2022年8月26日金曜日

アフリカでの純粋経験

サヘル地域 https://geography-trip.com/sahel-region/
先日の夏期講習で日本思想史をやったけれど、西田幾多郎の純粋経験を語るのにずいぶんと思索した。一切衆生悉有仏性で、阿頼耶識に蔵された如来=仏性を湧現することの文章化・イメージ化なのだが、高校生に理解してもらうことは至難である。

様々な文献では、心を奪われるような景色に依正不二(自己と環境が一体化すること)するような体験と書かれていることが多い。最初に北海道礼文島の澄海岬を挙げた。あるいは、運転手に促されて後ろを振り返って見た夕日に照らされ黄金色に輝くニューヨークの摩天楼。美術品に対してもあまりの美しさに涙したこともある。私にとってはボストン美術館のギリシアの壺である。ミュージカル・キャッツの「メモリー」の独唱にも涙したなあ。英語で意味はわからなかったけれど、あのこみ上げるような感動。だが、まだ純粋経験を的確に表現できているとはいえないだろう。

そこで、最終的に私が選んだのは、ブルキナファソでサヘル(砂漠化が進行するサハラ砂漠南縁)を1泊2日で見に行った帰り、長い長い坂道を自転車に大きな荷物を載せ、集団で運んでいるブルキナベの姿を見た時のエモーションだ。私はクーラーのきいた4WDに載ってこれを見ている。その格差に愕然とした。涙を流して彼を見ている私に、ガイドのオマーンが「I's nature.」と言った。あたりまえのことだと。オマーンも昔はああやって汗を流して荷物を運んでいたというのだ。苦労でもなんでも無い。あたりまえのことだと。この感動は一生忘れない。この時の私の純粋経験が存在する形而上学的空間は、まさしく西田の言う「絶対無」で、莫大なブルキナ人のいやアフリカの人々の存在する広大な空間であったと思う。私とアフリカの人々の格差と矛盾が様々な縁起の集合体として錯綜し「絶対矛盾的自己同一」の時間と空間を、あの出会いの刹那に形成したのである。まさに、アフリカでの純粋経験だったといえる。

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