かなり凝った内容になってしまった。社会科学を久しぶりにやる生徒にとっては、難解かもしれないが、90分3コマという時間的制限の中では、これが誠意一杯というところ。
当然ながら、教材研究のために、だいぶ私自身もいろいろな事を調べた。こういう挑戦的な教材研究、なかなか楽しい。続いて、マレーシアハンドブックを熟読しながら、理系の国費生への教材研究に邁進する。

2016年12月30日金曜日

マレー・ジレンマ (9)

http://afifahfatinah5e.blogspot.my/
現代アジアの肖像14「ラーマンとマハティーループミプトラの挑戦」(萩原宜之著/岩波書店)では、この後のマレーシアの政治について第二代首相ラザク、第三代首相フセイン、そして第四代首相マハティール、と詳細に述べてある。ラザクもフセインも健康上の理由でそんなに長く勤めたわけではない。ラザク時代は、マハティールを復活させ、プミプトラ政策を基軸としてマレーシアの近代化をはかるとともに、さらに与党体制(与党連合:BN)を強化した。フセイン時代もその流れを継承し、マハティールに政権をバトンタッチした。故に、本のタイトルにあるように、独立の父・ラーマンと、プミプトラ政策を打ち出したマハティールが、マレーシア政治史の中では特に重要な存在だといえるわけだ。

この本が書かれたのは1995年。マハティール首相がまだまだ現役の頃である。この後アジア通貨危機が起こり、マレーシアもその波をかぶる。だが、当然、この本には書かれていない。ならば、マハティール首相の理念だけは昨日のエントリーできちっと記したので、この本の書評としてはここまでとするほうが美しいと私は思う。

ラザク首相以来のマレーシアの政治課題は、まさにマハティールの言う「マレー・ジレンマ」をいかに解決しながら近代国民国家化するか、というものであった。華人やインド系、さらにマレー系の内部にあるイスラム主義と向かい合いながら進んできたといっても過言ではない。マハティール以後は、イスラムの色が強くなった感がある。この件は後日、「国家と対峙するイスラーム」の完読後、よく吟味したうえでエントリーしたい。

さて、マハティール首相は、2003年10月に、第5代アブドゥラ首相に譲っている。さらに2009年に現ナジブ政権にバトンタッチされている。この首相交代劇が、なかなか意外性に富んでいたりする。そもそもUMNOを最初にリードした、ダト・オン氏の長男が、第三代首相のフセイン氏である。また第二代ラザク首相の長男が、現ナジブ首相である。政治家の世襲というのは、全世界的なものなんだと思う次第。二世政治家が悪いわけではないが、日本しかり、アメリカしかり、韓国しかり、ミャンマーしかり…。これは、政治という世界の「世襲ジレンマ」というところか、と思う。

…今日は、本年最後の勤務日であった。教材研究のために4月に一度見せていただいたマレーシアハンドブックをもう一度借していただこうと思い、社長室に行ったら2017年度版が配布されていた。マレーシアの日本人商工会議所がJETRO、JICA、日本大使館などの在馬の日本のインテリジェンスと分析力の総力を挙げてつくられた資料である。この正月休み(といっても3日には、出勤だけれど…。)にじっくり読んでみたいと思っている。マレーシア…。実に興味深い国なのだ。

2016年12月29日木曜日

マレー・ジレンマ (8)

「ラーマンとマハティール」(萩原宜之著/岩波書店)の連続書評エントリーの表題とした第4代首相マハティールの著書「マレー・ジレンマ」(The Malay Dilemma)は、1970年刊行されたが、すぐ発禁となった。しかしシンガポールでは読むことができ、多くのマレー人の眼にふれ、マハティールが政権を握ってからは、マレー人必読の書として今日に至っている。ここは極めて重要な個所なので、原本の内容をできるだけに忠実に記しておきたい。

「序文」ではマラヤ大学経済学部長(後の学長)アジズ教授との1966年対談し、マレー人学生の成績が良くない理由は、マレー人の同族婚とその生活環境にあることだと、まず記している。

次に「何が間違っていたか」の章で、5月13日事件に至る歴史を振り返り、まず民族間に寛容と適応と交換はあったが、真の調和はなかったとした上で、日本占領時代にマレー人の一部が親日となり、中国人の多数が抗日となったことで亀裂が始まり、戦後イギリスが復帰し、マラヤ共産党の反英運動が激しくなり、マラヤ連合を収拾しようとして失敗し、マレー人と中国人の関係が悪化したとする。UMNOが結成され、UMNOとMCAの協力により両社の関係は改善されたかに見えたが、60年台に入ると再び、与野党対立の形で再燃し、マレー人は政府が中国人に有利な政策をとって両者の経済格差を拡大させたと考えて不満を増大させ、中国人側は政府に更なる譲歩を求めて対立し、ついに5月13日事件に突入したとする。政府が、民族間の調和を過信し過ぎたとしている。

「マレー人にとっての遺伝と環境」の章では、豊かな自然の中でコメに恵まれ、イスラムを受け入れてきたマレー人の社会に移民として中国人が入り、商業の分野に進出し、マレー人は多くの農民とごく少数の都市で働く役人に分かれた。イギリスは、スズとゴムを中心に経済を発展させ、農村を放置したため、マレー人の多く住む農村の環境は極めて悪いものであった。そしてマレー人の経済的ジレンマは土着のマレー人が主として農業に従事し、移民してきた中国人が商工業を握り、植民地支配者であったイギリスが貿易、海運、金融などを握った結果、豊かなマラヤでマレー人が貧しいというジレンマが起こったとしている。

「民族間の平等」の章では、このジレンマを破って、マレー人を豊かにするにはどうしたらよいか。歴史的につくられた民族間の経済格差を解消するには、マレー人優先の政策をとらざるを得ないとしている。この章の終わりに、マレー人と中国人の対比がされており、①前者(マレー人)は精神活動を重視し、後者(中国人)は物的生活を重視し、②前者は寛容であり、後者は攻撃的であり、③前者はのんびりしており、後者は労働意欲をもっている-としているが、これはマラヤにおけるステレオタイプの相互認識だといる。

「国民統合の基礎」の章では、まず言語とこれに関連した文化について統一した上で、暫時、統合を進めていくとしている。

「マレー人の復権とマレー人のジレンマ」の章では①マレー人の封建的側面を改革し、②イスラムを改革し、③アダット(慣習法)と結びついたと結び付いた伝統的価値観を改善し、④マレー人の都市化、商工業への参入を促進し、⑤中国人のビジネス・スキルや倹約から学び、⑥中国人のビジネスの下でも働く気持ちが必要である、としている。

「マレー人の問題」の章では、マレー人は礼儀正しく、目立たないように振る舞い、貴族趣味なところがあるが、これをイギリス人はマレー人の弱さの表現だと誤解した。このマレー人の性格は、自分および自分の民族のなかにひきこもろることになるとともに、極限においては内面の葛藤と苦しみの外面的爆発としてアモック(狂熱)になることがあるとしている。そして、中国人とインド人は年齢と富に敬意を払っている、とする。彼らは自分たちの労働なしには、マラヤの発展はなかったと考えているが、それは①マレー人が移民に対し寛容であったこと、②彼らの富の蓄積を認めたこと、③イギリスもマラヤの発展に寄与したこと-などを無視してはいけないと警告している。

「マレー人の倫理と価値体系」の章では、マレー人が精霊信仰やアダットや慣習を基礎として、①イスラムとアダットを守り、個人より社会を優先させること、②形式と儀礼を尊重すること、③快楽主義を否定して、イスラムの教えに従って精神生活を送ること、④宿命論をもっており、状況に適応し、来世を信じていること、⑤謙虚で、控えめで、他人に自分の意思を押しつけず、妥協をいとわないこと、⑥何もせず、コーヒーを飲んで話し合うことが習慣になっていること、⑦死をおそれながらも、それに対して闘うこともなく、甘受するが、死への恐怖から一時アモックに陥ること、⑧土地をもつことが富と財産であって、現金や宝石には関心がないこと、⑨地位を重んじ、封建的でヒエラルキーの社会であること-について述べたうえで、これらの価値体系と倫理がマレー社会の発展のための障害になっているとしている。

「コミュナルな政治と政党」の章では、マレーシアの政党は全てコミュナルなベースでつくられ、民族間の問題にどのような政策をとるかで分かれており、当面はマラヤ連合党によって国民統合を進めていくより他にないとしている。

マハティールの「マレー・ジレンマ」は、マレーシアにおける民族問題を歴史的、構造的に分析し、マレー人の劣位の原因をその族内婚と伝統的な価値観と安易な生活態度にあるとして、その自己変革を求めたものである。この民族問題への根本的な問い直しは、民族間の融和とイギリス植民地時代からの民族間の分業体制の延長線上で問題を解決しようとするラーマン体制への批判であり、この分業体制が独立後も続いたために、経済格差は増大し、マレー人に大きな不満が蓄積されたとの指摘である。マハティールの分析は、事態の本質をついたものであり、そこからマレー人の貧困解消と経済構造の変革を目指すプミプトラ政策が日程として上ってくるのである。

…このマハティールのマレーシア社会の構造的な分析、さすがは医師である。この後、彼は結局UMNOに返り咲き、その政治家としての才能を開花させることになるわけだ。

マレー・ジレンマ (7)

http://sakurajadehouse.com
/?p=37649
いよいよ5月13日事件についてエントリーすることになった。ラーマン初代首相は、各民族の融和を第一義に考えた人であったようだが、マーレー語の国語化・英語公用語問題への批判や、左右の勢力である社会主義勢力・汎マラヤイスラム党の批判の中、板挟みとなって苦しんでいた。

そんな中、1969年5月10日連邦下院選挙が行われた。UMNOは59から51議席、MCAは27から13議席、MICは3から2議席となり、与党は計66議席。政権を失うほどの敗北ではなかったが、野党勢力は37議席を取りあたかも勝利したような気分となった。野党がクアラルンプールで「勝利の行進」を行うことが条件付きで認められ、5月13日行進が行われた。この行進の際、マレー人居住区で「マレー人は死んだ。」などと叫んだといわれる。これに対し、UMNO青年部のマレー人青年たちがUMNO勝利の行進を始め、夜に両者が衝突、多数の死傷者(死者196人/華人143人・マレー人127人・インド人13人、その他15人、負傷者は439人)を出す流血の惨事となる。

5月13日事件と呼ばれるこの「人種対立事件」は、ラーマン首相を一睡もさせなかった。非常事態宣言を宣言し、議会を停止、事件の処理に当たる。選挙後の新内閣では、MCAのメンバーが3人も含まれていた。

この内閣に反発したのが、後の第4代首相マハティールである。彼はこの下院議員選挙で、汎マラヤ・イスラム党の候補に負け、落選していた。彼は、ラーマンが民族融和を優先しすぎた故に選挙で敗北したとして、私信の形で辞任を求めた。その後、マハティールはUMNOを除名される。しかし、独立の父ラーマンに確実に世代交代の波が押し寄せていたのだった。それを悟ったラーマンは、自身の出身地ケダ州のスルタンが第五代国王に就任する日を引退の日と決め、この事件の収拾をはかった後、責任を取って、盟友のラザク副首相に首相の座を譲った。

ちなみに、政治活動以外でも、ラーマンは8000人を収容できるナショナル・モスク、私が先日訪れた国立博物館、国会ビルなどをレーク・ガーデンに建設した。日本とも友好的な関係を保ち、クアラルンプール郊外のペタリンジャヤ工業団地に日本の企業進出を推し進め、またケダ州プライに八幡製鉄の協力で製鉄所が建設された。戦時中の日本軍の残虐行為に対する補償として$2500万の交渉をまとめ、2隻の貨物船がマレーシアに無償供与された。この船はその後ペナンからメッカに向かう巡礼船として使われたという。ちなみに、ラーマンは「うなぎ」が好物だったらしい。

この5月13日事件について、白書が発表され、でラーマンは①世代間のギャップと憲法の曲解、②人種主義政党の挑発、③共産党や秘密結社による挑発、④マレー人の不安の4つを挙げた。マハティールは、これに「マレー・ジレンマ」を出版するのである。いよいよ、次回は表題についてのエントリーになる。

今年この1冊2016

スクールホリデーで、今日は1日お休みをいただいた。今年も、恒例の「この1冊」をエントリーしようと思う。今年はおそらく、ここ数年で最も読書量の少ない年になった。最大の理由は、日本を離れたことである。本当に読みたい本は、アマゾンで注文し、日本から持ち帰ることになる。本屋などで偶然の本との出会いが少ない分、どうしても限定されてしまうわけだ。

昨年、アフリカ開発経済学の未読の2冊(「貧困を救うテクノロジー」と「統計はウソをつく」)を2016年候補に棚上げすることにした。ところが、この2冊、11月の帰国時にスーツケースで運ばれ、ようやくわが住処に到着した。故にまだ続きを読んでいない。もう1年棚上げにすることにした。

マレーシアに来て、当然ながらマレーシアの研究に少しずつハマっている。中でもイスラム教理解は、ムスリムの生徒を教える上でも重要である。今年の1冊は、やはり中田考・橋爪大三郎の「クルアーンを読む」(太田出版/昨年12月17日発行)だと思う。ブログでもかなりの回数をエントリーしたが、日本最高のイスラム法学者中田考氏の見識には、いつも乍ら敬服するところである。

面白いなあと思うのは、サラフィー派的な中田氏のスタンスと、マレーシアのイスラム教のスタンスは少しばかり違うことだ。こちらの法学はシャーフィーイー派である。どう違うのが、まだまだ認識不足で、大いに勉強したいと思っている。よって、現在読んでいる途中の「国家と対峙するイスラーム-マレーシアにおけるイスラーム法学の展開-」(塩崎悠輝著/作品社・2016年6月30日発行)もまた、来年度の候補への棚上げせざるを得ないと思っている。この本、かなりの専門書であるが、実に興味深い。

また、はるかに古い本だが、「ラーマンとマハティール」(現代アジアの肖像14 萩原宜之著/岩波書店/1996年)も大いに勉強になった。(書評のエントリーはまだ終わっていないが…。)、さらに、わがIBTにも関わりの深い戦時中の日本留学生だった教育者・ラザク先生の「わが心のヒロシマ」(オスマン・プティ著/勁草書房)も印象深い1冊だった。

ところで、昨年の「今年この1冊」を読み返してみた後、2016年元旦、2日のエントリーも読み返してみて、あっと驚いた。
元旦には、2016年への「POST TRUTH」的な漠然とした不安が記され、それが現実になっている。2日は、ラグビーの帝京大学のハナシが書かれていた。現在勤めているIBTの母体は帝京大学である。思わず、うーん、と唸ってしまったのだった。こういう事もあるんだと思った次第。

2016年12月28日水曜日

IBTの話(65) 1月の私費生用PP

このところ、1日中ずっとパワーポイントとニラメッコしている。(笑)1月に行う理系の私費生国立大学受験者用の教材作りである。3回あるので、パワーポイントも3展開、プリントもそれに合わせて作成中である。今日、やっと2講義目が完成し、3講義目に突入した。

1講義目は、理系の学生が社会科学を学ぶ意義を、ノーベルの”贖罪”から、科学技術の罠の話へと持っていた後で、理系だからこそ現在の世界の問題に目を向けて欲しいと説いて、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」へと進んでいく。これを紹介するのだが、日本の外務省のつくった和訳は極めて難解である。簡単に説明し直してから、マレーシアの現状とSDGsを比較、何が充足していて、何が足りないかという論点で、残った時間に討論をさせたいと思う。先日見た日本語の授業での発表の感じなら、なんとか議論が成立するような気がする。

2講義目は、持続可能な開発目標が作られた理由というか原因を探っていく。まずは人口の増加グラフを見せる。(意外にこういうグラフを元にした小論文試験が多いらしい。)なぜ人口が増加したのか?これは社会科学的にも面白い問題だ。人口支持力がUPしたわけで、様々な角度から論じる。で、結局近現代の歴史は、近代国家の形成の歴史だということになる。その国家が今は密接に自由貿易体制、経済で結びついていることを論じ、グローバリゼーションの説明になる。このグローバリゼーションこそ格差を生んでいる最大の原因であるといえる。最後に持続可能な開発目標にもどり、それぞれのゴールを整理してみる、といった構成である。

今日の画像は、2講義目の最後の方、持続可能な開発目標の整理である。アニメーションをつけてあるので、17のゴールはひとつづつ整理されていくようになっている。莫大な時間と労力がかかったけれど、ちょっと達成感がある。(笑)

2016年12月27日火曜日

漫画 ポーランド・ボール

左からマレーシア、シンガポール、オーストラリア、パプアニューギニア
今週はスクール・ホリデーでなのだが、学校で教材研究をしていた。例の私費の国立大学受験者向けの講義のために、ひたすらパワーポイントをつくっていたのである。私は、パワーポイントについてはひどく凝り性である。高校時代のデザイン科の血がどうしても騒ぐのである。

グローバリゼーションの「周縁化」をイメージするために、円形の国旗を検索していたら、変な画像を見つけてしまった。様々な国の国旗なのだが、どうもイラストというより漫画っぽい。これは、ポーランド・ボールという漫画。なかなか可愛いし、日本語訳がついていて、面白い。つい見入ってしまった次第。

「ポーランド・ボール」というタイトルなので、ポーランドが主人公なのだと思い込んでいたが、以下にに紹介する回は、赤白の国旗君はインドネシアであった。うーん、たしかに調べてみるとポーランドとは、白と赤が逆さまである。(笑)東ティモールとインドネシアの会話から始まり、マレーシアも出てきて、なかなか楽しい展開の漫画になっている。ついつい、お気に入りに入れてしまった。

読者の方も是非一度覗いてみてください。

http://blog.livedoor.jp/pacco303/archives/68253565.html

サントメ・プリンシペと台湾

久しぶりにアフリカの話題をエントリーしようと思う。 時事通信のWEB記事で、サントメ・プリンシペが、台湾と断交し、中国と国交を結んだらしい。正確には、独立時は中国と国交があったので、国交を回復したということになる。

先日、トランプ氏が「1つの中国」論に疑義をはさんだが、外交関係で台湾の劣勢は明白である。現在、太平洋上の島嶼国や中南米の国々を中心に台湾と国交のある国は20か国ほどである。バチカン市国はともかく、アフリカでは、ついに我がブルキナファソとスワジランドだけになってしまった。

このサントメ・プリンシペという国については、だいぶ前「観光コースではないアフリカ大陸西海岸」という本で知った。日本人だというより、台湾人だというと親切にされるらしい。それくらい、台湾は国際協力を密にやっていたわけだ。ブルキナファソでも台湾は農業支援などで、日本と同じかそれ以上に頑張っていた。台湾は、こうして強いきずなと努力を重ねて、国交を維持してきたわけだ。

サントメ・プリンシペは、元ポルトガル領のカカオの産地である。ギニア湾上の島嶼国で、近年ナイジェリアとの間に海底油田が発見され、共同開発に踏み切ったらしい。他のアフリカ諸国同様、中国の石油企業も当然のように進出しているとのこと。おそらく、大きな圧力があったのだと推察する。

もう10年以上前になると思うが、サントメ・プリンシペの人とJICA大阪で会ったことがある。「どこから来たのか?」という私の問いかけに、彼はおそるおそる自国の名を答えた。私が「ギニア湾に浮かぶ島国だね。」と言うと、大感激してくれた。聞くと、私は自国の名を知っていた2番目の日本人だそうだ。彼が何を専門にする研修員かは聞き忘れたけど、今は故国で何らかの分野で指導的立場に立っていることともう。彼は、台湾断交・中国との国交再開のニュースをどのような思いで聞いたのだろうかと思う。

いずれにせよ、時は流れていく。

2016年12月26日月曜日

マレー・ジレンマ (6)

http://maembong.blogspot.my/2011/10/maembongs-art-gallery-history-of.html
マレーシアでは、今日はクリスマスの振替休日である。一気に、現在のマレーシアの結成にまで進みたいと思う。

1961年、ラーマンは英国の了解を取り付けたうえで、シンガポール自治領とボルネオ島のサバ・サラワク・ブルネイのイギリス植民地とマラヤ連をとの合併を提案した。英国は独立させたうえで検疫を残すことを意図し、ラーマンはマレー系住民が多いボルネオを得て、さらに多数を占める意図し、シンガポールはマレーシアに入ることで英国自治領から独立するという意図があって、利害が一致した故である。

シンガポールは、この頃、内政に関して完全主権を持ち、防衛外交は英国、立法議会の多数党が首相を選任して自治政府を運営していた。この立法議会選挙で勝利した人民行動党は、自治を強化しつつ、マラヤ連邦との統合を通じて独立を達成することを志向していた。
1962年、ブルネイではマレーシア統合反対の武装運動が起こる。英政府は、シンガポールから2000名のグルカ兵(ネパール人)を送って鎮圧している。サラワクでは、先住のイバン人と移民の華人がそれぞれ30%、マレー系が20%、ビユダ人が8%、その他の先住民が10%という人口比率であった。それぞれがマレーシアへの合併に関して民族集団と宗教別に政治集団が作られ、賛否が分かれていた。サバは1865年にアメリカ、1875年にオールトラリア、そして1877年にイギリスの北ボルネオ会社の支配下に入っていた。非ムスリムの先住民が50%、マレー系が18%、華人が24%という人口比であった。ここでもいくつかの政治集団に分裂したが、①宗教の自由、②州による移民の管理、③カダザン語の普及、④プミプトラの特権のサバへの適用を条件に、マレーシア加入に賛成に回った。非同盟主義のスカルノのインドネシアはこの統合に強く反対したが、国連の世論調査結果でサバとサラワクの多数が賛成していることが判明、統合が実現する。

ところで、ラーマンがシンガポールとの統合のみではなく、サバ・サラワクを含めての統合を考えたのは、マレー系住民(先住民を含む)と華人の人口比の逆転をゆるしてしまうからであった。しかも、下院議席の配分の際、人口45.5万のサバに16議席、人口74.3万のサラワクに24議席、人口150万のシンガポールに15議席とした。これは、シンガポールが教育と労働についての自治権を留保するための妥協であったとされるが、不公正であったことはいがめない。またシンガポールは、財政負担上、国税収入の40%を連邦政府に収め、ボルネオ開発のため$5000万の拠出を求められた。

シンガポールでは、教育・訓練などでマレー人を援助するが、半島部のような公務員のクウォーター制やライセンス特権は否定した。1964年7月21日、ムハンマド生誕を祝うイスラム教徒25000人の行進が警察と争いになり、死者23人、負傷者454人を出す人種対立事件となった。その後マレー人居住区でも死者12人、負傷者109人の事件が起こる。連邦政府とシンガポール州政府の間で「敏感な問題」を取り上げない、対立は2年間棚上げすることが決まられたが、和解は思うように進まなかった。連邦政府の進める「マレー人のマレーシア」に対して、マレーシアの人民行動党は「マレーシア人のマレーシア」を訴え、非マレー系も平等に国家形成に参加することを訴えたが、各民族間の経済格差がそれを許さなかったといえる。

ラーマンも「流血の事件を避けるために、シンガポールの分離はやむを得ない。」との結論に達する。しかし、この民族間の対立は、1969年5月13日の事件へと繋がっていくことになる。

…マレーシアの国旗の横線は14本である。星条旗同様、独立時の州の数を表している。半島部の11州とサバ・サラワクの2州。1本多いのは、分離したシンガポールのものである。現在は、クアラルンプールが特別区なので、これを1本に数える場合もあるとか。とは、先日の国立博物館でのガイドのWさんの受け売りである。

マレー・ジレンマ (5)

http://maembong.blogspot.my/2011/10/maembongs-art-gallery-history-of.html
独立したマラヤ連邦は、①9人のスルタンが州の首長になり、②このスルタンの中から5年ごとに交代で国王を選び、③イスラム教を国教とし、④10年後にマレー語を公用語とし、⑤市民権におけるマレー人の優位とマレー人の特殊な地位を認め、⑥連邦下院の多数党が政権を担当する立憲君主国家となった。

スルタンの権力については、後のマハティール首相によって、州の立法権では行政側が優位に、また憲法改正が行われ免税特権が失われるなど、現在はイスラムの擁護者的な「権威」になっているが、独立時点では、マレーの伝統的な権威が維持されたといってよい。一方、市民権については、英領マラヤ連邦時の市民権条項を基本的に引き継ぎ、①マレー語を話し、②イスラムを信仰し、③マレーの慣習を守る「マレー人」は、自動的に市民とされたが、非マレー人については、マラヤに10年以上住み、マレー語か英語を話し、「よい性格」を持っている者に与えられるという制限がつけられていた。1955年の選挙では、この制限条項のために非マレー人の有権者は人口比より圧倒的に低くなっていた。これに加え、憲法153条では、公務員の採用はマレー人4・非マレー人1を採用するクウォーター制、教育の機会やライセンスの賦与にもマレー人優位の規定があった。

この背景には、①マレー人社会がスルタンを頂点にイスラムとマレー語で統一を守ってきたこと、②植民地下、中国系・インド系の流入があっても政治的な力を維持してきたこと、③独立に際し、UMNOのマレー人エリートが主導したこと、④彼らが植民地支配下の民族間分業によって、マレー人の経済的劣勢を改善したいと考えたこと、⑤MCA・MICの中国人・インド人エリートも既得権が失われない限り、マレー人優先政策を認めたこと、がある。

ラーマン初代首相は民族間の融和、副首相のラザクはマレー人の生活向上を重視しつつ、この2人のコンビネーションで、独立後のマラヤは進んでいく。英連邦、国連に加入したが、SEATOや非同盟諸国会議には加入しなかった。反共国家でありながら、独自の外交姿勢をとっていたわけだ。一方、イスラム色の強い「汎マラヤイスラム党」、民族間の平等を訴える社会民主主義的な政党が野党として存在する政治図式がすでに1959年の連邦下院議員選挙で生まれた。

ラーマンは、「長い間にわたって、マレー人はイギリス植民地支配の受益者といわれ、無知と自己満足の中で暮らしてきた。」と語った。天然ゴムとススは、イギリスを中心とする外国資本と華僑資本が握り、金融、保険、貿易、商工業、運輸も同じで、マレー人はコメを中心とする農業とゴム小農と漁業という一次産業の生活に閉じ込められていた。したがって、ラーマンは農業開発をまず行う。コメの二期作化や土地の貸与によるゴムやパームやしの植林、灌漑排水網など、農業生産性向上に一定の成果を上げることはできたが、当時のマラヤはモノカルチュア経済の国であり、まだまたマレーの経済的地位はすぐにはあがらない。プミプトラ政策の序曲といってよかった。

…マレー・ジレンマの根源的な問題について、マレーの人々も、華人もインド系の人々もよく認識していると私は思う。それは、イギリスの植民支配における「民族間分業」のなせる業である。
ところで、ラーマン首相の肖像を検索していたら、マレーシアの歴史を描いているWEBページにたどりついた。素晴らしい作品だ。http://maembong.blogspot.my/2011/10/maembongs-art-gallery-history-of.html

マレー・ジレンマ (4)

https://www.newevent.com.m
y/index.php?ws=latestnews
現代アジアの肖像14「ラーマンとマハティール」(岩波書店/藤原宜之著/1996年2月5日発行)の備忘録。WWⅡ後から独立までを整理してエントリーしようと思う。

1945年9月。英国政府はスズとゴムという資源をもつマラヤを経済復興のためのドル箱故に再植民地化をはかろうとする。それが、「マラヤ連合」案である。これは、①シンガポールを除き、「海峡植民地」「マレー連邦州」「マレー非連邦州」を統合、②スルタンの権限をイスラムと慣習に関する範囲にとどめ、③英国王の下で英国人知事が行政を握り、④すべてのマラヤ人(マレー系だけでなく、華人・インド系も含む。)に平等な市民権を与える、というものだった。

これに対し、マレー系は強く反発、現在もその権力中枢を占めるUMNO(マレー人国民組織)が結成される。彼らの訴えは、①マラヤの独立と主権の擁護、②イスラム、マレー語、マレー人の慣習、スルタンの権威、マレー人の特権の擁護、③議会制民主主義の擁護、④各民族間の善意と調和による国民統一の実現、⑤国連憲章の擁護で、スルタンの下で統合されたマレー人のプミプトラとしての優位を守るためのものだった。

この反対運動の中、英国は委員会をつくり折衝に入るが、華人やインド系の代表は入っていなかった。そこで、華人は、AMCJA(全マラヤ統一行動会議)を結成、①シンガポールを含めた全マラヤの統一、②全マラヤを代表する選挙によって選ばれた中央議会の設立、③マラヤを祖国とするすべての人々への平等な参政権の賦与、④スルタンは主権者であるが、民衆の助言、忠告を受け入れること、⑤イスラムおよびマレー人固有の慣習はマレー人の手に委ねられること、⑥マレー人の社会的地位の向上のための特別の配慮を要することなどを決め、活動を始める。

1948年12月。「マラヤ連合」案に代わる「マラヤ連邦」案がまとまり、スルタンと英国政府が調印した。①スルタンを各州の首長として地位を認め、②マレー人のための教育を強化し、③マレー人の特殊な地位を守り、④マレー人のイスラムと慣習を守ること、となった。要するに、英国はプミプトラとしてのマレー人の地位を認め、非マレー人を引き続き移民の地位にとどめ、民族間の分裂を復活させたものといえる。

これに強く反発したのが、反英武力闘争を展開したマラヤ共産党である。これに対し英軍とマレー系警官は、共産党を支持者とみられたジャングルに住む不法居住者を「新しい村」として有刺鉄線で囲い込み、その支援を断ち切り、華人の上層階級も、華人=共産党と見られるのを恐れ、新しい保守政党を形成する。それが、MCA(馬華公会)で、①中国人の権利の擁護、②民族間の調和、③雇用機会の平等、④社会正義の確保、⑤中国語の使用と教育の保持を掲げた。現在もUMNOのパートナーとなっている。これより先(1946年8月)、インド系も①インド人の権利の擁護、②インド人の世論の結集、③民族間の善意と調和の確保を掲げて、MIC(マラヤ・インド人会議)が結成されていて、マレー人、華人、インド人社会のそれぞれのエスニックグループの利益を守るための保守的な政治集団、UMNO、MCA、MICを持つことになったのである。

ところで、UMNOでは、非マレー人の政治集団をIMNOに統合するべく、初代総裁のダト・オンが提案したが否決され、UMNOを離れた。後任に選ばれたのが、ケダ州スルタン一族の出身でケンブリッジに留学して弁護士の資格を持ち、行政官・群長として農民の生活を知るラーマンであった。その後、選挙を通じて、UMNO、MCAが連合を組んで勝利、これにMICも協力して、独立へ走り出すのである。各民族政党が連合するというカタチが、マラヤでは最も価値的であったようだ。

1956年、ラーマンは、4人のスルタン、MCAの代表らと共に独立交渉のためロンドンに向かう。約3週間にわたる交渉で、平和裏に1957年8月31日独立にこぎつける。

…AMCJA(華人の初の政党)の⑥マレー人の社会的地位の向上のための特別の配慮や、インド系のMICが掲げた③民族間の善意と調和の確保など、マイノリティの政党が、自民族の権利の擁護を主張しつつも、マレー系に配慮する、微妙なスタンスが極めて印象的であった。

2016年12月25日日曜日

マレー・ジレンマ (3)

ラーマン首相の故郷・ケダ州の風景
http://www.malaysiasite.nl/kedaheng.htm
現代アジアの肖像14「ラーマンとマハティール」(岩波書店/藤原宜之著/1996年2月5日発行)の読後の備忘録の続きである。今日のエントリーはマレーシアの複合社会の形成とナショナリズムについて記しておこうと思う。

14世紀にマラッカ王国がイスラムを受け入れ、15世紀にはアラブ、インド、中国などの商人が4万人も住んでいたという。すでにスズを出荷していた。16世紀にポルトガル、17世紀にオランダ、19世紀にはイギリスとマラッカは支配を受けるが、その間にマラッカ王朝の(血縁的な有無にかかわらず)正統性原理をもつ9つのイスラム王朝が出来上がる。マレー人は、スルタンのもとに統合され、大多数はコメを中心とする農耕社会を築いてきた。
アヘン戦争(1840年)後、中国人の海外移住が認められ、広東・福建を中心に、客家、潮州、海南から華僑が移住してくる。彼らは、最初はスズ鉱山の労働者が多かったが、商工業者、あるはスズ鉱山やゴム園の経営者として成功する者も出て、マレー系の人々より比較的に経済的に優位な立場にたったが、その多数は下層に属していた。
インド系は、主にマドラス州から、ゴム農園の労働者として移住させられてきたタミール系の人々が主流で、下層のカーストに属しておりマラヤにはその制度を持ち込まなかったとされる。

この複合社会が形成されたのは、「マレー連邦州」であり、「海峡植民地」(ペナン・マラッカ・シンガポール)では中国人とインド人が多数をしめていた。「マレー非連邦州」ではマレー人が圧倒的多数を占めていた。…ここがマレーシアの複合社会理解には最も重要だと私は思う。

マレーのナショナリズムは、カイロから帰国したイスラム指導者から始まる。イスラムの覚醒ともいうべきものであった。時代はWWWⅠ後。民族主義の台頭とロシア革命の成功などの影響も大きかった。マレー人最初の政治組織ができたのはシンガポールで、マレー人の地位向上を訴えたが、半島部では必ずしも受け入られなかった。半島部で英語教育を受けたマレー人エリートは、王族・貴族の子弟が多く、植民地行政の補助者の地位にあったからである。しかし、世界大恐慌の影響でゴムの価格が下落し、マレー人ゴム小農の生活悪化と中国人側の政府・行政への参加拡大を目指す要求の高まりを受けて、①アラブ教育を受けたイスラム改革者、②マレー語教育を受けた急進的なインテリ、③英語教育を受けたエリートの間でマレーのナショナリズムが交錯しながら発展していく。この状況は「マラヤの万華鏡」と呼ばれた。

中国系のナショナリズムは、本国の影響が強い。孫文がシンガポールや、クアラルンプール、ペナンを訪れ、国民党の種子を植えていった。この孫文の影響(三民主義)は大きく、中国人としての帰属意識を高めた。一方、中国共産党の影響もあった。海南人を中心に南洋共産党が生まれる。この2つの非合法政党が対立と協調(国共合作などの中国本土の動きに連動する。)を続けていた。この両党の運動は、マレー人、インド系とはほとんど関係なく進められ、エスニック・アイデンティティを強化していく。
国立博物館のマラヤ共産党の展示 マレー系・インド系には影響しなかった。
インド系のナショナリズムもまた祖国の政治に大きく影響された。北インド系の人々は、パンジャブのアカーリー運動やガンジーのキーラファット運動に影響を受け、タミル人たちはインド人の地位向上を目指す運動を起こしていた。ここにネルーやチャンドラ・ボースも来て、インドの独立を訴えている。インド系も祖国独立とマイノリティーたるマラヤのインド系の地位を守ることが主眼で、マレー系や中国系の政治運動とはほとんど交わることはなかった。

…要するに植民地化のマラヤ連邦では、マレー系、中国系、インド系それぞれが、全く交わらないままに、エスニシティを基礎にした政治運動が動き始めていたということになる。マレーシアに9カ月いて、その辺の多文化共生の根底にあるものとは、実はこういう溝を互いに認識していることなのかと、薄ボンヤリであるが感じる時がある。

2016年12月24日土曜日

国立博物館に行ってきた。

以前から国立博物館に行きたかったのだが、やっと実現した。これまで行けなかった理由は2つ。公共交通機関からの徒歩のアクセスが悪いと評判なこと。かなり無理な徒歩コースらしい。もう一つは、日本語ガイドのある日に行きたかったことである。それが土曜日(最近はそれ以外の曜日もOKらしい。)で、なかなか踏ん切りがつかなかったのである。

今回は、妻と2人なのでタクシーで行った。また、今日お世話になった日本語ガイドのWさんは、タマンデサの近くのコンドに住まわれており、しかも大阪の生野区出身(私と同じ)で、まさに奇遇である。Wさんのガイドは、当然、見事な大阪弁だった。(笑)やはり、日本語ガイドのボランティアの方と回るのがいい。極めて興味深く説明を拝聴できたのだった。

この博物館は、初代首相ラーマンの提案で設立されたものらしい。よって、少し時間がたっているが、展示にかなり工夫もされていて、なかなか見ごたえがあった。展示内容は、歴史博物館という趣である。印象に残ったことを何点か、記しておきたい。
石器作成現場(おそらくレプリカだと思う)
その1:石器時代の石器作成現場が、火山の噴火でまるでポンペイみたいに残っていたという展示。これは凄い。世界文化遺産だそうだ。(レンゴン渓谷の考古遺産)

その2:ニョニャ料理という料理がマラッカにあるらしいことは知っていたが、このニョニャは、渡来してきた華人男性とマレー女性の子孫の女性を指す言葉である。(男性はババ。)マレー語と食文化や衣装を取り入れつつも冠婚葬祭では中国の風習を忠実に守るというイスラム教徒になることなく、マレー文化を取り入れた華人で、ここが、大きなポイントだが、かなり誇り高い人々とのこと。衣装や生活用品なども展示されていた。
その3:こちらの伝統的な刀剣は、日本刀のように”切る”というのではなく、”刺す”のが主流で、グニャグジャと曲がっている。このような剣は初めて見た。(上記画像参照)
その4:オランダの東インド会社の陶磁器には日本製(伊万里)のものがあること。マークの付いた陶磁器が展示されていた。(上記画像参照)

その5:マレー語は、イギリスの植民地になる前は、アラビア語表記(ジャウィ文字というらしい。)であったとのこと。これは、知らなかった。KLの様々な場所で、アラビックを目にするが、これはジャヴィ文字で書かれたマレー語なのかもしれない。当然ながら、私にそれを判別する能力はないけれども。今度、国費生に聞いてみようと思う。

その6:WWⅡで、日本が3年間占領した展示もあった。意外にも、マレー語の解説文には、これまでのポルトガル、オランダ、イギリスといった白人の支配と違い、同じアジア人がイギリスを追い払ったことに対して、後の独立への自信みたいものが芽生えたとあるらしい。(館内は、写真撮影可だが、意外にもメモを取ることは禁じられているらしく、あくまでガイドのWさんの話の趣意である。)ただし、英文には、そのような記述はないらしい。
…おそらく、シンガポールなら、こういう展示にはなっていないと思うが、少なくとも半島部では、日本占領時の展示は少なかった。反対にイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズが沈没に至る経路まで地図に描かれてあった。うーん、意外である。
「ムルデカ」(独立)と、ラーマン首相は7回叫んだという「展示
その7:華人のマレー共産党との内戦の展示もあった。独立時の展示は、ラーマン初代首相がこの博物館を創設した経過もあり、なかなかのものである。独立を勝ち取った時の新聞も、マレー語(アルファベット)とマレー語(ジャウィ文字)、英語、中国語、タミル語と5種類のものが並んでいた。いかにも多民族国家マレーシアらしい。

…1月からの授業の教材研究にとって意味のある学びの時間を過ごせたと思う。また今エントリーしている「マレー・ジレンマ」の内容にも、今日の学びを加味していけたらと思う。

2016年12月23日金曜日

マレー・ジレンマ (2)

https://openclipart.org/detail/220171/
political-map-of-british-malaya-1939
現代アジアの肖像14「ラーマンとマハティール」(岩波書店/藤原宜之著/1996年2月5日発行)の読後の備忘録をエントリーしたい。まずは、イギリス植民地下のマレーシアについて、極めて重要なので整理しておこうと思う。

1798年、英国東インド会社が、ケダのスルタンからペナン島の割譲を受けたことから全ては始まる。続いて1819年、ジョホールのスルタンからシンガポール島の割譲を受け、1014年英蘭条約でマラッカをオランダから割譲された。この3つの港町がイギリスの東南アジア進出の基地となる。これらが1832年より「海峡植民地」と呼ばれ、直轄植民地となった。同じ直轄植民地だったインドのマドラス州からインド人を移住させ植民地の開発にあたらせた。1848年ベラ州市北部でスズ鉱山の開発が進められ、中国南部から中国人労働者が流入してくる。

1868年、ベラとスランゴールでスルタンと華僑の秘密結社それぞれ結びついてスズの利権をめぐって内乱になった。1870年代に入って、イギリスは海峡植民地の交易を妨げるとして軍事介入して鎮圧。イギリスに好意的な王族をスルタンとして認め、このスルタンとの間でバンコール島で条約を結ぶ。①スルタンの権限をイスラムと慣習法の範囲にとどめ年金を与え、②その他の全ての行政をイギリス人駐在官が握ることになった。これがマレー半島内部への植民地化の第一歩となる。同年、スランゴール、スンガイ・ウジョンのスルタンと同様の条約を結び、1887年にはバハンのスルタンとも条約を結び駐在官を置いた。この4州が「マレー連邦州」となる。一方、1885年年ジョホール、1903年九ランタン、1904年ケダ。1909年トレンガヌ、最北部のベルリス州を加え、これら5州を「マレー準連邦州」と間接統治下におく。

海峡植民地は貿易港・軍港として発展させ、連邦州はスルタンの権限を残しながらも、スズやブラジルから移植に成功した天然ゴムの生産地として発展させるために、ほとんどの行政がイギリスが握り、非連邦州はスルタンの権限をより多く認めイギリス人は顧問としてアドバイスするに留めた。この結果、準連邦州では、イスラムとマレー語を紐帯とするマレー人社会の伝統が強く残ることになった。ジョホール州の出身のダト・オン、ケダ州出身のラーマン、そしてマハティールなどこれら準連邦州からマレーシアの代表的な政治家が出ているのが特徴的である。ただし、彼らは、英語教育を受けたエリートであることも同時に知っておくべきことである。

…改めて、イギリスの植民地支配の狡猾さを知ることになった。要するに準連邦州はあまりイギリスにとってうまみのない土地だったわけだ。だが、この地からプミプトラ政策が生まれてくるわけで、その因果関係が実に興味深いところである。と、今日のエントリーはここまで。

2016年12月22日木曜日

IBTの話(64) 私費生卒業式 '16

ラザク先生のお孫さんのスピーチ
F36の私費生の卒業式である。4月から私はAクラスを教えてきた。比較的おとなしい、よくできる華人の生徒たちをまず送り出すことになった。すでに私大合格をした生徒もいるが、これから国立に挑戦する生徒もいる。一昨日EJUの結果が意外に早く来て、悲喜こもごもではあったが、かなり高い点数を取ってくれた生徒が多い。私は大いに生徒に恵まれたわけだ。

今日の卒業式で特に印象に残ったこと。
その1は、来賓である日本大使館の一等書記官の方のスピーチである。先日エントリーした「POST TRUTH」の話が出た。イギリスのEU離脱とアメリカ大統領選で、今世界のマスコミも含めたエリートの発想・常識をひっくり返すような事が起こったと説き、IBTの留学生には、日本の大学では単にエリート的な学識だけでなく、世界をひっくり返した人々の意志をくんだ学びを期待したいという趣旨だった。式後、少しお話を伺った。「おそらく文系の生徒はその意味を多少なりとも理解したと思います。」と申し上げると、喜んでいただけた。在校中のF36の国費生にも、この内容は改めて1月に講じたいと思う。

その2は、ラザク先生のお孫さんが、IBTに奨学金を授与しに来られたことである。ラザク先生とは、11月6日付ブログで紹介した、WWⅡ中に日本占領下のマラヤから、日本に留学し、東京大空襲、ヒロシマの原爆を経験したマレーシアの日本語教育の先駆者である。ラザク先生の意志を継いで、日本への留学生に奨学金を送っていただいているのだった。なんと、ありがたいお話であろうか。お孫さんのお話は英語だったので、よく理解できなかったが、おそらくラザク先生の箴言を語られたのだと思う。生徒も真剣な面持ちで静聴していた。
卒業生のコーラス
その3は、生徒のコーラスである。日本の新しい歌のようだが、誰の何という歌かわからないけれど、卒業式に見事にマッチしたものだった。ピアノ、ギター、パーカッションも、そして準備にかかった時間の早さもなかなかたいしたものだったと思う。

記念撮影の後、会食会があり多くの生徒と歓談した。その際に、Aクラスからコメントの書かれた冊子というかマレー系の布でできたアルバムをもらった。栞には私の似顔絵が描かれてあり、授業でよく使ったコトバが書かれていた。ありがたいことだ。これまでにも、卒業式でこういう記念品を生徒にもらうことが度々あったが、今回もまた格別な思いがある。

遠くマレーシア後に来て、妻にも大いに苦労をかけながら、今日という日を迎えられたと思うのである。改めて感謝したい。

2016年12月21日水曜日

マレー・ジレンマ (1)

先日、現代アジアの肖像14「ラーマンとマハティール」(岩波書店/藤原宜之著/1996年2月5日発行)を読み終えた。日本に帰国した際にアマゾンで手に入れた中古本である。せっかくマレーシアに来たのだから、マレーシアの地理も歴史も文化も出来るだけ理解を深めたいと考えたわけである。

この本は、マレーシアのイギリス植民地時代から、マハティール第4代首相の治世までを概観したものである。すでに20年前の本だが、マレーシアの歴史に関しては、全くの白紙状態に近い私には絶好のテキストとなった。

4月当初、マレーシアの政治経済の現状については、在馬日本大使館の資料で急いで調べた。この時の学びは、その後の授業でも大いに役立った。マレーシアのことに無知な教員が、上から目線で日本の経済や政治を講じることの傲慢さを排することに役立ったと思う。この本では、その現状の前提となる歴史を掘り起こして学んだといっていい。この本についても何回かにわけて、備忘録的にエントリーするつもりである。

何より印象に残ったのは、タイトルが示す通り、「マレー・ジレンマ」という語彙である。これは、民族融和を優先した初代首相のラーマンに対して、次世代のリーダーとして頭角を現し、後に第4代首相となるマハティールが書いた本の題名である。1965年の「5月13日事件」(民族対立が表面化した事件。詳細は後述したい。)の原因について、何が間違っていたのかを問うたもので、マレー人の貧困の解消と経済構造の変革を目指すプ三プトラ政策の基盤となったものである。

この本の、いや現在のマレーシア理解にとっても核心といって過言ではない語彙である。書評をエントリーするに際して、じっくりと重要部分を読み返しながら再読していこうと考えている。

ところで、1月から理系の国費生の授業も入ってくる。私費生の国立大学対策とは異なり、時間数は8時間いただいた。彼らも社会科の授業はかなり久しぶりらしい。日本の大学で学ぶにあたって、教えたいことは多々あるが、マレーシアと比較しながら教えてみてはどうか、というアイデアが浮かんだのである。この本を読みながら、植民地化されたマレーシアと植民地化を免れた日本、州のスルタンから国王を選んでもらい5年ごとに国家元首としながら議会制民主主義を行うマレーシアと、象徴天皇制のもと議会制民主主義を行う日本。イスラムを国教としつつ多文化共生を実現しているマレーシアと、良きにつけ悪きにつけ単一民族国家たる日本…。共通点と相違点を洗いながら、授業を展開しようかと考えたわけだ。年末にかけてスクールホリデーもあるし、教材研究の時間的余裕もある。

この土曜日、念願のマレーシア国立博物館の日本語ツアーに、妻と2人で参加申し込みをした。これも、1月からの教材研究の一環である。貪欲に吸収していきたいと思っている。

2016年12月20日火曜日

4通のメールの話

IBTのオープンスクールの様子
このところ、OB・OGや友人からメールが続いた。私信故にあまり詳らかにはできないが、少し紹介しようと思う。

大学3回生になったOBから。警察官を目指したいとのこと。どんな本を読めばいいですか?との質問。私は、それなら元警察官僚で、連合赤軍あさま山荘事件などで有名な佐々敦行の本を読むべしと答えたのだった。警察官僚とはいかなるものか、みたいな部分で読み物としても面白いのが特徴である。

今年大学に合格したS君から。近況報告。若いうちに大いに悩んで、思索を進めるべしと返信した。彼のメールを読んでいて、高校時代に大いに読んだ「加藤諦三」を思い出した。よく親友のS氏やY氏(2人とも小学校の教諭になった。)と「俺には俺の生き方がある。」などを読んで、未熟なりに教育論をたたき交わしたものだ。S君の方がもう少し高度な内容だったが…。(笑)

今年大学4回生のOGから。彼女には3学期にスティグリッツの経済学を約1か月講じた。(笑)JICA関西にも連れて行ったし、ワンフェスでも再会した、ESDの私の後継者の一人である。その彼女が、大阪の中学校の教員採用試験に合格したとのこと。いやあ、嬉しいねえ。その報告だった。中学校の教師は、なかなか大変であると思うが、バイタリティの塊のようなOGなので、是非とも一流になってほしいと願うところである。

最後は、新潟の親友から。近況報告。おじいちゃんになったそうだ。まあ、私も孫がいてもおかしくないわけだが、こういう話を聞くとなにか可笑しい。そういえば、コンドでよく華人やインド系の小さい子と合うのだが、我が夫婦の対応が妙に、孫を見るような穏やかさが出てきたように思う。人生の年輪とでも言うべきなんだろうか…。

…と今日は、全く取り留めもないエントリーである。OB、OGの諸君、何気ない近況で結構、メールを待ってます。おそらく年賀状などとは全く縁が無くなると思うので…。メルアドは、本ブログのタイトルの下にもあります。

2016年12月19日月曜日

一期一会の金鳥蚊取り線香

オープンスクールの日である。青いIBTのポロシャツ(後ろに「日本留学」と書いてある。両袖には日本とマレーシア国旗が、それぞれついている。)を着て走り回っていた。そんな中、日本人会館のロビーに、蚊取り線香を売りますというお知らせが貼ってあった。当然だが、様々な家具や品物の中の一つである。マレーシアから出国する日本人の方が、いらないものを売るという掲示板で、車なんかもよく貼ってあるが、蚊取り線香というのは珍しい。

実は、先日帰国した時に妻が、蚊取り線香を2箱ほど持ってきた。我が家に蚊が多いわけではないのだが、気休めに毎晩焚いていた。それが先日ついに無くなったのだ。これは妻が喜ぶと思い、張り紙のYさんに連絡を入れてみた。その価格はなんとRM10(日本円で300円弱)である。

夕方、日本人会館に別件の品物の受け渡しがあるという事で、ついでに持ってきていただいた。思いもかけず、かなりの量の「金鳥蚊取り線香」をGETできたわけだ。しかも、私が青いポロシャツを着ていたのですぐに気づいていただけた。スペシャルな日故の功験である。

事情を伺うと、ご主人がタイに転勤されるとのこと。幼い子供さんが2人いて、蚊取り線香は危ないので使わぬまま置いておかれていたらしい。今は、電子式のものを使用されているとか。(ちなみに我が住処には、電子式の「黒豚君」も活躍中である。)「ゴミとして処分するつもりだったので、お役に立てt嬉しいです。」とのこと。

一期一会の出会いだったが、Yさんご一家のタイでの新生活が実りあるものになりますようにと祈らずにはおれない。

2016年12月18日日曜日

ついに KLCC に出向く。

ついにKLCCに来てしまった。
クアラルンプールで最も中心的な地域というと、ランドマーク的存在のペトロナスのツインタワーがあるKLCCであると言える。大阪でいえば、梅田周辺という感じである。4月にマレーシアに来て以来、近づいたことはあるが、所謂KLCCの地域内に足を踏み入れたことはなかった。それが変な自慢だったのだが、今日ついに足跡を残すこととなってしまった。と言うのも、留学フェアがKLCCコンベンションセンターで行われていて、我がIBTも日本の大学と共にブースを構えているので、校長先生から一度覗いてみてください、と要請されたのである。

大阪の公立高校の教員だった私は、こういう生徒募集への努力は、たとえ公立といえども常に行うべきだと考えていた。いくら現場で頑張っていても、それを広報していかなければ良い生徒は集まらない。教員は校務だけしていればいい、という人もいたが、それは違うと思う。現場の教員だからこそ熱意をもって勧誘できることもあるのだ。たとえ効率は悪くとも、コツコツと努力するしかない、と私は思う。私学であるIBTなら、なおさらである。というわけで、午前中の用事を終えて妻と共に留学フェアを覗きに行ったのだった。日本以外にも韓国やイギリス、シンガポールなどの大学や専門学校がブースを並べていた。なかなか盛況であった。IBTの卒業間際の私費生たちも何人か手伝いに来てくれていた。
コンベンションセンターから見たKLCC公園
明日・明後日は、フェアに参加した大学のうち、かなりの数の大学が場所をIBTに移して、フェアを引き続き行い、私たちもそのスタッフとしてお手伝いすることになっている。

マレーシアでは、大学留学がかなり身近なようだ。もちろん、マラヤ大学など優秀な国内の大学もあるわけだけれど、留学志向は日本などよりはるかに強いようである。そんなことを感じて帰って来た。

2016年12月17日土曜日

私の新しい住処 タマンデサ13

雨季なのに、このところクアラルンプールは晴天続きだったのだが、今日は昼から久しぶりの凄いスコールが来た。人間は当然大変である。タマンデサでは、屋台で商売をしている人も多い。妻がよく買うジャックフルーツのおばさんとか、いつか買おうと話している「鴨爺爺」(北京ダックのような鴨のローストを売っている)とか。きっと果物屋さんも、インド系の人のための花屋さんも大変だ。バイクで走っている人も危険なので、どこかで雨宿りをしているはずだ。南国のスコールである。降り続く時間に差はあるけれど、いつかはやむ。この諦観が大事だとこの9か月で学んだ。

ところで、タマンデサには、野良犬の集団がいる。こう書くと、恐ろしいイメージだが、みんな臆病でおとなしい犬たちである。弱者が身を寄せ合って生きている、という感じなのである。以前にも書いたけれど、猫はマレー系の人も大好きだが、犬を嫌う。華人とインド系は犬も飼うが、人口統計的には、およそ6割に嫌われているわけで、マレーシアの犬は肩身が狭いのだ。

その野良犬集団が私たちの住処から見下ろせる家の近くまでやってくることが、しばしばある。下の家は華人系らしく、若いお兄さんが時折太極拳などを屋上でしていたりする。この家にはシェパードがいて、激しく吠えるので野良犬集団の来訪がわかるわけだ。シェパードは、「この近くにくるな」というサインを送っているのか、「よく来たな」と言っているのかわかならいが…。(余談だが、この下の家は大きくて、庭でシェパードの囲いとは別に七面鳥も飼っている。鳴き声が特徴的なのでわかった。)

今朝も、彼らはやってきた。妻は野良犬の集団に、「石原軍団」という名前をつけている。(笑)

ところで、先日タマンデサから、ミッドバレーまで歩いた(12月11日付ブログ参照)時、帰りに少し雨が降っていた。バスで帰宅したのだが、私たちの乗り降りするバス停の1つ手前のバス停が、「石原軍団」に占拠されているのを私と妻は見た。おおお~。

バス停は、東南アジア風の屋根がある、趣深いバス停なのだが、そこで石原軍団が雨宿りしていたのだった。突然のことだったので、バス車中から写真は撮れなかったが、目には焼き付いている。妻と、大笑いしたのだった。幸い、このバス停で降りる人はなく、何事もなかったけれど、もしいたら石原軍団の方が驚いて逃げ出しただろうと思う。今日のスコール、どこで雨宿りしたんだろうか。

2016年12月16日金曜日

都道府県別GDPの世界地図

国費生の修了試験が終わった。私は非常勤の先生の英語の試験監督・その後の採点にも関わった。さらに来週のオープンキャンパスの準備作業などに追われていたのだった。その合間に、昨日エントリーした理系の私費生用のパワーポイント教材を作成していた。

WEBで画像検索していると、偶然面白い画像を見つけた。以前、アメリカの州のGDPを、ほぼ同等の世界各国にあてはめてみた地図のことをエントリーしたことがあるが、その日本の都道府県版である。

東京は、メキシコと同等らしい。愛知がスウェーデンと同等。神奈川がサウジアラビア。大阪はポーランドだとか。一部、ハワイやブリュッセル(ベルギー)といった国以外の地域もあるけれど、作成者は資料と首っ引きで国旗まで挿入されたと思われる。苦労がしのばれる。

日本の経済力はこんなに凄いのだ、などと驕るのは私の趣味ではないが、やはり興味深いと思う。

http://blog.livedoor.jp/meaningless88/archives/2575471.html

2016年12月15日木曜日

IBTの話(63) 多忙の極み

私は、かなりの「段取りマン」だと自負している。仕事も決して遅くないし、なにより仕事の優先順位を間違うことはほとんどないのだが、IBT1年目の試練であろうか。
国費生の修了試験の採点を重視しすぎた故に、私費生の提携校のT大学の進路書類の提出が今日の2時だったことをすっかり忘れていた。担任のK先生にご迷惑をおかけしながら、なんとか2人分、間に合ったのだが、反省することが多かった。失敗の蓄積が経験値となる。今年の進路指導は、わからないことだらけで大いに振り回された。進路書類は手間のかかる仕事だが、生徒の人生がかかった大事な仕事である。これからのためにも次年度どうすると効率的で間違いが少なくなるか、ゆっくり考えをめぐらそうと思う。

ところで、今日の5時間目は、昨日に続き今度は国費生中心の文系クラスの社会科初授業に参加したのだった。日本語については、私費生より1か月遅いのでやはりまだ力の差が見えるが、国費生らしくまたマレー系らしくいたって素直な生徒たちであった。国費生を教えるのも楽しみだ。私の授業が始まるまでに日本語の力を上げておいて欲しいと指導しておいた。

さて、今日の画像は、暇を見つけてはコツコツと取り組んでいる1月から始まるF36の理系の私費生(実は1月には卒業しているのだが…。)のための授業のパワーポイントのタイトル画面である。こちらで買った気にいってるTシャツのイラストを使ってみた。

…12月中の授業は一気に無くなったのだけれど、今日はホント信じられないくらい忙しかったのだった。ふう~。

2016年12月14日水曜日

IBTの話(62) F38の授業を覗く。

貸し出した地図帳
先日帰国時に激励した浪人生のA君から、滑り止めで受けた私立のK大学に合格したとメールがあった。着実に力がついてきたことの表れである。人気の高い大学で、決して簡単に合格できる私大ではない。センター試験・その後の前期試験までアルファー波で頑張ってもらいたいと思う。

さて、IBTである。今週は国費生の修了試験があって、地歴・公民の試験は昨日今日で終了した。詳細についてはブログでエントリーできないほど、重みのある試験である。

採点をしていたら、隣のT先生が、5限目にF38(今私が教えている生徒の下の学年にあたる)の文系の私費生クラスで初授業を行うとのこと。地図帳を貸し出したり、プロジェクターを用意したりと一人では大変なので、私も覗きに行くことにした。いずれ、彼らに私も公民を中心に教えることになるし、どんな生徒がいるのか知りたかったというのもある。(日本語能力がまだまだ政治・経済を学ぶには厳しいので、まずT先生に地理を中心にやってもらうことになっている。)

なかなか元気なクラスであった。F36の私費生のAクラスは、極めて真面目で静かなクラスだったので、少しばかり雰囲気は違う。T先生の醸し出す、社会科を共に楽しく学んでいこうという雰囲気もあると思う。一人ひとり自己紹介をして、その都度地図帳を貸し出していく。1年間使うものだ。

やはりと言えばやはりなのだが、自己紹介を聞いていると、ほとんどの生徒が日本語を学ぶきっかけは、日本の漫画やアニメ、そしてTVドラマなどであった。これは、F36の生徒にも共通しているし、前々任校のアメリカの姉妹校の生徒とも共通している。(笑)彼らの読んでいる漫画やアニメの名前は私の知らないものばかりだった。(笑)

私も少し自己紹介した。来年のEJUで160点を取らせたい、とちょっと風呂敷を拡げてみた。その時の彼らの真剣な顔は、やはりIBTの生徒の顔だった。来年度も大いにロマンをもってやれそうだ。

2016年12月13日火曜日

「中国一国論への疑義」への疑義

http://edition.cnn.com/2016/05/04/opinions/
what-would-founding-fathers-think-of-trump-ellis/
トランプ次期大統領の発言の真意がわからない。そもそもが超ポピュリストであるから、就任前からどんどん打ち上げ花火的な発言があるだろうと思っていたが、「1つの中国論への疑義」にはさすがに驚かされた。

アメリカ国内も、中国も大騒ぎになっている。もしアメリカが対中保護貿易に方向転換するとすれば、世界経済は大打撃を受けるだろう。もはやグローバリゼーションを縮小することはできないのではないか、と経済を学んだ者ならわかるはずだ。同時に、それが武力対立の抑止になっているのである。グローバリゼーションには、経済格差拡大という大きなデメリットがあるが、自由貿易で各国が経済的な結びつき・依存を深めることで、市場が平和を守っているというメリットもある。

たしかに近年の中国の外交姿勢は、国際社会の中では問題が多い。トランプの指摘するところは間違っていない部分もある。本気で1つの中国論を潰すつもりはないだろうが、打ち上げ花火としては、あまりに危険な大玉すぎる。経済と外交・安全保障政策を安易に結び付けない方がいい。

私は、アメリカの混乱より、中国の混乱の方を危惧している。中国を安易な欧米の尺度で見ない方がいいというのが持論である。中国共産党の支配体制が崩れることは、欧米的な市民革命=民主化を意味しない。中国の社会類型は、欧米とは三角形とは逆なのである。三角形の上部・権力の座には不自由な共同体が、その下部には自由な個人が莫大にうごめいているのである。重しを取ったら内乱の可能性が高い。GDP世界第二位の内乱国の出現に世界はとんでもない安全保障上の危機、巨大な難民問題、そして経済危機を迎えることになるだろう。

トランプの打ち上げ花火的会見内容や、ツイッターの一言ひと言で世界中が大騒ぎするのは、もう、うんざりだ。基本的にアメリカのプラグマティズムは、結果オーライで判断されるが、あまりに発言がスキゾすぎる。こんな人物が世界に君臨するのは、極めて危険である、と私は思う。

2016年12月12日月曜日

道教の寺院を見に行く。

ムハンマドの生誕祭で今日はマレーシアの祝日である。本来ならどこかのモスクを見に行くのが筋だが、先日のイスタンブールの事件もあり、あえて遠慮することにした。昨夜、マレーシア政府観光局の発行している日本語のクアラルンプールのガイドブックに、「セ・ヤ寺院」というクアラルンプールで最も古い道教寺院のことが載っていた。クアラルンプールの創設者の中国人のキャプテンのヤップ・アー・ロイが建立し、内戦時にロイを導いたとされるシン・セ・ヤとシ・セ・ヤという神が祀られていいるという。グーグルマップで探したら、セントラルマーケットの近くらしい。
たしかに、シン・セ・ヤとシ・セ・ヤの二体の神像が祀られていた。
この三連休は、これまでになく出歩いている。EJUの試験が終了するまではと気が張っていたので出歩かなかったのだが、その反動のような三日間だった。10時前に住処の前から650番のバスで出発。終点がセントラルマーケットである。

妻はだいぶ前に、ブキッビンタンに行った帰りに少しチャイナタウンを歩いたけれど、あまりなじみがない。私はEJUの時を含め何度か来ているので地理的にも明るくなっている。迷わずに、裏道にあるセ・ヤ寺院に行くことができた。道教寺院は妻も香港で見たことがあるので、違和感はない。線香をたいている華人の信者の姿が多い。観光地というよりは、まさに信仰の場であった。
その後、チャイナタインの中心街を歩き、妻が気に入ったものを食べたり、テイクアウトしたりして散歩を楽しんだ。気に入ったTシャツがあったので、少し高いけれどバングラディッシュ人の兄ちゃんの商売熱心さに負けて少しだけまけさせて購入した。なぜならTシャツにはこう書かれてあるのだ。「I Don’t Need Google. My Wife Knows Everything.」(笑)私が買わないで、誰が買うのか?というようなTシャツである。
帰路、ヒンドゥー教のスリ・マハマリアマン寺院に寄った。ちょうど礼拝の時間だったようで、4人の楽団が演奏する中、左の祭壇から中央、そして右の祭壇へと花がかけられ、信者のインド系の人々が列をつくってお参りしていた。偶然だが、ヒンドゥー教の礼拝まで見てしまったのだった。ジャストミート。うーん。たしかに、妻は何か持っているのだ。
約3時間の散歩だった。帰りはまたセントラルマーケット横のバスディーポから650番に乗った。なんと行きと同じ運転手だった。(笑)

2016年12月11日日曜日

私の新しい住処 タマンデサ12

タマンデサの日本の鯉を売る店の前から撮った画像 うーん、熱帯。
3連休の中日である。昨日は妻とタクシーで、いつもはA先生に連れて行ってもらう業務スーパーまで行ってみた。なんとかタクシーで行き帰りができることがわかった。こういう買い物は案外長い間歩くので、運動になる。今日はその第二弾。歩いてミッドバレーまで行ってみた。
最北端の商店街。日曜日なので閉まっている店が多かった。
タマンデサの住処からバスのコースに従って歩き、北側にある讃岐うどん屋(ここも何度かA先生に連れてきてもらったことがあるので土地勘がある。)を目指す。650番のバスコースから唯一外れた商店街である。前にはちょっと(借りるには)高そうなコンドが2つ建っていて、その向こうはハイウェイである。タマンデサ地区の最北端になる。
ハイウェイをくぐる地下道を発見
ミッドバレーの次の駅
もう少し行くと、ハイウェイの下を抜ける地下道(歩行者とバイクのみ)があって、ミッドバレーの次の駅に出た。この辺は、グーグルマップで調べたことはあるが、未知のエリアである。さらに、向こうに見えるビルの方向を確認しながら歩いていくと、もうミッドバレーである。ついに職場であるIBTのある日本人会館の入り口にでた。その後、メガモールに寄って、帰りはバスというコース。今日は日曜日なので、メガモールは凄い人出だった。しかもクリスマス前なので、カップルや家族連れもなんか盛り上がっている。

実は、明日はムハンマド生誕祭で休日である。イスラム教は偶像崇拝禁止なので、メガモールも、生誕を祝う飾りつけができないようで、もっぱらクリスマス仕様であった。信仰者の数でいえば圧倒的にイスラム教のほうが多いのだが、国民国家・多文化共生のスタンスで、資本主義的なマーケティングにおいては、キリスト教のクリスマスに重きを置くという姿勢。この辺、マレーシアは実に面白い、臨機応変だと私は思う。

2016年12月10日土曜日

IBTの話(61) 理系生徒の発表

https://www.flickr.com/photos
/caoto/8107830184
IBTで、私は文系の生徒を教えている。理系の生徒と授業で接する機会はほとんどない。しかし、1月から国立大学をめざす私費生に週1コマの「社会事情」、国費生に週3コマの授業(これにはまだ名前がついていない。笑)を教えることになっている。そんな状況下、理系Dクラスの私費生にとっては最後の授業の日だった昨日、日本語の授業で、研究発表が行われた。理系の彼らは、IBTに入ってから、いや高校の2年間(マレーシアの高校の就学年数は2年間。)も歴史や地理、政治経済などの授業を受けていない可能性が高い。だから、はっきり言えば文系の生徒より、社会科の基礎知識のレベルは低いらしい。とはいえ、どれくらいなのか、知りたかったので、金曜日は授業がないのを幸いに2時間分、見に行ったのだった。

お題はそれぞれ「ノーベル賞」と「アメリカ大統領選挙」である。指定されたお題をくじ引きで担当しているらしい。他のお題もあるのだが、私が見たのは、この2つである。日本語の能力も、文系に比べて少しばかり厳しいかもしれない。理系生徒は、数学・物理・化学もやるので、カリキュラム的にもいっぱいいっぱいなのだ。社会は、日本語の能力が大きく影響するが、数学や理科は、日本語以上に理系的な頭脳を鍛える必要があるので、単位数も多いわけだ。

さて、研究発表である。パワーポイントも使っての発表である。「ノーベル賞」については、残念ながら、その存在理由が明かされていなかった。ノーベルの遺言。ここが重要なのだけれど。理系の生徒が知っておくべきことだ。理系の罠とでもいえばいいのだろうか。ダイナマイトの発明者で巨大な利益を得たノーベルは、「死の商人」などと呼ばれていた。そこで財産を後世の科学振興のために拠出したこと、つまりは贖罪である。今やノーベル賞の価値は、たしかに高いし、どうしてもそちらに目が行くけれど、日本で工学を学ぶ理系の生徒には何よりここは抑えてほしかったところだ。自然科学は、人の暮らしを良い方にも悪い方にも進歩させる。自然科学をやる人間こそ哲学が必要なのだ。

「アメリカ大統領選挙」の方は、かなり調べていたけれど、やはり様々な情報が玉石混交していて、どうしてもまとまりに欠けた。先日のトランプ勝利の話が中心になったけれど、憶測的な、社会科学的には看破できない発言内容もあった。まあ、当然であると思う。そんなに簡単に地政学的な話をされると私も困るわけだ。(笑)でも、彼らはかなり興味を持っていることがわかった。これが最大の今回の授業見学の成果かもしれない。

彼らの多くは、日本の国立大学の工学部を目指している。研究者や技術者として、マレーシアの今後を支える貴重な人材である。心して教材づくりをしようと思う。私費生の「社会事情」の導入は、「ノーベル賞」の存在理由から、と決めた。

2016年12月9日金曜日

IBTの話(60) POST TRUTH

http://y98.cbslocal.com/2016/11/16/the-word-of-the-year-for-2016/
昨日の放課後、物理のM先生から「”Post truth”についてどう思われていますか?」と唐突に質問を受けた。「何ですか?それ?」と私。およそ説明していただいて、それなりに私の思うところを述べたのだが、帰宅後、調べてみると、オックスフォード英語辞典の2016年を象徴する今年の単語であった。M先生は、マレーシアの英字新聞をよく読んでおられるので、ご存じだったようだ。なかなか知的な会話である。職員室という空間はこうでなくてはならない。(笑)

この”Post truth”の意味は、朝日新聞のデジタル版によると、「世論形成において客観的事実が感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」という、極めて難解な直訳になっていた。私は、”Post”を「後ろの」という意味で受け止めていたが、「重要でない」という意味らしい。要するに、「真実が重要でない」という状況という形容詞であるわけだ。
http://answersafrica.com/oxford-dictionary-crowns-post-truth.html
ちょうど、ポスト構造主義をIBTの生徒に教えた直後なので、ドゥルーズ=ガタリの哲学をもとに考察すればわかりやすい。昨日、M先生に私の意見を述べたが、それはこれらの哲学的考察から導かれたものである。日本の論壇では、この”Post truth”、内田樹先生風に言えば、”反知性的な”という語に置き換えることが可能か、と思う。ポピュリズム批判に使われる語でもある。ウクライナ問題、南沙諸島問題、EUの反シリア移民的政策、英国のEU離脱、トランプ現象、韓国の朝鮮戦争停戦中にもかかわらずの朴大統領弾劾…。これまでの常識的な社会コードが、次々と崩壊し、リゾーム化しているわけだ。

…30年前に浅田彰の(ドゥルーズの哲学を紹介した)「逃走論」などを読みながらも、「スキゾ」という概念が、もうひとつピンとこなかった。それが、今は、スマホを持ったヒトがそこら中にいる。それぞれが、SNSや音楽やゲームに浸っている。昔は考えられなかったまさにスキゾな光景である。哲学は、やはり学問の王だ。その時代のコンフリクトを映し出す。改めてそんな感想をもった次第。
http://www.asahi.com/articles/ASJCJ6F2CJCJUHBI03S.html

2016年12月8日木曜日

IBTの話(59) ウーリーシンキング

A・Cクラスとも、私費生最後の授業の日であった。最後の授業は、予定どおりウーリーシンキングを行った。日本では、やり慣れたアクティビティだが、華人の生徒やマレー系の生徒がどういう反応を示すかという点で大いに興味があったのだが、日本人の生徒以上に熱心に取り組んでくれた。今回の命題は生徒の人数の関係で、Aクラスは9個の命題、Cクラスは10個の命題で行った。命題は次のとおり。日本の場合と少し変えてみた。

1.エネルギー 2.教育 3.環境 4.平和 5.経済 
6.領域国民国家 7.グローバリゼーション 8.リベラル・デモクラシー
9.日本のアニメ 10.マレーシア

最後の総合科目の授業であるし、総まとめとしてちょっと難しい命題も入れてみた。また、「日本のアニメ」については、多くの生徒が大好きなので、盛り上げるために設定してみた次第。

ゲーム中に交わされた対話は、かなり高度なものになった。特にAクラスでは、国費生の男子がよく頑張ってくれて、たとえば、環境と日本のアニメの関連性などについても、具体例を述べるように要請していた。このアクティビティの最も面白い部分を見せてくれたと思う。このアクティビティは、極めて知的なものなのだ。こういうことは、ずいぶん久しぶりである。ちなみに、日本のアニメと環境の関連性について、両クラスで質問してみた。宮崎駿のアニメには、環境関連が多いことを確認したのだった。私が第一に浮かんだのは「平成狸合戦ポンポコ」だが、「もののけ姫」や「となりのトトロ」、そして「風の谷のナウシカ」など、実に環境をテーマにしたものが多い。日本のアニメは、そのほかにも様々な命題に取り組んでいることを再発見したのだった。

マレーシアならでは、というゲームの進め方についても記録しておこうと思う。マレー系の生徒は男女の接触を禁止されている故に、毛糸を結びつけたりする際接触する可能性の低いスタンドプレーヤー(交渉を受け付ける側)に男子を置いた。毛糸を持って結びつけるのは専ら女子にしたし、男子に毛糸を巻き付ける際は、男子自らが行うように指導した。この辺は、気をつかうところである。(本当なら、南北貿易ゲームとともに国際理解教育学会の研究発表大会で発表したい内容である。)

蜘蛛の巣のような命題の関係性の輪が出来て、真ん中にはどんな命題があるだろうか?という質問に、様々な答えが返ってきた。答えはないのだが、私としては、「持続可能な開発かな。」と言うと、皆が納得した。これが、私の総合科目の最終講義でもあったわけだ。

2016年12月7日水曜日

IBTの話(58) 断水の余波

http://blogs.yahoo.co.jp/
kubo8181/33016598.html
昨日からIBTが入っている日本人会館が断水していて、1限目終了後、Cクラスで西洋哲学史講義を終えて職員室に帰ってくると、トイレが使えないということで、臨時休校が取りざたされるという事態になっていた。ゲゲゲ…。結局、トイレが使えないという非人間的な環境では、授業は不可能と言うことで、2限目終了段階で臨時休校になったのだった。私はAクラスで90分授業の時間を担任のK先生に工面していただいて、なんとか西洋哲学史の最終講義(ポスト構造主義)を終えることができたのだった。

それにしても、工事か何かの関係らしいが、日本では考えられない事態である。長い教員生活で、トイレが使えず休講というのは、初めての経験である。(笑)明日は、いよいよCクラスでも最終講義、そして両クラスとも2つめのアクティビティ、ウーリー・シンキングで私の総合科目の授業を終える予定である。予定通り授業が行えますように。合掌。