2016年3月31日木曜日

「其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」へ。

この3日間で、なんとか準備ができた。結局、教材以外の本は、スティグリッツの入門経済学しか持っていけないことになった。うーん、と唸ってしまう。(笑)

今日は、私にとって大阪市の教員退職の日である。やはり吉田松陰の遺書「留魂録」第八節を挙げて(5年前のエントリーの再録のようになるが)H高校の教え子たちにも伝えたいと思う。

『若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ乃チ後来ノ種子未タ絶ヘズ自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ同志其是ヲ考思セヨ』
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

この吉田松陰の言葉を贈って、私は前任校からH高校に転勤してきた。(2011年3月17日付ブログ参照)またこうも書いている。

9年間の四季で私が花を咲かせ、実を十分つけたと思う。ユネスコスクールという大きな実を作ることはできなかったけれど、私の担任した学年を中心に、数多くの花を咲かせてきた。きっと素晴らしい、さまざまな栗の実をつけるに違いない。ありがたいことに、本当にありがたいことに、私には「其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」がいる。こんな幸せなことがあろうか。」
「転勤先は、体育科や武道科もあるH高校になった。ここで私が何をできるのかわからないが、卒業にあたっていつも私が記す『理想に生きることをやめた時、青春は終わる』を胸に、定年の時、同じような手紙をもらえるよう、新たなESD実践の四季をつくっていきたい。

実際には定年ではなく早期退職になったが、理想的なクラスづくりを1年から3年まで続けることができたし、H高校でも「其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」を育てることができたと思っている。それがなにより嬉しい。教員志望者はもちろんのこと、どんな進路であろうと「責任ある行動」を旨に、地球市民として自分の考えで行動できる人材をイベントやESDで育ててきたつもりだ。有り難いことに、多くの卒業生に見送りをしてもらい、メールや電話ももらった。ほんと、これが最初からの運命だったのかもしれない、と思えるのだ。定年で終わらず、早期退職してまで新たな挑戦へのスタートを切ることが、卒業生への私の最後のメッセージになったかもしれない。

追記1:明日KLへ出発します。WEBの状況等で、ブログがエントリーできないかもしれません。気長にお待ちください。
追記2:前任校の卒業生から先ほど送別のアルバムが届きました。それぞれ、妻になったり、新たな職業についたり、夢を実現したり…。間違いなく「其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」です。その思いが溢れていました。私も感謝と涙が溢れました。ありがとう。行ってきます。
追記3:あにまるずへ。メキシコのN君にGメール送りました。携帯がすべて無になったので、私のGメールアドレスを確認してください。

2016年3月29日火曜日

渡馬しても見たいNHK・LIFE

渡馬(馬:マレーシア:馬来西亜)して、特に困ることはあまりなのだが、4月7日から始まるというNHKの「LIFE」なんぞは是非見たい。オンデマインドなどで見れるかもしれないけれど…。幸いマレーシアのネットでは、NHKが見れる会社があるらしい。そういう外国でわざわざ…という感覚もなくもないのだけれど、今回の渡馬は、非日常を楽しむ旅行ではないので、NHKが見れたほうが嬉しい。日本では10:25というかなり遅い時間だが、マレーシアでは時差があるので9:25からになるのだろうか。

今回の渡馬、3/5が海外、2/5が日本みたいな感じである。日本語学校では、日本語が飛び交うし、日本人会も近いし、ミッドバレーには、日本のスーパーやユニクロ、無印良品、吉野家など、日本のものが多くそろうようだ。ここにNHK放送が入ってもいいかなと思ったりするのだった。

4月2日には、LIFE再開の番組があるらしいが、おそらくその日は見れないと思う。これこそオンデマインドかな。

ESETへダメ出し。卒業生の電話。

好々爺を目指す私なのだが、久しぶりにブチギレそうになった。

マレーシアに行く前に新しいPCも増えたので、セキュリティソフトを一気に3台とも入れてしまおうということになった。今までいろんなのを試してきたが、今回はESETのダウンロード版が、3年×5台で、1年×1台とほとんど値段が変わらないのを知った。まずは、レッツノートで無料版を試しつつ、これで十分、という結論がでた。いよいよ3台(学校用レッツノート+自宅用VAIO+妻用ACER)にインストールしようということになった。これもマレーシア行の重大な用意である。

クレジットカード決済で申し込んだらすぐにシリアルナンバーやなんやらと、アクセスすべきWEBページがメールで送られてきた。ところが、WEBページが無茶苦茶わかりにくい。すでに体験版を入れているレッツノートは比較的スムーズなのだが、他の2台はどこからインストールすればいいのか、全くもって不案内。Q&Aばかりで、新規のPCの場合、どこにアクセスすればよいのか全く書かれていない。こんなしょうもないことに莫大な時間を費やすことになったのだった。
悔い改めるべし。ESETのWEB製作者。

このところの片付け作業などで少しばかり体調が崩れかけているのに、なんたるストレス!セキュリティの性能がよくて、かなり安いからと言っても、ダウンロード版は決してお勧めできるものではない、というのが私の強い印象である。こんなんならCD版を買えばよかった。外付けのDVDも買ったので、そんなことも思った次第。

こんな無粋な時間を救ってくれたのが、3年4組の団長・A君からの電話であった。なんでもバイクで足を怪我したらしい。「昨日は、顔を見にいきたかったのですが…。」となんども謝ってくれたが、私には、声を聞けただけで十分。一気に私の機嫌は回復したのだった。(笑)

MUGABEは何しに日本へ?

http://www.designindaba.com/articles/point-view/here-snoggie-uganda%E2%80%99s-extraordinary-political-cartoonist
久しぶりにアフリカの話。昨日早めに床に就こうとしたら、TVでムガベ大統領が映っていた。「なんだ?」アベ首相と公式な会談をしていた。「?」今朝になってWEBで調べってみたのだが、要するにナイロビで行われる次のTICADの成功を目指して、アフリカの長老として存在感をもつムガベ大統領の協力を仰いだというわけらしい。また、いまだに日本政府は安全保障理事会の常任理事国入りを目指しているようで、そのキーパーソンとして重要なんだそうだ。

産経新聞のWEBに、その辺の詳細が載っていて面白い。
http://www.sankei.com/world/news/160328/wor1603280037-n1.html

…日本は、欧米とは、また中国とも微妙なスタンスの違いがある国である。私は、そのスタンスこそがアフリカ全体の開発や、イスラムにまつわる様々な問題解決に有効だと思っている。
今回のムガベ訪日も、そういう戦略の中で、あえて外務省が呼んだのだろう。と思いたいトコロだが….。ぶっちゃけ、ムガベ、YOUは何しに日本へ?

2016年3月28日月曜日

最後の挨拶。卒業生に会う。

生徒にいただいた可愛い花束
9:00から単位認定会議だった。すなわち、先の成績会議で単位を認定されなかった生徒が、再チャレンジして、その成果が問われる会議である。ここで認定されなけば、その単位は取れなかったまま、となるわけだ。
その後、退職・転勤などの人事異動者が挨拶をするのが本校の習わしである。私も、挨拶をさせてもらった。今まで多くの学校で退職の挨拶を聞いてきたが、涙ながらの別れの挨拶が多かった。しかし、莫大な異動者(なんと28人。)がいれば、遠慮するしかない。2分くらいにコンパクトにまとめたのだが、なんか今の大阪の教育現場の窮状を表しているような気がする。本来なら、後輩の先生方に伝えたいこと、学校への思いを、本気で伝える最後の場だったような気がする。もう、そんな雰囲気もくそもない。心底、マレーシアに行けることに喜びを感じる次第。

ところで、今日も多くの卒業生が私の顔を見に駆けつけてくれた。1年生の時に担任したM君とSちゃん。この2人は、文化祭の主力だったし、ハランベープロジェクト(ユニクロの関係でアフリカの難民キャンプに古着を送るプロジェクト)を手伝ってくれた秘書軍団の2人である。さらに、2年5組の元気印のI君とI君。と女子生徒が続き、3年4組のクラス代表Tやんと、同じ大学で共に理学療法士を目指すM君。さらに遅くなって、野球部のT君と音楽部のO君が顔を見せてくれた。

こうして、卒業生が駆けつけてくれることに深く深く感謝したいと思う。みんなありがとう。
もう、H高校に出勤することもない。明日からはマレーシア行の本格的準備が始まる。

2016年3月27日日曜日

タブレットか?PCか?

セール中だったので少し安かったPC
マレーシアに、PCも持っていかねばならない。仕事用のPCは、先日学会発表用に購入したパナソニックのレッツノートにした。今まであまり触っていなかったのだが、いろいろと必要なアプリやデータを入れた。軽いので、必要なら土日に持って帰れるので良い。ただSKYPE用のカメラがないのでタブレットを購入しようと思っていた。地図なんかいれていると便利だし。

ところが、息子の意見を聞いて、結局PCにするのが最善だと判断した。私は今、フツーに使っているVAIO(かなり重いが…)を運ぶという結論になったのだ。問題は自宅のPCがなくなるので、妻のGメール・SKYPE用に新たに安いPCを購入することになった。昨夜アマゾンに注文したら、今朝11時に来たのだった。早いのは有り難い。大学時代からの旧友がくるまでの間に、妻用のGメールとSKYPEの設定をした。とはいえ、かなり疲れた次第。

蔵書整理 本はトモダチなのだが…

データブックは各国事情の部分が厚く重いので、統計資料だけの分だけを購入した。
いよいよ、マレーシア行の準備をしなければならない。私がなにより持って行かねばと重要視しているのが、教材に使う資料である。服なんか、いざとなればすぐ近くにユニクロがあるのでなんとかなるが、留学試験の「総合科目」を教えるにあたって、必要な教科書や資料集を現地で手に入れることは難しい。クアラルンプールには紀伊国屋もあるのだが、日本人学校は小中学校だけである。大学受験関係の書籍は、需要がないはずだから置いていないと推測しているのだ。注文は可能だろうが、すぐに使う商売道具だし、とりあえず日本から運ぶしかないという結論に達したわけだ。

大抵の高校の社会科準備室には過去から現在まで様々な教科書や資料集、問題集の見本などが書棚に整理されているはずである。他の先生方に許可を得て、何冊か持って帰ってきた。買わねばならないものもあった。地理の統計要覧などがそれで、最新版でないと試験対策としては全く意味がない。と、いうのも私たちの世代では、マレーシアの産業というと、「天然ゴムとすず」となるのだが、現在は全く産業構造が変わっている。試験では、当たり前だが最新の資料をもとに出される。地理を教えるならば必須のアイテムである。日本史・世界史は近代以降が主なので、センター対応と同じと見て詳しいめの資料集で十分。問題は政治経済や現代社会で、時事的な問題もからむので新しいほうがいい。問題集も何冊か選んできた。

ところで、妻が今、自宅の莫大な私の蔵書を整理している。これだけは残して欲しい、という本もセレクトしたが、あまりに少なく悲しい。(言い出したらきりがない。かなり残酷な話である。本はトモダチなのだが…。)

学校に置いていた(教材以外の)本もアンダーラインを引いていないものは図書館に寄贈した。当然ながらアフリカ系の本が多い。秋田商業高校の国際理解教育関係の4冊も後ろ髪で図書館に置いてきた。それ以外は破棄である。(本はトモダチ、なのだが…。)

というわけで、自宅と学校に分散していた莫大な蔵書が、1%以下に減ってしまった。さらにその1%の中から、マレーシアに共に行く(教材以外の)本は、まだはっきり決めていない。スーツケースの重さと大きく関わっているからである。(本はトモダチ、なのだが…。)

2016年3月26日土曜日

「イスラームとの講和」を読む。

中田考氏が同志社の内藤正典教授と対談した集英社新書(イスラームとの講和 文明の共存をめざして 本年3/22付発行)を新聞の広告で見つけ、すぐ買ったのだが、読むのに意外に時間がかかった。マレーシア行の件もあって通勤時に熟睡することが多かったからだ。おそらく2日もあれば読みきると思ったくらい、内容は興味深い。

新刊なので、あんまり内容について書くのは憚れるのだが、この新書を貫いているのは、ヨーロッパ(もっと言えばキリスト教的な領域国民国家)への辛辣な批判である。内藤氏は、中東問題の専門家であるが、フランスには特に厳しい。フランス革命以来の国是「自由・平等・博愛」の博愛(フラテルニテ)は「同胞愛」(一つの組織に参加して兄弟の契りを交わすという意味に近い。)である。つまり、身も心もフランスに捧げて同化した移民はフランス国民として平等に愛してあげるけれども、少しで違う行動をするなら受け入れられない。ましてや、宗教を表に出した場合は国から出ていけ、というわけだ。

こういうヨーロッパの姿勢が難民の問題を生んでいる。イスラームは客人という概念を持つ。それに対してヨーロッパは…というわけだ。

基本的に中田氏も内藤氏も、イスラムとヨーロッパ(キリスト教世界)は共生できるとは考えていない。それ以上に難しいのは、スンニー派とシーア派の融和である、と。お二人が期待しているのは、サウジやエジプトではなく、トルコである。現エルドアン大統領は、スンニー派を代表するカリフ足りえるか、という話は実に面白い。現在、トルコはオスマン帝国時代の学知を復活させようとしており、シリアの法学者を多く抱えているのだ、という。これからは、アラビア語・トルコ語・ペルシア語を操れる専門家が必要になるとの二人の話は現実味をもっている。

今日は、教え子の諸君から何通かメールが届いた。ずいぶん久しぶりの教え子もいて、嬉しい。また、ブログを見てくれた後輩M氏の突然の訪問もあった。ほんと、有り難いことである。学校の荷物を車で自宅に運んだりと多忙な日々であった。

そうそう、面白い資料もあった。ISに対する諸国民のイメージ。レバノンなど100%好ましくないなのだが、マレーシアは64%。好ましいは11%(ナイジェリアの14%に次いで多く、セネガルと同じ)。ちなみにわからないは25%という意外な結果だった。

2016年3月25日金曜日

荷物を整理する。卒業生に会うⅡ

クアラルンプール・ミッドバレー この近くに日本語学校がある
http://vivit.blog.jp/archives/48211247.html
今日も社会科準備室の莫大な私物の整理に追われていた。前任校から移動する際は、どうしても破棄しなければならないもの以外は、どーんと後輩のU先生の車で運び込んだ。今回は、それらを一気に片づける必要があるわけだ。片づけているとすぐ手が真っ黒になる。腰も痛い。(笑)

そんな一日だったのだが、昼前に2年の時担任した女生徒のO君・N君が来てくれた。ほんとありがたい。午後には、2・3年で担任したK君が奥さんと共にやってきた。いろいろあったのだが、元気そうだし、奥さんがすこぶるいい子だったので安心した。ありがとう。教師冥利につきると思う。

今日の日経のスポーツ面で、三浦カズがコラムでこんなことを書いていた。(チームを変わり、いろんな町に住むことについて)「以前は手にしていたものがなくなり困ったとしても、どこかで似たものを見つけ、仲間をつくって…。どの町でもそうだった。環境を自分の色に染めるすべをいつしか身に着けたというか。環境なんてものは自分がつくればいいと思っているから。」

そうなのだ。私の今の気分。

2016年3月24日木曜日

荷物を整理する。卒業生に会う。

府庁 教育委員会のある建物を望む
午前中、人権主担の引継ぎをしてから、荷物の整理に勤しんでいた。とにかく莫大なこれまでの教材や資料の山である。今回は、移動ではないので、処理し尽くさねばならない。何も考えずガンガン捨てればいいのだが、私は捨てられない男なので、うーんと唸ってしまう。

工業高校時代の貴重なイベントの進行表や、クラス文集。捨てれなかった。前任校の資料はもっと多い。2003年のJICAのケニア視察旅行の資料。うーわー、という感じ。中でも、先日ドミニカのキャップを送ってくれたM君と行った最初のJICAの高校生セミナーの私が作成した報告書(全17P)が出てきた。詳細な資料で、対話したチュニジアの消防士さんの名前まできちんと載っていたし、ディベートの詳細な記録など、実に初々しい。(笑)私の国際理解教育の原点でもある。M君にスキャンして送らせてもらった次第。

そんな中、バスケ部のキャプテンだった I君が朝連絡をとってきてくれた。彼も教員志望である。当然ながら、昨日の誓いを伝えた次第。 I君と仲のいいU君も奈良の大学の寮から駆けつけてくれた。京都府庁へ向かう時間ギリギリだったので放出駅で会った。短時間だったけれど嬉しかったのだった。2人に感謝である。

京都府庁ではスムーズに証明書を手に入れることができた。今日は、さすがに疲労困憊。出町柳までタクシーを飛ばし、京阪で帰宅したのだった。

明日はいよいよ整理の最終日と決めている。決着をつけなければ。心を鬼にして捨てていく。
…教務課の面々は、すでに時間割の作業に入っている。

2016年3月23日水曜日

Y先生を見舞う。卒業生に会う。

京都府庁 http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20090320
マレーシアに行く前に入院中のY先生の顔だけは何が何でも見たかった。Y先生は、病に敢然と立ち向かっていた。それが私を感動させる。やはりY先生なのだ。その後、前任校の先生方が送別会を開いてくれた。と、いうわけで昨日のエントリーができなかった次第。

いや、送別会というよりも、新たなミッションに対応していたことが原因。やはり教員免許授与証明書の英文が必要とのこと。その段取りをしていたら遅くなったのだった。今朝、京都府の教育委員会に確認したら、なんと英文での証明書作成は可能なのだという。というわけで、今日は一気に忙しくなったのだ。

朝から二次入試の面接官。(面接の合間に、卒業生のT君が訪ねてきてくれた。ありがたいことだ。)入試の時間が終了後、今年の卒業生のA君が来てくれた。ついに桜は咲かなかったのだが、これからのことを共に考えながら王将で激励。Y先生の生きざまを語る。十分元気になってくれた。嬉しい。1年間、マレーシアから激励をしてあげたいと思う。

A君と別れ、京橋から大阪、JRで京都、地下鉄で丸太町と移動した。ふと気を抜くと爆睡してしまう。(笑)京都府庁内にある委員会は、意外に(失礼)親切に対応してくれた。和文に英文のルビをふるという形の証明書になるそうだ。要するに和英1枚である。明日の1時すぎにはできるという。明日も半休をとって府庁に行くことになった。その夜スキャンして学院に送り、明後日朝のうちに学校の近くの郵便局からEMSで送ることになると思う。

京都から学校に戻ってきた。卒業生のM君というよりAちゃんが私の顔を是非見たいと言ってくれていたからだ。それにS君というよりFちゃん、2年の時担任した野球部のM君が来てくれた。この3人には共通点がある。教員志望であることだ。Aちゃんは、私に採用試験の合格を報告するのが夢だったとメールで書いてきた。その私が日本から消えてしまうわけで、是が非でも会いたいということだった。ホント嬉しい話である。そこで、3人に提案した。合格したら、すぐとはいかないまでも必ず帰国して祝福する。3人は喜んでくれた。私は、生徒諸君と約束したことは必ず守ってきた。彼はそれを十分知っているからだ。…うん、きっと帰る。

2016年3月21日月曜日

マレーシアにEMSで書類を送る。

EMS 郵便局のHPより
マレーシアに送る書類関係が今日すべて集まったので、郵便局からEMSで送付した。先週の今日の夜がスカイプによる面接だったのだから、すごいスピードだと、改めて思う。

履歴書。和文と英文。うまいこと息子がちょうど一時帰国してきたので、作成を依頼した。息子の質問に答えるだけで完成したのだが、この英文の履歴書、そんな簡単に作成できるものではないと実感した。息子は何度も自分のや友人のを書いてきたらしく、手馴れたものであった。もし、息子がいなかったら大変だったと思う。

最終学歴証明書。大学の卒業証明だが、これも和文と英文。これが一番時間がかかるハズだったが、速達で送り返信用封筒も速達にした関係で昨日届いた。スピードアップできたのは、この書類の早い到着が最大の原因である。

高校の教員免許授与証明書。これは、かれこれ5年目に免許更新のために必要だった書類。とってあったので、これでOKという返事を得た。本来なら、これも京都府庁とのやりとりは、大学並に時間がかかったはずだ。

英文の健康診断書。月イチの病院で急いで作っていただいた。普通はかなり金額が張るらしいが良心的な先生なので、安価でしかも一気に作っていただいた。年末に市役所でレントゲンを撮って、問題なしという書類もあったので早かった。

写真(マレーシアのパスポートサイズ)。実はいつでも撮れると、完全に舐めていたが、案外苦労したのだった。最近青いバック(そういう指定)で撮る写真屋さんが減っていて、4軒目でやっと撮ってもらえたのだった。スーツにバイクという営業マンスタイルで走回ることになった。

最後にパスポートの全ページのコピー。以上の8種類である。

明日、Y先生の見舞いに行かせてもらうのだが、その前に全ての準備がすんだ。
Y先生と前任校の先生方とともにゆっくりと語り合えるような気がする。

2016年3月20日日曜日

教え子からいただいた帽子

突然の退職、突然のマレーシア行である。黙って行くと後で無茶苦茶言われそうな友人や、是非伝えておきたい前任校の教え子に、今日は取りあえず携帯電話のメールで知らせることにした。この携帯電話も3月末で使用停止となる予定だ。4月からは通常使っているGmailのみが頼りだ。それを知らせる意味も込めて、個々にメールを発信した。長いこと連絡を取っていないので、アドレスが変わっている教え子も多く、やたら”通じませんでした”というメールも届く。まあ、それはそれで仕方がない。

さて、前任校の最初の教え子のM君から、JOCVとして赴任した際のドミニカのお土産を送りたいので住所をお知らせ下さいというメールが先日届いた。彼は”退職と出国”を最も早く連絡した一人なのである。M君は、JOCVとして国際協力の道に進んでくれた唯一無二の教え子だからだ。
で、早速今日届いたのが、画像のCAPである。ドミニアの国旗はすぐわかった。よく見ると、これはHard Rock cafeのグッズだった。コレクターの私としても実に嬉しい。彼のような人物と、こういう出会いを果たせた私はつくづく幸せ者だと思う。M君、あらためて有難う。

さて、今度はマレーシアの子供たちに全力で向かおうと思う。いろんなアクシデントがあるかもしれないけれど、それもまた楽しみだ。

M君のブログ「理学療法士の国際協力事情」:
http://lily-international-cooperation.blogspot.jp/

2016年3月19日土曜日

マレーシアの学校カレンダー

http://malaysiajp.com/long-stay/holiday.html
いろいろとマレーシアのことを事前に調べていると、日本と違うことが数多くある。おそらく私の生活に大きく関わるであろう学校の年間カレンダーは、日本と大きな違う。まず、夏休みがない。
まあ、Af(熱帯雨林気候:最寒月の平均気温が18℃以上)だから、一年中夏なわけで、当然である。梅雨はない。台風もこない。(気候とは関係ないが地震もないそうだ。)朝夕は過ごしやすく、日中の最も暑い時期を室内で過ごせば、極めて快適らしい。要するに、四季はない。だから、暑さ寒さで夏休み・冬休みがある日本とは根本的に違うわけだ。(ちなみに日本語学校は土日が休みで週間的には大きな変化はなさそうだ。)

多民族国家らしくマレーシアには、マレー系(イスラム)、中国系、インド系のそれぞれの宗教的民族的行事が休日の主たるもので、これに昔、世界一州が多い連邦国家(現在は13州に統合)だったこともあって州にまつわる祝日(その州だけの休日になる)もあったりして面白いのだが、不思議な休日があった。スクールホリデーという小中学校の休みである。実際のところ、私が勤める日本語学校は留学試験受験のための学校であるから、同様に休むとは思っていない。とはいえ、一般の学校は3ヶ月ごとにちょっとまとまった休みになるようだ。1月が新学期らしく、11月の下旬から12月が一番長い休みになっている。

トコロ変わればだなあと思う。楽しみである。

追記:私が採用された日本語学校でも、スクールホリデーがあるそうだ。ただし、土日以外で休むのには有給(30日あるとか。)をとる必要があるらしい。

2016年3月18日金曜日

旅の指差し会話帳 マレーシア

一般入試の合格発表と合格者説明会、芸術科目の選択決定など、一日中走り回っていた。いよいよ入試の仕事も終わりである。

朝に、昨年卒業した我が3年4組の女子マネージャーのL君から電話があった。と、いうのも、昨夜ついに今回の早期退職・マレーシア行きを教え子たちに伝えたのだ。メルアドがわかっている数人の生徒に連絡しLINEで回してもらったのだ。OK大のHちゃんや名古屋にいて大阪を立つ寸前だったN君とともに3人娘がさっそく顔を出してくれた。ほんとに嬉しい。何人かの生徒諸君からも次々とメールが入ってくる。これもほんと嬉しい。教え子こそが私の財産である。

私のこれからの予定と、連絡先(普段使っているPCのGメール:携帯を止める可能性が高いので…。)をLINEで流してもらうことにした。とりあえず明日から22日までは学校には出勤しない。明日は、英文の診断書を行きつけの病院で書いてもらうことになった。21日は、夜にSkypeで妻と学院のSさんの間で様々な質問会。銀行関係、通信関係、住居関係…。22日は、有給休暇をいただき、朝は免許の更新をする予定。夕方から前任校の先生方とY先生のお見舞い(本年1月8日付ブログ「胸が痛い。ーY先生の手術ー」参照)に行くことになった。この間に、写真撮影と和文・英文の履歴書が入ってくるわけだ。

23日から25日までは、二次入試である。残念ながら本校の武道科は定員に満たなかったので臨戦体制をひいている。同時に転入試験も行われるので、25日までは学校の最後の仕事を全うしたい。同時に荷物をコツコツと整理することになる。今回はもう、ほとんど捨てるしかない。マレーシアにスーツケースで持っていける資料は極めて限られているからだ。

と、言いながら、絶対欲しかった本が、またまたアマゾンから届いた。旅の指さし会話帳マレーシアである。(ポーランドでの経験から)実際に使ってみて、ありがたさがわかる本なのだが、マレーシア英語の話が面白かった。とにかくブロークンらしい。(笑)日本語学校でも、きっと私のブロークン英語が炸裂するであろうことはほぼ間違いないようだ。いやあ、マレーシアの日本語学校の社会科講師というのは、天職なのかもしれない。

ところで、今TVで、北海道から沖縄まで一人旅していたアイリスの最終回を放映していた。アイリスは華人系マレーシア人である。なんか、ジーンときた。

2016年3月17日木曜日

留学試験 総合科目について

一般入試の仕事もあと一息である。本日は判定会議、合格発表の準備などの事務が行われた。判定会議の後、職員会議があり、転勤を受けて校内人事の発表も行われた。

この時に私の退職も公になったわけだ。退職に伴って迷惑をかける先生方や特に親しくしていただいた先生方には、事前にお伝えしていたものの、多くの先生方にとっても晴天の霹靂だったらしい。だいぶ事情を聞かれた。一人ひとり説明させていただいたが、たった3日間で人生が変わったわけで、なかなか説明が難しい。

帰宅したら、私が教えることになる留学試験の総合科目の本が2冊アマゾンから届いていた。まずは、じっくりと見てみようと思う。地理、歴史、現代の経済、現代の政治、現代の国際社会、現代の社会の6項目のまとめと、過去問集、模擬試験という構成だ。

もう一冊は短期完成用のもので、経済分野が詳しい。留学生にとってかなり難しいらしい。重要用語の出題頻度を3段階表示していあったりして、山川の用語集(センター試験のバイブル)みたいである。

…すでにいろいろ考えているのだが、まずは地理からやるべきだと思っている。マレーシアの生徒にとっても比較的親しみやすいはずだ。そう言えば、前任校で帰国子女枠で入学してきた日本語能力が低い男子生徒に、地理Aを教えた。後輩の担任だったU先生が日本史Aや世界史Aは負担が大きすぎる考えたからだ。今でも、それは正解だったように思う。学習内容が具体的で入りやすいところから。それでいこうと思っている次第。経済が留学生にとって難しいというのも納得である。経済学用語が抽象的であるからだ。

この二冊とも、おそらくボロボロになるまで使うことになるだろうと思う。まずは、戦う敵を知ることから始めたい。

2016年3月16日水曜日

大阪市教員を退職します

本日、36年間の長きにわたって勤めてきた大阪市教育委員会に退職願を書きました。先週には思いもよらなかったことです。ことの発端は、先週の土曜日の朝、2年後のためにシャレで申し込んだ私立学校の求人情報でおもしろそうな募集要項を見つけたことです。マレーシアにある日本語学校の社会の常勤講師募集。入試の仕事から戻ってから、詳しく調べてみました。

募集している学校は、クアラルンプールの日本人会ビルにそもそもあった日本人学校が手狭になって移転したあと、マレーシア政府がここに日本語学校を設立して欲しいと日本の文部科学省に要請。T大学系の日本語学校が選ばれ、海外における唯一の文部科学省認定の日本語学校となったという、由緒正しい日本語学校。

「社会」というのは、日本の文系大学(国公立・私学共通)に留学するために必要な試験の「総合科目」のことでした。センター試験より少し易しいかなという程度で4択中心の200点満点の試験です。問題は地理や歴史、政治経済など全ての社会科を網羅しています。WEBで過去問をやってみたところ、私でも十分対応できると思いました。学校では90分1コマの授業。教えるイメージは浮かびました。これなら問題ない。

マレーシアには行ったことはありませんが、開発教育をやってきた私としては、途上国の人材育成に関われる意義深い仕事だと思いました。ウズベキスタンに行っているM先生(13日のブログ参照)のマレーシア版という感覚でした。

翌日13日(日)、志望理由をA4・2枚にまとめ、履歴書を作成してメールしました。ただ、大きな杞憂があったのです。15日(火)に、大阪市の高校間で転勤が内示され、校内の人事も動くのです。私もこれに十分巻き込まれる可能性がありました。それで、志望書にその旨を記したところ、すぐにメールが届きました。14日(月)の19:00から、SKYPEで面接を行いたいとの連絡でした。いそいでSKYPEを設定しました。(14日のブログ参照)そして、面接。途中でPCが不調になるというアクシデントもありましたが、有意義な面接を受けれたと思います。

あらためて志望動機を聞かれました。当然です。私は、つまるところ、新たな挑戦をしたい旨を訴えました。私の教え子諸君はよく知っていますが、「理想に生きることをやめたとき青春は終わる」というのが私の座右の銘です。このまま理想に生きることを諦めたくない、そんな気持ちを伝えました。マレーシアの生徒たちに社会科を日本語で教える。そこから志望する日本の大学に送り、地球市民として持続可能な開発のための人材を輩出する。未知なる世界が私の眼前に出現したわけです。

様々な質問をしていただきましたが、好印象をもっていただけたようで、給与の面でも大いに優遇していただくことになりました。十二分だと思います。65歳までマレーシアの教育法では勤務可能とのことでした。

さらにありがたいことに、15日の朝、さっそく採用のメールを携帯にいただきました。私と本校人事のために極めて迅速に動いていただき、関係者の皆様に深く感謝しています。と、いうわけで、日本語学校採用を受け、大阪市教育委員会に退職願を書いたわけです。

たった3日で私の人生は大きく変わりました。多文化共生のマレーシア、クアラルンプール。新たな挑戦の地に4月早々に向かうことになりました。

2016年3月15日火曜日

毎日 ナミビアのホロコースト

毎日新聞のオピニオン欄・地球INGの特集で、ナミビアの話が載っていた。ナミビアは、ドイツの植民地であったが、この地でホロコーストの源流と思われるような「絶滅命令」が1904年に出されている。その対象は、人種差別政策を理論的に支えた優生学の研究者でその祖と呼ばれる英国のフランシス・ゴルトンによって、リベラルな姿勢で援助しても白人と同じにはならず、人道主義で彼らを向上させることはできないと認定された黒人のヘレロ。先住民の血をひくナマの人々であった。彼らは植民地支配に蜂起し,ドイツ軍と衝突。戦闘のみならず多くの住民が飢えや渇きで倒れ24000~10万人のヘレロ、1万人のナマが死亡した。国連報告は20世紀最初のジェノサイドと認めているが、あまり知られていない。ゴルドンの調査が、この悲劇に関わったことは間違いない。

その4年後、ナチの優生学研究所の所長を務めることになるフィッシャーが、南アのボーア人と先住民コイコイの混血であるバスターと呼ばれる集団を調査した。フィッシャーは先住民が白人より劣っているとの認識を基に、白人と先住民の混血が精神的、文化的な衰退につながるとの結論(ナイジェリア人歴史家・デビッド・オルソガ氏の著書/カイザーのホロコーストにある。:本日の画像参照)に達した。この理論は、ニュルンベルグ法に影響を与えた可能性がある。南アのステレンボッシュ大学のユダヤ系人類学者・スティーブン・ロビンズ教授は、「植民地で孵化した人種差別科学が欧州に戻りホロコーストという悲惨な結果を招いた。」と分析している。バスターは、ドイツ植民地政府によって自治を認められた。WWⅡ後支配した南ア政府も同様だったが、ナミビア独立後自治権を失い、土地は政府に接取されてしまう。アパルトヘイトを進めた南アから一定の自治を与えられていたことが圧政への協力者と思われたようである。

ヘレロ・ジェノサイド財団のエスター・ムインジャング女史は、強制収容所やレイプ、殺害などナミビアで用いられた手口はナチと同じだとインタヴューで指摘している。

…アフリカとホロコーストのつながりを示す有意義な記事だった。服部正法氏の取材に感謝したい。そのきっかけとなった「石の手紙」(前述のスティーブン・ロビンズ教授の著作/未訳)が、いつか和訳されることを願うものである。

…ところで今、私は多文化共生の地に向かう準備をしている。

2016年3月14日月曜日

SKYPEを設定する。

昨夜、SKYPEが急に必要となったので、恐る恐る設定した。昔々、イスラエルの息子と妻がSKYPEを使っていたのだが、一人で設定するのは初めてである。極めて有用なアプリだと私も思うのだが、なかなか難しい。

使い方を若い先生方に教えてもらったりして今夕、無事使えたのだが、途中で我がPCがダダをこねて再起動する必要にかられて焦ったのであった。

ちなみに、このSKYPE、カメラが内蔵されていないとすぐには設定できない。たまたま我がVAIO君(エイドスはVAIOだが、ヒュレーはNECという偽物である。だから、バランスが悪いのかもしれない。よく再起動の必要に迫られる。)にはカメラが内蔵されているので助かった。

ブルキナファソに行ったとき、私はNGO事務所で寝起きしていた。朝起きると、I さんや荒熊さんが自分のPCでヤフーなどで日本のニュースを確認し、メールを確認しているのをよく目にしていた。もし、お二人のPCにカメラが内蔵されていれば、きっと日本の家族とSKYPEを使ってコミュニケーションされていたのだろうと思う。

2016年3月13日日曜日

CJLU ウズベキスタンの話

JICAのケニア視察(2003年)の仲間であるM先生が、ウズベキスタンで、日本語で日本の文化などを教えている。M先生は2年ほど早めに府立高校を退職して、JICAの研修所に入った。ウズベク語を学ぶ必要があったからだ。実際のところ、学生には日本語で講義するので直接必要がないのだが、現地で生き延びるためには必要なのだそうだ。
具体的には、このM先生が関わっているシニア・ボランティア、タシケント国立法科大学内に設けられた日本法教育研究センター(CJLU)である。ここで学んだ現地の学生は、名古屋大学大学院法学研究科の修士過程に留学、多方面で活躍しているらしい。
http://cjl.law.nagoya-u.ac.jp/content/10

M先生は、同じ社会科教師の私に、後継者となれば、などと言ってくれたのだが、私自身は語学を学ぶのが極めて苦手である。英語でもかなり怪しいのに、ウズベク語なあ…と、尻込みをしてしまうのであった。ところで、この仕事、JICAのボランティアなので、JOCV同様、収入はほとんどなし。奥さんと現地で暮らす上で問題ない程度の待遇。これはいいな。なにより、開発教育に携わってきた者として、実際の国際貢献に寄与できることが嬉しい。しかし、ウズベク語は堪忍である。

なぜこんな話をエントリーしているかというと、退職まであと2年となった。大阪市では、再任用制度があって、多くの先生方が再任用されている。これには、うーんと唸ってしまう。その理由は多々あるのだが、ブログでは書けないことのほうが多い。(笑)ただ給料が半分になるというのが、唸る理由ではないことだけは確かだ。そもそも私は自分の給料の額を知らない、というより知ることを避けている。(笑)ほんと、真剣に将来の自分について考えなければならない。

本年度学会研究発表不参加。

上越教育大学 http://www.juen.ac.jp/050about/020campus/010map.html
入試の多忙さにまぎれて、今年の国際理解教育学会の研究発表大会への参加期限(9日)を過ぎてしまっていることに気づきました。すでに用意も万全だったのですが、残念です。また、ずっと研究発表してきたことが途切れるのも悲しい。でも仕方ありません。

新潟の友人に会うつもりだったのに、つくづく残念。はあ~。

2016年3月12日土曜日

佐藤優の「聖書を読む」に学ぶ 2

http://blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/8303081d619fee86c90225bf4d52c1c0
10日の木曜日は一般入試の当日だった。特別選抜以来、本校はずっーと入試の仕事が続いている。庶務的な準備・受付業務・当日の監督割・調査書の確認と入力・受験会場の整備・当日の庶務的な仕事・採点・採点の確認・学力検査の入力・データ処理・会議・発表準備といった一連の仕事を2回続けてやるというのは、なかなかしんどい。体調不良や気疲れで、教務のメンバーはみんなヘトヘトである。

と、いうわけで2日間ブログのエントリーを休ませてもらった。昨日・今日は自教科の採点の日であったからだ。集中力と体力勝負なのである。なにより、ミスが許されないからだ。

11日の午後、教頭先生の放送で、採点業務中の我々は、3.11の犠牲者に黙祷を捧げた。5年前を知っている先生方は、「あの日も採点中だったねえ。なかなかひどい揺れだった。」などどと呟いておられたりする。TVや新聞でも、5年たった今年に合わせて様々な企画で報道されている。やはり福島の原発による被害が一番悲惨で、最も復興が遅れていることが明らかになっている。被災の悲しみに大小などないが、福島のそれは、岩手や宮城と一味違う悲惨さがあるように感じるのは私だけではあるまい。

先日エントリーした佐藤優と中村うさぎの対談集「聖書を読む」で、ヨハネの黙示録の第8章「天使のラッパと災い」の中(10節から11節)に『第三の天使がラッパを吹いた。すると松明のように燃えている大きな星が、天から落ちてきて、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は”苦よもぎ”といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。』とある。この”苦よもぎ”は、ロシア語の聖書では、「ポルィヌィ」という言葉をあてているのだけれど、「チェルノブイリ」も苦よもぎを意味する。で、チェルノブイリの事故の時、ロシア人なら誰もが、ヨハネの黙示録だと連想したのだという。この後、黙示録では鷲が「不幸だ、不幸だ、不幸だ地上に住む者たち。」と言いながら空高く飛ぶのだが、この黙示録的予言のようにソ連が崩壊していったと、佐藤優は言う。もちろん、ゴルバチョフの政策や国内経済の疲弊などが崩壊の原因としては大きいが、この原発事故で空気が一変したことは否定できないと。

いくら権力が隠そうとしても、チェルノブイリ原発事故の心的影響は、かなり大きかったわけだ。福島の事故は、そういうヨハネの黙示録のような予言などとは関わりがないが、日本人に与えた心的影響は、同じかそれ以上だと思われる。先日の滋賀地裁の高浜原発の運転差し止め仮処分決定は、実は、日本人全体にそういう心的な部分での不安がすこぶる大きいことを示していると私は思う。

私は原発に関しては、中間的な位置にいると思っているのだが、原子力規制庁や内閣府の原子力委員会の偉いさんなどのコメントを聞いていると、どうしても反原発に傾いていく。彼らを信じることがどうしてもできないわけだ。この辺は、ウォール街を信じないサンダース支持者や、既成の政治家を信じないトランプ支持者と共通するトコロでもある。

2016年3月9日水曜日

「だから巨人ファンはバカなのだ」

昔、青島幸男が「だから巨人ファンは馬鹿なのだ」という本を出した。村松友視の「私、プロレスの味方です」と同様、読んだような気もするし、読んでいないかもしれない。それくらい古い本だ。

私が小学生の頃は、TVのプロ野球中継というと巨人戦しかなかった。その後、プロ野球ニュースが始まって毎日巨人以外の球団のプレイもTVで目にするようになったけれど、とにかく巨人のV9時代は、誰でも(私のように巨人ファンでない者も)1番柴田からの巨人のオーダーを言えたもんだ。

巨人は当時、唯一メジャーリーガーなどの外国人をメンバーに入れない球団であった。なんとなくプロレスで言えば、ベビーフェイス(善玉・正統派)的存在であった。それが、サンケイから金田(あの400勝の金やんである。)をトレード補強して以来、張本(喝の張さんである。)もゲット。さらに江川事件。さらに清原を騙した桑田事件。さらに三冠王の落合を取ったり、もう勝つためには、何でもアリの無茶苦茶をやった。だんだんヒール(悪役)化していくのだ。

ヒール巨人軍の総本山が、読売新聞社のナベツネと呼ばれた人物である。ヤクルトの古田が選手会長として様々な改革のため奔走していた時、「選手の分際で…」と罵倒した人物だ。

そのナベツネ氏が、今回の高木投手の野球賭博発覚で辞任するそうである。賭博に関与した選手は、すでに4人目。巨人もまさに地に堕ちたもんだ。

大阪人である私は、巨人=東京=権力の象徴であった。ナベツネ氏はその権化のような存在である。その権化が、極めて意外な末路をたどることになった。これについては、実に感無量である。

ことさら巨人ファンは馬鹿なのだと、青島幸男に同調するする気はない。好き嫌いというのは、旧約聖書のように合理的なロジックを超えたものだと思うからだ。

2016年3月8日火曜日

佐藤優の「聖書を読む」に学ぶ。

佐藤優と中村うさぎの対談「聖書を読む」(文春文庫/本年2月10日発行)を読んでいる。読んでいて、中村うさぎというヒトが本質的によくわからないのだが、佐藤優の一神教の蘊蓄をピックアップして楽しんでいる感じだ。ちなみに中村うさぎも同志社大学出身である。

創世記の天地創造の初日、「夕べがあり、朝があった。」というコトバで終わる。だから、シャバット(安息日)は、金曜日の日没から翌日の日没までとなっている。佐藤優によると、その間は火を動かしてはいけない。新たな着火、火量を変えることはいけない。とろ火でスープを煮込み続けるのは構わないが、消してはいけない。これが火を動かさない意味。車は火を使うので運転は不可。エレベーターなどモーターを使うのも不可ということになる。…なるほど。

同じく天地創造には、「神は彼らを祝福してこう言われた」というコトバもてくる。この祝福は、永遠の生命を与えたということ。神は人を造った時点では、永遠の生命を取り上げる予定はなかった。ロシア正教やオーソドックスのミサ「聖体礼儀」では、この辺をよく表現している。至聖所という場所の手前にイコンを貼った壁があり、その入口にカーテンがかかっていて、それが開きお香の煙がワーッと出てくる。これは聖霊の象徴。いきなりカーテンが閉まりお香が出てこなくなる。これが、罪と楽園追放のシンボルである。祝福には、切れ目のない生命という意味が含まれているが、永遠という時間とかの概念はギリシア的で、キリスト教はそういうギリシア的フィルターを通して解釈されている。ヘブライ語で解釈するユダヤ教とは若干ニュアンスが異なるのだが、この永遠の生命を与えたというのは両者とも大前提となっている。…なるほど。

このあと、創世記の蛇の話や原罪のハナシから、善と悪の存在をめぐって、中村うさぎがぐちゃぐちゃ噛み付いてくる。これを佐藤優は、ウィトゲンシュタインの「ウサギアヒルの絵」をつかって、旧約聖書がわからないというのは分節化の違いであると述べている。どこで切ってどう組み立てるかという、文法構成や論理構成の違いのハナシである。旧約聖書の論理は日本人の論理とは違う。たとえば、ホストの世界にはホストの文法があるように、どれが上でどれが下だとかではなく、それぞれが内在論理を持っている。いろんな問題の原型が、天地創造の物語に盛り込まれていて、難しい。だからこそテキストとして長生きする。
重要なのは、ユダヤ教やキリスト教の話には、根源的なところになると因果関係も理屈もない。聖書というものは、目に見えない事柄を可視的に、耳に聞こえない事柄を聞こえるようにコトバで表さないといけない。それが聖書全体のテーマ。だから、ここに書かれていることは全て人間による作業であって、人間によって作り出されたことである。そこのところをテキストの論理で正確に読んでいくとなると、ファンダメンタリズム、原理主義になる。これは、キリスト教原理主義でもイスラム原理主義でも同じ。…なるほど。因果の存在抜きにブティストの私などは、様々なハナシは理解不可能である。案外、こういう根本的な事実は見逃しがちである。

ユダヤ人たち、旧約聖書を信じる人たちは、基本的にこうなっているんだと言われたら「あっ、そうですか。」となる。論理的に説明がつくと思っていても、説明のつかない残余の部分が必ずあるもの。その部分を上手く表現することができたのがユダヤ教。だからこそ、ユダヤ思想家の流れからフロイドの精神分析学とか、ユングの無意識の領域という発想が出てきた。…なるほど。納得である。

今日は、国公立を目指していた2人の卒業生のうち、1人の桜が早咲きしてくれた。「超」嬉しい。もう1人は、もう少しかかるみたいだ。だが必ず桜は咲く。諦めの悪い者が勝ち桜を咲かせる。受験の世界というのはそういう内在論理が貫かれている。

2016年3月7日月曜日

日経 ロシア人気作家の怒り

http://www.okadaev.com/akunin/erast/erast.html
日経の今日の国際面の「地球回覧」が面白かった。ロシアの人気作家ボリス・アクーニン氏(59)は、長らくモスクワで散策しながら構想を練っていたそうだが、今は創作の場をロンドンに移している。というのも、モスクワにいると「怒りがこみ上げるようになった」からだという。

アクーニン氏は、元日本文学研究者で、「悪人」からペンネームを着想したそうだ。(笑)帝政ロシア末期を舞台にした探偵小説「エラスト・ファンドーリンの冒険」が1500万部売れている。主人公のファンドーリンは、ロシア版シャーロック・ホームズと呼ばれ、英国紳士に近い存在。つつしみ深く己の理想や善悪の判断に従う。調和を重んじる日本的な面もある。これらは、ロシア人に欠けている資質で、それを体現しているがゆえに人気があるのだ、とアクーニン氏は語っている。(凄いな。)

彼は、11年末反プーチン運動に参加したが、12年大統領に返り咲き。14年クリミア半島編入。一気に8割の支持率を得た。「問題はプーチンではなく人々の精神性にある。」他国が恐れる偉大な国の市民であるという「帝国主義の麻薬に酔っている。」と指摘。

…チェルノブイリの本を読んだとき、そういうロシア人(ソ連邦下のベラルーシ人・ウクライナ人も含めて)的な感覚を少しばかり理解した。WWⅡでドイツに勝利したことを、かなり経っても誇りにしているトコロや、爆発した発電所の屋上にソ連国旗を何度も掲げるクレイジーな行為など、単に命令故とはいえない民族的資質としか言いようのないものを感じた。

アクーニン氏は歴史の執筆にも力を注いでいる。何故ロシアは自由化の試みが常に強権支配の復活で終わるのか、その問題の根源と処方箋は過去にあると信じ、9世紀からの歴史を紐解く。ロシアの歴史はプロパガンダに利用されてきた。客観的な視点を読者に示したいと言う。現在、3巻で70万部読まれている。彼は、現在のロシアを1907年から17年と重ねている。各地の反政府運動や暴動が沈静化した1907年からロシア革命が起こった19017年である。市民社会の挫折、経済危機、外敵を求め大衆の目を国内問題からそらすといった兆候をもとにしているらしい。彼は、もはや平和的な民主化のチャンスはないと考えているという。

…日本もアメリカも、そしてロシアもそうだが、なにか歯車が狂ったような反知性的な政治状況が起こっている。アクーニン氏が、そのアンチテーゼとしての小説や歴史観を提示しているというのは、実に面白いと思う。私はこういう推理小説を読む習慣はないのだけれど、ちょっと興味がわいた次第。

2016年3月6日日曜日

「長ぐつをはいたネコ」を見る。

NHKで昨日の夕方だったか、「長ぐつをはいたネコ」を見た。ペロー童話とは、あまり関係なくて、シュレックシリーズのスピンオフ作品だった。
とはいえ、アメリカらしい優れたエンターテーメント作品だった。昨年の黒猫チューチュー以来、「猫の気持ち」みたいなことをだいぶ学んだので、そういうことも使った演出(砂かけダンスなど)が特に面白かった。

とはいえ私にとっては、昔の東映作品「長靴をはいた猫」の方が面白い。これは、ペロー童話をもとにしていて、「♪ビックリシタニャー・ビックリシタニャー」で始まる主題歌とともに、極めて優れた作品だと思う。特に、ツインタワーのようになっている城のデザインなど、子供心に凄いなと思ったものだ。この頃から、日本の(というより東映の)アニメ作品は名作を残している。私は、特に「長靴をはいた猫」と「わんわん忠臣蔵」が大好きである。

当時、東宝と大映はゴジラやモスラ、ガメラを始めとした怪獣映画へ、東映はアニメへと違う子供路線を進んでいた。今の宮崎駿監督などの日本のアニメ映画の興隆の源は東映にあるわけだ。たまたま見たアメリカのアニメから、昔話になってしまった。たまにはこんなエントリーもいいかな、と思う。

2016年3月5日土曜日

アフリカの風に吹かれてⅣ

ジブチの難民キャンプ http://www.mayq.net/kimura/daradara14.html
先日のエントリーの続きである。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)、今日はジブチ編。実は、ワンフェスのAMDAブースでこの本を手にとった時、帯に書かれていた「ジブチ」という国名に大きく惹かれたのだ。2003年夏、JICAの教師視察派遣でケニアに向かう前、研修のため訪れた東京のJICAでジブチの研修員さんと会ったことがある。かなりレアな経験である。地理の教師故にジブチの位置や基本情報を知っていたことが幸いした。「紅海のそばだね。」と言うとめちゃくちゃ喜んでくれた。おそらくジブチという国を知っている日本人は、当時ほとんどいなかったのだろうと思う。最近は、ソマリアの海賊対策で、ジブチに海自が拠点を置いているので知っている人も増えたように思う。研修員の彼は、砂漠化を防ぐために日本に学びに来ていた。とにかく、ジブチについて書かれた日本語の本は決して多くない。実に貴重な記録だ。

ジブチはエチオピアの外港で、旧フランス領である。だからフランス語圏。ジブチの人々は、エチオピアやソマリアをルーツにしている。だから目鼻立ちがはっきりして整っている。(ケニアでもソマリ人はすぐ判る。)女性はブーブーという大きめのワンピースを身にまとい、美しいフランス語を話すという。一方、ソマリ語やアッファール語という現地語は、遊牧民の言語ゆえに荒々しい響きがあるらしい。この地には、ソマリア難民が9割、エチオピア難民が1割をしめる計3箇所の難民キャンプがある。著者はUNCHRのパートナーとしてAMDAがつくった難民キャンプの診療所のディレクターとして赴任した。

ネパールから来ている、ベテランのナビン医師の話。ブータン人難民キャンプにも数年間勤務していたという。、AMDAなどのNGOが彼のようなネパールやバングラディシュの医師を派遣する理由として、人件費が安いのもあるが、このような施設や機材の整っていない医療施設で聴診器と血圧計のみで診察できること最大の理由らしい。先進国の医師では難しいのだという。しかし途上国出身の医師でも、ここの環境に音を上げて辞める人が多いとのこと。そんな中、3年の任期を全うしたナビン医師は心身ともにタフな人物で、難民の患者の甘えた要求にも毅然と接し、一方で冷たくあしらうようなこともない。粘り強く説得し治療にあたった。彼にはずいぶん助けられたと著者。

ジブチの難民キャンプは、紛争が起こってから15年以上もたっているので、「生きるか死ぬか」といった悲壮感はない。ソマリ語で、Yesに当たるのは「ハー」と言うらしい。「薬品のリストちゃんと作れた?」「ハー」「在庫まで調べた?」「ハー」著者は、ジブチの暑さとともに、彼らのだるそうな返事に拍子抜けしたという。(笑)ジブチは、ザンビアほど難民が都市に出ていくことに目くじらをたてない。普段は、のんびりしているのだが、時として遊牧民の激しさが吹き出ることがある。ナビン医師は、その辺をよく心得ており、人としての尊厳を十分に守りつつ、しかも凛としてソマリア難民に接していたようだ。彼に診療所は何度も守られたという。

一方、エチオピア人はほとんどが政治亡命による難民だった。独学で4カ国語(エチオピア語=アムハラ語・ソマリ語・英語・フランス語)を話す、アレムという青年ボランティア・スタッフがいた。彼のおかげで通訳がスムーズになったし、懸命に診療所を支えてくれたのだそうだ。
彼は著者が赴任中に、カナダ移住の申請が認められる。宝くじをあてるようなもので、なかなか、こんないい話はないそうだ。彼が幼い頃、難民キャンプで英語を教えてくれた青年教師がいて、その教師もカナダの移住審査に合格しキャンプを去っていったのだという。いわば、師の教えをバトンとして受け継いだといってよい。この吉報(診療所での働きも大いに評価されたらしい。)は診療所のボランティア・スタッフに大きく波及し、エイズ予防キャンペーンの時など大いに活気づいたのだという。こういうバトンの継承は良い方向に難民キャンプを導いていく。

…ジブチを世界で最も暑い国と著者は書いている。読んでいて、難民キャンプでの様々な苦労が深くしのばれる内容となっている。ソマリランドの本などを読んでいても、あるいは京大の文化人類学の本を読んでいても、やはり遊牧民的なる文化との接触における軋轢は、我々日本人にはかなり消耗を伴うものなのだろう、と思う。

2016年3月4日金曜日

毎日 在ドイツ難民 改宗問題

毎日の夕刊に、驚愕のニュースが載っていた。見つけたのは妻である。2人の夕食の話題はもっぱらこの話になった。一言で言うと、ドイツにたどり着いた難民の中で、独立系のプロテスタント教会で、イスラムからキリスト教に改宗する人々が出ているという話である。

「イスラムって、改宗は厳禁やんなあ。」と妻。「死刑のところもある。」と私。新聞には、この改宗者、イラン人が8割、アフガン人が2割だという。どちらも、強制送還され改宗がバレれば、たしかに生命の危険があると思われる。と、いうことは、それだけ難民申請には有利であることは確かだ。

実際、この教会の改宗者で強制送還された人はいないそうだ。しかし、難民施設では「裏切り者」として脅迫された人もいるようだし、ドイツ国内最大のプロテスタント(おそらくルーテル派だと推測される。)の牧師は、「難民支援を布教手段にしてはならない。」「洗礼は神聖な行為であり、他宗教を尊重する観点からも、支援とは分けるべきだ。」という批判も起こっている。それに対し、独立系教会は、9割以上の信者が難民認定後も教会に通い続けているとして、洗礼の妥当性を強調している。

…うーん。プラグマティックに考えれば、難民認定のための方策として、キリスト教への改宗はかなり有効な策ではある。信教の自由という人権からも妥当なものである。この独立系教会は支援を拒まない「駆け込み寺」的存在であるそうだ。遠く離れた日本でブティストの夫婦が、論議したところでどうにもならない。先日もエントリーしたが、難民の人々の立場に立つことは極めて難しい。ここはエポケーするしかないか、と。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160304-00000030-mai-eurp

2016年3月3日木曜日

日経 「白河以北一山百文」

日経の文化面に、「影法師」という結成40年を迎えたフォークソング・グループの話が載っていた。メンバーは入れ替わっても山形県を拠点に東北人の思いを歌にしてきたという。91年、「白河以北一山百文」という曲をつくった。東北自動車道が完成し、首都圏のゴミが東北に押し寄せた。故郷は単なるゴミ捨て場なのか。そんな憤りを訴えた。タイトルは戊辰戦争の時、官軍の兵士が言ったとされる言葉に由来する。白河の関以北の土地は、一山百文の価値しかないという意味だ。流入するゴミは、その頃から続く中央と東北の関係を表しているように感じた。声を上げなければ変わらない。
そして、2011年3月11日、東北を震災が襲った。「影法師」のリーダー青木文雄氏は、濁流が宮城や岩手の田畑、家、車を容赦なく飲み込んでいくのを呆然とテレビで見ていた。翌日、福島の原発事故が起こった。また東北が苦しみを背負うのかー。「白河以北一山百文」をつくったときと同じ憤りと無力感が襲ったという。と、いうのも、以前(震災の10年前)テレビで「白河以北一山百文」を歌う機会があったのだが、局側に3番は歌わないでくださいと言われた。3番の歌詞は「原発みたいな/危ないものは/全てこっちに/押し付けといて」(実際には方言で歌う:標準語訳)とあったのである。あの時、素直に3番を歌わなかったが、なぜ自分たちの思いをきちんと歌わなかったのかと、事故が現実になり悔いたのだ、という。

もう一度歌いたい。しかし直接の被災者でない私たちにその資格があるのか。被災者を余計苦しめないか。悩みに悩んだ末に13年6月に完成したのが「花は咲けども」という曲である。歌う前に現場を見ておかなくてはならないと、福島県浪江町を訪ねた。そして山形県に避難している福島の人々の前で歌った。批判も覚悟したが、涙とともに「これは私たちの歌だ。」という言葉だった。他の歌手も歌ってくれるようになり、英語版も生まれた。この歌を携え農閑期の冬には、全国を回っている、という話である。

…実際にYoutubeで聞いてみた。こういう骨のあるフォーク・ソングは久しい。特に、「花は咲けども」は、「花は咲く」のアンサーソングになっている。いわゆる綺麗な合唱曲になっている「花は咲く」と対比して聞くべきだと思う。

 「白河以北一山百文」
https://www.youtube.com/watch?v=3YjrXCtUhv4
 「花は咲けども」
https://www.youtube.com/watch?v=5Vd8owCwSTM

2016年3月2日水曜日

アフリカの風に吹かれてⅢ

ザンビア・ムブルング http://www.panoramio.com/photo/17206087
重症の花粉症で、昼から登校するはずだったのだが、勘弁してもらった。体力が衰えていたところに花粉症で頭ガンガン、鼻水グスグス、激しいくしゃみと目の痛み…。かなり苦しい。というわけで、今日のブログは、昨日のエントリーの続きである。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)同じくザンビア編。昨日紹介した拘置所経験者の難民・フランク氏の体験。これはなかなか貴重な記録だと思う。

彼は故郷のコンゴ民主共和国カタンガ州で高校教師をしていた。1993年のある日、行きつけの飲み屋で地元の政治家批判をしてしまった。カタンガ州のマイノリティー・ルバ人だった彼は、マジョリティー優先の政策を批判、大勢の前で演説してしまったのだった。それが拙かった。お尋ね者になり、警察にもマークされるようになったのだ。「たかがそれくらいのことでと驚くなかれ、これが現実なんだよ。」と彼は肩をすくめた。数日後、職場から戻ると自分の家が何者かに破壊されていた。ブルドーザーか何かを使って押しつぶされていた。命の危険を感じた彼は東に向かって延々と歩いて逃亡。タンガニーカ湖にたどり着く。岸を離れる船に飛び乗り、船員に匿われてザンビアのタンザニア国境近くにあるムブルングという難民キャンプに収容された。キャンプは緑の山に囲まれた見晴らしの良い美しい場所だった。テント、ポット、毛布などわずかばかりの物資を与えられた。そこでようやく、自分の状況が冷静に判断できるようになった。「僕は国を追われたのだ。」生き延びることができたという安堵感と背中合わせにやってくる喪失感、耐え難い寂しさとともに。この先の自分の将来に対する不安が襲ってきた。この生活は一体いつまで続くのか、カタンガに残してきた母のこと、教師としてのキャリア…。毎日毎日答えの出ない問いかけを自分の中で繰り返し、キャンプでの月日の流れは途方もなくゆっくりと過ぎていくように感じたという。

だが、彼はなんとか毎日を意義深く過ごそうと努力した。野菜を植え、近隣の難民とも助け合った。だが、自分のやっていることが一体何の意味があるのかわからなくなる。そしたらもうこんな所にいるべきではないという思いが止まらなくなった。著者は、この話を聞き、ある国で捕虜に対して行われた拷問を思い出す。捕虜は地面に大きな穴を掘るよう命じられ、完成すると今度はそれを元通り埋めなおすよう指示される。それを延々と繰り返されるうちに精神的に参ってしまうらしい。人間は意味を感じられない労苦には耐えれないようにできているのだ。

5カ月後、彼はWFPの食料輸送トラックに忍び込みキャンプを抜け出した。さらにヒッチハイクを続け首都ルサカに逃げおせた。もちろん、それは不法滞在で前述のように捕まる危険性も高い。だが、彼はこう言う。「毎日、何の希望も見いだせないまま、味気ないトウモロコシの粉を無理やり口に入れて、生き延びようとしてきた人間の絶望的な悲しみは、きっと本人にしか分からないだろう。」「でも忘れないで欲しいね。僕たちみたいな存在がこの世にいるってことを…。」著者は、この言葉を一生忘れないようにしたい、今でも想像も及ばないような境遇に置かれた人たちに出会った時、彼に言われた言葉を思い出して、自分の仕事に課せられた意味を考える原点のようにしている、と言う。ある意味、この本の最大のポイントになるような箇所である。

…ふと、イスラエル・テルアビブのエチオピア人街でのことを思い出した。ある黒人に「どこから来たの?」と英語で聞いたら、「LOST!」とだけ答えられてびっくりしたのである。ここは、アフリカなどからの黒人(ユダヤ系は母系なので黒人がユダヤ人であることは十分ありえる。またエチオピアには弾圧されていた古いユダヤ教徒が多くいて、以前イスラエル軍が救出したこともある。)や、ユダヤ系だが、ユダヤ教徒でないロシア人が多く集まった場所で、最も所得の低い地域でもあった。死海のスパでもレストランで働くアフリカ系の青年に出会った。彼もまた英語を介さなかった。
彼らもまた、ほとんど難民のようなカタチで、ユダヤ系であるが故にイスラエルに移民してきた人々なのだろう。はっきりとした難民の人々に会ったというわけではないが、こういう体験を私はしている。彼らを我々が理解することはかなり難しいと直感的に感じた。

…難民。いまシリア難民が世界的な話題となっているが、我々がどれだけ近い感覚でこの問題を考えれるのだろう。改めて、そう思うのだ。

2016年3月1日火曜日

アフリカの風に吹かれてⅡ

ザンビアの難民キャンプ https://www.daily-mail.co.zm/?p=12218
スーパーチューズデー、そして本校の卒業式と入試の合格発表の日、あえてそれらに触れず、先日(2月26日)のエントリーの続きを書きたい。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)から、印象深い箇所をピックアップする。今日はザンビア編から。

ザンビアは昔からアフリカの難民や亡命者の避難所みたいなトコロで、南アのアパルトヘイト時代、ANCのメンバーもザンビアにおり、彼らを狙った空爆も何回かあったと言う。ザンビアには73もの民族が存在するが、特筆すべきは、他国で見られるような民族間の紛争が独立以後も一切なかった、平和な国であり続けたことである。平和で政情が安定していたからこそ、周辺国の難民の受け皿となってきた。「難民に寛容な国」なのである。

初代大統領カウンダは、一種の汎アフリカ主義者で、他国の政治家や白人政権と戦う反政府勢力の指導者などの受け入れに熱心であったことも大きい。モザンビークの独立運動を先導した初代サモラ・マシェル大統領や現在は悪名高いジンバブエのムガベ大統領も一時期匿われていた。

国際社会で「難民に寛容な国」と良き評価を受けても、一般市民には何のメリットもない。爆弾を落とされた地区の住民たちは当然大きなリスクを感じていた。基本的に平和な国民性だから難民排斥運動は起こらなかったが、不満は高まっていた。90年代後半、ルワンダやコンゴ民主共和国から大量の難民が流入し、28万人を超えた。そこで、難民の都市滞在許可証として電子IDカードが導入される。本来、難民はUNDHRなどが運営する難民キャンプに滞在するべきである、というのが、経済的に低迷していたザンビアの本音である。ザンビアもまた貧しい。だから、IDカードをもたない難民キャンプからの脱走者は、入国管理局によって捕まえられ、非人道的な拘置所に入れられるのだという。

その拘置所での話。雑居房の狭いスペースの中で皆が自由に寝ることはかなわない。囚人は揃って横向きに寝ていた。その姿勢で長時間経つとやがて片方の肩や腰が痛くなる。そのうちに囚人たちの間で暗黙のルールが出来て、誰かが手を叩いて合図をし、皆が一斉に向きを右から左へ、左から右へと変えるようになる。そうすることによって、何とか皆が休息を取ろうとしたのだという。

著者は、難民男性が面白おかしく話してくれたので笑い転げたらしい。とはいえ、かなり過酷な状況であったことは間違いない。

…今日は、花粉が凄い。私は一気に重症に陥ってしまった。もう100回くらい鼻水をかんでいる。鼻が詰まって無呼吸症候群がひどくなるのは間違いない。きっと妻の合図で、私も右、左と寝る体制を変えることになりそうだ。