2016年6月30日木曜日

IBTの話(13) パワーポイント

IBT への道 市街地ながら緑に囲まれている
定期試験でWWⅡの終わりまで進んだ。マレー系でムスリムの国費生たちからすれば、ユダヤ教徒がナチに大量虐殺されたことに対して「何故なのか?」という意識が強い。中国系の私費生は、日本の生徒と同じように一神教には馴染みがないので、その分教えやすいのだが、ムスリムの彼らから見て、ユダヤ人というのは微妙な存在らしい。
同じ啓典の民でありながら、生徒たちははアラブ人ではない。したがって日常的な出会いなどないといってよい。概念としては知っていても見たことがない、というわけだ。おまけにパレスチナ問題で、ムスリムから見て基本的に悪役(ヒール)でもある。

と、いうわけで、今日はパワーポイントで作った教材を、2クラスとも見せることにしたのだ。来週からスクールホリデーで一週間休みになるし、ちょうと区切りもいい。

幸いIBTには、プロジェクターが2台あるし、ホワイトボードも各教室にあるので難なく授業で映像が使えるわけだ。以前人権学習で作った「ホロコースト編」と「イスラエル考現学」を一気に見せた。

なかなか興味深かったらしく、好評であった。実際の映像に勝るものはないなあ、と思う次第。

2016年6月29日水曜日

IBTの話(12) 定期試験なのだ。

IBTへの道
今週に入ってから、私の教えているF36期生の定期試験が続いている。月曜日は私の試験はなかったが、昨日・今日と、公民分野・歴史分野と80分の試験(4択を中心に全80問の試験にした。)があった。だいたい平均点をこれくらいに合わせて欲しいという要望もあり、、その辺は一応私もプロである。生徒諸君には予定どうりの点数を取ってもらった次第。こういう問題作成のさじ加減は、ただひたすら経験値によるものである。とはいえ、マレーの生徒たちに対しての初めての定期試験である。少しばかり勝手も違うし、戸惑ったのも事実。まあ「出来杉君(出来過ぎ)」かな、と思う。

永年、高校に勤めていたので、定期試験などというとかなり周到な準備が行われると思っていた。ところが、かなりピュアなのだ。試験の保管も各人のロッカーだったりして…。これにはぶっとんだ。(笑)

初日・二日目の午後は、文系・理系に分かれてインタヴュー・テストが行われた。前々任校の英語科のEcom(イングリッシュ・コミュニケーション)みたいなものだろうと思われる。私といえば、テストの終わった生徒に携帯電話を返す係であった。(笑)

とまあ、何かと新鮮な定期試験の3日間であった。そういえば、7月も近い。日本の高校では期末考査の季節である。それが終われば高校野球予選。インターハイ予選…。こっちはというと、スクール・ホリデーが来週に迫っている。私はというと、ラマダン明けの休日以外は学校に出て、進学関係の書類のマレー語の和訳に挑戦という予定である。うーん、そんなこと私にできるのだろうか?かなり不安である。

2016年6月28日火曜日

珊瑚婚(結婚35周年)

http://www.tourismmalaysia.or.jp/audioguide/stadthuys/
妻に1日に何度となくメールする。忙しい日は少なくなるが、だいたい朝と夕方、就寝前は必ずメールするといっていい。で、昨日の妻からの最後のメールに結婚記念日だったことが書かれてあった。

おそらく私が忘れていることを熟知したうえで、チクリと刺したのであろう。(笑)うむ。完全に忘れていたのだった。調べると35周年は珊瑚(さんご)婚というらしい。30周年の真珠婚の時は、一応記念旅行と称してとイスラエルに行ったのだった。今回は、まあ、それどころではない展開になっている。
朝のメールで、記念旅行は何処に行こか?とメールしたら、KLから日帰りで行けるとこでいい、との返事であった。まだ妻は渡馬していないし、生活費がどのように変化するか予想し難い中で、そんな浮いた話は、なかなか決めかねるのじゃ、というわけだ。

と、言う訳で、日帰りが可能な世界遺産・マラッカに一応、行こうかと思っている。案外ツアーで行くとお金がかかるらしい。1人RM400くらいとか。うーん。

2016年6月27日月曜日

ランカウイ国際海洋航空博 ’17

http://www.lima.com.my/

南国新聞(日本語のフリーパーパー)最新号に、ランカウイ国際海洋航空博が、来年3月21日~25日に開催されるとあった。いつのことだったか、たしか憲法の話の中で空自のブルーインパルスの話に脱線したとき、生徒が「マレーシアにも、空軍のアクロバットチームがあります。」と言っていたのを思い出した。おお、これだな。こういうの、ヒコーキ大好き人間としては、血が騒ぐ。

少し調べてみたら、隔年開催らしい。ランカウイというのは、タイとの国境に近いリゾートアイランドである。航空博というのはピンとくるが、海洋ってなんだ?と思ったら、これも潜水艦を含む海軍の展示らしい。おお。潜水艦。アメリカで退役した展示用の潜水艦には、毎回のように入って楽しんた。私は大の潜水艦好きでもある。凄いな。いいな。ランカウイ。

このLIMAは様々な国から、空軍のアクロバットチームも来るそうだ。しかもマレーシア空軍は、米国製の戦闘機もロシア製の戦闘機も所有しているらしい。へー。調べてみると、F-18とSUー30が前回はそろい踏みしたようである。それも凄い話である。日本やアメリカの航空ショーでは考えられない。

是非・是非観たいが、来年の学校の日程もわからないし、とりあえず、いいな、いいなと騒いで終わることにする。
<昨年のLIMAについて>http://flyteam.jp/event/detail/2377

2016年6月26日日曜日

クラン港へKTMで行ってみた。

このところ、休日は住処でじっとしていることが多いので、今日こそはと出かけることにした。日本人会の和風堂で見つけた恐ろしく使い古したマレーシアのガイドブックに、「水上集落の島・クタム島」というのがあって、KTMコミューターで1時間くらいだそうだ。これだ、ということで、とにかく最寄りのクラン港(ペラブハン・クラン)まで行くことにしたのだ。(島に渡るのは妻と改めて来る時の楽しみにとっておきたい。)

で、住処をいつもの650番のバスで出発。KLセントラルで、KTMに乗る。今回は5番のプラットフォームである。終着駅が目的の駅なのでわかりやすい。意外に混んでいた。途中、シャーアラムという駅とクランという駅で多くの乗客が降りた。シャーアラムは、KLが連邦直轄都市になった関係で、セランゴール州の州都となった新興の商業都市らしい。クランにもなかなか魅力的なモスクがあって、なんか胸騒ぎのする街並みだった。各駅停車で1時間強というのは、地元の大阪で京橋から同志社前くらいかなあと思う。往復で座る位置を変えたので、なかなか車窓は見応えがあった。

車内はクーラーがかなり効いていて寒いくらいだった。日頃、自宅ではクーラーは絶対つけない。(電気代RM200以来の掟となった。)だから、贅沢感がある。(笑)これで、片道RM6.5である。安い。当然KLセントラルまで、バスで行き帰りしたので、こちらもRM1。往復でたったRM15の旅である。

久しぶりに海を見た。海は海だけど、マラッカ海峡だ!と叫ぶ感じではない。向こうにマングローブがずーっと見える。あれがクタム島なのかもしれない。(一番上の画像参照)

ところで、もっと変なものを見た。タンク車というカテゴリーの貨車だと思うのだけれど、真ん中に落ち込んでいる、いわゆるV字型のタンク車がたくさんあった。石油を運び、真ん中から取り出すのだろうか?それにしても初めて見た。(車窓が汚れていて少し見にくいですが…。)

帰りの景色を楽しんでいたら、住処からよく見えるコンドミニアムがいくつも見えた。おお、この線はあの辺を走っているのかと感慨にふけっていたら、我が住処もよく見えた。意外に近くに駅があることを発見した次第。ただし、歩いては簡単に行けそうにもない。それこそがクララルンプールという街なのである。最近、それがよくわかってきた。(笑)

KLセントラル駅からは、インド人街を歩いて、インド人街の出口にあたるバス停から650番に乗った。と、いうのも行きのバスで、偶然、素敵なオブジェを発見したからである。
チャイをつくるオジサン。私はこういうの、大好きだな。

2016年6月25日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」12

ウマイヤド=モスク
http://www.sakaguti.org/
honmon%20page/j
ordan%20lebanon/
damascus/damascus.htm
イスラムの歴史観についてのエントリーを続けたい。最後の審判の話である。いきなり、最後の審判の前に世界が滅び、全ての生き物が天使も含めてみんあ死ぬ、と中田氏が述べると、橋爪氏が「ちょっと待ってください。キリスト教では、生きている者は生きたまま裁かれ、死んだものは復活して裁かれる(注:おそらく新約聖書の黙示録による)のです。イスラムでは、生きている者もいったん全員死ぬんですか?」と問う。「ええ、一回全員死にます。」「なぜですか?」「そう書いてあるからとしか言いようがないですね。」…と、このやりとりもまた楽しい。

その前に歴史の中で特別な時期というか、通常の歴史から外れてしまうフェーズがある。予兆から始まって、超常現象の世界になってしまう。それはイエスがまた降りてくる。(これは、クルアーンには、イエスは生きたまま(天に)上げられたとあるからで、ハディースに、再臨の話が出てくるらしい。シリアの白いミナレット、塔に降りてくるとある。シリア人は、ダマスカスにある最も古いウマイヤド=モスクに降りてくると信じているらしい。…この話、かなり面白い。)ちなみにムハンマドは再臨しない。

サラフィー(復古主義者)とスーフィー(神秘主義者)の間で激烈な議論となっていることだけれど…と前置きがあって、イスラムの死後の話になる。人間が死ぬと、肉体が死んだあとしばらくは見えている範囲では死んでいるが意識は残っていて、それでお墓に入った後、死の天使がやってきて、いろいろと生前のことを聞かれる。ちゃんと答えられれば楽な思いができ、そうじゃないといじめられたりする。その後すぐ眠りにつく。(「いじめられた後眠るんですか?」と橋爪氏。これは私も同感。)その後、ずっと寝る。死んでいると言っても同じ。最後の審判の時にむっくり起き上がる。これが基本だが、中にはこのプロセスをぶっ飛ばして、天国へ直行する人間がいる。これが殉教者。クルアーンには、殉教者は死んではいなくて天国に既に入っていると書かれている。イスラームの人類観では、預言者が最も偉くて罪を犯していないし最高の人間なので、殉教者レベルで天国に直行ならば、当然普通の人々と同じように寝ているのはおかしいという議論がある。

ところで、そういう預言者とか殉教者とかは天国に生きているわけで、それと何らかのコミュニケーションができると信ずる人々がスーフィーで、彼らはお墓参りに行って「預言者様、どうか私のことを神様によく言って下さい。」とか言う。で、これはイスラムではない、多神教だと、お墓を壊して回っているのが、(毎度おなじみになってきた)ISである。

橋爪氏の質問。「Q:殉教者には最後の審判はない?」「A:バキューンと撃たれた時に、体は死んでいるように見えるけれど、そのまま生きたまま天国に直行。そのジハードが最後の審判の前倒し。」…これも凄い。ジハードにおける死の考察そのものである。

イスラムの歴史観について、中田氏はキリスト教が最も歴史を重視しているといえると主張する。イエスのための歴史で、その歴史的な一点(復活)だけが重要とされている。ユダヤ教では、出エジプト。両者とも、歴史的な祭事が極めて多い。

それに対して、イスラムは断食明け(これは全く歴史性はない。)と巡礼明けの犠牲祭(アブラハムがイシュマイルを犠牲に捧げようとしたことにちなむ。これは唯一イスラムで歴史性がある祭事。)だけである。ムハンマドの生誕祭は、もともとなかったし、ISなどは偶像崇拝だと否定している。イスラームは、過去の歴史にそれほどこだわらない。それは普遍性が高い(どの地域・民族でも通用する)と言える、というわけだ。…なるほど。

…先日のコーランデー。調べてみたら、マレーシアとブルネイだけの祝日だった。マレーシアはイスラムを国教としつつも、華人やインド人の仏教やキリスト教、ヒンドゥー教の祭事も祝日にしている。政府は実に気を遣い、苦労しているよなあ、と推察する。

中田・橋爪「クルアーンを読む」11

アブラハム/イブラヒームのアラビア語表記
イスラームの歴史観について、中田氏の講義が続くところから、今日はエントリーしたい。
クルアーンは、大きく分けて、神について、人間に対する命令・法について、もうひとつ歴史について語っているのだという。イスラームの歴史観では、ムハンマドが創始したとは考えていない。「ディーン」(宗教)という言葉があって、そのレベルでは偶像崇拝の宗教もあるけれど、神が人間にもたらされた宗教は、あくまでアダムからムハンマドに至るひとつだけである。ただし、律法、シャリーアは、預言者によって違う。ムハマドのシャリーア、イエスのシャリーア、モーセのシャリーアは違う、とのこと。

…というわけで、先日の授業での話。生徒に聞いていて、ユダヤのコーシャ(食物規定)とハラルはだいぶ違うことがわかった。私はかなり近いものだと誤解していたのだが、ハラルは海のものは基本OKらしい。だから、ミッドバレーにあるイオンや近くの屋台にある「たこ焼き」はムスリムが食べてもOKなのだった。ずっと不可解だったのでほっとした次第。

閑話休題。アダムから人類の歴史は始まるが、その時点では法はない。その意味では実質的にはアブラハムから(歴史が)始まる。ユダヤ教徒やキリスト教徒は、ユダヤ教徒・キリスト教徒しか救われないというけれども、ではアブラハムはどうなのか。ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないではないか、という問題意識がイスラムでは重要で、毎回の礼拝の中で、アブラハムの祈りというのがあるそうだ。

礼拝で座った姿勢の時、信仰告白のあとで、「アッラーよ。ムハンマドとその人々に、アブラハムとその人々に祝福を与えてくださったように祝福を与えてください。」という言葉を2回繰り返しているとのこと。アブラハムはものすごく重要でイスラムの根本的な部分だといえる。

ここで橋爪氏の質問。では、ユダヤ人にはユダヤ法があり、またこれを破棄したイエスの役割は何だったのか?イスラムはどう説明しているか、を知りたい。

中田氏は、ユダヤ教徒は「ヤフード」と言うのだが、「バヌー・イスラエル(イスラエルの息子たち)」という表現のほうがよく使われる。彼らは大きな恵みを与えられている。たくさんの預言者を送られているからである、とクルアーンにある。イスラムはユダヤ教徒を特別なものと見ているのは事実。
しかし、クルアーンにはすべての民族(固有名詞はないけれど日本にも中国にも)に預言者が送られていると明示されている。その中で大預言者は、新しい法をもたらした人間である。クルアーンに名言はされていないけれど、環境が違い、状況が違うので、それぞれに法が違うのは当たり前であるとう考え方である。
イエスも、律法の一部を廃棄するけれども基本的にはイスラエルに遣わされた預言者で、イスラムでは、モーセの方が地位が高い。イエスには「神の霊」という尊称もあるし、いろんな奇跡を起こした偉い預言者であるとされている。だが、イスラムではそういう奇跡よりも法をもたらすほうが重要なので、モーセの方が偉い。それはともかく、イエスもモーセもイスラエルの民族預言者でしかない。
普遍預言者、人類全体に遣わされた預言者はムハンマドだけである、と答える。したがって、それぞれの民族が民族レベルの法を持っていたが、ムハンマドによってグローバルな法がもたらされた、これで人類が普遍的に救われる、こういう段階を踏んできたという言い方ができる、というわけだ。…なるほど。

…ムスリムの生徒に、ユダヤ教やキリスト教も含めて一神教として比較宗教学的に教えるのは極めて難しい。どうしても第三者的な見方ができないからである。信仰者としては当然であろうと思う。なにより私がもっと勉強しなければ、と思うのだ。

ビル・ゲイツの開発経済学

msnのページで、ビル・ゲイツが1日200円の生活を強いられたとしたらどうするか?という問いに、ニワトリを育てる、と回答している。

ニワトリは育てやすく、ワクチンも安い。たとえば5羽雌鶏を育てていたとして、雄鶏を借りて卵を産ませれば、3ヶ月で40羽ほどのヒヨコが生まれる。こうして増やしていけば、西アフリカでは、ニワトリは1羽で500円程度で売れるそうで、1年で10万円以上の収入になるという。貧困から脱出する手段として効率的だというわけだ。

卵も生むし、栄養価も高い。またニワトリを飼うという仕事は女性の仕事であり、儲けたオカネを女性にコントロールしてもらう方がはるかに家計的にも有為なのだという報告もされている。

このニワトリを育てて貧困からの脱却をはかるプロジェクト、ゲイツ財団がすでにニワトリ10万羽の寄付を実行しているらしい。目の付け所がシンプルで面白いと思う。

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%80%8C1%E6%97%A5200%E5%86%86%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%B2%BB%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%8D%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%9B%9E%E7%AD%94%E3%82%92%E8%81%9E%E3%81%84%E3%81%A6%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84/ar-AAgXBzR#page=2

*ちなみに本文では、ニワトリを「1匹」という数え方をしている。せっかくの良い記事が日本語の乱れで台無しだと思う次第。(今日の画像もmsnのページから。)

2016年6月24日金曜日

イギリスのEU離脱と「円」

http://minkabu.jp/blog/show/765217
イギリスのEU離脱が決まったというニュースが流れてきた。このところ、米国のT氏の共和党候補決定といい、想定外の政治的ニュースが続いている。それだけ、イギリス国内も米国同様、経済格差と鬱積した不満が大きいということなのだろうか。

全世界的に内向きな政治が主流となってきている。低金利政策の中、マネーは投資先を探し求めて彷徨っている。当分、ポンドとユーロ安は続くと思うが、それが円にきたら大変である。また実体のない円高が不況を呼び起こすからだ。と、言っているうちに$1=99円になったらしい。マネーは「円」にやはり向かってきたか。

とはいえ、私は外地にいるヒト故に両替するとなると少しばかり助かるのである。但し、マレーシアのリンギットはそんな単純ではなく、円やユーロ、ドルなど多くの主要通貨と連動するシステムで、かなりの固定的な為替故に無茶苦茶得をするという感じではない。

これからどうなるのか?さっそくスコットランドが分離独立してEUに残留したいと言い出しているらしい。うーん。ロンドン市場もドイツ市場も株価は一気に下落してから取引が始まったらしい。これも、うーん。で、ある。

さっそく生徒が、「これからどうなりますか?」と職員室に聞きに来た。ありがたいことだが、さすがに読めない。イギリス経済にとってもドイツ経済にとっても、EU全体の経済にとっても、そして日本の経済にとっても、メリットは感じられない、としかいいようがない。中国がちょっと喜ぶだけかな。

うーん。と唸るのが一番正しいのかもしれない。

2016年6月23日木曜日

両替しながら生きている。

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/money/
banknote/Malaysia/Ringgit_100_2001_Obverse.JPG
変なタイトルである。(笑)今日はマレーシアの生活費の話をエントリーしようかと思う。まだまだ住んで日が浅いのだけれど、妻が来るまで、ひたすら外食している。外食している、と書くと「クーラーが効いている場所で、値段の高いメニューを食する」というイメージがあるので、かなり贅沢をしているように聞こえる。実際のところおよそ4箇所くらいで食べることが多いが、クーラーが効いているのは日本人会のレストランくらいである。(笑)他は、クーラーなど効いていない。ビンボー生活である。(笑)

夕食で最も行くのがタマンデサのフードコートの中華粥。RM5.5。その次がコンドのカフェ、だいたい冷たいお茶つきでRM8.5くらい。ランチは、前述の日本人会のレストラン(と、いってもRM20以下のものしか食べないし、週1回くらいかなあと思う。)、それ以上に行くのが、ミッドバレーの地下のフードコート。ここでは、だいたいRM6~7.5くらいの経済飯を食べる。朝は、トマトとクラッカー、たまにミッドバレーで買うパンを2~3日に分けて食べる。パンはだいたいRM3.5~4というところ。つまり、平均したら1日RM25くらいで生きているわけだ。もちろんエンゲル係数は高いけど、それ以外の出費もあるのでなんとも言えないが、まあ、今のところRM1000くらいで生きているのでは、と思う。これにコンドの家賃、電気代、インターネット代、水道代などがかかるのだが…。

これを私は実は、日本から持ってきた「円」を両替して生きている。IBTの給料はRM払いなので、銀行に貯めているのだ。最大の理由は、出すのが邪魔くさいという極めて不健康な理由である。またカードがATMに食べられたら嫌だし…。

昨日、スカイプしていたら、妻が面白いことを言っていた。「メイバンクっていいで。」「そう?(私はカードが食べられたり、オンラインバンキングができなかったりと、不幸が重なったのであまり好きではない。)」「普通預金で3%も利子が付くで。」「ふーん。(と言いながら、ちょっとびっくりした。)」日本ではありえない金利である。しっかり者の妻はそんなこともネットで調べているのだった。

「円高だし、両替しようかな。」「そうしたらええ。銀行には貯めるだけ貯めとき。生活費は両替のお金の方がええで。」と、いうわけで、今日昼休みにランチに行くついでに、そこそこの額を両替したのだった。

家賃やインターネット代を封筒に入れて、まだまだ残っているRM100札を見ながら、「これ、(額が大きすぎて)屋台で両替しにくいんだな~。」というようなことをつぶやく私である。授業で経済を教えているわりに、損得は無頓着なヒトなのであった。

2016年6月22日水曜日

コーランの日(イスラム暦9/17)

https://www.pinterest.com/eno143/ramadhan-kareem/
今日は、休日である。IBTの予定表では、コーラン・デー(Quran Day)とあるのだが、WEBで調べたら、いろいろな表現がされている。

ヌズル・コーラン:ラマダン(イスラム暦9月)の17日で、コーランを読みあって信仰を深める日。http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/84096/1maresia.pdf

みいつの夜(ライラト・ル・カドル):ムハンマドが天使ジブリール(ヘブライ語ではガブリエル)を通じて最初にアッラーの啓示を受けた日。
http://access-a.net/malaysia/travel/holiday.html

コーラン啓示の日(日本大使館HP)
http://www.my.emb-japan.go.jp/Japanese/annai.html

コーラン天啓の日(ブルネイでも休日になるらしい。)
http://xn--eckk2fua6dvc6h.jp/info12350.htm

コーラン・デーを含めてだいたい、この5つの表現がされているようだ。その意義は容易に見当がつく。なるほど、と思った次第。

異教徒の私はというと、散髪をした。何となく、先日の日曜(EJUの当日)は出勤したような気分なので、今日はその代休くらいの感覚である。ムスリムの方々には申し訳ないけど。

2016年6月21日火曜日

"Office365の罠" の顛末

2か月前にPCを大修理して、office 365の1ヶ月無料お試しサービスをしてみたところ、1ヶ月後には、全然ログインできず解約できなかった件。1か月前になんとか日本のマイクロソフト社の相談用のチャットに突入できた。その際、私のクレジットカードのデータから解約が可能とのことで、オープンにしていない東京の電話番号を聞いた。さすがに、マレーシアから国際電話などもったいなくてできない。ここはまだ日本にいる妻だけが頼りである。

今日、妻が連絡をとってくれて、私は何もしなくとも、明後日にはoffice 365は立ち去ってくれるそうである。まあ。1ヶ月だけ代金を支払うことになったが、そもそもいいソフトであるから問題はない。解約できない、というシステムが恐ろしい罠だと思うだけのことだ。PCなんぞが急にぶっ壊れ、解約できないとなると、永遠に支払いが続くわけで…。

このところ、アドイン、やらパスワードやら、そういうコトバがどうも億劫になってきた。あまりうまくいった試しがない。できるだけ、そういう世界からは離れていたい、と思うのであった。ともかくも、妻に感謝である。

追記:(6月27日記す)学校のPCで、Officeに入ろうとしたら、新たに申請しないと入れなくなっていた。要するに、妻の電話にあったとおり、私はoffice365の呪縛から逃れることができたのである。さっそく、アン・インストールして、5月に日本から持ってきていた以前購入したPCの付属品のoffice2007に入れ替えた次第。ほっとしたのが実感。

2016年6月20日月曜日

アフリカの若者達のアクセス権

https://apkpure.com
/newsfirst-ureport/
lk.ureport.newsfirstureport
総合科目で、今日「政治分野」を一応終了した。政治分野の中でも、基本的人権には含まれない新しい人権(環境権や個人情報の保護、知る権利など)は、これからもセンター試験やEJUを始め様々な受験のスキルになるような気がする。その新しい人権の中にアクセス権というのがあって、自分の意見を発信する権利とでも言えばいいのだろうか。

久しぶりにアフリカのニュースに触れたくてWEBをサーチしていたら、U-Reportと呼ばれる携帯電話のメッセージアプリを使って、アフリカの若者の意見が集約されているらしい。ナイジェリア、ブルキナファソ、マリ、中央アフリカ、セネガル、リベリア、ジンバブエ、カメルーン、ギニアの9カ国140万人の若者の声である。

<ユニセフのレポート記事>
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=ZzABVJzdHKag8wfy84CYBA&gws_rd=ssl
<U-Report>
https://ureport.in/

すごい時代になったものだと思う。私のようなスマホも満足に使いこなせない(昨日もKLのスターバックスでWi-fiを繋ぐことを諦めた。)ようなオジサンにとっては信じられないくらいに世界は速いスピードで動いている。

2016年6月19日日曜日

IBTの話(11) 6月EJU当日

国費生を運ぶスクールバス/寮の近くで
朝7:00すぎに、国費生の寮のそば、スクールバスがいつもいるところに参上した。今日はEJU(日本の大学に留学を希望する外国人学生のための試験:文系なら日本語+総合科目+数学ⅠA、理系は日本語+物理・化学+数学ⅡB・Ⅲ)の当日である。この試験、6月と11月に実施されるのだが、多くの生徒は、11月を目標に学んでいるので、まあ今回は腕試し、といったところだ。

したがって、生徒諸君も比較的余裕があり、笑顔である。会場で、私費生も合流し、多くのIBTの先生方とともに激励した。本当は、昼の総合科目の試験の前までいて、その後帰るつもりだったのだが、結局最後まで、担当のK先生のお手伝いをA先生とともにすることにした。

このお二人、よく働く。よく気が付く。私などは、まだまだわからないことが多いので、勝手に動くことを避けているのだが、なるほどこうするのかと気付かされることばかりである。11月には、もう少し貢献できることも増えると思うのである。なかなか新鮮だ。もし、H高校に残っていれば、長老として、若い先生の動きをじっと見て多少の激励をするくらいだったと思うのだが、ここでは新米の一兵卒。実にいい。教科以外の実力は、これから磨かねばならない。こういうことを望んで、渡馬してきたのだから、と改めて思った一日であった。

中田・橋爪「クルアーンを読む」10

http://ssmcintl.com/news/industry-trend-analysis
-lower-drug-prices-to-boost-imports-mar-2015/
湾岸諸国をめぐる二人の対話は実に面白い。中田氏は、ナショナリズムがなくても国民意識などなくても国の安全は守れると、湾岸諸国の軍人・警察がみんな外国人であることを引き合いに出す。
これに対して湾岸諸国に否定的な橋爪氏は、なぜうまくいっているのか、という補助線として部族制・イスラム・外国人たちを市民権のないただの永住者としている点を挙げて反論する。

中田氏は、国家は他の国の国際的システムによって承認されるから存在しうる。その理由は先進国の利益になるからであると述べる。最終的にイランはアメリカとの外交戦争に勝ち抜いたと考える中田氏は、その間、スンニー派諸国はひたすら支配者たちが自分たちの利権を守り私利私欲を追求する政権だけがいて、バラバラなままだった、ジリ貧状態にあるけれど、もうジリ貧では済まなくなりつつある、と述べている。

日本の近代化とイスラムの構造を比較しつつ、批判を加える橋爪氏に、中田氏は「ひとつには外国支配の問題がやはり大きい。イスラエルもそうだが、敵は外にあるという論理をずっと言い続けている。それで、内部の改革に向かえないというのが大きくある。」と述べた後、インパクトのある発言が出る。「みんなイスラエルを敵だって言ってるけど、それを言っていれば角が立たないから、言っているだけで、本当はどうでもいいんです。真面目に戦っている人はいません。内輪の問題の方が大変なので、パレスチナ人くらいなものです。でも口先では、やはりイスラエルが敵だと言っています。そうすると、内部の問題から目をそらされてしまう。」

「本来のイスラムの意味での改革に戻そうと思うと、やはりカリフ制とシャリーアという話になってきます。」これは西欧的な民主主義とは対立するので、内部の改革運動として出てくるイスラム改革運動は2つの方向から排斥される。アラブの独裁政権から。同時に欧米の民主主義を受け入れた者たちから。この両方の権力から抑えられてきたのが現状である。しかし、議論せざるをえない状況をつくったのがISである。ISが出てきたのは、スンニー派政権がおかしくなって、その隙に乗じてシーア派が出てきたからで、そのことに対する危機感を一番先鋭に感じて、スンニー派の本来の栄光というか、統一性と法の支配を取り戻そうとしてISが出てきた、というのが中田氏の主張である。このISの捉え方は、橋爪氏も読者の私も大いに納得のいくところである。

両者、ガップリ四つに組んで湾岸諸国について自論を展開したところで、やっと第三章「クルアーンでわかる世界史」が終了する。第四章は、イスラムの歴史観から始まる。

2016年6月18日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」9

土日定例の「クルアーンを読む」のエントリーをしようと思う。今日は、第三章、先週の続きである。話は、シーア派のイスマイール派について。ここで中田氏の衝撃的なコメントが飛び出す。

「イスマイール派は、礼拝とかも基本的にしません。」「神学的に言うと、すでに最後の審判が来てしまっていて、世の中はもう終わっているという考え方で、一般人はそれに気づいていない。最後の審判までは有効だったイスラム法はもう要らないという秘教派(パーティニーヤ)なんです。」これには橋爪氏も「彼らは、シーア派以前に、イスラムとは言えないですね。」と相槌を打つのだが…。

このイスマイール派は、イマームだけが重要で、一般信徒はその指示に従うだけ、終末が来たとイマームが宣言すればそれでおしまい。一般信徒にはそもそも教義を知る義務もなければ権利もない。なお、イスマイール派は、パキスタンに多い。十二イマーム派にはすごく敵意を持っているとのこと。ファーティマ朝はそもそもこのイスマイール派だったが、王朝ができてしまうと結局スンニー派的な法学をつくり長らえた。イスマイール派が長続きした例はこれしかなく、他はセクト、カルト的なレベルでしか生き残っていない。有名なアサシン暗殺教団(ゴルゴ13にも出てくる。)もすぐ潰れている。シーア派の場合、イラン的な光と影の二元論的なもの(注:おそらくゾロアスター教的なもの)が入っている、とのこと。これに、橋爪氏が「これらに比べて、ISはめちゃめちゃまともだな。」という感想を述べている。

次に、イエメンのフーシー派のクーデターの話に移る。カタールは、中田氏によると(サウジと同じ)ワッハーブ派になるのだが、すごく緩いとのこと。そもそもアラビア語より英語で生活している。その彼らが大いに慌てているという話である。フーシー派は、ザイド派というシーア派の中でもスンニー派に近いグループなのだが、一番古い十二イマーム派に近く、イラン革命をかなり意識した人々らしい。中田氏によると、イラン革命は、シーア派の革命だと言うと誰もついてこないのでこれは湾岸の腐った王政を倒す、正義の戦いであると言い、イスラム本来の平等を取り戻すという理論でやっていた、フーシー派は、こっちのほうの影響を受けているとのこと。

ここで、橋爪氏が湾岸諸国をボロクソに批判する。その表現がなかなか過激だ。「世の中にこれほど腐敗堕落した、とんでもない連中がいるのか、よくわかるのが湾岸諸国だと思う。彼らは人類の寄生虫で、イスラムの敵で、自分のことしか考えなくて、似非ムスリムの標本ですよ。」意外な程の過激発言で、私もびっくりした。その後も、湾岸諸国への具体的な批判が続くのだが、中田氏は、彼らがそもそも遊牧民で、家畜や奴隷をうまく使う術をもっていて、それで外国人労働者等をうまく使ってるのではないか、と多少弁護的する。しかもレンティア国家として、世界でも希な成功例でもある、とイスラム・アラブ文明の力を感じているとのこと。このあたり、湾岸論議が続くのである。なかなか白熱して面白い。大川周明の話なんかもでてくるし…。

さて、このイエメンのフーシー派。中田氏によると、サウジの下腹部にあたるので、ここにシーア派政権ができては一挙に全体が崩れる。そういう中でサウジのなかでシーア派が増えている。ISをやっつけるより先に、こっちからやっつけようと湾岸というかスンニー派が大慌てしているということらしい。(日本では、新聞はおろか、専門家も誰ひとりふれていない。)

中田氏はアラブの最も貧しい国が「アラブの春」でいったん崩れて、その揺り戻しと見ることができると分析している、のこと。ここで、さらに二人の対話はイスラムと政治の問題、近代国家の問題に突入していくのである。

久しぶりにイチローの事を書く。

このブログでは、イチローのことを度々エントリーしてきた。マレーシアに来てから、どうしてもこっちの話題が多くなって、ご無沙汰していたけれど、大ファンとして日米通算でピ-ト・ローズの記録を抜いたことを祝してエントリーしておかなければ、と思う。巷では、この日米通算という非公式な記録云々がイロイロ論議されているが、ホント、イチローにとっては、その是非などあまり意味のあることではないだろうと思う。(実際、イチローのコメントは、相変わらず極めて冷静である。)

いいなと思ったのは、マーリンズの球団社長のコメントである。彼はドイツで寿司を食べながらこの試合を観戦していたのだ、という。(凄いシチエーションだ。笑)イチローが初回にヒットを打ったとき、シェフが歓声をあげてイチローのルーティーンを真似ていたのだという。(このシェフが日本人なのか、ドイツ人なのか、はたまたそれ以外の人種なのかは不明。)球団社長は、この時がイチローのキャリアを最も象徴した瞬間だと感じたらしい。彼は国境や人種などの壁をを越えるんだ、と話したという。(と、いうことはシェフは日本人でない可能性が極めて高い。)

こういういろんな人の感想の積み重ねが、イチローという選手の輝きを増すような気がする。私としては、「5打数5安打でも、5打数0安打でも、全て真剣な姿勢でやっているのだ、そこが凄い。」という監督の、数字以上にイチローの姿勢を評価したコメントにも、「あっぱれ!」を出したい。

IBTの話(10) トルコの近代化

http://www.futbolyildizi.com/home/forum/mustafa-kemal-ataturk
日本で教えるのと、マレーシアで教えることの違いを痛感した授業の話である。世界史の分野で、はWWⅠ後の世界を教えている。私費生(私費で日本留学を考えている)華人の生徒が多いAクラスで、辛亥革命やら五四運動について語っても、あまり中国本土の歴史だからという感慨はないらしい。彼らは、自分は中国系のマレーシア人であって、中国人ではない、というスタンスなのだ。このあたり実に面白い。中国語で授業をする小・中学校に行っていた生徒もいるが、特に中国を故国とは意識していないのだという。

一方、マレー人の国費生のCクラスで、トルコの近代化について教えていたのだが、かなり複雑な表情を見せた。と、いうのもオスマン=トルコ帝国がWWⅠで敗れた後、政教分離され、欧米風の近代国家化したことについて、どうしても自国マレーシアと重ねて考えるからのだ。

トルコの政教分離はかなり徹底したものである。マレーシアは、シャリーア(イスラム法)をどーんと国の中心に置いていて、あらゆる政策においても、シャリーアをどれくらい守っているかを精査する国でもある。国費生は、敬虔なムスリムが多いので、トルコの政教分離には納得できない面を持ち合わせているようである。とはいえ、マレーシアには華人もインド人も共生していて、彼らとともに資本主義国そして民主主義国として、アジアでも屈指の近代国民国家となり中進国として発展著しいわけで、このことも十分評価しなければならない。実に複雑なのである。彼ら全員、オスマン=トルコ滅亡後のカリフ不在の意味についてもよく理解していた。

私は「トルコの政教分離について、みんな、どう思っているの?」とあえて聞いてみた。一応に、「うーん。」と唸るばかりである。彼らも、私のイスラム理解が、それなりのものであることをよく判ってくれている。マレーシアを大好きなこともよく判っている。だからこそ、極めて重要な問いかけであることも、よく踏まえてくれている。

日本語能力が、彼らの言いたいことにまで達していないのかもしれないし、考えがそう簡単にはまとまらないのかもしれない。日本では絶対にありえない反応故に、私自身、大いに勉強になると感じている。彼らとともに、このマレーシアにとっての重要な命題をさらに考えていこうと思う。

2016年6月17日金曜日

Why? Malaysian People !?

https://www.youtube.com/watch?v=iHVLs5n-KJY  厚切りジェイソン
今週はMaybankのミッドバレー支店に4回も行ったのだった。先週、晴れて口座を作ったまでは良かったのだが、インターネット会社と連絡がついて、ようやく支払い可能になった。しかし、RM300しか最初に入金していない。支払い金額はRM310なので、不足しているわけだ。仕方ないので、ATMで入金にしようとしたのだ。

ここで、大事件が起こった。ATMが紙幣を読み取ってくれないのである。「えー。あかんのか?」と入れ直しているうちに、ピピピーと警告音がなったかと思うと、一度カードが出てスッと機械に吸い込まれていったのだ。「ええええええええっ!」信じられない。カードは出てくる気配もない。スタッフに「プロブレム!」と叫んだけれど、どうにもならない。後ろに並んでいた華人の青年が、「ノープロブレムだ。明日銀行にいけばいい。」と言ってくれるのだが、私は全く納得できない。なぜ、カードが機械に吸い込まれたのか?彼が何度も何度もなぐさめるように言ってくれたので、ようやく落ち着いたが、ショックである。信じられない。「ホワーイ、マレーシアン、ピープル!」と叫びたくなった。

翌日学校で聞くと、マレーシアの銀行ではよくあることらしい。K先生など「ああ、私も吸い取られたことがあります。ハハハ。」校長先生も「食べられちゃいましたか。」とニコニコ。かなりずっこけたのであった。

この日はとにかく授業の合間に銀行に行った。わりと簡単に再発行してくれた。「イッツ、ファースト・ユージング、アイ、ロスト。」と言うと、申し訳無そうな顔を銀行のスタッフはしてくれたので許せたが…。とにかく、えらい目にあったのだった。夕方、改めてK先生に付き合っていただいて入金を済ませた。

その晩、Gメールにインターネット会社から、あなたの信用度が90%に落ちましたという、なんともムカつくメールが入っていた。それで、インターネット・バンキングで払おうとしたら、もう期限切れになっているらしい。「?」口座開設の日24時間以内にしないとダメらしいのだ。またまた「ホワーイ、マレーシアン・ピーポー!」と叫んでしまったのだった。で、今日またまた事務のMさんに銀行について行ってもらい、その処理をした。で、Mさん監修で学校の私のPCでネットバンキングに挑戦したのだった。うまくいって、インターネット会社にアクセスして、さあ、終わりという場面で、携帯に連絡が入るらしい。その番号をいれるとOKなのだが…。携帯を家に忘れていたのだった。

家に帰って、昼間と同様に頑張ってみたが、結局ログインできなかった。もうネットバンキングはやめることにした。妻もメールで「私はアナログ人間だからやめたほうがいい。」と言ってるし、エージェントのJさんが明日来てくれることになっているので、もう少し甘えようと思う。

と、まあ銀行にまつわる苦労が絶えない一週間だったわけだ。スコールの後のラマダンの夜空に私は叫びたい。「Why? Malaysian people !!!

2016年6月16日木曜日

IBTの話(9) EJUの激励会

チャイナタウンにあるEJUの会場校
今週の日曜日にEJU(日本の大学の留学試験)が行われる。午前中に日本語、昼からの2限目、文系は私の担当する総合科目(社会)、理系は物理と化学一緒に、さらに、3限目は数学(文系と理系の数学がある。)と、いう感じである。この6月と11月にEJUがあるのだが、日本の大学に留学するには、この試験でまず良い成績を収めないと前へ進めない。

IBTのメインとなる20ヶ月コースの生徒たちにとって、11月の試験がメインとは言え、初めて受ける大きな試練である。私の総合科目は、私が赴任するまでの他の先生方の応援もあって、地理は全ての範囲、歴史はWWⅡくらいまで、経済は全ての範囲、政治もすべの範囲が終わっている。残るは歴史の戦後史と、国際関係、現代社会の問題くらいなので、ほぼ80%はカバーしているといっていい。とはいえ、細かな受験スキルは教えていないので、これからが勝負というところ。まずは自分の実力を測っておいで、といった気分である。

というわけで、今日の放課後、EJU受験者の激励会が開かれた。総勢90人ほどの生徒と教員が集まった。諸注意の後、各教科の先生方が話をする。僭越ながら私も話をした。こういう時のスピーチは短いのがいい。本当は、開始15分前にバナナを食べるようにいいたかったのだが、ラマダン中なのでマレー系の生徒には無理な話、これは11月にとっておくことにした。大事なことはすでに各クラスの授業で述べておいた次第。

2016年6月15日水曜日

IBTの話(8) Buka Puasa

今日の食事 まずナツメヤシをいただく。
Buka Puasaというのは、ラマダン中に、知人が集まってともに食事をし、お互いの断食行を励まし合う行事だそうだ。例年国費生の生徒は寮でこの行事を行っているらしいのだが、この度、IBTの屋上の礼拝所が改築されて広くなったので、そのお披露目も兼ねて校内で行うことになったらしい。で、私も参加してみた。こういう異文化体験は超嬉しい。

ちょうど私の教えている男子生徒だちに手招きされて席に着いた。(当然男女別々の会場である。)OBの先輩や、他の先生方も来られて、私が教えている生徒が中心になってお祈り(もちろんアラビックである。)をしてから食事が始まった。上記の画像がその食事。まずは、ナツメヤシをいただくのが作法らしい。イスラム教に妙にl詳しい私を囲んで彼らは、いろいろと話をしてくる。私も質問をする。そんな楽しい時間になった。手で食べるのは、2004年夏のジンバブエ行以来。やっぱり、手で食べるのは美味しい。(生徒は私が手で食べているのにいたく感心してくれた。)

食事のあと、生徒に祈りに誘われたけれど、異教徒としては、遠慮しておいた。

2016年6月14日火曜日

IBTの話(7) 心理学志望を破す。

ユングさんです。
国費生のクラスの担任のS先生から、生徒たちが志望している学部・学科の説明をしてもらえないかとの依頼があった。聞くと、心理学に興味をもっている生徒が多いとのこと。うーん。実は、心理学は私が受験生に最も避けるよう言っているコースである。たしかに興味深い学問であるのだが、プロとして活躍する道は極めて狭い。まして留学生が学ぶことは難しい。

まずは、ウィキあたりに書かれているユング心理学の文章をコピーして読ませてみた。かなり難解な文章であるし、多くの生徒は「関西弁で言えば、こりゃあかん。」と、衝撃を受けたようだ。白雪姫コンプレックスやカインコンプレックスの話などもしたが、私は興味づけをするつもりなどない。プロとしてでなく、アマチュアとして教養として心理学を学ぶほうがはるかにいいことを伝えたのだった。

臨床心理士などカウンセリングを行えるようになるには、院も含めて6年の歳月が必要である。それも日本の資格である。マレーシアに帰ってくる国費生にとって、たとえ苦労してそういう資格を得たとしても、活かされる保証は、現在のところ、ないに等しい。そういうことならば、他の実利的な学問をして、その上で、教養として心理学を学んだほうがはるかに意味があると私は思うのだ。

国費生にとって、日本で学ぶということはどういうことなのか、改めて考える機会を与えたいと思う。

2016年6月12日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」8

今、購入を検討中
中田考監修のクルアーン
第3章の続きをエントリーしたい。前回のエントリーは、十二イマーム派批判の基礎講座のような話が出てきて、ISのスタンスが見え隠れするのだけれど、もう少し似非信者の話が続く。

橋爪氏が、キリスト教における「罪人」と対比して「イスラムは本質的に”なんちゃって宗教”ということになりませんか?」と質問を投げかける。救われ方の問題である。中田氏は、こう語る。「イスラムでは、信仰と行為は別ですので、信仰をもったから罪人でなくなるわけではありません。信仰したからといって罪を犯さなくなる、というものではありませんし、罪を犯したからといって、信仰さえ残っていれば”なんちゃって信者”ということにはなりません。」

次に中田氏は、天国にいくための行為の善悪の点数計算というシステムを説く。結論的には、罪人でも信仰さえあれば天国に行けるが、似非信者はもともと信仰がないので天国に入りようがないわけだ。橋爪氏は、キリスト教では、「信仰義認」で、そういう善行による救いは全く認められていないと批判する。これに対し、中田氏は、ハディースを2つ引いて、人間の行為によって天国に入るのではない、ひたすら礼拝するという行為も含めて、それが出来ること自体が神の慈悲であるという考えがイスラムに内在していると説く。橋爪氏は、善悪の点数計算のシステムと神の慈悲論は論理的に矛盾していないかと突っ込む。(このあたり、なかなか緊迫感があって面白い。)

結局、イスラムの救いについて中田氏は次のようにまとめている。「イスラムは、すごく現実主義の宗教でもあるので、正しいか正しくないかというふたつのカテゴリーで考えなくて、正しいもの、許されているもの、許されないもの、というだいたい3つ、あるいは5つぐらいの見方をします。点数計算で天国に入れる人間もいる。これも許されているのだけれども。本当の理想はそうでないというような二段階の構えにしているのがイスラムの考え方です。」

ところで、中世では、イスラムの教えに反さないというネガティブな形で普通の人間と違っていて偉い人だ、聖者だと思われる人間が出てきた。ポジティブに証明する方法はないが、ネガティブにその人の教説とかが認められて、信じる人間は信じ、信じない人間は信じないというカタチで、お墓が出来、そこにお参りする人間もいっぱいいた。それは間違っている、ということで、ワッパープ派という今のサウジアラビアにいるプロテスタント的な偶像破壊も人々が出てきて、その流れを引いているのが今のIS、ということになる。と、またまたISに回帰してきたのだった。

私はことさら、中田先生がISを支持しているとは思わない。今の領域国民国家したイスラム世界に、ISがアンチテーゼを投げかけている意味の大きさが、ついつい強調されてしまうのだと考えている。

中田・橋爪「クルアーンを読む」7

http://iers.grial.eu/modules/introduction/islami/islamindex-7.html 12人のイマーム
エントリーも、いよいよ第3章に入ろうとしているのだが、このあたりはシーア派の話で盛り上がるところである。橋爪氏が、さらに中田氏に、イスラムにおける神とのコミュニケーションの件で問いただす。ムハンマドの後に誰かが神の声を聞くということことを中田氏は否定はしなかったけれど、仮にあったとして、それが人々に正しく知られることなどないと思うのだが如何?なぜなら、クルアーンとハディース(ムハンマドの言行録)がイスラムの人々が承認する権威である、この権威に対する挑戦となり、まずいのではないか?というわけである。

これに(スンニー派の)中田氏は、普通ハディースは預言者ムハンマドの言葉だというふうに言うのだけれど、実はシーア派(イランに多い十二イマーム派)だと、ハディースは預言者ムハンマドではなく、イマームたちの言葉だということになる。十二イマーム派では、パブリックでオフィシャルに、12人のイマームは新しい法はもたらさないけれど、預言者と同じように神から特別に選ばれた、一時代にひとりだけの正しいイスラームの解釈ができる人間であると信じられている。だから、シーア派ではムハンマドの死後、ハディースと並ぶ権威が生じてしまっている、と答える。

これに、橋爪氏が「それはとんでもない連中だな。そういうのはいてもいいけど、スンニー派とは一緒になれないですね。」と述べている。これに中田氏は「と、いうふうに言っているのがISの人たちですね。これは非常に問題の根が深いのです。なかなか簡単に解決できる問題ではないのですね。」と応じている。このあたりの二人の応酬が面白いので、さらに引用したい。橋爪「イスラムの根源にさかのぼる話であって、ちょっと意見が違うとかそういうレベルじゃないですね。」中田「その通りです。だから、アメリカとの関係なんか、政治的な問題で何とでもなるんですけれど、こちらの問題は本当に根が深い。」橋爪「イスラエルと仲良くなることはあるかもしれないけれど、スンニー派と十二イマーム派が仲良くなるなんて、ありえないでしょう?」中田「ISは、まさにそう言っているんですね。それで血で地を洗う抗争をしているわけです。しかも地理的に、ISの支配するイラクの横に十二イマーム派の中心イランがいるもので、もうこれはどうしようもないという話なんですね。本当はシーア派の方がスンニー派に非常に敵意を持っています。これはマイノリティだからですね。スンニー派は基本的に、この世ではそういうことは放っておいて、というか後回しにして、とりあえずと協力していきましょうという立場です。」と、スンニー派とシーア派・十二イマーム派の相違点が、イスラムの根本に関わる問題であることが語られ、やっと第3章に入るのである。

第3章に入って橋爪氏がこの12イマーム派が勢力をもった理由に対して質問を投げかける。これに対して、中田氏はアリーが預言者の一族で非常に尊敬すべき人であったということは確かだと述べる。その上で、イスラームは、あまり人々の内心の信仰を問わない宗教で、もちろんいい面もあるけれど、特にイスラムが力を持ってしまった後では、似非(えせ)信者がいっぱい出てくるのを防げない構造になっていると言い出す。ハナシはそちらへと向かう。

似非信者とは、本当はイスラムの信仰を持っていないのだけれど、イスラムが支配的になっているのでそのフリをしている人間。フリをして礼拝とかしていれば、ムスリムは信仰を問わない。こういう偽信者を「ムナーフィク」と言う。クルアーンにも厳しく非難されてており、同時に、当然存在するものとしての「前提」といえる。

橋爪氏がこんなことを言う。「ムスリム全員が似非信者だという可能性さえある?」中田氏はこう答えている「そうですね。まさにほぼそう言っているのが、今のISですね。クルアーンには、窃盗をした人間は手首を切り落とせとあります。普通の人間は別に切り落とさなくてもいいんです。しかし、国政を預かっている人間は、それをやる義務がある。それをできないんじゃなくて、アサドなどのアラブの支配者たちはいくらでも国民を殺しているのに、やらない。しかもやっていないことを少しも恥じていない。今はやらなくていいというように言っている。反体制派は、そういう人間たちが外見的にも教義的にも反しているので、もう似非信者ではなくて背教者のレベルだと言って殺してしまおう、国政を預かっているわけではない普通の人たちは、ただの似非信者だから、一応生かしておいてやろう、そういう感じなのです。」

と、やおら話が過激になってくるのでした。 スンニ派とシーア派との対立の根本的な部分を鑑みるに、部外者の私でさえ、両者の和解はありえないような気がするのである。さらに、ここに似非信者・背教者という概念が前提として設定されているわけで…。

生活の改善/44ひきのねこ

http://kissanhanta.petit.cc/lime/2193961
よーく考えてみると、私は学生時代の下宿も含め、自炊の経験がない。即席ラーメン(死語か?)や目玉焼きくらいはつくれるが、ほんと料理などしないヒトである。マレーシアでの単身赴任をなんとか生き抜いているのは、住処やミッドバレーの外食産業(屋台や安いフードコート)に支えられているとしかいいようがない。洗濯も必要に駆られて行っているが、このところ4時間くらいかかるようになった。水の出が異常に悪い。チビチビとしか出ない。だから凄く時間がかかるのだ。

こういう時は、エージェント(不動産屋)のJ女史に文句を言って、オーナーに対処してもらうらしい。(他の同僚の先生方のハナシ。)権利をことさらに主張することを美徳と考えない超日本人的な私などは、気がめいるのだが、どうしようもないので、J女史に連絡した。

昨日の朝10:00すぎ。J女史ではなく、作業服姿のインド人のおっちゃんが来た。で、洗濯機とそれ用の浄水器(両方ともパナソニックである。)を調べてくれた。英語の訛りが凄くて、よくわからなかったのだけれど、とにかくフィルターがもうだめだということで、改めて来る、と言って帰っていった。結局、土曜の昼過ぎだというのに(勤務時間を超えていると思う)、新しい浄水器(これはチープだ!中国製だ!とインド人が自慢していた。笑)を買ってきて設置してくれた。どどどっと水が出てきて、感謝感激である。ありがとう、インド人。思わず冷たい缶コーヒーを1本差し上げた次第。

ところで、J女史は昨日大活躍だった。TMというこちらのインターネットは、WEBとTV、さらに固定電話がセットで、「5つのコンセント」がいるのだが、設置時、「4つコンセント」しかなかったので、電話は後回し、ずっとほったらかしていたのである。固定電話はなくてもいいのだが、TMから請求が全然こないので、不安だった。
で、先日私は「5つのコンセント」を買ってきておいたのだ。いずれ妻が来馬したら、台所に電子レンジやホームベーカリーやトースターなどが置かれるのを見込んでの話である。と、同時にTMを呼んで、電話をつけてもらい、請求の件をはっきりさせたかったのである。
J女史は、自分で電話を繋いで、さらにTMと連絡をとってくれた。請求額も支払い先も、無事メールで届いて、固定電話もついて一件落着した。
しかも、その後、もう一度来て、電子レンジをオーナーさんのところから「中古だけど。これでいいかな。」と持ってきてくれたのだった。実は我が部屋には電子レンジがなかったのである。来馬した翌日に、この部屋を決めたのであるが、電子レンジの有無など契約の条件と全く関係なかった。(笑)だから、今更「やっぱり電子レンジが欲しい。」と言ってもなあ、思っていたのでびっくりした。それもシャープ製である。オーナさん、J女史に感謝である。
左に見えるのが、TVから引っ越してきた「4つのコンセント」
これで、住処でコーヒーを飲むことができる。お粥や豚まんをテイクアウトして温めて食べることができる。勇んで、ミッドバレーに、コーヒーカップとレンジ用の容器と、もちろんインスタントコーヒーやミルクを買いに出かけたのだった。

うーん。生活の改善。NHKのみんなのうたの「44ひきのねこ」を口づさみながら、昨日は650番のバスを待っていたのだった。
<YOUTUBE>https://www.youtube.com/watch?v=3-GSmYndsEg

2016年6月11日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」6

https://www.youtube.com/watch?v=dEe2wGAahwM 112章
実は、「クルアーンを読む」のエントリーは、まだ第2章をウロウロしている。次に112章(純正)について。クルアーンの中で最も短く、しかもその1/3の内容に匹敵するとされているもの。中田氏の日本語訳は以下のとおり。

言え、「それはアッラー、唯一なる御方」。
「アッラーは自存者」。
「彼は生まず、生まれもしない」。
「そして彼には匹敵するもの何一つない」。

この章はアッラーの唯一性を一番簡単に表していると言われている。「言え」、これは命令形。信徒に対して、これを言いなさいと命じている。「自存者」と訳している言葉は、困ったときに常に助けを求められるものを意味すると言われている。井筒氏(俊彦:コーラン翻訳で知られる東洋学者)は「諸人が寄り頼みまつる」と訳している。語源的には硬い石。ごつごつした砂が集まったような石ではなく、滑らかで硬い、どこにも隙間とか穴とかのない均質で稠密(ちゅうみつ)な石を指している。いろいろな解釈があるけれども、欠陥のない唯一の存在のことを言っている。「生まず、生まれもしない」と訳したところは、主語が男性形で、彼には親も子供もなく、そして匹敵するものも何ひとつない、そういう内容である。と中田氏の言。

中田氏はキリスト教批判にもなっていると言われているが、言うまでもなく「彼は…」の一節であることを想起するのは決して難しいことではない。

ところで、橋爪氏が凄い質問をする。神と人間はコミュニケーションできるのか?と。中田氏は、ありえるがめったに起きないことと述べた後、「これは私の説明も入っているけれど…」「こういう説明の仕方はあまりしないのだけれど…。」と言いながら次のように述べている。

そもそも神はクルアーンを直接人々に(本を印刷して)配ってもいいわけだが、そうはされずに預言者ムハンマドに言葉を伝えて、預言者を通じてクルアーンを下された。言葉だけでは不十分で、その使われ方の指示まで必要だということである。クルアーンをどう用いるのかである。マニュアルはあるけれど、マニュアルだけ見てもわからないので、マニュアルの使い方を説明してくれる人間も一緒に遣わされた。なので、マニュアルをひとりで読んではいけませんよ、というそういう教えである、と。言葉とこ千葉の使い方までセットで学ぶべきものであって、その意味ではやはりクルアーンは独学するものではない、誰かから学ぶものであるし、それがウラマーというイスラム学者の権威に繋がってくる。

この話は橋爪氏も絶賛しているのだが、実にわかりやすいと私も思う。うーん。中田先生の監修されたクルアーン、欲しいなあとかなり思っている。但しかなり高価である。しかもマレーシアにいると、そう簡単には手に入らないのである。

中田・橋爪「クルアーンを読む」5

http://discoverislam.deviantart.com/art/Sura-Al-Fatiha-243830223 第1章ファーティハ
先週の土日に、「クルアーンを読む」をちょっとまとめてエントリーした。こういう休日の過ごし方も、なかなかいいと思ったりする。と、いうわけで今週もエントリーしていきたい。前回の続きである。

ところで、この一週間もいろいろあったけれど、モハメド=アリが亡くなったのは大きなニュースだった。元カシアス=クレイ。オリンピックの金メダリストで、差別に怒ってメダルを川に投げ捨て、プロになった男。蝶のように舞い、蜂のように刺す男。猪木と戦い、アリキックという技に名前が刻まれた男。うーん。なぜかプロレスの話になったが、この本の中で意外なことを発見したのだった。

中田氏が、礼拝の時必ず唱える第一章の解説をされている場面である。「あなたにこそ我らは仕え、あなたにこそ助けを求める。」の「仕え」はアブドゥ。よくイスラム圏にアブドゥ某という名前があるけれども、アブドゥは奴隷という意味になる。つまり、アブドゥッラーは、アブドゥー+アッラー、アッラーの奴隷、しもべという意味になる…。

http://ameblo.jp/bonzoring
/entry-10887404202.html
もう古いプロレスファンならお分かりだと思うが、アブドゥッラーとくれば、ブッチャーではないか。ブッチャーは屠殺とか駆逐艦とかいろんな意味があるけれど、アブドゥッラーは、モハメド=アリ(ムハンマドと甥にあたる第4代カリフのアリーが合体した名前である。)に匹敵するほどのイスラミックな名前だったわけだ。極めて真面目な学術書で発見する、こういう変なハナシ。私は大好きである。

中田氏のこの第一章(ファーティハ)の解釈は実に面白い。最後の「お怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に」の「お怒りを被った(者)」はユダヤ教徒を、そして「迷い去った者たち」はキリスト教徒をさすと言われているそうで、大雑把に言って、ユダヤ教徒は神学的にあまり間違っていないけれど、とにかく性格が悪い、裏切ったり、預言者を殺したり、そういうことをたくさんやっている。だから怒りを被った者。一方、キリスト教徒はクルアーンの中でも非常に優しい人達であると褒められているところもあって、性格はいいのだが、頭が悪いとみなされている。それでいろいろ間違ってイエスを神の子だなんて馬鹿なことを言い始めた。これが、イスラム教徒の一般的な理解らしい。

この第一章は常に礼拝で読まれるものであるから、イスラム教徒にとって、他の一神教に対しての意識は、それがたとえ上記のようなものであったとしても、すこぶる高いと言わざるを得ない。啓典の民という言い方でよく括られるが、イスラムから見た場合、ホント日常的にユダヤ教徒もキリスト教徒をも意識しているということを再認識した次第である。

くまモン&ポレモン

Mtownという日本語のフリーペーパーの第一面に大きく、くまモンとマレーバクがKLのツインタワーの前で手をつないでるイラストが書かれていた。この土日に熊本地震支援チャリティーイベントがKLであるとのこと。このマレーバク、「ポレモン」という名前らしい。

音楽や日本舞踊、生花実演、などのステージパフォーマンスと飲食屋台が17:00からあるらしい。明日は、11:00~15:00がフリーマーケットとか。日本人会のいろんなサークルの皆さんが活躍するんだろうなあと思う。私は先日、日本人会でチャリティーの本を1冊買ったくらいしか熊本に貢献していない。

場所はTne Square Publikaと書いてある。Gマップで調べてみたら、そんなには遠くないが、車でないとかなり不便な場所にあることがわかった。日本人の多いモントキアラという地区のようだ。

こんな時、あ~車があると便利だな~と思う。べつにIBTに通うのに車はいらないし、バスで十分なのだけれど、ちょっと出かけるという時には大いに有効である、と思うことが多くなった。

2016年6月10日金曜日

メイバンクに口座開設

マレーシアには、たくさん銀行があるのだが、地元で最も店舗数が多く便利なのが、メイバンクという銀行だ。私の住処、タマンデサにも支店があるし、IBTの近くミッドバレーのモールにも大きな支店や数多くのATMがある。

で、今日は授業がない日なので、事務室のMさんに同行願って、口座を開設しに行ったのだった。これは、若手のA先生の助言によるところで、英語が苦手な教員には口座開設は難しい、とのことだったのだ。(当然学校の承認済みである。)さすが、ローカル(マレーシアでは地元の人をローカルと称することが多い。)同士で、バンバン通訳してくれる。非常に助かったのだった。

午後にATMのカードもできた。約束の時間にいくと、担当スタッフが共にATMに付いて来てくれ、カードを入れて暗証番号の変更を指示してくれた。さらにRM250以上入金して欲しいとのことだったのでRM300入金しようとしたのだが、ATMの故障もあって混雑しだした。すると、スタッフは、別の窓口でサッサッサと入金を済ませてくれたのだった。うーん、グッドバンクである。そう言ったら、親指を立ててくれたのだった。(笑)月曜日には、某書類を添付してメールすることになっている。それでクレジットカードも先々にゲット、というわけだ。当然、妻にメールして、クレジットカードがいるかどうか聞いた。(笑)

2016年6月9日木曜日

IBTの話(6) ムタバク

写真を撮らせてもらった
昨夜のラマダンの夜店で、国費生に出会った。そこで、みんながオススメの屋台を教えてもらうことにした。教室で、みんながみんな、両手の親指と人差し指で四角形を作ってアピールしてくれた料理。ムタバクと言うらしい。名前が難しくてなかなか覚えられなかった。結局ノートに控えた次第。

要するに、四角いオムレツである。屋台のお兄さんは、中に何を入れる?ビーフか?チキンか?と言うのでビーフにした。ちょうど(教えていないけど)理系の男子の国費生がその屋台にいて、通訳してくれた。で、文系の女子国費生は(私をよろしく、という感じで)戻っていった。見事な連携(男女はあまり親しくしていけないのだった。)で、ホント、ありがたいことである。理系の国費生が、作り方も解説してくれた。面白い。うまいこと四角く包んでいくのだった。

ところで実は、またまたフードコートのお粥屋さんがお休みで、困って近くの焼き飯を食べた後だったのだ。いつもよりは満腹感があって、腹9.5分目くらい。住処に戻って、シャワーを浴びて、さて、このオムレツ、どうしようかと悩んだ。ものすごく食べてみたい…。ええい、と4つに分けてくれた1つを頬張ったら、すこぶる美味であった。だが、これ以上食べてはいけない、と我が理性が警告している。残りは明日、つまりは今日のランチとすることにした。朝から連続三コマ授業。90分+90分+50分。そのご褒美として、授業が終わったら職員室で温めて食べることにしたのだった。

一日(冷蔵庫で)置いて、チンしたけど十分美味。生徒のみんなが、「是非食べてください。」と強くアピールした理由がよ~くわかった次第。ちなみに、授業が始まる前にムタバクが美味しかったことを伝えると、大盛り上がりだった。彼らは断食中なので申し訳ないのだけれど…。

2016年6月8日水曜日

IBTの話(5) 自然権と同性愛

タマンデサのモスク バスの車窓から
ムスリムの生徒を教えるということで、私は大変楽しみにマレーシアに来た。今回は、ムスリムの生徒に総合科目を教える際に、教師として苦慮したことをちょっとだけ書いてみようか、と思う。

それは社会契約論の自由権という概念である。ムスリムの生徒たちから見て、おそらくは不思議な話だろうと思う。イスラム教においては、神定法のシャリーアの法体系がどーんとある。社会契約説で、ホッブズやロックやルソーが、何故わざわざ自然法という概念を出してきたのか、説明するわけだが、ここは一神教の相違に話が及んでしまうわけだ。これらヨーロッパの思想は当然キリスト教的な土台の上に立っているわけで、神定法と人定法の話が不可欠になるのである。実は、彼らは意外に理解してくれた。現実問題としてではなく、あくまで理論として受け入れてくれたのだろうと思っている。

反対に、どうしても理解しがたいということになったのが、基本的人権の同性愛の話の時である。日本も含め欧米的には、同性愛が認められているが、どうも不可解だという表情を崩さない。これは理論ではなく、現実の話である。異文化理解…。そんな簡単な話ではないのだと、改めて思うのだった。

2016年6月7日火曜日

IBTの話(4) ラマダン二日目

マレー人の国費生は、実家がKLであっても、タマンデサの寮(コンドを政府が借りている。)に住んでいる。IBTに通うのは、黄色いスクールバスである。いつもは、PM6:30くらいにIBTを出るのであるが、ラマダン中は、さすがに補習がないので早めにタマンデサに帰る。

授業で、お祈りを済ませてから夕食をとるのか、夕食をとってからお祈りをするのかを聞いた。すると、「どっちでもいいんです。」との答えだった。中田考先生の本を何冊か読んでいる私には、納得できるのだが、意外にイスラム教は、ルールがゆるやかなのである。

日本人は、イスラム教徒というと、堅苦しいルールをきちっと守っているというイメージが強い。豚を食べない、酒やタバコをやらない、1日5回の礼拝、断食をする、というだけでそういうイメージになるのだが、そういう細かなことは本人に任せられているらしい。だから、日が落ちる前に夜店に買いにいくのは、問題ないそうだ。日が落ち、屋台の料理を食べて、それからゆっくりお祈り…というペースでみんなやってるらしい。ラマダン中に本来クルアーンを全部読むということも、個人の意志の問題らしい。特に彼らは、学生(受験生)だし宿題も多いので、今回はパスという生徒も多いらしい。きっと神は慈悲深いとクルアーンに何度も書いてあるのでOKなのだと異教徒の私は考えている。

とはいえ、ラマダンである。私はというと、今日はお粥屋の定休日だ、昨日失敗したので、今日こそ夜店の屋台に挑戦したのだった。で、買ったのが、今日の画像。主食はきしめん風の麺。本当はメチャ辛いソースがつくのだけれど、あえて入れてもらわなかった。その代わり、+RM1で卵焼きを乗せた。RM4。さらにサテー(ココナッツミルク味の焼き鳥)RM3。このサテー、私はマレー料理の中で一番大好き。画像の左の袋にココナッツソース、ちょっとだけピリカラが入っている。なかなかの美味である。とはいえ、だいぶ食事とともに水を飲んだ。これが、マレー料理のつらさである。(笑)

でも、これで、明日授業で、「夜店のサテー食べたで。」と言える。きっと、国費生はそれだけで喜んでくれると思う。

2016年6月6日月曜日

IBTの話(3) ラマダン初日

ラマダンが始まった。日本にいる時は、かなりの他人事であるのだけれど、マレーシアでは教えている生徒たちが断食行をしているわけで、ついつい意識も高くなる。授業時間等は全く変化はない。普段と同じである。ただ、IBT教職員には、ラマダン中はできるだけ職員室に生徒が来る休み時間や昼食休憩時には、食事を取らないようとのお達しが校長先生から出ている。つまり、飲食が生徒の目に触れないようにしてあげて欲しいということだ。なんとも日本らしい対応である。

ラマダンの影響は日本人会の店舗にも出てきた。ナシレマッ(5月2日付ブログ参照)を売っている店(T亭:価格はなんとRM1.5)があるのだけれど、マレー人のお母さんが作っているそうで、ラマダン中はナシレマッ!などとシャレを行っている場合ではない。私は、今日はむちゃくちゃ忙しく、結局そのT亭で日本の輸入カップ麺をRM10も出して食べる羽目になったのだった。

生徒は、というと「慣れてますから、大丈夫です。(男子の国費生徒)」とのこと。とはいえ、朝がいつもよりは早いらしい。滅多に居眠りなどしない国費生だが、流石に私の最後の授業・5限目など、目がトロンとしていたりする。(笑)

今日から、フードコート前に夜店が立つ。カメラを持って勇んで行ったのだが、なかなか日が暮れない。あまりに空腹なので、先に中華粥を食べることにした。粥屋の主人は、私の顔を見て、「10(テン:私がいつも注文するピータン+ゆで卵入り)!」と言ってウインクした。毎度美味な粥を食べたあと、夜店の方に行くと、食事を作っていないか、作り始めたけど売ってはならないという感じ。もちろん異教徒には販売していいのだろうけど…。なんとも中だるみな屋台街だったのだった。

生徒に、いろいろと「屋台でこれを食べてください。」と紹介してもらったのだけれど…。異教徒の私は、今日は欲望に負け、日が暮れる前に食べたので、ホンマモンのラマダン夜店の屋台を見れなかったのだった。ごめん、おまけに豚まんを買って食べちゃった。

おお。大音響で、2箇所のモスクからアザーンが響いてきた。先ほどは花火も上がっていたようだ。ラマダン初日である。

2016年6月5日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」4

まるで、トーラーのような…。イスラム美術館の展示物より
さらに、中田考・橋爪大三郎「クルアーンを読む」(太田出版)の書評、というより備忘録的エントリーの続きである。ところで、この本の副題は「カリフとキリスト」となっている。クルアーンに矛盾があるか?という橋爪氏の問いは、実に面白い。キリスト教は、旧約・新約聖書の矛盾や、旧約聖書内の書物にも矛盾がたくさんあって、「不条理なるがゆえにわれ信ず」という側面がある。この立場から対比を促しているわけだ。

それに対して中田氏は、クルアーンが神の啓示であると行った際、メッカの住人は信じなかった。そこで、「これがもし神のものでなければ中に矛盾があるであろう。」と言っている。だから、矛盾はない、というのがイスラムの立場である、と述べている。もちろん実際には一見すると矛盾すると思われる箇所もある、しかしそれを解釈によって解決するのが神学者の仕事であると言う。たとえば、クルアーンには天の1日は1000年と(第32章5節)と5万年(第70章4節)とふたつの説明がある。これは長い時間の比喩、あるいは天のレベル(天には何階層ものレベルに分かれているという)の違いによるものというような解釈がされているそうだ。

そこで、橋爪氏は、クルアーンを合理的だと認識した上で、アリストテレス論理学を受け入れることが可能か?と問いかける。これは、キリスト教がアリストテレス論理学を受け入れたスコラ哲学が、あたかも木に竹を継いだようなモノになった故に、神学と哲学が分離した。このキリスト教と哲学の関係と、イスラム教を比較しようとしているわけだ。

それに対し中田氏は、哲学は、イスラーム世界、当時のスンニー派世界の中では否定される、というのが定説で、実際そうであると述べる。ただし、ここでいう哲学とは我々が思うような一般論としての哲学ではなく、否定されているのはプラトニズム的(プラトンのイデア論のような)な形而上学を前提とした哲学で、(アリストテレス的な)論理学あるいは論理学的に考えるということは何の問題もないということだそうだ。

橋爪氏がこの2つの質問で得たものは、キリスト教に比べて、極めてクルアーンは合理的である、ということである。

次に、クルアーンの区分としての、メッカ啓示とメディナ啓示について語られる。メッカ啓示の方が歴史的には早い。こちらは、来世の話や神学的、道徳的な話が中心、メディナ啓示は国家ができたので法的な啓示が増える。メッカ啓示の方が終末意識が強く、緊迫感があるという。

およそ、メディナ啓示の長い章が前に、メッカ啓示の短い章が後ろにあるけれども、ひとつだけメディナ啓示が入っていたりするらしい。また12章のユースフ章だけは物語形式であったり、第55章のラフマーン(慈悲深きお方)という章は、最後は全部「アーン」という言葉で終わっていたりして別格の趣があるそうだ。

また、第9章だけは、他のクルアーンの章の全ての始まりの句「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」で始まらない。この章は不信仰者との絶縁と宣戦布告、ジハードの義務化などが内容であるために、慈悲の言葉がないという説と、もともと第8章とひとつの章だったので冒頭の句がないとういう説があるそうだ。

仏教教典の最初の句、「如是我聞」みたいで、私などは、大いに興味深いと思うわけだ。

中田・橋爪「クルアーンを読む」3

イスラム美術館の展示より
いよいよ、明日からラマダン(断食月)である。タマンデサのフードコート前・夜店の場所にはすでにテントが張られている。マレー人の生徒によるとラマダン中は毎日夜店が開かれるそうだ。そのラマダン中に、クルアーンを読み終えるとのこと。だいたい1/30ずつ、毎日1時間くらいかかるらしい。で、他の本で、クルアーンには、メッカ文書とメディナ文書(啓示された場所による分類)があることは知っていたが、クルアーンの章立てというか順番は、啓示順ではない。その辺の話を中田氏が語りだされる。今日は、第2章のそのあたりからエントリーしたい。

最初に下された章は、第96章の「アラク(凝血)」である。天使が降りてきて「イクラッ(読め)」と言われた。

読め、おまえの主の御名において、(森羅万象を)創造し給うた(主の御名において、)(つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。
読め。そしておまえの主は最も気前よき御方であり、
筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、
(つまり)人間に彼(人間)の知らなかったことを教え給うた(御方である)。

橋爪氏が、啓示された順番が何故わかるのかを尋ねると、中田氏は「ハディース(ムハンマドの言行録)によっている。ただし、こういう順番だったとまとめたものがひとつのハディースにあるわけではない。いろいろ総合していくとこういう順番になるということなので、若干意見が分かれているところもある。」とのこと。

さらに、クルアーンの並べ方というか順番の決め方にも質問がおよぶ。これに対して、天使ジブリール(キリスト教では大天使ガブリエル)とムハンマドがクルアーンの読み合わせをして、ここはこういうふうにしなさい(これを最初におきなさい、これはここにおきなさい、というふうに)、とジブリールから預言者が聞いた、という伝承が残っている。指示通りに預言者が読んで、うん、これでいい、と確認した、という感じらしい。

このジブリールは啓示の担当の天使で、基本的には全ての預言者はこのジブリールを通じて啓示を受ける。

クルアーンのなかに出てくる預言者には尊称があって、イエスは「ルーフッラー」(神の霊)、モーセには「カリーム」(神によって直接語りかけられた者)。イスラムでは、イエスよりモーセのほうが(神が直接啓示したが故に)上の預言者なのである。さらにモーセの上に位置するのが、イブラヒーム(アブラハム)である。

実に、面白いではないか。預言者の中で、ムハンマドは最後の預言者で最上位なのは当たり前だが、ムハンマドは、直接神の啓示を受けることもあるけれど、基本的にクルアーンはジブリール経由である。

次に、クルアーンとアッラー・ジブリールと、ウンム・アル=キターブ(書物の母)などに対する存在論的な対話が始まる。うーん、ここはエントリーするには難解に過ぎる箇所かもしれない。で、割愛。その結論だけ、記しておこうと思う。それは、クルアーンがここに1冊あるとすると、大部分は(神の)被造物だけれど、中核部分は被造物ではない。クルアーンだけがそういう属性を持っているということになるのだった。

2016年6月4日土曜日

KLチャイナタウン 再訪

チャイナタウンらしい風景 鳥屋さん
若手のA先生に案内してもらって、チャイナタウンに行ってきた。まずは、美味しい麺をいただく。尋常でないコシの強さ。美味である。まさにキタナシュラン(日本でとんねるずが紹介している汚いが美味い店)である。その他にいくつかお店を紹介してもらった。今日は満員で入れなかったけれど。
文句なしに美味でした
前回、11時くらいに650番のバスで、たまたまチャイナタウンに入った(4月30日付ブログ参照)けれど、今日はだいぶ様子が違う。夕方なので、さらに屋台の店が増えているのである。いろいろな雑貨の店が商店街の真ん中にさらに店を出していて大混雑である。極めてチャイナタウンらしい。
これぞチャイナタウンの風景 関帝廟
関帝廟とヒンドゥー教の寺院(スリ・マハ・マリアマン)にも行ってきた。前回結局、場所がわからなくて行けなかったところである。関帝廟は日本の中華街やNYのチャイナタウンでも見たことがあるが、実はヒンドゥー教の寺院に入るのは、意外なことに、今日が初めてである。
なぜかチャイナタウンにあるヒンドゥー教寺院
いやー、嬉し。寺院の名称になっているマリアマンというのは、シバ神の一族だということは、ガネーシャがいたので解った。後で調べてみると、シバの奥さん・パールバーティの分身らしい。雨を司るんだとか。1月に、ここを出発してバトゥ・ケイプ(洞窟)というところまで夜通し歩いていく、奇祭「タイプーサム」が行われることもわかった。パトゥ・洞窟は、KTMコミューターで30分くらいの距離で、野生のサルもいるらしい。

とにかくも、なかなか興奮したのだった。ヒンドゥーも実に面白いな、と思う。

ところで、6月の19日に、本年度の第1回のEJU(大学留学試験)が行われる。その会場もチャイナタウンにある。そこにも案内してもらった。当日、私も激励に来るつもりだ。

中田・橋爪「クルアーンを読む」2

中田氏は第2章の冒頭で、こういう極めて示唆に富んだ話をしている。
「イスラーム学の難しさというか、異文化理解の難しさというのは、単純にその知識がないということではなくて、誤解してしまうことにあるのです。われわれは、なんでも最初に理解する時には、自分の手元にあるものに引きつけて理解します。それは仕方ないことですけれども、その最初の理解の手掛かりになるものは、実は次の段階に進むと、逆に真実を隠す理解の妨げになってしまう。最初に持ってしまった近似的な理解が邪魔になって、あるいはその枠組みから離れなくなって、対象を理解できなくなってしまうことがよくあります。」

この後、氏はクルアーンの真の意味について語るのだが、このことは日本語では説明しようがないことを述べている。どうしても前述のような近似的理解の限界があるのだ。次に礼拝(仏教ではライハイだが、キリスト教やイスラム教ではレイハイ)のカタチについて。

実は、私は随分昔に香港のモスクでパキスタン人に礼拝を仕方を見せてもらったこともある。その動作を解説したアラビア語の本(子供用だけど…。)も持っていて、それなりに知っているつもりだった。中田氏は、この本の中で意外に知られていない(スンニー派の)礼拝のカタチを教えてくれている。(シーア派の礼拝との違いは後に出てくるのだが…。)

5回の礼拝で、クルアーンを声に出して読む場合と声に出しては読まない(心の中で読む)場合があるとのこと。声に出して読まないのは正午から日没までに2回ある礼拝。他の3回は、声を出して読む。で、それぞれの礼拝では、まず最初に第1章を読むとのこと。ファティーハ(扉)という章である。(もちろんアラビア語で唱える。)

慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において
称賛はアッラーに帰す、諸世界の主に
慈悲あまねく慈悲深き御方、
裁きの日の主宰者に。
あなたにこそわれらは仕え、あなたにこそ助けを求める。
われらを真っすぐな道に導き給え、
あなたが恩寵を垂れ給うた者たち、(つまり)御怒りを被らず、
迷ってもいない者たちの道に。

最後に、「アーミーン」(ヘブライ語で言うアーメン:かくあれかし)と唱える。その後さらに、任意で短い章を読むか、長い章の3節以上を読むらしい。たとえば、中田氏が例に挙げた第112章はかなり短い。4行くらいである。

こういう細かいイスラム学の基礎知識は、実は今の私にとって極めて重要なのである。なぜなら、実際にムスリムのマレー人の生徒たちを教えているからである。最初の中田氏の箴言ではないが、一から勉強し直していこうと思っている。このあたりの話は別にエントリーしたいと思う。書評その2はここまで。(上の画像もイスラム美術館でのものである。)

中田・橋爪「クルアーンを読む」1

さて、そろそろ中田考・橋爪大三郎の対談「クルアーンを読む」(太田出版)を7割方読破したのでエントリーしていこうかと思いだした。一度読んで、もう一度線を引き直したりしているので、時間がかかっているのだが、この本には、それが相応しい読み方だと私は思う。書評というにはおこがましいけれど、備忘録的に重要な箇所を整理しておきたいと思っている。とはいっても、かなりの量になるような気もする。

まずは第1章。「正典」という概念の、橋爪流の社会学的考察から始まる。(私は、この橋爪氏の「宗教社会学」ではない「社会学的な比較宗教学」の見方が好きだし、非常に参考になると思っている。)橋爪氏は、M・ウェーバーの4大文明のアプローチを引用しながら、キリスト教文明・イスラム教文明・ヒンドゥー教文明・中国文明の共通点を、「テキストがあること」としている。

このテキスト、すなわち正典(英語に直すとCanon)とは、①書物である②正しさの基準である③正典と、正典でないテキストの区別が明瞭である④文字なので、勝手に書き換えることができない、といった定義ができる。

次に正典がどの言語で書かれているかという問題。キリスト教は、聖書の翻訳を許したために各国の国民語ごとの聖書がある。人々の聖書の理解は進むかもしれないが、普遍性が失われた。中国の四書五経などの経典の場合、初めから正しい表音システム(中国語は北京語や広東語など読み方が異なる)が存在しない。(表意の)文字だけが存在する。文字と音声の結びつきを断ち切っている故に、文字にアクセスできる知識層だけが特権的に政治や宗教を支配できた。ヒンドゥー教では、サンスクリット語を読み書きするのはバラモン階層だけで、それに隷属する体制が作られたが、政治・軍事はクシャトリア階層が担当するという住み分けが成立している。

それに対して、イスラム教は翻訳や文字にまつわるどちらの可能性も慎重に排除して、人々の共同性を壊さないようにした。見事な戦略であるとの結論が、橋爪氏より出される。

中田氏は、キリスト教について、そもそも神学的にイエスが自身が言葉(ロゴス)である(=神の言葉はイエス自体である)という立場故に聖書ですら重要ではない。クルアーンとは全く位置づけが違う、述べる。文字で書き留められ限定されるのが正典であるけれど、キリスト教では固定されていないので共通の理解が同じ国民ですら持てなくなる。正典を読める人間が力を持つのが、もとは全ての文明圏の在り方だったのが、(キリスト教圏では)なくなってしまった。なくなってしまったことによって、ナショナリズムが現れてきて、さらに民主主義という、正典を読める人だけが権威を持つのではなくて、誰でも同じであるという考えが出てくる、と述べている。

のっけから、世界の根幹に関わるような凄い展開を見せる本なのである。今日の画像は、先日行ったKLのイスラム美術館のコーランコレクションから。

2016年6月3日金曜日

IBTの話(2) チャイム

2・3日前の夕日 16階の住処から
IBTの話を続けようと思う。IBTは、日本人会の建物の中にある。元日本人学校の場所を引き継いでいるからだ。IBTで最初に驚いたのが、学校なのにチャイムが鳴らないことである。これまでの私の人生のほとんどは、キンコン・カンコンというチャイムで区切られてきた。ところがIBTではそれは鳴らない。

理由は聞いていないが、おそらく日本人会の建物だからだと思う。店舗や、会議、サークル活動の迷惑になるからだと。したがって、自分の時計で授業の時間を計っているわけだ。私は、これにはなかなか慣れない。

しかも、授業時間がややこしいのである。基本は90分で1コマである。3限目だけは50分授業で1コマである。金曜日はムスリムの生徒の礼拝の時間を確保する関係で、昼休みが通常よりはるかに長くなる。(IBTには屋上に、男女別の礼拝場もあるのである。)かなり複雑で、毎回机上の時間表を確認している。

私は、総合科目(社会)の担当だが、およそ公民分野と地歴分野に分けて授業をしている。同じクラスを2コマ(90分+50分)連続で担当することもある。なかなか濃密な時間である。チャイムがならないので、知らず知らずのうちに熱が入って時間をすぎることもあった。

このノー・チャイムに、いつになったら慣れるのだろうかと思うのだった。

2016年6月2日木曜日

IBTの話(1) 明暗

IBTのHPより
そろそろ、IBTの話をエントリーしようかと思う。私の勤める日本語学校の話である。IBTの生徒の多くは、20ヶ月在籍するコースである。つまり、4月に入学して、その年(9ヶ月間)は、日本語の学習に明け暮れる。年が明けて、1月から、教科(文系は総合科目=社会科と文系の数学、理系は理科=物理・化学・理系の数学)も学びながら、11月のEJU(大学留学生試験)を目指すというコースである。この20ヶ月コースは、文系と理系に分かれると共に、国費生と私費生にも分類できる。

マレーシアという国は、プミプトラ政策を行っている。要するにマレー人優先政策である。マレー人の生徒で、成績優秀故に日本への留学生候補として選抜されたら、国費でIBTと日本の国立大学の学費等を賄ってあげるという優遇策である。彼らは、2人1組で、我が住処の近くのコンドに住んでいる。IBTにもスクールバスで通っている。なかなかの待遇なのである。全員、ムスリムで、性格も穏やかで礼儀正しい。だが、あまりガツガツ勉強するというタイプは、少ないように感じる。

私費生(私費留学を目指している生徒)は華人(中国系)が多い。漢字文化圏なので日本語学習においては、有利だ。なかなか優秀な生徒が多い。ちなみに彼らも礼儀正しくて、好感がもてる生徒ばかりである。

したがって、IBTの生徒は、文系の国費生・私費生、理系の国費生・私費生という分類が中心になる。ここに1年コースの生徒もいる。彼は日本語専修の生徒が多く、在馬日系企業への就職や日本の専門学校への留学を希望している生徒が多いらしい。(直接教える機会がないのであまりよく分かっていないのだった。)

私は、文系の国費生・私費生の総合科目担当。生徒諸君は、もう1年以上ガンガンに日本語を叩き込まれているので、私の関西弁混じりの講義もなんとかついてきてくれている。時々「?」という顔をするので、慌てて標準語で教え直すこともしばしばである。(笑)

先日、日本の小説の話が出て、「日本の小説家を誰か知ってるかあ?」と聞いたら、「夏目漱石」という声があちこちからした。「おお。すごいなあ。で、どんな小説を書いたか知ってる?」と聞いたら、「明暗」ときた。私は、思わずコケそうになった。夏目漱石ときて、普通、「草枕」とか「三四郎」とか、「こころ」、「坊ちゃん」なんかではないか。それが「明暗」とは…。あまりに渋すぎるではないか…。私は、ちょっと感動したのだった。

後で若手の日本語の先生に聞いたら、この「明暗」、日本語の初級の授業で出てくるらしい。なぜ「明暗」かというと、その内容云々ではなく、漢字の練習というか、字の並び具合というか、学習に都合がいいかららしい。「なーんや。そうやったんか。」と私は思わず関西弁で言ったのだった。(笑)