2022年8月31日水曜日

マレーシア政治体制論を読むⅡ

https://nextnationalday.com/malaysia-hari-merdeka/
8月31日。今日は、マレーシアの独立記念日。意義深いこの日に「民主主義の自由と秩序ーマレーシア政治体制論の再構築」の書評の続きである。今日は1971年憲法修正をめぐる第3章の要約をしてみたい。

この71年の憲法修正は、1969年5月13日の暴動を受けてのものである。この暴動は、10日に行われた総選挙・州議会選挙で、マレー系ではPAS(非マレー7の市民権やマレー人経済の後進性、特別の地位の保護を争点にした)に与党IMNOが侵食され、非マレー系でも、DAP(マレー人の特別の地位に不同意、華語の公用語化を争点にした)、PPP(民族間の平等を唱えた)やグラカン(マレーシア民政運動党:MICの分派で華語やタミル語の使用制限、マレー人の特別的地位を批判、民族間の平等を唱えた)などが与党MICを侵食した。DAPとグラカンによる祝勝パレードに対抗したUMNO政治家に指導されたマレー人の行進が衝突したものである。この暴動を受けて、ラーマン首相の助言の下、国王は非常事態宣言を出され、議会は停止、臨時政府・国家運営会議によって治安回復を行った。マハティールのラーマン首相辞任要求で再燃した政治制度への構想の練り直しは、民族間の差異と対立を所与としたうえで、それぞれの権利への攻撃を抑止する法改正を行うことで自由民主主義を回復するという方向性に向かう。10月「5月13日の悲劇」という白書が刊行された。暴動の原因として、(1)世代間格差(2)民族によって異なる憲法解釈と移民民族によるマレー語とマレー人の特別の地位について定めた152条・153条への政治的侵犯(3)選挙における民族主義政党のメンバーによる挑発的な言動(4)マラヤ共産党や秘密結社による民族感情や疑念の扇動(5)マレー人の自国内での生存と福祉に対する侮辱と脅迫に由来するマレー人の不安や絶望感の5つを挙げた。

この白書を見ると、71年の憲法改正はマレー人が原動力になっているようにみえるが、非マレー人側にも政治制度の見直し要求があった。非市民労働者の登録と許可を義務付けた雇用法が、NOCによって暴動後12の業種から全業種に拡大された。さらに11月に市民権の再検査が発表された。これにはMICを始め、野党も反対声明を出すとともに、自らの市民権と正当な利益を保護する必要性を痛感するはめになった。一方で、新経済政策(NEP)が動き出す。資本所有や雇用分野でマレー人利益の保護を目的とした政府介入の必要性が語られ始めた。非マレー人企業家は政府の介入をできるだけ抑え、原稿の自由な企業活動を保証する必要を感じていた。

70年1月にNOC(国家諮問評議会)の第1回会議が開かれた。これには、与党のUMNO、MCA、MICと軍、警察(暴動直後に結成された国家運営会議)、行政府、州政府、サバ州、サラワク州、宗教団体、専門家団体、報道、労働組合、企業組合、教師組合、少数派民族、女性、野党の代表が参加した。(野党・DAPは不参加)NOCは「メンバーが恐怖心なしに意見する」ことを可能にするため秘密会合とし、発言や提案に免責特権が与えられた。3月の第2回会合で、憲法についての議論が始まり、7月非常事態勅令を発令、扇動法を改定し、国語・マレー人とその他の先住民族の特別の地位、マレー人統治者の特権と宗主権に関連する憲法の規定に意義を唱える(言葉・声明・発言・印刷・出版)ことを禁止した。また合わせて結社法も改正され、扇動法に違反する結社の登録を取り消すことになった。第4回会合では、(1)国民統合のために民族間の経済的不均衡が縮小されるべきこと(2)すべての民族内部に貧困問題が存在するため「持つ者」と「持たざる者」の格差を是正する必要が有ることが合意された。8月31日独立記念日に、議会制民主主義が翌年2月に復活すると発表。12月の会合で憲法改正法案が議論された。…続く。

2022年8月29日月曜日

マレーシア政治体制論を読むⅠ

独立記念日のムルデカ広場での軍のパレード
https://www.go-malaysia.info/latest-news/nationalday-malaysiaday
 PBTのF40のOGであるJ君に贈呈してもらった「民主主義の自由と秩序ーマレーシア政治体制論の再構築」(鈴木絢女著/京都大学出版会)を読み始めた。著者の経歴を調べて驚いた。慶応大学法学部政治学科卒で東大の院に進み、博士号習得。マラヤ大学でボスドクフェローの後、福岡女子大学の講師を経て、現在同志社大学の准教授だろうだ。東大以外すべて私の教え子と関わりがある。この本は博士論文を加筆したもので、当然ながら完全なる専門書である。(というわけで需要が少ないゆえに高価である。J君に深く感謝。)

この本の副題にあるように、マレーシアの政治体制をこれまでの学説を批判しながら、ナジブ政権前までの様々な憲法改定を中心に論じている内容である。マレーシアに滞在し、社会の教師として憲法や政治体制の研究をしてきた私にとって、実に興味深い内容である。初回の今日は、読み進んできた中から、独立憲法についてエントリーしていきたい。

イギリスは植民地時代、マレー人に対して農業や行政機関への就職を奨励、国内の穀物生産と現地官僚の供給源とした。華人は錫鉱山労働者や小規模鉱山の経営者か商人、インド人はプランテーション労働者や商人といった大まかな棲み分けが出来上がり、それぞれの職能団体が形成されていた。このような構造の中、民族別の利益表明の仕組みがベラ州やセランゴール州で各民族代表の諮問機関が制度化され20世紀には他地域にも広がった。やがて、独立が現実味を帯び、民族ごとの政党が成立する。1946年マレー人貴族層と公務員は、統一マレー人国民組織(UMNO)を設立。19世紀以降の移民に対する市民権付与、マレー人に対する公共セクターでの雇用機会の優先的分配や土地保有に典型的な積極的差別、スルタンの宗主権の否定を、イギリスが「マラヤ連合案」として提示したことが契機になっている。結局、両者の話し合いの結果、経済活動、雇用、教育、土地保有におけるマレー人の特別の地位とスルタンの宗主権を認め、市民権付与の条件として15年間の滞在、恒久的定住を宣言すること、マレー語の能力を有することを認めた「マラヤ連邦協定」に変更された。

この動きに他の民族も近代政治結社を結成する。1946年にはマラヤインド人会議(MIC)が、さらに1949年には、マラや共産党(CPM)に対抗勢力として、マラヤ華人協会(MCA)が植民地政府の肝いりで結成された。UMNOとMCAは選挙協力を行い、1952年のKLの市会選挙に勝利。イギリスに連邦議会選挙の早期開催を迫った。1954年の選挙で、UMNO・MIC・MICで構成する連盟党(Alliance Party)は自治拡大と憲法委員会の設立、マレー人と非マレー人の利益と権利保護を公約に51/52議席を獲得した。

連盟党による憲法委員会の設立要求は、1956年から、ライト委員会として実現した。イギリス、オーストラリア、カナダ、インド、パキスタンなどのイギリス連邦の法学者、官僚、裁判官により構成された委員会が、連盟党の提言を考慮して憲法草案を起草、イギリス政府、連盟党、スルタンで構成される作業委員会における修正を経て独立憲法が成立した。

独立憲法は、イギリス本国に範をとり二院制や権力分立を特徴とする国家機構を規定した。ただし、民族ごとに権利を規定し、また議会に対して基本権に介入する権限を与えるという特徴があった。制定の過程で最も論争となったのは、民族出自に由来する権利、具体的には、市民権、言語の学習・教授・使用、マレー人の特別の地位であった。市民権については、結果的に二重国籍は認めない、属地主義で市民権を先んじて10年間滞在者に与えることになった。言語については、マレー語が国語であり、タミル語、中国語の私的領域と非公用目的での使用は保証されたが、議会での使用は禁止、英語は公用語として10年間通用、以後は議会で審議という妥協がはかられた。マレー人の特別の地位につては、暫定的なものという共通理解があったようだが、憲法には恒久的な権利のように明記されている。

…私は、少なくとも3・4年前の連邦憲法を読み、考察した。だからこそ容易に読み進むことができる。マレーシアの政治史の本も何冊か読んでいたので知っている話もあったが、ライト委員会の話は初めて知った。興味深い。上記の独立時の憲法の名残は特に市民権の規定にあるように思う。マレーシアならではの規定で、かなり長くて読んでいて閉口したのを思い出す。

明後日の8月31日はマレーシアの独立記念日である。タマンデサ上空に訓練の為の国旗をぶら下げたヘリは飛んでいるのだろうか。…今日はここまで。

TICAD チュニス宣言 考

https://www.asahi.com/articles/ASQ8X5HT9Q8XULFA001.html
チュニジアで開催されていたTICADが終了した。今回のTICAD8は、特に中国の一帯一路の巨額融資を念頭に国際ルールを遵守する開発金融が重要だとしているのが目玉のような気がする。スリランカの事例が示すように、健全な開発金融が必要なことは論をまたない。

面白いのは若者や女性のスタートアップ企業を支援する民間投資の話が宣言に盛り込まれていることだ。先日(6月18日付ブログ参照)エントリーした「シリコン・サバンナ」のような有望なIT人材が育ちつつあることを念頭にした話だ。

…ウクライナ戦争とコロナ禍で、エネルギー、食料の価格上昇は必定。日本自身も大変だが、是非ともアフリカの味方になって欲しい。意外に、アフリカは、産業基盤やインフラ、ガバナンスなど脆弱な面はあるがエネルギー危機には、在来知で対応できそうだ。食料に関しても在来知を働かせるはずだ。なにより、人間力が脆弱ではない。EUの方が脆弱なのかもしれない。

…日本は、世界から愛され、そしてリスペクトされる国であって欲しい。特にアフリカに対しては、植民地支配を経験していない数少ない先進国のひとつである。カネ・カネ・カネの中国と違って、経世済民の意識も高い。アフリカにかかわる者として、JICAを始め関係各位の益々の精進を望みたい。

2022年8月28日日曜日

自由貿易のデメリットは何か?

https://www.youtube.com/watch?v=uJfL6ucbRxg&ab_channel=%E7%B5%8C%E6%
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2年生の政経は経済分野に入る。先日プリントを用意していたのだが、まずはアダム・スミスからフリードマンまでの経済思想になる。その後、一気にリカードの比較生産費説に触れることにした。リカードは言うまでもなくイギリスの経済学者である。アダム・スミスとともに、当時世界の工場として君臨していた母国の国益のために、比較生産費説=要するに自由貿易をした方が生産性が向上するという証明をしたわけだ。

関税をなくし、自由貿易をすると互いに儲かる。比較優位の生産物に特化すべきだという主張は正しい。ただ、自国の工業化発展のためには、必ず保護貿易化が必要で、いつまでもイギリスだけを工業国にしておく訳にはいかない。保護貿易を訴えたドイツの経済学者のリストは不遇をかこったが、優秀な為政者であるナポレオンもビスマルクもそう考えた。

自由貿易の利点は、生産性だけではない。WWⅡの太平洋上で、ドイツの攻撃をなんとか凌いでいたチャーチルと参戦前のF・ルーズヴェルトが、戦後世界は自由貿易体制であるべきだと結論付けた。この辺のアングロサクソンの深い洞察には恐れ入る。各国が、貿易で繋がっていれば、自国も経済的被害を受けるが故に戦争を回避できるだろうという想定は正しい。(実際には、ウクライナ戦争など、この想定を上回る事態が起こっているのだけれど。)そういう意味で、IMFも世界銀行も、現在のWTOの存在意義はあるといってよい。

しかし、と私は思う。社会科学というのは、一定の方向からだけではなく、違う方向からの視点も必要だ。今回の授業では生徒にそれを問いたいと思う。すなわち、自由貿易のデメリットは何か?という問いである。

それは、西ヨーロッパ諸国が、イギリスに対抗して保護貿易を行った時期に自国の工業を育成したことである。これには、かなりの資本蓄積や技術蓄積と自由な賃金労働者の存在が不可欠である。しかるに、途上国にはそういう保護貿易の時間を与えることなく、自由貿易を強要した。特にIMFと世銀の責任は重い。IMFの短期、世銀の長期融資には、自由貿易体制の堅持姿勢が必要で、工業化を進めさせない、原料供給地という植民地的構造を護るという先進国の構造的暴力だといっていいだろう。運良く、海外資本の進出で工業化が進んだマレーシアをはじめASEAN諸国もある。しかし、私のフィールドであるサブサハラ=アフリカ諸国では、完全にその芽を摘まれてしまった。こういう話もしてみようかと思う。もしかしたら、開発経済学の道に進む生徒が生まれてくるかもしれない。

2022年8月27日土曜日

「旬の駅」に行ってきた

妻の要望で、朝から「旬の駅」京都店に行ってきた。京都店といっても八幡市なのでお隣である。地元の農家の野菜とか地元の産品が豊富なんだとか。朝から大勢の人で賑わっていた。中年の夫婦連れが多い。(笑)

三崎にいた時は大洲市にあるファーマーズ・マーケットの「愛たい菜」によく行った。妻は、初めての店なのでじっくりと品定めをしている。やはり野菜は安いようで。「愛たい菜」と同じくらい。ただ、最近、朝の散歩の際に無人の販売所を見つけた(8月8日付ブログ参照)ので、そっちのほうがインフォーマル故に安い。小玉だがスイカが300円。しかもなかなかうまかった。

今回の戦果。京都の銘菓・生八ツ橋の切れ端を発見。さすが京都。ニッキと抹茶味2種類を購入。それと桜餅が「くず」の中に入れられた珍しい和菓子も発見。あわしま堂の製品を期待していたのだが、これはこれで嬉しい。

今年の夏は、息子夫婦と信楽に行ったのと、PBTのF38・40の教え子に会ったくらいだった。とはいえ、それなりに楽しみを見つけているわけだ。

2022年8月26日金曜日

アフリカでの純粋経験

サヘル地域 https://geography-trip.com/sahel-region/
先日の夏期講習で日本思想史をやったけれど、西田幾多郎の純粋経験を語るのにずいぶんと思索した。一切衆生悉有仏性で、阿頼耶識に蔵された如来=仏性を湧現することの文章化・イメージ化なのだが、高校生に理解してもらうことは至難である。

様々な文献では、心を奪われるような景色に依正不二(自己と環境が一体化すること)するような体験と書かれていることが多い。最初に北海道礼文島の澄海岬を挙げた。あるいは、運転手に促されて後ろを振り返って見た夕日に照らされ黄金色に輝くニューヨークの摩天楼。美術品に対してもあまりの美しさに涙したこともある。私にとってはボストン美術館のギリシアの壺である。ミュージカル・キャッツの「メモリー」の独唱にも涙したなあ。英語で意味はわからなかったけれど、あのこみ上げるような感動。だが、まだ純粋経験を的確に表現できているとはいえないだろう。

そこで、最終的に私が選んだのは、ブルキナファソでサヘル(砂漠化が進行するサハラ砂漠南縁)を1泊2日で見に行った帰り、長い長い坂道を自転車に大きな荷物を載せ、集団で運んでいるブルキナベの姿を見た時のエモーションだ。私はクーラーのきいた4WDに載ってこれを見ている。その格差に愕然とした。涙を流して彼を見ている私に、ガイドのオマーンが「I's nature.」と言った。あたりまえのことだと。オマーンも昔はああやって汗を流して荷物を運んでいたというのだ。苦労でもなんでも無い。あたりまえのことだと。この感動は一生忘れない。この時の私の純粋経験が存在する形而上学的空間は、まさしく西田の言う「絶対無」で、莫大なブルキナ人のいやアフリカの人々の存在する広大な空間であったと思う。私とアフリカの人々の格差と矛盾が様々な縁起の集合体として錯綜し「絶対矛盾的自己同一」の時間と空間を、あの出会いの刹那に形成したのである。まさに、アフリカでの純粋経験だったといえる。

2022年8月25日木曜日

中国の社会類型の変化 考

中国の華南地方の治水・ガバナンスは狂っているようだ。大洪水が起こったと思ったら、今度は渇水である。おそらく農業被害が深刻で、中国の輸入が増大し、世界的な農業生産物に影響(高騰)が出るだろうと言われている。まずはトウモロコシの不作がささやかれているようで、畜産物にまで影響が出る可能性が高い。その理由は、長い歴史の中で作られてきた”ため池”を地方政府が埋め立て、今崩壊が噂されている不動産ディベロッパーに賃貸して開発を進め、収益を得ようとしたかららしい。中国には、全く”経世済民”の意識がない。

中国の社会類型は、ヨーロッパの自由な個人と不自由な共同体という二分されたピラミッド型のちょうど逆である。中国は、隋以来儒家を学んだ士大夫が皇帝を支える官僚として政治を動かしてきた。中国の支配層・不自由な共同体の誕生である。不自由の意味は、儒家思想に縛られ君子たることを強要されていることと、一族への(開発経済学で言うところの)”情の経済”に縛られる故であろう。一方、ヨーロッパとは反対に一般の人々は自由な個人である。儒家の本質は、「廊下を走るな」である。つまり学校によくある注意書きで、廊下を走る者がいるから、そういう必要性が生まれるわけだ。家族や一族の愛・思いやりは強いが、他にはない。だから仁が説かれたのであるし、義も礼も同様だ。巨大な人口圧による利己主義的カオス社会=自由な個人の集合体への押し蓋の如き倫理思想が必要だったのだ、といってよい。

中国では、自由な個人の例はいくらでもある。誰かが新しい商売でうまく儲けたら、みんなが飛びつき過当競争にすぐなるのが今の中国だ。平気でマンションのコンクリートにゴミを混ぜるし、食品にも何が入っているかわからないと一般大衆は恐れている。法は抜け穴を探すものという感覚である。自由を通り越して、まさにカオスである。今や支配者側も、それ以上にやりたい放題であるといえる。

隋以来の伝統は、1949年以降はどう変化したのか。少なくとも鄧小平くらいまでは、儒家でなくとも、マルクス=レーニンをフランスあたりでしっかり学んだ幹部もいたのだろうが、今やほとんどの中国共産党員は、”プロレタリア独裁”のプロレタリアの意味を知らないのではないかと思ってしまう。ノーメンクラツーラによる独裁だけが、スターリン的に拡大解釈されて、不自由な共同体が長く支配していた中国は、自由な独裁者たちが、(ある意味公安や暴力的な支配を受けているので不自由さは増したと思われるが)自由な個人を支配している社会類型になっているようだ。…ホント、もうどうしようもない。

激動 日本左翼史を読む3

フロントの緑ヘル 
https://aucview.com
/yahoo/n514689892/
「激動 日本左翼史」書評の続きである。新左翼のセクトには、共産党を批判して生まれたものも多いのだが、「フロント」というのがある。戦前から非転向を貫き懲役10年の春日庄次郎が結成した統一社会主義同盟の学生組織である。このセクトは構造改革派で議会や工場の自主管理などの大衆運動で革命を実現できるというグラムシの理論が元で武力闘争とは無縁。61年要領で共産党の「(武力闘争は放棄せず)敵の出方による論」の時に離れたわけだ。そういう意味では穏健派である。しかし東大闘争を巡って党内が対立、69年第8回大会で構造改革路線と決別し、一部は三里塚闘争に参加管制塔突入もしている。フロント出身者には民主党政権の官房長官だった仙石由人、海江田万里、阿部知子などがいる。フロントはソ連へのシンパシーが強く党派名もロシア語でキリル文字(エフ)である。(画像参照)

ところでこの本を読んでいて感じるのは、佐藤優は中核派に友人が足を折られた経験もあり、思想集団として認めていないようだ。革マルも同様に恐ろしい暴力的セクトだと考えているが、思想面ではその中心者・黒田寛一の「社会感の探究」「プロレタリア的人間の論理」といった疎外論と「崩壊する国債スターリン主義と前進する革命的反戦闘争」といった反スターリン主義には、感銘を受けたと述べている。共産党の「(アメリカの)悪い核兵器と(ソ連の)良い核兵器」論などに対抗して反スタを黒田は最も明確に打ち出しているわけだ。ちなみに松岡正剛氏も黒田の薫陶を受けた言論人だということだ。

この新左翼運動は、東大紛争や日大紛争のように、自分のことよりも大学の後輩(授業料値上げは活動家本人には関係ない)や社会(ベトナム反戦運動など)のためを思っての運動で、現代の若者にまさに欠落している意識が突き動かしたものだったが、リアリズムを持たないロマン主義で、「網走番外地」さながらの任侠の世界だったと論じる佐藤優の言には共感できる。書評の最後に、佐藤優が当時同志社の神学部・学生部長だった野本晋也教授(後の同志社理事長)に言われたことを記しておきたい。実に興味深い内容だ。

「政治には大人の政治と子供の政治がある。私は君たち学生が学友会(ブント系)で活動することも神学部自治会がアナーキズム運動をやることも全く構わない。君等は怒るかもしれないが、それは子供の政治だからだ。その子供の政治を経験しながら、様々に試行錯誤をしていくのは学生にとって必要なことだし、同志社は元々そういう経験を許容する空間だった。政治の世界で起こることはパターンとしては全部同じだから、人をまとめるのがどれほど大変で、どんなところから諍いが起きるか小宇宙での経験を通して知っておけば、卒業後に大きな政治に遭遇したときに、それが保守系であろうが革新系であろうが、あるいは企業内の政治であろうが過度に戸惑わずに済むからだ。ただし、民青や中核派、あるいは統一教会は違う。これは大人の政治、大人が自分たちの組織目的のために子供を利用する政治だ。我々は教育観点で、そうした大人の政治から君たちを守る義務がある。」

…野本氏が排除しようとした、民青(周知の共産党の下部組織)・中核派(当時で言えば国鉄の動労かな)に加えて、今話題の統一教会が入っているのが実に意味深である。

2022年8月24日水曜日

激動 日本左翼史を読む2

http://gewalto.blog.jp/archives/6856912.html
「激動 日本左翼史」を通勤時に読み終えた。新左翼のセクトについて、紛無派(紛争のない時代の意:1回生の時に少し見た程度)の私でも、名前は知っているけれど意味不明なものがたくさんある。その代表が「ブント」である。これは1958年(私が生まれた年だ。)に日本共産党から不満を持つ全学連メンバーの一部が「共産主義者同盟」という別組織を結成、ドイツ語で同盟を意味するブントにしたという。

このブントの中心は姫岡玲治(ペンネームは青木昌彦)で、後にアメリカに留学、主流派経済学に転身して京大の助教授・スタンフォード大の教授を務めたという優秀な人だ。彼以外にも学習院大学の政治学の元教授、精神科医、数学者などもいる。最も驚いたのは政治評論家の森田実もその一人だったことだ。森田実といえば、自民党・宏池会寄りの保守本流の論客である。凄い転身だな。まだこのころは内ゲバとかもない時代で、学生運動後の人生が存在しているわけだ。

このブントとは異なる系統に「革共同」がある。ブントより反スターリン主義でトロツキーを再評価していた。この流れから革マル派や中核派が生まれてくるわけだ。学生時代、同じ下宿にいた民青の友人が、新左翼を「トロ」と呼んできたのは、こういう流れに由来する。

急に話が新しくなる(私の小から中学時代)のだが、意外な事実だったのは、共産党の地方組織(神奈川)から党中央の方針に飽き足らず除名された中国派のグループが、社学同ML派や共産同マル戦派から分離したグループと結成したのが「京浜安保共闘」。毛沢東の「政権は銃口から生まれる」を信奉していた。この武器を使うという唯一の接点で、思想的にはトロッキズム=反スターリン主義=反毛沢東主義の赤軍派と合流してた。例の連合赤軍である。ちょうど、赤軍は、リーダーも大菩薩峠で軍事訓練をしていたメンバーも53人も検挙され、よど号ハイジャックで北朝鮮に主力を送ったりして、資金は有る(銀行強盗を繰り返していた)ものの、人的に困っていたようだ。一方京浜安保共闘は武器を持っている(銃砲店を襲撃した)ものの資金がなかった。両者の利害が一致したわけだ。なんとも泥臭い話である。赤軍派の森がNo1、京浜安保闘争の永田と坂口がNo2とNo3になって、凄惨な「総括」と「あさま山荘事件」を引き起こすわけだ。…つづく。

…まあ、今日はここまで。夏期講習で全力で、鈴木大拙と西田幾多郎を論じたのでちょっと疲れた。仏教をみっちりやったうえで、不立文字の臨済宗の在家の哲学者2人が、なんとか悟りの内容を言語化しようとしたのだ、ということは伝えれたと思う。

2022年8月23日火曜日

激動 日本左翼史を読む

市立図書館に、アーレントと日本思想の本を返却した際、「激動 日本左翼史」(佐藤優・池上彰/講談社現代新書)を見つけた。まだ比較的新しい新書で、買おうかと迷ったものだ。このところ池上彰の評判は低下の一方で、対談のカタチにはなっているが、佐藤優が単独で書いていると思うことにした。

佐藤優は同志社神学部時代に新左翼運動をしていたことは他の著作で知っていた。まあ、池上はどうでもいいのだが、慶応の経済らしい。こちらは少し年齢が上で、日本資本主義論争で言うところの労農派のイデオローグ・宇野弘蔵に惹かれていたらしい。宇野は法政大に現役でいたらしいが、東京教育大(現筑波大)に弟子の長坂某がいたので、そちらを志望していたが、移転を巡る学園紛争で入試が中止、東大の文Ⅱ(経済)も宇野の弟子が多かったが東大紛争で入試中止、早稲田の経済は近経(ケインズ学派)が中心なので論外、慶応を調べたら、労農派とは反対の講座派の学部長だったが、日本共産党と一線を画す新講座派だったので、慶応にしたのだとか。ふーん。佐藤優に言わせると、法政は当時中核派の牙城で、マル経(マルクス経済学)をまともに学ぶことは出来なかっただろうとのこと。

こういう話が満載の新書である。とりあえず明日中には一読できそうなので、改めて書評らしき書評を書こうかなと思う。ちなみに、この本には前作があり戦後から1960年までのことが記されているそうだ。冒頭で概略の説明があったが、これで十分。この本は、1960年~1972年まで。72年といえば中学3年である。新左翼運動が盛り上がり、そして壊滅していった時期になる。一応、紛無派・ノンポリの私といえど、書かれているセクト名などには馴染みがあるので面白いし、速読できる新書である。

2022年8月22日月曜日

長英逃亡(下) 吉村昭 

何冊もの併読の影響で、今日の通勤でやっと「長英逃亡」を読み終えた。高野長英は、当時蘭学書の翻訳においては、無双の存在だったようだ。逃亡を重ねる長英に、宇和島藩の伊達宗城が手を差し伸べる。宗城と薩摩藩の島津斉彬は昵懇の仲で、海防を巡って長英の力を得たいと二人とも考えていた。斉彬の方はお由羅騒動で未だ藩主の座にあらず、まずは宗城が長英を探し出し、宇和島藩で買い貯めた蘭書の翻訳を依頼する。もちろん宇和島藩の医者の付き添いがあるとは言え、関所を超えるのにまたまたサスペンスなのであるが…。ともかくも、宇和島で長英は、この国家の危機にあって翻訳で海防の役に立つという本懐を遂げる。

佐久間象山もそうだが、才に溢れた人というのは、自らの本懐のために冒険を惜しまない。同時に周囲もそれを支えるのだが、幕府の隠密によって宇和島での滞在も危機に瀕する。ならば薩摩へと長英は考えるのだがが、未だ斉彬は藩主になれずであった。そこで、長英は仕方なく江戸に戻る。しかし、幕府からの翻訳禁止令が出て、生業が干上がってしまい、経済的に行き詰まる。長英は、妻子を養うために、蘭学医を改めて生業とする決意をし、顔を焼くのだ。丁子油(日本刀の手入れに使われるクローブ油)を左眼の下から頬一面に塗り、顎までひろげ、ガラス瓶に入った発煙硝石精(硝酸カリウム:KNO)を振りかけたのである。私は長英が、顔を焼いたという事実だけは知っていた。逃亡の為の話だと思っていたが、妻子を養うためだったことに驚いた。

これでひと安心と思われたが、長英の訳した本が出回り、そのあまりの出来の良さに長英の存在が疑われることになる。写本の経路をたどると、江戸に潜伏していることをつかんだ南町奉行所(遠山の金さんがちょうど奉行だったらしい。)は、長英の素顔を知る囚人を使い、ついに居所を見つけ踏み込む。凄い修羅場になり、この時点で長英は死亡する。火付けは火あぶりであるが、遠山の金さんは、あえて死罪に減刑する。すでに死んでいるのだが、そもそも長英は洋学嫌いの鳥居耀蔵(8月6日付ブログ参照)に恣意的に入牢させられたことを知っていての”大岡裁き”であった。とは言え、塩漬けにされた長英の遺体を斬首している。

高野長英の人生は、少しずつボタンの掛け違いで、自らも周囲も巻き込んで苦悩していく人生である。海防の意見書を出すのが早すぎたし、鳥居耀蔵の悪意がなければ問題がなかった。牢に火付けしたことで大罪人になったが、その直後に鳥居耀蔵は失脚している。そのまま大人しくしていれば、その才により幕府に雇われたかもしれない。また捕まり死んだ3ヶ月後に斉彬が藩主になっている。隠密も入れなかった薩摩でさらに翻訳を続けれたかもしれない。長英逃亡を支えた人々も様々な刑に処せられている。最も関わりが深かった数学者の内田某だけは、太陽暦の採用、学士院総説などに関わったようだ。彼が生き延び明治期に大成したことは、数多い不幸中の唯一の幸い、という感想である。

2022年8月21日日曜日

結局「美しい日本の私」

夏期講習の日本思想編。第1講は日本古来の思想+国学、第2講は儒家:江戸期の朱子学とそのアンチテーゼとしての陽明学と古学、第3講は日本の仏教のオリジナル化・天台を中心に鎌倉仏教、第4講は日本思想史で最も高校生が理解に苦しむだろう西田幾多郎を中心に、という構成でプリント化した。きっちりと時間配分ができそうにはないので、最後に演習問題も入れて先ほど完成した。

さて、最大の難関は、西田幾多郎の哲学である。今回は、まず世界に禅を広めた鈴木大拙を導入にした。何といっても西田と鈴木は友人で、ともに臨済禅を極めた「在家」である。(そもそも臨済は不立文字である。出家には「禅と日本文化」を出版すること、まして英語で、はできない。笑)さて、鈴木大拙は、西洋哲学的な主観や個体を否定し、「無分別の分別」という概念を、日本的霊性という宗教意識で補充しつつ深めている。鎌倉以降、浄土系の思想と禅思想が、慈悲と智慧をそれぞれ代表して日本的霊性を生み出しているとしている。

浄土系と禅。他力と自力の見事すぎる矛盾だが、ふと、私は、川端康成のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」の翻訳に助力したコペンハーゲン大学留学中の藤吉慈海氏を想起した。藤吉氏はこの両者を修していた珍しい学者である。川端の講演には、道元、明恵(鎌倉期の華厳宗の僧で昨年の共通テストで出題された。)、一休などの思想や国学的な様々な要素が散りばめられている。まさに鈴木の言う「日本的霊性」である。

さて、西田幾多郎も、西洋哲学的な主観による客観の分析・認識を否定する。こちらは「無分別の分別」とは言わず「主客未分」である。問題はやはり「純粋経験」である。主観が客観を認識する寸前、刹那の”もののあはれ”であり、我を忘れる感覚といってよい。西田は仏教用語を一切使わないのだが、天台の一念三千論の縁覚界に近い。西田は、この純粋経験こそ自己の本質で人格を形成するという。この純粋経験のある抽象的・観念的・形而上学的な場所は、「絶対無」である。この絶対無の場所で、「絶対的矛盾的自己統一」がなされるわけだ。対立を無化する、こうなれば、一念三千論では仏界というしかない。西田は、絶対無の場で善の人格を形成せよと言うわけだが、平たく言えば、禅定によって、悟り、宇宙と一体化せよと言っているに等しい。
禅は(座禅を組むだけでなく)一般生活をも含むとされているので、こんな風にも考えられる。煩悩即菩提。受験生はできればやりたくない受験勉強を、煩悩に動かされながらやっている。この煩悩こそ、勉めて強いる本質であるわけで、決して悪くない。そう、この対立は「絶対的矛盾的自己統一」と言えなくもない。

…まあ、結局のところ高校生には、第1講の和辻哲郎の時に紹介した「美しい日本の私」の「の」という助詞の捉え方が一番わかり易いと思うのである。ここから西田哲学も紐解く事が可能だと思う。

2022年8月20日土曜日

F38のOB・OGと再会した日

マレーシアのPBT(当時はIBT)の最初の担任時の教え子と、昨日久しぶりに梅田で会った。OBの方はKG大学社会学部で観光を専攻したH君、OGは、九州の公立女子大学を超優秀な成績で卒業(4年間全額学費免除)し、某国立大学の大学院で研究生をしている文学少女のIさんである。両者とも、日本留学に際し大いに関わった学生である。

F38のクラスの友人たちの近況を聞いた。多くは日本に残り就職しているらしい。H君は、コロナ禍で観光関係の求人がなく苦労したようだ。今はとりあえず大阪の食品関係の会社に務めていた。かなり努力して痩せたので、往年の面影がない。街で会ってもわからない。(笑)Iさんもメガネをコントタクトに変えていたので、待ち合わせ場所で合った時わからなかった。(笑)

話は長時間に渡ったし、いろいろな方向に行ったのだが、個人情報にかかわることもあるので割愛する。その後、カラオケに行った。今回は、文学を志しているIさんに、井上陽水の「ワカンナイ」を贈った。さすがにIさんで、「雨にも風にも負けないでね」の冒頭で、宮沢賢治の詩をもとにした歌であることを見抜いていた。H君は、私のリクエストで中国語の歌を歌ってくれた。歌詞は全て繁体字だったが、本土の歌だそうで「父親」という歌だった。涙なしでは歌えないと言っていた。たしかに、来日して5年、2人共様々な苦労をしてきたことが偲ばれるのだった。

https://shushu172.com/kuaizixiongdi-fuqin/

2022年8月19日金曜日

橋爪大三郎の「社会学」考

『古市くん、社会学を学び直しなさい!』(光文社新書)の12人の社会学者の中で、最も馴染み深いのは橋爪大三郎である。(よって、氏をつけない。)宗教学関係の共著や対談で頻繁に読ませてもらっている。だから、というのではないが、最も社会学とは何かという説いへの答えが面白い。

「社会学」はフワフワしているとよく言われるが、それは「社会」とは何かという本質を抜かしている議論だからだという。一般の人々も「社会」の中で生き、「社会」という日常語を使う。よってある程度の認識がある。しかしその経験、認識は狭く、「社会」はもっと広いと自覚している。この全体を見ているのが「社会学者」だということになっている。また「社会」を対象にした学問の最初は政治学から。次に市場が拡大して経済学。両者が扱わない「社会」をまるごと対象とする社会学ができ、社会を対象とする科学、社会科学という名前が誕生した、というのが橋爪大三郎の「社会学」考。

社会学者には飼い猫と野良猫がいる。アカデミズムの中で生きている社会学者が飼い猫。実質的に社会学者としての仕事をしている人、たとえば山本七平、小室直樹、小林秀雄、吉本隆明なんかが野良猫。社会学には、それなりの”しきたり”(古典を読むとか、社会調査と分析の訓練)がある。しかし、他の社会科学を越境して学ぶことが必須だという。M・ウェーバーだって、アウトプットは社会学だが、インプットは経済・宗教・音楽など社会学以外だと。

天才の本をまず読むことを著者に勧めている。天才のアイデアを思いつく可能性はゼロなので読むしかないからである。(社会学に関係する)天才とは、レヴィ=ストロース、ヴィトゲンシュタイン、M・ウェーバー、マルクスの4人だそうだ。

…天才のスタンスで分析するのではなく、天才のやり残した課題や批判され負けたとされる課題を意識するべきだという意見も面白い。曰く『フーコーを勉強しても、フーコーが勝ったところだけを受け取ってしまう。フーコーが負けたところを受け取って仕返しをしてやろうと思ったらファイティングポーズになるでしょ。フーコーが友だちだと認めてくれる人って、そういう人ですよ。』

…ちなみに橋爪大三郎は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを社会学に使えないかと考えたそうだ。言語ゲームはヨーロッパの哲学的伝統から生まれたアイデアだからヨーロッパ社会とは相性がいい。言語ゲームが普遍的であることを証明するためには、ヨーロッパではない系統の社会でなかればならない。直感的にそれは仏教だと思い、分析してみると、できたとのこと。

…ヴィトゲンシュタインの言語ゲームと仏教。調べてみたら『仏教の言説戦略』という初期の著作であるらしい。中古の文庫でも、ちょっと値が張るけれど欲しいな。

2022年8月18日木曜日

本田由紀氏の「教育社会学」

L君から先日贈呈された『古市くん、社会学を学び直しなさい!』(光文社新書)を読んでいる。社会学というのは、対象が広いし、その考察方法も様々である。この本は日本の著名な社会学者12人に社会学について改めて教えを乞う対談というカタチをとっている。著者の古市憲寿氏は、東大の博士課程に学ぶ院生だがTVで社会学者を名乗っているそうだ。(我が家にはTVがないので、どういう人物か私は知らない。笑)

今日は小論文指導があったので、通勤時間に教育社会学の本田由紀氏との対談を読んだ。本田氏は東大出身だが、教育への怒りを持っているそうだ。以下本田氏の意見の要約。

受験戦争や管理教育の本質は今も変わっていない、偏差値で輪切りにし、垂直の評価軸を設け、上からランキング化しながら、過度な受験戦争への反省から「人間力」や「コミュニケーション能力」といった新たな評価軸が設けられたが、人間の価値を他者と比較して相対化し、序列化する点では変わらない、学力という垂直軸の隣に、もう一つ名を変えた垂直軸が立てられたにすぎない。また、「非認知能力」(IQなど数値化できる認知能力以外の就学前に身につける人間力)の問題もますます重要である。ここには特に教育に対する経済格差が顕著に現れる。

また日本の教育自体が、企業に就職するための教育であること。仕事は、正規雇用による年功賃金のもとで、家族に給料を届ける役割を担い、家族は得た収入を、子供に高学歴や社会的地位を得させるための膨大な教育費へ投じる。そして教育は新規学卒一括採用の名のもと、若い労働力を仕事の世界へ送り出すことを担う。この循環(本田氏によると戦後日本型循環モデル)は、すでに回らなくなっているのだが、望ましい生き方に関する価値観や規範、発想はこの古いモデルに準拠してしまっている。そのために、循環モデルからこぼれ落ちて苦しむ人が増えている。

教育に対して意識の高い生徒なので、小論文指導の格好の教材となった。ちなみに生徒は著者の古市憲寿氏を知っていた。(笑)…いやあ、やられた。

2022年8月17日水曜日

西田幾多郎の「純粋経験」

日本の思想史の中で、高校生にとって最も難解だと思われるのは、言うまでもなく、京都学派の西田幾多郎であると思う。時折センター試験・共通テストにも登場する。例の『今こそしりたい日本の思想家25人』の西田幾多郎の章ではどう解かれているかを整理しておこうかと思う。

西田幾多郎とくれば「善の研究」であり、純粋経験なのだが、こう記されている。『何かと接した時、人はそれを経験することになるわけですが、その直前の段階があるはずだというのです。その経験する直前の段階というのは、いわば自己が対象と一体となって混在している状態です。経験に入る前の原初の状態だと言ってよいでしょう。たとえば音楽が耳に入ってきた時、これはなにの曲だろうなどと考え始める直前のように、あるいは何かわからないまま口にして、これはなにの食べ物だろうと考え始める直前のように。それはもう瞬間なわけです。たとえそれがどんなに短い時間であったとしても、論理的には対象と接した自分が、それについて経験といいえるほど頭を使って理解するまでの間に純粋経験ともいうべき段階が存在するということです。』

…そもそも、西田哲学の出発点は、真の実在とは何かである。西洋哲学では精神(主体)と物質(客観)を分けているが、人が知ることができるのは知情意(知性と感情と意思)の作用であって心そのものではない。疑いようのない真の実在は、純粋経験だとした。この純粋経験は主客未分である。先に個人としての自己があって経験するのではなく、個人としての自己はこの純粋経験を通して初めて現れるわけだ。

『西田は、その純粋経験の先に人格の実現としての「善」を発見したのです。しかもそれは意識の統一であり自他の区別をしない感覚であり。個人が人類一般の発達に貢献することであるといいます。人間は、なにか対象に接すると、それと自分の意識を関わらせます。その結果として自らの人格を形成していく存在なのです。その頂点が善ということになるのでしょう。』

…善の研究では、真の自己を知れば、宇宙の本体と融合し神意と冥合(知らず知らずに1つになること)すると説いている。これは、かなりインド思想・仏教的な結論である。

『(その後西田は「場所」という論部の中で、絶対無を説きます。)真の意識とはあらゆるもの同士、あらゆる概念同士の対立がなくなる場所(=絶対無)において現れるということです。…場所の態様によって見られるものが異なってくるのです。限定された有の場所では単に働くものが、対立的無の場所では意識作用が、絶対無の場所では真の自由意志がという具合に…レベルアップしていることがわかります。いわば、絶対無の場所に行けば人は自由になれるのです。なんでも理解することができるのです。西田はそんな形而上学的な場所を想定したのです。』

…ここから「絶対矛盾的自己同一」(絶対的に矛盾するものが、同一の場所において相互に関係を持って作用しあうこと)という概念が生まれてくるわけだ。うーん、私にはなんとなく実感できるのだが、説明するとなると四苦八苦しそうではある。

リゾームな国際情勢

https://twitter.com/chicho_pber/status/1192964903629279233
タイトルのリゾームというのは、ドゥルーズのポストモダン・脱コード化された社会の状況のことで、各々が好き勝手に様々なベクトルに動き出すことを意味している。長らく、ウクライナ情勢について沈黙してきたのだけれど、半年を経過して、おおよその動きが見えてきた。今回は、細かな戦況については、たぶんにプロパガンダの可能性が高いので触れる気はない。

最初はウクライナの民族主義対ソ連時代に移民してきたロシア系住民の争いというスタンスだったが、アメリカ・EU・日本などの西側諸国が、ロシアの侵略戦争だとして経済制裁に踏切り、完全に西側対ロシアという構図が出来上がった。日本のマスコミなど、ウクライナ支持一色で気味の悪さを感じたほどだった。

ロシアは、天然ガスを戦略物資としてEUに対抗している。今は夏だが、例年ロシア産の天然ガスを貯めて冬に備えるのが通例らしい。EU諸国は代替輸入に頭を抱えている。当然ながら、化石燃料の世界的高騰が続き、コストプッシュインフレが世界を震撼させている。コロナ禍で世界経済が停滞している中、さらなる災厄が到来したわけだ。

こんな中で、トルコが微妙な動きをしている。先日エントリーしたように、トルコにとってはクルド問題が最大の課題で、スウェーデン・フィンランドのNATO加盟に待ったをかけ、かれらにクルド人を見捨てさせることに成功した。さらにエルドアン大統領は、ロシアのプーチンならびにチェチェンの独裁者・カディロフ(今やチェチェンは反ロシアではなく親ロシアである)同席のもと会談した。シリア内戦で、トルコと敵対(=クルドと共闘)していたチェチェンと和解したもようだ。トルコは、アゼルバイジャンからの天然ガス供給の要でもあるし、そのアゼルバイジャンとアルメニアの紛争が再燃しており、これからのウクライナ情勢(戦況というよりEU諸国のエネルギー対応に対して)地政学的にもますます重要な立場に立っているわけで、目が離せない。ちなみにトルコはNATO加盟国だが、EUには加盟させてもらえていない。

サウジアラビアや湾岸諸国も、ロシア寄りになってきたようだ。ロシアのガスプロムに投資をしているらしい。一応サウジの王族の民間投資会社(政府系ファンドもこの企業に投資している)経由ではあるが、アメリカ離れしている、というのは事実であろう。プーチンは湾岸諸国会議に招かれ、反イランの姿勢を明確にしたという。一方アメリカの梅も湾岸書庫奥会議に来たが何をしにきたのかわからなかったという。

EUは第四帝国と揶揄されるほどドイツの影響力が大きいが、先日エントリーしたようにドイツが最もヤバい状況である。どう折り合いをつけていくのか余談をゆるさないし、EUの団結力は、大量のシリア難民来欧の時に露呈したが、かなり脆弱である。EUの屋台骨が揺らぐかもしれない。

ロシアへの経済制裁は、とりあえずEU諸国にとって大きなブーメランとして返ってきている。エネルギーだけでなく、食料も危機に瀕する可能背が高い。コストプッシュインフレはまだまだ続くだろう。日本にも今以上の様々な問題が降りかかるおそれがある。決して他人事ではない。

2022年8月16日火曜日

夏期講習 倫理 の準備

今週の木曜日から、夏期講習(倫理)が始まる。先日少し日本思想は面白くないと感じている話を記した。やたら漢字の暗記が多くて、日本史が好きでない私としては苦手分野ではある。なかなか準備が進まなかったが、昨日今日と、追い詰められて(?)ようやく見えてきた。

今回も、日本の思想の重層性(日本古来の思想/儒教/仏教/近代思想)を最初にやるのだが、先日エントリーした和辻哲郎の「間柄」から話を進めることにした。和辻の原典(倫理学)やプリントの記述から、前述の4つの重層性のどれに最も関係が深いかを考察してもらおうと思う。

考察1:モンスーン型風土が生んだ共同存在が「間柄」という倫理思想の基盤にある。これはどれと最も関係が深いか?

考察2:『倫理は人間の共同存在をそれとしてあらしめるところの秩序・道』と原典にあるが、この発想の根底にある思考形式は、どれと最も関係が深いか?

考察3:「間柄」は「単なる人でもないし単なる社会でもない。」こういう思考形式はどれと最も関係が深いか?

考察4:『ここに人間の二重性格の弁証法的統一が見られる。』と原典にあるが、このロジックはどれと最も関係が深いか?

正解は、1が日本古来の思想、2が儒教、3が仏教、4が近代思想である。我々は、こういう多層性の中でチョイスしながら思考しているということを理解して欲しいと考えている。

日本古来の思想については、国学とリンクした。国学は普通もう少し後にするのだが、この方が理解しやすいだろうと思うし、柳田国男と折口信夫も最後に交えた。

儒学についても、朱子学を復習しながら、どう日本的なオリジナル化がなされているかを整理した。林羅山の存心持敬は、居敬窮理の言い換えである。っ上下定分の理も名分から導かれたオリジナル、三徳(智・仁・勇)も『中庸』を朱子が注釈したものをあえてピックアップした感じである。

この朱子学へのアンチテーゼが、中江藤樹の陽明学と、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠の古学である。古学の方は、徐々に専門的になっていくのが面白い。孔子孟子に帰れというのが素行、中国古代語を習得し正しく研鑽せよというのが仁斎、さらに孔子らが参考にした堯・舜の時代の探究にまで進んだのが徂徠。

長い間、思案していたが良い講義ができそうだ。後半は、日本仏教と西田幾多郎を中心に近代思想をやるつもりである。西田哲学は、禅がわからないと理解できない。鈴木大拙も入れようかなと思ってきた。

2022年8月15日月曜日

F40のOBと語り合った日

D大社会学部のL君・R大政策科学部の J君と、昨日枚方市駅でおちあい、久しぶりにゆっくりと語り合えた。L君は今3回生でゼミの先生にも大いに気に入られているようで、移民や難民の研究に勤しんでいる。J君は、院進学を目指しており、マレーシアの地域研究をやりたいそうだ。もともと政治学志望で、マレーシアはもとより日本の政治状況にも詳しい。

最近の国際情勢などをもとに、様々な話題で盛り上がった。彼らは、中華系のマレーシア人留学生である。中国本土からのの留学生とは、なんとなく一線を画しているようだった。この辺は、話をしていても実に微妙である。2人共、社会科学系なので話題は尽きない。まあ、同好の士という感じである。そのうち見識も私を追い抜いていくだろう。いや、もう抜かれたかもしれない。(笑)

今回、2人から本を贈呈された。L君からは社会学、J君からはマレーシアの政治論である。2人で私に贈本することを決めてくれていたらしい。今から読むのが楽しみだ。ありがたいことである。

その後、(妻から指令が下っていた)551の豚まんをお礼にプレゼントした。(笑)551の袋を下げて、近くのカラオケに行くことになった。ずいぶんと久しぶりである。2人共日本語の歌を見事に歌う。どこで身につけたのだろう。L君に聞くとYou Tubeとかで覚えたんだとか。最後に台湾の盲目の歌手の歌をJ君が披露してくれた。これは中国語である。字幕でなんとなくわかる。L君が口ずさみながら少し解説をしてくれた。…いい歌だった。

2022年8月14日日曜日

猫ロボット in 松井山手

https://otaku.goguyne
t.jp/2022/01/11/
robotto-syabuyou/
息子夫婦が来ていて、何度か外食した。初日は以前紹介した近くのペルー料理の店。信楽行の後はお好み焼きのK太。そして昨夜はしゃぶしゃぶの店である。後者の2店は松井山手にあるのだが、驚いたのが、ロボットの存在である。我が夫婦はあまり外食しないので、世の中の動きに遅れているのかもしれない。

左の画像は、しゃぶしゃぶの店のロボット。猫型なのがかわいい。飲料や食材などを運んでくる。(K太のは、もっとシンプルで画像は見つからず。)

おそらく、店内の座席の座標・経路がインプットされていて、運ぶ地点に移動するだけのシステムだから、ロボットといっても工学的にはそんなに複雑なものではないだろうと思われる。

社会科学的な視点で考えると、このロボットの導入は、人件費の削減が最大のメリットである。もちろんロボットは飲料やしゃぶしゃぶの肉などの運搬だけなので、しゃぶしゃぶの汁の補充や片付けなど人間の手でしか行えないものは人間がする必要があるが、この店の、野菜やその他の具材などをセルフで取るシステムにマッチしている。話題性も大きい。

開店時からロボットを使用することを前提とした設計施工が必要だし、それにかかるコストも高くなるだろうが、雇用面での効果を考えると、こういうロボットの進出はますます進んでいくだろうと思う。それは同時にますますマクドナリゼーション的効率化が進むということであり、メリット・デメリットの両面があることを確認しておきたい。

2022年8月13日土曜日

和辻哲郎の「間柄」

「今こそ知りたい日本の思想家25人」のエントリーを続ける。今日は和辻哲郎。和辻とくれば「風土」だが、日本の倫理学の父としての側面から、「間柄」を中心に整理しようかと思う。

和辻は、日本の良さを哲学し、それを世界に向けて開こうとした思想家で、倫理は西洋的な個人主義的人間観に基づくという考え方は誤謬だと言うのである。『倫理は人間の共同存在をそれとしてあらしめるところの秩序・道』という理解のもと、間柄という概念で日本の倫理観を説明する。『間柄とは、個人にして社会であること』、単純に言うと人間関係を指している。

個々の人間がいるから間柄が成立すると同時に、間柄があるからこそ個々の人間が成立しうるという二重の関係がある、人間は事実として他者の関係性の中で生きているゆえに、間柄が個人に先立つことによってお互いに助け合うのは当然のこととなる。だが、誰とでも助け合うわけではなく、そこには信頼が必要で、同じ共同体の仲間として信頼しあえるから助け合うのだというわけである。この信頼の根拠として和辻は時間の概念を持ち出す。つまり、過去の信頼があるからこそ、未来においても信頼できるわけで、人から信頼を得るためには実績が必要で、共同体の中で長い時間をかけて、共通の体験を経ることによってようやく育まれるものであるというわけだ。その共通体験が、モンスーン型の風土で培われたという話につながる。

では、風土の異なる成員同士は連帯できないのか?和辻は「旅行者の体験における弁証法」という概念で異文化体験を媒介とすることによって成立するとしている。1つの共同体から生まれた文化が、異国の共同体の文化とぶつかりあい、融合していく。また自らも影響を受け変化する、そんなあり方を和辻は「世界文化の構造連関の弁証法」と呼んでいる。今回の夏期講習、日本の思想のイントロダクションとしては、和辻哲郎が最適かもしれない。

追記:昨日訪れたMIHO MUSEUMについて、そのバックを詳細に調べてみた。なかなか不可解なバックがあるようで、建物の芸術性などは素晴らしいと思うが、少しばかり興ざめしてしまったのだった。

2022年8月12日金曜日

信楽の美術館に行く

昨夜、息子夫婦が来て、今日は滋賀県の信楽の美術館(MIHO MUSIUM)に行ってきた。なんでも茶道の先生のお勧めの「懐石の器」という展示だった。私にとっては、見事に属性がないのだが、京都でcafeをしている息子夫婦にとっては、まさに眼の肥やしらしい。妻も興味があるらしい。

国道307号線を、京田辺市・宇治田原町経由で信楽に向かった。このMIHO MUSIUMは、かなり変わった山の中の美術館で、極めて芸術的な美術館でもあった。美術館に至る道にはトンネルがあって、驚いた。(画像参照)展示は、器ばかりなのだが、なかなか興味深かった。信楽という陶芸の街でこのような展示がされていることにも意義があると思われる。

<美術館の紹介はこちら>https://www.miho.jp/

美術館見学の後、食事をとってから信楽の街を散策した。かなり質の良い店でCafeで使う食器を見つけて、息子夫婦は喜んでいた。こちらは、久しぶりにタヌキの置物を激写していた。(笑)色々なタヌキ(郵便屋さんとか忍者とか横綱とかサッカー選手、野球選手、バスケの選手等々)が作られていて面白い。これも時代の変化だろうか。

2022年8月11日木曜日

本居宣長「松阪の一夜」

https://www3
.pref.nara.jp
/miryoku/nar
akikimanyo/
manabu/chigai
/chigai_zoom/
「いまこそ知りたい日本の思想家25人」の話の続きである。今日は、本居宣長。国学は、荷田春満(かだのあずままろ)から賀茂真淵へと繋がり、松阪で医者をしていた本居宣長に繋がる。江戸から賀茂真淵が松阪に来た際、一夜だけ本居宣長と面会している。これが「松阪の一夜」で、自分の果たせなかった古事記の研究を託される。一度教えを受けただけでも師弟関係が成り立ちうるわけで、以来、宣長は、賀茂真淵の弟子を自認し35年の歳月をかけて「古事記伝」44巻を完成させる。

宣長の思想の根底に「漢心(からごころ)」を排除するべきだとし、「大和心」の意義を説いた。偽りのない対象に共感する心で「真心(まことのこころ)」とも呼ぶ心である。万葉集に真心がある、利欲を含めた人間の生まれながらの自然の情があると。また古今和歌集の女性的でやさしい歌風「たをやめぶり」も感情の自然な発露として重視した。さらに、源氏物語に見られるような、あるものに直面した際の人間の純粋な感情である「もののあはれ」論を説いた。ものとは対象であり、あはれとはああ、はれといった嘆きの声を重ねたもので、すなわち知性と感性が同時に働いている状態であり、これこそが人間らしさの表れで、人間が本来持つ情感にさからうことなく素直に従うことによって人間らしい生き方ができるというわけである。

さて、古事記伝である。日本書紀に対して優位性を示そうとした古事記の注釈書だといえる。日本書紀は儒学的に解釈されたものである、日本は中国の易姓革命ではなく天照大神以来の皇統を永続させてきた故に卓越性を持つとした。古事記には、口謡の言葉、「やまとことば」が表されている。(もうすこし具体的に言うと日本書紀は全て漢文。古事記はまだ”かな文字”がないので、和化漢文という日本語の音を漢字で表記すしている。)

私は、近現代以前の日本史が苦手だし、日本の古典文学の素養に欠けるきらいがあるので、記紀の評価も本居宣長の批判もするつもりはないが、まさにアンチ・儒学としての国学を大成した人物であることはまちがいがない。何より、「松坂の一夜」という師弟の道には感銘を受けざるを得ない。

*画像は拡大できます。記紀の相違についてのイラスト解説です。

2022年8月10日水曜日

荻生徂徠の古文辞学

髪の毛が伸びて気持ち悪かったので、近くのスパバレイに散髪に出かけた。安いし、その後入浴できるので、一石二鳥である。ただ、今日は待ち時間が長く閉口したのだった。幸い、昨日画像に上げた「いまこそ知りたい日本の思想家25人」を持参していたので、通勤時間なみに過ごすことができた。あまり気乗りしない本を読むのは、こういう半強制的なシチュエーションが適している。(笑)

日本思想史は、暗記すべき項目が多くて、教えていても面白くない。しかも漢字で難解なものが多い。今日は、その中から名前を漢字で書くのも憚れる荻生徂徠のことをエントリーしておきたい。

日本の儒学というのは、何と行っても朱子学である。理気二元論。これに山鹿素行の古学と伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学、さらに中江藤樹の陽明学が江戸時代に登場する。この辺はだいたい流すのが常であるのだが、今回の夏期講座では、少し深く理解させようかなと思う。

古学、古義学とともに、朱子学を批判する流れの中にある。伊藤仁斎が「論語」を依拠として古義学を唱えたのに対して、「六経」(りくけい:詩・書・礼・楽・易・春秋)を直接中国語のままに読むべきだと主張した。徂徠は綱吉の時代から、柳沢吉保の側近儒者となり、吉宗からも頼りにされた思想家である。この本には面白い記述がある。『思想のメインストリームを批判し、かつ同時代の大物を叩いて名を馳せるというのは思想界で鮮烈なデビューを果たすための王道』徂徠はこれに見事に成功したわけだ。

朱子学が心に備わる理を理念化しようとするのに対し、伊藤仁斎は日常実践の道徳へ高めた。しかし、徂徠は個人道徳から社会全体の道徳にまで広げようとしたといってよい。こういう儒教観から古文辞学が生まれる。

『弁道』という書で、道とは何かを論じ、『弁名』で70ほどの名辞(諸概念)について論じている。六経から、先王の道(堯・舜や夏・殷・周らの王の中の聖人の解いた礼楽=儀式と式楽だが社会秩序・社会制度・政治技術)を学び、そこで物を知りその物の名について、秦や漢の時代の書物を使って分析し、名と物を一致させることが必要だと説いた。古文辞とは明時代にブームになった漢以前の復古文体のことで徂徠はこれを思想の方法論として取り入れた。たとえば、「陰陽」という名は、物事の両極として聖人が名付けた物で、これによって人々は天体の運行や万物の変化を了解し、生活に活かすことができるようになった。この生活に活かすという部分が大事で、聖人による命名行為は、あくまで人々のための礼楽を形成するのが目的であるからだ。

徂徠の思想は、最終的に自分の考える正しい政治のあり方を提起することになった。それが吉宗のために書かれた「政談」である。儒教は本来良い政治のためのものであるはずが、抽象的な道徳に変質した。経世済民の学であるべきだとしたわけだ。

2022年8月9日火曜日

残暑御見舞申し上げます

残暑御見舞申し上げます。

だいたい今日から暑中見舞いではなくなるらしい。とにかく暑い日々が続いている。今日も朝、6時前から妻と散歩に出かけた後は枚方市の熱中症の注意報にしたがって自宅にいた。我が家には3Fに古いクーラーはあるがほとんど使わない。KLでも三崎でもそうだったのだが、大阪の暑さのほうが厳しいと感じる。

こんな中で、倫理の夏期講習の準備を進めようとしているのだが、なかなか進まない。先日、アーレントの本ともに、市立図書館で「いまこそ知りたい日本の思想家25人」も借りてきたのだが、あまり読む気がしないし、日本思想はそんなに好きではないので、なかなか集中できない。

この前、あるYou Tubeで、国立大学、特に旧帝大レベルに合格できる受験生の条件として、一気に集中できることというのがあった。私大出身者としては耳が痛い。体力もそうだが、このところ集中力も途切れがちである。暑さのせいだけではないと思う。

2022年8月8日月曜日

冬瓜

https://www.matuno.co.jp/products/season/veget
able-season/summer-vegetable-season/840.html
朝、6:00すぎに今日も妻と散歩にでかけた。ちょっと遅くなったので、日が差しているところもある。それを避けながら歩いていて、交野で無人の野菜販売所を発見した。

冬瓜があった。100円。普段あまり食べない食材である。妻はこれをスープにすると言い出した。ふーん。妻は”料理人”なので、調理はお手のものである。夕食に出てきたが、なかなかオツであった。食感が良い。

その他に、米が1kg300円で売られていて、2袋購入した。最近、散歩の際は、私はリュックサックを担いでいる。飲料水しか入れないのだが、時折コンビニやスーパーに寄って買い物をしたり、個人農園で野菜を分けてもらったりすることがあるからであるが、今日も役立った。ところで、米2kgは重い。(笑)

毎日の散歩は、いろいろなコースをたどる。妻は何か発見を求めて歩くのが好きだそうで、私はただただ血糖値をさげるためであるので、妻の言うがままに歩いている。…老いては妻に従え。

2022年8月7日日曜日

世も末だと改めて感慨にふける

https://www.jiji.com/jc/article?k=2022080401132&g=pol
世も末という日本語がある。末法だということだが、釈迦の教えの効力が失われるという意味で、日本ではすでに平安時代から末法に入っているのだが、最近、世も末という言霊の感慨を深めるような話が多い。先日から、アメリカの下院議長がアジアを歴訪し、台湾に入った。この人物も例の大統領選での動きから、民主主義を破壊したペルソナ・ノン・グラータな人物で、私としては歓迎できないのだが、中国と隣国の対応も又、世も末である。

中国は、軍事力で威嚇をしまくった。日本の排他的経済水域に、沿岸部だけでなく奥地からも何発もミサイルを撃ち込んだ。中台米の戦争に、日本は無関係ではいられないことをはっきりと示したといってよい。中国国内では、不動産バブル(というより共産党政権が手のひら返しの政策転換で一気に金融面で締め付けたので、凄いことになっている。)から、人生をかけてマンションを買った人々が完成していない、いやきっとしないだろう物件に莫大なローンを払い続けるという理不尽が起こっており、暴動が起こっていないのがおかしいくらいである。そんな国民のことなど気にもかけず、演習を行い、ミサイルをぶっぱなしてみせたのである。国民不在の中国共産党の姿勢が信じられない。

隣国では、下院議長を政府関係者が出迎えもしなかったようだ。来てほしくないのなら断るほうがまだいい。検事総長あがりの新大統領は保守派なのでもう少しマシかと思っていたが、政治に関しては全くのドシロウトで居直っているとか。また、慰安婦だとまだ嘘を言っている婆さんが下院議長を待つ構えていたとか。ええかげんにしてほしいところだ。こちらも経済が崩壊寸前である。もう日本は助けないだろう。

北朝鮮も含めてとんでもない国に日本は囲まれている。日本でも、まもなく内閣改造が行われるだろうが、例の元首相暗殺の一件では、相変わらずマスコミは某宗教団体と安倍派の関わりを追求している。これがなんとも情けない。多くの国民は、この事件が、そんなうすっぺらい話ではないことは十分認識している。あんな自作の銃で、検視結果のような事態になるわけがないし、マスコミには出ない動画で、安倍氏のワイシャツの襟が刎ねているのも見える。あきらかにスナイパーに狙われていたのがわかる。どれだけの組織がこの事件の裏側にいるのか、国民は自分で考えている。親中・親韓の政治家、アメリカに盲従する政治家に、国民を馬鹿にするのもいい加減にして欲しいと言いたい。

2022年8月6日土曜日

鳥居耀蔵

https://froggallery.web.fc2.com/japan3/edo111.html
政治経済の夏期講習が先週終わったので、次は18日に始まる倫理である。「日本思想のエキス」と題してやる予定なのだが、素朴な疑問がわいた。日本の思想は多重構造になっている。最も底部にあるのは、日本古来の清き明き心であるのは間違いない。記紀から読み取れる思想で、神道、後に国学として発展する。さて、次に積み上げるべきは仏教か?儒教か?40年近く社会科教師をしながら、日本史、それも古代史は大の苦手なので、調べてみた。

すると、儒教は継体天皇の時代513年である。百済から五経博士が渡日して以来であるそうな。五経博士というのは、五経(儒家の経典:易・書・詩・礼・春秋)の学官で、日本書紀には数人の学官が派遣されたとあるが、よくわからない。ただ、全て百済に帰化した中国人であるらしい。また、古事記には、それ以前(5世紀)王仁(わに)が論語を持って渡来したという伝承もある。この王仁は枚方市とつながりが深い。近くに王仁公園があったりするので、身近な存在だ。こちらも中国人らしい。ところで、道教のほうが4世紀ごろに入ってきているらしい。これは意外。また儒教とともに陰陽五行説も入ってきて、陰陽道に発展したとか。ちなみに仏教伝来は、日本書紀では538年、欽明天皇の時代が公伝とされている。では、下から二番目は儒教(中国思想では、やはり儒教である。道教の影響は、一周忌などの法要や還暦時の赤いちゃんちゃんこ等くらいしかない。老荘思想の影響は幽玄などの日本の芸能に繋がっているという意見もあるが…。)、その上に仏教、さらに近代以後の西洋思想をおくのが正しいだろう。

さて、日本の儒教の流れを調べていたら、気になる人物名が出てきた。鳥居耀蔵(ようぞう)である。林羅山に始まる江戸時代の文教政策を統制した林家(りんけ)の系図に載っている。第8代当主の林述斎の三男で旗本の鳥居家の養子になった幕臣である。

なぜこの人物がと思われるだろうが、今読んでいる最中の「長英逃亡」のヒールなのである。水野忠邦の天保の改革時に目付けや南町奉行となった側近で、蘭学者を嫌悪し蛮社の獄をの中心人物となっている。讒言で人を蹴落とし(遠山の金さんも北町奉行をやめさせている)、市中取締でもおとり捜査など権謀術数にたけ、まむしの耀蔵、妖怪(妖は耀蔵のよう、怪は官位の甲斐守のかいをもじっている)と呼ばれ評判はすこぶる悪い。水野忠邦を裏切り、その再登板時に職務怠慢・不正を理由に解任され、財産没収の上、最終的には丸亀藩あづかりになる。「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という落首が残っているくらいだ。以後20年間維新での恩赦まで幽閉の身として過ごすことになる。

林家の出身であり、洋学者を嫌悪するのは百歩譲って認めたとしても、あまりに偏狭な思考回路と、権力志向と自己保身の強い小人物であるような気がする。今の日本にも、こういう輩が永田町や霞が関に徘徊していそうだが…。

2022年8月5日金曜日

551 レンジ用セイロ購入


月イチの通院DAYである。ほぼ毎日自宅の近くや、学園までの通勤で歩いているので、測った血糖値は、食事後5時間で89。血液検査の結果で、HbA1cという妻ががいつも気にしている数値も6.7で、状況はかなり良いようだ。

ということで、胸を張って枚方市駅で買い物である。今日も551の豚まんがご褒美である。(笑)ところで、551の店に、豚まんのレンジ用のセイロが売っていた。私の欲望機械が動き、小遣いで購入した。550円。

前回は、妻に怒られたので買わなかったのだが、やはりかわいいではないか。妻に言わせれば、お皿にラップすればいいだけのこと、あるいは100円ショップでレンジ用セイロを買い、551とマジックで書いておきなはれ。(笑)

このセイロ、ネットで買うとすごく高い。アマゾンで1280円。豚まんとセットにして、大阪土産に最高ではないかと思う。

2022年8月3日水曜日

長英逃亡(上) 吉村昭 


三崎にいる時、西予市の高野長英の隠れ家という場所を訪れたことがある。高野長英といえば、蛮社の獄である。今ハマっている吉村昭の歴史小説の中に、この高野長英の上下巻があるのを知り、アマゾンで中古文庫本を手に入れたのは、だいぶ前になる。読み始めてから、他の本も併読してきたので、書評がだいぶ遅くなった。今日やっと上巻を読み終えた。

私が高野長英について知っていたのは、蛮社の獄で入牢した後、火事の際逃亡したことと、まだ上巻では出て来ないが、とんでもないことをして顔を変えたことである。今日のエントリーでは、この牢の火事について記しておこうと思う。吉村昭の小説は、かなり資料を精査して書かれているので、フィクションではあるが、事実に近いはずだ。驚いたのは、長英は牢名主になっていたことである。まあ、医者であるし、牢内での人望もあったようで、よく時代劇などにある畳を重ねた上に威張って座っているイメージの牢名主になっていたということが凄い。で、彼は、蛮社の獄で蘭学を忌み嫌っていた江戸町奉行にハメられ、絶望している中で、放火を外部の若者に依頼する。3日間の猶予を与えられ、娑婆に出た彼は、戻る気などなく、逃亡するわけだ。

上巻は、そういった顛末が書かれているが、かなりサスペンスに満ちている。長英を助ける蘭学者や牢内で恩を感じた任侠の徒などに助けられながら、江戸に戻ってきたところである。長英は、牢生活を嫌悪していた故に逃亡したが、佐久間象山よろしく日本の海防のため役に立ちたいという信念を忘れない故である。さて、これ以後どうなるのか。おそらくは通勤時に読み続けると思うので、下巻のエントリーは少し間があくがご容赦願いたい。

2022年8月2日火曜日

アーレント最後の言葉を読む

月曜日に市立図書館でさっそくアーレントを借りてきた。「全体主義の起源」は見つからなかったのだが、「アーレント 最後の言葉」という小森謙一郎氏の著作が見つかった。1975年12月4日、アーレントが心臓発作で亡くなった時、NYの部屋のタイプライターに残されていた遺稿をもとに、ミステリー小説風に話が進んでいくのだが、哲学書であることは間違いがない。(笑)しかし、アーレントの哲学の全体像がなんとなくわかったので、ありがたい本であった。ちなみに、画像の帯には「ユダヤの少女」とあるが、亡くなった時は69歳である。この帯のコピー、何か変である。

遺稿は、英語のタイトル(『精神の生活第三部』判断)とラテン語(ローマ帝政期の詩人ルカヌスの『内乱』の引用)とドイツ語(ゲーテのファウストからの引用)の銘が印字されていた。著者はアーレントの人生と思想を振り返りながらこの謎を追っていくわけだ。内容が難しい部分も多々あるのだが、まずは、私が興味を持った「全体主義の起源」について整理しておこうと思う。

第1部「反ユダヤ主義」フランス革命を期に誕生した国民国家は、文化的伝統を共有する共同体であり、「共通の敵」を見出し排除し自らの同質性・求心性を高めていく。それがユダヤ人となる。かつて国家財政を支えていたユダヤ人はその地位の低下とともに国民国家への不満が高まると一心に憎悪を集め「反ユダヤ主義」になり、民衆の支持を獲得する政治的な道具になった。

第2部「帝国主義」帝国主義時代の西欧人には、植民地の現地人を未開な野蛮人とみなし差別する「人種主義」が生まれた。一方、植民地獲得競争に乗り遅れたドイツやロシアは自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」を展開、中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族ナショナリズム」を生み出した。

第3部「全体主義」WWⅠで、国民国家は多く没落し、階級社会が崩壊し、かわりに何処にも所属しない根無し草のような大衆(=モッブ)が台頭する。インフレ・失業という状況で不安を持つ大衆に、自らがその一部として安住できる「世界観」を提示することで組織化したのがナチスである。

さて、通勤の中でずっとこの本を読んでいて、意外な考察をアーレントがしていたことに気づいた。アーレントもシオニズム運動に関わっており、その中心者であるブルーメンフェルトと懇意だったのだが、シオニズムを強く批判していることである。平たく記しておくと、ヨーロッパのユダヤ人は反ユダヤ主義のために、パレスチナに移住したが、その結果パレスチナ=アラブ人を二級市民として残るか、難民として追い出すかといったナチス同様の存在に堕してしまったという批判である。さらに、この本の中で、アーレントが書いた「イェルサレムのアイヒマン」において、ユダヤ人の中にアイヒマンに協力し、生き延びパレスチナに送られるユダヤ人の選別に関わった者にたいする鋭い批判行っている。これらは、今風に言うとユダヤ人社会の中で「大炎上」した。

https://movie.jorudan.co.jp/film/72051/
アーレントは、ハイデッガーの弟子であり、一方でヤスパースの弟子でもある。2度結婚し2度離婚している。彼女の人生を描いた映画もあるらしい。是非見てみたいと思った次第。

2022年8月1日月曜日

ペルソナ・ノン・グラータ

https://www.globaltimes.cn/page/202204/1260665.shtml
さきほどのエントリーで、「同じ敗戦国・日本にとって、決して他人事ではない。」と結んだので、続いて日本のヤバい状況を記したいと思う。

例の大統領選後のアメリカはおかしい。ウクライナ戦争はプロパガンダの応酬で実態がよくわからないが、アメリカ民主党主導のNATOがウクライナを全面支援しながら、ロシアと代理戦争させているように私には見える。このウクライナ戦争を演出(上のイラストの、裏で生物兵器工場云々と動いている)したのが、国務次官のビクトリア・ヌーランドである。戦争屋とも呼ばれているネオコンのオバサンなのだが、この度、このペルソナ・ノン・グラータが来日した。

何を目的で来たのか。ネット上では、非難轟々である。アメリカ大使館のツイッターに抗議のコメントが多数寄せられているそうだ。どうも、近々台湾に下院議長が行くらしい。台湾海峡には、空母ドナルド・レーガンを派遣して…。中国では、ちょうど近さんが、8月上旬に3期目の権力がためのための北載河会議を開催する、この時期を狙って…。どうみても穏やかではないのである。台湾有事を挑発しているとしか思えない。それは、必然的に日本の集団的自衛権に結びつくおそれがある。

このヌーランド来日中に、日米合同委員会が開催されたという報道は流れていない。というより、マスコミが流すはずがない。正直、枕を高くして眠ねれない状況だ。熱帯夜だし…。

https://www.youtube.com/watch?v=UK0yLuaAAak&ab_channel=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB%E3%81%AE%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%80%90%E5%88%87%E3%82%8A%E6%8A%9C%E3%81%8D%E3%80%91

ドイツ 究極の選択と日本

https://www.tokyo-np.co.jp/article/82502
ヨーロッパで首脳の退陣が続いている。イギリスに続き、イタリア。イタリアの首相は元欧州銀行の総裁でEUの金融をリードしていた人物で金融のプロ中のプロ。だが、イギリス同様、インフレーションを抑えることが出来ず退陣したとのこと。このインフレーションは、コロナ禍とウクライナ戦争による供給インフレ(コストプッシュ・インフレ)である。コロナ禍による流通の滞り、これがグローバル化によるサプライチェーンの問題に発展し、さらに観光業の衰退が起こっていたところに、ウクライナ戦争で、石油や天然ガスなどのエネルギー資源の高騰、それに伴う電気代や輸送費の高騰、食料資源の高騰へと、世界的なスタグフレーション(不況下のインフレ)になっている。イタリアの債務は150%だとか。いくら金融のプロでも無理なものは無理ということか。

ところで、次の首脳退陣はドイツではないかと囁かれている。と、いうのもドイツは、ロシアの天然ガス依存度が大きい。EUの盟主、NATOの一員としてウクライナ支持に回ったが、ロシアの天然ガスの供給が滞っている。このままでは、ヨーロッパの寒い冬を越せないだろいと言われている。全国に冬のためのガス貯蔵施設があるが全く溜まっていないし、今でも電力不足で工場の稼働に大きな影響が出ている。日本のような液化天然ガスのインフラも全く無いので、あとは原発を動かすか、石炭による発電しか道がない。原発は、有名なみどりの党が許さないだろうし、石炭発電は日本に早期廃止を強要してきたくらい環境問題にうるさいのだが、背に腹は変えられそうにない。国内には品質の悪い褐炭は産出するので、国際的非難を受けながら二酸化炭素を撒き散らすしかない。いや、ロシアは、アメリカが大反対した新しいパイプライン(ノードストリーム2)でなら送ってやるぜと手招きしている。これに乗るか?つまり、アメリカ側についてウクライナ支援&ロシアへの経済制裁を続けるか、ロシア側につくのか、究極の選択に迫られているわけだ。

これは同じ敗戦国・日本にとって、決して他人事ではない。