2021年5月20日木曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅴ

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T商業高校は、1学年10クラスという大規模校であった。教職員組合が強かったのには閉口したが、若手の兄貴分の先生方も多く、最年少の私は自由に何でもさせていただいた。時折、飲みに行こうと誘われて、叱られもしたが、可愛がっていただいた。

3年目の男女クラス。5月には修学旅行があった。東北への旅(今日の画像は、八幡平の水芭蕉)で、キャンプファイヤーもバス車中レクレーションも担当させていただいた。(昨年のリーダースキャンプで育てたメンバーが熱心にやってくれた。)まさに、私のチームであった。これが、クラスに波紋を及ぼすことになる。チームのリーダー群が、総スカンされて、文化祭では舞台ではなく模擬店をやることになったのだ。結局、もち米からふかして、餅をつき、販売するというかなり手の込んだ模擬店になったのだが、正直私は残念だった。各クラスに散らばっていた私のチームのメンバーは、有志で演劇をつくりN市市民会館に挑戦するという。結局、各クラスでのリーダーとしての仕事をやり切りながら、有志の劇の方もやりきってくれた。が、これでよかったのかどうか。私にとっては、まさに3年目の蹉跌ともいうべき経験であった。

もうひとつ、大変な出来事もあった。クラスの男女が駆け落ちしたのだった。約1か月の逃避行後、ついに見つかり、女子生徒の家にS学年主任と駆け付けた。(私は八尾からバイクで行ったのだが、深夜の帰路、中央環状線でガス欠になり、警察のガソリンスタンドに助けてもらうというオマケまでついたのだった。)結局、両名とも、卒業まであと少しというところで中途退学することになったのだった。私は、男子生徒に、ホイットマンの詩集を送った。彼が詩が好きなことを知っていたのである。これも大きな3年目の蹉跌だった。卒業式当日、彼らのことに触れ、涙したことを覚えている。担任として最初の卒業生だったが、良き思い出もつらい思い出もたくさんあったわけだ。

ちなみに、チームの中心だったK君は某東証一部の会社(後にある事件で日本中に名前を知られる)に合格した。進路指導部から絶対無理だと言われていたのだが、面接指導を私がかってでて、気持ちを前面に出すよう指導した。実際の最終面接では、「高校を出たての君に中小企業の社長相手に営業なんかできると思っているのか!」と叱咤されたらしい。K君は、「出来ます!」といったまま、その面接官の目を見つめたまま、長い沈黙が流れたという。絶対に面接官の目から視線を逸らすなという私のアドバイスを守ったわけだ。全国でたった2名の高卒として入社できたのだった。だが、営業職で募集されていたのだが、経理課に回された。辛抱強く深夜まで働き、残業手当も多く莫大な預金が出来たらしい。

その後、私は念願の生活指導部で生徒会の担当になった。3年間やり抜いて、商業高校最後の年、S先生という当時の学年主任に乞われて3年生の担任をすることになった。S先生がおっしゃるには、選択科目の関係で最もしんどいクラスだという。「君にしか頼めない。」という、ありがたい言葉をいただいた。2年間の累計で欠席数、遅刻数、これまでの欠点の総単位数全てが学年ワースト1という女子クラスだった。

最初のHRで私はこう言った。「文化祭で最高のミュージカルをやろう。」「LHRは全て11月の文化祭に向けて企画・練習に充てるぞお。」この言葉に、それまで自己肯定感を持てなかった生徒たちの目が輝いた。…つづく。

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