2016年6月11日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」5

http://discoverislam.deviantart.com/art/Sura-Al-Fatiha-243830223 第1章ファーティハ
先週の土日に、「クルアーンを読む」をちょっとまとめてエントリーした。こういう休日の過ごし方も、なかなかいいと思ったりする。と、いうわけで今週もエントリーしていきたい。前回の続きである。

ところで、この一週間もいろいろあったけれど、モハメド=アリが亡くなったのは大きなニュースだった。元カシアス=クレイ。オリンピックの金メダリストで、差別に怒ってメダルを川に投げ捨て、プロになった男。蝶のように舞い、蜂のように刺す男。猪木と戦い、アリキックという技に名前が刻まれた男。うーん。なぜかプロレスの話になったが、この本の中で意外なことを発見したのだった。

中田氏が、礼拝の時必ず唱える第一章の解説をされている場面である。「あなたにこそ我らは仕え、あなたにこそ助けを求める。」の「仕え」はアブドゥ。よくイスラム圏にアブドゥ某という名前があるけれども、アブドゥは奴隷という意味になる。つまり、アブドゥッラーは、アブドゥー+アッラー、アッラーの奴隷、しもべという意味になる…。

http://ameblo.jp/bonzoring
/entry-10887404202.html
もう古いプロレスファンならお分かりだと思うが、アブドゥッラーとくれば、ブッチャーではないか。ブッチャーは屠殺とか駆逐艦とかいろんな意味があるけれど、アブドゥッラーは、モハメド=アリ(ムハンマドと甥にあたる第4代カリフのアリーが合体した名前である。)に匹敵するほどのイスラミックな名前だったわけだ。極めて真面目な学術書で発見する、こういう変なハナシ。私は大好きである。

中田氏のこの第一章(ファーティハ)の解釈は実に面白い。最後の「お怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に」の「お怒りを被った(者)」はユダヤ教徒を、そして「迷い去った者たち」はキリスト教徒をさすと言われているそうで、大雑把に言って、ユダヤ教徒は神学的にあまり間違っていないけれど、とにかく性格が悪い、裏切ったり、預言者を殺したり、そういうことをたくさんやっている。だから怒りを被った者。一方、キリスト教徒はクルアーンの中でも非常に優しい人達であると褒められているところもあって、性格はいいのだが、頭が悪いとみなされている。それでいろいろ間違ってイエスを神の子だなんて馬鹿なことを言い始めた。これが、イスラム教徒の一般的な理解らしい。

この第一章は常に礼拝で読まれるものであるから、イスラム教徒にとって、他の一神教に対しての意識は、それがたとえ上記のようなものであったとしても、すこぶる高いと言わざるを得ない。啓典の民という言い方でよく括られるが、イスラムから見た場合、ホント日常的にユダヤ教徒もキリスト教徒をも意識しているということを再認識した次第である。

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