2024年4月29日月曜日

GWが始まったが…。

https://www.illust-box.jp/sozai/274230/
昭和の日である。GWが始まった、とはいっても、このところGWは中間考査を作る習慣というか週間になっている。学院では、3年生の地理総合を7クラス担当しているのだが、国公立を目指す特進コースと総合・看護コースでは、全く違う内容をやっているので、事実上2種類の試験を作ることになっている。結局昨年までの学園(倫理&政経)と同様である。

また学院では、YouMarkという採点のアプリを使うことになったので、かなり不安でもある。明日明後日は授業だが、2日は遠足で休みになる。すでに少しずつ作成しているのだが、5月2日から6日までが試験作成本番という感じである。

そもそも我が家は、GWにお出かけすることはほとんどない。夫婦共々人手が苦手だからだが、これ幸いと試験づくりに励もうと思う次第。

2024年4月28日日曜日

「はじめてのバルト」を読む

学院に通いだして、1ヶ月近くになろうとしている。通勤時間は一気に短縮されたし、毎日色々と発見があって面白い。学院は、大学から、保育園まであるので、構内は乳母車に乗った保育園児(無茶苦茶かわいい)から、幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生が闊歩している。なかなか壮観である。(笑)

学院の図書館に先日行ってみた。図書館は5階まであって、20万冊の蔵書があるそうだ。当然ながら、カトリックを始めとしたキリスト教の蔵書も多い。関連して哲学や宗教学の棚もかなり充実している。で、とりあえず最初の1冊を借りた。「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)である。昔からバルト神学には興味があったのだが、なかなか勉強する機会がなかった。カウンターで、司書の方と話していると、「この本を借りた方は今までいなかったのではないかなあ。」とのこと。褒められているような、そうでもないような…。そりゃそうだ。バルトといえば20世紀を代表するプロテスタント(カルヴァン派)神学者である。カトリックの立場からしたら、あまり好きな人物ではないはずである。とはいえ、キリスト教関連の書籍としておいてあったのだろう。私からすれば、これ幸いである。

実は、すでに半分以上読んでいる。中田考氏の新書と併読していたので、少し混乱したきらいもないではないが、意外な共通点もあるような気がするのである。少し頭の中で熟成してから、書評を書こうかと思っている。

2024年4月27日土曜日

イスラムと西洋哲学 まとめ

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第10回目である。最後のまとめをしておきたい。イスラムの場合、スンニー派もシーア派も善悪の定義は一致している。有益なものが善、有害なものが悪で、価値に適合するものであり、基本的に相対主義・功利主義である。その上で、イブン・タイミーヤは、事物には客観的な善悪があり、神は善を命じて悪を禁じ、人間は理性を通じて善悪を知ることができる、と言う。啓示を待たずに人間が理性で善悪を判断できないなら、啓示が善なのか悪なのかを知ることが出来ないからである。しかし、我々の理性が善悪を見分ける能力があることと、詳細に至るまで精確に知りうることとは別のことで、詳細まで知るには全知全能の神の啓示が必要だとする。

法の宗教であるイスラムやユダヤ教と違い、天啓法を持たない西洋キリスト教世界の学問では、神学であれ哲学であれ法学であれ、善悪を分析のために最も基礎的な概念とみなす。しかしその枠組はイスラムには通用せず、むしろミスリーディングである。イスラームは最も基礎的なカテゴリーは、神への服従と不服従であって、善悪ではない。人間にとって有害か無害かで定義されるような善悪は二義的でしかない。(この内容は、中田考氏の修士論文の結論であるそうだ。)

さて、「おわりに」で、中田考氏は、(西洋哲学が重視する)善悪というカテゴリー自体が客観的に存在しない、アリストテレス自然学との決別によって成立した近代西洋哲学は、宇宙から目的因を追放し、西洋科学は宇宙の中に善も悪も発見しなかった。善も悪も宇宙のスケールから考えれば、空間的にも時間的にも無に等しい人間たちのただの主観的な思い込みに過ぎない。多数派の主観であれ、権力者の主観であれ、あたかも普遍的な真理であるかのように他人に押し付けようと論じる立てるのは、それによってニヒル(虚無)から目をそらし、自分が永遠の普遍と繋がっていると錯覚することで安心感を得るためでしかない。ニヒルから目をそらすのではなく、ニヒルを直視することによってしか、真の希望はない。イスラムの最初の教えは、「ラー・イラーフ」すなわち「崇拝すべきもの、価値があるものは存在しない。」である。見に見えるすべてのものは価値も意味もない、救いも存在しないという冷徹な事実を認めた者にのみ、ニヒルの彼岸から「ただしアッラーは別である」という暗闇を切り裂く雷鳴のような絶対他者の声が耳に届くのである。中田考氏は、イスラムこそ、ニヒルの時代の最後の希望だと結んでいる。

…私はブディストであるから、この考えに賛同するつもりはない。ただ、深い見識と洞察によって、さらに深い信仰によって、たどり着かれたのであろうことを強く感じるのである。実に勉強させてもらった1冊であった。

2024年4月26日金曜日

イスラムとErich Fromm

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第9回目。まとめに入るつもりだったのだが、フランクフルト学派のフロムの話が非常に印象的だったので、もう1回現代哲学編をエントリーしたい。

フロムは、フランクフルト学派の中でも、一番宗教的で、鈴木大拙とも対談していて、『禅と精神分析』という共著もある。フロムは、人間には「有る」と「持つ」という2つの生活様式がある、と言う。有る生活様式とは、生成変化の過程として現在を生きることであり、持つ生活様式とは、なにかを固定して永久に保持しようとすることである。フロムは言語分析を行う中で、セム語のアラビア語・ヘブライ語には英語の「持つ(have)」がない、フロムによると、「持つ」の多用は資本主義の特徴で、haveに名詞をつける表現がどんどん増えている。生きているものは不断に生成変化する。所有できるものは死んだもので所有するということは対象を殺すことになる。

その例として、ここで突如漫画『ドランゴん桜』で、発達障害の昆虫好きの少年の話が登場する。先生たちは、昆虫の標本を与えるが、彼は全く興味を示さない。少年は生きた昆虫とともに生きることが好きなのに、資本主義の健常者である先生たちは、昆虫を殺し、その死体を標本にし、所有して飾っておくことが昆虫好きだと信じているわけで、まさにフロムの持つ生活様式、資本主義的生活様式であるが、障害者扱いされている少年は有る生活様式で、それにドラゴン桜木が気づくという話である。…見事な説明である。

またフロムは、領域国民国家システムそれ自体、またその中で生きる人間の病理についても述べている。「人間の歴史の中で、様々な偶像が崇拝されてきたが、今日、それは名誉、国旗、国家、母、家族、名声、消費といったいろんな名で呼ばれる。けれど正式の礼拝は神であるというたてまえからいって、今日の偶像が人間の崇拝の本当の対象となっていることはなかなか見破られない。かつて、神に捧げられる人柱があったが、戦争におけるナショナリズムや国家という偶像に捧げられる現代の人柱の間には、我々が考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。」(ユダヤ教の人間観)

…これまで、古代哲学以来、批判的な論述が多かったのだが、領域国民国家システムを批判し、カリフ制論を展開しているイスラム哲学者でもある中田考氏が、このフロムの影響を受けていると言う。実によくわかる気がする。

2024年4月25日木曜日

イスラムと Lévi-Strauss

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第8回目。いよいよ終盤である。本日はレヴィー=ストロースの話になる。中田考氏は構造主義を当時流行していたマルクスの唯物史観のような歴史主義や実存主義のアンチテーゼだとして論じている。20世紀中盤には、構造主義がマスクス主義の力を削ぎ、とどめを刺したというわけだ。たしかに、人文社会化学の潮流は、歴史分析から構造分析に変化したといってよい。

さて、このレヴィー=ストロース、イスラムが非常に嫌いだったらしい。ただし、非常に屈折した言い方をしていて、仏教、キリスト教、イスラム教を並べて、仏教を一番高く評価し、歴史的にキリスト教、イスラム教は劣化した、それもイスラムが立ちふさがったことでキリスト教が仏教に戻る可能性が断ち切られ、キリスト教がイスラム化したという言い方で批判している。これは、人類学者的な民族的視点であって、聖書学者や仏教学者もとんでもない理論だとしているそうだ。

ブッダは、ギリシアの哲学者たちと同類のアーリア系だが、(ローマ軍人との私生児説から見ると)イエスは、セム人(ユダヤ人:マリア)とアーリア人の混血、ムハンマドはセム人、アーリア的な仏教に回帰したほうが女性的で平和な世界、多文化を許容する世界ができたはずなのに、セム的なイスラムがヨーロッパとアジアの間に生まれたために現代社会は殺伐たるものになったと、レヴィー=ストロースは、アーリア民族主義者的な視点を「悲しき熱帯Ⅱ」の中で述べている。そもそも、レヴィー=ストロースはユダヤ系の人なのだが、かなり複雑な思いがあったのではないかと、中田考氏は述べている。もちろん、とんでもない理論として反論もなされていない。

2024年4月24日水曜日

イスラムと Wittgenstein

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第7回目。いよいよ現代哲学に突入である。まず、ヴィトゲンシュタインとイスラムの関わりであるが、中田考氏の見識はすこぶる深く、論理実証主義を見事に解き明かしているのだが、難解に過ぎるので、その部分は割愛したい。以前から、ヴィトゲンシュタインについては、一度本気で読んでみたいと思っていた。その際にまた参考にさせてもらおうと思う。よって、イスラムとの関わりに絞ってエントリーしておきたい。かのヴィトゲンシュタインの前期哲学の集大成である「論理哲学論考」の有名な結論「およそ語りうること明晰に語りうるし、語り得ないものについては沈黙しなければならない。」で、沈黙すべきものを彼は「神秘的なもの」と名付けている。

ヴィトゲンシュタインの「神秘的なもの」の一つは、自己であると中田考氏は言う。自己は世界の中にはなく、世界の外との境界にある。世界の中にはいかなる価値もなく、しかし世界の外には、「語り得ないもの」すなわち神がいる。自己は、接点、接面といった比喩でしか語れないものであり、しかも実際には人間は4次元の世界で生きているので、時間にも厚みがあるはずで、それが哲学の一番の問題であるとと考えているとも。自己は存在しないという命題は哲学化されたイスラム神秘主義の中では、これが通説で、人間は存在せず、自己も存在せず、神だけが存在すると言われてきた。シーア派のイルファーン哲学では、これを理論化しようと試みているが、中田考氏は成功しているとは思っておらず、それに対して、スンニー派は理論化せず、沈黙し、言葉で語るのではなく実践の中で示そうとしてきた。よって、スンニー派は、ヴィトゲンシュタイン的と言えなくもないとのこと。

後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」については、言葉は生活様式の一部で単語にあらかじめ決まった意味もなければ決められた使用法もない、逆にそのような先入観を捨て虚心に実際の言語の使用法を観察することが哲学の仕事だ、とヴィトゲンシュタインは主張するが、イスラムは、全くの逆で言葉には正しい意味と正しい使用法がある、それがクルアーンの言葉であり、ムハンマドが弟子たちに語った使用法の中に示されている、と全く逆の立場を取っている。このため、イスラムでは、クルアーンの意味論的意味を確定するために、イスラム以前のアラビア語の語彙を収集し、数十巻にも及ぶレキシコンを編集すると同時に、預言者の言葉だけでなく。彼と弟子たちの言動を記録し、彼らが生きた生活様式をできる限り変えずにそのまま維持することに努めてきた。(…まるで荻生徂徠の古文辞学の如くである。)ここで、イブン・ターミヤが登場する。法学的に、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論と同様な理路(虚心で意味を探る)で、預言者とその弟子たちの生活様式を守ることでがクルアーンの意味を正しく理解できると考えた。イブン・ターミヤは、復古主義を唱え、神学的にこの宇宙を超えたこと、語り得ないことに関しては、この世界の外からきた言葉、クルアーンに自ら語らせ、その具体的な内容については自分の言葉を付け加えないとすることで、「語り得ないことについては沈黙する。」という同じ立場をとったといえると、中田考氏は語っている。

…なかなか興味深い内容だと思う。しかし、中田考氏の見識は感動的なほど深すぎる、と私などは思う次第。

2024年4月23日火曜日

久々に気候区分のPPを作成

地理総合の特進コースは、教科書どおり進んでいるのだが、総合コース・看護コースのクラスは、受験には全く関係がないので、ケッペンの気候区分から始めている。地理という教科は、空間上の法則性こそが主眼なので、ケッペンの気候区分はまさに法則性の権化のような存在なのである。このあと、農業、そして文化へと進んでいくのにも都合が良い。

まずは、A・B・C・D・Eの気候帯の名前を無理やり覚えてもらう。その後、A・C・Dに登場する、f・s・wを覚えさせる。BとEは大文字の連記でBW・BS・ET・EFを覚えてもらう。それぞれ2分程度の時間で、次々指名して確認している。その後、「Afは?」「熱帯で1年中雨がフルフル」などと答えてもらう。さらに、A・C・D・Eの分類(たとえば、C:温帯は最寒月が18℃以下-3℃以上であるとか、ET:ツンドラ気候は、最寒月-3℃以下で、最暖月は0℃以上10℃以下だとか)を頭に入れてもらい、最後にCfaとCfbの相違とBWとBSの降水量の相違を教えるわけだ。これは、今まで地理を教えた生徒全てにやってきた。

次の授業では、各気候区の分布図を見ながら、グループワークで、その法則性を探ってもらった。なかなか難しいのだが、考えてなんぼ、間違ってなんぼ、(大阪弁で「なんぼ」とは価値があるという意味)の授業である。黒板に、じゃんけんで買った順に好きな気候区の法則性を書いてもらった。するどいものもあったし、大笑いしたものもあった。

さて、いよいよ各気候区の詳細を語っていく。今日は、そのためのパワーポイントを作成していた。プリントに合わせて、AとBの気候区の様々な資料を組み込んだ。画像は、BW(砂漠気候)のブルキナファソのサヘル地帯のモスクのオリジナル写真。日干しレンガの話をしようと思っている。さて、明日の初パワーポイント授業が楽しみである。

2024年4月22日月曜日

イスラムとニーチェ

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第6回目。ニヒリズムのニーチェである。ニーチェといれば「ツァラトゥストラはかく語りき」であるが、このツァラトゥストラは、イスラムでも預言者に入れいているゾロアスターのことである。よってニーチェは、非西洋的なものを肯定的に捉えていたといる。キリスト教批判を通じてニヒリズムと対決したが、イスラムを批判していないと中田考氏は好意的である。

さて、このニヒリズムは、宗教や全ての価値観の否定に繋がる、と中田考氏は懸念しており、新自由主義に回収されつつある自己責任論が強まり、金を稼げない人間は生きる価値がないように思われ、AIの進歩は科学的・合理的に決定されるべきだという風潮になり、やがて人間とくに老人は不要になり、子供さえ負担であるというといった流れが想起されると記されている。ニーチェは、死に際して、今後2世紀はニヒリズムの世紀になると予言しており、中田考氏はこの流れを堰き止めるのはイスラムだと確信している。

さて、ニーチェとくれば、ルサンチマンである。キリスト教は、怨念、恨み、弱者の宗教であるとニーチェは批判する。また、今のキリスト教はパウロ教であるとも指摘しており、現在の聖書学の常識の先駆者でもる。新約聖書は、使徒行伝のほうが福音書より早く書かれており、パウロの弟子であるルカ文書がその中心を成している。パウロはまぎれもなく元パリサイ派のユダヤ人であるが、面白いことが記してあった。ユダヤ人というのは、母系制(母親がユダヤ人ならその子はユダヤ人)であるが、これは、アブラハムの長男・イシュマエル(アラブ人の祖とされる)の母親はエジプト人なのに対して、次男のイサク(ユダヤ人の祖)の母親はサラなので、アブラハムの血統は母系となったという論があるらしい。ユダヤ人が作り上げた母系制話だというわけだ。(人類学者エドモンド・リーチの「神話としての創世記」)イエスの父親はローマ人兵士だという説があり、ユダヤ人ではないという説さえあるようで、ニーチェは「アンチ・キリスト」の中で、「キリスト教徒は1人しかおらず、その1人は十字架で死んだ。」という有名な言葉を残している。

ユダヤ人は国を失い迫害を受け、力がなくて、だがその事が善であるという逆転した考えを持っていた。迫害されている人間が正義であるというルサンチマンの教え(=道徳)を広めていった。この弱者の論理をニーチェは指摘し、キリスト教も、ローマの下層階級に広まったとされる。ギリシアを中心とした古典学者だったニーチェは、「良い」というのは、本来劣ったものに対する貴族の自己肯定を表す言葉で、身分的な意味での「貴族」「高貴」が基本概念で、そこから派生した卓越性が「良い」だとしている。このユダヤ・キリスト教のルサンチマンは、これを見事に逆転させたわけだ。

イスラムは、ムハンマドが自分を迫害した多神教徒に勝った征服者であり、ルサンチマンの宗教ではない。強いものは強く、弱いものは弱いなりに自分の力に応じて義務を負う、そして人間の力というのは、人間自身の力ではなく、神に従って正しく生きるための神から授かったものであり、力と責任とは論理的に対になっている概念である。この考えを、中田考氏は、高校時代にニーチェに学び、イスラムの教えを素直に受け入れることができたとカミングアウトしている。イスラムこそ、ニヒリズムを超克できる唯一の道として、この項を結んでいる。

…イスラムとニーチェ。思いもかけないような繋がり。興味深く読ませてもらった次第。

2024年4月21日日曜日

イスラムとフロイト

https://middle-edge.jp/articles/oZAb7
中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第5回目。イスラムから見たフロイトである。さて、西洋哲学の基盤であるアリストテレスは、人間の霊魂について、植物霊魂、動物霊魂、人間霊魂といった重層性を説いたが、人間霊魂が下位の霊魂を支配している、とした。この西洋哲学の常識に対し、フロイトの無意識という概念は、革新的なアイデアだったと中田考氏は 記している。フロイトの言うエロスとは、もう少し広い「生:レーベン=ライフ」に近い概念で、精神分析学から当時最も抑圧されていた「性」に焦点を絞った。そもそもリピドー(欲動)の対象は多岐にわたるので、フロイトの定型発達論(肛門期から始まる性の発達理論)は、多型倒錯的であるという前提で示されており、LGBTなどは当たり前の存在であると中田考氏は見ている。

…昔「ここが変だよ日本人」というたけしの討論番組があって、在日外国人がが日本語での議論に参加していた。ベナンのゾマホンが出ていた番組である。ここで、同性愛のことがテーマになった回で、それを認める側と認めない側で大論争というか、あわや暴力事件というカタチになった。認めない側は、パキスタンのイスラム教徒の男性である。よって、私は、絶対的にイスラムでは認められないと考えていたのだが、中田考氏は、イスラム法学者として次のように述べている。

イスラムでも「定型発達論」を想定している。そもそも欲動があるから禁止がある。人間にそういう性向があるのは構わないが、欲望のままに行動してはいけない、と言っているわけで、実際に同性間で性行為を行うと処刑されるのか、というのもまた別の次元の話になる。イスラムでは有罪にするには4人の証人を揃える必要があるので実際には非常に難しい。イスラムは、人間の内面に干渉しない。性行為は最もプライベートなもの故である。そもそもイスラム法は、我々が考えている法律とは違う。最後の審判で神が裁くのがイスラム法で、同性性交をした人が最後の審判で裁かれるかどうかは我々が決めることではない。フロイトが暴いた闇の部分について、無理に暴き立てようともせず、理解しようともせず、最後の審判で神の裁きに委ねようとするのがイスラムの立場である。

…なるほど。あのパキスタン人は、「定型発達論」をもとにアクションを起こしたのだろうが、結局のところ、イスラム法学から見ると他者に干渉しないという原理、最後の審判で神の裁きがどう出るか、我々には知る由もない、ということを理解していなかったということになる。イスラムを学んでいると、かなり柔軟であることに気づく。彼のアクションが、日本の視聴者にイスラム教徒はガチガチである、という印象を与えたように思うのだ。

2024年4月20日土曜日

イスラムとマルクス

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録、第4回目。西洋近代哲学から、中田氏が選んだのは、マルクス、フロイト、ニーチェである。中田考氏が近代哲学から、この3人を選んだのは、啓蒙主義以来の理性を信頼した哲学から、その裏に隠された人間を突き動かす真の動因を明かした故とある。マルクスは、資本主義社会の、フロイトは人間の、それぞれ無意識をあばいたし、ニーチェはニヒリズムでキリスト教を批判した。今回は、まずマルクスの哲学についてエントリーしたい。

マルクスがまず批判対象としたのは、ヘーゲル哲学である。ヘーゲルの「アジア的停滞」を歴史哲学からマルクスは継承している。(自由を実現する絶対精神は、オリエントの専制主義=たった1人が自由な社会から始まり、より多くの自由を実現していく。)マルクスは、唯物史観で唯物論に立脚し、ヘーゲルを超克しようとしているが、中田考から見れば、唯物論は、結局のところ唯心論に帰結する(=唯物だと人間の心が決め、感じているに過ぎない。)と一刀両断である。「共産党宣言」にしても「唯物史観」にしても、理論というよりも正義感・熱情によるものだとしている。マルクスの無神論も同様で、深い哲学的思考によるものではないと断じている。

ただ、歴史を直線的に見る「終末論」では繋がる。唯物論、無神論を唱えながらも、一神教のロジックを完全に踏襲している。もう一つ、マルクス経済学による「搾取」(=剰余価値説)は、イスラム経済の搾取禁止と繋がる。イスラムでは、商売は互いの相互満足による契約として認められているが、利子は認められていない。労働者の賃金も同様で、「ウジュラ」(賃料)は、物の使用料も人間の労働に対してもクルアーン第4章29節が適応される。新自由主義的な自由契約絶対主義ではない。労使の関係が対等ではなく不正な圧力があって、双方が納得できない場合、契約に満足できなかったとして、標準価格の賃金を求めて抗弁することが可能で、不正な契約は法律上取り消しすることもイスラム法上では可能である。最低賃金法的な機能を有しているわけだ。

ところで、イスラム諸国でも、マルクス主義が流行したことがある。エジプト、シリア、イラク、リビア、インドネシアなどでイスラムとマスクス主義の融合しようとしたが、これは植民地から独立し、帝国主義に対抗するための解放の議論として、経済だったらマルクス主義がいいのではという流行であったと中田考氏は考察している。

…なかなか示唆に富んだ内容だった。何より、マルクスの正義感・熱情がマルクス主義を生んだという箇所は、当時のイギリスの悲惨な状況から十分理解できる次第。

2024年4月19日金曜日

イスラエルのイラン直接攻撃

https://trafficnews.jp/post/119779
イスラエルが、イランに直接反撃を行ったというのは事実らしい。詳細が明らかないされていない。ミサイル、ドローン、はたまた退役したはずのアメリカのステルス機・F-117(画像参照)を使った攻撃など様々に伝えられているが、例によって隠匿やプロパガンダの可能性があるのでこれ以上は踏み込まない。

ただ、現ネタニヤフ政権は、汚職を摘発された首相を過激な右派が支えるカタチになっており、エスカレートを続ける可能性が高い。実に馬鹿げたことである。自己の権力維持(汚職による裁判・収監を回避)のために戦争を行うという不条理が見え隠れするゆえに、イスラエルに正義があるようには見えない、というのが私の現時点での見方である。当然ながら、イスラエル国内の世論は分かれていることだけはたしかだ。イランへの直接反撃についての支持の%情報も出ているが、正しいのかどうかわからない。

イランも、先日エントリーしたように、スンニー派の六信にあたる信仰の原理に「正義」を掲げるシーア派の思考回路から、絶対に引かないだろう。よく映像で国民が「イスラエルに死を」といった、我々から見ると極めて過激なシュプレヒコールを連呼するように、国民の熱い支持が背景にある。日清・日露戦争時の日本も世論は開戦を熱望し、それを背景に慎重だった政府は立たざるを得なかった。

イラン政府は、少なくとも、イスラエルよりは冷静であると思われる。だが、国民の熱狂をどう抑えるかである。推移を見守るしかないが…。

2024年4月18日木曜日

イスラムと近世哲学2

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録、第3回目。スピノザとヒュームの哲学との関わりについて。

屋根裏の哲人として知られるスピノザは、ユダヤ教徒であり、旧約聖書を研究し、当時としてはかなり合理的な捉え方をしたので、キリスト教からは睨まれ、ユダヤの共同体からも破門・追放された不遇の人である。スピノザとくれば、汎神論であるが、彼が言ったのは、「神は存在するが、神と自然は一つである。すべてのものは神の表れである。全てのものに神は宿っている。」というもので、アニミズムや八百万の神などの多神教と違うのは、全体が一つの神であるという”アブラハム的一神教の変奏”と中田氏は捉えている。

ただし、スピノザの神は完全に人格がなく、理神論の始まりともいえる。神は存在するけれども、理性の法則みたいなもので、そこに人格とか意思を認めると合理性と対立するというわけである。近代物理学のニュートンは、神というものは世界と法則を創造した最初の一瞬だけ存在すればいい、その後は宇宙は物理的法則に従って動いていくという典型的な理神論者であった。このようなスピノザの考え方をイスラム神学から見ると、前提から違う。

スピノザは理性を働かせて真理を得ることが徳で、人間が何かを欲するのも神の力に由来する人間の力の必然の発露であり、人間には自由はない、としているが、イスラムでは、神は崇拝、服従するものであり、善とは人間が欲するものではなく、神が人間に欲するものであり、神を崇め自分が望むことを自ら欲し、神に服従することであるとする。スピノザ的な人格のない自然を神として服従することは無意味で、単に自分の欲望に従う自己神格化ということになる。

次に、英経験論の懐疑論・ヒュームについて、アリストテレス的な自然の者の中に法則どおりに動く力が宿っているという考え方を排している、物事の連鎖はただその順に並んでおり、それぞれの間に因果関係は存在しないというわけで、イスラムもそう考える。ただ、契機と順番があるだけで、「偶因論」としては同じ。ただ、その起因を直接的に神に帰さない点で根本的に異なるというわけだ。

…要するに、イスラムには因果関係、仏教で言えば「縁起」が存在しないわけだ。このことは、以外に知られていいないと思う。

2024年4月17日水曜日

イスラムと近世哲学1

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録、第2回目である。相変わらず、かなり深い洞察がなされている。

まずは、デカルト。デカルトの、精神と物質をそれぞれ独立したものとする「心身二元論」は、非常に神学的である、と中田考氏は言う。初期イスラム神学の宇宙論では、生成消滅する可能存在者のうちで、空間の中に場所を占めるものが物体と呼ばれ、物体の変化は空間を占める物体に偶有が宿ることによって生じる。偶有は単体では存在しえず、物体に宿ることによってはじめて存在する。これを可能にするのは造物主(=神)である。したがって、宇宙とは、可能存在者である空間を占めるもの(=物体)とそれに宿るもの(偶有)の総体であり、存在者とは宇宙と宇宙を超えた空間を占めない必然存在者である造物主を合わせたものである。後期イスラム神学では、空間を占めない存在者が認められるようになる。それが霊体で、人間の霊魂や天使などを指す。デカルトの「心身二元論」は後期イスラム神学の世界観と一致しているわけだが、デカルト自身は宇宙を脱霊化した世俗的西洋近代哲学の祖だといえる。

デカルトのいう「コギト」(思惟する自我:理性)とイスラムの人間観は全く異なる。イスラムの場合、人間を他の被造物から分かつものは、神の命令への応答責任を担う、という倫理性に求められる。イスラムでは、人間は特殊であるが、理性を持っているからではなく、石による行為選択の自由を持っているからとされる。植物や動物には責任能力はなく、来世での最後の審判で地獄に落ちることはないわけである。これはハディースの記述によると、動物も一度蘇って審判を受け、不当ないじめを受けた場合はその応報をすませて消えてしまうという。

論題は、次に無神論に移っていくのだが、イスラムでは、「神がいるかいないか」ではなく「何を神とするか」が問題であるという。イスラムにはそもそも教会組織がないので、誰がイスラム教徒かを決定する機関はないし、人間の心の中を考え、思いを知るのは造物主アッラーだけなので、信仰を裁くといった発送がない。よって、異端審問や宗門改めのような制度はない。また、背教についてイスラム法では死刑を定めているが、アッラーに帰依しない、イスラム法を守らないと裁判で公言する以外ありえない。背教には、悔悟を求め、理解が足りないとされる場合や、理性を欠く狂人として責任能力がないと見なされ免責されるのが通常であるらしい。

…つづく。次回はスピノザの話になる予定。

2024年4月16日火曜日

イスラムと古代哲学

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録をエントリーしておきたい。中田考氏といえば、イスラム法学者だと思っていたが、カイロ大学で哲学で博士号を取っているそうだ。そもそも灘高から東大という凄い頭脳を持ってはるのだが、改めて驚いた。イスラム神学、イスラム法学だけでなく、西洋哲学の見識も実に深い。倫理の教師である私も二度読み、三度しなければついていけないほどの高度な内容が書かれている。

今回は、まずギリシア哲学との関わりの内容である。イスラム世界では、哲学にあたる語は、「ファルサファ」というらしい。もちろんアラビア語だが、ギリシア語のフィロソフィアの音写で、「英知」をも意味する。イスラム世界では、定冠詞付きで「哲学者」と記されていれば、アリストテレスのことで、「ファルサファ」といえば、ネオプラトニズム(新プラトン主義)化されたアリストテレス哲学を指すのだという。

ここでいう新プラトン主義は、イデア(真の存在)を神と同一視し、万物が一者から流出したという流出論的世界観のことである。(キリスト教においては教父・アウグスティヌスがこの影響を受けていることを倫理でも教える。)アリストテレスは、生成変化するこの世界の原因として、全てを包摂し、いかなる具象性もなく、永遠不滅で完全で自己観照のみをする存在を措定した。アリストテレスの「自然学」においては、理性的存在である人間が、この全ての存在の原因となる唯一の「不動の動者」の存在を認識することが目標となる。すなわち、プラトン・アリストテレスの哲学は唯一神教と極めて親和性が高い論理構成になっているわけで、イスラムの哲学者たちは、この「不動の動者」をアッラーである、と考えた。

…高校の倫理では、新プラトン主義は教えるが、このアリストテレスの「不動の動者」までは出てこない。ギリシア哲学を学んだのは、イスラムであり、その後キリスト教徒に伝わっていくことは教えるのだが、こういう論理的な繋がりが本書では示されていたわけだ。なかなか興味深い。

2024年4月15日月曜日

地名の暗記 考

三崎高校の理系進学者クラス(といってもたった2名だったけれど…。)以来の地理を教えているわけだが。先日、学院の世界史の先生から、「地理総合で是非とも地名をやってほしい。」と言われた。これには、様々な背景がある。本日は、この件について少し考察してみたい。

昔、M高校にいた頃、よく中学校や塾に営業に出かけていた。ある学研都市線沿線の中学校を訪問させてもらった時、対応してくれた若手の先生は地理の先生だった。たまたま私が社会科の教師だと知ると、中学地理の内容の薄さについて熱弁を振るってくれたことがある。

地名の暗記などは「ゆとり教育」の名のもとに切り捨てられていた。地理を好きな子はともかく、好きでもない子は、世界や日本の地理情報から切り離されているようだ。

私は、高度経済成長期の子供だったので、当然ながら詰め込み教育を受けてきた。ちなみに世界中の国名と首都名については、小学校の3年だったか4年だったかに夏休みの自由研究で、国旗のデザイン付き(色鉛筆仕上げで、サウジアラビアの国旗については苦労した記憶がある。笑)で1冊のノートにまとめた。要するに、私は地理が大好きだったのだ。以来、地名とか都市名とかのテストで苦労した経験がない。

息子は、「ゆとり教育世代」のちょっと前なので、小学校時代、日本の都道府県名や県庁所在地、河川名、山脈名などを妻に鍛えられていた。地理の試験があったのだろう。妻が言うに、小中学校の時代は、休み時間に地図帳を開けて、友達と面白い地名クイズなどをしていたとのこと。そうそう、アホ(米国アリゾナ州にある。)とか…。私も地図帳大好き人間だったので、当然やっていたもんだ。

さて、マレーシアのPBTには、職員室の壁一面に様々な日本語教育の教材、問題集などが並んでおり、社会科のコーナーもあった。そこには中学受験のための地理の問題集(本日の画像参照:こんな感じの問題集)があり、中学受験をする小学生は、何と言われようと塾で詰め込み教育をされていたことを知った。十分すぎるほどの地名がそこにはあった。

3月までお世話になった学園では地理を教えていないが、政経の国際情勢などで地名を扱った。特に違和感がなかったのは中学受験で入学している生徒が大半だったからだと思う。今お世話になっている学院の方は高校から入学の生徒が大半であるので、公立中学の「ゆとり教育」の洗礼を受けている故、地名に関しては、かなり厳しいと思われる。(もちろん地理が好きで地名に詳しい生徒もいるだろうが…。)

ゆとり教育の是非について少し考えてみたい。そもそも、素直で規律正しく基礎的な教養がある「良き工場労働者の育成」が、戦後教育の主目的だったと東大の教育学の先生が言われていた。しかしながら、エリート育成を怠れば日本の将来もないわけで、私は教育の目的には、二面性があると感じている。高度経済成長期を過ぎて、失われた十年と呼ばれるような時期になると、競争社会への批判とともに、「良き工場労働者」にはゆとり教育、エリートには、これまで以上の「詰め込み教育」という二分化が推進されてきたのではないかと思われる。我々の世代では、まだ二面化の前で、自然と両者に各人が進化していったのだ、と思う。

少子化が進み、中高一貫校はひたすら進学実績を追い求める。親の願いは、学歴重視で変わらない。彼らは一般入試で難関校を受験するエリートである。最近は、「良き工場労働者」も大学に進学するが、できれば年内に指定校や総合型選抜で合格して安心したい層になっている。大学受験も二分化されている。

だから何だと言われると、そういう社会学的な考察が可能だ、というだけの話である。問題は、各人が何を求め、何者になるかである。

と、いうわけで、基本的なヨーロッパの地名を書き込む提出用紙(B4の縦書きで地図を最大限大きくした。)を作った。これに提出用ではない白地図を2~3枚バラ撒くつもりである。まずは自分で、書き込むのが王道だと私は思う。

2024年4月14日日曜日

ついにイランの直接的反撃

https://mainichi.jp/articles/20240414/k00/00m/030/017000c
先日の在シリアのイラン領事館への攻撃への報復として、イランが、イスラエルに向けてドローンとミサイル攻撃に踏み切った。この事実をどう見るか。

このイランの攻撃は、ある程度抑制されたものであると私は見ている。第一報では、ドローンがゴラン高原(イスラエルが占領しているシリアとの国境地域)を狙っているとあった。もしそれが事実なら、「かなり」抑制されたものである。ここには主としてイスラエル軍が駐屯しているだけだからだ。しかもドローンは、米英空軍とイスラエル空軍によって、かなりの数が迎撃されたらしい。

その後、ミサイル攻撃があり、エレサレム上空でそれらの多くは迎撃された。これは少なくとも通常爆薬を搭載しており、これも迎撃されるのを承知の上での「抑制」された攻撃だと思われる。

モハPチャンネルでも、もしイランのイスラエル直接攻撃があった場合、世界経済はどう動くかという考察があったが、皆が騒いでいるホルムズ海峡の封鎖は行われないだろうという見込みが語られていた。その最大の理由は、イランと親しい中国の石油確保にある。日本にとっても超重要なシーレーンだが、中国も同様であり、今は中立を保っているサウジやUAE、クウェートなどの産油国を敵に回すことになり、イランは躊躇し抑制せざるを得ない、というわけだ。ただ、イスラエルに関係する船舶を拿捕する可能性はあるし、実際行われたらしい。リスクは増しているといえる。

というわけで、私は、少なくとも今日の時点では、イランは抑制した直接攻撃を行ったと感じている。

ところで、今読んでいる中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」の中で、シーア派について触れた箇所がある。スンニー派の六信五行(6つの信ずべきこと、5つの義務)は有名だし、倫理でも教えるが、シーア派は、五つ(1.神の唯一性 2.預言者職 3.イマーム 4.正義 5.来世)を原理としている。イランは、最大のシーア派(十二イマーム派)の共和国である。ここに「正義」が入っていることに注目したい。シーア派は第4代の正統カリフであるアリー(とその系譜)を重視・信奉する歴史を持ち、ムァーウィアーが開いたウマイヤ朝を正当とは認めない。正義はアリーの側にあると信じているし、アシュラという行事を行い、その痛みを受け継いできた。

イランは、そういう「正義」を重んじる。今回は「多分に抑制的な正義」を貫いたが、イスラエルがさらに報復すれば、次は「抑制」しない可能性も十分にある。イスラエルも、その存在をかけて、こちらは創世記から出エジプト記の「正義」を掲げて報復する可能が強い。(アメリカやロシアは現在はそれぞれ紛争の当事者なので)サウジやトルコ、あるいは中国などが間に入って納めるしかないだろうと思うのだが…。

2024年4月13日土曜日

旧巣鴨プリズンからのデモ

https://blog.goo.ne.jp/arya2golf/e/20390c31a104ed8563d2b4400b
東京の池袋にある旧巣鴨プリズン跡地から、WHOが画策しているパンデミック条約反対デモ行進が行われた。この条約については、私も注目している。WHOが各国の主権を超えて、パンデミックに際してWを接種することを強制できるという条約である。これは主権侵害だし、基本的人権にも反していることが明らかで、民主主義の破壊だといえる。

このデモ行進、10万人を目指して結集を図ったようだが、3万人ほど集まったらしい。信号で途切れているらしいが、凄い数と熱気だと思う。デモは、民主主義の一つの権利である。私は教師なってすぐ、周囲に誘われて組合のデモに理由もわからず参加したことが1回だけある。どうもシュプレヒコールとかはなんとなく苦手だ。そのたびに右手だけ掲げて黙って歩いた記憶がある。(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=7i0By6o7d1o

おそらくTVや新聞などのマスメディアは、このデモを大きくは扱わないだろう。日本の民主主義も危機的状況にある。首相はアメリカ議会で、スピーチがオオウケして上機嫌だろうが、彼らは、国民とかなり遊離していると言わざるをえない。…全くどうしようもない。

私は、このデモが、旧巣鴨プリズンを出発点にしていることを重視している。アメリカの日本支配から脱せよというわけだ。日本がアメリカの支配を受けて、事実上の州のようになっていることの証拠を上げればきりがない。その始まりが、東京裁判=極東軍事裁判という茶番劇であったことをこのデモの主催者は、深く認識しているのだろう。巣鴨プリズンは戦犯が収容され、処刑された場所である。ちなみに、A級戦犯の処刑された日は、12月23日現上皇陛下のお誕生日である。昭和天皇にとっても忘れられない日をあえて選んだことに、アメリカの悪意といってよいだろう意図が読み取れる。(ただし、昭和天皇は処刑されたA級戦犯の御霊が靖国に祀られたことに激怒され、二度と行かれなかった。)

再度確認しておきたい。私は右でも左でもない。ただ、日本の民主主義が破壊されることに反対だし、すでに民主主義がかなり破壊されたアメリカに「ポチ」としてシッポを振って従うのは危険だ、と言いたいのである。

追記(21:30):yahooニュースに、今回のデモの記事が少し出ていた。https://news.yahoo.co.jp/articles/c370c78ccfb93012edde7055d6cb2b8a3900a018

2024年4月12日金曜日

学院の ITシステムを入手

学院では、学園とはまた違ったITのシステムを導入されている。今週は、授業と共に、PC等に3つのシステムを導入した。すでに、多くの学校で、こういうシステム化は当然の理になっているようだ。

まずは、成績関係の「賢者」というシステム。学園では、スクールリーダーというシステムだったが、学院ではこれを使っているらしい。すでにログインをして使えるようになっているのだが、ちょっと恐ろしげでまだ本格的に起動していない。おそらく定期考査時に格闘することになると思われる。幸い、社会科でITに詳しいM先生が手伝ってくれるという約束をかわしているので、なんとかなりそうだ。

続いて、試験の採点につかう「YouMark」というシステム。学園では、先生方が「Smarky」というシステムを、Iパッドを用いて使われていた。この「YouMark」はPCで採点業務ができるらしい。○はM、✗はXのキーを打つらしい。まあ、小テストで試してみようと思っている。これも、M先生がそのようなことを教授してくれたのでちょっと安心である。

さらに、日々の連絡につかう「Classi」というアプリを携帯に入れてもらった。(自分でできなかったのが、実に情けない。)学校行事の日程や、休校時の連絡などに使われるのだろうと思う。学園ではGメールだったのだが、学院ではその他にも様々な機能があるこのシステムを使っているようだ。

残りは、学園と同じGoogleの「クラスルーム」である。学院では、科目ごとのルームをつくるらしいので、それは来週以降に、と思っている。

デジタルデバイドの昭和の教師には、なかなかの試練が待ち受けているのであった。

2024年4月11日木曜日

ヌートバー選手に檄

https://news.yahoo.co.jp/articles/84b0e09f6e
3566b0af1708c7c750c74946572bba/images/000
ドジャーズがカージナルスと対戦していた時に、気になったことがあった。ヌートバー選手が出ていないようなのだ。

調べてみると、オープン戦で肋骨を骨折して故障者リスト入して、3Aに落ちていたのだった。とはいえ、徐々に回復して、インディアナポリス線では1番左翼で出場、3打数1安打、1得点、1四球だったそうで、8日にはメジャー復帰の見込みらしい。

アスリートには、どうしても怪我がつきものだが、ヌートバー選手には是非頑張って、レギュラーとして盟友・大谷選手を迎えてほしいと思うのだ。開幕は間に合わなかったけれど、シーズンは長い。頑張って結果を残してほいい。

2024年4月10日水曜日

学院での初授業

https://www.minkou.jp/hischool/school/751/
地理総合の初授業の日である。都会のど真ん中にある学院の中高の校舎は7階まである。1つのクラスは4F、もう1つは6F。生徒は、ほとんどエレベータを使わないようである。(特に運動部の生徒は、鍛錬のためらしい。)エレベータに乗って授業に行くというのは、なかなか不思議な感覚である。

今日も先生方が親切に、いろいろ教えていただけて感謝である。校内やシステムの新しい発見もたくさんあった。実に新鮮である。

授業をして驚いたのは、教師側が起立・礼・着席と声を発することである。やってみると案外良い。(と言って軍隊式は好かないので、やろか~、はい、スタンダップみたいな感じ、礼もおはよう、終わりはありがとうという感じだが…。)全員が注目する礼というか挨拶ののタイミングがずれなくて良い。(笑)これも学院の長年の伝統の賜物のような気がする。特進クラスと総合クラス、それぞれ、なかなかいい雰囲気であった。しっかりと聞いてくれるし、反応も良い。これから、3年生全クラスの行脚に入るがさらに楽しみである。看護コースなんてどんな雰囲気なのだろう。

2024年4月9日火曜日

大谷選手の復調を喜ぶ。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/
20240409/k10014416471000.html
ドジャーズの大谷選手が。開幕直後に不調に陥って、長くホームランが出なかったのを心配していたが、先日初ホームランが出てホッとした。その後は絶好調で、今3号。二塁打なども量産しており、さすがというほかない。とにかくパワーが凄い。よくあんな体勢で打てるよなあという凄みがある。これも精進の賜物なのだろう。YouTubeには、善意・悪意様々な大谷選手のことを話題にしているチャンネルがあるのだが、こちらもリテラシー能力を発揮して、不愉快な情報は入れないようにしている。

たしかに、YouTubeは、リテラシーが重要である。信用できる情報でないと意味をなさない。私が最も信用しているのは、マクロ経済面で、モハPチャンネル、中国情報では、妙佛DEEPMAX。この2つはかなり信頼できる内容である。これに次ぐのは、アメリカ政治で、カナダ人ニュース。さらに中東情勢を中心に越境3.0チャンネルといったところ。

さて明日はいよいよ初授業である。実に楽しみ。準備は万全である。

2024年4月8日月曜日

学院の入学式の午後に。

7日は学院の入学式で、9日が始業式である。(今日は昨日の代休日となっている。)授業開始までに聞いておきたいこと、準備したいこともたくさんあって、午後に社会科主任の先生と、オリエンテーションのお約束をしていた。実に丁寧に対応していただいた。社会科内で最もITに詳しい先生は、新1年生の担任であり、極めてご多忙ながらも共に対応していただいた。

私にとっては、事実上の学院初日で、極めて先生方が親切であることがわかったので、大いに安心した次第。教頭先生をはじめ、管理職の方々も文書で様々な情報を机上に示していただいており、親切丁寧である。学院の学校システムは、これまでの公立4校での経験や、三崎高校での経験、学園での経験が、微妙ににミックスされている印象を受けた。10日の初授業が、実に楽しみである。

さて、本日の画像は、先日手に入れた中田考氏の最新の新書である。学院への昨日の通勤時間は驚異の40分。この本を読みながら行ったのであった。タイトルからして、私は読まねばなるまい、と思わせる内容であった。書評については以後、ぼちぼちと記していこうかと思っている。

2024年4月7日日曜日

S学園OBの意外なメール

https://www.shutterstock.com/ja/image-photo/
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-minangkabau-spicy-1788721670
このところ、教え子たちからのメールが届いてありがたく思っている。昨夜は、関西の難関国立大に合格したM君から、ちょっとびっくりのメールが届いた。入学後、すぐにムスリムの友人ができたそうだ。

この大学には、マレーシアで私が勤務していたPBTの国費留学生のトップクラスが毎年進学している。もしかしたら、PBTの卒業生かもしれない。そうだったとしたら、実に奇遇だし、嬉しい話だ。まあ、ムスリムと友人になって報告してくれている事自体、私の倫理の授業での一神教の学びの成果のひとつであるといえる。

ハリラヤの時にレンダング(=ルンダン:画像参照)という料理をともに食べるという話もできているらしい。レンダングは、インドネシアの郷土料理なので、マレーシアでも食するらしいのだがインドネシアの学生の可能性が高いかもしれない。いずれにせよ、私はとても嬉しかったのだ。

2024年4月6日土曜日

S学園OG W大入学式のメール

http://www.w-ouen.com/member/
S学園のOGから、昨夜、W大入学式での記念写真が送られてきた。少しの間に、女子高生から女子大生に大きく成長している様子に驚いた。(笑)彼女には、アスリートとしての大きな夢がある。これからも様々な苦境や問題が起こるかもしれないが、強いメンタルで乗り越えて欲しいと思う。

ところで、W大には、生徒会で一緒だった1年先輩のOBもいる。彼は伝統ある応援団に入っていると聞いている。W大では、入学式に応援団が出て、かの有名な校歌を歌い、演舞しているところをYouTubeで見たことがある。うむ。最高に格好良い、と昭和の人間は思う。もしかしたら、2人は入学式で再会しているかもしれない。

思えば、今年の卒業生も、関西圏だけでなく、首都圏にも多く進出している。彼らが母校を愛し、その出身であることを誇りに大成長して欲しいと願うばかりだ。

2024年4月5日金曜日

H高校OBから嬉しいメール

https://guide.e-ohaka.com/column/asia/buddha_park/
朝、Gメールを確認していると、H高校のOBからメールが入っていた。学生時代にマレーシアに遊びに来てくれたF君である。商社に入って5年間勤めて、1月から海外を放浪しているとのこと。沢木耕太郎ばりの話である。会社では、総務の仕事をして、さらにタイでの新会社設立というプロジェクトにも企画で参加し、四苦八苦したと記されていた。

H高校では、文化祭のミュージカルの責任者として頑張ってくれていたF君。あの時は、好意と友情でサポートしてくれる同輩に囲まれていたが、ビジネス社会で失敗が許されない厳しい現場だっただろう。やはり、学業も大切だが、イベントで人を育てることの重要性を今更ながら感じる。

今はラオスにいるそうだ。彼には東南アジアが似合うようである。返信には、これから国際情勢がどう動くか微妙な時期なので、十分に気をつけるよう伝えておいた。まあ、東南アジア諸国なら、比較的安全だと思う。西に向かうとあったので、ちょっと心配である。なぜなら…。

在シリアのイランの領事館をイスラエルが爆撃し、革命防衛軍の指導者が亡くなった。イランはこれに報復するとの報道が流れているからだ。これはかなり信憑性がある。ブラックスワン(従来の知識や経験から予測できない極端な事象が発生し、多くの人々に多大な影響を与えること。)が、いよいよ現実になるかもしれないからである。

https://www.youtube.com/watch?v=2s6AaAUkwVE

https://guide.e-ohaka.com/column/asia/buddha_park/
8日には、北アメリカ(特にテキサス州からNY州北部あたり)で皆既日食があるらしい。州兵が動員され警戒にあたるという情報もあって、すわ国家総動員法のリハーサルか?との疑念もあるほどだ。

本日の画像は、ラオスを検索して見つけた「ブッダパーク」2枚目の画像は、日食月食を司る魔神ラーフ。たまたまだが、ブログの内容と辻褄が合うので追加掲載した次第。

F君、くれぐれも気をつけて。観光もいいが、是非各地で「人間」を見てきて欲しい。

2024年4月4日木曜日

地域おこし協力隊OBのこと

https://www.nhk.or.jp/matsuyama/lreport/article/002/40/
伊方町の地域おこし協力隊員として県立三崎高校の公営塾運営に携わっていた私だが、NHKの松山放送局のページで、「ジビエ(イノシシなどの野生鳥獣の料理)の活用で街の活性化を」というタイトルで同じ時期に協力隊員だったI氏の活動が紹介されていたことを嬉しく思っている。

https://www.nhk.or.jp/matsuyama/lreport/article/002/40/

Iさんはまさに徒手空拳で伊方町にやってきた。佐田岬半島という日本一細長い町を走り回り、鳥獣被害の駆除を一から学んで、ジビエ料理を研究していた。私などには全くの別世界で、月1回の連絡報告会で話を聞いていたが正直なところよくわからなかったのを覚えている。

面白いのは、このイノシシ肉を、まるで漫画ワンピースのルフィがかぶりついているような肉にしていることだ。(画像参照)あらかじめ火を十分通しておき、BBQの材料にしているらしい。BBQは、町内の農業体験もできる宿泊施設(=瀬戸アグリとピア)で試みて、評判も上々らしい。ここの管理者のKさんも協力隊OBである。懐かしいお顔を拝見した。お元気そうで嬉しい。(コロナ禍の時は経営が大変だったと聞いている。)

このルフィの食べそうなジビエの骨付き肉、人気がでるだろうと思う。Iさん、Kさんの益々のご健勝を祈るばかりである。

2024年4月3日水曜日

台湾東部地震に政府は即対応を

https://www.jamstec.go.jp/j/pr/topics/column-20180319/
今朝、台湾でここ25年で最大という地震があった。今回の地震で被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げたい。台湾は、東北大震災の時に最も支援をしてくれた国である。政府は対策本部を設置したらしいが、救助犬をつれた救助隊など一刻も早く対応をしてほしいものだ。

現在のところ、確認された死亡者は多くないが、時間の経過とともに増大するのが地震被害の常である。日本のノウハウを活かし、とにかく迅速に行動をお願いしたいと願う。

2024年4月2日火曜日

探していた地理の参考書入手

探していた地理総合の参考書を近くの書店で見つけ入手した。阪大の教授である佐藤廉也氏の「大学の先生と学ぶはじめての地理総合」(KADOKAWA)である。普通の参考書とはひと味もふた味も違う参考書で新書感覚っで読める。

ロジカルに地理を楽しもうという副題がついているように、話し言葉で、なんとか地理が好きになって欲しいという想いが伝わってくる。地理というと暗記教科というイメージがあるがそれを払拭しようという意図が強く感じられる。私がこの本を検索していて、最も関心をもったのは、序章の「地理総合の見方・考え方をささえる3つの原理」を知りたかったからだ。ネタバレになるので、ここで止めておくが、私の考えていたことと重なる部分もあったし、新たな刺激をもらった。

コツコツと第一章から読み始めている。なかなか面白いし、アフリカ(エチオピア)の研究もされていたので、そんな話も出てくる。まさしく、これは5つ星である。

2024年4月1日月曜日

エイプリルフールなので…。

https://www.ndtv.com/feature/will-you-be-this
-years-april-fish-the-history-of-april-fools-pranks-5350064
今日は嘘をついても良い日である。折角なので嘘をつこうと思う。思いつくままに近未来予言をしてみる。

アメリカの大統領選はまたまた民主党の勝利となった。いろいろな不正の証拠があがっているが、マスメディアは全く無視、法の砦・連邦裁判所も当てにならない。共和党もあきらめ、さらなる移民が押し寄せ、財政が破綻、重税が課されるが、イスラエルへの支援、ウクライナへの支援を続けていく。ウクライナ紛争は、英仏独の財政を無視した支援により、大量の兵站が補充され、また各国のマークが青と黄色に塗り替えられた戦闘機や攻撃機がロシアの重要拠点を襲う。どう見てもスラブの顔をしていないウクライナの兵士がモスクワを目指し進軍する。プーチン大統領は、ついに敗北を宣言することになる。一方、イラン本土にまで攻撃を広げたアメリカは、イスラエル紛争を集結させ、ガザを閉鎖、周辺のアラブ諸国への移民を強引に行う。ヨルダン川西岸地域も事実上イスラエルの占領下になる。これらの費用の多くの部分をアメリカが日本に支援要求してくる。中国では、さらに習政権が強固になり、経済も国営企業を中心にかなり復活する。台湾占領が現実的なものとなり、まずは兵員輸送のための船舶と燃料を世界的に買い占めていく。

日本では、新たなパンデミックが猛威を振るうがWの効果が絶大で、ここ何年かの死亡率の急上昇が嘘のように改善される。Wを始め、様々な国家統制が進み、憲法改正で公共の福祉重視となり、国会や行政の指示に従わない国民は経済的報復や、中には拘束されていく人々も出てくる。さらにアメリカからの支援要請で財政はかなり悪化するが、さらなる国債の発行と増税で乗り越えていく。日本の技術力は、他国にどんどん盗まれ、また基地や原発などの近辺を中心に他国民に国土も買われていく。そういった混乱の中、日本の共通善が様々なところで失われていく。

…これらがみんな嘘で、単なる戯れでありますように…。