2013年8月31日土曜日

トゥルカナ湖とスーツケース

天人峡 羽衣の滝
このところ、2年生の授業で、北海道修学旅行のリサーチをしている。私が一番懸念しているのは、baggageのことである。女子高生というのは、やたら荷物が大きいらしく、体育の先生に聞くと部活の合宿などでもキャスター付きのスーツケースで来る生徒も多いらしい。

昨日、TVでケニアのトゥルカナ湖の近くに住む女性を訪ねて、芸人のSがキャスター付きのスーツケースを引きずって歩いていた。当然、アスファルトやコンクリートの道などあるわけがなく、ダートである。その次の女優のモンゴル訪問でも同様だった。私は、これは民放特有の稚拙でクサい演出だと思っている。このスーツケースに、先進国日本を詰め込んで、差異を強調するのだろう。アホじゃなかろか。全く美しくない。

たしかに、スーツケースは便利である。私も持っているが、あまり途上国の旅には向かないと思っている。ジンバブエ行の時は当然バックパックだった。但し、ブルキナファソ行ではスーツケースだった。理由は単純で、日本からIさんへのおみやげの焼酎を運ぶためだった。(笑)実際は、機内持ち込みサイズのリュックでサヘルまで行ったし、ワガドゥグ滞在型の旅だったからこそスーツケースにしたのだった。あの便利なキャスターは、状況によっては邪魔でしかない。

ところで、昨年一泊目のホテルを下見に行った時は吹雪で30cmほど積雪していた。大雪山系の素晴らしい宿なのだが、もし、同様の事態ならキャスター付きのスーツケースだったとしたら、バス下車からホテルまでの道は凄いことになる。。しかも、女子生徒の宿泊する別館にはエレベーターがない。だからコーディネーターの私としては、あまり勧められないわけだ。このことを理解したうえで、スーツケースを使うならそれもいいが…。と、生徒には言ってあるのだ。日本にも時期によってはスーツケースが似合わないところがあるわけだ。

ところで、例のTV番組の演出はともかく、トゥルカナ湖は素晴らしくキレイであった。行ってみたいな。

2013年8月28日水曜日

模擬店は「海の家」 その2

1学期のバズ・セッションの様子
新学期初日は、中学生の体験入学が午後から行われる関係で、3時間だけの授業だった。しかも3限目はLHRだった。我がクラスでは、模擬店の海の家の飾り付けのための打ち合わせに使った。

授業前、3年生の担任のM先生と話す機会があった。M先生は、昨年も3年担任をしていた。2年連続で大変だと思う。昨年は元気あふれるクラスで、私が1年担任の時の団をリードしてくれた。それに比べて、今年は「やりやすい生徒たちです。」と、喜んでおられたのだが、さてさて団活動に関しては、あまりうまくいっていないらしい。朝から体育祭のダンスの練習をしているとのことで、何人集まっているか見に行くのだそうだ。「こんな事は7年間本校にいますが初めてです。」とのこと。3年生は、1・2年生を引っ張っていかねばならない。特に1年生に、本校の祭りはこんなに凄いんだということを見せる必要がある、とM先生は考えているとのこと。全く同感なのだが、恐ろしくペースが遅いので大変心配されていた。「少なかったら朝から叱りつけるつもりです。」とM先生。

私は、1・2年生で生徒に、イベントの段取りを徹底して教えておきたいと思っている。今日のLHRでも、来年のために教えておきたいことを伝えた。それは「勝利からの逆算」である。

黒板上で決まった装飾デザイン
1学期中に、装飾のデザインは決まったので、今日はまず、生徒自身で装飾のパート担当を自由に決めてもらった。クラブで忙しい生徒もいるのでアトランダムだが、それでいい。パートの担当者はあえて決めていない。ある生徒が、「このパート分け記録しておいたほうがいいですよね。」と言ってくれた。そう、そういう声を待っていた。頼めるか?と言うと、きっちりとメモしてくれた。(それはLHR後、教室側面の掲示板に張り出された。)責任感をもってやる者がやるべし、とうのが私の流儀である。

みんなで、次に工程を考えてもらった。あらかじめ、縦軸に日付と曜日、横軸には「工程」「必要なモノ(原材料・工具等)」と書いた単純な表を何枚も用意しておいた。これに書き込んでいく。教室横の掲示板に名簿とともに貼り付けておく。さあ、後は、みんなの熱意が動かしていく。

なかなか良い雰囲気の中でLHRは終わった。どんどん他のパートにも協力するように言ってある。自分の役目だけ果たせばいいというイベントでは人は育たないと私は思っているのだ。

2013年8月27日火曜日

アフリカへ古着を送ろう 9

始業式である。先日の豪雨以後、空気の質が秋に変わったようだ。真っ昼間はやはり汗ばむが、少し過ごしやすくなった。今学期も、始業式前に部活の表彰が延々と続く。みんなこの暑い夏、頑張ったのだ。ダンス部など全国準優勝。我がクラスからも1人M君が表彰を受けた。たいしたもんだ。(拍手)

さて、話は始業式前にもどるが、SHRで教室に行くと、段ボールが山のように積み上げられていた。模擬店の装飾のために、どどどっと一気に持ってきてくれたのだった。十分な量である。今年の夏は、ほんと暑かった。昨年は有志のメンバーが汗まみれになって、学校近辺を回って集めてくれたのだが、今年はもし同じ行動に出たら止めていたかもしれないほどの暑さだった。結局、買い物に男子が2人夏休み中に登校してきてくれたくらいだったので、さてさてどうなるか心配していたのだが、LINE(最近評判が悪いが、クラス内の討論などには、うまくつかうと非常に便利だそうである。)で打ち合わせていたようで、我がクラス、なかなかやる。

なかなかやると言えば、我がハランベー・プロジェクトである。夏休み中に古着を集める箱を4つ作ってくれた。いよいよ今日から古着の回収開始である。2Fの渡り廊下に設置した。さっそく古着が入っていて感激したのである。始業式では、男気じゃんけんで勝ったメンバーが、再度全校生徒にアピールしたのだった。放課後、回収の段取りも確認して、いよいよ戦いが始まったわけだ。

やはり、生徒といろんな話をしていると楽しい。今日だけでも何十人の生徒に声をかけただろうか。私の教師生活も徐々にカウントダウンが始まっている。実は体調がやはりよくない。おまけに左目に汗が入って膿んでしまった。あまりに痛いので始業式の日から午後2時間休を取って、眼科に行ってきた。結局、麻酔の目薬を4回さしてから、膿を出すというちょっとした外科手術を受けたのだ。今、眼帯をしながら片目でエントリーしている次第。はぁ~。

2013年8月26日月曜日

「腰ぬけ愛国談義」を読む。

半藤一利氏と宮崎駿氏の対談、「腰ぬけ愛国談義」(文春ジブリ文庫/本年8月10日第1刷)を読んだ。半藤氏は明治から昭和史の著作がたくさんあってなじみの作家である。今、上映中の「風立ちぬ」を半藤氏が見る前、見た後と二部に分かれているのだが、話はあちこちに飛ぶ。そこがまた魅力である。今日は気になった部分をいくつかセレクトしておきたい。

半藤:この国は守れない国なんです。(中略)なにしろ海岸線が長い。(中略)国民のほとんどが海岸沿いの平地に暮らしている。(中略)ならばこそ、この国を守るためには攻撃だ、ということになったんですね。この国では「攻撃こそ最大の防御」という言葉がずいぶん長い間支配的でした。(この考え方は)「自衛」という名の侵略主義に結びつくんですよ。近代日本の最大の悩みは、まずそれがあったと思います。(中略)そして、戦争に負けてからこっち、何十年ものあいだにこの長い海岸線に沿って原発をどんどんおっ建てた。
宮崎:なにしろ福島第一原発ふくめて五十四基もあるんですから、もうどうにもなりません。
半藤:そのうちのどこかに一発か二発攻撃されるだけで放射能でおしまいなんです。この国は。今だって武力による国防なんてどだい無理なんです。
宮崎:膨張する中国を横に見て、その大陸とこの原発だらけの列島をどう共存させるのかという戦略的な視点が必要なのに、ちっぽけな岩礁一つを巡ってチョッカイを出し合っている様子はというのは、まことにバカげていますね。(P67~69)

半藤:安っぽい民族主義は国を誤らせるもとです。
宮崎:問題はこれからですね。東アジアの情勢が世界の情勢を大きく左右すると思います。中国の動向というのは世界の運命ですよね。(P71)

半藤:いずれにしても日本が、この先、世界史の主役に立つことはないんですよ。
宮崎:ないですね。ないと思います。
半藤:またそんな気を起こしちゃならんのです。日本は脇役でいいんです。小国主義でいいんです。(P77)

うーん、いくつかセレクトと書いたが、タイトルにかぶる最初の方のところだけで、こんな量になってしまった。また続きをいつかエントリーしようと思う。航空機の話が後半だいぶ出てくるし…。(笑)

2013年8月25日日曜日

サッカー部の試合を見に行く2

全員で勝利を誓う
正月の国立競技場に繋がるサッカー部の公式戦が始まった。昨年は、3回戦にいくという約束をしていたら、予想外の敗戦で行けなくなった。と、いうわけで今年は、とにかく1回戦から見に行くことにしたのだ。サッカー部は、2年生のみならず3年生にも直接の教え子がいるが、毎日どこかで走っているし、みんな顔なじみだ。

今日の会場は、府立S高校という芝生のグランドのある高校である。第3試合で12:30開始だった。ところが、さあ行こうとしたら、凄い雨である。排水路があふれていた。(我が枚方市は171mmという降雨量を記録したと後のニュースで知った。)試合会場でも、雷雨の影響で1時間ほど繰り下がって実施されていた。サッカーには、雷はともかく、雨は関係ない。

幸いにも第3試合が開始されるころには、雨は上がった。私はBチーム(ベンチから外れているメンバー)の応援団の横で応援することにした。野球の応援同様、メガホンで声を出し、替え歌を歌ったりするのだが、ドラムが入る。歌も違うし、攻守が変わるのが速いので、かなり違う。なかでも「♪世界で一番オソロシイのは~誰々の速いドリブル~」というフレーズを私はかなり気にいったのだった。(笑)

試合の方は前半3点、後半3点と着実に得点を重ね、6対0で勝ったのだった。近くで見てられたPの方が、私がフォーメーションの流れからゴールを予告すると入るので、ずいぶん感心していただいた。新任のころから、およそ15年くらい(サッカー未経験だが)顧問をしていたので、そういうフォーメーションの善し悪しだけはわかるのだ。先日も、監督のT先生と話していた。世代的に生徒の技術は向上しているとのことだったが、ほんと上手い。トラップもボールコントロールも上手い。だが、上には上がいるそうだ。やはり、最後は相手のフォーメーションのスキをつく勝負となるわけだ。

私としては、大雨をおして、生徒に見にいくという約束を果たせて満足であった。だが、3時間近く立ったままだったので、今日は寝ている間に足がつりそうな気がするのだった。(笑)

2013年8月24日土曜日

日経 国連のサムライ

下記WEB記事から
昨朝、火事のさわぎの後、モーニングで日経を読んでいたら、最終面の交遊抄で、外務省のアフリカ部長岡村善文氏の「国連のサムライ」が目にとまった。およそ、次のような内容。

1999年8月、岡村氏は日本政府から国連コソボ暫定統治機構に派遣された。ところが、ここでは仕事は自分で見つけろと言われて困惑する。結局住民の住宅の修復にあたることになるのだが、国連職員の井上健氏が知恵をかすのである。日本からの資金を配布するのではなく、資材を調達して配布することとし、日本からボランティア17名を呼び寄せ2000戸を修復し、越冬難民を出すこともなく成功裏に終わった。その後、井上氏は民族対立の激しい地区の市長を務め、住民と格闘しつつ復興に取り組んだという。さらにその後井上氏は東ティモール、そして最近はソマリアで頑張っているという。

「組織に頼らず、難関に立ち向かう紛争地のサムライ」と、岡村氏は井上氏を評している。井上氏のように、地道に地球市民のスタンスにたって頑張っている日本人がいるわけだ。井上氏も緒方貞子氏同様、決断できる人であり偏見のない非日本人的な人だと思う。「組織に頼らない」という修飾語は極めて示唆に富んでいると私は強く感じだ次第。

<井上健氏の活躍を載せているWEB記事>
http://search.babylon.com/imageres.php?iu=http://www.unforum.org/unstaff/img/84-1.JPG&ir=http://www.unforum.org/unstaff/84.html&ig=http://t2.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQ7qU5h9r7_W4zgGrkmdN-Cz3zhmSJ6PD3zNRwytnaBizDnGIP8-QozlPk&h=3

2013年8月23日金曜日

祝イチロー日米通算4000本安打

私は、イチローの大ファンである。ついに昨日、日米通算4000本安打を達成した。イチローも試合後のインタヴューで言っているように、ヤンキースのチームメイトが、試合中にもかかわらず、一塁のイチローのもとに祝福に来てくれたことに感激したというのは、この記録があくまでイチローの中でも「日米通算」である事を強く意識していたからに他ならない。さらに上の記録をもつピーター・ローズ氏も、日本での記録をマイナーでの記録扱いする発言をしている。憤慨している人もいると思うが、ある意味筋が通っていると私は思う。

ピーター・ローズ氏が言うように、日本とメジャーでは、試合数も違うし、移動距離も違う。過酷であることも事実だ。日本がワールド・ベースボール・クラシックで二度優勝して、メジャーとの距離が縮まったとはいえ、メジャーはメジャーとしての矜持がある。だからこそ、イチローも松坂もダルビッシュも燃えるのだ。イチローはそういう意味合いをよく理解しているわけだ。

もし、日本のプロ野球で活躍するアジア人の選手がいたとして、自国のプロ野球でのホームラン数と合わせて、王選手を抜いたとしよう。それを日本人は認めるだろうか?それと同じことだ。

イチローとしては、4000本打った事を素直に喜びたいところだろうが、必要以上に大騒ぎされることは反対に困るところだろう。私は静かに、彼の偉大さを喜びたいと思っている。

火事で危うく愛車焼失の危機

 今朝、放出駅に降りると、びっくりするような光景が広がっていた。20台近い消防車が駅前の道路に出初め式の如く集結しているのだった。火事らしい。嫌な予感がした。どうやら消火作業は終了しているようだが、私が普段駐輪している場所の方にポンプ車のホースが伸びている。

結局大きく迂回して駐輪場の近くまでたどりついた。駐輪場のスタッフがいたので中へ入れてもらい、自転車を出すこと成功したのだが、火事の現場は、道一つはさんだ向かいの廃屋だったのだ。あやうく我が愛車が燃えてしまうところだったぞ。まだくすぶっていたし、火も見える。

愛車を出した直後の現場
TVのニュースでは、大きな火柱が立っていたらしい。妻からのメールを後で読んで知った。(笑)と、いうわけで今日は凄い始まり方をしたわけだ。

下校時にも、現場の封鎖が続いていた。妙なカンが働いて、朝通った道を使って駐輪場に行ったので事なきを得たが、だいぶ経っているのに焦げ臭い。本校の始業式は火曜日である。まだ登校する生徒が少ない夏季休業中だったのが幸いだったと思う次第。

2013年8月22日木曜日

水曜・定休日対策の話

水曜日はここに
一昨日、毎日通っている喫茶店に行くと、明日から毎週水曜日が定休日になると言われた。ゲゲゲッ。いや、じぇじぇじぇか。習慣化している日常の変化は困るぞ。で、昨日、駅前の駐輪場から新しい喫茶店を求めて探索を開始した。いつも下校時に閉まっている喫茶店が開いていた。7:00~17:00が開店時間らしい。私がモーニングに入るのは、7:10くらいなのでOKだ。

毎日行っている喫茶店は、コーヒー(おかわりOK)+トースト+ゆでたまごで400円。こっちは、コーヒーのおかわりがないが、その分ちょっとだけだがヨーグルトがついて380円。なかなかいごごちも良い。

問題は日経がないこと。読売新聞が置いてある。いつも通う喫茶店では、たとえ他の客が日経を読んでいても空いたら、私に持ってきてくれる。常連ならばのサービスだ。

とりあえず、水曜日は、ここに行くことにしたのだった。これで、なんとか日常を守れてちょっと安心。今日は超個人的なエントリーである。(笑)

2013年8月20日火曜日

朝日 ボツワナのデ・ビアズ

ボツワナ ハボロネ
朝日新聞で、ダイヤモンドの市場の変化について2日間にわたって報道されていた。かつて、ダイヤモンドといえば、南ア、オッペンハイマー家のデ・ビアーズの支配、と相場が決まっていた。それが、ついにロシアの採掘量が世界一となり、「サザビーズ」や「ティファニー」の子会社、香港の「周大福」などに販売経路を拡げているという。オッペンハイマー家もダイヤモンド=シンジケートから撤退、ダイヤモンド価格は、一応市場原理に基づいて販売されているらしい。(一応というのは、現在も需給調整が暗黙のうちに行われているからである。)

で、ボツワナである。ボツワナは、コンゴ民主共和国につぐ世界第三位の採掘量を誇る。近隣国ジンバブエが第四位、アンゴラは第七位、南アが第八位。これらを合わせると、ロシアよりはるかに多い。依然としてコンゴ民主共和国を含めた南アフリカ地域は、ダイヤモンド採掘では世界一のエリアなのだ。首都ハボロネに、ロンドンからダイヤモンド原石取引所が移転してきた。デ・ビアスのかかえるダイヤモンドの73%はボツワナ産だという。ボツワナの協力抜きでデ・ビアスは存続できなかったらしい。ここで年10回の取引が行われ、毎回数百億円が動くと言う。ボツワナの原石加工技術は今や最先端であり、しかも2011年以降、デ・ビアスの原石販売量の10~15%を独自販売する権利を得て収入を得ている。見事な戦略である。

ボツワナの凄いところは、多くのダイヤモンド関係の雇用(ホテル業なども含めて)を生み出ているだけでなく、その富を一部の権力者ではなく、国家総体の開発に向けていることだ。アフリカの優等生と言われる所以はそこにある。

ダイヤモンドの世界も、ますますグローバリゼーションで市場競争が進んでいくのだろう。そこにビジネスチャンスが創生されていく。同時に勝者と敗者が生まれ、さらなる経済格差が生まれていくことも事実である。最近、そういうグローバリゼーションと国家の関係にについて考えているところだ。

2013年8月19日月曜日

ブルキナファソという国名 3度

ブルキナファソの田舎の風景
またまたTVの話題で申し訳ないが、先週くらいから、TVで「ブルキナファソ」の国名を3度耳にした。最初は、世界陸上での中継で、毎回世界陸上大会をレポートしている某俳優が、ブルキナファソの選手が100mの予選を通過した時、「誰も知らない、ブルキナファソという国の選手が予選を通過した。」という旨の発言をした。正直、ムカッときたので、すぐチャンネルを変えた。毎回レポートしているプロの発言ではない。勉強不足もはなはだしい。

2つ目は、以前エントリー(本年3月16日付ブログ参照)したブルキナファソ出身の野球少年の話だ。高知の独立リーグでテストを受けたがだめだった。帰国して再度挑戦するのだという。なかなかいいところまでいっていたらしい。くじけずに頑張ってほしいものだ。

3つ目は、昨日エントリーしたNHKの「緒方貞子」の中で、国連勤務時代、緒方氏がブルキナファソから来ていた職員のすばらしい能力を見抜いたという話。緒方氏には、一切偏見がないという評価がある。ブルキナファソという小国から来ていた青年であろうと、先進国から来ているベテランであろうと、彼女の眼には同じに映っていたのだろう。極めて非日本的だ。そういう話も放映されていた。

短い間に、私が耳にしたブルキナファソという国名。ああ、みんなどうしているかな、と里心。

2013年8月18日日曜日

NHKSP「緒方貞子」 深読み

NHK HPより
昨夜NHKスペシャル「緒方貞子-戦争が終わらないこの世界で-」を見た。1時間半の長い番組だったし、こういう良い番組ではすぐ感想を書かず、1日寝かすことにしている。本当に印象に残ったことがエントリーできると思うのである。

緒方貞子氏は言うまでもなく、UNHCRで高等弁務官として活躍し、JICA理事長も務めた女傑である。「人間の安全保障」という概念を開発に携わる人々にもたらした人物でもある。しかし、案外彼女の経歴やそのバックボーンを知らなかった。この番組は、その部分に力を入れていたと思う。

緒方貞子は、日本の閨閥でいうと、母方では犬養毅のひ孫であり、夫は緒方竹虎の三男にあたる。日本のエスタブリッシュメントの1人でり、それゆえ聖心女子の出身であるわけだ。ノブレスオブリージュ(ヨーロッパ貴族の誇りであり義務:貴族として尊敬される故に、人民の先頭に立って戦う姿勢)を彼女は聖心女子と父から得たように思う。彼女の父は、日中戦争時の香港総領事であり、平和を唱えた孤高の外交官でもある。彼女は、国際政治学者であり、日本の敗戦の理由を探った。結論的には、日本人の集団的責任回避であったようだ。(私も同感)大学で非常勤講師を務めながら、子育て中だった彼女に市川房江が、日本の婦人代表として国連に3カ月行くことを願いに来る。この時も父が、「行くと決めて、後のことは皆で考えればいい。」と背中を押す。以後、国連での積極的な発言が認められ、高等弁務官になるわけだ。彼女の高等弁務官時代は、東西冷戦直後で民族紛争が多発し、難民続出という困難な時期だった。

「難民は国外避難民」である。UNHCRはそういう定義で支援している。イラクのクルド人がトルコに入国拒否され、「国内避難民」となっていた。彼女は、部下の意見を辛抱強く聞いた後で、UNHCRの官僚主義を打破する。「UNHCRを必要としている人々がいる。後のことは皆で考えればいい。」という現場主義である。以後国内避難民にもUNHCRは支援の手をのばすことになる。またコンゴ民主共和国(当時ザイール)のルワンダ難民キャンプでの、国境なき医師団の離脱や治安問題では、ザイールの軍を使うことを強行する。彼女のリーダーシップ・実行力は、日本を敗戦に導いた軍や政治家の対蹠点にある。きわめて非日本的である。だからこそ、各地の難民キャンプ生まれた「サダコオガタ」という女の子が何人もいることになる。(アフリカでは、記録という意味合いで子供に様々な名をつける。飢饉とか干ばつとか言う名をつけて、子供の年齢でそれを記録に残すわけだ。とはいえ、彼女の人徳がそういう名前に残す行為を何人も呼んだのだと私は思う。)

ところで、NHKは何故8月17日という日に、この番組を放送したのだろうか。NHKに「ニュース深読み」という番組があるが、このことも深読みが可能だ。
第一は、緒方貞子氏の決断力を強く賛美していることから、今秋にも予定されている政治課題の決断を強く促しているように見えるのだ。
第二は、終戦記念日に必ず起こる中韓からの非難に対し、こんな凄い人もいるんだと日本人に自信を与えようとしているように見えるのだ。
第三は、JICA理事長を3月に退任し、組織に対して気兼ねなく放送できたこと。さらにすでに綬勲している文化勲章以上の綬勲の情報があるのかもしれないこと。緒方貞子氏ももう85歳である。

いずれにしても、緒方貞子氏は偉大である。ホント地球市民の代表のような人だ。ご健康とご長寿を心から祈りたい。

2013年8月16日金曜日

山本幡男氏の「道義」

隠岐に残る山本氏の石碑 HPより
終戦の日の昨日、たまたまアンビリバボーというバラエティ-番組で「収容所から来た遺書」という、とても民放のバラエティー番組とは思えない、NHKのドキュメンタリーにも匹敵するほどの内容を見た。主人公の山本幡男氏は、シベリアに抑留されていた方である。

家族と共に満州にいた山本氏は、「この戦争は負ける。」と言い、「子供に教育をつけさせるように」と述べて家族を帰国させた。2ヶ月後終戦となったが、山本氏はシベリアに送られ抑留生活を送る。重労働の地獄のような日々の中で、希望を失わず、雑誌を発行したり句会を催したりする。日本語の文章を書くこと自体がスパイ行為と見なされる中での話である。「いつか必ず帰国できる。」と常に仲間を励まし続けてきた山本氏だが、ついに病に倒れる。すでに手遅れであった。仲間は山本氏に遺書を書くことを勧めた。ノートに記された15ページ文の遺書を残し、彼は他界する。仲間は、限界状況の中で、この膨大な遺書を有志で分けて暗記する事を思いたつ。いつ帰国できるとも解らない中で、常に脳裏に刻んでおくという苦行のような行為である。もしメモなどが見つかったら死の危険さえもあった。しかし、彼らは、2年後その分割して記憶された遺書を一言一句そのままに、次々に家族の元に届けるのである。

本人の筆跡でない遺書を受け取った妻は、訝しがる。しかし、その違う筆跡に隠された事実に、夫の人徳を深く感ずるという話である。届けた仲間もまた、山本氏の遺書に励まされ生き延び、こうして帰国できた、と感謝しているのだった。

凄い人がいたものだ。仲間との命がけの絆をここまで構築できる人がいたのだ。ただただ感動せざるを得ない話ではないか。

そして長男は、山本氏の「子供たちに教育を」という意思を体現して、東大に進学し教授となった。その長男が、遺書にある「最後に勝つものは道義だ。」という言葉について語るのだ。道徳ではない。「道義」である。
道義とは、「人のふみ行うべき正しい道」であり、「道理」である。山本氏の道義とは、人間は、いかなる限界状況の中でも希望を捨てず前向きに生きるべきだという事だと私は思う。そして山本氏の道義は、死をも超克したのだ。

<アンビリバボーのHP>
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/130815_1.html

2013年8月14日水曜日

秋田商を甲子園に応援に行く。

さー行くぞ、さー行くぞ。
先ほど、甲子園から戻ってきた。秋田商業高校の応援からである。自宅を6時過ぎに出て、甲子園駅に7時30分すぎに着いた。内野席の入場券を求めて凄い行列ができていた。外野席しか無理かなあと思ったが、一塁側アルプスの入場券は比較的簡単に入手できた。第一試合だったのが幸いした。(前回の一回戦では全く入手困難だった。)
アルプス席には、すでに秋商の生徒諸君がスタンバイしていた。付き添いの先生に伺うと、JRで今年も来たらしい。今回は、秋商の生徒諸君のすぐ近くで応援させてもらったのだ。

最初、試合は、一進一退だった。3回に1・2塁でヒットが出て、アルプス席は大騒ぎになったのだが、好返球が返ってきて、ホームでアウトになってしまった。絶叫と大きなため息。試合としては、ここが分水嶺だったのかもしれない。何度も惜しいシーンがあったものの得点できず、0対5で秋商は涙を飲んだのだった。
1・2年生の野球部員も頑張る。

純朴そうな応援に来ていた女子生徒たちに、秋商の得点シーンを見せてあげたかったなあと思った。抱き合って喜ぶシーンを私も見たかった。

とはいえ、相手校の大応援団に対して、圧倒的に少数ながら、最後の最後まで「さー行くぞ」「さー行くぞ」と声を張り上げていた君たちを忘れない。やはり、秋商の生徒は幸せだと思うのだ。秋田は甲子園から遠い。だが、大阪も甲子園から遠い。本校の野球部は今日も秋季大会・選抜に向けて汗を流している。そんなことを考えながら、超満員の甲子園を出たのだった。入場券を求める行列は、さらに長くなっていた。

試合が終わって… 気をつけて帰りやあ。
我が教室に、もう1枚秋田商業高校の甲子園ペナントが増える。野球部の生徒は私の想いを受け止めてくれるはずだ。やっぱり甲子園はいいぞ。

秋田商業高校野球部員、生徒諸君、PTAのみなさん、そしてO監督ありがとうございました。残念ながら地元を守っておられてお会いできなかったO先生、また甲子園でお待ちしています。

2013年8月13日火曜日

アフリカへ古着を送ろう 8

世の中はお盆休みである。本校でも、昨日今日と、登校されている先生方もかなり少数である。私はと言うと、今日は世界史補習もないので、ひたすら今秋の修学旅行の行程表を作成している。先の弾丸下見ツアーや貰ってきた資料をもとにシミュレーションしながら書類化している。こういう作業は決して嫌いではないが、なかなか大変なのである。

そんな中、ハランベープロジェクトの企画委員の生徒が、ポスター作りや収集箱つくりで登校してきてくれている。「できるだけ生徒の手で」というのが、今回の基本コンセプトである。ポスターをPCで作ってみたいというので、ワードでできる基本的なデザインのイロハだけ教えて、あとは口出ししなかった。慣れない作業の中で、生徒はコツコツと作っている。嬉しい。だがプロジェクトの生徒も明日はお休み。なぜなら…

いよいよ明日は、友人のO監督が采配する秋田商業高校の甲子園での試合の日だ。第一試合なのだが、1日年休をとって応援に行くことにした。秋田商業の1・2年生やブラスバンドは、もう出発したのだろうか。昨年は鉄道を利用してエライ目にあったと聞いている。夜行バスだとお盆の停滞があるかもしれない。昨年2回戦では開始前に雷雨に悩まされもした。ともかく応援団にとっても、難行苦行の甲子園なのである。それでも、秋商の生徒は幸せだと思う。できれば、その幸せな秋商のアルプス・スタンドの末席に陣取りたいと思っている。頑張れ。秋田商業高校野球部。

2013年8月12日月曜日

ここは香港か?という日々。

猛暑などという表現では表せない日々である。妻と毎日嘆いているのだが、「まるで香港みたいや。」という妻の言が気に入っている。

昔、家族3人で香港に旅をしたことがある。昔の香港国際空港から外に出た瞬間の熱気。まるでボイラーで燃やされたような感じだった。暑いだけでなく、凄い湿気であった。香港は建物内の冷房がガンガンきいている。一歩、外に出るとボイラー内のような熱気。ホテルに入って一休みしたが、妻と息子は、外に出たくないと言いだした。私だけ、銀行に両替をしに出て行ったのだが、パンツがびしょびしょになるほど汗をかいたのを思い出す。そんな不快な気分であったが、初めてイスラムのモスクに突入した。モスクは清真寺という名称で、中は涼しかった。パキスタン人に礼拝の仕方を見せてもらったのだった。外の熱気と内の涼気の格差が凄かったのが極めて印象的だった。
夕方になると、少し涼しい風も吹いたので、スター・フェリーに乗って「深夜特急」の真似をしたりしていたのだった。(笑)夏の香港は、夕方から夜の観光が良い。

若いころは、夏が一番好きだった。高校時代はキャンプばかりしていて、2年生の夏休みなど山の中で過ごした日々のほうが多かった。そんな私が夏を嫌いになるようになったのは、何時からだろうなどと考えると、やはり体型と関係があるようだ。太ってきてから嫌いになった。(笑)寒いのは、厚着したりして努力で凌げるが、暑いのは努力では凌げない。

ああ。温暖化で、日本も香港のようになるのだろうか?

2013年8月11日日曜日

ワシントン行進から50年

ワシントン記念塔を臨んでキング牧師
先日、毎日新聞の記事で、今月28日にワシントン行進50周年を記念して、オバマ大統領がリンカーン記念堂の前で演説をする予定だということを知った。
有名なマーチン=ルーサー=キングJR牧師の「I have a dream.」の演説が行われた同じ場所である。

ワシントンDCには、キャピタル・ヒル(国会議事堂)の裏側のバルコニーからモールという芝生の公園があり、ワシントン記念塔、さらにリンカーン記念堂へと一直線に続く地域がある。

リンカーン記念堂内には、どどーんとリンカーンの座像がある。有名なゲチスバーグの演説をきざんだ碑もある。リンカーンといえば「奴隷解放」で有名だ。しかし北部と南部の産業構造の違いや近代化に対する姿勢の違いなど様々な要因が、南部諸州の連邦からの離脱に繋がった南北戦争に勝利し、連邦(合衆国)を守った大統領といった方がいいと思われる。リンカーン自身自分の農場で奴隷を所持していたとの説もある。奴隷制廃止は、アメリカにおける資本主義化(近代化)の理念のひとつであったと考えた方がいいかもしれない。

実際、黒人の地位や差別は、リンカーン以後、劇的に変化したわけではない。WWⅡ以後の公民権運動で、元奴隷であったアフリカ系アメリカ人は自ら立ち上がることになる。マルコムXらの暴力的なものもあったが、その大勢はキング牧師の非暴力主義であった。そのキング牧師も、例の演説後、暗殺される。彼の遺骸を乗り越えてやっと公民権法が成立するのだ。

アメリカには、キング牧師の日という連邦の祝日がある。全米で公式に祝う日は10日ほどと少なく、そういう意味では大きな意義がある。個人の名を冠する全米の祝日は、あとイエス(クリスマス)とコロンブスだけだ。反対する州もあり、制定までかなりかかったのだが、1月の第3月曜が祝日となっている。(1月15日がキング牧師の誕生日だが、三連休にするためにそうなっている。)私は、最初のアメリカ行で、現地のカレンダーを買って帰ってきて、偶然気付いた。

アフリカ系アメリカ人への、表立った差別は見えにくくなったのは事実だ。しかし最近もフロリダ州で起こった殺人事件で、全米は揺れた。人種差別は冥伏しているに過ぎない。

とりあえず、奴隷解放・民主主義に大きな功績があったリンカーン座像の前で、キング牧師の立った場所で、初のアフリカ系大統領であるオバマは、この状況を払しょくできるような歴史的演説を行う事ができるのだろうか?私は楽しみにしている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130808-00000072-mai-n_ame

2013年8月10日土曜日

世界史補習 宗家・宗法の話

周の文王
猛暑が続いている。パソコンのある我が家の居間にはクーラーなどないので、昨日はエントリーをお休みした。さてさて、月曜日に第1回目の世界史補習があって、中国史の基礎となる地理を講義した。生徒の希望日にやっているので、昨日が第2回目であった。中国古代史は面白いのだが、じっくりやる時間はない。殷から周、春秋、戦国時代へと続く中で、最も重要な切り口は、周の宗族・宗法だと思う。

殷は歴史学上最古とされる王朝で、商業・商人の語源となったり、酒池肉林の語源となった紂王など面白い話が多い。だがやはり、周王朝こそが中国古代史の中心だ。周の政治体制は封建制である。この封建制は、ヨーロッパや日本の封建制とは根本的に違う。

古代という時代は、どこも神権政治である。ギリシアのポリスも、オリエントも、日本の古代でもそうだ。中国では、特に祖先崇拝が重視された。そこで、宗家・宗法である。血縁関係にある者を周は封じた。本家と分家関係である。祖先崇拝は本家が中心で、分家も祖先を祭ることは祭るが、本家こそがあくまで中心である。つまり、祖先崇拝と言う古代人にとって最大の価値を本家が握っているわけだ。このシステムのおかげで、様々な礼儀が生まれる。(春秋時代に生まれた儒教は、この周の時代を重視するのは当然である。)

とはいえ、やがて周(西周)は、力を失い春秋時代となる。春秋時代にも周王朝は続いていた。強くなった分家も本家をないがしろにするわけではなく、遊牧民の襲撃を受けた際、「尊皇攘夷」というスローガンで戦う。幕末の「尊皇攘夷」のルーツである。まあ、室町時代の足利幕府だと生徒に説明するとわかりやすい。しかし、分家がさらに強くなり、本家を無視するようになる。「下剋上」という言葉もここがルーツである。戦国時代である。春秋と戦国の相違はここにある。宗家・宗法が生き生きしていたのが周(西周)、形式的でも守られたのが春秋(東周)、守られなくなったのが戦国というわけだ。

儒教が周の時代に復古しようとしたのがよくわかるし、以後の中国文化圏(朝鮮や日本も含めて)でも、大きな影響が見られるわけだ。中国や朝鮮の一文字の名字群もその一つだし、日本でも本家・分家という概念は生き続けたわけだ。

補習でこんな話をした。先日「八重の桜展」を見にった時、松平容保の書簡があった。容保は養子だが、会津松平家の子孫保科正之は徳川家康の孫にあたる。まあ、徳川家の分家だ。その容保の書簡、名字には「源」とあったわけだ。生徒は、なるほどと納得していた。徳川も、武士の棟梁・清和源氏の分家なのだった。

こんな感じで世界史補習を進めている。あまり受験に関係ないのだが、案外こういう知識が生きてくるはずだ。

2013年8月8日木曜日

三条通り近辺の風景

今日の「八重の桜展」を見終わって、博物館内の和風レストランで妻と食事を共にした。妻が和紙などを見たいと言うので、外を散策していたら、なかなか趣のある風景や店を発見したりした。ちょっと紹介したい。
左が妻・右が私の昼食 妻だけビール付き(笑)
京都文化博物館から高倉通りをはさんだ町屋。なつかしい木製の牛乳入れと消火バケツがいい。

すこし下がったところにある店では様々な日本情緒のある布を使って、衣服や、鞄、帽子や様々な小物をつくっている店がある。私は、ペットボトルカバーがおしゃれなので欲しかったが、2000円弱。うーむ。結局あきらめたのだった。なかなか面白いお店。

私の写真がもう一つだったので、WEBを調べた。東風と書いてコチと読む。勝手に宣伝させていただく。
<東風のHP>
http://www.cochi.jp/index.htm

さらに帰る時に出会ったのが、京都の細い路地を行く、宅急便バイク。なかなかステキである。2人乗りなのが凄い。
時にはこんなエントリーもいいかなと思う。

京都に「八重の桜展」を見に行く。

以前から行きたかった「八重の桜展」に行ってきた。またまた京都文化博物館である。明日から、夏季休業中とはいえ、フツーに登校する予定(秋田商業高校の応援だけは別)なので、今日が最後のチャンスだったのだ。近畿地方は猛暑が続いている。結局、妻が前から行きたがっていた貴船はパスした。

さて、「八重の桜展」である。視聴率が低いとか、なんとか言われているが、私は毎週、楽しみにしている。先週はついに、兄のいる京都に八重は到着した。八重の人生は、この特別展でいうと、3/5まで進んだことになる。第一部は「会津の教え」、第二部は「幕末の京都」、第三部は「会津籠城」である。それぞれ、なかなか充実した展示であった。特にスペンサー銃やゲベール銃、そして錦の御旗は見応えがあった。保科正之の家訓、有名な藩校・日新館の資料、さらに松平容保が実際にその死まで肌身離さず持っていた孝明天皇からの手紙…。3/5だけでも入館料は決して高くない。

八重さんは、ずっと会津の鶴ヶ城の写真を持っていたことがわかった。同志社の新島襄の妻という側面も大きいが、やはり会津の人だったのだ。後の2/5の展示は妻を追いかけて早足になってしまった。そのほうが、これからの楽しみになると思うのだ。でもひとつだけ。新島襄は狩が好きだったようだが、銃の腕はへたくそだったらしい。八重さんに、それを冷やかされている。(笑)TVでもこの逸話が出てくるような予感がする。

2013年8月7日水曜日

アフリカの感染症に取り組む

読売新聞WEBページより
WEBの読売新聞(8月5日付)に、長崎大学の熱帯医学研究所の嶋田先生のケニアでのフィールド研究についての記事が載っていた。アフリカでは、感染症や栄養失調、出産時のトラブルで死亡する割合が70%にのぼり、その約半数が、微生物が体に入り込む感染症である。先進国では、非感染症(がんや心疾患など)の割合の方が圧倒的に多い。これから、アフリカでも感染症の割合は減少し、1/3まで減少すると、嶋田先生は予測している。

アフリカに感染症が多い理由は、まず自然環境である。アフリカは、大陸のど真ん中を赤道が走り、熱帯(熱帯雨林気候だけでなく、サバナ気候も熱帯である。)地域の面積が多い。この熱帯には地球上の確認されている生物の80%が生存し、人間に悪影響を与える病原体約1500種のうち、同じく80%が熱帯に生存している。しかも社会環境が悪いという社会的要因も大きい。アフリカの感染症では、死者の半数を結核・エイズ・マラリアが占めており、WHOが指定した十分対策が取られていない感染症(「顧みられない熱帯病」と呼ばれる)、17種のうち16種が存在する。

…この顧みられない熱帯病には、テング熱や眠り病、住血吸虫病や、狂犬病・エキノコッカスも入っている。いつも思うのだが、同じように先生と呼ばれる職業でありながら、医療に携わる方々、特に使命感を持って頑張っている方々には、本当に頭が下がる。私はあまり先生と呼ばれるのが好きではない。医療関係者こそ、真に先生と呼ばれるのにふさわしいと思ってしまうのだ。亡き母の8時間にもおよぶ手術の時、脳外科のM先生の、その尋常でない集中力に脱帽したことがある。同じ医者でも、整形外科医で「ドンペリが好きです。」などと、恥ずかしげもなくCMで言う若者もいるが…。

ともあれ、日本の医学関係者が、こうしてアフリカの熱帯病について真剣に関わっていることを大いに称えたい。

http://www.yomiuri.co.jp/science/feature/20130805-OYT8T00354.htm

2013年8月6日火曜日

「世界最低最悪の旅」を読む。

アマゾンで、蔵前仁一のまだ読んでいない文庫本を見つけて、さっそく注文した。「世界最低最悪の旅」(幻冬舎文庫)である。昨日、世界史の補習初日ということで、久しぶりに通勤電車で読み始めたら、うん?という感じ。蔵前仁一著ではなく、編集であった。様々な旅行者の体験談が載っていた。どこかで、読んだ記憶がある。そう、「世界の果てまで行きたいぜ!」「世界が私を呼んでいた!」というぶっとい2冊の本である。雑誌・旅行人に投稿されてきた面白い話を集めた本だ。どうやら、この文庫本は、その2冊の焼き直しで、最後のページにそう書いてあった。手にとって購入したわけではないので仕方がない。(笑)まだ無名だった頃のナイロビ在住の早川千晶さんの投稿もあったりする。

とはいえ、うん年ぶりに読むので、新鮮である。昔のバックパッカーたちの苦労が偲ばれる。その中から逸品を紹介したい。タンザニアの話で小林欣也さん(当時32歳)の投稿である。タイトルは、『腹をこわしたカメレオン』である。

自分の住むタンザニア南部のムベヤもこの11月末やっと雨期になりました。半年近く雨が降らなかったので、久しぶりの雨に人も動物も植物も喜んでいます。焼けつくような大地にじっとたたずんでいたバオバブも、白い花を咲かせ、芽を吹き始めました。
さて、この雨期の訪れは同時に虫の訪れでもありました。第一陣はガの大群、そして第二陣がバッタ。このバッタはものすごく、街全体では何億という数になるでしょう。朝、子供ちの騒がしい声で起こされて外に出ると一面10センチくらいのバッタ、バッタ、バッタ、まるでヒッチコックの映画「鳥」のようでした。他の虫は触れることもできない臆病な子供たちも、よっぽど好きなようで、このバッタだけは競って捕っていました。ためしに軽く炒めて食べたら、カリッとしていてメチャウマでした。ちなみに油はバッタ自体から出るので、塩をまぶすだけで十分です。第三陣がカブト虫が100匹くらい。そしてこの後、白アリの大群が来るそうで、これがまた非常にうまいそうで、今から楽しみです。現在我が家ではハエ退治のためにカメレオンを10匹飼っていますが、バッタの食べ過ぎでカメレオンも腹をこわしている始末です。

…サバナ気候の凄さを感じる一文である。ところで、カメレオンは放し飼いなのだろうか?などと考える不思議な話でもある。アフリカの話は、まこと奥が深い。(笑)

2013年8月5日月曜日

ムガベ6選への諦観

ジンバブエの大統領選挙は、平穏なまま6選が決定した。欧米は批判的だが、AUや南アの選挙監視団は、この選挙結果を認めている。5選の時は、野党候補も政権に参加し連合したのだが、たいした結果が得られず、これが野党の得票を減らしたようだ。

そのムガベも89歳。AUの監視団も、ムガベ政権が自然に終わることを期待しているのかもしれない。そして、あの素直なショナの人々も。諦観がジンバブエを覆っているような気がするのは私だけではあるまい。

ムガベが、旧宗主国イギリスと仲たがいから、白人農場主を追い出して以来、ジンバブエはおかしくなった。たしかに歴史認識という立場からは、悪だとは断じることはできない。だが、ムガベの保身によるものだという批判も強い。難しいところだが、結果からみると、間違いだったと言えるだろう。感情的なナショナリズムというか、民族主義が高揚する時は、内政の失政隠しという側面が必ずあるのは、世界史が教えるところである。ムガベの白人農場主の追い払いはまさにその好例である。

先ほどのニュースで、凄いアンケート結果が報道されていた。日中間で相手国を嫌いだと答えた人々の比率は、両国とも90%を超えるのだという。じぇじぇじぇである。とくに、内政が思わしくない中国指導部としては、とりあえずしてやったりかもしれないが、いずれ感情的なナショナリズムは破綻すると私は思うのだ。失敗例は世界史の中に、たくさんころがっている。
<ムガベ6選のニュース>
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0500D_V00C13A8EB2000/

追記:秋田商業高校の甲子園初戦が14日第一試合に決まりました。必ず応援に行きたいと思います。

2013年8月4日日曜日

ホテル進出から読み解くアフリカ

あるアフリカホテル投資フォーラムのロゴ
TICADⅤ終了後、一気にアフリカの有用なニュースが少なくなったように感じている。そんな中、WEBで、「ホテル進出に沸くアフリカ」という記事の中に、いくつか発見した。世界に展開しているホテルチェーンが、中間所得層の台頭と旅行者増加を見込んでアフリカ開発を進めているというわけだ。以下小さな情報。

アフリカ諸国の半分以上は2016年まで、GDPが年5%増える見込みである。

アフリカの中間層人口は、ロシアとブラジルを合わせた全人口とほぼ同じで、先進国のビジネス客が、サブ・サハラ=アフリカに引きつけられている。

IMFのデータに基づくと、若年層が都市に移動しており、アフリカの都市人口は全体の40%となり、インドの30%を上回った。

CIAの報告によると、エチオピアとナイジェリアの年齢中央値は18歳で、米国の37歳、日独の46歳であり、さらにエコノミスト・インテリジェンスの12年報告では、49の都市が100万人超の人口、そのうちの5都市は700万都市である。

ロンドン・ビジネススクールなどでは、アフリカに特化した講座を提供し始めている。多くの学生の目には10年前のインドや中国のように映っているという。

これらの細かい情報は私は有用だと思う。都市人口がアフリカで増加していることは、経済発展の証であるわけだが、インフォーマルセクターへの滞留で、これまで生かされなかったのも事実である。同時に、都市問題と大きな経済格差がアフリカ全土で拡大しているわけだ。だ。一方、WHE(世界遺産教育)の中で、世界遺産をもつが故の問題ということを学ぶ学習領域がある。たとえば、カンボジアのアンコールワット周辺では、ホテルの増加でゴミ処理の問題が大問題となったこともある。インフラやガバナンスなどの問題が露呈するわけだ。だが、そういう問題を乗り越えてこそ開発が進むわけだ。様々なこれまでの失敗例に学びながら、開発を進めて欲しいものだ。

先進国と呼ばれるゆえんは、先に失敗を経験しているという意味ではないか、と私は思うのだ。日本が苦しんだ失敗は、途上国でうまく生かされるべきなのである。

ttp://www.sankeibiz.jp/macro/news/130729/mcb1307290501001-n3.htm

2013年8月3日土曜日

ワーゲン・ショップにて

先日「雨なので道の駅に行く」という変なエントリーをした。愛車のクーラーの調子が悪いので、これまで、この暑い夏にウィンドウを開けて走っていたのだった。先週木曜日、宇治のワーゲン・ショップに行ってきた。結局、クーラー周りで二か所ほどガス漏れを起こしているとこのと。直すのに10万円ほどいるそうだ。我が家では妻が、車検からなにから、愛車のことは実権を持っている。即断したようだ。「とりあえずクーラーガスだけ補充して。」(笑)我が愛車・ワーゲン・ポロも、もう6年乗っている。お気に入りの車だが、後何年乗れるかは微妙だ。応急処置でやり過ごすことになったのだった。その後、今日まで、十分冷房は効いている。メデタシ、メデタシである。

フォルクス・ワーゲンは、外車ではあるが、ドイツでは大衆車である。よく故障する日本車だとも言われているが、やはり外車だ。運転してみるとよくわかる。ポロは、排気量も小さいのであまりきかないが、前乗っていたゴルフのエンジンブレーキは無茶苦茶きいた。車体も重いので安定が違う。レンタカーなどで最近の日本車に乗ると、なんだか軽くて怖い。停まることに、徹底してこだわっているように思う。安全志向なのだ。

と、いうわけでゴルフの後継も、ポロにしたのだった。あ、両方とも中古車である。別にええかっこしているわけではない。おそらくまた乗り換えるとき、ワーゲンは安全志向ということで、第一候補になると思うのだ。

2013年8月2日金曜日

「新聞記者 司馬遼太郎」を読む。

司馬遼太郎の新聞記者時代を記した外伝といった趣の本である。私も司馬遼のファンの1人なので興味深く読んだ。司馬遼は、ほとんど文化部の記者として過ごしている。私たちが新聞記者としてイメージする社会部や政治部の記者のように特ダネを追い求めるポジションではなかったが、この本を貫く司馬遼の新聞記者としての生き方は、『無償の功名主義』だと言ってよい。自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。紙面に出た場合はすべて無名であり、特ダネをとったちころで、物質的にはなんのむくいもない。これが無名の功名主義である。

司馬遼が京都支局の記者時代、唯一社会部記者のごとく福井地震の取材に行く際の話である。新聞社の車で長浜を深夜通過しようとした時、長浜通信局の伊藤という老記者から新聞紙にくるまれたうどん玉を受け取る。この伊藤という記者、毎年伊吹山の初雪を報道するために、毎晩3時起きで夜明けを待っていたらしい。伊吹山は関西に住む人間に取って冬の訪れを感じる山である。このような記者の存在を司馬遼は見逃さない。だからこそ、あのような小説が書けるのだろう。

外伝としてのこの本の魅力は、様々な司馬遼のコトバであろうと思う。私が気になったものをいくつか挙げてみたい。

台湾の李登輝総統との対談で、「国家には適正なサイズがあるんです。せいぜいフランスぐらいでしょうか。(中略)北京の一つの政府だけで、ヨーロッパ全体より広いところをコントロールするのは無理です。どうしても粗暴な、国内帝国主義になる。」と断定している。

梶原幹生という京大学園新聞出身の後輩に対しての話。「梶浦君、文化人類学的な質問とおもって、素直に答えてくれないか。きみは、もしかしたら、お母さんのことをお母さまと呼んでいた?」「よんでいました。」「むろん、会話は敬語で?」「そうです。」「ありがとう。ところで母君も、梶浦君に対し、ふつうは敬語をつかっておられた?」「はい。」
司馬遼がこうした質問を浴びせたのは、戦前の日本の「偕行社文化」というものへの関心だった。梶浦氏の父は陸軍少将であった。日本陸軍の原形は長州や薩摩の下級武士で、からが悪かった。そこで政府は正規将校のクラブ偕行社(海軍は水交社)を作り、英国の貴族的なクラブを範として「選ばれる者は義務がある」という意味での貴族に仕立てようとした。日本にはそのような意味での貴族文化がなかったので、江戸の山の手に住んでいた上流の旗本の家庭に範をとった。だから母親は敬語を使うのである。司馬遼は、梶浦氏にこういう。「君はカデット(CADET:士官候補生の意。ヨーロッパで共通語として用いられている。元はドイツのユンカーの次男もしくは分家の子の意味。)だ。」

とても書ききれない。が、今日はここまで。「新聞記者 司馬遼太郎」(産経新聞社/文春文庫/本年6月10日第1刷)

2013年8月1日木曜日

「秘境駅へ行こう!」を読む。

このところ書評のエントリーが続いている。それも旅行記ばかり。海外の鉄道モノから、鉄道つながりで、国内の鉄道紀行へと流れたい。牛山隆信氏の「秘境駅へ行こう!」(小学館文庫/2001年8月1日第1刷)である。秘境と言えば北海道だが、初田牛駅の話が出てきた。この本は、様々な秘境駅(駅以外何もないとか、他の交通手段ではいけないとか、そういう特殊な駅)を案内するもので、特に北海道の厳冬期に初田牛駅などに行くというのはホント酔狂である。体調不良の身としては、これまた疲れる本なのであった。

初田牛駅は、根室本線にある駅だ。私の渡道歴は多い。指を折って数えるのもじゃまくさいくらいだ。アフリカの前はアメリカ、さらにその前は北海道に取り憑かれていた。(笑)その北海道でも、最も秘境感が漂うのは、道東、それも根室近辺である。私はこの初田牛駅に近い春国岱(しゅんこくたいと読む。)の民宿(風露荘)に一泊したことがある。高田勝さんというバードウォチャ-の宿である。「ニムオロ原野の片隅から」という高田さんの著書を読んで、感動してしまったのだった。ただ単に高田勝さんに合いたかったのだ。宿自体は、バードウォッチャーのためのものなので星はつけられないが、素晴らしい手つかずの自然の中だった。

20年くらい前の話である。WEBで調べたら、高田さんはまだ民宿をやっておられるようだ。野鳥関係の本も何冊も出されていた。ちょっと嬉しくなった。まだ、シマフクロウは生息しているのだろうか。あの時でさえ、「シマフクロウのいる場所は教えられません。」と言っておられたのを思い出す。

ありゃ。「秘境駅へ行こう!」の書評から、大いにはずれてしまった。

<高田勝さんの著作>