2010年2月28日日曜日

聖地チベット展を見に行く


 我が家は、変な家かもしれない。愚息は現在ユダヤ・イスラム教等の専門家である。(先日博士課程後期に合格した。)愚妻は、実は、チベット仏教や東洋医学が好きで、かなり詳しい。そもそも私は「倫理」の教師なので、我が家には宗教学系統の本が、おそらく一般家庭の100倍(おおげさかな?)はあると思われる。ともかく、今日は、愚妻に付き合って大阪歴史博物館に行った。チベット展が開催されているのである。愚妻と、こういう展覧会にいく機会は年に3~4回はある。前回は「道教展」だった。これは!というのがあると多少無理してでも行くことになっている。今回のチベット展もなかなかよかった。
 さて、今日はJRと地下鉄で行った。大阪天満宮駅でアジア系の夫婦がなんかキョロキョロして困っていた。手にあるロン=プラ(ロンリープラネット)の日本版は、タイ語のようだった。一応「メイアイヘルプユー?」してみた。彼らは、この駅でで降りたいらしいが、切符を乗り越しているようだった。その機械を教えて、出口まで案内した。こういうことはあまり愚妻の前ではしたことがない。彼女は、ロングロングアゴーの香港の家族旅行以来、私のサバイバルイングリッシュを完全にバカにしているのである。でもまあ、微笑みの国からの人々は、見事な微笑みを返してくれたわけで、「まあいいか。」と思っていたら、「さっきは、カムインと言ってたけど、カムヒヤーちゃうのん?」と愚妻は言った。くそっ!
 チベット展を見た後、ショップに寄った。マニ車やタルチョ(経文を印刷した色とりどりの旗)は、すでに教材として持っている。結局、買いそびれていた3・4年前の『旅行人のチベット特集』を買った。『旅行人』は蔵前仁一の編集のバックパッカーの為の雑誌名だ。昔は月刊だったが、いつしか季刊になった。旅行人は、ガイドブックも出していて、すこぶるいい。私は、ジンバブエ行きの時もアフリカ編を持って旅立った。ガイドブックの問題点は、アジア、アフリカの途上国のガイドブックしかないということである。(笑)今夜は、コーヒーを飲みながら、チベット展を思い出し「旅行人」を読むとしよう。ちょっとした至福の時である。ところで、あのタイのお二人は、「ハブアナイスディ」だったのだろうか…。

2010年2月27日土曜日

私の「トリビア」ノーフォーク編


 今日、久しぶりに『トリビアの泉』があると新聞のTV欄にあった。オリンピック、それもフィギアスケートの画面ばかりに私は飽食気味で、すぐTVを消してしまう。そんな中の『トリビアの泉』ある。楽しみだ。
 昔、この『トリビアの泉』に投稿したことがある。結局採用されなかった。授業で話しても、あまりうけない。かなりマニアックな話だからと思うが、ブログで公開しておきたい。
 アメリカは、ヴァージニア州・ノーフォーク。ここは、かのペリーが出港した昔からの海軍基地の町である。ここに、マッカーサーの記念館がある。マッカーサーは陸軍なのに、ノーフォークにあるのが、まず不思議だ。朝鮮戦争で核を使用したいと言い出して解任され、大統領候補として名も挙がったが、マッカーサーは不遇の余生をおくることになる。それにしても故郷のアーカンソーではなく、よりによって海軍基地の町に埋葬されたのである。その記念館に入ったのだが、日本占領時のコーナー、カラー写真のパネル展示に思わず立ち止った。東条英機がGHQにより、戦犯として逮捕されることになり、自宅で自殺未遂をするのだが、その直後の写真がおよそ畳1畳分くらいに拡大されていた。おびただしい血のあともある。よくもまあこんな展示をするもんである。勝者としてのアメリカは、時として残酷である。そのパネルの下に、東条が使用した拳銃が展示してある。東条は、終戦の時自決した阿南陸相のように割腹ではなく、拳銃で心臓を撃ったのである。それも洋室の応接間で、椅子にもたれてである。さらにいえば、びびったのか、急所を外れ、米兵の輸血で一命を取り留めた。三島由紀夫から見れば最悪の『醜悪な姿』である。さて、ここからが、トリビアなのだが、その展示されている拳銃、それは『コルト』なのであった。私は、目を疑った。ニューナンブ(当時の陸軍の正式銃)ではなく、米軍のコルトだったのである。
 この謎は、大森実の「戦後秘史」を読んで解けた。東条は、茨城県に不時着した米兵を捕虜にした際、彼の所持していたコルトを担当者に献上されていたのだ。製造番号から確認されている。とはいえ、私はどうも納得がいかない。単に美学の問題だが、ここは、やはり和室で割腹だと思うのだ。介錯人がいないなら、拳銃でもいいが、やるなら確実に頭を撃つべきだ。胸を打ち、失敗するとは全く美しくない。せめて、せめて米軍のコルトではなく、日本のニューナンブを使うべきだと思う。
 東条は、2・26事件で人材が皆淘汰された皇道派を押しのけ、統制派の中堅どころから、一気に出世してしまった神経質な「メモ魔」と呼ばれる人物である。私は、彼について書かれた本をだいぶ読んだが、全否定するつもりはない。ただ生真面目な人物で、真意もうまく伝えられず誤解をかなり生んでいると思う。とはいえ、何かにつけ下手な人だなあと思うのである。
 ところで、マッカーサー記念館のミュージアム・ショップにも寄ってみた。私は凄い土産モノを見つけた。日本の降伏文書のレプリカである。…1枚1ドルだった。

2010年2月26日金曜日

国際理解教育のActivityの罠


 もう3年ほど前になる。JICAの高校生セミナーで、「100円ショップ」についてのアクティビティが行われた。様々な種類の「箸」を並べて、どれが100円かを当てたり、どこの国の製品化を調べたり、100円ショップから見る南北問題という体験型学習だった。行ったのは某協会。ファシリテーター(進行者)は、おそらく小学校の先生という感じの御婦人だった。このアクティビティの結論は、途上国の低賃金労働が100円ショップの製品を支えているということだった。それはいい。ただ最後に彼女はこう結論づけたのだった。「日本の企業は、今、中国の工場で製品を作っていますが、さらに安い賃金のベトナムに工場を移転します。そうなると中国の労働者は失業します。なんて勝手なことをするのでしょう!みなさん、そう思いませんか?」…私は背骨が曲がりそうになった。なんとアホな結論なのだ!
 
 私は、国際理解教育のアクティビティをある時期、貪欲なまでに身につけようと、あらゆる機会をとらえてセミナーに参加した。とにかく、新鮮だったのだ。生徒の興味を喚起させる絶好のアイテムである。おかげでかなりのゲームや、参加型学習のノウハウを身に付けた。自分で教材づくりもした。しかし、多くのアクティビティは、導入でしかない。結論もない。生徒に疑問や思索の種を植えるのが最重要なのである。
 私は、同時に社会科の教師である。社会科学的な思考を生徒に伝えるのが、重要な使命の一つである。社会科学は、自然科学のように正解は1つではない。様々な視点から「社会」を捉えることの重要性を伝えたい。国際理解教育のアクティビティは、導入には適しているが、「浅い」という欠点がある。生徒の脳内のカテゴリーでしか回答が導き出されない。時には大きな勘違いで終わることもある。国際理解(狭義な意味での途上国理解)で、最も私が恐れるのは、「かわいそう」「私は日本に生まれてよかった」という類の結論である。

 100円ショップのアクティビティに話を戻そう。純粋で経済学に無知な生徒が聞いたら、ファシリテーターの言を信じてしまうだろう。なんという善悪二元論的な結論なのだ!(怒)中国からベトナムへ工場が移転するのは、市場経済から見て妥当な戦略である。中国の労働者は一時失業するかもしれないが、生産に関係するあらゆるスキルが残っている。彼らはそれを将来に生かすだろう。まさに日本も韓国も中国も、そうして経済発展をしてきた。これは社会科学的な「法則」といっていい。開発経済学(ポール・コリアー等)では、『途上国の強みは、大量の低賃金労働者をかかえていることである』と結論づけている。それを否定するとは、無知もはなはだしいのである。私は、この時、アクティビティの限界と、社会科学的な意味で正しい見方(これはかなり難しいが、少なくとも定説化していたり多くの支持を得ている学説)をきっちり学んで教えるということの必要性を感じたのである。国際理解教育においても、アクティビティ(興味)と社会科学(学習=勉めて強いる)の両輪をしっかり連動させる必要性を感じたのである。

 この思いから、それまで断片的に学んできた開発経済学をきっちり高校生に伝えるべく集大成したのが、昨夏作った「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」である。今、それをさらにわかりやすく、新しい統計資料や以後に学んだ題材(アフリカの9億人の市場の可能性や中国の進出、民主主義がアフリカ経済を殺す)を挿入しながら、来年度用にV3.01版として再編中である。
 「私のPRSP」シリーズは、このテキストを元に、ある時はアクティビティで「導入」し興味を喚起し、シミュレーションして討議し、テキストの記述をもとに社会科学的な教授もしてきた成果なのである。とはいえ、国際理解教育では、異端かな?と思う。

2010年2月25日木曜日

今年度版 「私のPRSP」Ⅲ


 さて、「私のPRSP」第3弾である。マリのPRSPは,10枚にもおよぶ大作である。彼女は、マリの数ある問題点から、まず保健事情(メジナ虫病やトラコーマなどの原因を分析している)と栄養失調、乳児死亡率等を挙げている。次に経済についてインフラの整備の遅れを指摘している。ただ、トンブクトゥやジュンネモスクなどの世界遺産の存在をあげ、この観光資源の効果的な利用をマリの希望と見る。短期的には、「人間の安全保障」として、安全な水、マラリア予防のための蚊帳の配布など保健衛生面を強調している。ところで、この項で彼女はおもしろい提案をしている。マリやニジェールなどは、虫害が度々起こる。イナゴの大群が押し寄せ、雑草といわず穀物といわず食べつくしてしまうのだが、穀物を守る網を用意しておくとか、識字率の高いところでは農薬を散布するとか、いろいろな対策を考えた後こう述べている。「いっそのことイナゴを食べてみてはどうだろうか。」私は大笑いしたが、現実的な意見でもある。(私はジンバブエのスーパーで幼虫の乾燥したモノを買って多くの生徒に試食させたが、ついに私は食べていない。)観光客誘致にも、この保健衛生を中心とした「人間の安全保障」はゆずれないと彼女は主張している。中期的には、教育の充実で、「緑の革命」を実施し、ソルガムやミレットを主食とすることからの脱出を図る。インフラの整備も観光地を首都と結ぶように整備する。またおもしろい提案があった。マリの木製の楽器や木彫りは人気があるが、砂漠化に一役かっているのではないかと思う。教育レベルが上がれば砂漠化という環境問題に太刀打ちできるとの提案だ。長期的には、マリの水不足を補うことが最重要としている。ここでも面白い提案があった。実験的に畑に高分子吸収体を埋めてみるのはどうか。(おそらく東京農大のオシメを使った灌漑農法を教えたのでそのことだと思う)もし、近隣諸国でつれたクラゲが使えたら素晴らしい!(これは笑った)それから、英語教育の充実。観光客には何と言っても英語ができるガイドや運転手、ホテルマンが必要だ。彼女の理想のマリは、「人が旅をしたいなと思ったときに、ぱっと名前が出てくるような国」である。なるほど。実は、私の最も行きたい世界遺産は、ずっとジュンネのモスクであった。昨夏ブルキナでその何分の1かの規模のモスクに行った。めっちゃよかったのである。でもやはり憧れのジュンネである。
 さて、ブルキナファソ編である。ブルキナについては、画像を見せたり、ずいぶんと話をしたので、反対にPRSPを書きにくかったと思う。もし、私に書けといわれたら、うーん。このまま平和な国であって欲しいとしか言いようがない。彼女のPRSPもこう始まる。「ブルキナファソは、何もないのでとても平和な国である。ダイヤモンド、金、石油の開発に努力している。しかし私は何もないずっと平和な国でいて欲しいと思います。」(授業で、ポール・コリアーの天然資源の罠や紛争の罠の話を嫌というくらい聞かされているからだと思う。)彼女の提案は、まず砂漠化の阻止である。ブルキナ在住のNGO「緑のサヘル」のM氏に喜んでいただけるかもしれない。また教育の改革で、「子供に考えさせるような質問ができる教師の育成」を挙げている。JICAのS氏やゾンゴ氏にも喜んでもらえるかなと思う。なんか、私の受け売りのPRSPっぽいけれど、一所懸命授業を聞いていてくれていたんだなと思った次第。本当に、ブルキナファソのPRSPは難しいと思う。「人間の安全保障」は当然必要だし、保健や教育の向上が、HDIワースト3から抜け出る道だと思われるが、では、マリの観光や、アンゴラの石油のような「なにか」があるのかと言われると、残念ながらない。ないからこそ平和であるというジレンマが、ブルキナなのである。ブタを食らうムスリムも、キリスト教徒も共同墓地に眠れるいいかげんな国でもある。だからこそ困るし、またいいのである。ただ、ブルキナべの子供たちの潜在能力を生かせる国であって欲しいと祈るばかりである。

2010年2月24日水曜日

今年度版 「私のPRSP」Ⅱ


 昨日の続編である。今日は、まずルワンダ編。ルワンダは、有名なツチとフツの大虐殺事件があったが、比較的ガバナンスが改善されつつある国である。
 生徒の「私のPRSP」は、コーヒーの話から始まっている。ルワンダのHPに行くとコーヒーの宣伝が目立つ。アフリカ大陸初のカップ・オブ・エクセレンスという最も優秀なコーヒー園を選ぶ大会の開催国にも選ばれている。このことからもルワンダのコーヒーの品質が良いことが推測される。短期的には、この利点を生かして、インフラ整備や食糧輸入に回すべきである。また中期的には、「アフリカのスイス」と称されている豊かな自然やマウンテンゴリラの生息地といった観光資源を生かしたい。問題は、今なおくすぶる治安の問題や隣国の政情不安が挙げられる。今の経済成長率の高さを生かして治安対策をさらに高めるべきだ。長期的には、水の問題だ。降水パターンが不安定なルワンダ農業のために「ため池」を作って灌漑施設を充実させるべきだ。さらに安全な飲み水(52%しか安全な水が確保できていない)が、保健医療分野での改善を促す。これら問題をクリアできたら、教育に力を入れ、識字率の向上や自国内での人材育成がはかられ、国民国家をめざすことができるのではないか、との結ばれている。私のコメントとしては、最後の水の話は、「人間の安全保障」に関することなので、なによりも最初に取り組むべきものだと思うが、高校1年生のレポートとしては十分満足できる内容だった。かなり私の「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」を読み込んでくれているなという感想である。
 もうひとつ。アンゴラ編。彼女の「私のPRSP」は、「人間の安全保障」から始まっている。なにより地雷の撤去である。またアンゴラの問題点として彼女が詳しく挙げている感染症の問題。マラリア、コレラ、マールブルグ熱などの風土病への対策。次にダイヤモンド鉱山の採掘と流通経路の透明化。この辺は、授業で「天然資源の罠」でいやというほどアンゴラの例を引いたので確実におさえてくれている。そして、教育、ガバナンスの問題へとレポートは続いている。なかなかいいレポートだった。
 アンゴラは最新の経済成長率が10%を超えている。石油の増産によるものだが、今がチャンスだ。ワールドカップにも出場するし、うまく飛翔して欲しい国だ。ウルルン滞在記で、ドイツの国際平和村シリーズで地雷の被害に会ったアンゴラの子供たちがたくさん出てきた。あれから10年以上たっている。改めて彼らの幸せを祈りたい。この「私のPRSP」シリーズ、さらに…つづく。

2010年2月23日火曜日

今年度版 「私のPRSP」Ⅰ


 今年度も1年生の地理Aの授業で、「私のPRSP」というレポートをかした。学年末考査を控えて、そろそろ集まってきた。PRSPというのは、「貧困削減戦略文書」の意である。途上国が、世銀などから融資をうけるのに、どのような政策をするのか、5年間くらいの資金の使い道を明確にする、まあ途上国のマニフェストといった文書である。我ながら、高校1年生に、アフリカの開発経済学を教えるのも冒険だが、こういうレポートをかすのもえげつない話であると思う。で、いつもそんなには期待しないのだが、毎回本校の生徒はその期待を裏切って、いいレポートを書いてくれる。今年は比較的早くに抽選で「私の国」を決めた。もちろんサブサハラ・アフリカの国々である。何回かに分けてブログで紹介しようと思う。
 まずスワジランド編。生徒の分析によると、最大の問題点として、HIV・エイズと君主制が挙げられている。エイズの感染率は世界第1位。国王ムスワティ3世は、世界でも有名な散財癖の持ち主である。彼(男子生徒だ!)のPRSPは、国王の暗殺から始まっている。スワジランドでは、保健制度の資金不足が深刻化しているのに、国王は少ない国家予算に手をつけ、13名の妻に宮殿を建設させているのが、その理由である。君主制を廃し、民主化することによって、まずエイズ対策と教育に資金を回し、エイズの感染を食い止めるのが緊急かつ最大の課題だと彼は主張する。スワジの失業率は約40%と高い。次に雇用対策である。スワジは肥沃な土地、温暖な気候、鉱産資源にも恵まれている。決して条件は悪くないと主張してしている。国王の暗殺とは、思い切った「私のPRSP」であるが、わからないでもない。私もシンガポールから南アへ向かう空港の搭乗口でスワジの人々に会ったことがある。かなり裕福そうだった。13人の奥方のうちの1人のグループだったのかもしれない。と、同時に彼らの姿に舌打ちした白人がいたことも書きそえておこう。
 もうひとつ。中央アフリカ編。ここもHIV・エイズがひどい。生徒の分析では世界第10位、アフリカ中央部で最高値である。しかも中央アフリカは難民が多く、彼らの中にエイズ患者が多い。治安悪化のため国内避難民が15万人、隣国から逃れてきた難民が3万人もいる。で、彼女はひどく怒っている。「世界エイズ・結核・マラリア基金」が5年間で2500万ドルの資金援助を行ったが、3万人の患者のうち2800人しか治療を施せていない。難民はほったらかしである。経済も「天然資源の罠」と「内陸国の罠」にはまり、人口の9割が1日2ドル以下の生活になっている。彼女のPRSPの最大の眼目は、憲法改正である。彼女のレポートには中央アフリカの2004年に改正された憲法のことが詳細に載っている。平和、世界正義、法の下の平等など美麗美句が並んでいることに彼女の怒りは爆発する。「無駄な性行為をやめる」「レイプはしていけない」など役立つ憲法にせよとの提案だ。これは憲法のなんたるかをよくわかっていないからだろうが、彼女の気持ちはわからないでもない。結局、彼女は泥沼のようなこの国を救うのは、「地球市民」としての我々の想いから生まれる国際協力だと結論付けている。今回のレポートの中で、自分の考えが変わったと書いてくれている。嬉しいじゃありませんか。…つづく。

2010年2月22日月曜日

チーム・コルカタの賢人


土曜日の話である。うちの愚息が博士課程の試験の日であった。ヘブライ語で受験したらしい。私はヘブライ語は読めないが、かのヘドバとダヴィデの名曲「ナオミの夢」のB面・ヘブライ語ヴアージョンが歌える。まあ、そんなことはどうでも良い。とにかく、その夜、京阪交野市駅まで迎えに行った。試験を終えての教授との飲み会だと思っていたら、『チーム・コルカタ』の友人と会っていたのだという。愚息はバックパッカー上級者である。コルカタ(旧カルカッタ)で知り合った友人の集いを、かく呼んでいる。その友人は愛知で先生をしていたのだが、大阪に戻り、中学の社会の先生をしているという。とにかく府教委か市教委だかわからないが、エライさんの前で授業をしたらしい。愚息が言うに、「おとうさん何やったと思う?ケニア人生双六やってんてぇ…。」思わずブレーキを踏みかけた。
ケニア人生双六は、私のオリジナル国際理解教育教材である。今日の画像は、JICAのHPからPDFで入手し、JPEG変換したものである。詳細はhttp://www.jica.go.jp/hiroba/educator/kyozai/pdf/tebiki03-04.pdfの2枚目にある。生まれて間もなくケニアの人々は生存の危機にさらされる。マラリアや肝炎など、人間の安全保障の問題である。小学校にも「制服」(イギリス流なのでケニアには制服がある。セーターやスカートの色を会わせるのだが、これが金がかかる。)のため行けない子や、中途退学する子もいる。セカンダリーを過ぎ、大学入試は、点数で行く学部が決まる。ここまで進めるのは10人に1人くらい。途中で脱落し、農村の輪に入る。あるいは、町に出てインフォーマルセクターの輪に入るのである。たび重なる失業や病気、飢餓…。1回休み、2回休み…。最初はキャーキャー言ってた生徒も、「かなしいゲームですねえ」と言いだすのである。
友人の彼は、私が昨夏ブルキナファソに行っている間に、読売新聞の教育ルネサンスの記事を読んだらしい。「ゲームを通し世界へ視線」という記事である。そこに本校での教育実践を載せてもらったのである。この時、ケニア人生双六を使った。彼は、これは愚息の父親ではないか?というメールを送ってきたと以前聞いた。まさか、それを自分の教育実践に役立てていたとは!正直嬉しい。途上国を旅した教師が、途上国のありのままを生徒に伝える…。私はまだ会ったことのない彼に感謝し、こう言いたい。「次は、インド人生双六を是非自分で作って欲しい。君の知っている国々の人生双六をもっともっと作って欲しい。そう、君は、チーム・コルカタの賢人である。」

2010年2月21日日曜日

悔い改めよ‐Softbank‐


 今日は、朝から高速道路を歩いてきた。我が家は枚方市と交野市の境にある山麓に位置する。ちょうど我が町内を分断するように高速道路が出来るのである。便利になるのはいいが、騒音対策や近くの山は削られるわで、ここ1年半ほど町内は大騒ぎだった。で、完成間近のこの時期に、国交省主催のウォーキングツアーが開かれたのである。枚方・交野の高速道路関係町内総出のウォーキングツアーは、多くの人出で賑わっっていた。まあ、高速道路を歩くという体験自体、滅多にないことなので、私も愛機・銀塩の一眼レフCanonEFをもって参加した次第である。<ブログの写真はデジカメの画像である>1時間半ほど歩いた。例のなんとかいう細菌乱入の腫れも50円玉くらいになっており、抗生物質・万歳(マンセー)である。無事帰宅できた。
 ところで、この高速道路、我が町内、特に道路より山側の地域に大きな打撃を与えているのである。それは、携帯電話がすこぶる繋がらなくなったことである。特に、Softbankはひどい!我が家は、ホワイトプランだかなんだか知らないが、4年前よりVodrfone経由Softbankである。ある日から急に携帯電話のアンテナが1本になり、やがて圏外になった。近所の人に聞くと、Softbankを持っている人はみんなそうらしい。ところが、auは、問題がない。近くに住む町内会長によると、auは、文句を言ったらすぐ、アンテナをすぐそばの助産施設の屋上に設置したらしい。先日妻が、携帯のバッテリーがダメになったので、Sofybankの店に行った時、アンテナの話をしたところ、「本社に言ってください。店から言ってもだめなんです。」との回答だったという。なんのための直営店なのか。WEBで文句を伝えようとしたら、やたらヤヤコシイく、バカバカしくなってやめた。で、未だに、朝,高速をくぐりぬけてちょっとしたら、胸ポケットでメールの着信を伝えるブルブルが起こる。昨日の夜に来たメールである。国交省は、携帯電話の会社に言ってくれと言う。auはすぐ対応した。悔い改めよ!Softbank! 

2010年2月20日土曜日

Curling fromYAHOO・UK


 TVでは、バンクーバー・オリンピックが主役である。久しぶりの休日、鍼灸を終えて家に帰ってきたら、カーリングの生中継をやっていた。私は、冬季オリンピックにもあまり興味がない。スキーは、前任校、前々任校で4回修学旅行の付き添いでいっただけ。ボーゲンしかできない。スポーツマンではないし、寒いのは嫌いだし、スキーは人間の身体にとって不自然な動きを強要するスポーツという変な認識がある。だから、冬季オリンピックに興味がわかないのかもしれない。ただ、カーリングはいい。なんだか、私にもできそうな気がするから不思議だ。(本当はかなり難しいらしい。)滑走やスーパー大回転をすべる「超人」がやっているのではなく、フツーの友達がやっているような感覚がいい。しかも、氷上のチェスという頭脳プレーが絶対条件なのもいい。
 今日のイギリス戦は、すごい読みとスーパーショットの連続だった。第8エンドのイギリスのミュアヘッド選手の最後のショットは凄かった。第9エンドの最後の日本のショットも凄かった。感動した。あれ?握手してる、おかしいなと思ったら、ギブアップだったのだ。イギリスのミュアヘッド嬢は、なかなかのベッピンさんである。<今日の画像は、YAHOO・UKから、わざわざ引っ張ってきた。左がミュアヘッド嬢。>すばらしいショットを連発していたのに、ちょっとかわいそうだった。私はもちろんチーム青森を応援しているが、「ニッポン!ニッポン!」と連呼する気はない。国別のメダル数も、もういいじゃないかと思っている。みんな頑張ってるんだし…。
 今回もアフリカから、何カ国か出場していたが、私の中では夏季オリンピックのように応援する気がおこらない。選手は、何らかのレントを得ている一族出身のエリートにしか見えないからだ。冬のスポーツはあまりに金がかかる。路地裏から這い上がってきたアフリカのサッカー選手や陸上選手と同列に応援できないという気持ちが私の中にあるのである。
 と好きなことをつぶやくのだが、カーリングの中継だけは、また見ようと思う。チーム青森もイギリスチームもベストのプレイができますように!

2010年2月19日金曜日

軍艦「甲鉄」始末


 『軍艦「甲鉄」始末(中村彰彦/新人物文庫)』を帰宅時の電車の中で読み終えた。幕末維新史の本としては珍しい、海軍史という視点から読み解く本である。(文庫本はこの1月が新刊)この「甲鉄」という軍艦は、幕末最強の鉄張りの装甲船である。文庫の表紙の「甲鉄」が、なかなか奇妙なデザインをしているので手にした次第。艦首が、下に突き出ているのである。衝角(ラム)というらしい。「衝角攻撃(ラミング)」と呼ばれる船首からの追突によって、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先を引き抜いた時に出来る大破口からの浸水により短時間で相手を撃沈できる戦法である。大砲がまだまだ発達していなかった時代の産物である。とはいえ、ちょっと不気味である。戊辰戦争の宮古湾海戦で、土方歳三らがぶんどろうとしたのが、この「甲鉄」である。たしか新撰組モノの本で読んだ記憶があった。
 内容は、この「甲鉄」の購入にまつわる話、曳航される話、戊申戦争の列強中立の話、函館戦争の話、それ以後の末路と、「甲鉄」をメインにおきながら、随所におもしろい逸話が書かれている。天才肌の数学者の小野友五郎という咸臨丸で航海長の役をやっていた人物など、幕府側にもかなりの「人物」がいたことを知った。小栗上野介と同様、才気あふれる人物である。とともに、日本という国が凄いスピードで、欧米の蒸気船を動かすスキルを習得している事実に驚く。近代を開くのは、やっぱり教育力なのだ。
 いよいよ1・2年の授業も、月曜日で終わる。新3年・2年とも結局地理Bは開講されない予定だ。社会科の会議の流れから、どうやら4月から日本史Bをやる羽目になりそうなのである。「受験に使わない生徒だけの日本史Bなら担当できるかもしれない」という私のツブヤキが、本当になりそうなのである。(社会科教師30年、日本史を持ったのはたった1回だけである。日本史嫌いの社会科教師はめずらしい。)ならば居直って、幕末から現代までをやろうか。明治維新を、様々な視点から説いてみようかというアイデアを持っている。徳川斉昭・一橋慶喜という水戸学から見た維新。小栗ら幕府経済官僚や外務官僚から見た維新。会津藩に養子に入った松平容保から見た維新。陽明学の徒・河井継之助から見た維新。思いがけず藩主になった山内容堂から見た維新。もちろん竜馬や勝さん、西郷や大久保、桂小五郎、吉田松陰、大村益次郎…わりとメジャーな様々な視点から見た維新。今回読んだ海軍という視点も面白いと思っている。そしてめざすのは、近代国家論である。近代国家論なしで、国際関係学や開発経済学はないと私は考えている。とにかく挑戦してみようと思う。

2010年2月18日木曜日

仮想世界ゲームⅧ


 仮想世界ゲームの実施報告書の校正も済み、今日から国際理解教育学会の5月7日締め切りという抄録用原稿を書き始めた。(とかく新学期は多忙である。落ち着いて書くのは今だ!)…というわけで、今日は、その総括編である。まず反省点。大学生が集中講義で実施するところを授業展開で行ったことについて、進行上かなり無理があったこと。特に地理Bの諸君の協力なしでは絶対不可能であったこと。(まあこれは仕方がない。想定内である。)さらに授業ゆえに、親しい友人同士のプレーヤーで行うことになり、感情的要素を増幅させることが多かったこと。生徒諸君の報告書や学年末考査の考察を読むと、痛いほどわかった。準備段階で、地域ごとのミーティングをしたのも反省点。このゲームは、やはり個人として自立して、自らの行動を決めるようにすべきであった。あまりに地域ごとの帰属意識や共同行動が多かった。(それはそれでE地域のように、うまくいったコミューンも生まれたのであるが…。)特に序盤は他の友人への依存性が高かったように思う。(S地域の神の見える手問題も、「依存」が大きな原因だと分析した。)
 しかし、私自身は今回の実践に大いに満足している。生徒諸君は懸命に知恵を働かせ、様々な疑似体験をして、学ぶところが多かったと思うからである。ESDにおける(途上国の問題を学ぶという狭義としての)国際理解教育のアクティビティとしては、南北貿易ゲームをはるかに凌駕するものだと思っている。
 理想としては、4人ずつ10校の生徒が集まり、集中講義として行うのがいい。さあ、次の段階へ始動である。同じようにESDを重要視している先生方のネットワークを使って参加校を募集し、是非とも本校のゼミ室を使って一度やってみたいものだ。…やっぱり『猶余忠義塡骨髄』(猶お余す忠義の骨髄に塡つるを)に帰着してしまうのである。

2010年2月17日水曜日

追想ピーター・オルワ氏のことⅡ


 昨日に続き、ピーター氏のことを書こうと思います。ピーター氏には7つの顔がありました。ケニアの旅行会社社長・現地ガイド・コーディネーター、ボクシングの銅メダリスト・元日本のプロボクサー、歌手、ダンサー、日本の動物専門学校の講師、そして作家です。
 彼は2冊の日本語の本を残してくれました。その1冊が、「楽園(ペポニ)」です。ピーター氏が若かりし頃、アフリカンダンサーとして温泉地のホテルで働いていたころの話はいい異文化理解の教材になります。ピーター氏はルオ人で、本当はビクトリア湖畔の出身ですが、ナイロビ大学に進学した関係でナイロビ住まいが長かったらしいです。ナイロビは赤道に極めて近く、1年中朝6:00と夕6:00に日の出・日の入りがあります。雨季と乾季はありますが、気温差はほとんどといっていいほどありません。すなわち四季がないといってもいいのです。彼が、日本に来て、初めて秋を迎えた時、落葉樹が葉を落とすのを見てびっくりたといいます。ホテルの人に「あの木、病気だよ!」、葉が全部落ちて「あの木死んじゃうよ!」と訴えたといいます。また東京で銭湯に入り、最初はびっくりされたけれど、結局裸のつきあいができたとか、おもしろい話が満載です。私のすべらない話シリーズ外伝ネタといったところです。
 ピーター氏は、ケニアに、アフリカに誇りを持っていました。良き伝統を守らねばならないと考えていました。ある市の水道公社を視察した時、「盗水」という問題があることを知りました。アフリカでは、人口密度も小さく、移動も多いので、伝統的に土地や水などはみんなのモノという感覚があります。また情の経済というか、貧しい者は、富める者からその分け前を得ることが普通のことです。しかし、近代国家として発展するためには、個人として立脚する必要があります。資本主義はこの個人に立脚していますから。で、私は、水道公社の担当者に、「小学校などで公民という概念を教えないのですか?(公共)サービスは税や支払いによってなりたつという基本概念を、まず子供に教え、彼らが親になったころ、社会は変わると思うのですが…。日本では、人権についてまず子供が学び、その親の代になって人間は平等なんだという共通意識が確立しましたよ。」と質問しました。担当者のトンチンカンな答えが返ってきました。彼には理解不可能だったのだろうと思います。で、その後、ピーター氏と警備のアダム氏が私の元にやってきました。アダム氏はアルメニア系白人、射撃のメダリストで元警官のJICA専属ガードマン。アダム氏は英語で「ケニアでは小学校でスワヒリを教える。そのおかげでケニアは内戦を回避できた。あなたの言いたいことはわかるが、時期が早い。」と言い、ピーター氏が通訳してくれました。さらにピーター氏の意見。「そうやね。もしケニアで、子供に先に教えたら、親はその生意気言う子供を追い出すね。父親の権威は絶対やからね。」3人で真剣に語り合ったのでした。
 ピーター氏は、「アフリカ人が日本に学ぶこといっぱいありますね。でも日本人もアフリカに学ぶことがたくさんありますよ。」と言っていました。あれからだいぶ経ちますが、本当にその通りだと思います。

2010年2月16日火曜日

追想ピーター・オルワ氏のことⅠ


 昨日、”ナイロビの水虫”を書いていて、ピーター・オルワ氏のことが出てきました。あれから少しピーター氏をWEB上で追ってみました。興味のある方は是非検索してみてください。ピーター氏は、サントリーの昔懐かしいCMを歌っています。視聴して涙が出そうになりました。「あれはスワヒリ語で歌ったんやね。」と英語、日本語、スワヒリ語、キクユ語、ルオ語、それに大阪弁もしゃべれるピーター氏が教えてくれたのでありました。ケニアで彼から聞いた様々な話や歌は、私たちケニアJICA教員派遣研修旅行のメンバーの宝物になっています。我々の同窓会は、彼が他界した後ピーター会と命名されています。誰からも愛されたピーター氏なのです。
 彼は、着いたその日、我々にケニアの歌を教えてくれました。JAMBO BWANAという歌です。Jambo! Jambo bwana Habari gani ? Nzuri Sana! Wageni mwakaribishwa Kenya yetu hakuna matata ! Kenya inchi nzuri Hakuna matata
 彼は、適当にアドリブで日本語を入れながら、コミカルに歌います。演歌も得意でした。素晴らしいエンターテーナーであったのです。ケニアから帰国後まる1年たって、ピーター氏が、バンドのメンバーとともに、ピースボートの仕事で大阪に来た時、本校にも来てもらいました。全校生徒の前でアフリカンダンスを披露し、最後はこのJAMBO BWANAを歌ってくれました。放課後、任意の質問会をもちました。会場の会議室が満杯になるほど生徒が集まりました。ピースボートのマネージャー氏がシャレで、「質問は英語でもいいですよ。」と言ったら、本当に生徒が英語で質問をしました。ピーター氏は、流暢な英語で答えたあと、大阪弁に訳し直して生徒の心を見事に溶かしてしまいました。その時歌ってくれたのが、MALAIKA です。スワヒリ語で「天使」の意味。アフリカ特有の結婚システムに悩む男性の思いを歌ったものです。本当に素晴らしかった。思いだすと涙が出ます。
 その夜、在阪メンバーを中心にケニアの仲間が集まり、ピーター氏とバンドの仲間と梅田のビアホールへ。シャンべ(アフリカンドラム)を持ち込んだピーターバンドは飲めや歌えの大騒ぎ。近くで飲んでたグループも合流して凄いことになりました。しかし、サントリーのCMソングにはシーンとなりました。何故なら彼らはサッポロビールの社員さんたちだったのです…。

 追記:ついに我ブログに読者が増えました。勝河哲平さん、読者登録ありがとうございます。これからも抗生物質を毎日飲みながら頑張って書きたいと思います。よろしければコメントも気軽に書き込んでください。

2010年2月15日月曜日

ナイロビの水虫


 土曜日くらいから、百円玉くらいの湿疹が左足のひざ上にできて、少し痛かった。それが、五百円玉になり激痛を伴ったのが日曜日。今日は千円札くらいに拡がった。いつも鍼灸の治療していただいているH先生によると、「蜂窩織炎(ほうかしきえん)の疑いがありますねえ。」とのこと。細菌に感染しておこる皮膚病だそうだ。今日は歩くのも辛かった。で、病院にいった。H先生の見立ては、正解だった。抗生物質をもらって帰宅した。夕食後1錠飲んでみた。少しばかり痛みが引いたような気がする。
 抗生物質といえば、ナイロビを思い出す。JICAの教員派遣視察旅行でのことである。旅行前、妻に長いことさびしい思いをさせるので、奈良の温泉までドライブした。温泉に足のマッサージ機があって、それを使ったら水虫になってしまったのだった。(人生初体験だった。)東京での研修の際、この水虫が悪化した。薬を買って塗ってもカユイ。私は、妻に「キレイキレイ」という殺菌用のティシュを持たされたのを思い出した。便器とかに使うものとは知らず、それで殺菌消毒しようと思いたった。(無知は罪である)KLMとケニア航空の長時間フライトと、なれない機内での靴履き(私はいつもスリッパで飛行機に乗る。しかしJICA主催なので遠慮した。)によって、水虫は、恐ろしく爛れたのだった。
 ナイロビのホテルに着いた時には、靴下は真っ赤になってしまった。2・3日は我慢していたのだが、結局足を引きずっているのを、フラミンゴで有名なナクル国立公園のロッジでスタッフに咎められ、ロッジの看護婦に見てもらった。彼女は、昔なつかしいヨーチンを塗ってくれた。死ぬほど痛かったが、「I am a SAMURAI!」と言って耐えてたら、今は亡きピーター・オルワ氏(現地コーディネーター)が大笑いしたのを思い出す。
 ナイロビに帰って、国連機関の視察を私だけ見送り、JICAケニアの看護師さんに連れられナイロビでは超高級の病院に行った。イタリア人医師に「どうしたのかね?」と聞かれたので、「ウォーター・インセクトや。」と答えた。看護師さんはあわてて、「アスリート・フットです。」と答えた。結局、抗生物質をインド人の経営する薬局で買い、それを飲んだら、1日でスッコンと治ったのであった。
 そう、抗生物質は「超」きくのである。きっと、今回のややこしい名前の感染症も一発だと思う。…実は、このケニア・ナイロビの水虫の話、私のすべらない話シリーズのひとつである。

2010年2月14日日曜日

仮想世界ゲームⅦ


 久しぶりに仮想世界ゲームのことを書こうと思う。実践報告書を今も校正中であるが、7月3・4日の聖心女子大学<画像は聖心女子大学>で開催される日本国際理解教育学会で研究発表をすることにしたからである。(先日妻が、もし出張扱いしてもらえなくても費用はOKと言ってくれたのである。感謝である。学会で発表したからといって、私自身には何の利益も生まない。『猶余忠義塡骨髄』としか言いようがないのだ。)今のところの仮題は、「高校生における仮想世界ゲーム実施報告 ―南北貿易ゲームを超えるアクティビティとして―」という感じである。明日にでも申し込みをしようと思っている。実施報告書をブログでは、とても全部紹介できないが以下の項目でまとめあげた。

 1.仮想世界ゲームの概要
 2.仮想世界ゲーム・マニュアル(高校生版)
 3.本校での仮想世界ゲーム実施についての変更点
  (1)大学の集中講義を高校の通常授業で実施したこと
  (2)ルール等の変更
 4.実施報告
  (1)基本資料1:各セクション別所持現金・飢餓者数・失業者数党の推移
  (2)基本資料2:第3・6セッション終了時のアンケート結果
  (3)第3セッション時における各地域政党の提出法案
  (4)第4セッション時におけるN・E合同提出の法案
  (5)各セッションの詳細/生徒の個人報告書の記載から
  (6)学年末考査における生徒の「仮想世界ゲーム」考察
  (7)進行側からみた準備状況の実施報告
  (8)総括的実施報告
 5.まとめ ―高校生における「仮想世界ゲーム」実施の問題点と将来―
 6.参考文献一覧

 4.の実施報告(5)では、私の各セッションの概説のあと、各地域2~4人ずつ抽出してある。もちろんリサーチ係の報告も入れてある。(6)は結局16人の考察を選んだ。(7)には、様々な進行用の書類も挿入した。(8)や5.のまとめについては、後にブログ上で概説を報告したいと考えている。
 

2010年2月12日金曜日

非常勤講師の報酬に異議あり


 今日昼前、昨年春に国語科を卒業し、今は某国公立大学の夜間部で文学を専攻するOBがやってきた。彼は、昨年私のところに来て、「バーり語を大学でやりたいのですが…。」と言ってきた。そんなことを言われたのは教師歴30年で初めてである。「アビダルマでもやるんかい?」と答えた。要するに東南アジア等で盛んな上座部仏教の言語である。以来、インターネットで全国の大学のシラバスを研究した。バーり語が学べるのは、東大・京大を除くと仏教系の大学のいくつかだけであった。山口県立大学におそらく師事可能だろうという教授を発見し、二人で盛り上がったことを覚えている。しかし経済的な事情を優先し、今の大学を選んだのである。1回生のうちは、基礎的なものばかりだったが、いよいよ専攻を決めなければならないのだという。近くの喫茶店で、ランチを食べながら話を聞いた。卒論の指導をお願いしたい教授の話。院の話、学会の話。そして最も現実的な教職をめざす話…。
 で、今日の本題なのである。彼は、高校の社会科の教師をめざす道を模索していた。嬉しいことだ。しかし、私は彼にそれを勧めない。何故なら…。まず社会科教師の採用試験の倍率は途方もなく高倍率であること。(ちなみに私も100倍の難関を新卒で突破した。超ラッキーボーイである。)多くの先生方は、非常勤講師などをしながら、教師としてのスキルを身につけていく。おそらく現役の高校教師で非常勤講師の経験がない私などはかなりの少数派であろう。彼も、超ラッキーボーイでなければ、そういう道を歩むことになる。
 しかし、我が大阪府の某知事は、就任後非常勤講師の報酬を時間制にした。これまで10時間持っていたら、毎月10時間分の報酬だったのを、実際の授業時間数分にしたのだ。多くの市民は、合理的だ。教師はたるんでいる、あたりまえだろ、と称賛した。私たち現場教師から見たら、教育を守るとかきれい事を言うだけの某知事こそ、何もわかっていない。愚策中の愚策である。そんなことをしたら、非常勤講師は、生活できなくなり、塾や他の職種に流れてしまう。いい非常勤講師は、現場がほっておかない。校長だってそう考えている。某知事が考える財政からみた合理性は、結局教育現場の人材を空洞化するものなのだ。経済力のない人間は、教員への道をやがてあきらめざるを得なくなる。民主党の教員養成6年制も同じ観点から、私は愚策だと思っている。修士まで取れる経済力、あるいは非常勤でも親が援助してくれる家庭の出でなければ教師になれない。経済力があることが悪いとは言わないが、母子家庭や様々な問題を抱える児童生徒の痛みを本当にわかる教師こそが、今求められているのではないか?まさに逆行である。
 私もあと10年ほどで教職を引く時が来る。教師志望の教え子たちにも、教師の喜びを是非味わってもらいたい。だが、今の政治の方向は、全くの逆方向を向いていると思う。底辺の底上げこそが、いい教師を増やす。教育は人で決まる。…マスコミにええかっこしてる暇があったら、現場の声をちゃんと聞いてほしいもんだ。

2010年2月11日木曜日

建国記念日に国境なき医師団


 今日は、建国記念の日である。私は思想的にど真ん中だと思っているので、建国記念の日についての是非を説くつもりはない。愛国心というものは、自然な感情である。海外で、どこから来た?と問われて、「私はコスモポリテースである。」と、さすがに答えたことはない。だが、いたずらにナショナリズムを鼓舞したり、反対に日本を卑下するのもいかがと思う。私はヒロシマも教えるし、731部隊の事も教える。東京裁判では、A級戦犯に対するパル判事の意見に感銘を受ける。とはいえ、生徒に意見を押しつける気はない。それこそが、社会科教師の矜持というものだ。
 さて、そんな建国記念の日。国境なき医師団について書きたいと思う。私は、いつからだったか忘れたが、フィールド・パートナーである。月1500円が銀行から自動的に国境なき医師団に行く仕組みだ。最近来た資料に、昨年度の私の19500円で、「はしかの予防接種を1000人に。またはそのまま食べられる栄養治療食を517食。またはマラリア感染の検査を375人に。または避難民のシェルター資材を7家族に。」という感じで使わせてもらいましたとの報告があった。ブルキナファソにも行ってくれているのが嬉しい。
 私は日本人であるから、国境なき医師団のパートナーになっているわけではない。反対に、日本の国益も含め、全ての先進国の国益を考えず動く団体だから支援しているのである。彼らは、紛争地でも平気で入るが、ヤバくなったらすぐ逃げる。そのかわり、しがらみなくすぐ駆けつける。この前のハイチだってそうだ。私は「国家」という枠組みを超えた「国境なき」医師団を支援しているのである。

 ところで、ポール・コリアーの「民主主義はアフリカ経済を殺す」の中には、近代国家論が安全保障の枠組みとともに見事に説かれていた。彼は言う。主権の共有は可能だと。その例としてあげられたのは、日本とアメリカだった。私は電車の中で笑いをこらえるのに苦労した。「国家」とは何か?今日は、建国記念の日だ。やはり考えずにはおれない。

2010年2月10日水曜日

実施報告書と血糖値の関係性


今日の夕方、久々に血糖値がアップした。(と、思う。)今日は授業は4限目の1年生の地理Aだけで、後は、ひたすらパソコンに向かっていた。朝の10時頃、仮想世界ゲームの実施報告書をついに脱稿した。とはいえ、校正しなければならない。マニュアルを含め55ページである。自分の論文ながら…長い。朱を入れていたら、次の仕事が入ってきたりで、ひどく疲れたのであった。きっと土日連続してワン・フェスに行ったし、かなり疲れていたのであろう。(と、思う)
 ところで、昨日はブログをお休みした。我がコウムブンショウの新年会であったのだった。3000円飲み放題・食い放題の店である。私は洋酒派なので、ウィスキーのシングルを頼んだのだが、あの濃さは絶対ダブルだ。(と思う。)そういえば、たこやきのカツオブシ抜きとチーズたっぷりピザを頼んだような記憶がある。サラダもたくさん食べたが、ドレッシングの量は半端ではなかった。おまけに、シシャモの天ぷらやスルメの天ぷらもたくさん食べた。ひどく酔っ払った上に、K老師が、トランプの手品を披露してくださった。面白い。吸い込まれるように、動体視力を使いまくった。最後は地下一階の店から階段を昇ることさえ、不如意であった。よく自宅にたどり着いたもんだ。
 今日の朝は、いつも通り家を出たが、財布を忘れた。バイクに乗ったサンダーバード妻号が「アホ!」という言葉を残して去って行った。いつになく空腹である。久しぶりに京橋のマックで、朝のバリューセットを頼んだ。ソーセージ・エッグマフィン。ちょっと幸せである。昼食は、ちらし寿司とドンべえの肉うどんだった。もちろん、朝も昼も薬を食前にちゃんと飲んだ。…飲んだのである。3時過ぎ、2日ぶりにMAX・コーヒーを何度にも分けてチビチビ飲んだ。PM6:00すぎ。見回りの当番を終えて、職員室に帰ると、妙にしんどい。ふらふらする。帰りは悲惨だった。
 …これは、やっぱり仕事が忙しかったからだ。(と思う。)

2010年2月8日月曜日

佐藤優の神学論を読む


 一週間ほど前のこと。愚息が「この本読んだから…」と佐藤優の新書を置いて行った。愚息は、ブティストでありながら同志社大学神学部の院生である。専門はアラビア語とイスラームだったが、最近はヘブライ語とユダヤ教に移りつつあるらしい。すなわち、神学部とはいっても一神教センターの学生なのである。とはいえ、その間にあるキリスト教的素養は無視できない。佐藤優は、先輩にもあたるわけで一応読んでいるようだ。この本で4冊目のオサガリである。(それまでの3冊とは、私のマルクス、甦る怪物、神学部入門である)佐藤優の著作は「国家の罠」以来たくさん読んでいるが、この新書『はじめての宗教論・右巻』も見事な論理立てで面白かった。
 この本の結論は241Pにある。「目に見える世界の比重が異常なほど高まった近代以降では、実体的でないものや目にみえないもの、あるいは数値化不能でカネへの換算のできないものが理解しにくくなってしまい、愛情とか慈しみ、思いやりなど目に見えないものがわからなくなっってしまう。キリスト教の考え方では、身に見えないものが受肉されていないと意味がないことになる。友情ならば、具体的な友人との間の友情、愛情ならば、自分のパートナーへの愛情、子供への愛情という具体的な形をとる。具体性のない友情や愛情は全く意味はない。だからこそ類比という考えが重要になる。類比とは人間と周囲の関係性の問題であり、世俗化した時代に人間に要請される倫理の問題である。」こう書くと全然面白くないのだが、この結論を導くために様々な神学の基礎概念や聖書の話が出てくる。ポール・コリアーと同様、あの話がこの結論のこの部分を肉付けしているのだと最終的にわかる。佐藤優は、やはり一流なのだ。旨い。読ませる。こんな文章を書けるようになりたいと思うのである。
 神学は、高校の倫理ではほとんど出てこない。専門すぎるのである。しかし、佐藤優の影響でスラブ圏も含めた欧米の異文化理解のためには、大いに勉強しなければならないと最近考えている。

 追記:ケニア・タンザニア方面に長期間行っていた阪大スワヒリ語学科のOGが「無事帰国しました。」とメールをくれた。いつになるかはわからないけど、「教え子はアフリカをめざすⅡ」乞うご期待!

2010年2月7日日曜日

今年もワンフェスに行くⅡ


 ワンフェス2日目。今日も現役やOGと会った。昨日会ったOGと同じ大学に通うOGは、ドイツに行ってきたそうだ。今度は、モントリオールに行くという。英語とフランス語両方やってきますとのこと。うーん、なかなか言えんセリフである。
 今日のメインは、エチオピアとタンザニアのワークショップ。同僚のU先生とともに参加した。良く見たらファシリテーターは、某協会のSさんであった。おそらく開発教育(国際理解教育を外務省はこう呼ぶ)では大阪No1のファシリテーターである。もともと府立の某進学高校の家庭科の先生だが、今は某私立大学の院に席をおいておられる。初めての教材だったらしく、時間が足りなかったが、さすがに面白かった。エチオピアのフォトランゲージで、乾燥地に立つ鉄塔は何かという問いかけがあった。私がニヤニヤ笑っていたのだろう。名前を呼ばれて当てられた。「携帯電話用のアンテナでしょう。」と正解。エチオピアの携帯電話市場は100%中国が抑えてしまったのは有名である。
 今年も散財した。昨日は国際理解教育の本を2300円で買っただけだが、今日は、スーダンの支援NGOブースで、なぜかティンガティンガを売っていた。教材にと購入(2000円)。小さな絵でもティンガティンガはそもそも高い。またカンボジアの地雷撤去のNGOのブースで、LLのTシャツを買った。(800円+募金100円) ユニセフのノートセット(600円)も買った。ハイチの地震への支援募金をやっていた。ユニセフなら、失敗国家の政府には渡るまい。200円ほど募金した。チャイを飲んだり、クスクスを食べたり…。私は毎年、ワンフェスに向けていくらかこづかいを用意しておく。もちろん現役やOGにちょこっと奢ったりもするのにも必要だ。長年の知恵でもある。
 今日も、トンガ、ニカラグアのJICA研修員さんと少し話した。私の「地球市民の記憶」はさらに82カ国になった。メデタシ。メデタシ。

2010年2月6日土曜日

今年もワンフェスに行くⅠ


 今年もワンワールドフェスティバル(ワンフェス)に行ってきた。大阪で唯一といっていい国際協力の機関やNGO・NPOのお祭りである。私は毎年見に行っている。今年は、私のESD(持続可能な開発のための教育)の一番弟子と言っていい某有名私立女子大の教え子が、コア・ボランティアとして運営に携わってくれている。彼女は昨年1日中模擬店の皿洗いを(2日間)やっていた。今日もメールで連絡が取れ、ちょっとだけ顔を見せてくれた。頑張っている姿に、ありがたく思う。彼女が教師になった時に、きっとこの経験が生きてくるはずだ。彼女が2年生の時初めて、ワンフェスの存在を教えた。受験の時期を除いて、以来ずっと関わってくれている。また彼女と同期の某国公立大学で国際関係を学ぶ教え子もサークルの友人と来てくれていた。チャイをみんなで飲みながら、いろいろ話した。サークルで、タイ南部のムスリムの多い町に行ったのだという。今度はニュージーランドに短期留学するらしい。楽しいひと時だった。
 さて、今日のメインは、現役の生徒が関わっている高校生国際ボランティア団体のWITHのミーティングである。大阪国際交流センター会議室3は、高校生の熱気が充満していた。この現役生は、例の仮想世界ゲームのW地域の政党主である。ちなみに大学では比較宗教学をやることが決まっている。日本は平和かというテーマで話し合いは始まった。「平和」という命題を最初に定義していなかったので、最初はちょっと迷走した。でもそれも高校生らしくていい。彼女は今日は記録係で発言しなかったが、後輩たちに発言の場を与えたのだろう。なかなかおもしろかった。高校生らしく、迷走しながら国際協力について、考え、動き、悩み、読みしながら、「なにか」をつかんで欲しいものだ。本校の2年生も2人、このWITHに所属していることも知った。終了後、以前から彼女に「いっぺん開発経済学をみんなに教えてくださいよ。」と言われていたのを思い出した。OKという返事をしておいた。
 今回もJICAの研修員さんがたくさん来られていた。名札のジンバブエの国旗を見て、思わず声をかけてしまった。もうそれからはイケイケである。エチオピア、バングラディシュ、ブータン…。
 エチオピアの方には、JICAエチオピアのスタッフに私の知り合いがいることを話した。共にケニアを旅したS嬢と高校生セミナーで毎年お世話になったF氏である。ブータンの方とは、国王の国民総幸福というINDEXの話をした。記憶があいまいだが、この3カ国の方と話すのは初めてだったと思う。私の「地球市民の記憶」は、これで80カ国になった。

2010年2月5日金曜日

私のすべらない話Ⅱ


 今日は昼から、社会科研究会の研修があり、日本銀行の大阪支店を初めて見学した。旧館は前半分をうまく保存し明治の風情を残しており、新館は明治の風情をそれとなく生かした現代的なビルとなっていた。旧館のVIPルームに入ったり、新館の窓口業務を見学したり、展示室には、札束のレプリカとそれを運ぶ機材があったりして、なかなか面白かった。
 ところで、今日の本題はすべらない話Ⅱである。またまたNYC編である。実は、私は日銀に行ったのは初めてだが、10年以上前、アメリカの日銀と言ってもいいニューヨークのFRB(連邦準備銀行)に行ったことがある。ここには予約がないと行けない。地球の歩き方を見て、英文の申し込みをした。(もちろん前任校の英語の先生に頼んだ。)滞在先のB&Bに、そのプラチナ・チケットがと着いていたことを知って小躍りした。何故なら、FRBには、世界中の政府の金塊が保管してあるのだ。
 当日のツアーの仲間は黒人の学生と黒人のカップルだった。エレベータで地下に降りる。長い。ドアが開くと、金塊を運んでる白人のお兄さんがいた。ある黒人学生が「触ってもいいかい?」と聞くと、「ノープロブレム」という返事。「ミートゥー?」と言ったら頷いたので、私もすこし触らせてもらった。さらに違う学生が、金塊を持ち上げようとした。その瞬間、お兄さんは銃を彼に向けたのだった。「触ってもいいとは言ったが、持ち上げていいとは言わなかったぜ…ベイビー。」あわてて金塊をもどし、彼はホールドアップ状態になった。アメリカ人はこういうギャグが好きらしい。金塊のある部屋は、牢屋のようになっていて、そこに金塊が禁固されていた。政府間で金の取引があった場合、この牢屋内で移動するのだった。昔ソ連が、アメリカから穀物を輸入し、金で支払ったという記事を読んだことがある。私はてっきり、ソ連からアエロフロートで空輸されたのだと思っていた。
 さて、金塊の保管室から出て、質問会。様々な質問が出た。ネイティブスピーカーで同士で盛り上がっていた。愛想笑いするのが、辛い…。勇気を出して、「I have one question!」「私は日本からきた社会科教師である。我が日本の金塊は先ほどの部屋のどこにあったのか教えてほしい。」と質問した。すると、ガイドの太ったおばさんは、「私も知らないわ。トップ・シークレットなの。」と言ったのだった。そりゃそうだ…と思ったら、おばさんは、ボタンを押した。機械音がして、金塊の保管室と我々のいる場所を結ぶ通路が、突然廻りだし壁に変わった。ガシャーン!金塊の保管室との通路は鉛製の核シェルターだったのだ。私は、黒人学生たちと共に声をあげた。「すげぇ!」…これまた、文章で読むとわかりにくいが、毎年大うけする私のスベラナイ話である。日本とアメリカ、ちょいとばかりスケールが違うのである。

2010年2月4日木曜日

JICAスプリング・セミナー始動


 昨日JICA大阪から、国際協力・高校生スプリングセミナーの書類が届いた。この高校生のセミナーは2泊3日で、だいたい10校程度の高校が集まり、総勢40名の生徒が、JICA大阪に来ている研修員さんとミーティんグしたり、様々な国際理解教育のワークショップを行うイベントである。<写真は07年度の研修員さんとの交流後のスナップ。>
 昔は春・夏の年2回開催だったが、ここ3年くらいは春のみになっている。クラブ等の関係でなかなか集まらないのがその理由らしい。本校は、私が赴任した年の夏のセミナーからほぼ毎回参加している常連校である。何人かの先生方にも参加していただいたこともある。今年は、その参加していただいた経験のある国語科2年生の担任のT先生に、参加者の推薦をいただいた。昔は全校に一般公募したこともある。むちゃくちゃ集まってエライことになったこともあるし、春休みの英語科のセミナー(英語科2年生が参加し、受験英語を徹底的にやらされる特訓のようなセミナーである。)とぶつかって遅れて参加したこともある。だいたい国語科2名英語科2名で連れていくのが理想なのだが、なかなかうまくいかない。今年は思いきって国語科4名で行くことにした。
 昔のセミナーは、最初に学校紹介があり、英語で研修員さんや他校の生徒をビビらさねばならないという使命がかせられていた。英語の先生方にスピーチの練習をしていただいていた。やがて、それに時間を費やすことが、研修員さんとの交流の時間不足をまねき、学校間の格差を生むという批判もあったのだろう。今ではそういう意地を張る機会は消えた。
 と同時に、それまでは、2日目の午後からディベートの準備をし、最終日の午前にディベート大会という超シビアな、ほとんど徹夜で準備というスケジュールだったのだが、パネルディベートに変わり、やがて調べ学習、それを発表するという形式に変化した。各校4名が参加し、バラバラにチームわけがされる。中には、ディベートについてこれない生徒もいた。幸い、本校の生徒はこういうのが好きで、中心メンバーとしてバリバリやってくれていたものだ。そういう過去を知る私としては、最近のセミナーにちょっと「ぬるさ」を感じてしまうこともある。
 さて、選りすぐりの国語科最強軍団を今回は連れていく。英会話能力はちょっと不安だが、今日の初会合の感じでは、昔の本校のメンバーの「匂い」がした。期待大である。

2010年2月3日水曜日

節分はダイアン吉日


 今日は節分である。正月のブログにも書いたが、私は季節感のない人間で節分には興味がない。ロングロング・アゴー、私が23歳、初担任をしていた商業高校の2年4組のクラスでのことである。終わりのショートホームルームに行くと、なにやらみんな薄気味悪く笑っていた。「…?」クラスの会長が「今日は節分です!」と言った瞬間、全席から豆が飛んできたことがある。これを企画したクラス会長も今や45歳のオバサンである。(ちなみに彼女は私が3年生の時の担任した男子生徒と結婚した。今も家族ぐるみの交流が続いている。)
 ところが、めずらしく今年は今日が節分だと知っていた。いつも校外に出て喫煙する仲間の管理作業員さんたちが「節分やねえ」と言っていたからだ。まさかと思ったが、帰宅すると夕飯は『巻き寿司』だった。結婚後初めてではないか?と思ったら、義理の姉が我が家に買っておいてくれたものだという。ちなみにカレーうどんと共に食したのが我が家らしい。
 さて、本題である。今日は、英語科の講演会があって、久しぶりに「ダイアン吉日」さんが来校された。イギリス人女性の落語家である。1年生の地理Aの授業で、例の「民主主義がアフリカ経済を殺す」から、選挙とクーデターの話をして盛り上がった後、「今日の講演会、誰が来るんやったかな?」と聞くと、「ジャイアン・キチジツさんです。」との返事。大笑いした。どうせなら「ジャイアン・キテレツさん」と藤子不二雄であわせろよと思ったが…。とにかく彼女が来られるのは英語科の20周年記念総会で演じて以来だと思う。あの時私は3年の担任だった。英語で落語をやってくれる人で、チョー面白い。実際に聞きに行かれた先生方によるとさらに面白くなっていたとのこと。行けばよかったが、今日も仮想世界ゲームの報告書書きに追われていた。
ところで節分の今日は…大安吉日ではなく、先勝である。

2010年2月2日火曜日

教え子はアフリカをめざす


 今朝いつもの京橋のパブでモーニングしていると、携帯が鳴った。私はメールはともかく電話にはでないことが多い。あとでメールが来て、某国公立大学に行っているOGであることがわかった。放課後電話で話したところによると、チュニジアに行くことになるかもしれないとのこと。関東の某国立大学からのオファーに通っている大学が連携するとかで私費留学的な形とか。そういえば、昨秋もアフリカに行きたいというOGの相談を2件受けた。外務省関連とJOCV関連であった。なぜか両方とも行先は…セネガルである。

 このアフリカをめざすOG3人の共通点は、彼女らが3年生の夏休み直前に、JICA大阪国際センターに連れて行ったメンバーであることだ。ラオス、ヨルダン、もうひとつホンジュラスだったか…中南米の国から、景観保護のために若い建築家が技術研修員として来日しており、彼らとミーティングするのが目的だった。もちろん英語である。私が、さあ…といった瞬間、彼女らはグループに分かれ、研修員さんと冗談を交わし、大笑いしていたのだった。私もJICAのスタッフも彼女らの英語力にあきれたのを思い出す。<上記の写真はその時のものである>彼女たちも、今や、国公立や有名私立大学に進学し、それぞれ自らの進路選択の中に国際協力の仕事が含まれているようである。ありがたいことである。
 
 フランス語大嫌いの私の弟子でありながら、語学堪能な彼女らにフランス語は大した障害ではないらしい。フランス語圏のアフリカの未来は明るい。

2010年2月1日月曜日

猶余忠義塡骨髄


 木曜日以来ブログを休んでいました。仮想世界ゲームの報告書をひたすら書いていたのですが、ふとブログを開けてみると、前回の投稿にコメントが入っていました。唯一の読者である、ブルキナに滞在中の荒熊氏かと思ったら、成毛眞さんという方でした。さっそくリサーチをかけると、日本マイクロソフト社の元社長で、有名な実業家の方でした。思いもかけないことです。しかもありがたいことに、成見さんのブログに、私のブログのことを載せていただいていました。感激です。

アフリカをなんとかしなきゃ ブックマーク | 18:59
 『民主主義がアフリカ経済を殺す』の書評を書いているときに見つけたブログだ。高校教師によるものだ。プロフィールを見ると51才。いきなり昨年12月にブログを始めたとのことだ。進行中の仮想世界ゲームが面白い。「英語DE南北貿易ゲーム」というのもすごい。さすが大阪市立南高校だけのことはある。

 なにより嬉しかったのは、私が一切記すことをせず、こそっとリンクの一番下にに載せている勤務校のことをこのように表現いただいたことです。
 成見さんの著書に『本は10冊同時に読め!』というのがあることを知りました。私も10冊とはいかないまでも何冊か同時読みをしています。その中の一冊は、日本の名著29藤田東湖です。水戸学が気になり、回天詩史を読んでいます。今日のタイトルは、その一節『猶余忠義塡骨髄』(猶お余す忠義の骨髄に塡つるを)としました。私は前任校の工業高校で15年、ひたすら時を待っていました。もちろんその頃の教え子は勉強は苦手でも素直な男子が多く、精一杯勤めあげましたが、本校に赴任して、「教える喜び」・「ともに学ぶ喜び」を得ました。本校の生徒のためになることなら何でもさせていただこうという気持ちだけは誰にも負けないつもりです。
 とはいえ、今や、公立高校の同一校勤務は10年が原則です。残すところ後2年余りとなりました。
 私は、ここ5年ほど、本校をユネスコ・スクールにしたいと、何度も校長に提言してきました。ユネスコ・スクールの集会にも毎年足を運び、昨年のユネスコ・スクールの大阪国際高校生会議にも生徒を連れて参加しました。知り合いの先生からまだ申請しないのですか?と言われ続けてきました。しかし、諸事情があり、なかなか進展しないままです。実は今日は、その出張があったのですが、とある理由で断念しました。
 もう時間がありません。2年では私が責任をとれる体制づくりは無理だと思っています。…とは言え,『猶余忠義塡骨髄』なのです。焦る気を抑えつつ、自分に何ができるかを常に問いかけていきたいと思います。