2015年3月31日火曜日

S事務長を桜下、校歌で送る

暖かい一日だった。学校の前の公園の桜は満開、本校の桜は八分咲といったところである。今日は朝から、来年度の時間割作成作業をしていた。私は、本校で4校目だが、教務の仕事としてそれぞれ時間割作りに携わってきた。だいたい高校には、時間割作成用のボードがある。クラスの時間割を組む部分と、教師各人の時間割を組む部分に分かれていて、最も上が月曜の1時間目、最も下が金曜の6時間目というカタチである。それぞれ金属で田の字型に枠があって、そこにコマを入れていく。コマにはクラス用の教科名、教員各人にはクラス名と教科を記しておく。このコマ作りが第一段階である。(これがまた大変な作業である。)

この時間割づくり、学校によって少しずつ違う。最初の商業高校では、商業実践という3年生の教科は毎年時間割が決まっている。工業高校でも実習科目がまず入る。前任校では、英語のALTのかむ授業をまず入れた。そこに家庭科や芸術科、体育科などをまずいれていく。使用教室などが重なると困るといった条件があるからで、要するに、条件が厳しい科目から順に時間割を埋めていくのがセオリーである。(工業高校では、師楽というコンピュータソフトで、まず第一案をつくるのだが、結局手直しを何度もしたので同じことだ。)

本校では、なんといっても体育関係である。体育科や武道科の専門科目もあるし、全24クラスあるわけで、まず体育科で時間割を作ってもらうのだ。これに、様々な選択科目を入れていく。また非常勤講師の先生方の出勤曜日も鑑みながら、優先順位を決めて条件の厳しい順に埋めていくのである。

今日は、選択科目の多い3年生の時間割をS先生と二人で組んでいた。なかなか複雑である。1日でほぼ3年生の選択科目の時間割を組んだ。これが第二段階である。コマが埋まれば埋まるほど、調整が難しくなる。明日はその第三段階の調整に挑戦するわけだ。

さて、今日は年度末最終日である。本校のS事務長が、今日で退職される。S事務長はほんと温厚な方で、学校運営の「仁義」を深くわきまえた方であった。我々教育職が気持ちよく、また効率よく仕事ができるように、影になって支えていくという行政職の「仁義」である。このところ、財政的な問題からか、行政的な効率性が学校にも強く求められるようになった。智に働けば角が立ち、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈な、まさにそんな中、落としどころを探りながら走り回っていただいた。私も大変お世話になった。そのS事務長の勇退の日なのである。今年も、野球部を中心にクラブの生徒が正門に集まり、校歌を歌い送り出したのだった。

先日、二人だけの会話の時「老いては妻に従うが大事。」と笑いあった。S事務長、お疲れ様でした。いつまでもお元気で。

2015年3月30日月曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート1

何度か名前の出る最貧国ブルンジの人々の画像 http://vpoint.jp/photonews/39575.html
「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)を半分くらい読み終えた。ボチボチ、学んだことをエントリーしていこうと思う。この本は、これまでの私のアフリカ開発経済学の研鑽内容ををかなりの部分で補完してくれている,ありがたい本だ。

ちなみにこの本の構成を示しておく。なかなか興味深い構成になっている。
序章は「アフリカとはどのような大陸か」で、地理・自然、言語・民族・宗教、自然環境・人間社会といった基礎的な内容が書かれている。 
第一部は「アフリカ経済と世界史」である。近代以前、植民地支配とその遺制、独立後の政治経済体制、アフリカ経済の現状ろその「質」ろなっている。
第二部は、「経済のグローバル化とアフリカ」で、産業と貿易、企業と直接投資、金融の役割、グローバル化とりジョーナル化。
第三部は、「社会の変容とアフリカ経済」となっていて、社会変動と人間の安全保障、アフリカのイスラーム経済、アフリカの民主化、開発援助の変遷、そして終章となっている。

今のところ、第二部の企業の役割のところまで読んでいるのだが、今日は極めてベーシックな印象の強い序章で発見した箇所をエントリーしようかと思う。

地理的な部分では、土壌の箇所がこれまでの私のアフリカ農業への理解を補完してくれた。
大地溝帯の火山の裾野には肥沃で降雨に恵まれた高地が広がっている。カメルーンの火山から流出した溶岩地層も比較的肥沃である。一方、赤道地帯の土が貧弱である。この理由は、激しい雨と高い温度のために肥沃度を保つのに必要な土壌の鉱物や腐葉土が破壊されてしまうからである。サバンナの土壌はそれに比べれば肥沃だが、交互に訪れる雨季と乾季は土壌をやせて固いラテライト状にしてしまい、また過耕作や過放牧のために土壌浸食が進んでいる。

言語に関して、ほとんどすべての国民が同じ第一言語を話す文化的に同質性の高い国として、はブルンジ、ルワンダ、レソト、スワジランド、ソマリアとモーリシャス以外の島国が挙げられるそうだ。ブルンジとルワンダは意外だった。ブルンジは、ルンディ語、ルワンダはルワンダ語である。

人口増加率に関して、特に急速な国は、ジブチ、コートジボワール、ケニア、ウガンダ、ニジェールなどであるが、ジブチ(50年で11倍)、コートジボワール(同じく5倍)は近隣諸国からの人口流入が大きく影響している。ケニア他3国は出生率と死亡率の急速な低下が強く作用していて、年平均3%の増加であるが、モーリシャス、セーシェル、カーボヴェルデ、レソトなどは1%台で南アジアより低い。

28のアフリカの国で都市人口が1960年と2010年の間に10倍以上に増加している。ボツワナでは75倍にもなっている。その他、モザンビーク、ルワンダでも30倍、アンゴラ、ガンビア、レソト、スワジランド、タンザニアでも20倍に増加している。最も都市人口比率が高いのはジブチ(88%)とガボン(86%)で18の国で都市居住者が人口の半数を超えている。一方。11%のブルンジや13%のウガンダなど14カ国の都市人口は3割にも満たないのだという。

…なかなか面白い資料だ。こうしてアフリカの国名を書き記しているだけでハッピーになる。(笑)

2015年3月29日日曜日

毎日 ケニアテロ容疑者追跡記事

http://adressa.alda.no/bestillpluss?7&aviskode=ADR&artRefId=101051
03&targetUrl=http%253A%252F%252Fwww.adressa.no%252F%253Fservic
e%253DpaywallRedirect%2526articleUrl%253Dhttp%253A%252F%252F
www.adressa.no%252Fpluss%252Fnyheter%252Farticle10105103.ece
毎日の朝刊に、13年のケニア・ナイロビのモールで起こったアルシャバブのテロの容疑者(すでに事件時死亡)の追跡記事が載っていた。執筆記者の服部氏(ヨハネスブルグ支局)が、追ったのは、ハッサン・アブディ・デュフロー容疑者(当時23歳)である。彼はノルウェイからアフリカに戻ってきた人物である。しかもテロ事件中に負傷したフランス人買い物客に「子供は外に出てもいい。」と流暢な英語で言ったという。子供が「人を撃つなんて悪い人だ。」と非難すると「俺たちは怪物じゃないんだ。ケニアや米国がソマリアを攻撃し、多くの人たちが殺されているんだ。」と答えたのだ。その襲撃時にも人間的だった彼は、どのような人物だったのか。

現在ノルウェイの人口の1割強が移民で、ソマリ人は出身国別では4番目、2万6千人ほどである。テュフロー容疑者は、オスロの南、人口4万ほどのラルビクに住んでいた。ここには200人ほどのソマリ人移民が暮らしていた。彼は9歳の時に叔父叔母夫婦の元にきた。内戦から避難してきたらしい。白人の隣人からは控えめな良い子に映っていた。高校に入るまでは、礼拝もしない少年だったが、高校に入ってから校内でも祈るようになったという。

ちょうどこの頃ソマリアは大きく揺れていた。エチオピアの侵攻、それに対抗するアルシャバブ。彼がこの頃熱中していたのが、イスラム系のWEBサイトで、2500以上投稿している。”インターネットのビンラディン”と呼ばれるアラビア半島のアルカイダ幹部・アウラキ容疑者(イエメンで殺害された)の影響を強く受けた。08年以後、彼はアルシャバブへの強い共感を示す。09年高校を卒業後、ソマリアに向かい2年後ノルウェイに帰国した際はアルシャバブしか着ないような緑(注:イスラムの色である)の服を着ていたと友人が明かす。

家では6人の幼い子供がおり料理や掃除を行い、流暢なノルウェイ語を話し白人社会にも溶け込んでいるように見えながら、ソマリ人にもノルウェイ人にも友人がいなかったという人もいる。彼の高3になった時の集合写真には、一人イスラムとわかる服装で寂しげな表情をしていた。(画像参照)

服部記者は、この記事をこう結んでいる。孤独感に包まれる中、忍び寄ってきた過激思想が、彼の心の中邪悪な面を引き出してしまったのか。これからも過激思想がどこかで誰かの内なる「怪物」を引き出す可能性は誰も否定できない。

…服部記者の感想は私にもよく理解できる。そういう見方は一般的だろう。ただ、あくまで日本やノルウェイといった富める側にある先進国の人間の視点であると私は思ったのだ。

…彼の孤独は、常岡氏が先の本の中、イスラム国の義勇兵の箇所で指摘していたように、ヨーロッパ移民の「疎外」から来るものではなかったか。デュフロー容疑者は、純粋な青年だったのだと思う。彼は、(高校入学前は)医者になってソマリアに戻りたいとも言っていたという。しかし、イスラムの信仰に目覚めた後、目に映るノルウェイの豊かな生活と、故国ソマリアの圧倒的な差に、嫌悪感を抱いた(構造的暴力を強く認識した)のではないだろうか。同時に自分のアイデンティティを、どちらに置くか(ノルウェイ人として生きるか、ソマリ人として生きるか)というジレンマが強くあったのではないか。
…そのノルウェイとソマリアの圧倒的な差異を強く認識したとき、純粋であればあるほど、故国のために自分に何ができるかという思いが沸き起こるだろうし、それが復古主義(あえて過激思想とは呼びたくない。欧米からみた過激主義というコトバであると私は思う。)と接することで、ソマリ人として生きることを選び、そのあるべき姿を求めて、このような事件に参加することになったのだろう。「怪物ではない」という彼のコトバには、真の怪物が他にいることを暗示していると私は思うのだ。

2015年3月28日土曜日

サウジのイエメン空爆に思う

イエメンの首都 世界遺産の街サナア
http://viralscape.com/most
-dangerous-cities/sanaa-yemen/
このところ、中田考氏や常岡浩介氏の本を読んできたので、イエメンのシーア派武装組織フーシが首都サナアに侵攻したというニュースを受けて、きっとワッハーブ派のサウジが黙っていないだろうと思っていたら、まさにその通りになった。

イエメンはそもそも古くからのスンニ派とシーア派の人口比率が近い国だし、南北に分かれていたりして歴史もかなり複雑である。しかも、アラビア半島で最も貧しい。サウジにも多くの出稼ぎ労働者が来ているはずだ。イエメンの不安定化は、イランやシリアとの戦いを抱えているサウジにとって地政学的な問題であるとともに、国内の治安問題でもあると私は思う。

昨日の日経には、就任して間もないサルマーン国王が、アラブの国々を訪問し、このイエメン包囲網の根回しをしていたようだという記事もあった。サウジは、中田氏の本にもあったように、極めてシーア派を敵視している。イエメンのシーア派は、イランなどの十二イマーム派とは異なるザイド派であるようだが、シーア派はシーア派である。

当然、イランは批判を強めている。だんだん中東がスンニ派対シーア派の相互のジハード状態になってきたことを深く憂慮する次第。私自身は、アメリカや欧州を含めた異教徒(非ムスリム)があまり手出しをすべきではないと思っている。展開がややこしくなるだけだと思っている。とはいえ、イエメンは、紅海の出口に位置する。そうもいってられない事情もあるわけだ。

イエメンの首都のサナアは、世界遺産にも登録されている貴重な文化遺産の街である。一般の人々の無事とともに、その景観の無事をも祈りたい。

2015年3月27日金曜日

GWは今年も春一番に行く。

昨年はこんな感じでした。http://plaza.rakuten.co.jp/gensenkan/diary/201503100000/
先日、GWに岩国に行くことをエントリーしたが、GWと言えば「春一番」である。フォーク世代の我が夫婦としては、年に1度の楽しみである。昨年は、雨の服部緑地、豊田勇造の歌に痺れ、本人と話まで出来たのだった。

先日、「春一番」のHPを開けたら、ついに出演者が確定していた。3日は岩国への強行軍なので、一日あけて、5日か6日しか選択肢がない。

夫婦で、出演者の顔ぶれを見ながら考えた。5日は、豊田勇造が出る。おお、加川良もでるぞぉ。6日は、妻が大好き・金子マリ、おお、憂歌団の木村充輝、天使のダミ声である。なんとジャズの山下洋輔も出るではないか。そしてアチャコが出る。昨年、すごい衝撃を受けたアチャコである。親友のH氏に妻が電話した。「やっぱ、アチャコが最大の決め手やなあ。」ということで6日に行くことになった。昨日、さっそく妻がローソンに走って3人分のチケットをゲットしたのだった。

次の日は仕事だが、仕方がない。岩国の疲れを十分に癒してから、GW最終日、盛り上がるぞぉ。

2015年3月26日木曜日

シンガポールとカンボジアの違い

http://scene.sg/top10/top-10-thing
s-you-didnt-know-about-lee-kuan-yew/
シンガポールのリークワンユー元首相が亡くなった。様々な記事が各新聞に載っている。なかなか毀誉褒貶の多い人物のようだ。私は、シンガポールは、空港にしか滞在したことしかない。だからあまり属性はないのだが、面白い記事を今朝の日経で見つけた。メモをし忘れたので、概要だけエントリーしておきたい。

資源のない貿易中継地であったシンガポールの経済成長は、安価な労働力を利用した縫製工業から始まった。リー首相の打った経済政策は、まさに開発経済学のセオリーどおりである。しかし、やがて国民の低賃金への不満が高まる。だが、リー首相は賃金を押さえたまま、国富を先端産業への投資に振り向けた。今のシンガポールは、この時の経済政策の賜物だというのだ。

一方、カンボジアは、同様に安価な労働力・縫製工業で飛翔したのだが、国民の低賃金への不満に政府がすぐ答えた。だが、この政策は裏目に出る。後発の他国に仕事を奪われる羽目になるのだ。以来、カンボジアの経済成長は不調に陥ることになる。

シンガポールの経済政策が正しく、カンボジアの経済政策が間違っていたというわけではないだろうが、リー元首相の「時」を見る目、「先」を見る目が優れていた、と言えるのだろう。

開発経済学を少しばかりかじっている私だが、こういう事例を聞くと、まさに目からウロコである。

卒業生からのメールへの返事

http://chema2sa.blog.fc2.com/blog-entry-632.html
校内の人事もほぼ固まった。来年度、私は人権主担となった。所属は教務部である。3年間連続で担任をしたら、担任を忌避してよいという校内のルールもあるが、同じ年齢の学校長には4組を越えるクラスをもう作れない。最後にしたいという我儘を通させていただいたわけだ。しかしながら、さすがに人権主担を断ることはできなかった。ところで、後で知ったのだが人権主担は、校内の主任の先生方が協議する会議にも出席が義務付けられている。今日は、その会議に出た後、新1年生の教科書や制服購入などの準備・手伝いをしたり、新年度の時間割の準備をしたりしていたわけだ。まあ、雑務の嵐である。(笑)実は、私は案外、こういう雑務、嫌いではない。いくら歳を重ねても、傲慢になってはいけない。やれることを地道にやっていくことが大切だと思っている。

ところで、時間割作成の準備を面談室でしていると、メールが入った。先日卒業したS君からである。「この四年間教師になるために読んでおくべき本ありますか?」という内容だ。うーん。ちょうど、理科の若手のI先生が新学年の情報を伝えに来ていてたので、相談してみた。「このメールに、どう答える?」少し考えたI先生は、「沢木…」とつぶやいた。「そうやな、沢木耕太郎、深夜特急。」「ですねよ~。」と見事に意見が一致したのだ。

教師になるなら、まず世界を見て欲しい。大学時代にどこでもいい、貧乏旅行に出るべきだ。深夜特急は、まさにそのバイブルである。たしかに内容は、最初はマカオで博打に熱中するし、今は全く行けないアフガンのカブールにも行く。もう時代が違うかも知れない。だが、これを読めば、気分はバックパッカー、猛烈に世界に出たくなるのだ。

多感な時代に世界を見ておくことは、このグローバルな時代に、最も必要なことだと思う。そのためのバイブル、深夜特急。メールの回答としては悪くないと思う。

2015年3月25日水曜日

日経 交遊抄 計算尺の話

http://hwm7.gyao.ne.jp/hasu/keisan.htm
今朝の日経・最終面の交遊抄に、計算尺クラブの思い出の話が載っていた。若い人は知らないと思うが、私の年代はギリギリ数学の教科書に計算尺の使い方などが載っていたりして、実物に触れたことがある。今はもう亡き父親は、海軍航空隊の整備兵をしていた。当然計算尺が使えたので、中学時代に教えてもらった思い出がある。乗除算はもちろん√などカーソルを動かしたらその数値が出てきて感激したことを思い出す。これを考えた出した人間は天才に違いない。そう思ったものだ。

映画「風立ちぬ」でも、この計算尺が要所要所でアイテムとして登場する。今なら電卓で計算するところだが、計算尺には妙に味がある。工業高校にいる頃、ふと計算尺の話題になって、年配の機械科の先生方はよく作業服の胸ポケットに計算尺を入れていたものだと、懐かしそうに話されていた。

電卓というものが出た頃は、大きくて、しかも凄い値段だった。ん十万したはずだ。どんどん小さくなり、薄くなり、あっという間に安くなった。計算尺は全く無用の長物になってしまったわけだが、私は計算尺になんとなく愛着を感じている。

ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)博物館には、凄い計算尺コレクションがあった。で、息子にお土産として小さな計算尺を買い求めたのも、そういう自分自身の歴史が重なったからだと思う。その小さな計算尺はメイドインジャパンだったのだけれど。(笑)息子に使い方を聞かれたのだが、すっかり忘れていて教えることはできなかった。今、計算尺が使えたらおしゃれだな、と思うのだ。

交遊抄を読んでいて、こんなとりとめのないエントリーをしてしまった。

2015年3月24日火曜日

GWは岩国の航空基地祭へ行く

昨日、妻が送られてきたある旅行会社のチラシを見ていて、「岩国の海兵隊基地のツアーがあるで。」と言い出した。ブルーインパルスを見て以来、妻も航空ファンになってしまった。(笑)岩国には、米海兵隊と海上自衛隊の基地が併設されている。(もっと言えば民間の岩国空港の滑走路を併用している)そのフレンドシップデーというのが、5月3日にあるそうで、ブルーインパルスだかどうかわからないが飛行ショーもあるらしい。

米海兵隊と聞いて、私がまずイメージするのは(イギリス製の米国海兵隊仕様のVTOL機)ハリアーだ。ハリアーは直接見たことがない。行きたい。大阪の南港からフェリーで新門司港まで。そこからバスで行くようだ。帰りは高速をバス。朝8:30から15:00までたっぷり見学時間がある。で1人2万円だという。さっそくインターネット予約を昨日したが、結局ダメだった。キャンセル待ちなうえに最後の最後でやりなおしになったのだ。

でもせっかくなので、岩国基地についても調べていると、あの大好きな海自の飛行艇USー2がいる。ホント、行きたかったなあと思っていたのだ。

ところで、今日は入試関係の仕事がひと段落して有休をいただいた。朝から、妻があきらめきれず旅行会社に電話をしたのだった。すると、フェリーの2等(要するにごろ寝するわけだ。)ならまだ行けるそうで、なんと予約が取れたのだった。おおおっ。すごいぞ。やったな。妻。

昨日のエントリーなどとはえらく矛盾しているように思う。もちろん戦争反対だが、ヒコーキは大好き。航空ファンというのはそういうものである。

2015年3月23日月曜日

常岡浩介「イスラム国とは何か?」

ジャーナリスト・常岡浩介氏の「イスラム国とはなにか?」(旬報社・2月11日発行)を読んだ。常岡氏は、イスラム法学者中田考氏とともにイスラム国に実際に入って3度も取材活動をした人物である。

読後ノートとして、重要な論点を箇条書きで集約しておきたいと思う。中田氏の2著作と併読してイスラム国理解はさらに深まったと思う。ちなみに、常岡氏もムスリムであり、中田氏のカリフ制再興への深い理解の上で書かれている。

1.イスラム国がここまで大きくなった最大の原因は、アラブの春によって内戦化したシリアのアサド独裁政権の凄まじい住民虐殺(20万人と言われている)を見逃してきた国際社会にある。アメリカは、ロシアの化学兵器破棄の提案に乗ってしまい、アサド政権をシリアの正統な政権と認めてしまった。しかもイスラム国への空爆によって、反政府組織・自由シリア軍とも複雑な関係になってしまい、もはや泥沼化はさけられない。制空権をもつアサド政権は、今も「たる爆弾」を使って虐殺を続けている。

2.イスラム国がシリアとイラクで領土を拡大した理由は、真正面からアサド政権と戦おうとせず、他の反政府軍が解放した地域を、軍が移動後占領するという漁夫の利戦略をとっているからである。シリアで勢力を高め、イラクでモスルを攻略したことも大きい。だが、軍事力自体は決して強いとはいえない。

3.イスラム国の義勇兵の状況は、個々人によって様々である。自国でアラブの春が成功したので、シリアでもと駆けつけたエジプト人や、抑圧を逃れ、カンボジア・ベトナム・インドネシア・トルコ経由で参加したウィグル人、今すぐはロシアは倒せないが、ロシアが支援するシリアを倒すことでプーチンを追い詰めると言ったチェチェン人。フランスの移民出身者は、かなりフランスを罵倒する。「(仏人は)移民を人間と見ていない。」英国の移民出身者は「英国人はプライドが高い。紳士たる者(教養があるので)、ヘイトスピーチなど吐かない。ロンドンにはアルカイダのモスクも自由に運営している。だが、(おくびにも出さないが)誰よりも強い差別意識をもっている。」と語る。ヨーロッパの移民は貧困に喘いでいるが、イスラム国の給料よりは高い。だから、貧困=原因だとはいえない。ドイツ国籍のパレスチナ人は、ドイツを愛している、ドイツとは戦いたくないと言う。だが、欧米の正義は人定法(マン・メイド・ロー)で、その場その場の都合で変わる。正義ではない。このような欧米の正義に支配されている状態に納得がいかないと述べた。

4.イスラム教徒は、それぞれの場所にいても体は1つ。パレスチナやアフガンでは米国によってイスラム教徒が殺されている。その最中に米国と手を結ぶということは許されない。(3の最後のドイツ系パレスチナ人の言)…このコトバに、イスラム教徒同士でいくら争っていようとも、異教徒(欧米)との深い溝を強く感じざるを得ない。なお、イスラムの過激派組織の繋がりを、常岡氏は「勝手蓮」と比喩している。決して緊密な連絡をとっているわけではない。だが、最後はイスラム同士(スンナ派同士の、またシーア派同士の)の結合ははるかに異教徒より強いわけだ。

…なお、あれだけITを駆使して戦闘員募集をかけているイスラム国だが、現地(トルコ国境地帯以外)ではインターネットや携帯電話は通じないという。ローカル回線は止められているのには驚いた。日本で続く集団的自衛権は、このシリア・イラクの問題に強くリンクする可能性が強い。イスラム教徒の親日度は極めて高い。なぜわざわざアメリカと共に血と泥にまみれる必要があるのだろうか。イスラム教徒を日本は殺してはならない。そうなると、もう誰もこの一神教世界の相克を収めれない。改めてそう思ったのであった。

2015年3月22日日曜日

毎日 「目に見えない貧困」

http://www.ibtimes.co.in/king-wangchuck-of-bhut
an-marries-his-commoner-girlfriend-230442
西水美恵子元世銀副総裁の「時代の風」が今日の毎日の朝刊に載っていた。国際理解教育に携わっている者として、重要な示唆が含まれていると思うので、エントリーしておきたい。

西水氏は、政治が貧困問題に焦点を当てるようになったのはいいことであるが、しばしば「人ごと」という視点になっていないか、という「無意識の怖さ」をブータン国王・雷龍王5世の「貧困は目に見えない」という言葉をからめて説いている。

数年前、某政治家に日本に貧困などあるのか聞かれ仰天したことがあるという。絶対貧困(1日$1.25以下で暮らす人々)を念頭においての発言で、(日本でも)自動販売機に残るつり銭を探し回るホームレスの人を見たことはないのかと反問した。そういえば…、と恥じる彼のつぶやきに対し、ブータン国王のコトバ(貧困は目に見えない)を思い出したという。ブータン国王(当時皇太子)に、自分(西水氏)も貧困解消を使命とする世銀で働きながら見えない頃があったと白状し、話し込んだことがあるという。パキスタン・カシミールの貧村に滞在(以前私も読んだことがある西水氏の「国をつくる仕事」に詳しい。)し、世話になったアマ(母親)に「博士号は役立たず」と朗らかに笑われ、逆境を生き抜く英知と、真心に触れ両眼が開いた(貧民を見下していた自分を発見した)という。無意識は怖いと氏は主張する。

絶対的貧困でさえ「見えない」のなら、相対的貧困層はなおさらである。昨年公表された「国民生活基盤調査」によると年122万円未満の世帯が日本の相対的貧困層となり、その割合は16%を超え、先進国の中では最悪に近い。6人に1人が、その他の5人の目に見えないのならば広がり続ける格差社会を逆転させるべき政策が問題の本質を見落としていないか、心配になる、と。

雷龍王5世は、7年前の戴冠式で、国民に向けこう言い切った。「王としてあなたたちを支配するつもちは毛頭ない。あなたたちを親として守り、兄として慈しみ、そしてあなたたちの息子として仕える。」と。その背景には、皇太子時代から全国各地の草の根で会った国民一人ひとりの顔がある。国王の旅は集落ごと1軒ずつ訪ね回り、時には食事を共にし、宿を借り、胸襟を開いて語り合う旅。そうして会った民は、すでに人口75万人の3割を越えたと聞く。

現場に根付くガバナンスは貧困解消にも欠かせないと、国王は政府の次世代リーダーらと旅を共にするのを重んじる。すでにその効果は、21世紀のニーズに沿う農地改革や公正かつ質の高い教育への改革などに表れ始めている。

…そして、最後に西水氏はこう結んでいる。「わが国の小選挙区は、ブータンより小さい。」

ガウディ展も見に行く。

兵庫県立美術館にはよく行く。私たち夫婦の嗜好と合うのだろう。ギャラリー棟で昨日から始まった「ガウディ×井上雄彦」を見にいったのである。井上雄彦氏は、スラムダンクを描いていた漫画家である。どんな繋がりがあるのか、よくわからなかったのだが、サグラダファミリアが完成した際、世界中の言語で聖書の言葉が飾られるそうだが、その日本語を書いたのが井上氏だそうだ。なるほど凄いつながりである。

このガウディ展は、井上氏の漫画によるガウディの人物紹介や、色タイルの照明演出、さらにはガウディデザインの家具のレプリカ作成など、井上氏の案内でガウディの世界へ誘うというカタチをとっている。なかなか素晴らしいコラボレーションであった。しかし、なにより、ガウディ建築の貴重な設計図や模型などが圧巻である。まさに建築の設計図そのものが超一級の美術作品であるといってよい。めずらしく初日に行ったので申し上げておくが、かなりおすすめである。
<展覧会のWEB>http://www.gaudinoue.com/

昨日を選んで兵庫に出かけたのは、横尾忠則の大涅槃展とこのガウディ展の日程が重なっていたからである。妻の希望で、ホドラー展も行ったのだが割愛したい。
ところで、JR灘駅への帰路のスーパーに寄った。妻が「めずらしいものがあるかもしれないから。」と言うのである。あった、あった。大阪で見たこともないもの。焼きおにぎりのセット。鉄平ちゃんのグリーンカレー味。緑のラベルのコカ・コーラ。妻の主婦としての臭覚は極めて鋭かったわけだ。(笑)で、大好物の焼きおにぎりを買って帰ったのだった。

2015年3月21日土曜日

横尾忠則「大涅槃展」を見に行く

横尾忠則 大涅槃展 涅槃コレクション(撮影可)
入試も一息ついたので、妻と久しぶりに展覧会に行くことにした。JIR灘駅をはさんだミュージアム・ロードにある横尾忠則現代美術館と兵庫県立美術館をハシゴすることになった。

左がミッキー HPより(拡大)
横尾忠則の方は2度目だが、今回は「涅槃」がテーマである。大涅槃展。ブッダが、右腕を立てたまま横たわって他界した姿を涅槃像というがこれは死のイメージである。同様な(女性が)横たわる姿で猥雑な生を表す場合もある。横尾忠則は、このようなダブルイメージの涅槃像が大好きらしい。で、生と死をテーマに涅槃展というわけだ。今回のポスターには、涅槃の後ろ姿の絵が使われている。妻が、じっと見つめていて、ミッキーさんがいると指摘した。おお。横尾作品は、こういうシャレがきつい。(笑)

シャンバラ 水其天
ところで、今回の展覧会で、なつかしい作品にであった。インド的なシルクスクリーンの作品群・聖シャンバラである。地・水・火・風・空の五大と天を空其地などのように組み合わせた1973年製作の11の作品群である。
私が高校生のころ、生意気にも「美術手帳」を読んでいたりしたのだが、その表紙に使われていた作品である。左の画像はWEBで検索したもの。横尾忠則の作品群は、私の青春であるわけだ。いやあ、なつかしい。これを見れただけでも来た意味があったというものだ。ちなみに、大涅槃展はこの29日(日)までである。
昼食をとってから、兵庫県立美術館へ向かった。…明日のエントリーに続く。(https://www.pinterest.com/pin/543106036283432912/)

2015年3月20日金曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。5

http://mphot.exblog.jp/
blog.asp?tag=%E2%98%85
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%E6%9B%B8%E9%8
1%93&p=5&srl=12014085&d
te=2009-07-26+09%3A02%3A00.000/
中田考「カリフ制再興」の書評、エントリーの最終回である。中田氏は、今最大の話題のイスラム国について、この本の中で何度か定義付けをしている。

イスラム国は、カリフ制樹立の義務を怠る大罪を犯しながらその有責性の自覚すらない堕落しきったウンマ(共同体)に対する試練、神の鞭としてこの世に送られたのである。(199P)

イスラム国はサラフィー(復古主義)・ジハード主義者によるシリアとイラクのエスニックなシーア派が権力を握る警察主義的警察国家との戦いという歴史的文脈に大きく規定され、戦争の中で自己組織化を遂げてきたのであり、グローバリゼーションした世界の中においてカリフ制の再興がいかなる方法論に基づくべきか、再興されたカリフ制がいかなる形態をとるべきか、についての理論的考察の産物ではない。その結果、イスラム国は、表面的にはイスラーム法を施行し始めているが、行政の実態は、戦時体制、治安維持を口実とした、イスラムとは真逆のバース党的な全体主義警察国家の手法に近い。(205P)

2014年にカリフ制を称して樹立されたイスラム国は、カリフ制であるよりも、サラフィー・ジハード主義のイスラム国家であり、カリフ制の理念を体現しているとはとても言い難い。しかし、イスラム国がカリフ制再興の義務を世界に知らしめた功績は大きい。イスラム国が今後、真のカリフ制に変容していくのか、それともカリフ制再興の先駆けとしての役目を終えて滅びるのかは、現時点では明らかではない。(229・30P)

…カリフ制再興を果たしたイスラム国の現在の姿は、中田氏にとって現在のところ評価しがたい存在である。つまり、完全にシンパとして支持しているわけではないが、おそらく日本人の中で(イスラム法学的に)最もよく理解している専門家であると私は思う。

…同時に中田氏は、イスラムの法学者として、欧米的な領域国民国家・資本主義といった勢力により、イスラムの本来の姿が失われていると強く主張している。

イスラムの法の支配を実現するカリフ制こそがリヴァイアサン(欧米的な領域国民国家)の支配から人類を解放し、人間の主体性を回復し、幻想の欲望を肥大させるマモン(銭神:欧米的資本主義)の虜になった人類の目を覚まさせて、等身大の人性に引き戻すことができるのである。(229P)

…ところで、中田氏の主張する本来のスンナ(スンニ)派イスラム法学は、極めてアナーキーである。この辺は、新刊新書(イスラーム 生と死と聖戦)のほうがわかりやすい。中田氏によれば、イスラム法(シャリーア)は、あくまで、ムスリムの心の中の問題であり、それだけで(政治も経済も)足りる。カリフは各人の心の中を監視したりしないし、政策を決めたり、教育を推進したりもしない。カリフの存在意義は、各ムスリムがカリフを後継者と認め、カリフの支配する地域(ウンマ)内を自由に移動できるようにするための存在であり、欧米的な国家観や権力構造とは全く異質のイスラム独特の概念である。

…この極めてアナーキーなカリフ制の世界の実現が可能なのか?それはまさに神への信仰の問題であると思われる。異教徒(神ではなく縁起によってこの世界が構成されていると信ずるブディスト)の私であるが、新刊新書とこの「カリフ制再興」を併読して、欧米の先進国構造的暴力からの解放を目指すイスラム側の理論としては十分理解できたのではないかと思う。

…だから、私は少なくともブログ上で、「イスラム国」に、(欧米をはじめとした先進国の影響下で)日本のメディアが一斉に名称変更した「過激派組織」という形容詞をこれからも使わないつもりだ。

2015年3月19日木曜日

日経 アフリカの税関人材指導

南アとジンバブエの国境 en:Beitbridge
日経の朝刊に「途上国税関の人材指導」という小さな記事が載っていた。JICAとWCD(世界税関機構)が連携しつつ、途上国、特にアフリカの関税の改革に乗り出すらしい。まず、3月末からボツワナの歳入庁に財務省関税局の専門家を2年間派遣、ナミビアとの国境を中心に、現地担当者向けの研修や通関手続きの指導改善を行うとのこと。以後、ケニアなど東アフリカ地域、さらに西アフリカ地域でも同様の協力を進める方針だという。先年のTICADⅤで、1000人の貿易投資に関する行政官育成という目標の一環らしい。

…たしかにアフリカの国境通過は時間がかかる。私は、夜行バスで南アからジンバブエに抜けたことがあるが、国境に着いたのは夜中の2時くらいだったと思う。すごい数のトラックが国境に並んでいた。我々の夜行バスは比較的スムーズに国境を越えたと思う。(南アの)グレイハウンド社のバスだったからだろう。料金も高いし(と、いっても6000円ほどだった。)、乗客も裕福そうなビジネスマンが多かった。イミグレも優先的に対応してくれたし、ジンバブエのビザもここで簡単に取れた。荷物検査も簡単だった。と、いっても一度バスの外に出して、通関の係に申請するのだが…。私などは外国人だし、パスポートを見ただけで、バックパックを開けられることもなかった。しかも、ショナ人のおばさん(南アとジンバブエを行き来して商売しているらしい。)の荷物まで、「私のだ。」と言っても簡単にパスした。(ショナ人のおばさんは大喜びだった。)まあ、かなりいいかげんである。今から思うと、ショナ人のおばさんは、わざと通関手続きが早いグレイハウンドを使っているのかもしれない。安そうな現地人ばかりの夜行バスでは、バスの上に莫大に積まれた荷物を全部下ろして、かなりの時間がかかりそうだった。凄かったのは、トラックの運転手なのか、旅行者なのか、多くの現地人が野宿していることだった。さらにバスの中に、赤ん坊を背負った女性の乞食が、歌を歌いながら入ってきたことにもびっくりした。運転手に放りだされたけど。

とにかく、南アとジンバブエの深夜の国境は、雑然としたアフリカの匂いを思い切り感じれたところだった。結局国境を越えるのに2時間近くはかかったような記憶がある。極めて刺激的な経験だった。ジンバブエに入ると、一気に道路の舗装が、コンクリリートからアスファルトに変わった。夜が明け、バオバブの木が朝日に光っていた。途上国を旅する教え子には、是非陸路国境を越える経験をして欲しいと思う。

一人旅の経験としては、旅情が豊かな国境だが、経済的なことを考えると改善の余地は大きいと思う。こういうソフト面の協力を日本が進めることは、大いに価値があると思うのだ。

ところで、今日、3年4組のメンバーで唯一進路が確定していなかったI君の短大合格が決まった。これで、ホント何も思い残すことがない。いやあ、よかった。よかった。

2015年3月18日水曜日

気分を変える為腕時計を買う

SGW500H-2BV
後期入試の採点作業と、人事異動で校内が慌ただしい。大幅でしかも意外な人事異動もあって、人心が動いている。うーん。書きたいことはたくさんあるが、”唇寒し”であるので自制したい。

今日、転任して来られる先生方とも何人かお会いしたが、なんとまたまた今年某国立大学を卒業した前任校のOB、S君が本校に期限付き講師として来ることになった。英語の先生に紹介されている時、名前を聞いて「うん?」となったのだ。一日中採点作業をしている最中だったので、聞き間違いかと思ったら、「おおっ。」ということになった。来年度は、何かにつけアドバイスしながら育てていきたいと思った次第。

ところで、先日ここ2年ほど大事にしてきた腕時計の電池が切れた。スイス製なので、電池の入れ替えが邪魔くさそうだ。京橋まで2回も出るのがおっくうなのだ。で、なんとなく気分を変えたいなという思いも強いので、アマゾンで腕時計を買うことにした。今度は電池入れ替えのことも考えて日本製・カシオにした。と、いっても逆輸入品なのだが…。あまり使わないと思うけど、磁石の機能が付いている。それに、やっぱり秒針がいつも動いている方が落ち着くかななどと考えているのだった。

2015年3月16日月曜日

日経 最強の留学先はどこか?

日経の朝刊に、留学セミナーの記事が載っていた。ドイツは公立なら学費がただであるとか、スペインでは英語で授業をしている大学もあるとか、しかも中南米に強いスペイン語も学べると言えば、フランスも同様に英語の大学があり、フランス語を学べばアフリカに強くなれるとか…。英語圏なら、アイルランドやニュージーランドが安くつくし、治安がいいとか…。英米豪は学費が高いとか。中国でも英語のみの大学があるとか、ハンガリーは様々な発明をしており、意外な発想の転換がはかれるとか…。各国の留学担当者がPRしていたという。意外にに面白かったのだ。

一方、毎日の朝刊には、中国・北京外大では、60、今年春から64の言語が学べるという記事が載っていた。2000年以後設置された言語は、フィンランド語、ウクライナ語、オランダ語、ノルウェー語、アイスランド語、デンマーク語、ギリシア語、タガログ語、スロベニア語、ラトビア語、リストニア語、アイルランド語(ゲール語だと思われる)、マルタ語、カザフ語、ウズベク語、キルギス語、パシュトゥーン語、ネパール語、ソマリ語…。マダガスカル語、タジク語、カタルーニャ語なども計画中なのだという。
ちなみに、ソマリ語は、ソマリアなどに住むソマリ人の言語だ。ソマリランドやエチオピア、ジブチ、そしてケニア北東部などで1600万人ほどが使っているという。(上記画像参照)

日本の学生が内向きだと言われ、外国語大学でも学べる言語もある程度限られているのに対し、なんというアクティブな動きだろうか。

2015年3月15日日曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。4

中田考「カリフ制再興」の書評・前回のエントリーの続きである。アルカイダのスタンスの話から。アルカイダといえばビン=ラディンであるが、彼の師アブドゥッラー・アッザムはパレスチナのムスリム同胞団員で、「いかにひどくシャリーアから逸脱していようとも、ムスリムの政権に対しては武力行使すべきではない。」という、古典的な異教徒の侵略者へのジハードのみを主張していた。ビン=ラディンも同じで、サウジアラビアに米軍が駐留したことを、アメリカからの侵略と見なしサウジ王家を批判したが、背教者としてジハードを仕掛けたわけではない。しかし、アルカイダはザワーヒリーらの加入後、およそ次のような3種の呉越同舟的ハイブリッド的ジバードのネットワークとなる。
①古典的な異教徒とのジハードを望むムスリム同胞団系
②サウジ外部で内戦状態となっている地域で異教徒ならびにシーア派と戦うワッハーブ派
③ムスリム諸国でイスラム法を無視した西欧風の人定法に則った統治を行う世俗主義体制とのジハードを求める復古主義的ジハード派

アルカイダは、地方にイスラム法をもとにしたイスラーム国家(そのモデルは、タリバンのアフガニスタン・イスラーム首長国)をつくり、最終的に統合する考えをもっているが、具体的なイデオロギーをもっているわけではなく、あくまでもジハードのネットワークである。

さて、いよいよイスラム国の話となるのだが、第二次湾岸戦争でサダム=フセインが失脚したイラクの情勢を鑑みる必要がある。イラクはシーア派がマジョリティでありながら、スンナ(スンニ)派のフセインが政権を握っていた。それも全体主義的にである。アメリカが占領したイラクでは、シーア派がこれに代わって政権を握った。このことは、イラクの復古主義者の目には、アッバース朝崩壊時の歴史を思い起こさせるらしい。十二イマーム派(シーア派)によってモンゴル軍がバグダッドに引き入れられ、アッバース朝のカリフ制が滅亡したのだ。今回はモンゴルでなくアメリカ軍である。したがって、シーア派支配下のスンナ派を応援し、ジハードを実行すべく、復古主義者やワッハーブ派の義勇兵がイラクに入ってくる。この中の1人がアフガンから転戦してきたアブー・ムスアブ・ザルカーウィーである。彼は2004年、ビン=ラディンとバイアを交わし、「イラクのアルカイダ」が生まれる。彼の死後、第二代の指導者となったのがアブー・ウマル・バグダーディー・フサイニーである。2012年、シリアのフロント組織(自らの関与を隠しながら公然と活動するために設ける組織)として「シャームのヌスラ戦線」を設立。2013年、この両者が合併し、ISISとなる。アルカイダのザワヒリーは時期尚早として合併を拒否した。アブー・ウマル・バグダーディー・フサイニーの死後、アブー・バクル・バグダーディーが、ISISの第二代目の指導者となったという。彼が、今回カリフ位についたわけだ。バグダットのイスラム大学で博士号を取得したクライッシュ族に出自をもつ人物らしい。これまで、エントリーしたように、カリフ位の条件のひとつに預言者と同じクライッシュ族に出自をもつという条件があるが、彼はその条件において、サウジ国王・エジプト大統領・トルコ大統領といったスンナ派世界の覇権のライバルに優っている。しかも、サイクスピコ協定・領域国民国家システムを破壊した覇者としての条件も揃っているわけだ。

…アルカイダは、そもそも古典的なジハードを標榜していたのが、対シーア派のジハード、世俗体制への復古主義的ジハードと、そのスタンスが膨らんでいったジハード・ネットワークだということが大きな発見だった。カリフ制から、現代のイスラムの運動を見ると、非常に理論的に見ることができる。アメリカのメディアが「原理主義」と呼び、日本のメディアが「過激派組織」と一括りにするのは、あえてそうしているように思えてくる。

2015年3月14日土曜日

TICADⅥは、ケニアで開催か

2016年のTICADは、アフリカ開催が決定しているが、ケニア開催が有力視されているようだ。ガンビアも名乗りをあげているようだが、日本大使館や会議場などのインフラが整備されているケニアが有力らしい。面白いのは、この開催地、日本が決めるのではない。AUに委ねたようだ。AUではさらに開催国の調整に委ねている、というわけで、ケニアとガンビアが交渉中とのこと。

昨日のTVニュースで、中国が新たな途上国向けの開発銀行を設立し、それにイギリスが投資するという話が出ていた。面白かったのは、コメンテーターとして出ていた佐藤芳之氏(ケニアでナッツ企業を創業し、現オーガニック・ソリュージョンズ・ルワンダ社長)のコメントだった。中国のアフリカ進出が日本では批判的で、しかも中国の覇権を最も嫌っているアメリカの最大の盟友イギリスの参加という、なかなかショッキングなジュースなのだが、「いいんじゃないですか。それで、アフリカの途上国の開発が進めば…。」

そもそもイギリスは金融大国である。中国の人民元の為替が完全自由化することを見込んでの参加ではないか、という憶測もある中、佐藤氏はこう言ってのけた。「中国も、イギリスもしたたかですが、アフリカ諸国はもっとしたたかですよ。」

なるほど、と私は納得したのだった。ガンビアがTICAD開催に手を挙げたのも、それなりのしたたかな外交戦略があると見るのが妥当だろう。

http://www.africa-news.jp/news_ajyy3V6tbG_491.html

2015年3月13日金曜日

マダガスカルの干ばつ

http://www2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/world/kion/Madagascar/Madagascar.htm
AFP電によると、マダガスカル南部の村々では、昨年10月から2月までの干ばつの影響で農作物が壊滅的な被害を受けたようである。WFP(世界食糧計画)による食糧援助で12万人前後がかろうじて飢え死を免れたという。

マダガスカルの気候は、おおまかに言って島全体には熱帯に属する。中央に高原地帯があって東部は雨量が多いのだが、西部は乾季と雨季に分かれるサバナ気候(Aw)である。しかも西部は南に下がるほど降水量が少なくなる。西北部は1500mmだが、西南部は500mmの場所もある。500mmといえば、乾燥帯のステップ気候に近い。干ばつの脅威にさらされやすいわけだ。

農業を行うには、きわめて過酷な条件であると言っていい。有効な農業政策を政府が怠っているという批判も出てきている。マダガスカルは、いろいろな面で注目が集まっている国だ。このような事態は、大きなマイナスである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150313-00000035-jij_afp-int

2015年3月12日木曜日

(続)腹筋を楽に鍛えることにした

5日くらいしたら来ると思っていた腹筋マシンがなんと今日届いた。妻がすでに組み立てていた。「背筋が伸びて気持ちいい。」とのこと。腹筋運動も楽々こなしている。

おお。では私も。ところが太っているのでうまくいかない。なかなか腰がいたいぞ。腹筋も楽に鍛えれるわけではなく、それなりに負担があるではないか。まあ、あたりまえである。このマシン、1日30秒でいいらしい。4ヶ月ほどで、お腹周りが随分とへっこむらしい。私の布袋さんの計測はしていないが、以前人間ドックで看護士のお嬢さんに「1m8cm」と言われたことがある。「108cm」でいいと思うのだが…。とにかくも、楽に腹筋を鍛えることにした。1年後には、本校の運動部の男子生徒のように、腹筋が6つくらいに割れている予定である。(笑)

2015年3月11日水曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。3

中田考「カリフ制再興」のエントリーを続けたい。今日は、イスラーム学におけるカリフ(第2章)とカリフ制の歴史的変遷(第3章)ならびに、現代イスラーム運動(第4章)を一気に概観したいと思う。

この辺はまさに中田氏の膨大な学識が溢れている学術書的な部分であるので、高校生に教える感じで、ちょっと簡単に述べておく。まず、カリフは、(神ではなく)人間が決めるものである。次にイスラームでは、ウンマ(共同体)の長としてカリフを決めなかればならない。(カリフ擁立の義務)これは、スンナ(スンニー)派の神学・法学で決められており、今も世界中の神学校でそう教えられている。ムハンマドの出身部族であるクライッシュ族であること(クライッシュ条件)が望ましいのだが、そもそも誰が、どうやって選ぶのかなどの具体的な規定はない。スンナ派神学・法学では、結局のところ、武力で権力を握った覇者のカリフ就任を認めている。
すなわち、初代アブーバクルのようなメディアの人々のバイア(忠誠)で決まる場合もあるし、第2代ウマルの時のような禅譲の場合もあるが、また第4代アリーがらくだの戦いに敗北していれば彼のカリフ就任はなかったし、ムアーウィアーとの戦いでアリーが勝利していれば、アブーバクル以下3代のカリフは、カリフ位を奪った背教者ということになっていただろうというわけだ。後の様々なイスラム王朝のカリフも同様である。

さて、イスラームのカリフ制は、オスマントルコ帝国の崩壊後空位になっている。WWⅠからWWⅡ以降、イスラームのウンマ(共同体)もヨーロッパ型の近代領域国家になっていく。この歴史の中で最初に、カリフ擁護を訴えたのはインドのヒラーファト運動でアザードという人だという。ガンジーとともにインド独立運動に貢献したが、トルコには影響を与えれず消滅してしまう。その後、先人(サラフ:スンナ派法学祖の世代)を範とするコーランとハディースを直接参照して自ら規範を導こうとする動きが出てくる。これが復古主義(サラフィー)主義である。彼らは、3代までのカリフを批判し、アリー以下のイマームを崇拝するシーア派を激しく敵視する特徴があった。現在のサウジのワッハーブ派もこのサラフィー主義と同義に用いることの正当性はある、と中田氏は言っている。

一方、現代的問題に対しシャリーアの法体系を、(あまり神学・法学的に詳細にこだわらず)あてはめようとする平信徒の復古主義が現れる。教育の浸透による識字層の拡大が生んだもので、その代表が、かのアラブの春で注目を浴びたエジプトのムスリム同胞団である。(彼らの歴史はなかなか古いのだった。)彼らは、社会慈善活動を行ったが弾圧される。この中でクトゥブというジャーナリストが、「道標」という著作を発表し、世界的な影響を与える。

タウヒード(唯一神崇拝)とは、統治権をアッラーのみに帰すということに他ならない。人間がアッラー以外の統治権に服すること、即ち人間の人間への隷属は、ジャヒリーヤ(使徒の宣教以前のアラブの多神教の状況=無明)である。エジプトを含む全ての世界は(カリフ不在の今)ジャヒリーヤである。これは個人の問題ではなく、ウンマの問題である。社会運動の形で(本来の姿に)実現しなければならない。人間の解放でありジハードが不可欠である。クトゥブはムスリム諸国の為政者を背教者と断じたが、武力闘争を訴えたわけではなかった。しかし、これがアルカイーダなどの武装革命論に読み替えられていくわけだ。

…近代の領域国民国家は、欧米的な(=キリスト教的な)国家形態である。民主主義は法の支配によるが、ワッハーブ派などはこれを「人定法」として否定する。しかも、加藤氏の社会類型(昨年10月13日付ブログ)でいうと、ギリシア以来の自由な市民と不自由な奴隷で構成される上個人下共同体を基盤にしている。イスラムの世界との根本的な相違があるわけだ。さあ、だんだんイスラム国の姿が垣間見えてきた。

2015年3月10日火曜日

腹筋を楽に鍛えることにした

ゴン中山もおすすめらしい。HPより
先日、たまたまTVで、腹筋を鍛えるマシンの紹介番組を夫婦で見ていた。普段なら、こういう番組はすぐチャンネルを変えるのだが、なんとなく見続けてしまった。この腹筋マシン、後ろに倒れたら、バネが戻してくれるので、フツーに腹筋をするわけではないのだ。なんか簡単にできそうである。後ろに倒れるだけなので、運動することを拒否しているような私でもできそうである。30秒やって4ヶ月で、メタボのお腹が引っ込むらしい。

このところ、お腹がさらに出てきたようで、妻に「布袋(ホテイ)さんや。」と揶揄されている。ちょっとそそられたのだった。妻も、後ろに倒れるのが気持ちよさそうだと、少し触手が動いている感じである。だが、TV見て、すぐ注文するという行為自体に逡巡があり、結局注文しなかったのだ。

以来、毎日会話の中に、このマシンの話が出てくるようになった。あの時は特別価格で1万円台だった。高く買うのはくやしいなあと、WEBで調べてみたら、同じような価格だったので、夫婦相談の上、ついに買うことにしたのだ。(笑)

5日くらいで到着するとHPにあった。ちょっと楽しみである。

2015年3月9日月曜日

セルマの行進から50周年

日経を開けていいて、アーチのある橋の前で演説するオバマ大統領の写真が目に入った。以前、公民権運動のことを詳しく調べていた事があって、アラバマ州セルマであることがすぐわかった。地球の歩き方を見て、南部の公民権運動の足跡をめぐる旅を計画していたこともある。その中心は、ハート・オブ・デキシー(南部の心臓)と車のプレートに書き込んでいるアラバマ州になる。ディープサウス中のディープサウスである。

何といっても、州都モンゴメリーでの、ローザパークス女史の逮捕とバス乗車ボイコット事件がアラバマ州で起こっている。ここにキング牧師が登場し、公民権運動が起こるわけだ。

もうひとつの名所が、このセルマである。公民権法制定後ながら、まだまだ人種差別が激しく、それに抗議した人々が、セルマからモンゴメリーへデモ行進しようとしたのだが、州軍や警察による流血事件が起こる。血の日曜日事件である。その2日後キング牧師が、再度橋を渡り、行進を開始。4日かけてモンゴメリーに到着したという歴史をもつ。

アラバマ州は、映画フォレスト・ガンプの主人公の故郷でもある。彼の名前はKKKの幹部をやっていた偉いおじさん(だったと思う)の名前をもらったのよ、とママが小説の冒頭で語っている。(という記憶がある。映画にはそんなシーンはなかったと思う。)そういうお国柄の土地である。

ところでキング牧師が非暴力で立向い、暴力に倒れたのはテネシー州メンフィスのモーテルである。私の計画した公民権の旅の終着点であった。半世紀がたち、黒人の大統領が誕生した。凄い話である。しかし日経のセルマ演説の記事では、そのオバマ氏の人種問題への対処についての不満が大きいことが書かれていた。黒人大統領だからこそ言いにくいことなのかもしれない。とはいえ、残る任期を考えても、人種問題はまだまだ未完。何かしらの歴史的前進を望みたいものだ。

2015年3月8日日曜日

毎日 ボコハラムのISIS模倣

マリの首都 ニジェール川沿いのバマコ
このところ、アフリカのニュースも血なまぐさいものが多い。ボコハラムがイスラム国の模倣をしているという記事が毎日の朝刊にでていた。ネットでスパイ行為を告白させられた男性を斬首したという映像が流されているようだ。イスラム国を支持しているボコハラムゆえに当然の行為なのかもしれないが、今では、ベルギーの国土に匹敵する支配地域を制圧したとも言われている。

ところで、このボコハラムに対して、AUが1万人規模の多国籍部隊の創設を承認したとAFPが報じている。チャド、ナイジェリア、カメルーン、ニジェール、ベナンの5カ国が参加するという。

一方、マリでは首都バマコで外国人に人気のレストランで、EUから派遣された訓練部隊のベルギー人・フランス人ら計5人が武装した3人組に殺害されたというニュースも載っていた。

イスラム国の世界遺産ハトラ遺跡破壊やイスラム国と戦うクルド人部隊に欧米から志願兵が集まっているとか、血なまぐさい国際面のニュースの中心にはやはりイスラム国があるようだ。

イコン画家 山下りん

http://www.pref.hokkaido.lg.jp
/ks/bns/artmap/ati/ati026.htm
マラソン中継で、楽しみにしていた「One Peace」がまた見れなかかった。失意の中でチャンネルを変えていると、Eテレの日曜美術館で日本人初のイコン画家・山下りんの話と作品の紹介がなされていた。

戊辰戦争の影響で、北海道や東北にハリトリス正教会がかなり広がったという歴史は、恥ずかしながらあまり知らなかかった。山下りん自身は茨城県出身で、東京で友の影響で正教会入信している。帝政ロシア時代のペテルブルグに留学し、イコンを学ぶが、彼女の目指していたルネッサンス的な写実的なイコンは描けず、ビザンチン様式のものがもてはやされていた。彼女はビザンチン様式を「おばけ絵」として嫌ったようだ。5年の予定を2年で帰国し、東京の日本正教会に身を寄せ、外界と遮断された生活を送る。長いあいだ描けなかったらしい。イコンは模写することが正教会の原則ということで、ようやく、ビザンチン様式の「ウラディミルの聖母」をイタリア様式に変えて描く。普通、イコンには作者名を書かないらしいが、この作品は山下りんの署名が裏にあり、一生手放さなかったという。ウィキによると、この山下りんという人、まさに修道女という感じの私心のない人だったようだ。

以来、300にもおよぶイコンを制作。イタリア風の写実的なイコンである。恥ずかしながら、日本にイコンを描いた画家がいたことも初めて知った。私は正教会とはなかなか縁がなくて、日本の正教会の教会に入ったことがない。NYで初めてロシア正教会の教会に入ったときは、大いに感動した。エレサレムではアルメニア正教会の教会に入ることもできた。正教会は、あまり一般公開していないからだと思う。山下りんのイコンも見てみたいが、常時一般公開されていないので難しそうだ。

<山下りんのイコン所蔵教会一覧>http://www.orthodoxjapan.jp/seizou.html

2015年3月7日土曜日

アリゾナ州キングマン

今朝TVを見ていたら、旅番組でアリゾナ州のキングマンの街の映像が出ていた。おお。懐かしい。10年以上前、ラスベガスの安モーテルを朝出て、95号線に乗り、フーバーダムを経由して93号線でキングマンを目指したのだ。

キングマンは、ヒストリックロード・R66の西の起点のような街である。(実際はサンタモニカだが…。)ここから最終目的地(シカゴではなく、もうすこし行った所にある)セリグマンに向かう旅だった。田舎町なのだが、R66の博物館があったりして、一気にR66の雰囲気が盛り上がるいい町である。ここでランチをとったはずなのだが、どうも記憶にない。大体、私は海外で「食」にこだわらない。特にアメリカでは、できるだけ安く済ますので、もしかしたら、どこかのガスステーションで、スニッカーズを買って車で食べただけかもしれない。(笑)
http://blogs.yahoo.co.jp/shanehashi/55489421.html
キングマンで、思い出すのは貨物線の踏切である。ロスからこのキングマンを経由して、ニューメキシコ州アルバカーキに向かって貨物線が伸びている。上記画像参照(赤い矢印がキングマンの位置)。これもR66とほぼ同じルートである。もちろん線路はシカゴまでのびている。ロスには、巨大なヤード(操車場)がある。これは、サンディエゴへの列車に乗っている際に見た。アメリカは、自動車大国だし、航空網が発達しているので、鉄道による旅客移動はマイナーである。まあ、国土が広すぎるので、大都市間の近距離移動網くらいである。ただ、意外なことに貨物輸送に関しては、世界有数である。(センター試験・地理Bの常識)その規模も凄い。ディーゼルのでかい機関車が4連くらいで運ぶ。その貨車列の長さも尋常ではない。私は、貨物列車が大好きである。キングマンの踏切で、貨物列車が通過するのをじっと見ていた。なんと10分近く踏切は閉まったままだったのだった。

こんなことをエントリーしていると、無性にアメリカに行きたくなる。長いこと行っていない。もし、行くとしたら、シカゴ経由で、オハイオ州のデイトンかな、と思ったりする。

2015年3月6日金曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。2

アリー
中田考氏の「カリフ制再興」、実に面白い。中田氏は第1章・カリフとは何かー正統四代カリフとカリフ制の基礎で、まず基本的な事柄を論じ、次に第2章・イスラーム学とカリフー神学と法学の諸相として、これまでの神学・法学の両見地からカリフがいかに定義されてきたかを論じ、さらに第3章・カリフ制の歴史的変遷ー王権とカリフ制の並存として、詳しく歴史をひもといている。今日のエントリーは、この前半部で、私が強く印象を受けた正統カリフ時代の概観についてエントリーしたい。

ムハンマドの死去以降、正統カリフ時代が四代続くわけだが、事情はかなり複雑である。まず、アリーについて整理しておこう。アリーは幼少よりムハンマドの養子として育てられ、妻の次にイスラームを受け入れた男性で最初の信徒である。ムハンマドの従兄弟にあたり、また娘ファーティマの夫(つまり娘婿)でもある。大巡礼の帰りにムハンマドは、「私をマウラー(後見人)とする者はアリーがそのマウラーである。」と三度あるいは四度繰り返したと言われる。後のシーア派が、アリーこそがムハンマドの後継者だとする根拠である。

さて、このムハンマド死去の際、当時のメディナには、ムハンマドの高弟たち(メッカからの亡命者でアラビア半島の名門クライッシュ族)と、彼らを援助する者(アンサール)の人々がいた。アリーは葬儀の準備中で不在だった。ここで、イスラームの分裂を危惧するアブー・バクルが立ち上がる。彼はコーランの一節(三章144節)を読み上げる(当時は暗唱である)。これを聞いた同じ高弟のウマルは地に倒れ伏したと言われ、メディナの援助者たち、中でも有力者のサアド・ブン・ウバータが、アブー・バクルに忠誠誓約(バイヤ)を交わした。ゆえに、アブー・バクルが、ムハンマドの後継者(初代カリフ)となった。

アリーは自分の不在中に後継者となったアブー・バクルにバイヤを交わすことを拒否。アリーの妻で、ムハンマドの娘ファーティマも、アブーバクルに父の遺産相続(ハイバルの果樹園)を求めたがムハンマドの遺産は喜捨されることになっていたゆえに拒否される。娘はファーティマは、二度とアブー・バクルと口をきかなかったというが、その後すぐ死ぬ。その葬儀にもアブー・バクルの出席は拒否された。しかし、人心が離れていくのを感じたアリーは、アブー・バクルに和解を申し入れ、モスクで公衆を前にバイアを交した。

アブーバクルが2年後死去するが、臨終にあたりウマルを第2代カリフに指名する。ウマルは、ペルシャ人の奴隷の凶刃に倒れるが、臨終に際し、ウスマーン、アリー、ズバイル、タルハ、アブドアル=ラフマーン、サマドの6人の高弟を指名し協議によっての次のカリフ選出を遺言とした。アブドアル=ラフマーンは、最終的に、アリーとウスマーンに絞り、モスクに人を集め、まずアリーの手をとり「あなたは、アッラーの書とその預言者のスンナとアブー・バクルとウマルの行跡に則って統治することで私とバイアを交わしますか?」と尋ねた。アリーは「いいえ、私は自分自身の能力と裁量によって統治します。」と答えた。次にウスマーンに同じことを尋ねると「はい、そうします。」と答えたので、ウスマーンが第3代カリフに就任した。

ところが、ウスマーンがメディナの自宅を叛徒によって襲われ殺害される。で、アリーがついにメディナの信徒たちのバイアを受けて第4代カリフに就任する。高弟たちは、殺害者の処罰が行われなかったので、バイアを交わず、カリフ就任を認めなかった。メッカへの巡礼の途にあった、ムハンマドの未亡人アーイシャはアリーを許さず、高弟タルハ・ズバイルらの支持を取り付け、メッカでアリーに反旗を翻す。これがムスリム同士の最初の内乱(ファトナ)で、未亡人自らラクダに乗って戦ったので「ラクダの戦い」と呼ばれる。(結果はアリーが勝利し、未亡人だけは許され静かな余生を送ったという。)しかし、ウスマーンの親戚でシリア総督だったムアウィアも、ウスマーン殺害者の処罰を求めたが、アリーに拒否され叛乱を起こす。アリーは、離反したハワーリジュ派の刺客に暗殺され、長男のハサンがムアウィアーにカリフ位を禅譲、その後このカリフ位はムアウィアーの息子ヤズイードに世襲されていく。カリフ位は、忠誠誓約(バイヤ)を交わすことによるものだったが、世襲王朝へ変質していくわけだ。これが、ウマイヤ朝である。

およそ、高校の世界史で学ぶ範囲のイスラム史を理解していれば、この本のカリフ制の論議の深遠な世界に入ることは可能である。反対に、こういう基礎知識がなければ、理解が大変だろうと思う。この本で、かなりのイスラム史の知識が肉付けされたわけだ。まずはここまで…。

2015年3月5日木曜日

日経 私の履歴書

http://mmkomiyan.exblog.jp/
日経の最終面には、有名な「私の履歴書」のコラムがある。3月に入って、古川貞二郎元官房副長官が執筆している。高校の政治経済の教科書ではあまり触れないのだが、この(事務方の)官房副長官というポストは、極めて重要なポストだ。霞ヶ関の官僚のトップである。事務次官等会議(事務次官は、各省庁の官僚のトップ。等とあるのは警察庁など長官も含まれるため。)を主催し、各省庁の意見を調整する。昔から元内務省の(旧)自治省、警察庁、(旧)厚生省などの事務次官経験者から選ばれる。古川氏も厚生省出身である。歴代の官房副長官で最も長くこのポストを務めた人物でもある。

私は、官僚をあまり色眼鏡で見ていない。メディアなどでは、やたら目の敵にされるが、どの業界でもいい面、悪い面があると思う。民主党政権になった時、政治主導の名のもとで、この事務次官会議が一時廃止された。私は、大丈夫かいな?と思ったが、大震災の対応などで事実上名前を変えて野田政権時に復活している。官僚=悪という色眼鏡は、結局国民にとって不幸を招いたと思う。震災直後の政府の対応のまずさこそ、いかがなものかと思う。

官僚は極めて頭脳明晰である。私はこれまで国家公務員上級試験を突破し、中央官僚になった知人が3人いる。京大出身で(旧)通産省に入った先輩の下宿は、全面本棚で驚いたものだ。東大経済出身の(旧)労働省に入った後輩の理解力に舌をまいたこともある。いっしょにボーイスカウトのキャンプを手伝いに行った中学の同級生が、50歳の同窓会で(旧)建設省にいることを知って驚いたこともある。まあ、たしかに成績抜群だったが…。

この古川氏は九州大学出身である。霞ヶ関ではマイナーな存在である。しかも一度試験に失敗し、長崎県庁に勤めながら、再挑戦している。今日の「私の履歴書」では、そのへんが書かれていた。結局試験は10番で、厚生省の面接を受ける。長崎からの長旅で顔色が悪かったのか、面接で不合格となるのだ。古川氏は人事課長に再度会いに行き、自分の思いをぶちまける。

当時の人事課長は偉い。結局、古川氏は合格になるのだ。しかも、4月からではなく、早めに採用される。長崎知事も偉い。古川氏という人材を失うには惜しいが、国のためと送り出してくれる。この時、送迎会を開いてくれたのが当時の自治庁から長崎に出向していた政治家の片山虎之助だというのも面白いつながりだ。

出世競争の中で、自己保身に走る官僚も多いそうだが、古川氏のような熱い思いで頑張っている官僚もいるはずだ。どこの業界も同じ。凄い人は凄いし、二流の人は二流だ。官僚主義を乗り越える力のある官僚こそ、今求められているのかもしれない。

2015年3月4日水曜日

現代アフリカ経済論を購入する。

京橋に所用があって、久ぶりにK屋書店に寄ったら、「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)を見つけた。この本は、現代の世界経済シリーズ(全9巻)の1冊であるようだ。著者の北川氏は関大の経済学部教授。高橋基樹氏は神大大学院教授。ともに関西在住である。

パラパラとめくってみて、購入の最大のきっかけとなったのは、詳細なデータである。たとえば、2008年~2010年の製造業・鉱業の対GDP比など、凄い。鉱業のGDP比がすこぶる高いのは、赤道ギニア(69%)、コンゴ(68%)、アンゴラ(51%)、ガボン(50%)などで、レンティア国家であることが一目瞭然である。製造業のGDP比が高いのは、裁縫業が盛んなモーリシャス(19%)より、スワジランド(45%)である。スワジランドは、南アがアパルトヘイトの経済制裁を国際的に受けていた頃、南ア企業が進出したことは知っているが、ここまでだとは思わなかった。

こういう意外なデータを見せ付けられると、さらに向学心が沸き起こる。ゆっくり読んで、高校生のためのアフリカ開発経済学テキストの次のバージョンに活かしたいと思うのだ。

2015年3月3日火曜日

毎日 神大付中等教育学校の試み

神大附属中等教育学校
3月2日付の毎日新聞「くらしナビ」に、神戸大学附属中等教育学校の、グローバルな時空間認識を培う新しい地理・歴史教育についての記事が載っていた。13年から文科省の研究開発学校指定を受け、4年生(高校1年にあたる)に、従来の科目構成を再構築した「地理基礎」「歴史基礎」という必修科目を設定しているそうだ。

地理基礎では、①地球社会が直面する課題として、気候や地形、民族の状況を学習した上で、熱帯雨林破壊や砂漠化の進行といった課題を抱える地域について探求。②グローバル化と地域をキーワードに世界と日本との関係を考える、としてEUのような地域共同体を日本が組む場合どこと組むべきか、その構成と名称を考えるグループ学習を行ったという。

世界史と日本史を統合する形の歴史基礎では①地域世界と日本②世界の一体化と日本③グローバル化した世界と日本をとし、①ではなぜ文明が生まれ、王が誕生したか、なぜ身分が生まれ領土が誕生したのかを学ぶ。②では、16世紀以降の世界商業の進展と資本主義の確立を中心に学び、③は2度の世界大戦と冷戦期を中心に、世界が形成される過程で生じた歴史的展開を、席あの動向と日本の関係に注目しながら学ぶ。③では、日本の敗戦を日本人がどう受け止めていたかを資料で読み解くことから授業が開始され、WWⅠ以降の流れを新聞やポスターを手がかりに、世界の視点、日本の視点の両方から考察したという。ワークシートに自分の考えを記入し、グループで討論し、発表した。担当の先生方の声は「時間不足とどう向かい合うか。教える内容の精選が必要だ。」というもの。

…この思考力を高めるための地歴学習の試みは、極めて重要だと私は思う。神大附属の先生方の立てた地理基礎・歴史基礎の柱は、妥当なものだと思う。中学での基礎的な事項の学習と高校での学習の中間に、このような科目を設定することに私は大賛成である。詰め込み型の今の地歴教育が、必ずしも生徒の教養(知識ではなく知恵)を高めているとは思えない。教える側が教材を精選して、テーマを設定しながら教えることが、時間制限のある中、どうしても必要になってくる。この基礎科目の学びを受けて、高校の日本史・世界史・地理があってしかるべきだ。何が最も重要なことなのか、教える側の力量が問われるのだが、そこはプロとして踏ん張るしかないと私は思うのだ。ちょっと、神大附属の先生方が羨ましい。こういうプロジェクトに関わってみたいものだ。

2015年3月2日月曜日

中田考「カリフ制再興」を読む。

先日エントリーした中田考氏の新刊新書「イスラーム 生と死と聖戦」と同時期に、この「カリフ制再興 未完のプリジェクト、その歴史・理念・未来」(書心水/2月刊行)が出版された。
前者がイスラム教に対して全く予備知識がない読者を想定した「です・ます」調の啓蒙書であるのに対し、この「カリフ制再興」はもう少しレベルが高い。とはいえ、内田樹氏と中田考氏の対談「一神教と国家」(集英社新書昨年2月19日発行)と「イスラーム 生と死と聖戦」を読めば、十分理解できると思う。

ウーサマ・ビン・ラディンが「(アッバース朝)カリフの古都バグダードのジハード戦士の兄弟たちよ、カリフ制の中核を作り出す機会を見逃すべきではない。」と呼びかけたのは2006年7月であった。そして2014年6月29日(1435年ラマダーン初日 *注 イスラム暦)SIS(イラクとシャームのイスラーム国)は、イラク第二の都市モスルでその首長であった「アブー・バクル」イブラヒーム・バグダーディーをカリフ位に推戴し、90年の時を経てカリフ制の再興が宣言された。カリフ制の再興は、1648年に締結されたウェストファリア条約に因んでウェストファリア体制とも呼ばれる領域国民国家、主権国家による国際秩序の解体の序章であり、西欧文明的ヘゲモニーの衰退を象徴する世界史的事件である。世界史的事件をリアルタイムで「世界史的事件」として認識しうる者は稀である。1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国皇太子が暗殺された(サラエボ事件)時点で、第一次世界大戦への展開を見通すことは難しかった。またカトリック教会において1378年から1417年にかけてローマとアヴィニョンに教皇が立って争った「西方教会分裂」も「大分裂」との評価が定まるのは後世になってからであり、その開始の時点においては、それぞれの教皇の支持者にとって、カトリック教会史上幾度かあった教皇僭称者、対立教皇がまた出現したということでしかなかったであろう。
世界史的事件の世界史的意義が同時代人に明らかにあるには、一定の時間の経過を必要とする。特に西欧文明のパラダイムに全面的思考を規定されている「現代人」にとって、西欧文明自体のアンチテーゼとなる事件を正しく理解することは決して容易なことではない。

…中田氏は、「まえがき」をこう書き始めている。なんと刺激的なまえがきであろうか。カリフ制復活が宣言された日、ブディストでありながら我が家では妻と大論争になった。(昨年6月30日付ブログ参照)世界的にも、かなり稀な者なのだろう。(笑)ともあれ、今はワクワクしながら読んでいるのであった。

2015年3月1日日曜日

最高の卒業式だったのだ。

最後の記念撮影 (保護者の方にマイカメラを託させていただき撮影)
今日は、3月1日。日曜日だが例年どおり、本校では卒業式が行われた。残念ながら雨である。SHRに行くと、生徒は、予行の日に配布した卒業アルバムを持ってきていて、友人へのコメントを書き入れるのに余念がない。(笑)ところで予行の日、精勤賞(3年間3日以内の欠席・遅刻・早退の生徒を精勤と呼ぶ)が、数が多いので既に下級生参列のもと表彰されたのだ。その賞状は私が手渡すはずだったのだが、賞状を受け取った代表生徒がクラスに持ってきてくれたものを、気をきかした生徒がみんなに配った後だったのだ。で、本番では、卒業証書・皆勤賞は私が渡すと釘をさしておかなければならなかった。(笑)我が4組は、このようにガンガン生徒が気をきかして動いてくれる。精勤賞事件は、叱るというより褒めてもいい話だと思った次第。

卒業式は、厳粛に行われた。4組の入退場も、クラス代表Tやんのの卒業証書をいただく仕草も文句のつけようがないほど素晴らしいものだった。

さて最後のSHRである。朝の言葉がきいたのか、饅頭や証書入れ、花束や卒業文集(2月19日付ブログ参照)までが教卓の上にある。(笑)これは配ってくれてよかったのやが…。の一言で、一気に配布が進む。さて、クラス代表に声をかけて起立・礼。一気にクラスが締まる。まずは、副担任のY先生に言葉をいただく。ちょうど、その後、VTR(2月12日付ブログ参照)を見終えた保護者の方々が教室に入って来られた。

で、私の最後の話なのだが、もう何も言うことはない。ずっと何を言おうかと考え続けたのだが、これだけのクラスを作れたのだがから、あえてやめることにしたのだ。
反対に2つだけ私の希望を生徒に叶えてもらった。一つは、WICKEDで皆が歌った「エメラルドシティー」をもう一度聞きたかったのだ。卒業文集にはシナリオがあり、そこに歌詞も載っている。大いに戸惑ったようだった(その理由は後でわかった。)が、見事に歌い上げてくれた。ありがとう。素晴らしいものだった。
そして、もう一つは、クラスの最初の日に契をかわした男子4人(昨年4月9日付ブログ参照)に、我がクラスのシンボルである黒板の上の「責任ある行動」の紙を肩車して外してもらった。さらに「勝ちて和す・和して勝つ」の2枚の紙(昨年9月11日付ブログ参照)を団長のA君とプロデューサーのM君に外してもらった。これで、生徒自身の手による4組の解散の儀式は終わりだ。

ここからがサプライズである。生徒から保護者の側(教室後方)に行って欲しいと言われた。そこで何が起こるのかと思ったら、「旅立ちの日に」という曲を男女の二部合唱で歌ってくれたのだった。(だから、エメラルドシティを歌ってもらったことにみんな動揺したのだ。)見事な二部合唱であった。簡単にできる感じではない。後で聞くと、テニスコート(第二体育館の屋上にあるのでかなり遠い。しかも2月初旬で凍えるような寒さの中であったと思う。)まで行って、学年末試験の放課後密かに練習してくれたのだという。…私のためにである。心から感動した。号泣してしまった。
男女二部合唱で「旅立ちの日に」を歌ってくれた (Y先生撮影)
私はイベントで人を育ててきた。その理想の集約がここにある。今まで、卒業に際して何度もいい思いをさせてもらった。手の込んだ色紙やアルバムを何度ももらったが、最後に生徒の独力によるイベントで返してもらったのは初めてである。こんな嬉しいことがあるだろうか。

最後に、皆の1年間の写真とメッセージを入れたDVDと、その時に使ったA4サイズの私へのアピールをまとめたものを貰った。副担任のY先生も感謝のアルバムを貰った。4月から中学で教鞭をとるY先生にとっても、素晴らしい体験になったと思う。

理想に生きることをやめた時青春は終わる。これが私の座右の銘であるが、イベントで人づくりをするという私の理想は完成した。少なくとも担任としての教師生活はこれで完結してもいい、と心底思ったのだ。

4組の生徒諸君、ほんとうにありがとう。私はここまで育ってくれた君たちを誇りに思う。最高の卒業式だった。