2021年5月26日水曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅸ

15年の工業高校生活で、担任は2回。いずれも機械科で1年から3年まで連続で務めた。最初の担任は、機械科は3クラス体制でB組、2回目は学年主任を務めながらの2クラス体制のA組だった。1回目の担任では、個性的な生徒が多く、いろいろなドラマがあった。

1年生の文化祭の終了間際、一般の方への退場をお願いしていた社会科の後輩のT先生に対する暴行事件が発生した。ちょうど、M1Bの生徒たちの目の前での出来事だった。私が体育館の舞台から出るとなんか騒がしいなと気づいた。とにかく走っていくと、評判の悪いOBが毒づいている。見ると、T先生は眼鏡越しに暴行を受けたようであった。間に入り、落ち着けとOBを制した。この時、我がM1Bの生徒達は、かなりビビっていたようだ。もし、私が暴行を受けたら、自分たちも行かねばなるまいと、話し合っていたらしい。結局、犯人は、このOBの友人で、すでにこの時校外に逃げていた。その時間稼ぎだったようだ。大事件だった。T先生は、救急車で救急の眼科を求め、奈良まで行くことになった。M1Bの生徒達は、現場を目撃しており、I警察署で事情を聴かれることになった。生活指導室で、生徒の帰校とT先生の安否を知るため、夜遅くまで残っていた。翌朝、クラスの代表が、洋酒を持ってきた。「昨日はお疲れさまでした。」「お前らこそ大変やったな。」「これ、俺らの気持ちです。」この時、私が暴行された場合について真剣に話し合っていたことを聞いた。ちょっと嬉しかったが、実際に何も起こらなくて不幸中の幸いであった。

このクラスには、短ランで来ているF君がいた。父子家庭で、最も特別指導を受けた生徒だ。タバコで3回目に捕まった時、私は毎日食堂に誘った。最初はきつねうどんから始まって、最後はかつ丼とラーメン。後に彼の結婚式で仲人をすることになるが、打ち合わせの時「先生は何も言わず、毎日奢ってくれて、豪華になっていく、あれはきつかったす。」と言っていた。今は独立・起業し、社長である。毎年年賀状が届く。

この第一回目の担任時文化祭では、VTRを作成した。22時頃まで編集していて、急にチャイムが鳴ってみんなで逃げた「六角ボルトブルース」、柔道の畳を積み上げてリングを作った「ネッキ―(ロッキーのパクリである)」。個性的な皆の顔が浮かぶ。やんちゃだが、男の美学を叩き込んだ連中である。就職時は、バブル景気で、就職は好調だった。某ゲーム業界の企業に就職したOBが、6月に300万円のボーナスをもらったような時代だ。

二回目の担任は、B組の担任の野球部の監督とクラスを分けるときに、うちのA組はサッカー部、B組は野球部を中心に集めた。この担任時は、全生徒の家庭訪問を敢行した。ところが、A組はどんどん中途退学者が出た。堺の鑑別所にも何度か行くことになった。ある日、某警察の少年課の刑事が来て、我がクラスの「生徒を逮捕したいが顔がわからない、SHRに同席させてほしい。」とふざけたことを言う。「自分の生徒を売る奴がいるか!」「そんなことでできるはずがないやろ、自分で探んかい!」と怒鳴りあげたこともある。刑事を追い出した後、塩をまいたのだった。武勇伝・武勇伝。

結局、2年になった時点で半分になっていた。3人いた原級留置組も皆いなくなっていた。2年のクラス編成時にB組から補充してもらってなんとか30人クラスになった。2年以後は比較的平和で、またまた、ソーラーカーのVTRをつくったりした。おそらく、このブログの読者であるN君にとっては内容的に物足りないだろうが、学年主任の仕事の方が忙しく、2回目の担任時は楽しいことより、苦しいことの方が多かった。就職も氷河期だったし…。

15年に及んだI工業高校では、最後の何年かは、学校運営に関わることになった。予算と人事を司る役になったのである。ちょうどウタハタ(業界用語で国歌・国旗問題)の時期で大変だったし、この頃になると、人事を巡って、各科の職員室を訪れると、コーヒーを入れてもらえるような身分になった。(笑)若手から中堅へ。責任ある立場に育てていただいたのだ。この経験を積んだことも教師生活の中で大きい。破天荒な私も、40歳を過ぎて大局から物事を判断することをやっとこさ学んだのである。

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