2013年8月2日金曜日

「新聞記者 司馬遼太郎」を読む。

司馬遼太郎の新聞記者時代を記した外伝といった趣の本である。私も司馬遼のファンの1人なので興味深く読んだ。司馬遼は、ほとんど文化部の記者として過ごしている。私たちが新聞記者としてイメージする社会部や政治部の記者のように特ダネを追い求めるポジションではなかったが、この本を貫く司馬遼の新聞記者としての生き方は、『無償の功名主義』だと言ってよい。自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。紙面に出た場合はすべて無名であり、特ダネをとったちころで、物質的にはなんのむくいもない。これが無名の功名主義である。

司馬遼が京都支局の記者時代、唯一社会部記者のごとく福井地震の取材に行く際の話である。新聞社の車で長浜を深夜通過しようとした時、長浜通信局の伊藤という老記者から新聞紙にくるまれたうどん玉を受け取る。この伊藤という記者、毎年伊吹山の初雪を報道するために、毎晩3時起きで夜明けを待っていたらしい。伊吹山は関西に住む人間に取って冬の訪れを感じる山である。このような記者の存在を司馬遼は見逃さない。だからこそ、あのような小説が書けるのだろう。

外伝としてのこの本の魅力は、様々な司馬遼のコトバであろうと思う。私が気になったものをいくつか挙げてみたい。

台湾の李登輝総統との対談で、「国家には適正なサイズがあるんです。せいぜいフランスぐらいでしょうか。(中略)北京の一つの政府だけで、ヨーロッパ全体より広いところをコントロールするのは無理です。どうしても粗暴な、国内帝国主義になる。」と断定している。

梶原幹生という京大学園新聞出身の後輩に対しての話。「梶浦君、文化人類学的な質問とおもって、素直に答えてくれないか。きみは、もしかしたら、お母さんのことをお母さまと呼んでいた?」「よんでいました。」「むろん、会話は敬語で?」「そうです。」「ありがとう。ところで母君も、梶浦君に対し、ふつうは敬語をつかっておられた?」「はい。」
司馬遼がこうした質問を浴びせたのは、戦前の日本の「偕行社文化」というものへの関心だった。梶浦氏の父は陸軍少将であった。日本陸軍の原形は長州や薩摩の下級武士で、からが悪かった。そこで政府は正規将校のクラブ偕行社(海軍は水交社)を作り、英国の貴族的なクラブを範として「選ばれる者は義務がある」という意味での貴族に仕立てようとした。日本にはそのような意味での貴族文化がなかったので、江戸の山の手に住んでいた上流の旗本の家庭に範をとった。だから母親は敬語を使うのである。司馬遼は、梶浦氏にこういう。「君はカデット(CADET:士官候補生の意。ヨーロッパで共通語として用いられている。元はドイツのユンカーの次男もしくは分家の子の意味。)だ。」

とても書ききれない。が、今日はここまで。「新聞記者 司馬遼太郎」(産経新聞社/文春文庫/本年6月10日第1刷)

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