2023年1月31日火曜日

バイオテクノロジーの問題

アメリカの生物遺伝学者の『人類最後のタブー:バイオテクノロジーが直面する生命倫理とは』に、衝撃的な話が載っている。人間のDNAとチンパンジーのDNAは99%まで同じで、染色体が似通っている。したがって二種の交配による子供は生存可能である。人間の精子をチンパンジーのメスに人工授精すると、胎内の子供が早く成長しすぎて死産する可能性がある。ただし逆は可能である。人間の女性の胎内でなら、二種の交配が可能かもしれないと講演で述べたところ、1人の女子学生がやってきた。「私の卵子をチンパンジーの精子と合わせ、受精卵を自分の子宮で育てて、その観察記録を卒論にまとめたい。名前も売れるし、素晴らしい卒論になるはずです。」現実に受精卵が着床して育ち始めたらどうするのか?との質問に、「早く卒論を仕上げて書き上がった段階で中絶します。心配ありません。」

『答えのない世界に立ち向かう哲学講義』で、ディスカッションの問題として出されたのは、女子学生とチンパンジーの交配が認められるのはどんな場合か?①女子学生が中絶を前提でチンパンジーとの交配を望む時。②女子学生が中絶を望まずに、その子を育てる目的で交配を望む時。③科学的に観察目的で交配を望む時。(感染症などの問題をクリアしているという前提)

遺伝子改変はどのような場合に許容できるか?という問いもある。①体外受精によって、遺伝子検査をして選別する。②病気予防のための遺伝子操作。③病気治療のための遺伝子操作。④身体的・精神的な能力増強(エンハンスメント)のための遺伝子操作。この中で、④は特に優生学に関わる問題となっている。

クローン人間についてもディスカッションの問題として提起されている。①ユダヤ系のエイブとサラ(非常にに意味深な仮名だ。笑)の息子マイケル(どうせならアイザックにすればいいのに。笑)が、自動車事故にあいエイブは亡くなり、マイケルは植物状態になってしまったった。サラは、マイケルの体細胞からクローンの弟デヴィットを作った。②チャーリーとマドンナの新婚夫婦。チャーリーが事故で脳死状態になってしまい、マドンナはチャーリーの対策帽からクローンを作った。③のび太としづかの夫婦。のび太の無精子症が判明。クローンのび太を作ることに。④ナルシストのミランダは子供が欲しい。しかし男はいらない。そこで、自分のクローンを作ることにした。

…バイオテクノロジーに関わる生命倫理の問題は実に難しい。チンパンジーの話など、同じアメリカにこういう女子学生と福音派の人々が共生している事自体が不思議なくらいである。

2023年1月30日月曜日

AI &トロッコ問題

https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/2011/25/news010.html
「答えのない世界に立ち向かう哲学講座」にあるディスカッションのテーマで、最も扱いにくいだろう問題は、「トロッコ問題」である。上の画像にあるように、暴走するトロッコが来る。線路が分かれているのだが、メイントラックには5人がいて、サブトラックには1人がそれぞれ線路上にいる。この暴走トロッコをどちらのトラックに行かせるべきかという倫理的なジレンマがトロッコ問題である。小中学校で、一部の子供に心理的不安を与えたらしく、問題になったとか。たしかにちょっと恐ろしい問題である。

このトロッコ問題、やがては訪れるであろう「自動運転車」の解決すべき最大の問題である、とMIT(マサチューセッツ工科大学)の研究者がと発言し、注目されている。自動運転車のトロッコ問題は、前方にタンクローリー車が横転してしまった場合で、車の左側に子供が、右側では老人がそれぞれ横断中。そのまま前進するとタンクローリに衝突し、左にハンドルを切れば子供が、右にハンドルを切れば老人を轢いてしまうという状況下で、自動運転をどうプログラミングするか、という問題なのである。さらに、子供が自分の子供であった場合や、老人が上司であった場合、あるいは子供も老人も3人グループである、など様々な追加条件を想定するそうだ。車の購入者であるという立場を離れると、MITの「モラルマシン」のアンケート結果では、最大多数の最大幸福という功利的原則を選ぶらしい。

シンギュラリティ(技術的特異点)仮説というのがあって、2045年にAIが人間の知能を超えるらしい。かのホーキング博士が「いつの日か、自立するAIが登場し、とてつもない速さで自己改造を始めるかもしれない。生物学的進化の速さに制限される人間が対抗できるはずもなく、いずれ追い越されるだろう。」と述べている。このAIは、相互に結ばれた巨大なネットワーク知能となり、一つの機械を壊したところでどうにもならないといわれている。

…今日のエントリーはここまで。ところで、今日は首都圏の国立超難関校に挑む3年生に前期試験の世界史の指導、来年超難関私大に挑む2年生の相談にも応じた。学園に来てレベルの高い授業をしているが、こういう関わりができることに大きな喜びを感じている次第。

2023年1月29日日曜日

「探究の授業」を考える。

先日、学園の食堂で、社会科の若い先生に声をかけられた。「探究の授業について、」だった。高校の社会科は大きな転換点を迎えている。思考を重視したワークショップ的な授業が求められている。共通テストも、そのベクトルで作成されている。現場では、試行錯誤が続いているのである。

今読んでいる「答えのない世界に立ち向かう哲学講座」は、倫理の思考トレーニングにはかなり役立ちそうである。本編では、AIの問題、生命倫理(バイオサイエンス)の問題、さらに資本主義の終焉が叫ばれる中で、その先を思考するといった講座の様子が描かれている、

問題は、この講座の対象はビジネスパーソンであることである、高校生ではない。とはいえ、参考になることは間違いがない、たとえば、AIの答えのない問題。Iが進歩し、たとえば自動車の完全自動運転となった時の責任は、製造会社にあるのか、使用していた人間にあるのか、はたまたAIそのものに責任があるのか。AIを法的に法人のような概念で取り扱うのか、人間並みにするのかなど、面白いが複雑な論議がなされていく。

浦沢直樹の漫画に『PLUTO』というのがある。手塚治虫の『地上最大のロボット』のリメイク版で、アトムもウランも出てくるが、ドイツの刑事ロボット・ゲジヒトが主人公で描かれている。このゲジヒトは、アトム同様AIによって人間同様に思考する。(もちろん計算スピードは比べ物にならないが…。ここではロボットの権利が認められている。ただし、人間を殺さない、というプログラミングがされている。そういう一面からは二級市民的な法が施行されている。AIが進歩し、ロボットと共存する未来社会を作者は設定しているわけだ。現実には、この論議は進んでいない。

さて、図書館への返却までに、少しずつこの本の「探究の授業」に役立ちそうな内容をエントリーしておこうと思う。

2023年1月28日土曜日

久しぶりにピーター会に集う。

ピーター会が、あべのハルカスであった。調べてみると、2014年8月以来の参加となる。私がマレーシア、愛媛と大坂に帰っていなかったこともあって、ほんと久しぶりである。ピーター会というのは、2013年にJICAでケニアに行った教員研修の仲間である。コーディネーターをしてくれた故ピーター・オルワ氏の名を冠している。(画像は20年前の研修旅行/JICAケニア事務所にて)

今回は、ウズベキスタンの大学で日本語を教えているN先生の帰国を機に集まった。2003年の夏から今までよく続いているものであると、帰りのエレーベーターの中、そんな声もあった。それだけ素晴らしい15日間の研修旅行であったわけだ。いつも集合をかけてくれるM先生に心から感謝である。今回は、ホント久しぶりなので、マレーシアのパワーポイントを使って紹介した。ちょうど、娘さんが近くKLで働くことになった先生もおられて、天井扇があるコンドミニアムが絶対条件であるということなど、住むとして必要な様々な情報も伝えておいた。(笑)この会が、これからも長く続いていくように祈りたい。

2023年1月27日金曜日

THE ALFEEのこと Ⅳ

http://hikigiwa.setogiwa-anex.coolblog.jp/?eid=6541
先日エントリーした「THE ALFEEのこと Ⅲ」に教え子のN君からコメントがあった。「シュプレヒコールに耳を塞いで」「幻夜祭」以外にも1969年にまつわる曲がまだありますよ、「Rockdom-風に吹かれて-」という曲ですとのこと。You TubeのURLも貼り付けてくれていたので、さっそく視聴してみた。「風に吹かれて」とは、かのボブ・ディランの超名曲である。最初に原曲の見事なコーラスがある。(この辺がTHE ALFEEの凄さだ。)その後、オリジナルの曲が始まり、エンディングは観客の合唱。「俺たちの時代を忘れないで、風に吹かれていたあの頃」のリフレインが続く。ほろ苦い若さを思い出させる曲で、私などの世代にはまさに目頭が熱くなるほどの感動的な曲であった。N君に感謝である。

https://www.youtube.com/watch?v=yr62hdm62ts&ab_channel=Orb1999

ところで、You Tubeのコメントを読んでいて、勇気づけられたという「pride」や「英雄の詩」、「友よ人生を語る前に」といった人生の応援歌も聴いてみた。N君おすすめの「希望の鐘が鳴る朝に」のちょっと変わった映像も実にファンタジーで良い。THE ALFEEには人生の応援歌がいくつもある。これが根強い人気の源泉のような気がする。

こんな感じで、アトランダムにTHE ALFEEのYou Tubeを見ていて気づいたのだが、高見沢のギターに注目せざるをえない。ドナルド・ダック仕様のギターなどはかわいいだけだが、特別なシチェーションの時には演出としてここぞ一番のオリジナルギターを使っている。NY公演の際には、星条旗をデザインしたギターを持って登場していた。(かなり気に入った。)ウルトラマン・ファミリーとのセッションでは、ウルトラセブンのデザインのギター。(これもすごく気に入った。なにより、ウルトラセブンはシリーズの中でも最高傑作だと信ずる同世代感。笑)コロナ禍での2020年夏の無観客配信LIVEでは、なんとゴジラモデルのギターであった。(無茶苦茶いい。怪獣世代として超・気に入った。欲しい。)高見沢はツアー時には、ゴジラのフィギアを楽屋に常備していると、以前”笑っていいとも”でタモリに語っている。このゴジラギター、調べてみたら、注文販売ですごい値段だったが、一般人にも手に入るらしい。いずれにせよ、高見沢の多様なオリジナルギターは、ファンへの熱い思い、サービス精神の表れなのだと思う。特にゴジラギターは、無観客配信LIVEというシチェーション故、ここでお披露目したのではないかと推察する。
https://guitarhakase.com/6576/

https://natalie.mu/eiga/news/342554
https://www.youtube.com/watch?v=NcS_OhruCYA&ab_channel=THEALFEE%E9%AD%85%E5%8A%9
B%E7%99%BA%E4%BF%A1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
最後に、聴き込んで気づいたこと2点。いわゆるヒット曲には、韻を踏んでいる曲がある。特に英語というか、カタカナ語での韻。「星空のディスタンス」(ディスタンスーレジスタンス)「シンデレラは眠れない」(シンデレラーアンブレラ)なんかは、かなり顕著である。韻を踏んでいることで、耳に心地よいし歌いやすいわけだ。こういう売れる曲から、人生の応援歌、フォーク的な曲、バリバリのハードロック、さらにはプログレまで。凄いラインナップだ。もうひとつ、彼らは明治学院の出身なので、キリスト教的な雰囲気を感じさせる曲が多い。「チャペル」「鐘」「罪」など関連した語彙が多く使われている。例年行われる武道館のクリスマス・コンサートも、彼らの想いが強く入っていて、ずっと開催し続けている故に、取ってつけたようなクリスマスイベント=日本的・商業主義的マーケティング感が薄い様に感じる。ちなみに、明学の創始者は、ローマ字で有名なヘボン牧師。米国のペンシルベニア出身、スコットランド系の長老派(=プレスビテリアン)である。

2023年1月26日木曜日

JR 昨日の後遺症

今朝の通勤に昨日の後遺症が出ることは十分予想できた。それで、1本早い、しかも快速で三田に向かったのだが、学園到着は30分ほど遅れた。通常だったら、2時間目から始まる授業に間に合わなかったかもしれない。

今日は、尼崎駅の手前の鉄橋(画像参照:神崎川橋梁/google map)で21分間(車内アナウンスによる)止まった。最初は信号待ちというアナウンスだったが、東海道線はどんどん隣の線路を走っていく。JR貨物まで走っていたぞ。不可解な停車だった。途中で、「2番線ホームに入れるよう、駅側と交渉中」というアナウンスが流れた。2番線はそもそも東西線から宝塚線に行くいつもののホームである。まったく意味がわからない。JRへの不信感は高まるばかりだ。

他の私鉄(京阪や阪急、近鉄や南海)では、昨日も朝から運転をしていた。JRだけがこの”体たらく”であると言われても仕方がないだろう。未だに評判が悪い国労や動労以来の組合の問題もあるのだろうか。JRは私鉄のようで私鉄でない、ベンベン。

2023年1月25日水曜日

今冬最高の寒波の日

昨日から今冬最高の寒波になった。日本各地とも防風雪のは被害が出ている。朝、起きてみると枚方では屋根に雪はあったが、気温の低さはともかく、思っていたより雪は積もっていなかった。しかしながら、朝5時過ぎにWEBを見たらJR西日本は、大阪環状線を除いて見事に運休していた。結局10時の段階でも、同じような状況は変わらず、学園は休校になったのだった。明日は大丈夫かなあ。

ところで、昨夕からの暴風のほうが恐ろしかった。三階にいると地震が起こったように揺れたのだった。

2023年1月24日火曜日

文化相対主義 考

文化相対主義とは、20世紀後半、世界を席巻した「各文化には、それぞれ独自の考え方や見方がある。異なる文化間では共通の基準がなく、優劣を決めることはできない。」という考え方である。昨日エントリーしたように、岡本裕一朗氏の「答えのない世界に立ち向かう哲学講座」(早川書房/2018年)から、見ていきたい。

ヘロドトスの『歴史』に出てくるペルシア王の話。死者を仮想にするギリシア人と、死者の肉を食べる習慣を持つカラティア人(インドの種族)を呼び、両者にどんな報酬を与えれば、それぞれ異なる習慣である火葬や死者の肉を食べるかと聞く。すると、両者ともどんな報酬をもらってもできないと答える。ギリシア人の主張は我々にも十分理解できるが、カラティア人は、火葬すると全て消滅して、その人は無になってしまう。こんな悲しいことはない、死者の肉を食べることで、その人が自分の中で生き返ると話す。

この話を元に、講座参加者は討議を行うのだが、この文化相対主義は、レヴィー=ストロースを彷彿とさせる。実際、国連では植民地主義に対する批判や民族自決の考えが非常に強かった。西洋文明の基準で未開社会を判断・評価することはできないという意識が主流であったのだが、1987年、独立以来消滅したとされていたインドのサティー(寡婦殉死:夫をなくした女性が夫の亡骸とともに焼身自殺する慣行)が起こり世界的なニュースになった。この事件では、結婚して8ヶ月にも満たない女性が、病死した夫の遺体とともに生きながら焼かれた。当初は妻の意思とされていたが、実際には大量の麻薬を飲まされ、さらに逃げ出そうとしたところを4000人以上の群衆が見守る中、竹竿でそれを拒み、叫び声はドラムの音でかき消されたという。これに対し、国連はサティーの禁止をする。以来、文化相対主義は一気に下火になる。

…この文化相対主義は非常に大きな問題を投げかけている。欧米の人権思想は。完全なる正義であるのか。非常に難しいところである。実は、現在世界が抱える大きな問題なのである。

…国際理解教育には異文化理解というカテゴリーがあり、私などは文化相対主義の立場を取ってきた。一方で教育界では人権思想の徹底化が進んでいる。まさに、答えのない世界に立ち向かっているわけで、この本をもう少し読み進めてから、またエントリーしようと思う次第。

2023年1月23日月曜日

マルクスガブリエル 新実在論

マルクス・ガブリエルは、20世紀末のポスト構造主義(フーコーやドゥルーズ、デリダなどのフランス哲学)やポストモダン(分析哲学や文化相対主義)に対して、強い批判を行ったドイツの哲学者で、デリダまどの大御所が不在となった21世紀に彗星のごとく現れた。彼は、概念や言語に基づいて世界を理解するという「構築主義」(広い意味で観念論)に対して、反観念論という形の実在論、「新実在論」というスタイルをとる。彼が一躍注目を浴びたのは、『なぜ世界は存在しないのか』という奇妙なタイトルの本からである。

この本の中で、彼は、世界の定義を、宇宙よりもずっと大きい極限的な概念とした。存在するとか存在しないとか言うときに、彼は「意味」という概念を非常に重視する。どのような意味の場に存在するのか、これを意味領域と読んだ。例えば、ユニコーンは存在するか否かという問いに対して、神話には存在し、物理的には存在しない。意味領域が異なるのである。夢の中で存在する、空想の中で存在するというのも同様で、彼によると、全てのものは存在することになる。しかし、世界は存在しない。矛盾しているようだが、「XはYという意味領域の中に存在する」という文法に則ると、「世界はYという意味領域の中に存在する」となり、Yは世界より大きくなってしまう。最大概念である世界を超えるYという意味領域はありえない故に、世界は存在しないことになる。これが奇妙なタイトルの謎解きである。

この全てが実在する新実在論の意味は、デネットらの科学哲学=自然主義への批判である。ドイツ人であるマルクス・ガブリエルは、ナチスの優生学などで陰電子操作や生命操作をしたことへの批判から生まれたドイツの良心を持ち、遺伝子操作などには厳しい態度を取る。アンドロイドやロボットなどへも非常に強い批判があり、英米系の科学哲学に対抗し、ドイツ哲学の地位向上を目指しているようである。(たしかに昔は哲学といえば、ドイツだったが、それがフランスに移り、さらに英米に主流が移っている。)人間の心や精神、自由、道徳性など、哲学を科学の上位に復活させよう、世界のあり方は科学ではなく哲学でしか理解できない、としているわけである。

…現代哲学者10人のトップに描かれたマルクス・ガブリエル、ブログでは、ローティ、デネットをまずエントリーした。これは、分析哲学や科学哲学(自然主義)を先に整理しておいた方が彼の思想がわかりやすいと思ったからである。次回は、今日、市立図書館で借りてきた同じ著者の『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』から、今回のブログの5行目にある「文化相対主義」についてエントリーしようと思っている。

2023年1月22日日曜日

デネットの自然主義

https://www.youtube.com/watch?v=hx_0rNdnCYk&ab_channel=tekumuse
現代哲学者10人の中から、次ににエントリーするのは、デネットである。分析哲学、科学哲学の教育を受けたデネットは、現代アメリカの哲学界にかなりの影響力を持っている。彼は自分自身の哲学を「自然主義」と表現している。この自然主義は、自然科学的な方法に基づいて、哲学の問題を解決、あるいは考察する立場で、これまでの意思の働きなどは自然科学的・生理学的な話とは全く異なると考えられてきたのに対し、人間の行動スタイルは自然科学的に説明が可能とする。これは、遺伝子理論、神経科学(日本では脳科学と呼ばれる。)、さらには認知科学などの進化によるもので、デネットは、これらを無視して哲学理論を構築することはできないと主張する。よってデネットはこれらの知識を得て専門家と対話しながら哲学を形成している。

ところで、ネーゲルという哲学者の「コウモリであるとはどのようなことなのか」という論文以来、「クオリア(質)」が問題となった。コウモリは目を持たないが、音を発してその反射に基づいて行動する。この状況を自然科学は説明できるが、それがコウモリにとってどのように感じられているかは別問題だという話で、それを自然科学的には説明できない。この感じ方がクオリアである。デネットは、少なくとも自然科学的に説明ができたら、それがクオリアであり、それにプラスアルファしてクオリアがあるわけではないと考える。哲学は、このプラスアルファにこだわっており、神秘化してしまうので止めようというわけだ。

自然主義には、2つの立場がある。1つが消去主義者。心のあり方など内面は存在しない、あるいは全てを自然科学的に証明できるという立場である。デネットは、この心のあり方、たとえば自由を否定しない。自由な行為と思われているものをどういう風に説明するかが問題である。自由もクオリアも自然科学的に説明しようとする立場である。ちなみに、本日の画像はYou Tubeのものである。ここでは「多元的草稿モデル」とか「並列式のハードウェアをベースに非能率的な形で営まれる直列式の仮想機械」とかいう話が出てくる。短い内容なのでちょっと覗いていただけたらと思う。

2023年1月21日土曜日

ローティの言語論的転回

https://partiallyexamin
edlife.com/2017/01/02/ep
155-1-rorty-epistemology/
これまで、倫理の授業では、ヘレニズムとヘブライズムを根っことして成長した「西洋哲学の木」を基軸としてすっと教えてきた。イギリス経験論と大陸合理論がありカントで合流し、ドイツ観念論、ヘーゲル哲学で近代哲学は完成する。その後、ニーチェなどの生の哲学、マスクス主義、実存主義がこのヘーゲルの理性主義に反発する。これが現代哲学の流れで、その後の構造主義やポスト構造主義は、この西洋哲学の木を根底から破壊しようとする。ソシュール、フロイト、レヴィ=ストロース、さらにフーコー、ドゥルーズ、デリダと散々に、コギトやロゴスを否定していくわけだ。後半戦は、フランス現代哲学を中心に置いてきたのである。このほうが、哲学の木の成長と破壊という図式になり、わかりやすいからだ。フランクフルト学派やフッサール、ウィトゲンシュタイン、プラグマティズムなども付け加えていたが、途中で時間は尽きるといった感じである。今回、現代哲学者10人の中から、最初にエントリーしようと思ったのは、ローティである。(資料集には、現代政治思想のページに小さく載っている。)

ローティは、アメリカの分析哲学の哲学者である。分析哲学は、イギリスのラッセル、オーストリアのウィトゲンシュタインが有名である。要するに、言語の論理的分析によって哲学的問題の解決を図ろうとするもので、形而上学的な対象を排除するものだ。イギリス経験論の伝統から、英米では分析哲学に移行していったわけだ。ローティーは、「言語論的転回」という分析哲学の方法論の本の編集してデビュー、この語は彼の造語ではないが、一般的になった。それ以前の哲学の意識や認識とは全く違う哲学の出発点として認知され、20世紀の哲学の代名詞のようになった。たしかに、分析哲学に限らず、構造主義にしてもハイデガーにしても結局は言語であり、言語に着目してきたのが特徴であるといえる。

ローティは、この言語的転回に基づいてプラグマティズムを復活させようとした。(ネオプラグマティズム)ちょうど、政治哲学ではロールズの「正義論」が大流行していた。そこで弱者救済の理論のリベラリズムを取り入れ、アメリカの民主主義を強調したプラグマティズムと融合させようとした。資料集の政治思想のページに掲載されているのはそういう理由のようだ。資料集にはこうある。『伝統的な哲学が覆された後に必要な哲学は、伝統的認識論を批判する立場(アイロニー:装われた無知)とともに、現実的にも社会的実践を支える立場(リベラリズム)を兼ね備えるものである。』

…分析哲学のローティをまずエントリーしたのは、最新の現代哲学の状況を俯瞰する必要性からである。

2023年1月20日金曜日

最新の現代哲学を学び直す。

「教養として学んでおきたい現代哲学者10人」(岡本裕一朗:マイナビ新書/2022年11月)を昨年末、JR尼崎駅構内の書店で見つけ、年を越してから購入した。

倫理の教科書は8種類ある。出版社は東京書籍(22.2)・実教出版(21.2)、第一学習社(19.5)、清水書院(19.1+6.0)、教研出版(8.7)、山川出版社(1.1+1.1)の6社である。( )の数字は占有率。2つある出版社は古い版と改訂版が出ている故。共通テストは、あくまでも教科書の記載から作られている。ただし、内容が全て同じではない。当然のことだが、教える側として困るのは、使っている教科書以外の教科書にある記述から出題される可能性がある。その最も顕著なものが、「現代哲学」なのである。

ポスト構造主義と、分析哲学でウィトゲンシュタインくらいまでは、これまでずっとカバーしてきたが、先日共通テスト後に少しエントリーしたように、今年はレヴィナスが出た。倫理の資料集は、すべての教科書をカバーできるように作られているはずなので、資料集を基本に教えるのがいいかもしれない。そうなると、かなりカバーすべき哲学者の数が増えるわけだ。正直、私に属性のない哲学者もいる。資料集で自学自習せよと言っても、難解な哲学が多い。

時間的に焦りはしないが、来年度の授業のためにも、西洋哲学史を一応講じた後で、夏休みの講習時にでも、まとめてやろうかなと考えている次第。今回の新書購入は、そのための準備の一環なのである。

この本で描かれている哲学者は、章順に、マルクス・ガブリエル、ジャック・デリダ、ニック・ランド、フリードリヒ・キットラー、リチャード・ローティ、ジル・ドゥルーズ、ダニエル・デネット、クァンタン・メイヤスー、スラヴォイ・ジジェク、最後にというラインナップである。

デリダ、ドゥルーズ、吉本隆明は今年も教えた。資料集にもない名前も多いのだが、私自身の学びのためにも、しっかりと血肉にしようと考えている。幸い、著者のおかげで読みやすい本に仕上がっている。

2023年1月19日木曜日

THE ALFEEのこと Ⅲ

このところ、THE ALFEEをYou TubeのLIVE映像を中心に視聴している。先日、無観客の武道館のLIVEを見た。ここで「Tweat & Tears」を3人で歌っている。最初テクニカル・リハーサルの映像かと思った。照明はいつものように良かったし、上からテープが降ってきた。後で調べたら、無観客の武道館LIVEのDVDがあって、その映像であるらしい。3人はまさに観客がいると思い込みながら演奏していた。そして坂崎は、いつもようにピックを投げていたのだった。「Tweat & Tears」の歌詞がコロナ禍と見事にオーバーラップして、実に感動的だった。

有名な曲もだんだんわかってきた。と言っても彼らは50年近くやっているわけで、莫大な曲数の中のほんの一部である。「Brave Love」(銀河鉄道999の主題歌らしい)「希望の鐘がなる朝に」(TVドラマの主題歌らしい)の櫻井のヴォーカルは素晴らしいし、ノリもいいし、ヒットするのは当然のような気がする。英語が多すぎるけど…(笑)

インタヴューの画像もいくつか見た。高見沢は、レッド・ツェッペリンが大好きだったようで、ジミー・ペイジの使っていたギブソンのレスポールが憧れだったらしい。冗談でバンド名を「レッド・ツベルクリン」にしようかとも話していたらしい。私は、レッド・ツェッペリンと、70年代のハードロックの双璧だったディープ・パープル派なので、リッチー・ブラックモアのストラトキャスターが憧れだった。T商業高校時代、寝屋川市民会館の文化祭でティーチャーズに参加する際、偽物を買ったもんだ。(笑)

ところで、今回、THE ALFEEの3回目のエントリーを書こうと思った主因は、坂崎がメイン・ヴォーカルをつとめる「人間だから悲しいんだ」を、たまたま視聴して、いい曲だなとしみじみ思ったからである。この曲も高見沢の作詞作曲。年齢を重ねないとつくれない曲である。私達の世代への応援歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=LmVQjIZOZaE&ab_channel=Orb1999

その後、同じく坂崎のメイン・ヴォーカルの「シュプレヒコールに耳を塞いで」を視聴した。これも、素晴らしい曲だ。1969年頃(私は小6、THE ALFEEの3人中3くらい、70年安保紛争の年で学生運動真っ盛りの年である。)の白いヘルメットの活動家女性への悲しい愛を歌っている。しかも、高見沢もアコギで激しいリードを弾いていて、坂崎との掛け合いというかバトルも素晴らしい。こういう曲は、我々の世代以上でないと実感しにくい。THE ALFEEも私も紛争後の「しらけ世代」ではあるが、紛争の残り香を十分かいでいる。

https://www.youtube.com/watch?v=XOAiT9iquRE&ab_channel=mayfourth

さらにその後、この「シュプレヒコールに耳を塞いで」と同じ1969年を歌った「幻夜祭」という曲があることがわかり、視聴した。これはまた凄い曲である。この曲は3人でずっとコーラスで歌っている。うーん、プログレ(キング・クリムゾンやピンク・フロイドのような…)である。学生運動・1969年を題材にしながら、これだけ長く複雑な曲がTHE ALFEEにあったとは…。THE ALFEEの音楽性は、実に広く、深いのだと知った。きっと、これからもお気に入りの曲を発見するだろうと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=eINxfP_8ic0&ab_channel=ManWicker

2023年1月18日水曜日

橋爪大三郎氏の結論

https://newspicks.com/news/5377724/body/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリーも第18 回目。その最後は、著者・橋爪大三郎氏の結論部分についてである。

公定教会の国々:序論(1月4日付ブログ参照)にある通り、ヨーロッパでは、ウェストファリア条約以来、公定教会制を取っている。ドイツはルター派、普遍主義のルター派は北欧諸国にも拡がっている。領邦国家だったドイツが帝国化するには、ゲルマンの民族意識や梧逸ロマン主義が必要であった。フランスは、カトリックだが、歴史的に敵対してきたし革命時は領地を没収したし、政教分離し、哲学という普遍思想を持ってきた。自由・平等・博愛という普遍思想をナポレオンが他国に押し付けることも可能だった。イギリスは、国教会。イングランドでは唯一合法な教会である。ソ連解体後のロシアの場合、(正教は各民族で分派している故に)ロシア正教がネイションの基盤になりうる。しかも伝統的に皇帝と総主教の二人三脚体制である。

普遍主義思想とネイション:ソ連の場合は、宗教ではないが、マルクス・レーニン主義が普遍主義思想である。ロシア人は、ソ連当時は共産党を公定教会のように理解していたようだが、人類の部分的集合(ネイション)を正当化するナショナリズムとは相性が悪かった。(ギリシア語で普遍を意味する)カトリックの普遍主義とネイションは、スペインやイタリアなど文化や言語といった特性を基盤にしているわけだ。イスラムも普遍主義であるので、人類共同体(ウンマ)を実現し、その政治的リーダー(カリフ)は1人であるべきだとしているので、ナショナリズムや近代国家を導くことは難しい。中国の場合は、特別である。中国共産党はマルクス・レーニン主義(普遍主義)と言えず、中華思想的なナショナリズムの宗教になっていて、神聖政治化している。自由や民主主義の余地はない。

アメリカは、世俗の政府と政府と関係がない、いくつもの教会の組み合わせである。これがアメリカの骨格である。WWⅡ後、国家神道をアメリカによって否定され、信教の自由が憲法によって保証されている日本と似ているわけだ。日本の国家神道は平田篤胤以来、維新の皇国思想と結びついたが、伝統であって宗教ではない。仏教徒であるままに強制された。国家神道の廃止は、アメリカの政教分離・公定教会の否定の延長線上にあるわけだ。

橋爪大三郎氏は、アメリカの覇権はまもなく終わると見ている。その後はどうなるか?アメリカのプロテスタンティズムに由来する、しないにかかわらず「自由や民主主義」といった価値観を共有する国(日本も含めたG7の国々)と、共有しない国(ロシアや中国、イスラム諸国)のどちらが多数派となるかだが、日本のスタンスはかなり大きい意味を持つ、と氏は見る。日本が、これらの価値観をキリスト教の文脈を超えて人類に有益であることを証明できる稀有な存在だからである。

…氏の結論への私の感想は、なるほど、こういう視点は面白い、というものである。現在の中国の状況を見ていると、少なくともアメリカ的自由と民主主義の方がマシであると思うのは私だけではあるまい。ただ、この自由と民主主義が危機にさらされていることも事実。コロコロと米大統領選の逆デモクレイジー以来の不信感は依然強い。しかも親中派&対米追従派の政治家ばかりの日本がアメリカから自立し、世界のリーダーシップの一翼を担うとは今のところ思えないのである。

…マレーシアでは、イスラムが国教である。連邦憲法を見ると、宗教の自由(キリスト教や仏教、道教、ヒンドゥー教、シーク教など)は認められている。宗教税が存在するのかは分からないが、イスラムでは職業的牧師は存在しないし、国立モスクはあるが、基本、裕福な者が寄進する。一方で、非常事態宣言が発令された時は、イスラム教以外の自由は制限される。世俗国家のネイションとしての基盤はやはりイスラムなのだと考える。マレーシアは、イスラム国家でありながら、自由と民主主義という価値観を共有できている珍しい国家のスタイルをとっていると私は思っている。

2023年1月17日火曜日

原理主義から福音派へ

https://ameblo.jp/ameriyoko777/entry-12235159205.html
南北戦争後に現れ、20世紀半ばにピークに達した原理主義は、プロテスタントの多様性と寛容、社会の世俗化に反対する鬼子のような存在だと見られてきた。「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリーの第17 回目は、その原理主義についてである。WWⅡ後は福音派運動と呼ばれる。

アメリカの福音主義は、一方でカトリックに反対し、もう一方でユニタリアンのようなリベラルなキリスト教に反対する。聖書とキリストに基づこうというアメリカ特有の運動で原理主義の主張と同じである。アメリカの大半のプロテスタントがポストミレニアリズムなのに対し、原理主義はプレミレニアリズムである。この相違は、終末の前に訪れる千年王国と、イエス・キリストの再臨の後先の順番が違う。

ポストミレニアリズムは、福音が行き渡って人々が悪から逃れ、信仰を強めた千年王国を実現した後に、いよいよイエスが再臨すると考える。つまり、人間の力で地上が改善できるとする楽観論である。それに対し、プレミレニアリズムは、イエス・キリストが再臨した後に、ようやく地上の悪が克服されて、千年王国が実現する、と考える。人間の力で地上をよくすることは出来ない、人間にできるのは、霊感によって動かされ、回心することだけだとする。原理主義は、武力を用いないので平和的であるが、主流のプロテスタントの共通了解には収まらない。科学や女性運動などに反対し、現代社会のもやもやに言葉を与えている。原理主義は、今の時代の敬虔主義ということもできる。

1920年代、原理主義は戦闘的になり、その後落ち着いた。ノーザン・バプティストと長老派に多く、メソジストや国教会(エピスコパル)には少なかったのは組織がかっちりしていたからで、会衆派に少なかったのは、組織がほぼなかったからである。1925年、テネシー州のスコープス裁判(進化論裁判)では、一審で有罪、州最高裁では裁判自体が否定された。この裁判で、原理主義は、田舎の南部の反知性主義というイメージが定着する。しかし、いくつもの学校や教会がつくられ、出版事業やラジオ放送などで勢力を拡大、WWⅡ後、福音派と呼ばれるようになってから、ペンテコスタル(20世紀はじめに起こった霊的な再生の運動。ロスの集会で聴衆が聖霊を受け異言を語りだし、世界にも広かった。全世界で信徒数5億人:全キリスト教の25%)、サザン・バプティスト、無宗派の移民系の会衆の流れをくむ精神的な運動となった。原理主義の再生ではなく、もっと広く深くなった。

トランプ大統領は、この福音派の支持を受けた。福音派は、大学の神学教育、知的権威、教会の組織、牧師の決まりきった説教などをどうでもいいと思っている。巡回説教師こそ本物だという認識がある。トランプはこの巡回説教師の匂い(素性が怪しく、いかがわしく、人間的な弱さと悪さが透けて視える、しかし憎みきれない人懐こさがある。)がぷぷんする故に、惹かれたのだろうとは、著者の橋爪大三郎の見解。

ちなみに、スコープス裁判以後、進化論教育は論争の種だったが、1968年最高裁は進化論を教えることを禁じる法律の無効とした。アーカンソー州法、ルイジアナ、ペンシルバニアなどの関連法も違憲とされた。現在、アメリカの公立学校では、宗教教育は厳として禁じられている。

アメリカの学校では、「アメリカ合衆国の旗と、それが表す、神のもとひとつの国民であり、分けられず、すべての人々のための自由と正義の共和国とに大使て、私は忠誠を誓います。:I pledddge allegiance to the flag of the Unaited States of America and to the Republic for which it stands one Naition, under God,indivisible,with loberty and justice for all.」と宣誓する(画像参照)のだが、1954年の冷戦期、ソ連との区別のために「神の元:under God」が加えられたことについては、裁判が起こり、誓いは祈りではないという意見もあるが、今も議論が続いているという。

2023年1月16日月曜日

呼び寄せられた セクト

https://www.tipsandtricksjapan.com/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%
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「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリーの第16 回目である。 1730年から90年にかけて、大覚醒と独立戦争が大きな時代の変わり目となり、これまで以上にセクト(小さな宗教集団)を呼び寄せた。セクトは、規制の宗教から特定の人物や、特定の考え方に従って分かれたものが多い。

クエーカーはその代表であるが、ピューリタンに蛇蝎のごとく忌み嫌われていた。バプティストは17世紀にニューイングランドに来ていたが、会衆派や国教会と自分たちは違うと考えていた。18世紀になって、幼児洗礼を拒否し、他の教会のための協会税を拒否する分離派バプティストが生まれる。また、バプティストで、カルヴァン派の予定説をとらず、もっと広く救済を考えるアルミニウス主義の信条をもっているバプティスト(一般派)だけでなく、予定説を取るバプティスト(特殊派)も生まれたし、安息日は聖書によると土曜日で、日曜礼拝を改めようとするセブンスデー・バプティストも分離派バプティストから離れた。自由意志バプティスト、ユヴァーサリストも予定説に反対の立場の(バプティスト系の)セクトである。

アメリカ独立後、やってきたセクトで、資産を共有し大きな家に住む独身主義のシェーカーズ(現在はごく少数)、現在は富津の福音主義教会だが、ドイツ語を話すモラヴィアンズはイエスの脇腹の傷を重視する神学をもっていた。オランダに生まれたメノナイトは再洗礼派は世俗に興味を示さなかった。メノナイトから派生したのが、有名なアーミッシュ(画像参照)である。

その他に、アメリカ発祥のクリスチャン・サイエンスがある。ボストンに行ったとき、この宗派の巨大な教会を見た。(画像参照)宗教の名に値しないと考える人もいて、「アメリカの宗教・百科事典」には載っていないが「アメリカの宗派ハンドブック」には載っている。心霊治療を行い、全米に拡大している。

最後に記しておかねばならないのが、これもアメリカ発祥のモルモン教である。第二次覚醒運動の最中の1823年、ジョセフ・スミスという人物が天使マロニ(ウィキでは天使一覧には記載されていない)の導きで埋もれていた金板のモルモン書を発見したと言われる。アメリカに渡ってきたイスラエル部族のBC600年からAD400年の歴史が古文文字で書かれていた。モルモンはその最後に現れた人物名で、翻訳キットや予見の石も埋まっていたので、翻訳し1829年に英語訳が完成した。翻訳が済んだので、もとの金板は天使が持ち帰ったらしい。モルモン教とは常にトラブルを起こしていたようで、NY、OH、MO、そしてILで暴動が起こり、反乱罪で捕まり裁判を受ける前にジョン・スミスは群衆に撃ち殺される。彼の死後、プリカム・ヤングの指導のもと、当時のメキシコ領のユタに入植した。イエスの12人の弟子になぞらえ、12人の弟子会議の再長在任者が次のプレジデント(預言者)となる。変わった宗派だが、南北戦争時はカルヴァン派神学によっており、モルモンの書より聖書からの引用が多い。モルモン教徒は自分たちを新しいイスラエルと考えており、他の宗派は異教徒である。批判の対象となっていた複婚は、1890年に、州に昇格するのと引き換えに棚上げされた。以後全米に拡がった。幼児洗礼はなく、思春期に洗礼を受ける。男性は20歳前後に2年間の奉仕(世界に宣教)をする。…昔はよく大阪でも2人組のアメリカ人男性を見かけたものだ。「あなたーは、神を信じますかー?」と最初だけ日本語で語りかけてきた。

共通テスト2023 政経

倫理に続いて、政経の問題についても見ていこうと思う。こちらはどっちかというと、2年生に教えているので、来年度を見据えての話になる。まず、第一印象は、なかなか面白かったというものだ。特に、大問1の出題のアイデアが良い。広報誌を題材に、多岐にわたる出題内容をうまく網羅していた。三崎で、伊方町の広報誌に協力隊の原稿を出していて身近だったし、こちら枚方でも広報誌を時折眺めることもある。ただ、広報誌の存在は、高校生にはかなり新鮮だったのではないかと思う。問題自体は決して難解ではなく、基礎的な理解ができていれば難なく解けるだろうと思う。大問4は、SDGsの設問になっているが、地球環境問題が主で、2学期末に講じたところ。来年出してほしかった。(笑)

特に良問だと感じたのは、為替介入の問題。この為替介入や金融・財政政策などが、政経の最もややこしいところである。需供曲線は意外に共通テストでは難しくない。今回のグラフ問題は、「円売り・米ドル買いによる風に逆らう介入」であるから、円高に対して、日銀が為替介入をした場合の価格変化を問うている。すこし解説すると、円高であるから、始まりは1米ドルにつき円が縦軸なので比較的数値が高いはず。よって、イかウの二者選択。為替介入しても市場は必ず反発するのでイ=2が正解となる。円安の現在、あえて円高状況で設問しているわけだ。ちなみに、政経倫理では、大問1も、このグラフ問題も入っていない。

2023年1月15日日曜日

共通テスト2023 倫理

共通テストになってから、倫理の難易度は少しずつ上っていっている。昔は、秒殺の問題もかなりあったが、読解力を求める問題、選択肢が増えた問題など、受験生は大変である。

学園では、日本思想史に関しては、西田幾多郎を最終ゴールとして教えた。西田哲学が今年出題され、教えていたことにホッとしている。(上記画像参照)絶対矛盾自己同一の正解は3である。

時間の関係で、教えるのをやめて、自己学習に流したものもある。それが、レヴィナス。内田樹氏の師匠である。しまった、というところである。これも正解は3。

幸い、受験者の多くが政経倫理で受験しており、西田もレヴェイナスも省かれていたが…。来年度に向かって、さらに読解力をつけること、さらに、できるだけ資料集に目を通しておくことが重要だと思う。

独立後の神学論争

https://www.5star-magazine.com/news/thomasjefferson/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリーの第15 回目。アメリカが独立し、宗教の自由を宣言したおかげで、カトリックは恩恵を受けた。ワシントン大統領はRIのニューポートのシナゴーグを訪れユダヤ教徒の礼拝の自由を保証した。合衆国憲法修正第1条で、ヨーロッパ型の公正宗教も、少数派の法的能力を奪うこともやめた。このため、アメリカの各教会では、信者獲得が自由競争となり、神学論争が活発になった。論争の焦点は、聖書、カルヴァン派、聖餐式の3つだった。

聖書:アメリカのプロテスタントは、カトリックをアンチ・キリストと考え、聖書に基づく信仰を追求してきた。「理神論」はイエスの言葉の中に、後世の信条(教会が積み上げた人間の考え)のゴミに埋もれた黄金があると考えた。第3代大統領のトマス・ジェファーソン(画像参照)は、理神論に共感する「ユニタリアン」で、イエスについて後世語られたこと(復活やパウロの手紙)には基づかない。三位一体論をとらず、イエスは神(の子)ではなく、イエスの超越的な力は神から与えられたもの、とする。同じユニタリアンのハーヴァード大学のジョージ・ラバル・ノイズ教授は、ヨハネの手紙1の5章7節(三位一体の根拠となる文書:「証とするものが3つある」)を後世の加筆だとした。これに、イェール大学で会衆派が反論する。「聖書にイエスが神で人間だ」と。それに対し「神が人間に与えた理性を使わないのか」とユニタリアンは答えた。ユニタリアンは、19世紀に宗派(会衆派のうちのリベラル寄りの人々で、つまりは会衆派かた離れたといえる。)となった。それまでは、「論」である。ロックやヒュームは、神を合理的な創造者として再構成することについて議論していたという。かの秘密結社として有名なフリーメイソンもオカルト的ではあるものの理神論である。理神論は、福音主義的な信仰復興(リバイバル:覚醒運動)の対局にあり、市民運動を信じ、科学を信じる。回心を信じない。カルヴァン派の人間学にも反対する。彼らのリベラルさとその広がりは、政府と教会の分離(政教分離)を推進した。

カルヴァン派:1647年の「ウェストミンスター信仰告白」(前述:1月5日付ブログ参照)は美しく理路整然としていて、ごく僅かに手を加えただけで、会衆派、長老派、多くのバプティストに受け入れられていた。人間は生まれながらに呪われている。神は人々のごく一部を救う。残りの人々は神の正義のため破滅する。神が一部の人を選んだことが、恩恵のみの教義なのであり、恩恵は神のわざだから人間の出番はない、と。カルヴァン派の議論では、1.原罪、2.意思の束縛、3.無条件の選びが問題となった。
1.原罪について、ユニタリアンは聖書にそんなことは書いていない。カルヴァン派の考えによれば、神が人間の罪を作り出したことになると批判した。さらに、ユニタリアンは、慈悲深い神は、人間を神の道徳的イメージに合わせてつくった。人間は道徳的に正しくふるまう能力があり、神はその自由と能力を与えたと主張した。新しい国家のスタートとしてふさわしい清新な思想である。
2.自由意志について、カルヴァン派は人間には罪を犯す自由しかないので悲しすぎる運命論である。会衆派のニューイングランド神学では、自然の能力によれば人間はキリストに従う。だが、道徳に従えば罪を犯すとしたが、いやいや神の働きで回心し罪は拭い去られるという論争が起こった。長老派内でも同様の論争があった。第二次覚醒(1800年~40年頃)にかけ、この人間の自由意志と神の決定権の問題は語られ続ける。
3.無定条件の選びとは、救済予定説に関わる論争で、「無条件:神の意志のみ」のカルヴァン派と「条件付き:人間の信仰による」のアルミテウス派(=メソジスト)との論争である。メソジスト側からは、もし無条件の救済予定説ならば、キリストを「偽善者」に、パウロを「嘘つき」にしてしまうと批判した。パウロは、デモテ2章で「すべての人は救われる」と述べているからである。カルヴァン派(大まかに言えばピューリタンの会衆派・ブレスピテリアンやゴイセン、スイスなどの長老派)は「誰でも来なさい」というイエスの福音を否定しているというわけである。はアメリカのプロテスタントは、カルヴァン派が中心であったが、1776年時、人口の3%だったメソジストが、1850年には34%に増えている。勢いは「条件付き」にあったといえる。

聖餐式:国教会が中世以来の装飾や儀式を復活させようとした、本国と連動したオックスフォード運動と呼ばれるもので、ルター派は反対にアメリカ化しようとした運動が起こった。ユダヤ教でも食物規定の緩和やヘブライ語の祈祷書の英訳などの動きが起こった。

2023年1月14日土曜日

大覚醒運動について

http://voiceofwind.jugem.jp/?cid=24
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー、回を重ねて第14 回目になった。アメリカでは、4回(5回という説もある)ほど教会の覚醒運動が起こった歴史がある。第1回目は、1730年頃のことである。この頃、ニューイングランドの会衆派が、ニューライツ(福音主義派)とオールドライツ(再生反対派)に分裂した。福音主義派は、「本当の信仰者は神を個人的に知っており、願いと行動を神の意志と合致させる」と考え、回心したと自分でもわかり、周囲の人とも判定できるろ考える。再生反対派は、これまで会衆派が重視してきた「回心」や「再生」を認めないとする人々である。

ニューライツの中でも、穏健福音派は、回心を認めるが大覚醒運動は大きな社会変革には結びつくとは考えないし、アフリカ系やネイティヴ、女性、子供、教育のない白人が聖霊の働きだけに基づき新しい宗教的権威を求めるのは危険だと考えた。これに対し過激福音派は、大覚醒運動を、これまでの回心がチェックされ、聖霊の新しい時代、革命だと考えた。分離派の人々は一歩進んで、幼児洗礼を否定するバプティストになった。前述の幼児洗礼問題にこだわったのである。(1月6日付ブログの「半端契約」)この分離派バプティストは結局長続きしなかったが南部に強力な宣教を展開していく。

大覚醒の主役は、一般の人々、とりわけ非白人の人々であった。ニューイングランドでは大覚醒が劇的に起こって、(植民地の教会は公定教会なので新しい教会をつくるのは州の権限なのに)何百もの教会が分離した。これまでの教会はピュアではないと思われたからである。

一方、大覚醒運動による福音主義は、奴隷制反対の源泉の一つであった、多くのリーダーが主張したが、特に南部では、なかなかうまくはいかなかった。大覚醒の帰結のもうひとつは、公定教会の廃止、政教分離への流れである。大覚醒は、独立革命と関係があるのかという問いに対して、福音主義カルヴァン派が革命にエネルギーを供給したという説があるが、多くの歴史は懐疑的であ。福音主義は数ある要因のひとつに過ぎないといわれる。しかし、大覚醒運動は、既成の権威に対する大衆の挑戦であり、独立革命とスタスを同じくしていることは疑いようがない。

2023年1月13日金曜日

そして英国国教会

https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/boston/king-s-chapel-98614/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第13 回目。いよいよ国教会の話のまとめである。イングランド国教会は、イングランド(王国)と教会が合体した、カトリックとも他のプロテスタントとも違ったパターンの教会である。国教会は、ルター派などの公定教会のパターンを超え、教会それ自身が国家によって存続させられている。王権と宗教権が合致している、独自の特異な教会のあり方である。公職や教会の職につくには、国王をイングランド国教会の地上における唯一最高の首長として宣誓しなければならない。

ヴァージニアでは、前述のように国教会設立を法で定めたが、本国(宗教税や他の宗派の排斥)のようにはいかなかった。ニューイングランドでは、1686年にボストンのキングス・チャペル(画像参照)が、ニューポートにトリニティ教会が建てられた。牧師の給料は、本国政府の外郭団体(SPG)から受け取っていた。会衆派に対抗して、このように勧誘されていた。「儀式が立派で、(回心が必要な会衆派と違い)聖餐にすぐあずかれて、規律もゆるい。」国教会は、17世紀のニューイングランドでは、カトリックのような存在だったのだ。中部でも、法の保護をうけた特別な存在で、反感を持つ人も多かった。しかし1680年から1730年にかけて信徒数は増えていく。これは、SPGのおかげであるといってよい。1727年には23もの教会をニュージャージー、デラウェア、フィラデルフィアに建てている。

植民地のエリートには、国教会は魅力的だった。フィラデルフィアのクライスト・チャーチや、ニューヨークのトリニティ・チャーチは、地位をみせびらかすのにちょうど良く、クエーカーや長老派、オランダ改革はからの改宗者も増えた。しかし、牧師の不足、監督制なのに監督(主教)の不在といった問題を抱えていた。牧師の養成のため、ペンシルベニアの長老派は1726年からログ・カレッジ(丸太小屋大学)を運営、その発展として1746年にニュージャージーにカレッジ(後のプリンストン大学)を開校した。国教会も負けじと、1754年キングス・カレッジ(後のコロンビア大学)を開校した。

国教会は、各地で抑圧者の権化のようなイメージを持たれ、異議申し立てをする人々(様々な各宗派)が増える。これが、独立戦争時に関係してくる。1776年の兵員募集の際、ヴァージニアで最も国教会から圧政を受けていたバプティストは、(独立して、政府・国教会からの)「宗教的寛容」ではなく「宗教的自由」でなければだめだと愛国派として参戦した。

1784年から5年にかけて独立戦争後行われた公開の大討論会の結果、政府が宗教活動に資金を直接拠出することは禁止になった。1787年に憲法起草の会合があったときも、ヴァージニアは宗教の自由を一番熱心に主張した。他の州もそれに従った。1791年の合衆国憲法修第一条は、公定教会をなしにすると定めた。イングランド国教会は、アメリカではただの一宗派になったわけだ。しかも名称まで変わった。エピスコパル(ギリシア語でbishop:司教を意味する。)となり、この司教を民主的に選挙で選ぶようになった。

2023年1月12日木曜日

新大陸のカトリック

https://ohayotourism.com/new
york/st-patricks-cathedral/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第12 回目。アメリカに入植したプロテスタントが強烈な敵愾心を持っていたカトリックの歴史である。

イングランドの北米植民地に責任を持ったのは、イングランドのイエズス会で、前述のメリーランドのカルバート公の招きに応じ、神父を1634年から1776年までの間に150人以上派遣した。財源はイエズス会が負担し、メリーランドとペンシルベニアのプランテーション収益もあてられた。イングランドのフランシスコ会も神父を送った。イエズス会は、政府の支援はなく、エリザベス1世時はカトリックは非合法だった。北米でカトリックが公然と礼拝を行えたのは、ペンシルベニアとデラウェア(DE)だけで、独立革命時にカトリックの人口はわずか1%であった。そのうち、20%はアフリカ系の奴隷で、1/3はペンシルベニア在住。後は少数でデラウェア、ニュージャージー、ニューヨーク、ヴァージニアにいた。ジョージア(GA)、サウスカロライナ(SC)、ヴァージニアのネイティブにかつてスペインが布教していたが、イングランドの進出で断念。フランスは、メイン(ME)、ヴァーモント(VT)などに進出していたが、ユトレヒト条約、パリ条約によって、カナダの支配権を譲り渡した。

メリーランドのカトリック共同体は、民族も階層も多様で、イングランドに加え、アイルランド、アフリカ、少数のオランダ、フランス、ドイツ(南部)の出身者で、農園主、小作人、労働者がいてタバコ栽培に従事しており、人口の約10%を占めていた。1690年、メリーランドは国王の直轄領となり、1702年には国教会が出来、1704年にはカトリック防止法が制定され、カトリックは家庭内でのみ認められた。ヴァージニアにも裕福なブレント家が入植し禁制にも関わらずカトリックとして過ごし、独立革命の頃は200人ほどになっていて神父も呼んでいた。

ニューヨークとやニュージャージーでもジェームズ2世が名誉革命で退位後はカトリック禁止法が施行された。17世紀の終わりに、ペンシルベニアとデラウェアに住み着き、イエズス会も拠点を持った。ドイツやアイルランドからの移民が増えると1734年には最初のカトリックの教会が建てられた。

7年戦争(1756~63年)で、イングランドは、カナダから1万人弱のフランス人を一部は帰国させ、残りの人々を9つの植民地に移住させたが、あまり歓迎されなかった。

…今回の画像は、NYのセント・パトリック教会。現在、アイリッシュの守護聖人の命日をアメリカ各地で祝うことになっているが、独立前のカトリックはこんな状況であったわけである。

2023年1月11日水曜日

植民地のユダヤ教

https://www.tripadvisor.jp/Show
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e-New_York_City_New_York.html
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第11回目である。今回は植民地のユダヤ教について。
1492年、スペインはユダヤ人を追放した。5年後にはポルトガルからも追放された。カトリックに改宗すれば許されたが、隠れユダヤ教を信仰していないか厳しい査問があった。よって、新大陸はユダヤ教徒にとって新天地だったが、1569年新大陸でもユダヤ異教狩りが始まり、スペイン系アメリカの地も新天地ではなかった。
1630年、オランダが、ブラジルの北東部ペルナンブコを入手した。オランダには改宗ユダヤ人のコミュニティがあり、堂々とユダヤ教を信仰していた。オランダ領ブラジルを経営する西インド会社はユダヤ人を招き、カトリックと同等の権利を与えることにした。17世紀において最もユダヤ教徒に開かれた地であったわけだ。1000人余りが住み着き人口の50%近くを占め、シナゴーグや2つのユダヤ教の学校もあった。だが、1654年、ポルトガルがこの地を奪還し、立ち退きを命じた。

ブラジルを追われたユダヤ人の大部分は本国に戻ったが、23家族がニューアムステルダムに移った。ニューアムステルダムのオランダ改革派の牧師は、ユダヤ人の求めに応じなかった。当時、ルター派は私的礼拝のみ、クエーカーは違法であったので、ユダヤ人に自由を与えると、ルター派やカトリックにも自由を与えなければならなかったからである。しかし、西インド会社は株主のユダヤ人の陳情を受け、ユダヤ人の旅行、貿易、生活、滞在の自由と、家庭内の礼拝を許すよう現地長官に命じた。平穏に合法に暮らしている限り、クエーカーにも自由を与えた。

ニューアムステルダムは、1664年イギリス領となった。スファラディが先に来ていたので、アシュケナジもスファラディ式の礼拝を仲良く行った。1730年、ニューヨークにシナゴーグ(セントラルシナゴーグ:画像参照)が出来、シナゴーグ共同体となった。1763年、ニューポート(RI)にもシナゴーグが出来た。この他にもサバンナ(GA)、チャールストン(SC)、フィラデルフィア(PA)、リッチモンド(VA)などの港町で貿易に従事しながら、シナゴーグ中心のユダヤ人共同体が形成されていく。ユダヤ教徒はキリスト教徒と親しく交わり仕事をするが、通婚率は10%くらいで、共同体から離れている方が、また男性の方が率は高い。しかし、独立革命までは、二級市民で、ヴァージニア、コネチカット、メリーランドでは、投票権はなく、公職につく宣誓からも排除されていた。書籍の出版も許されず1773年のラビの説教が植民地期の唯一の出版で、アメリカ植民地人の200人に1人はユダヤ人だったが港町に集まっていたのと、文化的な表現の制限故、独立革命前夜までユダヤ教の文化は人々の目に触れなかった。

独立革命時、ニューヨークのユダヤ人(数百家族)は王党派と革命派に分かれたが結局大半がアメリカを選んだ。革命の結果、宗教の自由が確かなものになった。ニューヨークでは1777年、宗教の自由が「人類全て」に拡大され、キリスト教ではくてもよくなった。ただし、宣誓の際にはカトリックに反対することを誓う必要があった。…これは実に興味深い話である。アイリッシュやイタリアーノが多い現在では考えられない。

1779年起草、1785年法律として成立した、ジェファーソンによる「宗教の自由法(Act for Religious Freedam)」は、さらに確かな一歩となった。ただし、ユダヤ人はこうした偉大な改革に少しも関与していない。大陸会議でも、各州の討論でもユダヤ教については一切触れられなかった。

…初渡米時、ウィスコンシンのミルウォーキーの博物館で、様々な民族の移民展示があって、私はユダヤ人のブースを懸命にスケッチしていたのを思い出した。あの頃から興味を持っていたのだ。

2023年1月10日火曜日

アフリカ系の人々と教会

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%8
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「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第10回目。アメリカの独立革命は、1776年から83年。これまでは、主に17世紀の植民地の宗教を見てきたが、「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第10回目は、アフリカ系の人々に目を向けたい。

1516年スペインのカルロス5世が、新大陸でのプランテーションのためアフリカ系奴隷をフロリダやミシシッピ河一帯に送り込んだ。1600年代、イングランドはカトリックと対抗するために奴隷制を採用、1660年にチャールズ1世はキリスト教布教を命じた。ニューイングランドで、最初にアフリカ系奴隷が改宗したのは1641年であるが、一応に奴隷主は改宗を嫌がった。そこで、植民地の立法者は、奴隷の地位はキリスト教の救いによっても永遠に不変であるという理屈を編み出した。1664年メリーランドは奴隷が洗礼を受けても身分は変わらないという法令を出し、ヴァージニアがそれに続いた。1706年までに6つ以上の植民地が同調した。

ところで、17世紀のプランテーションでは、奴隷主は多くても10人ほどの奴隷と、白人の年季奉公人やネイティブアメリカンの下僕とともに農作業していたし、奴隷は生活の糧のため日曜も働き、市場に商品を売りに行くこともあって、日曜礼拝に参加することは難しかった。同時に逃亡の可能性は十分にあったのである。1700年代後半の、大量の奴隷を監督する状況とはかなり違っていた。

ところで、スペインはフロリダに兵隊にした奴隷を配置していた。1686年、サウスカロライナの居住地を攻撃し、奴隷10人ほどを捕虜にし、賃金労働者に雇い改宗させた。1693年、逃亡奴隷で、フロリダにたどり着き、カトリックに改宗し、スペイン帝国のために戦うと宣言した者は自由の身分を与えるとした。1700年代はじめ、チャールストンから多くの奴隷が逃げてきてカトリック兵として多くの仲間を開放しようとした。1738年にはモーセ砦という根拠地ができた。

フランスは1719年に奴隷制を導入した。その2/3は西アフリカのマンディンガ王国との戦争に従事した人々で、戦闘のスキルを持っていた。フランスではネイティブは奴隷にしてはいけない決まりだった。アフリカ系の奴隷は白人より増え、イギリスとネイティブのチカソー族との戦いの中で、さらに軍事経験を積んだ奴隷たちは、逃亡奴隷の社会を作る。彼らはネイティブと組んで、フランス植民地に反撃した。1729年、ナチェ族の反乱に逃亡奴隷も参加したが敗北した。こうした流れは、ハイチでも見られた。彼らの信仰は、アフリカの宗教に、ネイティブの宗教と若干のキリスト教が混じり合っており、まじりやすいカトリックはともかく、プロテスタントに改宗する者は極めて少数だった。彼らの改宗(まだまだ一部だが…)は大覚醒運動(1740年頃)まで待たねばならない。

…いずれにせよ、植民地のアフリカ系の人々は、そう簡単にキリスト教に改宗していないことがよくわかった。逃亡奴隷の反乱の話は初めて知ったが、驚愕の事実であり、ネイティブの人々と共に多くの血が流れたことに合掌せざるをえない。

サラミとマッシュルーム・ピザ

このところ、「アメリカの教会の書評」が続いている。久しぶりに日常的なエントリー。今朝の朝食は、ピザ。妻が業務スーパーで手に入れる薄めのピザ台に、サラミとマッシュルーム。これが我が家の定番。昔、天王寺にポポロというイタ飯の店があって、デート(あまりに懐かしい言葉である。)の時、ここのサラミとマッシュルーム・ピザを食べ、私が大感激したことに由来している。今朝は、パンナコッタとバナナもついてきた。少欲知足の生活を旨に、こういうささやかな幸せはアリだと思う次第。

2023年1月9日月曜日

多様性と寛容 MDとNC/SC

https://ourcommunitynow.com/events/travel-the
-emerald-isle-with-the-47th-maryland-irish-festival
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第9回目である。1634年、アイルランドの貴族議員・ボルチモア男爵カルバート家が国王から植民地設置の許可を得た。カルバート家はカトリックで、彼の私有領でカトリック教徒に植民を促したが、少なく、カトリック以外の植民(敵意を抱いている者も多かった)も歓迎せざるを得なかった。メリーだランド(MD)植民地である。(チャールズ1世の后の名をとっているのが、いかにもカトリック系である。)
1649年、「寛容法」が公布された。三位一体の教義を受け入れるすべての人々に「良心の自由」を認めたのである。カルバート家はカトリックの人々に信仰をひけらかすことのないよう言い含めた。しかし、カルヴァン派の人口が増え、(国教会中心の)ヴァージニアから追い出されたピューリタンがメリーランドに逃れてくると、本国の動乱(清教徒革命)を機会にカルバート家の支配に反抗し、1654年にカルバート家の統治権は失われた。反乱側は寛容法を撤廃し、イエズス会を追放した。1657年、カルバート家は統治権を回復、寛容法を復活(1688年の名誉革命まで有効だった)。しかし、クエーカーが告発されるなど、すべてのキリスト教徒がメリーランドに歓迎されたわけではなかった。

メリーランドは、イングランドの勢力圏でありながら、カトリックとプロテスタントがおおっぴらに共存する珍しい場所で、長老派、ルター派、国教会、再洗礼派、クエーカーの人々も住んでいた。名誉革命の結果、カルバート家の統治は終わり、1700年に国教会が設立された。当局は、国教会の信仰を押し付けようとしたが、2年後に法令が改まり、これまっでのような寛容が保証された。すべての宗教が平等ではないまでも信仰の自由はあった。南隣のヴァージニアに比べ多様性があったのである。

そのヴァージニアのさらに南のカロライナ(現NC/SC)植民地では、メリーランド以上の多様性が進んでいた。1669年から1698年にかけての4つの「カロライナ基本法」(ジョン・ロックが起草に関与した)では、最も幅広い宗教の寛容と自由を定めている。(最初の基本法)さらに国教会を設立しつつも、広範な宗教の自由を認めた。(1670年の2番めの基本法)。カロライナは、三位一体にかかわらず、神を信ずると告白するなら誰でも認めるとした。(ただし公職につくには条件が付く場合があった。)三位一体を抜くとユダヤ教徒も可となる。事実、独立戦争までは、チャールストンに最も強力なユダヤ人コミュニティが作られた。カロライナでは、また、1969年には、宗教の違いを理由に住民が他の住民を迫害することを禁じる法令が出た。

…ちなみに、カロライナという地名は、チャールズ1世(Carolus)のラテン語読みで、清教徒革命後王政復古したチャールズ2世が復位に貢献した8名に褒美として与えたもの。8人のほとんどは、この植民地にあまり興味を示さなかったが、ジョン・ロックが秘書官を務めていたシャフツベリ伯爵であった。

1685年、ナントの勅令が廃止されると、フランスのユグノーが大挙国外脱出した。カロライナ政府は、イングランドに来たユグノーを招いてシルク産業を興そうとした。500人のユグノーが来て、その後も移住が続いた。チャールストンに教会が出来た。1694年、クエーカーのジョン・アーチディールが知事になると、クエーカーの移住が増えた。彼は多様性を支持したが、ユグノーが下院に議席を持つことには反対した。当時イングランドとフランスは戦争状態にあったからである。

またニューイングランドからピューリタンも来た。チャールストンの教会では長老派と会衆派が合同で礼拝し、会衆派的な長老派教会となった。スコットランド、アイルランドからも改革派教会の人々が、17世紀の終わりには、穏健なバプティストがマサチューセッツ湾から、少し先の話になるが、17世紀後半にはスイスとドイツからルター派が大勢やってくる。(後にもっと多くなったアフリカの黒人のことは後述したい。)

カロライナの国教会は、1706年新法が出来て、住民からの税ではなく、輸出入の関税を財源に支援をすることになった。カロライナは、手探りで宗教的多元主義を試みたといえる。

…メリーランド州のボルチモアは、私がアメリカで宿泊した最初の地であるし、ノースカロライナ州も思い出の地である。(目的地・ニューベルンは、スイス系が多い町故、ルター派の教会がきっとあったはずだ。いや、長老派かな。)いずれにせよ、メリーランドもカロライナも、ロードアイランド、ペンシルベニアとともに初期から宗教的な多様性と寛容の地であったわけだ。

クエーカーとPA

フィラデルフィア市庁舎頂上のウィリアム・ペンhttps://keijoseph.amebaownd.com/posts/12064493/#&gid=1&pid=1
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第8回目は、 旧オランダ植民地だった中部で、NYとともに重要なペンシルベニア(PA:ラテン語でペンの森)植民地について、である。地名の由来となったウィリアム・ペンは、著名なクエーカーの説教者で、1682年にやってきた。ペン家はイングランドでの有力者で王家に大金を貸していた。それを新大陸の土地で返してもらうよう交渉したのである。ウィリアム・ペンはこの地を実験の場と捉え、「唯一英検の神が創造者で、世界を支配している」と信じる人々には、完全な宗教の自由を保証すると決めた。月名を数字で呼ぶ(異教の呼び方を避ける故)とか、牧師無しで結婚式をするとかのクエーカーのやり方を押し付けなかった。賭博、私通、姦淫、泥酔、冒涜はいけないが、他の植民地でもそれはいけないことだった。ただ、民兵(州兵)がいないこと、法廷で宣誓をしないことだけは、クエーカー的な非暴力主義と、王族に対しても尊称を付けずお辞儀をしない、礼拝での男女平等であるなどの平等主義を貫いた。

そもそもクエーカーは、1640年頃に始まった。神は聖書の時代と同様に、聖霊を通じて今も人間に語りかけ続けている。誰でもイエスにつながる「内なる光」をもっていて、それに気づけば救われる。牧師は存在しない。公的フレンドと呼ばれる神に恵まれた人が教育も訓練もなしに説教ができる。礼拝も儀式ばったところがない。彼らがアメリカの中西部植民地に始めて来たのは、1659年、ロードアイランド(RI)である。年1回ニューポートで大会を開いていた。ロードアイランドは彼らの平和主義を支持した。またこの地では宗教税の支払いは義務ではなかった。その後、ニュージャージー(NJ)、デラウエア(DE)にも拡がった。ウィリアム・ペンの移住以降、イングランド、スコットランドから何千人も移住してきた。

ところで、1650年代のマサチューセッツ植民地では、会衆派のピューリタンがクエーカーを弾圧した。留置し、鞭打ち、強制送還した。それでも入り込んだ4名を絞首刑にしている。しかし1700年頃までにクエーカーは、植民地で3番目に大きなプロテスタントのグループになった。その後は減少していくのだが…。

…ちなみに、私はクエーカー教徒を1人だけ知っている。M高校時代のALTである。今から思うともっといろいろなことを教えてもらうべきだった。歴史上の人物では、新渡戸稲造が、有名なクエーカー教徒であることを付記しておきたい。。

2023年1月8日日曜日

旧オランダ領の教会 NY・NJ

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/082800984/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第7回目。1609年、スペインが手を引いたので、オランダが現在のニューヨーク州(NY)に入植した。ニューネーデルランド植民地である。1616年現在の州都オールバニに毛皮取引の砦が出来、1626年には現マンハッタン(ニューアムステルダム:画像参照)に町ができた。オランダ西インド会社が経営していたが、出資者はカルヴァン派(ゴイセン)である。1650年代には西インド会社が手を引き、自由に農業や毛皮取引ができるようになった。人口が増え、ネイティブ・アメリカンと衝突したり、1638年からデラウェアに入植してきたスウェーデン人を攻撃したりしていたのだが、1665年英蘭戦争で、ニューアムステルダムが占拠されイギリスが、南部・北部についで中部も植民地としたわけだ。

イギリス統治が始まった頃のオランダ人人口は40%ほどで、様々な国の出身の集まっていた。オランダ人の改革派教会は当然カルヴァン派であるが、二分される。貿易に従事する富裕層はイングランドやスコットランド移民と結婚した。貧困層はオランダ改革派に忠実だった。1685年から、カトリックのジェームズ2世が圧迫を強めた。(ハプスブルク家の支配以来)散々苦しめられたオランダ人は激しく反発するが、幸い名誉革命が起こった。この時、ジェイコブ・ライスラーが新政府樹立を宣言するが、反逆罪で処刑された。彼を支持した人々は、1690年以降、ニュージャージー(NJ)に移る。1695年、ニューヨークのオランダ改革派教会は特許状を受けたが、その2年後、国教会が正式に認められ、国教会の費用を改革派の人々も税金で支払わされた。オランダ人は次第に懐疑的になっていく。ニュージャージーでも、オランダ改革派内でも分裂が起こる。敬虔主義(マサチューセッツの会衆派に近い)と裕福なエリートの多い在来派が対立、後に敬虔主義の人々がリバイバル運動に突き進んでいくことになる。

ちなみに、ユダヤ人が、ブラジルから1654年ニューアムステルダムにやって来た。オランダ政府は、本国に強力なユダヤ人コミュニティがある故、礼拝の集まりを認めた。ニューヨークとなった後、イングランドも同様に認め、1703年に最初のシナゴーグがポルトガル系の人々によって建設された。人数は少ないままだったが、フィラデルフィアにもユダヤ人が住み始めた。

2023年1月7日土曜日

ニューイングランドの危機

「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第6回目。マサチューセッツ植民地の南に、狭いロードアイランド植民地(RI)があった。ここを創設したロジャー・ウィリアムズは、分離派だったがマサチューセッツの聖徒の神権政治を批判、政府と宗教は分離されるべきとした。1640年、良心の自由を守るという文書に39名が署名、クエーカー教徒やバプティストなどマサチューセッツ植民地で迫害を受けた人々がやってきた。ペンシルベニア以前の宗教寛容の地であったわけだ。このロードアイランド植民地を含めニューイングランド植民地に二度の危機が訪れる。

1675年、ネイティブ・アメリカンが、半数以上のタウンを攻撃してきた。土地を巡る争いが沸点に達したのである。12の町が破壊され、30の町が放棄された。マサチューセッツ、プリマス、コネチカットは連合し、味方になったネイティブ・アメリカンと共に反撃した。ネイティブ・アメリカンの多くが死亡し、改宗した者も3/4が死亡した。

第二の危機は、1680年代の半ばに、マサチューセッツ、コネティカット、ロードアイランドの特許状が取り消されたことである。カトリックのジェームズ2世の「王領・イングランド」に編成された。知事が派遣されてきて、ニューイングランドの宗教制度をやめ、植民地からの様々な要求も認めないとした。その後、名誉革命が起こり、ジェームズ2世は亡命した。ニューイングランドは沸き返った。しかし、その後の交渉は、オレンジ公ウィレムがオランダ人だったのにもかかわらず、思いどおりに進まない。会衆派の優位は認められたが、選挙権は教会の正会員から切り離され、財産を基準に与えられることになった。要するに会衆派の神権政治は破綻したのである。

ところで、本国では会衆派は人気がなかった。イングランドの国教会の外側にいた人々は大部分が長老派で、国教会が2・3の手直しをすれば戻っても良いと考えていた。スコットランドの長老派は、ニューイングランドの会衆派とは合わなかった。北アイルランドやスコットランドからの移民は、ニューイングランドを避けてきた。1688年、イングランドの長老派・チャールズ・モートンが、1636年設立のハーバード大学のフェロー(研究職)となった。国教会と長老派の教義の融合が見られたわけだ。1696年、インクリース・メイザー学長は、長老派が増えすぎて、背教のおそれを指摘する。インクリース・メイザーは後に職を追われ、長老派的リベラル化が進む。保守的な会衆派の人々は、コネチカット(CT)にイェール大学を1701年に設立した。コネチカットは、1700年時点で、マサチューセッツの半分、人口3万人。長老派もいて、神権政治ではなく選挙で知事を選んでいた。教会は、会衆派寄りだったり長老派寄りだったりで、このやり方を長老会衆主義という。

…こういうアメリカ植民地の宗教政策と、清教徒革命・名誉革命の時期の本国の政治的宗教的大変化との関わりに、これまで目を向けたことはなかった。またロードアイランドやコネチカットの政教分離政策など、実に勉強になるのである。ちなみに、RIのロジャー・ウィリアムズは、ネイティブ・アメリカンに妥当な価格で土地を購入することを主張した人でもあることを明記しておこう。

2023年1月6日金曜日

橋爪大三郎の「回心と洗礼」考

https://www.mustardseedosaka.com/baptism-guide
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー、第5回目は、カルヴァン派の予定説に関わる回心と洗礼の問題について、である。予定説は、誰を救い、誰を救わないか、神が予め決めているという考え方である。善い行いをしたから救われるということであるならば、人間が自分を救ったことになってしまう。絶対で全能である神の原則に反するではないか、というわけで、キリスト教のロジックを突き詰めた考え方である。だからといって、救われるかどうかを知らないのは不安である。自分が救われると確信して世俗内禁欲を実践する信仰の毎日を過ごす人は、外見からもわかる。彼らを「視える聖徒」と呼ぶ。ピューリタン社会の信仰共同体は、視える聖徒の集合体なのである。

さて、「回心」は、それまで信仰の確信が持てなくてウジウジしていた人が、手袋がひっくり返るように生まれ変わって、新しい信仰深い人間になること、一瞬の劇的な変化である。回心することによって視える聖徒の仲間入りができるということになる。

ところで「洗礼」とは、キリスト教徒の加入儀礼である。洗礼を受けていない人間はキリスト教徒ではない。福音書によると、イエスはヨハネに洗礼を受けているが、悔い改め(神への従順)のしるしである。イエスが誰かに洗礼を授けたという記述はない。使徒言行録には、パウロがイエスの幻を見るくだりがある。パウロはショックで目が見えなくなり、慌てて近くで洗礼を受けた。イエス・キリストに帰依する人々が洗礼を受ける習慣がすでにあって、現場近くにも信徒がいたことがわかる。以来、ユダヤ教徒の割礼のような幼児洗礼の儀礼が広まった。幼児洗礼は、本人の意志と関係がない。教会にとってはメンバー数の維持、家族にとっては、子供のうちに死んでも神の恵みが与えられる故に都合が良かった。

洗礼は、カトリックの七つの秘蹟(サクラメント:カリフォルニア州の州都の名称にもなっている。洗礼・堅信・告解・聖餐・叙階・結婚・終油)のひとつである。聖書に根拠がないと秘蹟を否定するルター派もカルヴァン派も、幼児洗礼だけは認めている。洗礼は、本人の意志ではなく、神のわざ、恵みが聖霊によって本に及ぶ故に幼児も問題ない、ということである。

当時のマサチューセッツ植民地のほとんどだったカルヴァン派の会衆派は、回心を洗礼よりも重視した。が、、幼児洗礼を無視できなかった。前回のエントリーで、1662年のシノッドが洗礼について出した結論は「半端契約」と呼ばれている。現在会衆派は少数派に転落しているが、この回心を重視することは、アメリカのキリスト教の伝統となっている。覚醒の波(回心の連鎖)は何回もアメリカを襲ったのである。洗礼は教会制度の一部であるが、回心は教会制度をはみ出すエネルギーを秘めているわけだ。ちなみに、現在プロテスタントの中では最大のバプティストは、幼児洗礼を認めない。成人の洗礼が生まれ変わりの儀式であるとする立場だ。洗礼と回心を一致させようとしているわけで、これもピューリタンの影響といえるだろう。彼らピューリタンは増加し続け、17世紀の終わりには全植民地の40%になる。

2023年1月5日木曜日

植民地時代の教会 MA

https://maonline.jp/articles/corporate-governance10?page=2
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー、第4回目である。前述の北部の植民地における教会について。1620年、ピグリムファーザーズと呼ばれるピューリタンの分離派の人々が、プリマスに上陸した。と書くと前述の「プリマス会社」の植民のように思うが、彼らはロンドン近郊のスクルービという小さな農村の資産のない人々で、最初オランダに向かったが困難が絶えず、ロンドン会社に出資者から集めた資金を渡し入植許可を得た。しかし、メイフラワー(この名前のホテルに初渡米の際、宿泊したことを思い出す。)号は、管区外の北部の地に到着したのだった。
聖徒以外にも現地で労務に携わる人々もいて、イングランドの統治の及ばない無法地帯に上陸するにあたり、全員で「メイフラワー契約」を結ぶことにした。「皆で世俗の政治体をを構成し、服従することを契約する。」という社会契約(アメリカ合衆国憲法の先駆と言われる。)を結んだ。知事と副知事が治め、フリーマン(参政権を持つ人々:教会員も非教会員も含む)による総会が議会に発展した。やがて、人数が増え10の町ができた。教会は分離派のピューリタンのみであったが、牧師はいなかったので、のちの会衆派の原則で運営されていた。その後、もっと多くの人口をかかえるマサチューセッツ(MA)植民地に吸収された。

1629年に特許状を受けた「マサチューセッツ湾会社」によって、ピューリタン・2万人の大移民が続々やってきた。彼らはイングランドが神と結んだ契約の道から外れてしまったので、新たな契約を新大陸で結び直すために、誰の領地でもプランテーションでもない「タウン」を、「フリーマン(公民)」が契約を結んで創設した。最初に教会、法律、学校が備わり、牧師、行政職員、親、教師、農民らが協働して聖なる共和国を作り上げようとしたのである。

マサチューセッツ植民地のカルヴァン派は、普通のカルヴァン派と違う点が追加された。それは、「回心(神が直接、ある個人に対して働きかける霊的な体験)」を教会の会員資格の要件としたことである。この資格は選挙権も兼ねていた。回心体験がないと社会のまともな構成員とみなされないわけである。これは、カルヴァンの予定説に基づいている。1648年、マサチューセッツのケンブリッジで「シノッド」(教会の代表者が集まる総会)が開催された。ここで、「ウエストミンスター信仰告白」(清教徒革命時に、カルヴァン派の牧師12人が国教会改革のために作成した文書)に合わせて、厳格なカルヴァン派の信条が採択され、教会は長老派ではなく、会衆派のやり方をとることに決した。またシノッドは個別の教会対して権力を持たず精神的な指導を行い、各教会の役員に権限があることを明言した。

当時、マサチューセッツ植民地の一部だったコネチカット(CT)では、回心や教会の正会員であることと選挙権を結びつけてはいなかった。すでに教会の多様性が芽生えていたのである。

この回心の問題は、幼児洗礼と関わって大きな問題となる。回心した親の子は洗礼を受けれるが、乳幼児死亡率が高かった当時、洗礼を受けずに死ぬと救われるチャンスはなく永遠の炎で焼かれると信じられていたからである。1662年、シノッドで、回心していない親の子供もキリスト教徒として正しく暮らしていれば、幼児洗礼を認めると決定した。

…この洗礼の問題について、著者の橋爪大三郎氏が本書で詳しく書いている。次回のエントリーに続く。

植民地時代の教会 VA

ジェ-ムズタウン https://hmn.wiki/ja/Jamestown,_Virginia
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリーの続きである。イングランドによるアメリカへの植民は、1606年のジェームズ1世時代の特許状が始まりで、オランダの植民地より南部にロンドンの出資者によるロンドン会社、北部にプリマスの出資者によるプリマス会社が植民した。まずは、最も早いロンドン会社、実際に経営にあたったヴァージニア(VA)会社の状況から。

植民した100人ほどは国教会の信徒であった。彼らは、ネイティブ・アメリカンへの布教も期待されていたが、気候が厳しく半数に減ってしまう。タバコ栽培が適していることがわかったが、地力を急速に損なうので農地を拡大していく必要姓に迫られた。よって教会を中心に近くでまとまることができなくなる。1609年に本国から知事が着任、教会での日曜日礼拝への出席が義務となった。(しかし植民者はそれどころではなく事実上無理であった。)1619年には植民地市民議会もでき、1624年には国教会設立を法で定めた。しかし、ピューリタンの(非分離派:国教会に属して内から改革を求めるカルヴァン派)もいて、また経済的に建物や牧師の給与も公費で賄えず、宗教的な情熱は冷めていく。。

1624年、ヴァージニア植民地は、経営が行き詰まり、王領となった。彼らはジェントリー階級で、農作業を嫌い、1619年以降黒人奴隷を輸入したことが功を奏して順調にタバコ栽培は拡大した。牧師は派遣されてきたが、その給与は教区の所属地から支払われたので、教区の委員たちの言うことを聞かざるをえないし、地位も低く、徐々に国教会の教義より、ピューリタンの考えがじわじわと浸透していく。ヴァージニア植民地は、拡散し、階層的で不安定な社会になっていったのである。

2023年1月4日水曜日

アメリカの教会 序論

ウェストファリア条約 https://muuseo.com/12514753/items/1
橋爪大三郎氏の「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」(光文社新書)のエントリーを続けたい。まず序論として、ヨーロッパとアメリカのキリスト教会の相違について整理しておく。ヨーロッパでは、三十年戦争後のウェストファリア条約(1648年)で「住民の信仰は君主の信仰と一致すべき」と決められた。よって国や地域によって、1つの教会しかなく、教会を選ぶ習慣がない。カトリックの国々(イタリア・スペイン・ポルトガル・アイルランド、ベルギー、そしてフランスなど)はもちろん、ルター派の北欧やドイツ(北部地方)、カルヴァン派のオランダやスイスなどは、教会が固定されている。

新大陸にはウェストファリア条約は適用されない。とはいえ、スペイン(フロリダや西岸の一部)やフランス(ルイジアナやカナダ)の植民地ではカトリックが、唯一の教会であった。カトリックの教会は、人々が自由に設立することはできない。教会は一種類しかない。(=普遍教会)その費用は、教会税と献金で賄われる。(ちなみに、ルター派も、唯一の教会=公定教会で、政府が税を徴収し、教会を維持し牧師の給料を支払うので政教分離ではない。)

後からイングランドが北米に植民地を経営したが、国王が特許状を発行して、個人や法人に任せるという方法を取った。イングランドには、英国国教会(唯一合法的な教会で、英国国王と結びつきがある故に、人々が自由に設立することはできない。)があるが、入植が始まった17世紀は、清教徒革命や名誉革命があり、政権交代のたびに宗教政策がガラリと変わるような状況で、政府は特許状を与えた植民地の教会のことに、いちいちかまっておれなかったらしく、合法的な国教会でなくても片目をつぶらざるをを得なかった。故に、信仰の自由を求めて新大陸に渡る人々が現れたのである。かの伝説的なピグリム・ファーザーズは、ピューリタンの中の、国教会を飛び出した「分離派」であった。

アメリカに、現在多くのプロテスタントの宗派が存在する理由は、以上のとおりである。アメリカの教会が元気なのは、自由だからである。アメリカの教会は任意団体で互いに競争している。アメリカの人々は伝統的に、自分の進行だけは譲らない。すなわち自分の良心だけは譲らない。これがアメリカの個人主義の出発点となっている。

橋爪大三郎「アメリカの教会」

日本を代表する宗教社会学者・橋爪大三郎氏の新刊「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」(光文社新書)を読み進めている。この新書は、電話帳のように分厚い三冊分のケンブリッジ大学出版会から出ている「アメリカの宗教の歴史」と同じく分厚い四冊分の「アメリカの宗教・百科事典」を依処に書かれている。よって、(いつもの読みやすい)橋爪大三郎的文章ではなく、かなり教科書的な色彩を帯びている。

私は、倫理の教師なので、キリスト教についての基礎的な知識、また世界史に登場するアメリカの歴史、地理で教える各州の人文地理的知識もある。たとえば、ピューリタン(イングランドのカルヴァン派。スコットランドのカルヴァン派はプレスビテリアンと呼ばれる。ちなみにオランダはゴイセン、フランスはユグノーと呼ばれる。)がニューイングランドに来て”ピグリム・ファーザーズ”というアメリカ創始伝説になっているとか、このカルヴァン派は、予定説を教義としており、会衆派と長老派に分かれているとか、ペンシルバニア州は、クウェーカー教徒であるウィリアム・ペンが拓いた宗教的寛容の州であり、アーミッシュが今なお昔ながらの暮らしをしているとか、NYCは、ジューヨークと呼ばれるほどユダヤ教徒が集中しているとか、メリーランド州はカトリック教徒が多いとか、バージニア州出身のジェファーソンは、憲法を起草する際に英国国教会を国教としなかったとか、中西部のドイツ系移民が多い州ではルター派が多いとか、ユタ州はモルモン教徒が多く、グレート・ソルトレイクを死海に見立てたとか、アメリカで実は最も多い宗派はカトリック(アイルランド系やイタリア系などを中心に後世移民が増えた。)で、プロテスタントでは、バプティストが最も多いとか、またある本では、同じ家系でも、バプティストからメソジスト、さらには英国国教会へと、収入やポストが上昇するにつれ世代を通じて改宗することがあるらしい、などである。

実際、NYCではシナゴーグをまわり、安息日の礼拝にも参加した経験があるし、ハーレムにあるバプティストの礼拝でゴスペルを聞いたりもした。M高校の研修旅行で訪れたアイオワ州では、姉妹校のM先生(ドイツ系)に連れられ、ルター派の教会に行った経験もある。ちなみに、このM先生の奥様は、アイルランド系でカトリックだと聞いた。夫婦なのに行くべき教会が違うのである。

今回、本書を読んで、かなり深い歴史的事実が載っていた。慌てず少しずつエントリーしていこうと思う。

2023年1月3日火曜日

ヤギとシュタイナー教育

昨年暮れに、妻と散策していると、ヤギを2匹、鶏と共に飼っているお宅を発見した。我が自宅とは直線距離にして150mほどなのだが、かなり回り道を必要とするお宅だ。今日はヤギの顔を見に行こうということで、伺ったらちょうど作業をしていた家人とお話する機会を得た。ヤギは母と1歳半くらいの小ヤギ(画像参照)だとか。ヤギはおとなしいし、なかなか可愛い。

ご子息は2人。聞くとご長男は、小学校6年生。シュタイナー教育の学校に行かれているそうだ。我々夫婦は、昔からシュナイダー教育には興味を持っていて、子安美知子氏の著書や、ご長男が通う学校を紹介した本なども読んでいた。おそらく先方も我々がシュタイナー教育に詳しいことに驚かれたたと思う。いやあ、自宅のすぐ近くのヤギさんがいることもびっくりだが、シュタイナー教育を受けているということにびっくりだった。お近づきになれてよかったと思う次第。

信楽焼 タヌキの社会学

大阪に帰ってきてから、教え子の結婚式で東京に出たのと、息子夫婦と信楽に行ったくらいで、通勤で毎日小旅行していたのとは裏腹に、あまり出かけることはなかった。もっぱら、妻と近隣の散策の毎日だった。何度も通る道が多いのだが、妻は、季節の移ろいを農園の野菜や果物で感じていたようである。私にはあまりそういう発見はなかったのだが、ふと、信楽焼のタヌキが多くあるのに気づいた。タヌキを発見すると、ここにも置いてあるという喜びがあって、住宅地を歩くのも楽しくなったのである。

我が自宅近辺は、信楽に比較的近いこともあって(と、言ってもクルマで2時間くらいはかかる)、タヌキが多いようだ。私が社会学部の学生なら、ゼンリンの地図(各町内の地図)を持ってタヌキ・チェックして回りたいくらいだ。(笑)地域的な差異を数値的に示してみたいのだが、なんとなく感覚的には自宅周辺では10%くらいではいかと思う。タヌキを置いているお宅は、比較的古い家というか、年配の方が住まわれているところが多いように感じる。タヌキにも、大小はもちろん、クラシカルなものから、新しいバージョンののものもあって楽しい。(笑)

この信楽焼のタヌキは縁起物だそうであるが、特定の宗教とは関わりがないようだ。1951年に昭和天皇が信楽にご行幸された時、多くのタヌキに日の丸を持たせて歓迎した。天皇は子供の頃からタヌキの置物を集めておられ、歌をよまれた。この事が全国に信楽タヌキの存在が知られるようになったそうだ。

https://table-life.com/columns/post/28348

2023年1月2日月曜日

今年の冬は葛根湯

今日も妻と散歩していたら、珍しく枚方市からの放送が流れた。(愛媛県・伊方町ほど放送は流れることはない。)なんでもコロコロの感染者が大阪府で激増しているらしい。病床数や救急車などに赤信号が出ている云々。

私たちは、コロコロやWAなどに、深い疑義を持っているので、もっぱら自己の免疫力を上げることに力を入れている。1時間程度の散歩もそういう意味合いもある。なかでも、「葛根湯」は、東北大学で検証が進み、特効薬ではないが、それなりの効果があるらしい。というわけで、我が家にも常備していて、私自身1日1回くらは飲んでいる。漢方で顆粒なのだが、比較的飲みやすい。超おすすめである。

2023年1月1日日曜日

年頭は井上陽水

新年あけましておめでとうございます。ほぼ毎日更新している、このブログも15年目に突入しました。

♪父は今年ニ月で六十五 顔のシワは増えていくばかり 仕事に追われ このごろやっとゆとりができた

♪父の湯呑茶碗は欠けている それにお茶を入れて飲んでいる 湯呑に写る 自分の顔をじっと見ている

https://www.youtube.com/watch?v=o3RIEgSKENc&ab_channel=Istv%C3%A1nErd%C3%A9lyi

井上陽水の名曲、「人生が二度あれば」の冒頭ですが、私も今年三月で六十五になります。顔にシワがふえてきたのは確かですし、ゆとりができてきたのも同じ。ただ、1972年の曲ですので、陽水のお父様とは世代が違います。お茶を飲んだりすることはまれで、もっぱら砂糖の入っていないブラックコーヒーに牛乳をいれたアイスカフェオレばかり飲んでいます。冬でも関係ありません。(笑)

今日も妻と1時間ほど、近隣を散策してきました。糖尿病対策と遠距離通勤対策で、休みでも毎日歩くようにしているのです。学園の坂がなかなかきついので、サボるとひどい目に合います。(笑)おかげで、大阪に帰ってから、血糖値もかなり改善してきました。

ありがたいことに、来年度も引き続き、学園でお世話になることになりました。65を超えても、教壇に立ち続けます。社会科の教師は、常に教材研究し続けるのが宿命です。最新の国際情勢や、知識の深掘りなど、やるべきことはまだまだあります。謙虚に学び続けていきたいと思っています。

本年もよろしくお願い致します。