2021年5月31日月曜日

マレーシアのロックダウン

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM28DTV0Y1A520C2000000
/ブキッビンタン、ロット10の斜め前の画像だと思う。いつもは車でいっぱいの場所だ。
6月1日から、マレーシアはまたまたロックダウンになるようだ。これまでも州を超える移動などは制限されていたようだが、かなりの経済的打撃も覚悟の処置のようだ。人口当たりの感染者数では東南アジアで一位だし、世界的に有名になったインドの数値さえ超えている。

様々な理由があるようだが、ハリラヤ=プアサ(断食明けの祝日)で感染者数が増えたという情報や、また外国人労働者への検査をかなりやった故という情報もある。まずは、14日間ということらしい。JETROは在馬日本企業への影響を懸念している。

たしかに、友人のOさんの工場はどうなるのだろう。Kさんは製麺業で、レストランは完全に閉店だし、スーパーに卸す食品中心になってしまう。タマンデサの商店もレストランも厳しいだろうなあと思う。屋台のおばさんはどうしているのだろうか。またコンドの中華レストランもどうしているだろうか?バスの運転も減便されるだろうし、タクシーの運転手も大変だ。

そして未だにD大に来れないL君のことが何より心配だ。PBTもどうなっていくのだろうか。ただただ、無事と被害の少なさを祈るのみ。

2021年5月30日日曜日

YouTube 風に立つライオン

https://www.youtube.com/watch?v=RkrTRAjxDc4
妻が、さだまさしの”風に立つライオン”のNHKの番組を見ていた。大沢たかおの同名の映画のクランクインに合わせて、さだまさしがケニアを訪れるというドキュメンタリー番組である。私はそれを横で聞いていたのだが、ナイロビの日本人学校とか、ナクルとか、キベラスラムとかいう地名が出るたびに懐かしく、妻の画面を見に行った。ジャンボ=バナの曲も何度も登場する。

驚いたのは、さだまさしは、この歌を現地に行かず作ったのだという。実際のモデルがいて、その方も登場していた。この歌を聞いて、ケニアでのJOCVになることを決意したり、留学したり、マサイの妻になった方もいた。凄いなと思う。それだけこの歌には影響力がある。私がこの歌を知ったのは、ケニアに行った後だった。この歌を元にした大沢の映画は、ポーランド行のルフトハンザ航空で見た記憶がある。もちろんいい映画だった。

こちらのドキュメンタリーもいい番組だった。ナクルの都市化のスピードは凄く、私が行った2003年当時とはえらい違いだった。ナクル湖のフラミンゴも少なっているそうだ。都市化による環境の変化だろう。

最後に、日本語学校の講堂で、ナイロビ大学のコーラス部も参加して”風に立つライオン”が歌われる。モデルとなった医師も、JOCVもマサイの妻となった方も聞いている。感動的なラストであった。嗚呼、いいなあアフリカ。年齢と体調のこともあり、もう二度と行くことはできないだろうが…。

https://www.youtube.com/watch?v=RkrTRAjxDc4

八幡浜のトロール漁船

昨日は、八幡浜に恒例の週一の買い出しに出かけた。6月上旬を念頭に食料の備蓄を増やしておくことを念頭に行ったのだが、結局、備蓄としては愛媛県産のお米とカレーの缶詰くらいで、後は日常の買い出しであった。

久しぶりに天気がよかったので、愛機G1Xを持って行った。実は、八幡浜港にトロール漁船が2隻(最大4隻)係留されていることがある。当然ながら、いる時もあれば、いない時もある。是非、天気のいい時に撮っておきたいと思っていたのである。昨日はチャンスだと思ったのだ。

三崎から八幡浜市に入るルートは3つほどある。いずれ高速道路になるトンネル経由、旧道経由、そして保内から海沿いに入るルートであるが、この海沿いのルートを走るとトロール漁船と出会うことがある。往路で発見し、買い出し後に少し車を止めて撮影した。


大阪人としては、こういう船に接することは珍しい。独特の形状があって、なかなか面白いと思う。ちょっと調べてみたが、2隻で1つの網を引くそうだ。
https://www.minatto.net/archives/category/tourism/gourmet/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%BC%81

2021年5月29日土曜日

開発独裁と情の経済 考

https://style.nikkei.com/article/DGXZZO
31952890Z10C18A6000000?page=2
マレーシアに3年半住んで、私は開発独裁体制というものを肌で感じた。当時のナジブ政権の腐敗には、多くの国民はうんざりしていた。何故、開発独裁の体制下で汚職が蔓延するのか?先日、ぼんやりとそんなことを考えていた。

アフリカの開発経済学を学んでいると、「情の経済」という概念が出てくる。これは本来、農村で全員の食料を賄えない時、口減らしのために若者が都市に出稼ぎにいく習慣から出てくる。血縁や地縁を頼ってに都市に出て現金収入を得るのだが、そういうネットワークが都市に出来ているし、農村は農村で共同体のネットワークが出来ているという構造だ。反面、一人勝ちを共同体は許さない。ケニアにはハランベーというみんなのお金を集めるという助け合いを意味する言葉がある。優秀な青年を海外の大学に送り出す時などは、このハランベーが実に有効である。だが、彼が帰国した後も、このハランベーの恩は消えない。もし高収入になったり政府の役人になった場合、情の経済の構造は彼に様々な要求を行うことになる。村に、公民館のような施設を建てるぐらいで済めばいいのだが…。(仮に一人勝ちであろうとすると、アフリカでは呪術の存在が語られる。)中国古来の科挙を一族が応援するようなものだ。科挙を突破した青年は、一族を優遇するのは当然とされる。

この情の経済という概念が、アフリカの開発独裁政権内に構造的にあるように感じる。マレーシアなどの他のアジア諸国もまたしかりである。これが能力の低い官僚の登用やそれに伴う汚職を生むのではないだろうかという推論である。

日本も明治期は開発独裁である。藩閥政府で、このような情の経済的な官僚組織や企業組織が形成されていたと言える。廃藩置県後の知事なんかはまさにそうだ。良くも悪くも人間的なつながりが重視されていたわけだ。日本が先進国に飛躍できたのは、明治維新が下級武士の革命と見る視点があるように、後に藩閥以外から能力のある人材を登用したからではないかと思う。いわば、この開発独裁・情の経済という構造は、近代国家成立上の一過程、途上国や中進国の飛翔を阻止しているマイナス面であると言えるのかもしれない。

個人的には、アフリカの情の経済を絶対悪だと私は思っていない。今回の考察は、あくまでマイナス面に目を向けたものである。

2021年5月28日金曜日

カメルーンの英語圏

http://www.diplo.jp/articles19/1902-04Cameroun.html
「アフリカ人類の未来を握る大陸」の中で、カメルーンの話が出てくる。タイトルは、「植民地支配の呪い」である。これまで、あまりカメルーンについて記したことはないが、カメルーンは元々、ベルリン会議でドイツの植民地になった地である。その後、WWⅠでドイツの海外領土は、全て戦勝国に取られた。カメルーンは、フランスとイギリスに分割された。以来、フランス語圏と英語圏に分かれた。領土も人口も多いのはフランス語圏で、英語圏は二級市民扱いを受けてきた。

言語が違い、また統治方法や司法制度など、この英仏・二か国には大きな相違がある。私は、ケニアや南ア、ジンバブエなどの英語圏のアフリカと、ブルキナファソのフランス語圏に行った経験があるが、かなり違う。本書にもあるが、朝食がトーストと紅茶なのか、クロワッサンとコーヒーなのかという文化的な相違もある。カメルーンには、民族が250ほどもあるが、民族紛争というよりは、この植民地支配の名残が国内の対立を深めている。こういうケースはアフリカでも珍しい。

特に、英語圏の方で石油が出て、レントを巡る対立が起こっている。英語圏の住民は、フランス語圏の政府に搾取されているという感が強い。武装勢力が独立を求め、政府軍がこれを阻止しようとして英語圏では、テロが頻発している。ナイジェリアへの難民や国内避難民が続出している。

欧米の植民地支配の呪いは、今なお続いているわけだ。首都ヤウンデの歴研究家の「100年前のWWⅠ後の分割が、今の危機にどれほど影響を与えているかといえば、100%影響を与えている。」「1960年以降に今のカメルーンが結成されたが、イギリスとフランスが押し付けていた法律や教育の制度によって、今も、それぞれの地域の人々の日常生活は規定されている。我々には、統一したカメルーンらしさは形成されてこなかった。その証拠にカメルーン語という全ての国民に共通の言葉を持っていない。」という言に、私は国民国家形成のうえで、言語が大きな意味を占めることを改めて認識した。

…明治初期、教科書で「ハト、マメ、マス」という語を読ませることで東北弁を矯正し、あらゆる地域の兵士を集めることを可能にする言語理解の下地を作ったうえで、国民皆兵への道を拓いた事を思い出したのだった。

2021年5月27日木曜日

le biopouvoir(生-権力)

https://sabage-archive.com/blog/archives/12244
「知は力なり」と言ったのはベーコンだが、「知は権力なり」(権力によって知はつくられる)と主張したのはフーコーである。これを生-権力(民主主義が作り上げた権力)と言い換える事や、パプティノコン効果とも言い換えることが出来る。

今こそ、フーコーの思想が注目されるべき時ではないだろうか。コロナ禍が起こって以降、じっくりと考えてみると、不可解なことが多い。PCR検査で本当に陽性・陰性がわかるのか?遺伝子操作を行うようなワクチンをワクチンと呼べるのか?死者数が毎日発表されているが、本当にコロナによる死亡なのか?オランダではワクチン接種を中止したし、インドでは新しいインド株のコロナ報道に対し、フェイクだと全世界のマスコミを訴えている。

たしかに、マスコミは声高に政府や県の罹患数や死亡数を発表している。様々な情報が流されているが、我々は実際のところ、これらすべてを知っているとは思えない。ネットでは、専門の医者が疑義を発表しているが、マスコミは無視している。民主主義の社会で、我々は監視され、また監視者となっている。権力はこのパプティノコン効果を利用している。誰かが知を独占しているようにしか見えない。

私は、64歳。糖尿病の既往症がある。ワクチンは打たない。

イギリスの空母が米艦・蘭艦とともに極東を目指して動いている。横田基地に軍専用の旅客機が飛来している。アメリカは日本への渡航を禁止した。米人家族や駐在している米人を帰国させているかもしれない。さらに不思議なのは、この横田基地に対地攻撃機・A-10が12機も韓国から飛来している事だ。日本に不必要な軍用機だ。またコロナ禍を理由に、陸自が都庁に駐留している。これらの情報を総合して考えると、ただ事ではないとしか思えない。

私は、64歳。今少しずつ評伝を書いているが、人生に悔いなし。だが、有事が起こり、教え子たちの将来をゆるがすような事態になるのは絶対避けたい。

これらの危惧が杞憂に終わればいいのだが…。

2021年5月26日水曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅸ

15年の工業高校生活で、担任は2回。いずれも機械科で1年から3年まで連続で務めた。最初の担任は、機械科は3クラス体制でB組、2回目は学年主任を務めながらの2クラス体制のA組だった。1回目の担任では、個性的な生徒が多く、いろいろなドラマがあった。

1年生の文化祭の終了間際、一般の方への退場をお願いしていた社会科の後輩のT先生に対する暴行事件が発生した。ちょうど、M1Bの生徒たちの目の前での出来事だった。私が体育館の舞台から出るとなんか騒がしいなと気づいた。とにかく走っていくと、評判の悪いOBが毒づいている。見ると、T先生は眼鏡越しに暴行を受けたようであった。間に入り、落ち着けとOBを制した。この時、我がM1Bの生徒達は、かなりビビっていたようだ。もし、私が暴行を受けたら、自分たちも行かねばなるまいと、話し合っていたらしい。結局、犯人は、このOBの友人で、すでにこの時校外に逃げていた。その時間稼ぎだったようだ。大事件だった。T先生は、救急車で救急の眼科を求め、奈良まで行くことになった。M1Bの生徒達は、現場を目撃しており、I警察署で事情を聴かれることになった。生活指導室で、生徒の帰校とT先生の安否を知るため、夜遅くまで残っていた。翌朝、クラスの代表が、洋酒を持ってきた。「昨日はお疲れさまでした。」「お前らこそ大変やったな。」「これ、俺らの気持ちです。」この時、私が暴行された場合について真剣に話し合っていたことを聞いた。ちょっと嬉しかったが、実際に何も起こらなくて不幸中の幸いであった。

このクラスには、短ランで来ているF君がいた。父子家庭で、最も特別指導を受けた生徒だ。タバコで3回目に捕まった時、私は毎日食堂に誘った。最初はきつねうどんから始まって、最後はかつ丼とラーメン。後に彼の結婚式で仲人をすることになるが、打ち合わせの時「先生は何も言わず、毎日奢ってくれて、豪華になっていく、あれはきつかったす。」と言っていた。今は独立・起業し、社長である。毎年年賀状が届く。

この第一回目の担任時文化祭では、VTRを作成した。22時頃まで編集していて、急にチャイムが鳴ってみんなで逃げた「六角ボルトブルース」、柔道の畳を積み上げてリングを作った「ネッキ―(ロッキーのパクリである)」。個性的な皆の顔が浮かぶ。やんちゃだが、男の美学を叩き込んだ連中である。就職時は、バブル景気で、就職は好調だった。某ゲーム業界の企業に就職したOBが、6月に300万円のボーナスをもらったような時代だ。

二回目の担任は、B組の担任の野球部の監督とクラスを分けるときに、うちのA組はサッカー部、B組は野球部を中心に集めた。この担任時は、全生徒の家庭訪問を敢行した。ところが、A組はどんどん中途退学者が出た。堺の鑑別所にも何度か行くことになった。ある日、某警察の少年課の刑事が来て、我がクラスの「生徒を逮捕したいが顔がわからない、SHRに同席させてほしい。」とふざけたことを言う。「自分の生徒を売る奴がいるか!」「そんなことでできるはずがないやろ、自分で探んかい!」と怒鳴りあげたこともある。刑事を追い出した後、塩をまいたのだった。武勇伝・武勇伝。

結局、2年になった時点で半分になっていた。3人いた原級留置組も皆いなくなっていた。2年のクラス編成時にB組から補充してもらってなんとか30人クラスになった。2年以後は比較的平和で、またまた、ソーラーカーのVTRをつくったりした。おそらく、このブログの読者であるN君にとっては内容的に物足りないだろうが、学年主任の仕事の方が忙しく、2回目の担任時は楽しいことより、苦しいことの方が多かった。就職も氷河期だったし…。

15年に及んだI工業高校では、最後の何年かは、学校運営に関わることになった。予算と人事を司る役になったのである。ちょうどウタハタ(業界用語で国歌・国旗問題)の時期で大変だったし、この頃になると、人事を巡って、各科の職員室を訪れると、コーヒーを入れてもらえるような身分になった。(笑)若手から中堅へ。責任ある立場に育てていただいたのだ。この経験を積んだことも教師生活の中で大きい。破天荒な私も、40歳を過ぎて大局から物事を判断することをやっとこさ学んだのである。

2021年5月25日火曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅷ

今、思うとよくぞ私のわがままを聞いていただけたものだと思う。私曰く、「ブレストが必要です。」ブレストとは、有線の通信装置で、これをつけている人間同士が同時に通話することが出来るものである。(画像参照)上手二階の私(D)と舞台袖(上手・下手のAD)、放送部(音響)(照明)の5人分を日本橋の電気街で購入してきてもらった。それを、E科の先生が、電気工事士の免許を取った生徒とともに猫走り(舞台上部にある移動できる細い通路)に上り、発電機を取り付け、5人の配線工事をしていただいた。(この工事は、その後の文化祭前の恒例行事となる。)

つまり、かなり専門的なスタンスで全校イベントを企画・運営していたのだ。シナリオもかなり本格的であった。セリフや舞台の動き、音響(カットアウトか、フェードアウトか、フェードインかアウトかなどが詳細に記入されていた。)、照明などが一目でわかるようになっていた。これは、プロのイベント屋さんに教えてもらった書き方である。

歌番組は、毎回違う演出で開催した。「ベスト・テン」風や「家族そろって歌合戦」風など、毎回カタチを変え、先生方や生徒の代表に登場してもらい盛り上がった。照明も新しい舞台なので、N市民会館よりは劣るが、ボーダーライトは当然、ローホリもアッパーホリ(ホリゾントライトは背景の色を変えることが出来る)もあったし、サスペンションライトもいろいろ動かして設定できたのだ。第1回目の歌番組のラストは、退職間近のD科の先生が、暗転の中、サスペンションライトで上から照らされて登場、ちょっと高めの椅子に足を組みながら、河島英五を歌い、最後は(猫走りから)花吹雪が落ちるといった演出もした。割れんばかりの拍手がいつまでも体育館に流れた。

第1回目のイベントで、多くの先生方の支持を得た。ありがたいことに、新しい体育館の舞台の能力を最大限引き出すとともに、生徒(特に舞台担当の文化祭実行委員)のいいものを作ろうという頑張り、それにプラスして先生方の魅力も最大限引き出したとの評価を得たからだと思う。

でかいフライパン(高さ4mくらい)をベニヤ板で作り、その横で昔の学食のメニューをつくるという「ごちそう様」風の番組も作った。様々なSE(効果音)を駆使した。ブライパンを叩くとゴーン。空の鍋に、コロモ付のクジラ肉をOBの先生が入れるとジュ―。これらは私が舞台の動き見つめ、ブレストを通じて放送部に「3…2…1…キュー」と合図をする。これを放送部の生徒がたたく(音響が準備したテープを回す)のである。見事に決まった、という感じだ。まさに生のTV番組を作っていたのだ。

「I工(世界)まるごとハウマッチ」の時、「ずっと回る地球儀が欲しいですね。」と言うと、M科の授業で溶接を指導し、モーターで動くモニュメントを作っていただいたし、クイズ番組で、「先に押した方がパトライトが付くような装置が欲しいのですが。」と言うと、E科の先生が見事につくっていただいた。歌番組で「電飾が欲しいですね。」というと、D科の先生がつくっていただいた。これには、舞台の電気容量(私はよくわからないが…)に問題があったようで、体育館の電源というハード面から考えていただき、さらにコンピュータ制御のプログラムまで考えていただいた。莫大な費用がかかったはずだ。

私が企画した文化祭の全校イベントは、各科の先生方の「ものづくり」の情熱に火をつけてしまったのだ。普通科でも、私の後輩のU先生、M先生が脇士となって、本当によく動いてくれた。イベントの楽しさ、ヒト、モノ、カネをいかに動かすかを私の横で学んでくれたのだった。イベントを通じての人づくりは、生徒だけでなく教師集団まで巻き込んでしまったのだった。こんなことを5~6年やっていた。

最後に、I工業高校全校イベント・最大の番組について記しておこうと思う。当時、「さんまのなんでもダービー」という番組があった。なにか競技をして、競馬のオッズにしたがってゲストが賞金を懸けるというバラエティだ。競馬好きの先生に、競馬新聞の書き方を学び、U先生やM先生と、先生方や生徒の名前を馬の名前に変え、イベント用の競馬新聞を作った。(あまり教育的ではなかったが…。当然ながらあくまで遊びである。)

さんまのなんでもダービー
サッカー部を集めリフティングの回数(これには顧問の私も、ディレクターのブレストをU先生に託し、トーニョーボーイの馬名で参加した。笑)、ラグビー部対女性教員で大根おろしの早さ、などをLIVEで競ったりしたが、最大のレースは、教員・生徒代表による三輪車レースであった。これはLIVEではない。録画の日、体育館を完全にシャットアウトし、我らスタッフと文化祭実行委員が4か所(全体2か所、正面、ゴール横など)にカメラを設置、トランシーバーで連絡を取りながらのロケを行った。もちろん、後にVTR編集を行った。ゴール直前で先頭だったD科の先生の三輪車の前輪が浮き上がり後転、E科のバイクスーツを着た生徒が1位でにゴールした。何度もスローモーションで再生、大いに受けたのだった。(ちなみにこの優勝を逃したD科の先生は、今や某工業高校の校長になっている。)ちなみに、イギリス人のALTが見に来ていて、JRA(日本競馬協会)をIRA(IはI工業高校のI)に変えたダービーの番組の看板を見て、「あれは何だ?」と驚き、引いていたという逸話が残った。(笑)…注:IRAとは、当時イギリスを攻撃していたテロ組織・アイルランド共和国軍の略称である。

2021年5月23日日曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅶ

I工業高校の新体育館
T商業高校には7年お世話になった。長く最年少で、自由奔放にやらせていただき、多くの先生方に、今思うと無茶苦茶ご迷惑をおかけした。若いうちは失敗が許されるという典型例のような日々だったと思う。転勤先は、母校を筆頭に、工業高校ばかり書いたが、当時の学校長から、「もう1校書く必要があるが…」と言われ、「お任せします。」と応じたら、希望欄にはなかったI工業高校になった。(笑)しかし、ここもまた、縁のある学校であった。15年間もお世話になった。

商業高校とは、全く正反対で男子ばかりの学校で、最初の印象は「黒」。制服の黒さが目に染みたのである。当然ながら、「やんちゃ」もたくさんいた。勉強は苦手かもしれないが、男気溢れる学校だった。まずは工業高校の特徴と教師集団について記しておこうと思う。

私がここで最初に担任したクラスは、M1Bと言う。Mは機械科、1は1年、BはB組である。つまり、学年より、機械科の方が上位にあるのである。I工業高校は、E=電気科、D=電子機械科と合わせて三科体制である。だから、卒業式で生徒の名前を呼ぶのは担任ではなく、科長の先生である。だが、生活指導部に学年主任ともう1名が在籍し、生徒指導は学校全体で指導する体制がとられていた。

大阪市立の工業高校は当時いくつかあったが、M工業高校などは6つの学校の集まりと言われていた。科の力がすこぶる強いのだ。生活指導面も各科まかせだという。反対にK工業高校は、科を超えて学校全体で指導するという体制をとっていた。I工業高校は、その中間くらいのスタンスをとっていたといえる。

生活指導面(喫煙とか喧嘩とか…)は、年がら年中忙しい学校であった。そういう面では、大変だったが、教師集団は、だからこそ団結していた。各科の工業科教員はもちろん、私の属していた普通科も、極めて濃い関係が生まれた。まあ、15年もいたこともあるが、ここで育まれた人間関係は今も濃い。

最初は、またまた教務課だった。生活指導をやりたいと言ったら、生活指導部長に迎え入れていただいた。ここでも、文化祭の運営を担うことになる。ちょうど体育館が新築され、新しい舞台が出来たのだ。以来毎年のように、文化祭の午前中の全校イベントの中心として動くことになる。…つづく。

南アの経済格差とEFF

https://quatrogats.com/apps/note/releasemail/southafrica.html
「アフリカ 人類の未来を握る大陸」の備忘録をエントリーしたい。まずは、南アの話。南アの2015年のジニ計数は、0.63で世界で最も高い。(日本で0.3、米国は0.4)南アは地理では、新興工業国BRICSのSとして教えることが多いが、その経済格差は尋常ではない。故マンデラが大統領になった時、全ての人が平等な「虹の国」を訴え、白人との融和政策を推進したのだが、厳しい状況が続いている。

…2003年に初めてアフリカ・ケニアを訪れた際に世話になった故ピーター・オルワ氏が、ナイロビ空港で別れる際に「レインボーやね。ケニアもきっとレインボーになるね。」と大声で手を振ってくれたのを思い出す。ピーター氏が言っていた「レインボー」とは、マンデラの主張した「虹の国」のことだと私は確信している。アフリカが、マンデラを中心に変わろうとしている、みんな平等なアフリカになるという希望の合言葉だったのだ。

今、南アでは故マンデラ氏の遺産であるANCは、汚職にまみれている。マレーシアもナジブ政権などは汚職にまみれていた。開発独裁が進むとどうしてもそういうデメリットが発生する。アパルトヘイトを知らない1994年以降に生まれた若者が、ANCを激しく批判するEEF(経済的開放の闘士)という政党にひきつけられている。

「虹の国というスローガンは、民主化の当初は白人に迎合する必要があったから言われていた言われていたのすぎない。結局は口先だけの耳当たりのいいスローガンだっただけだ。今となっては、虹の国が何を意味していいるのかもわからない。虹の国なんて存在しない。」とはEFFの学生組織の幹部(23歳)の言だ。

この左派ポピュリズムの政党・EFFは、白人農家が所有する土地を強制的に収用して、黒人に無償で配るべきだと主張している。(農地の70%を人口比8%の白人が所有)そして、実際に、白人農家が武装勢力に襲われる事件が起こっている。(2017年統計で400件、84人が死亡)

…ジンバブエのキバキ大統領が行った政策と同じである。そしてジンバブエは、白人が逃げ出し、ハイパーインフレとなり失敗国家として有名になった。

…私は、どちらかと言えばアフリカーナの人々より黒人を応援したいと思うが、ジンバブエは何故失敗国家になったのか?その物語を十二分に検証したうえでなければ、この政策を実行すべきではない、ましてテロで白人を追い出すようなことは絶対にすべきではないと思う。

…作業・労働するのと、経営するのとは違う。中国の文革時のように、主従逆転することはたやすいが、それは破壊と退廃しか生まない。ジンバブエの失敗は、まさにそこにある。農業教育、経営学、マクロ経済学、ミクロ経済学、関連法規などを学ばず、ただ単に恨みだけで革命を起こしても、新たな未来は建設できない。

…EFFの言い分も、アフリカーナ(アフリカ生まれのオランダ系白人の意)の言い分も、ANCが十分聞きながら、未来を見据えた教育機関を設置・拡大していくのが正しいような気がする。教育こそが未来への最大の投資であると開発経済学は教えている。そこに虹の国という概念が復活しそうな気がするのだ。…私は、未だにピーター氏の「レインボー」と叫んでいた希望溢れる顔を忘れることが出来ないのだ。

2021年5月22日土曜日

5月らしい景色 三間

妻は、毎日家にいて家事をしてくれている。三崎は車がないと動けないので、マレーシア以上に退屈な日々を送らせてしまっている。(私が通勤で車を使っている故である。)いきおい、土日は妻孝行をしようという気になる。

毎日、枇杷の木を見ていると、枇杷が食べたくなる。意外にこちらでも枇杷を買える場所は限られる。今日は少し足を延ばして、三間まで行ってきた。三間の道の駅には、こいのぼりが風になびいていた。こういう景色は久しぶりである。この辺では、枇杷と言うと宇和島産なのだが、今日は売り切れだったのか、売っていない。残念。

ところで、三間のお米はおししい。これはお米売り場のリアルなカカシ。(笑)インドネシアの女の子たちがいて、久しぶりにヒジャブ姿を見たし、鬼北町産の雉(キジ)の焼き鳥屋が出ていた。貴重で1本300円とは高価である。妻は珍しいからと3本買っていた。家で食べたが、肉質が少し硬いかな?(笑)

帰りに西予のどんぶり館という道の駅に寄ったら、やっと枇杷が売っていた。これで本日のミッションは完了したのだった。梅雨の合間の1日の話である。

追記:22日も、1043のアクセス数でした。アメリカからのアクセスが多く、私の過去のブログを見ていただいているようです。ありがとうございます。

2021年5月21日金曜日

ここ2日間のアクセス数

私のブログのアクセス数は、毎日平均100くらいである。100を超えた日は嬉しい、そんな感じなのだが、ここ2日間、凄いアクセス数が出ている。昨日が1173、今日の21時過ぎで1257。以前、TV番組か何かでコンゴのオナトラ船の話題が出て、そのエントリーが炎上(…ではないがアクセスが莫大に伸びた)したことがある。また同様のことがあったのかと調べてみたが、直近のエントリーは少し多いが、それ以外のエントリーはほぼ1回である。と、いうことは、私のブログを過去まで遡っていろいろと見ていただいているとしか考えられない。


さらに調べてみると、アメリカからのアクセスであることがわかった。日系の方なのか、翻訳して見ていただいているのかは不明だが、他のデータでマックからのアクセスであるらしいこともわかった。

また、お一人なのか、複数の方なのかはわからない。どちらにせよ、ありがたいことでお礼申し上げたい。ちなみに、私のブログには、一切広告を入れていない。そういう目的ではないからである。これからも、このポリシーは変わらないと思う。

追記:22日午前9時(日本時間)現在で、カウントがリセットされ、2233のアクセス数となった。ありがたいことである。

2021年5月20日木曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅵ

https://www.neyagawa-kaikan.jp/
さて、3年4組の話である。4月から、11月の文化祭、N市市民会館でミュージカルという大目標を掲げ動き出した。意外にみんな協力的で、「一切衆生要皆生甲斐」(全ての人に生甲斐が必要という意)のコンセプトが決まって、シナリオが出来た。平凡なOLが、生甲斐を探してミュージカルに挑戦するというストーリーである。ダンスが好きな生徒を中心に振付を考え、練習をはじめた。リーダー群には、細かな工程表を作成しもらい、まさに総力戦。音響、照明、ヘアメイク、衣装、大道具等、裏方に徹する子も懸命にやってくれた。

このミュージカルでは、これだけは、と私が演出を提案した。最初OLが出てくるシーンで、「(生甲斐を求めて)私、ミュージカルをやるの!」というセリフに合わせ、彼女の会社の制服が左右に真っ二つに裂け、レオタード姿になるというものだ。(照明は、暗く、サスペンションライトで下に彼女だけを照らしているので、黒子は見えない。)家庭科の好きな生徒が懸命に衣装を作り、左右の黒子役が見事に裂いて見せてくれた。本番では、会場に「オオオッー」という歓声が響いた。そして明転、後ろにダンスチームが控えている。この時使った曲は、WBCのテーマ曲で、この曲を聴くたびに私はイチローや松坂ではなく、このミュージカルを思い出す。(3年4組の諸君もきっと同じ思いに違いない。)

最後は、当時はまだマイナーだった光る棒(ポキッと折ると化学反応で光る)で、裏方も全員が舞台に上がり、ウェーブをした。このミュージカルには、知人のダンサーA君の協力を得たり、生徒同士のもめごともたくさんあった。そのたびに彼女らが成長したと思う。私も若かったし、全てをかけて、イベントによる人づくりをしたのだった。

とはいっても、日常は大変だった。遅刻が多い生徒がいて、T高校では3回の遅刻が1日の欠席となるため、卒業のための出席日数に黄信号が点灯する生徒もいた。私はほぼ毎日、保護者と連絡を取り車で迎えに行った。(当時は自家用車通勤は問題なかった。)また、姉の鬱病がうつって、授業中後ろの黒板に向いて座っている生徒もいた。拒食症に悩まされたカインコンプレックスの生徒もいた。幸い、鬱の子も元に戻り、拒食症の子も三者面談で褒め殺ししたのがよかったのか拒食症を克服した。この時期、心理学をかなり研究するはめになったが、後の教師人生にとっての肥しになったので、反対にありがたく思っている。

三学期は毎日、必死だった。遅刻の多く迎えに行っていた子はなんとか出席日数を確保したものの、学習面も厳しかった。すでに1・2年生で単位を多く落としており、まさにギリギリであった。激励に次ぐ激励を重ねたのは言うまでもない。

卒業式の日。3年4組の生徒諸君から分厚いアルバムを贈呈された。みんなの写真とありがたいメッセージがあふれていた。リーダーのTさんが一言。「先生、泣かして!」私は、たった一言「ありがとう…。」と声を詰まらせた。全員が号泣して別れを告げた。

この後、一番苦労した遅刻の多かった子とお母さんが、校門を出ていった。お母さんが、振り向き、深々と頭を下げておられたのを、私は偶然目にした。教師として、一生忘れられない瞬間になった。

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅴ

https://blog.not-bad-view.jp/wp/wp-content/uploads/2019/07/P6100162a.jpg
T商業高校は、1学年10クラスという大規模校であった。教職員組合が強かったのには閉口したが、若手の兄貴分の先生方も多く、最年少の私は自由に何でもさせていただいた。時折、飲みに行こうと誘われて、叱られもしたが、可愛がっていただいた。

3年目の男女クラス。5月には修学旅行があった。東北への旅(今日の画像は、八幡平の水芭蕉)で、キャンプファイヤーもバス車中レクレーションも担当させていただいた。(昨年のリーダースキャンプで育てたメンバーが熱心にやってくれた。)まさに、私のチームであった。これが、クラスに波紋を及ぼすことになる。チームのリーダー群が、総スカンされて、文化祭では舞台ではなく模擬店をやることになったのだ。結局、もち米からふかして、餅をつき、販売するというかなり手の込んだ模擬店になったのだが、正直私は残念だった。各クラスに散らばっていた私のチームのメンバーは、有志で演劇をつくりN市市民会館に挑戦するという。結局、各クラスでのリーダーとしての仕事をやり切りながら、有志の劇の方もやりきってくれた。が、これでよかったのかどうか。私にとっては、まさに3年目の蹉跌ともいうべき経験であった。

もうひとつ、大変な出来事もあった。クラスの男女が駆け落ちしたのだった。約1か月の逃避行後、ついに見つかり、女子生徒の家にS学年主任と駆け付けた。(私は八尾からバイクで行ったのだが、深夜の帰路、中央環状線でガス欠になり、警察のガソリンスタンドに助けてもらうというオマケまでついたのだった。)結局、両名とも、卒業まであと少しというところで中途退学することになったのだった。私は、男子生徒に、ホイットマンの詩集を送った。彼が詩が好きなことを知っていたのである。これも大きな3年目の蹉跌だった。卒業式当日、彼らのことに触れ、涙したことを覚えている。担任として最初の卒業生だったが、良き思い出もつらい思い出もたくさんあったわけだ。

ちなみに、チームの中心だったK君は某東証一部の会社(後にある事件で日本中に名前を知られる)に合格した。進路指導部から絶対無理だと言われていたのだが、面接指導を私がかってでて、気持ちを前面に出すよう指導した。実際の最終面接では、「高校を出たての君に中小企業の社長相手に営業なんかできると思っているのか!」と叱咤されたらしい。K君は、「出来ます!」といったまま、その面接官の目を見つめたまま、長い沈黙が流れたという。絶対に面接官の目から視線を逸らすなという私のアドバイスを守ったわけだ。全国でたった2名の高卒として入社できたのだった。だが、営業職で募集されていたのだが、経理課に回された。辛抱強く深夜まで働き、残業手当も多く莫大な預金が出来たらしい。

その後、私は念願の生活指導部で生徒会の担当になった。3年間やり抜いて、商業高校最後の年、S先生という当時の学年主任に乞われて3年生の担任をすることになった。S先生がおっしゃるには、選択科目の関係で最もしんどいクラスだという。「君にしか頼めない。」という、ありがたい言葉をいただいた。2年間の累計で欠席数、遅刻数、これまでの欠点の総単位数全てが学年ワースト1という女子クラスだった。

最初のHRで私はこう言った。「文化祭で最高のミュージカルをやろう。」「LHRは全て11月の文化祭に向けて企画・練習に充てるぞお。」この言葉に、それまで自己肯定感を持てなかった生徒たちの目が輝いた。…つづく。

2021年5月19日水曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅳ

学生時代のことはぶっ飛ばして、商業高校勤務時代の7年間について記そうと思う。大阪市の校園地図というのがあって、小中高の位置がわかる地図があった。採用が決まって、さて、私はどこに赴任するのだろうと思っていた。当時は生野区在住だったので、近い方がいいなと思っていたのだった。連絡が来て、T商業高校だとわかった。あちゃー、遠い。というのが第一印象だった。京橋からバス、さらに徒歩15分。だが、ここに赴任するに十分な縁があったのだった。

赴任して1年目は教務課だった。時間割を考えたりする事務仕事が中心で、私はあまり好きな校務分掌ではなかった。生活指導部で生徒会をやらせてほしかったのだった。その理由は、この学校が夏休みに、市立伊賀キャンプ場で、リーダース・キャンプを実施していたからである。キャンプファイヤーや飯盒炊爨をしながら、リーダーとしての研修を行うわけだ。1年目は指をくわえているしかなかった。学年末に、学校長に呼ばれ、2年生の担任をするように言われた。同年齢で新任だった女性教諭は1年の担任だったので、今から思えば(校内人事の常道としては)彼女より下に見られていたと思う。(ただ、当時は校長権限ではなく、教諭が組織する人事の委員会で長時間かけて校務分掌を決めていたので、当時の学年主任S先生の引きがあった可能性もあるかもしれないが…。)私が今になってそう思うのは当然で、1年目は家庭の問題もあって、休みも多かったし、サッカー部や吹奏楽部の顧問の仕事もかなりいい加減であったし、評価は低かったと思うからである。

2年目の初担任は、2年4組で、実にいいクラスだった。出来るだけ生徒にHR運営をさせたかったし、リーダーを育てたかった。毎週、リーダーたちの協議会を行った。気になることや提案を受け、検討した。私は、このクラス担任の時、6月に結婚したのだが、式の翌日の朝のSHRで、大いに祝福を受けた。全員の声を入れた祝福のカセットテープ、妻とおそろいの刺しゅう入りTシャツを生徒からもらった。教師としてありがたいし、何よりのご褒美である。(この経験が元になり、若い先生方が結婚する時には同じような喜びを得れるよう陰で動くことになった。)

しかも、ありがたいことに、生活指導部からリーダースキャンプに関わらせていただけることにもなって、大いに意気が上がったのだった。今もつながりがある当時3年生のN君や2年生のK君らとキャンプファイヤーのチームを作り、もし、キャンプファイヤーのインターハイがあれば、全国優勝したのではないかというくらい、いいものが出来た。この時の生徒達との絆は強い。彼らは若い私に追いつき、追い越そうという意識を持っていた。若い時にしかできない教育がある。たとえ、未熟でも真正面から生徒にぶつかっていったことが、共感を呼んだもかもしれない。

クラスでは、秋の文化祭で、予選を勝ち抜き、N市市民会館の舞台でミュージカルを上演した。リバースという生徒の作文を元に、シナリオが書かれ、協議会のリーダーを中心に一致団結しての舞台だった。この時の中心人物がK君の今の奥さんである。(笑)ちなみに、N君の奥さんもリーダーのひとり。(笑)後に、2組とも結婚式に出席した。いろいろなドラマが生まれたクラスだった。

3年目、学年主任のS先生より、男女混合クラスを持って欲しいと言われ、快諾した。3年7組である。K君が私のクラスに入ってきた。…つづく。

2021年5月18日火曜日

今回のイスラエル情勢 考 2

https://www.youtube.com/watch?v=N6B3niCjVcM
やるせない思いというのは、こういうことを言うのであろう。ガザのハマスはロケット弾を打ち続け、その10倍返し以上の空爆を受けて、死者が増加している。超過密地域ガザでは、ロケット弾は市街地から発射されている。一般市民を盾にしている、ともいえるし、一般市民を道づれにしている、ともいえる。イスラエルは、アイアンドームでロケット弾をほぼ迎撃している。軍事力の差は歴然としている。それでも、ハマスは打ち続けている。YouTubeで、このアイアンドームの発射地点のルポがあり、ほとんど情報公開も同様の画像が視れた。パトリオットなどと比べて意外に細いミサイルであった。当然ながら、次々と補充できるようになっている。https://www.youtube.com/watch?v=N6B3niCjVcM

今回のそもそものきっかけは岩のドームである。これをイスラエルが第三神殿を作るため占拠しようとしていると考えたイスラム教徒たちとイスラエルの警察や軍の衝突である。衝突と言ってもムスリムは石を投げて抵抗したにすぎないが、いつものようにイスラエルは過剰防衛して始まった。家庭内離婚中の在イスラエル・アラブ人も各地で暴動をおこしている。それくらい、この岩のドームを巡る問題は重大なのだ。この岩のドームをめぐる対立は、選民思想で武装したユダヤ人と、自分たちも預言者アブラハムの子孫であり、ムハンマドが昇天した地を守り抜くというムスリムの、神定法に従う同士の対立なので、誰も収めようがない。

「神は戦争を否定していない。」とは、昔々、ソウルの空港で出会ったニュージーランドの牧師との対話で出てきた言だ。まず、神の定めありきなのである。理性や損得勘定より、信仰が第一義である。このことを知らずに、この問題を論じるべきではないと私は思う。

日本人には実に理解しがたい論理だし、「縁起」を大原理とし、「平等大慧」を信じるブティストである私は、ただただやるせない思いに駆られるだけだ。

2021年5月17日月曜日

生徒用タブレット

愛媛県では、県下の高校生全員にタブレットを今春より配布した。伊方町の中学ではすでにタブレットが配布されていたが、ついに県立高校でも、ということである。しかも、キーボードつきで、ほとんど小型のPCである。

中間考査直前も、多くの生徒が塾で使っていた。このシステムの高度な利用については、私などはよくわからないけれど、かなりのことが出来るのではないかと思う。もちろん、ワードやエクセル、パワーポイントも入っているし、若い生徒諸君は想像以上に使いこなしているのだろう。

今日の画像は、中間考査前、塾の自習室として使わせていただいている図書室で1年生男子が使っている様子である。なかなかキマッている。(笑)

久々にアフリカ本を買う 2

昨日買ったアフリカ本の2冊目は、中公新書の「ルワンダ中央銀行総裁日記(増補版)」(服部正也)である。初版は1972年、増補版は2009年、増版を重ねて今年4月発行の12版を買ったことになる。

こちらの方は、帯の一文を記しておこうと思う。「1965年、経済的に繫栄する日本からアフリカ中央の一小国ルワンダの中央銀行総裁に着任した著者を待つものは、財政と国際収支の恒常的赤字であったー。本書は物理的条件の不利に屈せず、様々な驚きや発見の連続のなかで、あくまで民情に即した経済改革を遂行した日本人総裁の記録である。今回、94年のルワンダ動乱をめぐる一文を増補し、著者の業績をその後のアフリカ経済の推移の中に位置づける。」

アフリカの開発経済学を学ぶ者としては、今まで読んでいなかったことを恥じるべきだと思う。ただ、おそらく金融政策面から書かれていると思うが、今なら十分理解できるだろう。マクロ経済を十分に学び、理解を深めたのは比較的最近(ここ5、6年ほど)なのだ。それ以前の私なら難解に過ぎたかもしれない。

本との出会いは、一期一会である。今という時に出会えたのは幸せだと思う。楽しみだ。

2021年5月16日日曜日

久々にアフリカ本を買う 1 

八幡浜まで出れば、ちょっと大きな本屋がある。今日は、いつも行くスーパーの福引の日だったので買い出しのついでに寄ってきた。(ちなみに、福引会はコロナ禍の関係で中止になっていた。…車で待っていると、代価の商品券とお菓子を妻がもらってきたのだった。)

今回は、久々に新書のアフリカ本を2冊買った。読みだしたら一気かもしれない。今日は、そのうちの1冊、しかも目次だけ紹介したい。今年の2月発行なので、比較的新しい情報が手に入りそうだ。集英社新書の「アフリカ 人類の未来を握る大陸」(別府正一郎)である。

第一章「虹の国」のワンチーム(南ア)

第二章 世界最悪の貧富の差(南ア)

第三章 そこをコロナが襲った(南ア)

第四章 植民地支配の呪い(カメルーン)

第五章 中国化するアフリカ(ケニア/セネガル/アンゴラ/サンビア)

第六章 気候変動最前線(ブルキナファソ/タンザニア)

第七章 海面上昇に翻弄される「優等生」(モーリシャス)

第八章 幼すぎる結婚(ニジェール)

第九章 黄金とテロ(ブルキナファソ/トーゴ/ベナン)

第十章 世界で一番若い国の若者たち(南スーダン)

第十一章 平和のために闘う医師(コンゴ民主共和国/ウガンダ)

第十二章 カエル跳びで前進せよ(ルワンダ/エチオピア)

第十三章 監獄からの手紙(南ア)

2021年5月15日土曜日

今回のイスラエル情勢 考

https://www.yomiuri.co.jp/world/20210514-OYT1T50101/
イスラエルとパレスチナ自治区がひどいことになっている。日本のマスコミ報道は信用できないので、オリーブ山通信を読んでいる。https://mtolive.net/

細かな事実は、このオリーブ山通信を見ていただくとして、私見を記しておきたいと思う。

まずは、ネタニヤフ政権が安定していないというイスラエルの政権の事情である。この3年間に5回も総選挙を実施し、そのたびに連立政権が瓦解したり組閣中止に追い込まれたりと不安定さを増しているが、ネタニヤフが現在も政権についている。内政が厳しいとき、外敵をつくりそっちに目を向けさせるというのは、まさに常套手段である。

まして、イスラエルは、ユダヤ人国家というものの、国内にパレスチナ=アラブ人や、キリスト教徒のアラブ人が住んでいるし、さらにユダヤ人の中でも、超正統派、正統派、世俗派、さらにはユダヤ人認定されているものの豚も食べるロシア系移民、ユダヤ人認定されていながら差別的な扱いを受けているエチオピア系移民もいる。この状況を、「家庭内離婚」と評した専門書もあった。私も、実際に足を踏み入れた経験からも、それを感じざるを得ない。普段は、互いに無視しあっている感じなのだ。一度何かあれば各集団に分裂し対立関係になる。

ガザは、そもそも第一次中東戦争時にエジプトが占領したわずかな地域である。いわゆるパレスチナ難民の居住区で劣悪な住居環境、経済環境にある。イスラム復古主義のハマス(彼らはシーア派である)がガザを支配して、現在はシーア派のイランの支援を受けている。今回のロケット弾攻撃もスンニー派のサウジや湾岸諸国がイスラエル寄りになっている現状で「敵の敵は味方」状態となっている。冷静に考えて、彼らを空爆の被害を予想しながらもロケット弾を打ちまくという事態に追い込んでいるのは、イスラエルであり、国際社会であると私は思う。

私は、イスラエルの味方でも、パレスチナ人の味方でも、ハマスの味方でもない。マレーシアの穏健なムスリムである教え子たちは、口をそろえてイスラエルを非難していたが、同時にシーア派にも否定的だった。彼らのスタンスは、よくわかる気がする。だが…。

今回の衝突は、複雑に拡大してくような予感がある。イスラエル対ガザ、ここにイランやシリアの戦争に拡大し、アメリカやロシア、中国が絡めば世界的な衝突に発展する可能性があることを否定できないのだ。

以前、エントリーしたがユダヤの預言書に北からの攻撃による最終戦争という記述があるからだ。この北の国は、どうもイランを指しているいようだ。アメリカは、今のところ戦争を避けるトランプ政権ではなくなっている。とはいえ、何もかもが不透明だ。中国はイランとのつながりが強い。ロシアはシリアのバックにいるが、どう動くかわからない。ヨーロッパと日本、オーストラリア、インドなどは、西側として動くだろうが、先行きは見えない。スンニー派の湾岸諸国も、反イランで西側に与する可能性が高い。コロナ禍の中で、第三次世界大戦が起こるなどと、考えたくはないが、それを否定できない国際情勢があるのだ。

トランプ政権という後ろ盾を失ったネタニヤフは、その危険性を知りながら、ユダヤの預言書を実現する気でいるのかもしれない。

2021年5月14日金曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅲ

母校の中庭/昔はこんな彫像はなかったのだが…。
高校時代の話を続けたい。2年生になったころから、先日述べた野指連の方が忙しくなった。夏休みなど40日のうち30日は、信太山や伊賀の市立キャンプ場の手伝いや中学時代の恩師が関わっておられたボースカウトのキャンプの手伝いで、山の中にいた。ここで身に着けたのは、キャンプファイヤーの技術である。薪の組み方、針金を使って火のついた矢を落とす技術、すぐ火が付くようにする技術、花火を仕掛ける技術などのハード面と、エールマスター(司会)としての話術、参加者を楽しませる様々なゲームやダンス・歌などのソフト面である。

教師になってから、生徒によく「先生は落研出身ですか?」と聞かれたが、私のコミュニケーション技術の原点は、キャンプファイヤーにある。ひたすら、できるゲームやダンス・歌などを増やした。仲間内で、山賊の歌はK、猫じゃはOといった18番が決まっていった。私は、最後の方で盛り上げる、大体説明が必要な(つまり話術が長けていないとできない)ゲーム担当になった。そのときの参加者(小学生や中学生、子供会やボーイスカウト)に合わせて、対応を変えながら、まあキャンプファイヤー芸人のようなことをやっていたわけだ。(3年生になってから、バイト代付きで某TV局の子供キャンプに仲間と行ったこともある。)ボーイスカウトのキャンプでは、強い雨の中で、最後まで火を消さなかった。そんなファイヤーキーパーの技術も身に着けた。またキャンドル・サービスの運営もかなり回数をこなして、また違う技術を学んだ。

これらは、イベント運営の基礎的スキルとなった。カネはあまり関係なかったが、ヒトとモノの準備、配置、臨機応変な演出…。もちろん、事前に「今日はこんなファイヤーにしよう」というそれぞれのコンセプトを考えての行動である。後に、私は様々なカタチで、イベント運営に関わるのだが、この高校生時代の経験がベースにあると思う。こういう教科書に出てこないような学びを無意識にしていたのだった。

2年生の文化祭では、クラスで「劇団赤ちょうちん」という、スライド3本立て(イラストを使ったスライド劇で全員が声優として参加した。)の芝居小屋を自分たちの教室に作った。廊下側のデコレーションは、歌舞伎座のような、また映画館のような装飾。数多くのランプシェードの赤ちょうちん、入り口上部には同じくランプシェードの強大な赤ちょうちん。畳敷きで周囲は全てパネルで囲み、壁紙が貼ってあるという、かなり本格的な建て込みであった。デザイン科であるから、こういう装飾はお手のものである。(ちなみに教室を取り囲んだパネルは展覧会用に学校が所持しているものである。まあ、凄い学校である。)莫大な時間がかかったが、なんとか文化祭の開幕に間に合ったのを覚えている。今から思うと凄いイベント能力を備えたクラスだったと思う。その中心軸に私もいた。

ちなみに、3年の文化祭は、クラスで「だんじり」を作った。幅3m、長さ4m、高さ4mほどの巨大なものである。この時、私は文化祭実行委員長で、(いつか述べたように、生徒会副会長は俳優の時任三郎である。)前夜祭として、ファイヤーを焚き、だんじりを最後に登場させるという演出を時任と考えたのだった。ちなみに舞台をつくったのは建築科、照明は写真工芸科、ファイヤーはボーイスカウトの理事の先生がおられる金属工芸科という感じで、全校的なイベントを企画したわけだ。舞台で木材工芸科の時任とデザイン科の私が漫才をしながら盛り上げたのを思い出す。まさに青春である。(美術科だけ仲間はずれにした格好になったので、後でLHRの時に、自分たちの作ったUFOの映画を見にこいということになり、クラス全員で見に行き、なかなかのスグレモノで、美術科のUFOも登場させればよかったと後悔したという思い出もある。)そういう意味で母校は、なんやかんや言っても芸術系の大した学校だったわけだ。

ところで、母校のバウハウス様式の本館には中庭があって、時に信じられないようなコトが起こった。木の枝に、首吊り人形(非常にリアル)がつるされて大騒ぎになったり、芝生の上にナイフが突き刺さった死体(これも人形だが、非常にリアル)があったりと、こりゃあ、行き過ぎた自由、芸術至上主義が終わり、正常化され制服になるよなあという予感がそのころからあった。3年のある午後、私は授業をさぼって、中庭に寝ころんで、空を見ていた。この頃は哲学に凝っていたのである。隣のクラスの担任が通りかかり、「何しとるんや?」と聞かれたので、「哲学的思索です。」と空を見ながら答えたことがある。「そうか。頑張れ。」と言って去って行かれた。当時の母校を語るに適切な事例のように思う。(他の学校なら、生活指導に呼び出され指導を受けていただろう。怠学という業界用語があるのを、教師なってから知った。笑)

…なんとも破天荒な日々であった。教師になってから、いつか母校の教壇に立ちたいとずっと思い続けてきたが、こうして振り返ると、(正常化した)母校の教壇に立つ権利は私にはないような気もするのだった。

2021年5月13日木曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅱ

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今は昔、『評伝・辻潤』』という本を読んだ。ダダイストの生涯を描いたものだが、「評伝」という語彙は、なんとも魅惑的な響きがある。今日は、私の高校時代の話である。私の通った高校は、ほぼ無秩序な自由というか、デカダンスというか、大学のような感覚と言うか、今では考えられないような学校だった。

その中で、比較的真面目だったはずの私は、芸術という魔法の言葉に魅せられていく。1年生の時は、もっぱら白黒の映画作りに励んでいた。今のようなビデオではない。スーバー8という8ミリフィルムである。芸術性を求めて、大阪の様々な汚い場所をロケハンし、友人Yと1本の短編抽象映画を作り上げた。タイトルは、サンスクリット文字で言うキリーク(阿弥陀如来の印)であるが、当時はキリークという読み方も知らなかったので、タコマという全く無意味なフリガナをつけた。汚い人形がスニーカーに踏みつけられ、徐々に戻っていくシーンや、近鉄の生駒トンネルに吸い込まれていくシーン(これは快速急行のに乗らねば撮れない。石切駅からでは迫力に欠ける。もちろん鉄オタのように運転席横でフィルムを回した。笑)、高層ビルから下をズームアップするシーンなど、全く感覚的な抽象映画だった。先輩が、これをベルギーのアマチュア映画祭にエントリーすると言い出して、昨日のエントリーに出てきた恩師がフランス語を駆使してその手はずをしていただいた。そして、なんと入賞してしまったのだった。(ただ、入賞したという連絡があっただけで、賞金もトロフィーもなかったのであった。笑)

いつしか、髪の毛は肩に届いていた。完全に芸術家きどりであり、ジーンズで下駄をはいて登校もしていた。(当時は私服登校OKの学校だった。)無茶苦茶未熟だし、今思うと穴に入りたい気持ちだ。まあ、周囲にもそんな輩がうじゃうじゃしていたのだけれど…。

こうしてみると、私が教師になってからの生徒は、おとなしい。(工業高校時は、とんでもない生徒もいたが…。ちょっと種類が違う。)私たちの世代は、何度か書いたが、紛無派の先頭くらいだが、学園紛争の残り香があって、反体制=善、芸術=反体制という漠然とした想いがあった。私などは、かなり尖っていた問題児だったのだ。

2年生以後は、先日書いた大阪市の野指連に深く入っていくことになった。映画づくりからは外れていたのだが、先輩やYが問題作を製作、上映して、事件が起こった。映画中に女性のヌードのシーンが入っていたとかいないとか。教師側は見ていないのに、これを問題視して、関係者(先輩やY)は無期停学になった。私はこれに抗議し、生活指導の先生方との戦いを決意した。まあ、こういう生徒だったのだが、先輩からやめておけと言われ、矛を収めたのだが、結局先輩は「ここ(母校)の芸術は死んだ。」という言を残し、自主退学してしまった。(この先輩は後に、藤原信也の本の装丁などをされていた。先輩の名を見つけて私は大いに喜んだのを覚えている。)

波乱万丈の高校時代であった。ほんと、教師になってから、その立場から分析すると、私はとんでもない問題児であった。しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、教員採用試験の時助けていただいた恩師は私のような生徒を懐深く、おもしろい生徒だと認めていただいていた。この思いは、私の教師生活にも大きな影響を与えている。私は、学校に不満を持つ問題児をいままで大事にしてきたからだ。問題児だったからこそ、問題児の気持ちもわかるのだろう。

高校卒業後の逸話を4つ。その1:私が教育実習に行くことになった時、職員会議でかなり異議がでたらしい。それを社会科として世話をする恩師が抑えたという。たしかに教頭先生に、「現役生を決してあおらないように。」とくぎを刺されたのを思い出す。母校は私服から制服になっていたのだ。正常化したというか、別の学校のようになっていた。(笑)教育実習で、「制服になったのは我らの世代のせいだ。」と言うと、現役生に大いに受けた。(笑)その2:私が採用になり、商業高校に赴任した後、全校朝礼で生活指導部長が、「とんでもない先輩だったが今はりっぱに頑張っている。」と私のことを紹介していたらしい。これも恩師の情報共有。(笑)その3:いつか書いたが、この生徒指導部長が、私の赴任していた工業高校の校長として来られ、赴任した日に私を呼び、「ちゃんとやっとるか?」と聞いてこられた。2年生の担任だった私は、直立不動で、「はい。」としか答えれなかったのだった。その4:私が進学校の生徒指導部長になった時、母校で研修会があった。その時の校長は、私の在校時の生活指導部のNo2であった。理事だった私は、校長室にいやいや挨拶に行ったのだが、こそっと、「終わったら校長室に寄れ。」と言われ、やはり同じように「ちゃんとやってるか?」と言われたのだった。(笑)まあ、いくつになろうと、教え子は教え子なのである。私にも50代の教え子もいるけれど、やはり同じように接すると思う。

…ダダイズムとは、第一次世界大戦前後に、既成の秩序や常識に対して否定、攻撃、破壊しようとした芸術運動である。

2021年5月12日水曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI

塾の方は、中間試験直前で満員御礼状態である。受験生を激励していて、ふと自分の受験を想い、申しわけない気持ちになる。今になって大学受験完全にワープしたことをちょっと後悔している。今日はちょっとそんなことをエントリーしようかと思う。

中学の時、私は240人くらいの生徒数で20番くらいだった。実力テストで最高10番を取ったことがあるが、全ての試験で30番台になるようなことはなかった。まあ上から10%くらいだったわけだ。私の学区は、T高校が一番で、次がS高校。私の同程度のライバルだった友人は、ほぼS高校に行ったので、私がデザイン科に行っていなければS高校に行っていたはずだ。彼らは、国立に行った者もいるが、だいたい関関同立に行った。(現役も浪人もいる。)よって、完全文系の私もそういうカタチになったように思う。だが、デザイン科に行って、さらに推薦入試で関関同立以下の大学に行ってしまった。

高校の社会科教師になれば、同じ、と妙に自信をもって信じていた。しかし冷静に後から考えると、現実は甘くないということになるのだが、私の場合、結局現役で採用試験に合格してしまった。京大のTさんという修士の先輩が、哲学科であるのに国語の採用試験に合格した。私が社会科の採用試験(それも倫理専攻)に合格したことを報告したら、めちゃくちゃ怒られた。(笑)まあ、筆記の二次試験(倫理の記述試験)はよくできていたが、合格最大の理由は、私が大阪市立の高校出身ということで、しかも社会部会長が恩師であったことが大きい。後から推測するに、この頃から大阪市の高校では大阪市立の出身者を採用していく方向性があった。私はその一期生みたいなものである。S高校は府立だったので、関関同立に行っていても、現役合格できたかは定かではない、というよりおそらく無理だっただろう。

結局、私は大学の受験勉強などという試練を乗り越えていない。(採用試験時はだいぶ勉強したが…。)商業高校、工業高校時代はあまり気にしなかったが、進学校で受験指導することには違和感があった。自分の経験していないことを生徒に伝えるというのは、全く経験のない部活の指導をするようなものだからだ。といって、自信がないようなそぶりを見せるわけにはいかない。進学校9年、体育系の普通科5年で、少なくとも生徒をどう頑張らせたら、国公立や関関同立に合格させられるか、という経験を積んだ。マレーシアでは、そういう経験をもった先生は皆無だったので、重宝された。私自身の苦労の経験はないけれど、生徒の苦労を、少なくとも初めて受験する生徒よりは知っているわけだ。マレーシアでも、三崎高校でも、私が行きたかった大学に送りだすことができた。それは、ソフィスト的な私ではなく、ソクラテス的な私にならんとしてきたが故だと思う。

今も、様々な進学指導の研究を重ねている。受験に関しては、私は何も知らないというところから出発している。私には、これしかできないわけだ。

2021年5月11日火曜日

センサー付アルコール消毒器

未咲輝塾には、実にいろんな生徒が来ている。2年生のNさんは、パナマに留学していたという変わり種だ。生徒会もやっている、K県から来た活発な子である。大学は、工学部志望。そのNさんが、今日、塾に自作のセンサー付きのアルコール消毒器を持ってきた。

センサーに手をかざすと、消毒液が出る。なかなか大したもんだ。彼女によると、ボタンをプッシュするのにも気を遣う子がいるので、ボタンに触れないで済むもの作ってみました、とのこと。こういうマインドは実に彼女らしい。優秀な生徒だが、非常に優しい。

こういう個性的な子がいっぱいいるのが三崎高校の良さであると思う。今日も9時ぎりぎりまで物理をやっていた。(笑)

2021年5月10日月曜日

本日の帰国子女対策

https://sakuragakusha.com/archives/3580
中間考査まであと4日である。帰国子女のW君とはGW後、いつもの漢字学習を少し止めて中間試験の対策のための漢字学習をやっている。今回は2日間と言う短期間なので、国語・数学・地学基礎/化学基礎・英語だけが試験である。W君は英語能力はネイティブ並みだが、日本語、特に漢字はまだまだである。読めないものも多いし、書けるのは少ない。

数学は比較的いけそうだった。数Ⅰの因数分解。日本語は難しくない。国語は、手塚治虫の随筆と古典。これは完全にだめ。まだまだ読める段階にはない。古典は、もっと厳しい。地学基礎もやってみたが、日本語は無茶苦茶難しい。漢字もかなり高度である。先週は、かなり落ち込んでいた。

で、今日は化学基礎。聞くと元素の周期表を徹底的に身に着けさせようという先生の意図で、元素番号20までとあと8つほどの代表的な元素の番号・記号・読み方が出るようだ。W君は懸命に覚えていた。ただ、水素とか酸素とかの漢字が読めないし、書けない。今日はそこを重点的に指導した。教科書の周期表には、英語の表記もあって、覚えやすそうだ。ただ英語の発音とカタカナが一致していない。べたなカタカナ名になっているのである。漢字のの元素は、何度も書いて、「窒素」をすらすら書いたのには、少なからず驚いたし、大いに褒めたてあげたのだった。

やはり、努力すれば成果が出るわけで、この調子で頑張ってほしいと思う。私も出来る限りのサポートをしていきたい。

2021年5月9日日曜日

枇杷(びわ)の木は残ったⅡ

昨年、同じタイトルでエントリーした。我が教職員住宅の前の畑にある枇杷(ビワ)の木が荒らされた話で、先日ハクビシンの目撃談もエントリーした。あれからも、毎日のように枇杷の実が少なくなっている。夫婦共々、毎日観察しているので、気が気でならない。

最初は紙袋で保護をされていたのだが、雨や強風、さらにはハクビシンの能力のため効果は薄かったようだ。ネットで覆っている箇所もあり、そこはなんとか守られているのが現状。今日は、3つの画像を並べてみた。拡大可能なのでよーく見ていただくと、読者の方にもお判りいただけるだろうと思う。

田舎で暮らしだして1年半。都会暮らしではわからない様々な発見がある。以前記したが、ハクビシンは簡単に捕獲できない。こういう紙袋やネットで自衛するしかないのであるが、全くもって、何とかならないものかと思う次第。

2021年5月8日土曜日

妻と共に「講談」を聞く。

https://303books.jp/columns/4618/
最近、妻が「講談」をずっと聞いている。神田伯山という講談師である。私は、こういう芸能には実に暗いのだが、横で聞いていると、(落語以上に)実に面白い。

江戸時代の長ーい話などは十数回もあった。(最初の方と最後の方だけ私は聞いた。)お勧めは、私が2回目に聞いた講談で、これは新作講談(新作落語のような現代を舞台にしたオリジナル)で、『グレーゾーン』というもの。

実は、プロレスの話から始まるのである。プロレス大好き、と言うか神聖視している男子生徒と八百長だという周囲との葛藤が物語の始まりである。内容をばらさない方がいいので、これ以上の記述は控えたい。

この人の話術は凄い。私もそれなりに自信はあるが、私の知る限り最高の話術を持っている人は今ベトナムにいるT先生である。話術を磨くのに格好の教材かもしれない。

神田伯山『グレイゾーン』よければ…。

https://www.youtube.com/watch?v=jBcVwPbKOGM

2021年5月7日金曜日

「殻を破る」「がんばる」

愛車が緊急入院して2日目。今日は雨である。昨夜100段ほどある階段を下りていて、尻もちをつき、左足を痛打してしまった。おかげで湿布したものの痛くて寝不足だった。そんなこんなで、妻から今日は階段を使わぬように指示された。雨だし、また滑っては大変である。

途中、未咲輝ロードの生徒の絵を見ていた。このブログでも紹介したことがあるが、新しいものの中で、これはという2枚を見つけた。両者とも3年生の塾生のものである。しかも、アート班で防波堤の絵を描いた中心者の2人である。まあ、さすがと言うべきか。

上の犬には「がんばる」、下の般若には「殻を破る」というコピーが添えられている。2人をよく知る私としては、その辺の微妙なマインドが伝わってくるのが面白い。

実は、今日は地域おこし協力隊の連絡会がある日であった。完全に失念していたのは、体調不良のせいか、多忙によるものか、とにかく無断欠席してしまったのだった。あとで、講師陣に聞くと、今日は町長も参加されていたという。あちゃー、である。齢なのかなあ。講師陣にも迷惑をかけた。それを詫びると、「昨日私が確認しておけばよかったです。」「車が故障して代車がないというのを知っていながら声をかけていなかった私が悪かったのです。」との答え。ああ、我がチームだなと思う。帰りもコンビニまで、乗せていってくれた。

帰宅すると、妻が「車が帰ってきたので迎えに行こうかというLINEを読んでないの?」と言った。「多忙で見ていない。」と答えたが、愛車が退院してきて、ちょっと安心したのだった。

歳である。だいぶ無理をしているのかもしれない。今日は42人の来塾者。

「殻を破る」「がんばる」というコピー、私のマインドでもあるよなあ。あまり無理しすぎるとミスをする。大局を見て、ある意味無理をしないのも自分の「殻を破る」ことになりそうだ。そういう「がんばる」を心がけようと思う。

2021年5月6日木曜日

愛車、緊急入院す。

八幡浜警察署
妻の免許更新のために、朝から八幡浜警察署に向かった。国道197を走っていると、妻が「どうも変なにおいがする。」と言い出した。私は慢性の鼻炎ぎみで、あまり鼻が利かない。そうこう言っているうちに八幡浜市内に入って信号で停車した。すると、ボンネットから白い煙が出ている。ゲゲゲッである。とりあえず、妻の免許更新を済ませ、警察署近くのスズキの自動車修理工場に飛び込んだ。

幸い、人のよさそうな老整備士が、すぐに見てくれた。丁寧な仕事で、エンジンオイルが漏れていることが判明。わざわざリフトで上げてくれ、車体の下部を見てくれ確認した。その後、エンジンルームと車体下部の水洗いもしてくれたのだった。それで、オイルを足した分の料金のみ、2000円也。「なんとか三崎までは帰れるだろうが、地元の車屋さんに修理してもらった方がいい。」という忠告も受けた。

ゆっくり走ると言っても高低差のある国道197。ヒヤヒヤしながら三崎にたどり着いた。で、いつも世話になっているダイハツさんに車を預けたのだった。残念ながら代車が土曜日までないとのことで、今日は学校に歩いていくことになった。

GW中は結局あまり歩かず、2㎏ほど太ったのでまあいいかと思ったのだが、大汗をかいて息も絶え絶えになって疲れ切ってしまったのだった。愛車のありがたさが身に染みた次第。

2021年5月5日水曜日

三崎高校せんたん部のYouTube

令和2年度の三崎高校の地域創生の動きをまとめたYouTubeが、先月27日に挙げられていた。伊方町内の方のFacebookでその存在を知った次第。

三崎高校には、こういう作業に長けた、またセンスのいい演出ができる先生方がいる。最近、いろんな学校のHPや動画を見たりするのだが、クオリティはかなり高い。

一年生で何人か塾生でないメンバーも参加しているが、今春の卒業生も含めほとんどが我が塾生である。これは保存しておきたいと考えた。ちなみに、今日の画像にある教室は、我が塾の隣にある家庭科・調理教室である。

https://www.youtube.com/watch?v=NQaXyPdkQEM

(2020年度愛媛県立三崎高等学校せんたん部地域創生プロジェクト)

少し、長いのだけれど興味のある方は見ていただければと思います。

2021年5月4日火曜日

久しぶりにワインを飲む

GWもあと残り僅かである。今日は妻に焼き肉を所望した。もう歳なのでそんなに食べれないのだけれど、やはり焼肉はいい。で、今日はワインを飲んだのだ。と、言っても安物の日本製の小瓶である。

これには少し訳がある。3年生の塾生に美術系大学志望の生徒がいる。このところ、鉛筆デッサンをやっているのだが、瓶を描きたいと言っていたのである。それで、無理やりモチーフを作るためにワインを飲んだのだった。

私はあまり酒が強くない。ましてワインなど飲み慣れないので真っ赤になった。別段、ワインが好きでもないし、美味しいと思ったこともない。ビールもエビスとギネスの黒以外は好きではない。あえて好きな酒と言えばバーボンくらいである。(笑)宴会で、バーボンがあればバーボンを頼むことが多い。

ふう。顔が熱い。今日は早く寝ようと思う。

2021年5月3日月曜日

五月晴れにスクワット

家に閉じこもっているのが実にもったいないほどの五月晴れである。西予市の卯之町散策に行こうと朝考えていたのだが、米博物館などが見事に休館中で取りやめた。

このところ、血糖値も高いので、歩くことは不要不急ではない。しかし、結局家の中でじっとしていたのだった。最近、妻が糖尿病のためのスクワットをネットで探して教えてくれた。両手を並行に出してスクワット状態で停止=7秒間。なかなか苦しい。これを5セット。歩く方がはるかにいいのだった。

西予市の米博物館は、昔々TVで見たことがある、日本一長い廊下がある元学校で雑巾がけレースなどが行われる場所でもある。高野長英の隠れ家も見たいし、コロナ禍の警戒が解けたら行くつもりだ。

2021年5月2日日曜日

伊賀青少年野外活動センター

https://ameblo.jp/pitazou/entry-12410507761.html
家でじっとしているGWの最高のアイテムは、やはりYouTubeだと思う。鉄道マニアのS君の関西本線を難波から名古屋まで乗っていくのを見ていた。すると、柘植という駅が出てきた。実になつかしい。柘植は、大阪市立伊賀青少年野外活動センターの最寄り駅である。高校時代、開設前のワークキャンプのため何度か行った。

 高校時代、私は中学の恩師の関係で、大阪市立野外活動指導者連盟という組織に入れられた。(久しぶりにネットで調べてみたら2007年にNPOになっていて、そのHPにアクセスしたが繋がらなかった。つまり今は存在しないのではないかと思う。)この組織で高校生の野外活動のリーダーを育てようという試みだったようだ。当時、大阪市には、信太山と伊賀上野にキャンプ場があり、小学生をはじめとした大阪市立の学校や子供会が教育キャンプを実施しており、高校生を即戦力として使おうという目論見が短期目標、さらに大学進学後もキャンプ場でリーダーをしてほしいというのが中期目標、さらに教員にして野外活動を担ってほしいという長期的目標もあったと思う。

ちなみに、この短期目標は成功したと思う。この高校生集団の中核は、後に1年中稼働している大阪市立六甲青少年の家(ここも現在は存在しない)のリーダーとなった。(私は大学1回生で卒業した)後に小学校教員になった仲間は3名、私も高校教員になった。(野指連の先生方の長期的目標は成功したともいえる。)が、私は別の道を歩んだのだ。

とはいえ、最初の赴任校・商業高校では、信太山のキャンプ場に遠足で飯盒炊爨に行ったし、伊賀のキャンプ場・青少年の家でもリーダースキャンプでお世話になった。場長が野指連の先輩だったりして、緊張もしたことを覚えている。教育キャンプの教育的意義は大きいと思っている。

この伊賀の青少年の家とキャンプ場は現在はない。大阪市政が某政党によって奪われて以来、文化的な施設は文楽劇場などと共にカットされたからだ。府と市の二重行政がどうのこうのと、行政サービスを削減していった。(今のコロナ禍で医療崩壊寸前になっているのも、医者や看護士を削減したが故である。ちなみに、学校現場もひどく、一気に大阪の教員採用試験の倍率は低下した。)

野外活動の教育的な意義は大きい。未だに、「来た時よりも美しく」というロジック(大阪市の野外活動施設の十則のひとつ)は、大きく自分の中に残っている。教育キャンプは単なるアウトドアではない。まあ、こういう教育的効果がわからない政治屋だから大自然の中のキャンプ場をカットできたのだと思うが…。

2021年5月1日土曜日

GW最初の買い出しにて

寂しいGWである。5連休だが不要不急の外出も自粛が呼びかけられている。まあ、とにもかくにも、毎週の買い出しに出かけた。

我が教職員住宅の目の前に、ビワの木があるのだが、ハクビシンに次々食べられていて、夫婦ともビワを食べたいという思いが強い。(笑)というわけで、まあ、ビワを買いに行ったわけだ。本当は、道の駅を目指したかったのだけれど、不要不急というワードから離れていくような気もして、結局八幡浜に行くことになった。

今日の買い物で、珍しいものを見つけた。エースコックのワンタンメン味のスナックである。私は、このところ血糖値が高くて食べることはかなわないが、購入した。妻の気分次第でちょっと食べれるかもしれない。

四国では、あまりエースコックのワンタンメンはメジャーではない。しかし我が家の最メジャーインスタントラーメンは昔からこれである。キャベツを入れて食べると最高に旨いのである。スナックの方はどんな味なんだろう。