2022年8月21日日曜日

結局「美しい日本の私」

夏期講習の日本思想編。第1講は日本古来の思想+国学、第2講は儒家:江戸期の朱子学とそのアンチテーゼとしての陽明学と古学、第3講は日本の仏教のオリジナル化・天台を中心に鎌倉仏教、第4講は日本思想史で最も高校生が理解に苦しむだろう西田幾多郎を中心に、という構成でプリント化した。きっちりと時間配分ができそうにはないので、最後に演習問題も入れて先ほど完成した。

さて、最大の難関は、西田幾多郎の哲学である。今回は、まず世界に禅を広めた鈴木大拙を導入にした。何といっても西田と鈴木は友人で、ともに臨済禅を極めた「在家」である。(そもそも臨済は不立文字である。出家には「禅と日本文化」を出版すること、まして英語で、はできない。笑)さて、鈴木大拙は、西洋哲学的な主観や個体を否定し、「無分別の分別」という概念を、日本的霊性という宗教意識で補充しつつ深めている。鎌倉以降、浄土系の思想と禅思想が、慈悲と智慧をそれぞれ代表して日本的霊性を生み出しているとしている。

浄土系と禅。他力と自力の見事すぎる矛盾だが、ふと、私は、川端康成のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」の翻訳に助力したコペンハーゲン大学留学中の藤吉慈海氏を想起した。藤吉氏はこの両者を修していた珍しい学者である。川端の講演には、道元、明恵(鎌倉期の華厳宗の僧で昨年の共通テストで出題された。)、一休などの思想や国学的な様々な要素が散りばめられている。まさに鈴木の言う「日本的霊性」である。

さて、西田幾多郎も、西洋哲学的な主観による客観の分析・認識を否定する。こちらは「無分別の分別」とは言わず「主客未分」である。問題はやはり「純粋経験」である。主観が客観を認識する寸前、刹那の”もののあはれ”であり、我を忘れる感覚といってよい。西田は仏教用語を一切使わないのだが、天台の一念三千論の縁覚界に近い。西田は、この純粋経験こそ自己の本質で人格を形成するという。この純粋経験のある抽象的・観念的・形而上学的な場所は、「絶対無」である。この絶対無の場所で、「絶対的矛盾的自己統一」がなされるわけだ。対立を無化する、こうなれば、一念三千論では仏界というしかない。西田は、絶対無の場で善の人格を形成せよと言うわけだが、平たく言えば、禅定によって、悟り、宇宙と一体化せよと言っているに等しい。
禅は(座禅を組むだけでなく)一般生活をも含むとされているので、こんな風にも考えられる。煩悩即菩提。受験生はできればやりたくない受験勉強を、煩悩に動かされながらやっている。この煩悩こそ、勉めて強いる本質であるわけで、決して悪くない。そう、この対立は「絶対的矛盾的自己統一」と言えなくもない。

…まあ、結局のところ高校生には、第1講の和辻哲郎の時に紹介した「美しい日本の私」の「の」という助詞の捉え方が一番わかり易いと思うのである。ここから西田哲学も紐解く事が可能だと思う。

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