2016年3月2日水曜日

アフリカの風に吹かれてⅢ

ザンビア・ムブルング http://www.panoramio.com/photo/17206087
重症の花粉症で、昼から登校するはずだったのだが、勘弁してもらった。体力が衰えていたところに花粉症で頭ガンガン、鼻水グスグス、激しいくしゃみと目の痛み…。かなり苦しい。というわけで、今日のブログは、昨日のエントリーの続きである。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)同じくザンビア編。昨日紹介した拘置所経験者の難民・フランク氏の体験。これはなかなか貴重な記録だと思う。

彼は故郷のコンゴ民主共和国カタンガ州で高校教師をしていた。1993年のある日、行きつけの飲み屋で地元の政治家批判をしてしまった。カタンガ州のマイノリティー・ルバ人だった彼は、マジョリティー優先の政策を批判、大勢の前で演説してしまったのだった。それが拙かった。お尋ね者になり、警察にもマークされるようになったのだ。「たかがそれくらいのことでと驚くなかれ、これが現実なんだよ。」と彼は肩をすくめた。数日後、職場から戻ると自分の家が何者かに破壊されていた。ブルドーザーか何かを使って押しつぶされていた。命の危険を感じた彼は東に向かって延々と歩いて逃亡。タンガニーカ湖にたどり着く。岸を離れる船に飛び乗り、船員に匿われてザンビアのタンザニア国境近くにあるムブルングという難民キャンプに収容された。キャンプは緑の山に囲まれた見晴らしの良い美しい場所だった。テント、ポット、毛布などわずかばかりの物資を与えられた。そこでようやく、自分の状況が冷静に判断できるようになった。「僕は国を追われたのだ。」生き延びることができたという安堵感と背中合わせにやってくる喪失感、耐え難い寂しさとともに。この先の自分の将来に対する不安が襲ってきた。この生活は一体いつまで続くのか、カタンガに残してきた母のこと、教師としてのキャリア…。毎日毎日答えの出ない問いかけを自分の中で繰り返し、キャンプでの月日の流れは途方もなくゆっくりと過ぎていくように感じたという。

だが、彼はなんとか毎日を意義深く過ごそうと努力した。野菜を植え、近隣の難民とも助け合った。だが、自分のやっていることが一体何の意味があるのかわからなくなる。そしたらもうこんな所にいるべきではないという思いが止まらなくなった。著者は、この話を聞き、ある国で捕虜に対して行われた拷問を思い出す。捕虜は地面に大きな穴を掘るよう命じられ、完成すると今度はそれを元通り埋めなおすよう指示される。それを延々と繰り返されるうちに精神的に参ってしまうらしい。人間は意味を感じられない労苦には耐えれないようにできているのだ。

5カ月後、彼はWFPの食料輸送トラックに忍び込みキャンプを抜け出した。さらにヒッチハイクを続け首都ルサカに逃げおせた。もちろん、それは不法滞在で前述のように捕まる危険性も高い。だが、彼はこう言う。「毎日、何の希望も見いだせないまま、味気ないトウモロコシの粉を無理やり口に入れて、生き延びようとしてきた人間の絶望的な悲しみは、きっと本人にしか分からないだろう。」「でも忘れないで欲しいね。僕たちみたいな存在がこの世にいるってことを…。」著者は、この言葉を一生忘れないようにしたい、今でも想像も及ばないような境遇に置かれた人たちに出会った時、彼に言われた言葉を思い出して、自分の仕事に課せられた意味を考える原点のようにしている、と言う。ある意味、この本の最大のポイントになるような箇所である。

…ふと、イスラエル・テルアビブのエチオピア人街でのことを思い出した。ある黒人に「どこから来たの?」と英語で聞いたら、「LOST!」とだけ答えられてびっくりしたのである。ここは、アフリカなどからの黒人(ユダヤ系は母系なので黒人がユダヤ人であることは十分ありえる。またエチオピアには弾圧されていた古いユダヤ教徒が多くいて、以前イスラエル軍が救出したこともある。)や、ユダヤ系だが、ユダヤ教徒でないロシア人が多く集まった場所で、最も所得の低い地域でもあった。死海のスパでもレストランで働くアフリカ系の青年に出会った。彼もまた英語を介さなかった。
彼らもまた、ほとんど難民のようなカタチで、ユダヤ系であるが故にイスラエルに移民してきた人々なのだろう。はっきりとした難民の人々に会ったというわけではないが、こういう体験を私はしている。彼らを我々が理解することはかなり難しいと直感的に感じた。

…難民。いまシリア難民が世界的な話題となっているが、我々がどれだけ近い感覚でこの問題を考えれるのだろう。改めて、そう思うのだ。

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