2022年2月28日月曜日

同窓会入会式の日に

ウクライナ情勢は、かなり情報が入り乱れていて、ヤバそうな展開になっている。そんな中、全くかけ離れたエントリーをしたい。

三崎高校には、八幡浜方面との間に通学バスが2台あって、1台は昨年町によって追加された青いバス、もう一台は、三崎高校の名前が横に書かれている同窓会が購入してくれた白いバスである。私は、毎晩のように塾生を見送りに行っていて、旅館の女将になっているのだが、それは後者である。この白いバス、それなりに故障も多い。エンジンはまだまだ行けると思うが、ライトとか、細かな修理が必要なこともしばしばである。

さて、この白いバス、今回リタイアして、新しいバスがやってきた。今日、始めて生徒を乗せて運行されたのである。この新車のバスがどうしてやってきたかは、私の情報網から得た凄い情報があるのだが、まだ公にされていないのでここでは書けない。だが、素晴らしい話であると、だけ言っておきたい。

ところで、今日卒業する3年生の同窓会入会式であった。同窓会は、来年度の入学生が2クラスになるのを見込んで、Y旅館をリフォームして、10名男子を受け入れるとの発表があった。実に頼もしい同窓会であり、地元が三崎高校をどれだけ大事にしているかがわかる話だ。そう、バスの次は寮なのである。なんでも食事の世話も寮母さんを置いて、同窓会がしてくれるらしい。

これで、三崎高校の寮は、愛媛県・伊方町・同窓会が運営する連合寮体制になるわけだ。ほんと、ありがたい話である。…明日は卒業式である。

2022年2月27日日曜日

アフリカから見たウクライナ

https://www.cnn.co.jp/world/35183953.html
先日16日に、ブルキナファソのクーデターを主導したダミダ中佐(名がポール=パウロで始まっているので、彼はキリスト教徒であると思われる。)が大統領に就任した。その直後の21日に、南西部のポニ県(コートジボワールやガーナ都の国境に近い)の金鉱山で大爆発があり約60人が死亡100人以上が重軽傷を負ったというニュースが流れた。金の処理に使う化学薬品によるものという話が出ているが、完全文系の私にはどういうものか検索してもわからなかった。今や、ブルキナファソは金産出量でアフリカ5位にまで伸びてきているのだが、産業のない国ゆえ、150万人もの人が同様の中小の金鉱山で働いている。

イギリスの開発経済学のポール・コリアーは、デモクレイジー打破のためのクーデターを是認している。それは、国民のために必要ならやむなしという話である。新大統領には、このような惨事がまた起こらないように努めてもらいたい。私の知っているブルキナファソの教育官僚は実に有能だった。経済を学んでいた大学生も真剣に国を憂いていた。国の宝は、何より人材である。クーデターの最大の理由である、北部からのテロに備えることも重要だが、民生にも力を入れて欲しいところだ。

さて、今ロシア・ウクライナの情報が入り乱れていて、欧米がSWIFTをロシアに対して停止するというニュースが流れていて、もしこれが本当なら大変なことになると私は思う。

そんな中で、国連の安全保障理事会でケニアの国連大使が「ど正論」を主張していた。「我々の国境は我々自身が引いたものではなく、遠く離れた植民地本国のロンドン、パリ、リスボンで引かれたものだ。いにしえの国々への配慮もなく、彼らは引き裂いた。(1963年にケニアは独立したが)代わりに、我々は継承した国境線で妥協することで合意したが、今も大陸規模での政治・経済・法的統合を追求している。危険な懐古の情を抱えたまま、歴史への逆行のように見える国づくりよりはむしろ、我々は多くの国々、そして人々の誰もがこれまで知らなかったような偉大なものへ目を向けることを選んだ。倒壊したり手を退いたりした帝国から形成された全ての国家は、近隣国家の人々との統合を切望する人々を国内に抱えているろ思う。これは当たり前のことで理解できる。結局のところ,同胞と一緒になったり、共通を持ったりすることを望まない者がいるだろうか。だが、ケニアは、そのような望み方を力によって追求することを拒否する。新たな形態の支配と抑圧に我々を突き落とさない方法で、我々は死んだ帝国の名残からの回復を完遂しなければならない。」

office on the webを入れてみた

PCが来て3日目。4月からの学校用PCとしての機能が最低限可能なパソコンに仕上げた。朝から、office on the webにアクセスし、Wi-Fiスポットであれば、ワード、エクセル、パワーポイントが開けれるようにした。以前からITを利用した教育をされているので、教室につながっていると仮定したら、これまで作ったものや自宅でDELLで作成したデータを開くことが可能になったわけだ。おそらくこのoffice on the webで作成することはまずないし(正規版より性能が落ちるらしい。)、無料だし、まあいいかと考えたのである。不都合が生じればwindows365を購入すればいいと考えている。

昨日、ヤマダ電機で32GBのUSBメモリをもう一つ手に入れていた。これはワイヤレス・マウスのレシーバーくらいの大きさで邪魔にならない。ELECOMの製品なので安心である。これをDELLとのデータのやり取りに使うことにした。基本的には挿しっぱなしで問題なさそうである。ここには、office on the webの確認用に、パワーポイント集や倫理のプリントを入れてみた。さらに、これまで作ったアイコン集のフォルダも入れてあるので、アイコンを変えて新しい感じにした。各教科別のフォルダ(まだ空だが)のショートカットもノートのアイコンでまとめ、壁紙もPanasonicのロゴのものを手に入れて使ってみた。

windows98の頃から、こうして新しいPCを手にしては、デスクトップを弄り倒してきたのだった。(笑)

2022年2月26日土曜日

Croquis Book Multi-case

大洲まで買い物に行ってきた。最大の目的は大洲にある「もち吉」(おかき屋)にあった。お世話になったK医院やMモータースへの御礼を買うためである。妻はなかなか義理堅いのである。その帰りに、今注文している世界史の本を実際見てみたかったので、たまたま八幡浜の明屋(はるや)書店に寄った。そこで、実に素敵なグッズを発見した。「クロッキーブックA4マルチケース」である。高校時代、デザイン科の私は、このクロッキー帳を持って歩いていた。ちょっと思い入れがある。

見ると、A4サイズのPCが入るようで、昨日手にれたPanasonicのレッツノートはB5サイズなので、十分入る(上の画像はA4のPCを入れた見本画像)。4月からこれを持って、教室に向かい、新しい気分で出発したいなあと夢想していたら、妻の許可が出た。2300円もするのだが、同級生だった妻も思い入れがあるのでOKしてくれたらしい。

帰宅後は、新しいPCのリカバリーUSBをひたすら作っていた。これも大洲のヤマダ電機で36GBのUSBを手に入れた故の話になる。三崎に来た時、ここで購入した冷蔵庫や洗濯機、電子レンジ、さらには大阪の枚方店で妻のタブレットを購入したりして溜まったポイントで手に入れたのだった。DELLのPCで、You Tubeを見ながらリカバリー作業をしたのだった。なかなか時間がかかったが、実に便利になったものである。

2022年2月25日金曜日

新しいパソコンがキターッ

左についているのが、Panasonic工場でリストアされたシール(パソコン工房のHPより)
三崎高校は、今日も学年末考査なのだが、午後に入試のための英語のリスニングの音響施設検査があり、公営塾は閉塾、我々は自宅勤務日となった。

さて、4月から、遠距離通勤(約1時間半)になる。覚悟の上だが、今のDELLのパソコンは、すこぶる重い。そこで、またまたPanasonicのレッツノートを購入した。このPCは新品だと信じられないほど高価なので、当然中古にした。

今回の購入にあたって、私の条件は2つ。HDDではなくSSDであること。インテルの5iであること。結局、SSDは256GB・メモリ8GBのものにした。最初は、神戸にあるPanasonicの再生工場でリストアされたものだけ販売している店から購入するつもりだったのだが、キャンセルされた。(週2日の営業日外だった故と思う。)で、枚方にもあるパソコン工房の公式通販を見ていたら、神戸工場でリストアされたシールが貼られているPCを発見、これだと思い、注文したのだった。

今まで、中古パソコンではいろいろとあった。特にオークションで買ったものは短命だったので、避けた。今使っているDELLは、マレーシア時代に買った新品で、HDDなので遅くなることもあるが、WiseGare365というアプリの有料版を毎日使い、USBメモリを使ってメモリを増やしたりして頑張っている。このDELLをメインに使い教材も作成、レッツノートに入れて持って行き、学校でのパワーポイントやプリント印刷などに使う予定。とはいえ、動作が早いのはPanasonicの方である。(笑)もしかしたら、メインを交代することになるかもしれない。

なんとか、googleは共有できた。しかし、DELLに入っていたoffice2019は共有できなかった。いずれMicrosoft365をインストールすることになりそうだ。

意見広告 愛媛新聞にキターッ

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2月9日にエントリーした、「厚生省ホームページから未成年接種を考える」という意見広告が、今日の愛媛新聞に掲載されていることを今朝、YouTubeで知った。急いで、ローソンへ行って購入してきた。先日、(全国紙である)日本経済新聞についに掲載されたのだが、知ったのが遅く購入できなかった。残念だったのだが、次に掲載されたのが地元・愛媛新聞だとは。まさに、ヤッターッである。

その後、この意見広告を出しておられる堤さんにお礼のメールさせてもらった。これからも是非頑張っていただきたい。

三崎高校でも、ワクチンの副反応で、体調を悪くした生徒がたくさんいる。愛媛県知事は比較的理解があるようだ。だが、無批判に強要しようとしている県や市もある。この記事を読んで、一人でも多くの方が理解を深めてもらいたいと思う。特に伊方町は高齢化が進んでいて、「まじめ愛媛」なので、先日も3回目の接種(高齢者向けだと思う)が2回も三崎支所で行われていた。知り合いの役場の方も出張してきていたので、なんともいえない辛い思いをした次第。

記事では厚生省のデータをもとに、冷静にその安全性について記されている。高齢者はたしかに危険性はあるようだが、未成年者とは全く状況が違うと思う。最近の政府は2歳児にマスクをさせろとか、おかしいとしか言いようがない。

ところで、今日の英姫新聞は、ウクライナ侵攻の話がドドーンと出ている。新聞購読者はきっと読むだろうし、12面にも関連記事があって、そして13面が意見広告になっている。いいシチュエーションだと思う。(画像参照)

最後に関係ない話だが、県立高校の最終倍率の発表(三崎高校も三瓶高校も変化なしだった)と、内子の小田分校(三崎高校・2019年せんたんプロジェクトの参加校である)が地元産品で商品考案の発表会を8社の企業を呼んでやっているという記事、我々公営塾の仲間である弓削高校のゆめしま未来塾の活動の様子も掲載されていた。ちょっと得した気分である。

2022年2月24日木曜日

ウクライナ侵攻 始まる

http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51554803.html
ついに、ロシアがウクライナに侵攻したようだ。東部のロシア系が多い2つの共和国を認知したうえで、その要請を受けて、入るとともに、北部ベラルーシ側、南の黒海からも兵力を投入しており、その圧力はかなりのもになっている。

先日、エントリーしたように、大陸国家・ロシアは、臆病に思えるほどの安全保障の線を引いているし、伝統的に弱気なリーダーをを嫌う。プーチンとしては、侵攻せざるを得ないと判断したのだろう。NATOが軍事力を行使することはない(ウクライナはNATOメンバーではないのだから集団自衛権は作動しないので当然)と踏んだのだろうし、アメリカやEUの経済制裁を受けることより(西部の)ウクライナを放置することを危険視したのであろう。

万が一、NATOがウクライナの加入申請を認めたとなれば、世界大戦となるのは必定、NATOは受けるはずがない。今のうちに、(西部)ウクライナ政府が二度とNATO加盟を口にしないようにしなければならないということである。

首都キエフでも爆発音があったと言われているが、おそらく広大なウクライナを占領したりすることはないと思われる。アフガンでの失敗はロシアのトラウマになっている。ある程度の戦闘はあるかもしれないが、東部以外は軍が駐留したりはしないだろうと私は思う。

この、軍事力で他国に領土を拡げるという行為は、近代国家以前に戻るような歴史的逆行である。たしかに、ロシアと中国共産党は、共に民主的な領域国民国家ではない。この動きを黙認すれば、中国共産党による台湾進攻も同様になるのではという指摘もある。

私は、ロシアの侵攻を是認するつもりはないが、中国共産党とリンクしていることに懸念を抱いている。まあ、民主主義が崩壊したアメリカのポチである日本政府は、アメリカに追従するしかないのだろうが…。

罪のない人々が不幸に陥ることがない様、また最小限に抑えられるように祈るしかない。

2022年2月23日水曜日

帰国子女対策 1年間の総仕上げ

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久しぶりに、塾での帰国子女対策の話をエントリーしようと思う。3学期に入って、日本語学習(漢字学習の初級・中級)のテキストを終えた。テストをつくること51回。だいぶ、「この漢字は知っています。」という言葉も出てくるようになった。先日、最後の全校漢字テスト(朝のSHRでやるらしい。)があった。漢検4級レベルの全23字の熟語入りの文章が2問ずつ、合計46文のうち、読み10文、書き10文のテストである。これまで、1学期は目も当てられず、2学期は少しずつ対策もしても正解は半分以下だった。最後のテストだし、テキストも終わったので、頑張ろうか、ということになった。何より、最初から本人が熟語の意味を翻訳して理解しようとしていたのだ。で、結局読み・書きの準備テストを私がつくってあげることになった。もちろん、文章は全て英訳しておいた。(英訳と言っても、最近のGoogle翻訳は進歩していて、サバイバル・イングリッシュの私でもなんとかなるのだった。)

そして最後の試験で、なんと19/20点を獲得してくれた。クラス中で大拍手が起こったと担任の先生に聞いた。さて、学年末考査である。日本語の日常会話のリスニングはだいぶOKになってきたが、文章の読解力はやはりまだまだ厳しい。世界史Aなら私も教えられるので、漢字テスト同様頑張ることになった。ありがたいのは、世界史Aの試験日は学年末考査の最終日なのでたっぷり準備期間がある。世界史Aでは問題プリントが4枚配布され、そこからかなりの量が出ると聞いている。今回は、全ての問題を私が英訳した。これが意外に時間がかかる。よくある文章の空欄を埋める問題でも、まず空欄の箇所の正解を入れて英訳し、さらにその空欄の部分を消して(1)とかに直すのである。今日は陛下のお誕生日で休日だが、結局2枚分を作成するのにかなりの時間を費やしたのだった。(すでに2枚分は作成して渡してある。)このサポートで、世界史の点数が伸びれば、彼の自信になるだろうし、2年生からの勉強ののためのスキル、あるいはヒントになるかもしれない。そう思うと、たいした苦ではないのだった。頑張れW君。

2022年2月22日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー53

https://www.myworldhistoryblog.com/entry/koubunnt 孝文帝
三国時代の後は、中国史の中でも最もややこしい時代である。今回も「なぜ?がわかる世界史」をもとに、研鑽を進めたい。

魏の大将軍の司馬懿(い)は、蜀を撃退し(263年に滅亡)、遼東半島の公孫氏を滅ぼし、朝鮮半島まで魏の領地を拡大した。(この頃、三国志の中の魏志倭人伝に邪馬台国の話が出てくる)代々の皇帝に力がなく、司馬家に政治の実権を奪われ、司馬懿の孫・司馬炎に皇帝の座を奪われ、魏は45年で滅び、晋(西晋)が建国された。280年、晋は、呉を滅ぼし中国を統一した。司馬炎が亡くなる(290年)と、8人の王族が帝位をめぐって争う。(八王の乱)王たちは、戦力強化を図るために、騎馬遊牧民を自軍に引き入れたが、これがミイラ取りがミイラとなり、晋の王族に招かれていない部族も華北に入り、大混乱の中で晋は滅亡し、華北の豪族は華南へ逃れた。

この時に入ってきたのが、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)で、氐・羌はチベット系、鮮卑はモンゴル系、匈奴は民族系統不明で、羯は匈奴の分派であるらしい。華北は、これらの民族の国が分立した。これを五胡十六国時代というわけだ。

一方、華南に逃れた王族の一人・司馬睿(えい)が東晋を建国する。(317年)華南にはまだ開発可能な土地もあり、北から逃れてきた豪族に割り当てたが、呉をかつて支えた土着の豪族との微妙なバランスの上で政権運営をしていた。しかも、北からの侵攻もあり、常に軍事力の強化が求められたので、必然的に軍人の発言力は大きく、(420年)(せい:479年)(502年)(557年)と軍事クーデーターによる王朝の交代が繰り広げられる。宋から陳までを南朝と呼ぶ。

五胡十六国の混乱の中で、徐々に勢力を拡大したのが、鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)がたてた北魏(386年)である。439年、太武帝の時に華北を統一した。北魏は、華北に残っていた漢人豪族と婚姻関係を結ぶなど、協力関係を結び、第6代の孝文帝は父系が鮮卑族だが母も祖母も漢民族で、漢化政策(首都を南部の洛陽に移し、宮廷での鮮卑語の禁止、中国風に改名等)を推し進めた。北魏以降、隋、唐にいたるまでこの拓跋氏の人脈をうけついでおり、中国文化は遊牧文化と漢人文化が相互浸透していく。

北魏の時代、北方守備のため、辺境に鎮と呼ばれる6つの軍団がおかれていた。孝文帝の漢化政策で待遇が悪化したため、反乱が起こり、北魏は、東魏(534年)と西魏(535年)に分裂、その後有力軍人のクーデターで、東魏は北斉(550年)、西魏は北周(556年)と王朝が変わる。この北魏から、東魏、西魏、北斉、北周までを北朝と呼ぶ。この時期が南北朝時代である。

2022年2月21日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー52

http://www.chuka-drama.com/news/20120730303.html
三国時代は、三国志演義で有名で、中国史の中でもかなり面白い箇所である。ただ、受験ということになれば、桃園の誓いも官渡の戦いも長坂の戦いも試験には出ない。赤壁の戦いと三顧の礼くらい?(笑)今回も「なぜ?がわかる世界史」をもとに研鑽したい。

黄巾の乱を制圧した豪族の中で最強だったのが、後漢を滅ぼした曹操は建国者だが皇帝にならずに死去し、曹丕が初代皇帝(後漢の皇帝に譲らせた)。曹操の祖父は有力な宦官で、豪族だった父が養子となり高級官僚であった。黄巾の乱鎮圧で頭角を現した曹操は、他の豪族を傘下に入れた。三国志演義に登場する武将や参謀は皆豪族で手勢を率いて配下になった。中でも呂布(りょふ)は、かなり強いキャラクターなのだが、内モンゴル出身で、騎射に優れた匈奴兵を多く持っていた故らしい。利用できるものは何でも利用する儒家的な道徳から解き放たれているのが曹操。黄巾軍の一部も配下に入れていた。まさに乱世の奸雄。しかし、統一を目指して南下、孫権孫堅の息子)と劉備軍には、なれない水軍で赤壁の戦いで敗れる。この敗北で、曹操は統一を諦め、三国時代となった。

劉備は四川省の成都を中心に蜀を建国したが、関羽は蓄財の神様(関帝廟)で三国志演義とはイメージが違う。諸葛亮を三顧の礼で迎えるが、劉備は漢の末裔ということになっているが、実は庶民の出で、黄巾の乱で名を挙げたとはいえ身分的には低い。(曹操も孫権も豪族)一方の諸葛家は大豪族(兄は孫権の大臣、又従弟は曹操の配下)で、家臣に迎えることで彼らと同等になれるというわけである。蜀の建国にあたっても諸葛亮を家臣にしていることは大きかった。

当時は、豪族の力が大きく、これをまとめる勢力がなかった故の三国時代であったわけだ。これが受験の世界史的三国時代。

2022年2月20日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー51

https://twitter.com/kob_tay
学年末考査作成に手間取っていた。世界史の研鑽を久しぶりに再開。今回は後漢の滅亡くらいまでをエントリーしたい。

武帝の時代には、高祖の時代のような儒家アレルギーはなくなり、董仲舒(とうちゅうじょ)の献策を受けて、儒学を官学とし、太学という官立の学校を建て、優秀な学生を官僚に任命した。以後儒学が中国の学問の正統として確立する。官吏登用では郷挙里選(きょうきょりせん)という制度も行われた。地方の有力者が、儒学の素養があり評判の良い若者を地方の役人に推薦し、さらに地方から中央政府に推挙して官僚が採用されるという制度である。地方豪族の師弟が中央に推挙されたのは言うまでもない。

閉話休題。先日、韓国は儒教国家故に、契約や約束事を破るという論がYouTubeでなされていた。これは、徳による政治を重視し、法家的な政治を悪と見る極めて前近代国家的なものと言える。民の感情を重視し、徳のある政治が行われることが儒家的な善だというわけだ。よって、民が反対すれば、国際法や契約は守らなくても良いという論理が成り立つ。儒家の義の論理はぶっ飛ばされている。こういう国家が現在も存在することは、実に迷惑と言わざるを得ない。

さて、武帝の死後、地方豪族の成長が目立ち、奴隷や小作農を使い大農場を経営、郷挙里選で中央政界に影響力を持つようになる。しかも、漢の王朝では、宦官と外戚の権力闘争が激化していた。第十代・元帝の皇后の甥は、外戚の立場を利用して高位につき禅譲をによって皇帝になる。これが王莽で、劉から王へ皇帝家が移ったので国号は、漢からと変わった。(5年)王莽は儒学者で、儒家の理想(周代の制度/大土地所有を制限する王田制など)を強引に現実に当てはめようとしたので大混乱となる。豪族による緑林の乱、農民による赤眉の乱が起こり、わずか15年で幕を閉じる。

赤眉の乱を鎮圧したのが、劉秀=光武帝(地方豪族だが前漢皇帝家の血を引いていた)で、王朝名は後漢となる。都は長安から洛陽にうつる。緑林の乱以来の豪族の反乱軍の最終的なリーダーとなった劉秀の後漢は、豪族の連合政権という側面があったが、政治に関しては前漢を踏襲している。対外政策では、班超が西域都護(せいいきとご)として活躍、前漢武帝時同様の領土に戻した。また部下の甘英(かんえい)を西方に派遣、大秦国に至ったと言われている。これがローマ帝国だったかどうかは定かではない。

2世紀以後の後漢は、幼帝や覇気のない皇帝が続いたので、またまた外戚と宦官が権力を握るようになる。特に後漢では宦官の勢力が強く、これに反発した清流と呼ばれた官僚が世論の支持を集めたが、党錮の禁と呼ばれる大弾圧が行われた。後漢の宮廷は官僚からも見限られ、逸民(いつみん)と呼ばれる世捨て人も生まれた。中央官僚は地方に戻り、王朝を支えず私利私欲に走り、自作農を圧迫、小作や奴隷として従属したり、流民になったものも出た。農民たちをとらえたのが宗教で、太平道・五斗米道であった。病癒、貧困者の救済(五斗米道では義舎という無料宿泊所があったし、政府や共同体が行うべきインフラ整備を行っていた)五斗米道は現・陝西(せんせい)省から四川省に宗教王国を形成、太平道も東部を中心に数十万の信徒を集めた。これらは、後の道教の源流となった。

184年、太平道の指導者・張角は、後漢と豪族を滅ぼすため反乱を起こした。これが黄巾の乱である。豪族は私兵を集め、黄巾の乱を抑え込もうとした。この時、兵をあげたのが、後の三国時代の曹操孫堅劉備などである。結局豪族の奮戦で乱は鎮圧されたが、後漢王朝は無力化し名目だけの存在となる。

2022年2月19日土曜日

がんばれ 三瓶分校と公営塾

https://mikame-h.esnet.ed.jp/blogs/blog_entries/index/limit:20/page:3?frame_id=122&page_id=76
昨日、県立高校の入試の出願状況が発表になった。我が三崎高校は、定員60人にたいして、45人出願になっていた。倍率は0.75%。先の推薦入試ですでに15人内定しているので、3月3・4日の入試には、30人が出願した計算になる。分校化の危機は去り、安定状態に入っているわけだ。三崎高校の広報活動については、全国に向けては、地域みらい留学、県内に向けては進学説明会で高校をまわっている。オープンスクールも1年生を中心に盛大にやれた。(コロナ禍の隙間をぬって大成功だった。)中学生と保護者・先生の学校訪問も随時行われている。なにより、YouTubeやFacebookによる広報活動も熱心だ。学生時代、営業のバイトをしていた時、運動量が営業成績と比例していると教えてもらったが。まさにその通りである。

現在の三崎高校は、寮生が増え、過半数を超えている。伊方町のご厚意で寮も新設され、さらに八幡浜方面と学校を結ぶバスも2台運行している。(今春からは古いバスが新しいバスになると聞いている。)極めて恵まれている。志願者45人というのは、この2年間より減少しているが、寮もバスもなんとか対応できると思われるので、ちょうとよい人数かもしれない。

ところで、愛媛県には公営塾が三崎高校以外に、2校ある。上島町にある弓削高校と、西予市にある三瓶分校(宇和高校の分校)である。そのうち、三瓶は今年14人という出願数で、このままだと閉校が決定的であると新聞報道にあった。頑張っていないのかというと、そうではなく様々な取り組みをしていて実に頑張っている。公営塾の講師も知っているが、頑張っている。八幡浜市の南部にあり、三崎高校と近く、ライバル関係にあるけれど、この現実は厳しい。

愛媛県立高校の「異文化理解」(大阪では考えられない)の最大のものとして、来週から志願者は志望校を変更できるシステムがある。倍率を見て若干志望者が動くのだが、少しでも三瓶分校は志願者を集めて欲しいと思う。がんばれ 三瓶分校と公営塾。

https://www.pref.ehime.jp/h12200/ehimenettv/4ch/030526_9.html

カナダの早春賦

https://www.businessinsider.jp/post-250286
妻によると、今朝ウグイスが三崎に来たらしい。まだまだ上手い鳴き声ではかったそうだ。早春賦やねえ。

♪春は名のみか 風の寒さや 谷のウグイス 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず

春と言えば、世界史では、もう一つの意味がある。諸国民の春、プラハの春、アラブの春。いずれも民衆の要求が実現しそうでしなかった事例が多い。

カナダのトラック運転手による反ワクチンデモ「オタワの春」は、今のところ「早春賦」のようだ。政府の非常事態宣言で、ヒールにされてしまった。アメリカの民主主義も昨年崩壊したが、カナダよお前もか…という感じだ。…世界中が現在進行形で大いに揺れている。

2022年2月18日金曜日

有志医師会が続々。

北海道、東北、関東…。政府の方針に対して立ち上がった有志医師会が続々声を上げている。もちろん、マスコミは全く無視しているようだ。

様々なことに賛成反対の意見がある。民主主義は少数意見にも耳を傾けるという原則がある。本来、マスコミの社会的役割は、多数派意見だけでなく少数派の意見も報道し、国民に問いかけるというところにあると私は思うのだが…。

禍の報道も、中国共産党の報道も、実に政府側の意図に偏っており、これだけわかりやすいとマスコミ不信に陥る。日本の民主主義への疑義すら生まれる。

妻が、NHKが映らないチューナーなしのTVモニターが売れているというYouTubeを見ていた。もう、NHKを始め民放TV局や新聞などのマスコミを信用しない人々が増えているのだ。

有志医師会の動きや主張について、マスコミは報道すべきである。報道しない自由?不信を助長するだけだと私などは思うのだが…。

2022年2月17日木曜日

天皇陛下の都市伝説 考

https://www.youtube.com/watch?v=onG_kp-3xj8
あえて、今日あるニュースが流れたので、天皇についてエントリーしたい。YouTubeにあがっていた昭和天皇と上皇陛下に関わる都市伝説で、以前から気になっていたのである。

まずは、昭和天皇の都市伝説で、終戦直前に米軍が東京に原爆を落とす戦略を練っていたという話だ。だが、実際には東京には投下されなかった。それは、昭和天皇が、皇居の御文庫で、渾身の祈りをされており、これを回避することができた、という都市伝説である。

もうひとつは、上皇陛下が激戦地の硫黄島に日米の戦没者の慰霊に行かれたことの都市伝説である。1994年、すでに返還された硫黄島には自衛隊が常駐していたが、激戦地故にかなり恐ろしい体験をしたようだ。しかし、上皇陛下が来られ鎮魂された後は、そのような現象がばったりと止まったという都市伝説である。

私は、この2つの都市伝説を信じる・信じないではなく、あり得るかもしれないと思わせるようなパワーが、昭和天皇にも上皇陛下にも、もっと言えば今上陛下にもあるような気がするのだ。

天皇は、極めて特殊な環境の中で、私心を抑え、ある意味日本の最高の公人としての帝王学を学ばれた存在だ。国民が期待するのは、常に日本国家の幸福(特に平和と豊作)を念じ、そのための努力を惜しまれない姿である。

だからこそ、特に上皇陛下の硫黄島の鎮魂は凄い威力があったのではないかと思うのである。パラオに行かれた時、長い時間礼をされたまま鎮魂をされていた姿をTVで見て私は率直に感動した。もちろん、東北大震災の際に、学校の体育館にある避難所で、膝をつかれ同じ目線で激励されていた姿に感動した。

天皇という存在は特別な存在である。天皇が身につけられるべきことは、私を捨て去り、公に生き抜く覚悟と実践である。明治天皇には、西郷や山岡鉄舟がつき、彼らが理想とする帝王学を講じたはずだ。今上陛下は、最高の理想の「公」を上皇陛下から学ばれたはずだ。愛子内親王が、成人の儀のティアラを黒田清子さんのものを借用されたことに(A家との差が激しすぎて、余計であるが)国民が感激したことも、今上陛下から自然と学ばれたのではないかと思う。昔々戦後直後に、上皇陛下がカメラを所望したところ、昭和天皇は中古カメラを与えられたという逸話がある。私は、それを思い出した。

国民が苦しんでいる時にこそ、本物の公を貫く、これが天皇家なのである。私は女系天皇には反対だが、こういう公人としての覚悟や実践は、東大で身につけれるものではないだろうと思うのだ。

2022年2月15日火曜日

ウクライナ危機について

https://honkawa2.sakura.ne.jp/8990.html
ウクライナ危機が騒がれている。主因はウクライナのNATO加盟への動きをロシアが阻止しようとしているわけだが、ウクライナも東部のロシア化への憂慮から、西部の独立を守るために必死のようである。

宗教的に見ると、ウクライナは実に複雑である。ベースとなるのは正教なのだが、同じウクライナ正教と称していてもでも、キエフ(ウクライナの首都)の総主教派(55.3%)とモスクワ(つまりはロシア)の総主教派(40.8%)に分かれている。%は正教会内の%である。全体では正教徒の総数は26.8%。つまりは正教内でもウクライナ人と在ウクライナのロシア人で分裂しているわけである。ロシア人は東部に多く、GDPこそ西の首都キエフが最大だが、工業の盛んな東部の方が高い。

https://honkawa2.sakura.ne.jp/8990.html
理想の政権についても、西部は反旧ソ連体制でEUに参加したがっている。東部はその反対である。この東西対立は明らかで、どちらかが折れるしかない状況である。

ロシアには中国が、ウクライナ西部には、アメリカがついており、第三次世界大戦かという論評が目立ってきた。果たして、戦争に突入するのだろうか。

ロシアの安全保障戦略は、これまでの歴史を見ると、極めて明瞭だ。直接国境を接する国には、必ず同盟化を求める。極めて臆病なように見えるが、大陸国家としてのDNAのように思う。もし、ウクライナがNATO入りをするようになれば、安全保障上の大原則が崩れる。ロシアは、常に強い指導者を求めてきた。プーチン政権が長く続いているのは、基本的に専制的なスタンスを是とするロシアの伝統である。プーチンからは自分からは動かないだろう。しかし、やらねばならなければ必ず動く。

アメリカ民主党政権は、どうも戦争を求めているような感がある。中国共産党からすると、アメリカが戦争で国力を消耗することも、ロシアが消耗することもありがたい話で、台湾進攻のチャンスととらえているかもしれない。そうなれば、日本も無関係ではいられない。これは最悪のシナリオだが、いずれにせよ、息子が膨ら否に深く関与しているアメリカの認知症の老人の動きに注視するしかないのだが、実際問題としてアメリカにメリットがあるのだろうか。凄いインフレが吹き荒れているアメリカ国民は反対する可能性もある。EUは、ロシアの天然ガスがなければ困るだろうし、冷戦期のドミノ理論はすでに死語になっている。西部ウクライナを見捨てる可能性さえあるような気がするのだが…。

2022年2月14日月曜日

スマホを買い替える

古いスマホに移っているのは構えたG1Xで心霊写真ではありません。
 先日、塾内でスマホを落としてしまい、ガラス面が割れてしまった。酷い割れで、メールを打つのに一苦労する。妻と相談の上、先週の金曜日に八幡浜のNTTドコモに行ってきた。ちょうど新規開店の日で大混雑していた。とりあえず、どうすればよいか、スタッフに相談すると、買い替えしかないことが分かった。(保険に入っていないので修理費が莫大で、考慮する余地もなかった。)

私はスマホに執着がないというか、通話とLINEと、少しばかりGメールが確認できればいいので、機能がどうのこうの、色がどうのこうのより安ければいいのだった。で、日本製の最も安いスマホを選んだ。arrows F51Bという機種で、5G仕様なのに2万円台だった。

妻はあんまり文句を言わなかったけれど、要らぬ出費できっと怒っているに違いない。結局その日は購入出来ず、日曜日に予約して帰宅した。さて、日曜日、入店すると別のスタッフが来て、この機種がいかに安いかを力説してくれた。妻にもどうですかと勧めてきたのだ。

マレーシアから帰国後、枚方でスマホ(夫婦ともどもシャープの同じ機種にした。マレーシアでは台湾製や中国製を使っていたので、国産に執着した。これらはバッテリーがすぐダメになる。妻は3台替えたくらいだ。笑)を買った。しかし、最も安価なのを選んだのだが、それでも価格は高くて、2人で10万円ほどかかったらしい。時代は5Gに動いていて、これから5Gスマホは高くなるらしい。まだ八幡浜で5Gが仕えるところは広くないけれど(三崎も当然4G地域)、その範囲が広がれば、5Gスマホは需要が増え価格も上がると言うわけだ。…なるほど。今はその前段階でまずは安く販売しようという企業戦略のおかげで安価に設定しているらしい。結局、妻もこの際買い替えることになったのだった。LINEやグーグルの設定も完了して(実はいろいろ大変だったのだが…。)、帰宅後、2人でアプリをインストールしていた。色違いの同じ機種だから、妻に教えてもらえることも多いので便利だ。

4月からのことを考えると、絶対必要なのは電車の乗り換え案内である。こちらでは無用だが、通勤時に絶対必要。結局    Yahoo!のアプリにした。

だが、安い故に意外な盲点。着信音は1つだけで選べないことが分かった。夫婦で同じ空間にいて着信音が鳴った時、どっちやねんと混乱しそうだ。(笑)いろいろPCで調べてみたが、変更は無理みたいである。まあ、安いので仕方がない。(笑)とにかく、今度は割らないようにしたいし、5Gは電磁波がきついらしいので、体からできるだけ遠ざけて使う予定である。

付記:着信音はいくつかから選べることが後に判明した。よかったよかった。

2022年2月13日日曜日

親中派の政治家に問いたい。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/beijing2022/special/14/
私の世代は、学生時代、文革などがあって、中国は貧しくも平等主義の社会主義の理想を真摯に追い求め、壮大な実験をやっていると信じていた。まだ、インターネットやSNSなど想像もできない時代で、情報は朝日ジャーナルなどの雑誌くらいであった。

文革は、結局のところ毛沢東と四人組による権力闘争で、その時代に紅衛兵だった人々は、コマとして使われたに過ぎない。当時の毛沢東語録を香港で手に入れたことがあるが、びっしりと書かれた政治学習の青インクの跡があった。当時の人民は貧しく、理想に燃えていたのがよくわかる。

日本が帝国主義政策をとって、大陸に進出したことは、間違いであると私たちの世代は信じていたし、世界的風潮としてこれを是であるとは、今だ腑に落ちないと思っている。だから、中国を支援する事は必然であると思っていたし、日中国交回復時に日本からの賠償金支払いを拒否した周恩来を私は尊敬していた。私たちの世代は、反帝・反スタ(反帝国主義・反スターリン主義)で親中というスタンスは、普通のスタンスだった。

しかし、中国は今や別の国だ。中国共産党は、人民の人権など歯牙にもかけない。習政権は、まさにドクマチックな存在でしかない。

冬季北京五輪で、様々な問題が噴出している。女子ジャンプの服装違反で、政治的ボイコットをした国が狙われた。もちろん日本も入っている。かつてこんな馬鹿なことがあっただろうか。中国を勝利させるために、何でもする。あまりにひどい。こんなところで五輪をすること自体がおかしい。

親中派の議員に問いたい。あなたがたはそれでも親中を捨てないのか?自国のアスリートが涙を流す姿をどう見たのか。彼らの本性を知らぬわけがあるまい。

注:何度もコメントしているが、大陸の中国共産党と、私の大事なマレーシアの華人の教え子たちを全く別の存在としての主張だ。これは、中国同様、全く不可解な隣国と、在日の友人や教え子が別の存在であることと同じである。

2022年2月12日土曜日

今年もサクラサク

共通テストを受験していた3年生の塾生が、今年も桜を咲かせてくれました。年末年始も近くの三崎支所で開塾し、ずっと頑張ってくれました。未咲輝塾の使命は、この細長い佐田岬半島の伊方町にある唯一の県立高校を存続させるために進学実績を上げる事にあります。

半島の付け根にある八幡浜市には、県内でも進学校として認知されているY高校があり、また工業高校や総合学科の県立高校があり、それらの高校に町内の中学生が流れていっていたのです。交通の便が良くないので、八幡浜市に住所を移すご家庭も多く、過疎化を防ぐ意味もありました。中学3年生の保護者と言えば、まさに生産年齢人口。高齢社会・限界集落化を防ぐ意味もあるのです。

よって、三崎高校の進学実績が高まれば、地元の中学生を集めることが出来ます。正直なところ、三崎高校の偏差値は、そんなに高くありません。しかし優秀な地元生が中心になって進学実績を上げてきました。今年もなんとか…という話です。来年の3年生は、どっと県外の生徒が増えた学年で、今年以上の成果をあげてくれると信じています。

最低限の仕事を成し遂げて、私もホッとしています。(今日の画像は、昨年の三崎高校前の桜並木です。)久しぶりの未咲輝塾のエントリーでした。

2022年2月11日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー50

https://nishiharu-jsk.hatenablog.com/entry/china7
いよいよ漢である。秦の中央集権的な政治(郡県制)は評判が悪かった故に、劉邦は人心を得るため「郡国制」を採用する。建国の功臣や一族を各地の王として封じ、一方で王のいない直轄地を全国の1/3置いた。こちら皇帝の直轄地。よって、2/3は封建制、1/3は郡県制=郡国制となる。まあ、江戸幕府の天領と各藩と同様。各国の王が反乱を起こせば、危険なので、何かと理由をつけて取り潰し直轄地に入れていった。この辺も江戸幕府に似ている。後の六代目の景帝の時、前154年に取り潰されるという危機感を抱いた、呉楚七国の乱が起きる。これを平定した漢王朝は、大きな王国がなくなったので、事実上郡県制になる。

漢王朝の初期は、粗野で無教養な庶民出身の劉邦の仲間で宮廷を支配していたので、道家が流行した。粗野という点では、劉邦の皇后・呂后(りょこうが凄い。劉邦が晩年特にかわいがっていた戚(せき)夫人に対し、自分の子恵帝が即位した後、両手足を切断し、舌を抜いて、両眼を抉り出し、耳には溶かした銅を入れ、トイレの下に設けられていた豚小屋に入れた。恵帝にこれを見せ、「これがヒトブタです」と言ったらしい。恵帝はその後、閉じこもって酒浸りとなり死んでしまったという。

前漢の名君と言えば、第7代の武帝。劉邦(=高祖)以来、匈奴に対して融和政策をとっていたが、全面対決を挑むが機動力で劣るのは必定。そこで匈奴の捕虜から得た情報を元に、大月氏国と同盟を結び、東西から挟撃しようと考え、使者として張騫(ちょうけん)を送る。(前139年)しかし張騫は匈奴の捕虜となり10年を過ごし、やがて脱走。大月氏国にたどりつくが、交渉は失敗、再び匈奴につかまるが前126年帰国する。彼の情報を元に、衛青と霍去病(かくきょへい)が対匈奴作戦で活躍、張騫もオアシス都市を支配下(敦煌郡など四郡)に置いた。この結果、漢の領域は大きく西に延びることになった。また汗血馬(かんけつば)を手に入れるため、李広利による大宛(だいえん:フェルガナ)遠征も行われた。この汗血馬は、アラブ馬さらにサラブレットというふうに掛け合わされて進化したらしい。一方、朝鮮半島にも漢民族がたてた衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を置き、南方でも南海郡など四郡を置いた。

武帝の時代の積極的な軍事活動は、劉邦以来たくわえられてきた国庫に支えられてきたが、ついに財政難になる。そこで、均輸法と平準法(空間と時間軸で物価調整を行いながら政府が増収する)、塩・鉄・酒の専売制を実施した。これは高度な情報収集、穀物の管理・輸送ができなかれば不可能な政策である。以後の王朝でも試みられることになる。…つづく。

2022年2月10日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー49

http://japan.visitbeijing.com.cn/a1/a-XCXI9F9BAEC3A2B6A306A7
陳勝呉広の乱と項羽と劉邦の戦いが、今日の研鑽内容である。法家のデメリットが、陳勝呉広の乱と劉邦の蜂起を呼ぶわけで、この辺が面白い。
始皇帝が死の翌年(前209年)、大雨で川が氾濫し、期限までに万里の長城近くの警備に間に合わない状況下、処刑されるのなら反乱を起こそうと陳勝と呉広は考え、仲間を引き入れるため、大魚に陳勝が王になるという布を入れ料理番に渡したり、裏山で狐の声をまねて秦が滅ぼされて楚の陳勝が王になると叫んだりと、子供だましの手で農民たちを説得する。後戻りできないように、秦の役人を殺し、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と叫んだのは有名。旧六国の有力者に檄文を送り、各地で様々な反秦蜂起がおこった。秦の地方進駐軍を破り数万の軍勢にふくれあがったものの、半年後には鎮圧された。

全国の反乱軍のリーダーになったのが項羽である。楚の名門将軍家の出身で、大男であり強いオーラがあった故にリーダーとして申し分なかった。一方、農民出身で中年になった「侠」であった劉邦は、亭長(交番勤務のような下級官僚)になる。首都・咸陽の工事のため何百人もの若者を引率していたが、逃亡者が続出し、半分になってしまい、開き直った劉邦は全員に逃げるよう言い、自分も逃亡した。その後、陳勝呉広の乱が起こり、郷里で「侠」の仲間を集め、一旗揚げ、項羽の参加に入った。前206年、咸陽を項羽の主力が西から、別動隊を劉邦が率い南から攻めた。両者は事前に先に咸陽を占領したものが、咸陽の王になる約束をしていた。劉邦軍はたいした抵抗もなく入城、一方の項羽軍は秦の精鋭部隊と遭遇し、遅れた。劉邦は、阿房宮の略奪を禁じ、降伏した三代皇帝の子嬰(二代皇帝の甥)も殺さず、法三章「殺すな、傷つけるな、盗むな」だけを法とした。法家に苦しんでいた民衆は喜んだ。しかし、遅れて入城した項羽は、阿房宮を略奪し火を放ち、子嬰と皇族を殺した。人心は項羽から離れた。

名門武人の項羽は、プライドが高く、始皇帝を見た時に「いつか取って代わってやる」と言い、劉邦は「男と生まれたからには、あんなふうになってみたいもんだなあ」と言ったと言われている。

項羽は、秦のような統一国家を目指さず、春秋戦国時代のような各国併存を目指していたようで、自らは西楚の覇王と称し、功績のあった反乱リーダーを各地に封じた。劉邦との咸陽に約束は反故にされ、西方の奥地・四川省あたりに封された。地名を冠して漢王となった劉邦は、これを不満として、以後5年間項羽と戦うことになる。劉邦軍は毎回負けるのだが、そのたびに項羽軍は寝返るものが出て弱体化していく。前202年の垓下(がいか)の戦い。10万の項羽軍は垓下の城に籠り、30万の劉邦軍が包囲していた。夜、聞こえてきたのは楚の歌。かつての項羽の部下が今は劉邦軍にいるわけで、これが「四面楚歌」の故事である。結局は、人望の違いであるわけだ。

京劇で有名なのは、項羽の最後の宴で、虞美人を想う歌を詠む。虞美人は自分が足手まといになっていることを悟り命を絶つ。(彼女の血を吸った大地から咲いた花が虞美人草)宴の後、囲いを破り楚に向かうが、長江を渡る際、船頭に「大王よ、その国は広いし、人口も多い、今は負けてもまた再び王になってください」と言われ、多くの楚の若者を死なせてしまった、おめおめと楚に帰れようかと反省する。結局死に場所を求め、引き返しかつての部下を発見し、俺の首をやろう、と自ら首を跳ねたと言われている。こうして、劉邦が天下を統一することになる。前漢である。

2022年2月9日水曜日

拡散したい新聞広告

遅ればせながら、拡散したい新聞広告があるのでエントリーしたい。堤さんという起業家が、未成年者の死亡率が低く、健康被害のほうが多いという厚生省がHPで伝えている事実を、自費で1ページの意見広告していた事から始まった。この新聞広告費かなりの高額で、まず地方紙から始め、募金を募り、全国紙に広げようという運動である。

https://jcovid.net/

今の政治家は、どっちを向いて政治をしているのだろうか。暗澹たる思いがある。

2022年2月8日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー48

https://horietakeyuki.com/blog-entry
秦の統一が今日の研鑽のテーマである。今回も「なぜ?がわかる世界史」を中心にエントリーしていきたい。ちなみにこの本は、物語風で実に読みやすい。

秦が統一できたのは、下部構造的には西にあって国土を開発する余地があったこと。(中原の韓・魏・趙などは分化が進んでおり、人口が多いが面積は小さかった=開発の余地がなかった。)法家を採用したこと。商鞅の後、李斯(韓非子の韓非も秦に来たが李斯に殺される)が活躍した。秦王の政は、周と比較にならないほどの領土を得たので、皇帝という称号を創作し、始皇帝と称した。(以後二世皇帝・三世皇帝と名乗るよう定めた。)統一直前、暗殺未遂事件(燕の大子の依頼で荊軻が、秦の亡命将軍の首と燕の地図の中に隠した短刀を持って謁見、切りつけたが失敗王は長い権を持っていたが抜けない。「王よ背負われよ」の声で鞘が落ち、反撃に出て無事だった事件)も起きる。

秦の統一後の政策は、郡県制による中央集権、文字の統一(秦で使われていた篆書。ここから後に楷書・草書に発展)、貨幣の統一、度量衡の統一、車軌(しゃき:戦国時代は各国がわざと車軌を変えて敵の侵入を防いでおり、交通の障害となっていた。)、焚書坑儒などが有名。外交政策では、匈奴への討伐軍派遣、ベトナム北部に南海郡など三郡を置いた。

民衆の不満を高めた造営事業は、それまでの北方の各国が造営した城壁を万里の長城(現在の長城は明代の修復によるもの。)として繋げたこと、始皇帝の陸墓・驪山陵(りざんりょう:兵馬俑抗で有名だが、8000体の人形は全国の陶工により一体一体作られている。)も壮大な規模。さらに始皇帝専用の道(幅70mで中央に一段高い幅7mの専用道)が造られた。驪山陵だけでも70万人が徴用されたとされる。

その他、始皇帝は不老不死の薬を求めて徐福を派遣したり、水銀を呑んだりしていたようだが、前210年全国巡遊中に死去する。宦官の趙高は、同行していた末子の胡亥にのみその死を知らせ、匈奴征伐中の長男(遺書には後継者とされていた)には戦果を挙げていないので自死を命じる偽りの手紙を送り、死臭をごまかすため干し魚を積んだ専用馬車の左右に伴走させ山東省から咸陽(西安近郊)まで戻った。李斯もこの陰謀の仲間に入り、胡亥を二世皇帝として即位させた。馬鹿の故事が生まれるわけだ。馬鹿な皇帝と腐敗した宮廷はあっという間に反乱で滅亡することになる。

2022年2月7日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー47

https://www.bilibili.com/read/cv9786372
先日購入した「なぜ?がわかる世界史」を中心にに、春秋戦国時代の下部構造の変化と上部構造の変化について、研鑽したい。

下部構造の変化は、鉄器農具の使用と牛耕の登場である。当時、農民は邑から農耕に出かけていたが、日帰りできないほど開拓が進むと新たな邑が増え、農地も人口も拡大する。邑という点と点を結ぶ邑制国家から、面として領土を持つ領域国家へと発展する。領域国家となったことで国境線をめぐって戦争がが日常化し、戦車に乗った貴族から動員された農民の歩兵が主力に規模も拡大した。商工業も発展し、人口数十万規模の都市も出現した。青銅鋳貨が発行される。北部の斉・燕では刀銭(勝利を願う呪術的な意味合いをもつ)、中央部の韓・魏・趙では布銭(豊作を願う)、西の秦では環銭(円銭:穴に霊的な力が宿る)、南の楚では蟻鼻銭(子安貝の形で南方の影響大)が造られた。矛盾の故事もこの頃で、注目すべきは鉄器が、注文生産ではなく流通を前提にして生産されていることである。

続いて、上部構造の変化である。ネタ本の章のタイトルは富国強兵。戦国時代は生き残りをかけて、改革を進めていった時代。趙の武霊王は騎馬民族の戦術を導入し、そのために軍服を変更したが、貴族らは胡服だと猛反対したが押し切った。貴族には時代の求める改革をできる人材が少ない。そこで能力主義の人材登用が行われる。燕の昭王の「隗(かい:宰相・郭隗のこと)より始めよ」や、斉の宣王の「稷下(しょっか)の学」のような状況が生まれたわけだ。

結局、戦国時代を制したのは秦だが、考公の抜擢した商鞅は、「商鞅の変法」で秦の飛躍の基礎をつくった。商鞅は衛の出身で、「帝」の道、「王」の道を説いたが、退屈した考公に「覇」の道を説き、信任を得た。しかし貴族の反感、民衆は自分を知らないので、市場の触書に北門まで材木を移動させた者に十金(後に五十金)を与えると書き、実際に移動させたものに支払った。この後、商鞅の評判は高まり、変法に動く。

第一次変法 什伍の制(納税や防犯の連帯責任をとらせる五戸・十戸ごとの隣組を組織)、農家の分家を強要、未開地に入植(分家しない場合賦税が倍増)、戦争での功績は爵位をもって答える(能力主義)、男子は農業、女子は紡績などの家内工業に励み、成績の良い者は税免除。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とすなど、法令を社会規範の要点とした。これに異議を唱えてきた者は死刑、また反対に賛美しにきた者も死刑。

第二次変法 第一次変法で蓄えた力を使い魏を破る。前350年咸陽に遷都。父子兄弟が一の家に住むことを禁じ(中原諸国から見ると野蛮な風習であったことを改めると同時に)さらに入植を進め、井田(せいでん:1里=約405m四方の土地を井の字の形に9分割し、中央が公田、周囲を私田とする周で施行されていた土地制度)を廃し田地の区画整理、度量衡の統一などを行い、郡県制で中央集権化を進めた。

法家の思想を元に秦を強国にした商鞅は、考王の死後、謀反の疑いをかけられ亡命しようとするが、通行手形を持たないが故に(厳命したのは本人)つかまり、車引きの刑に処せられた。

2022年2月6日日曜日

八幡浜 買い物DAY

今週の休日は、土曜日にK医院へ行き、今日、日曜日は八幡浜に買い物に出た。朝9:30頃に、八幡浜の道の駅みなっとにいくと「どーや市場」でお寿司が買える。500円で新鮮で巨大なネタの5貫入り。暖かいみそ汁を持参して、車内で朝食。いやあ、贅沢である。大阪では絶対不可能な贅沢。

今日は、保内へ抜けるトンネル近くに、水産庁の船が停泊していた。滅多に見れないので、ちょっと撮影。もしかしたら最後になるかと…。

ところで、妻がバターを探していた。昔々雪印乳業が大失敗をしたことがある。それ以来、妻はメグミルクと名を変えようと元に戻そうと、絶対買わない。彼女の中で信用が崩壊しているのだ。雪印以外でいいのがなくて今日は買わなかったようだ。

熊本県の業者が、中国や韓国からアサリを輸入して、有明海にばらまいて育て「国産」と偽装していたことが、最近明るみに出た。ネット上では、アサリだけではなく、他の海産物、農産物の熊本県ブランドの信用が破壊されたようである。妻も熊本産も雪印になったと言っている。うーん、破壊は一瞬・建設は死闘…やね。

2022年2月4日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー46

今週、また2冊世界史関係の書籍を手に入れた。1冊は「世界史の一問一答」の数ある中から、難関大学のものまで記してある、『斎藤の世界史B一問一答 完全網羅版』を選んだ。

これまでも記してきたように、暗記すべき項目には、共通テストレベル、難関私大レベルがあって、まあこれで一応網羅できると思われる。この一問一答を使っての暗記は、流れの理解があってこのもので、これをやったからといって受験勉強は完璧にはならない。

この本の著者のYouTubeでは、綺麗にノートをまとめて、これをやって受験勉強をやった気になるのが怖いという言があった。インプットの後のアウトプットが重要で、「間違うというストレス」が「勉強」なのだという言は、よくわかる。

もう一冊は、昔々世界史を教えていたころ、教材研究の題材に使っていたWEBページがあったのだけれど、最近は開くことが出来なかった。その理由は『なぜ?がわかる世界史』という本になっていたからだった。前述の方のYouTubeで「マイナーだけどいい参考書」という回の中で紹介されていたので、即購入した次第。

著者は名大の史学を修士までやった大阪府立高校の先生であった。これはまさに授業の即戦力である。これまで、様々な参考書やウィキなんかを参考に研鑽を続けてきたが、この本はその中心になるだろうと思う。

2022年2月3日木曜日

阪神・赤星のYouTube

https://npb-mlb.net/2018/10/13/post-7467/
YouTubeで、阪神の赤星が登場していた。以前、私が選んだベストナインで、センターは赤星。大好きな選手である。首を痛め引退してしまったが、盗塁を1回できれば車椅子を1台寄付する盗塁王だった。プレーだけでなく、こういう面でもリスペクト出来るプロ野球選手だと思う。

さて、今回のYouTubeは、高校の先輩だった巨人の槇原のチャンネルに出演したものだ。意外なつながりで驚いた。高校時代の話や当時阪神の監督だった野村監督との関わり、盗塁の極意とスパイクの話、選手会長だった時の話など、実に赤星の人柄、プロフェッショナルとしての姿勢など、様々な話が出てきて、引き込まれた。

https://www.youtube.com/watch?v=5Z1L58b2Td4

https://www.youtube.com/watch?v=Rojewla5WJE

https://www.youtube.com/watch?v=EHKG1_zqa_8

https://www.youtube.com/watch?v=1cL9Nx_rNio

https://www.youtube.com/watch?v=hrBZWiEOcsY

https://www.youtube.com/watch?v=3a4TKUkabjQ

第6話まであるのだが、いずれも俊逸である。

2022年2月2日水曜日

黒板アートの世界

https://kokubanart.nichigaku.co.jp/result/2021/result_main.html
妻は、魅力的なYouTube探しの名人で、昨夜も「黒板アートのドキュメンタリー」を教えてくれた。夕食を取りながら見たのが、大阪の私立女子高美術部の黒板アートに取り組む姿にハマってしまった。チームで取り組むわけで、個性が勝負の美術部で、部長・副部長は大変な苦労があっただろうと思う。

パステル画に近いのだが、色数ははるかに少ないし、かなり難しそうだ。綿棒などの様々な小道具も使いながら実に美しい仕上がりだった。残念ながら準優勝だったのだが、優勝・準優勝の作品、全てが甲乙つけがたい。


調べてみると、この大阪の私立女子高校は、デザイン美術コースが設置されているようだ。これまでの作品は名画をオマージュしたもので、これらも上手い。今回は準優勝だったが、オマージュからの脱皮を果たすことになったようだ。それはそれで素晴らしいことだと私は思う。

黒板アート、実に面白いと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=QLr2ar-Mm4I

受験の世界史B 研鑽ー45

https://hajimete-sangokushi.com/2021/10/03/kingdom-7/
春秋時代は戦国時代へと続く。鉄器の使用が一般化したことと、周王朝の築いた封建制度が完全に崩れた時代といえる。諸侯国は王を自称した。また一時帝号を称した王もいた。戦国時代の開始年には詳説あるが、春秋時代の大国であったが下剋上で、韓、魏、趙の三国に分裂した前403年が有力。

戦国の名は、前漢の劉向の「戦国策」(この時代の遊説の士:縦横家等の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に分類編集したもの)に由来する。

戦国時代は文字通り戦争が繰り返され、小国は戦国の七雄に統合される。教科書の順に、秦・斉・燕・楚・韓・魏・趙である。結局、秦が統一を実現するわけだが、その背景は、春秋期の大国・晋が分裂したこと。秦国内の商鞅の改革が成功したことや、西河の制圧、司馬錯の蜀征服による国力強化で、勢力の均衡を崩壊させたこと。これに対し秦以外の六国は合従して秦を攻める事はあったが、国境を接していない斉や燕は秦を滅ぼすメリットはなく、迎撃はしても追撃に対する合従は成立しなかった。地勢的に秦は守り易かったという説もあるが、他の六国の国内改革の遅れ、利害関係の対立などが大きかったと考えられている。

2022年2月1日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー44

https://sekainorekisi.com/glossary/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3/
周が東西に分かれた前771年から(東周に統一された20年後も含めて)山西省一帯を占めていた「晋」が三国に分裂した前5世紀までのおよそ320年間を(周代に成立した儒家教典の歴史書の名を取って)春秋時代としている。

東周となった頃には、往年の勢力も衰え、割拠する大小合わせて200以上の諸侯は独立状態となり、自国存続と他国の克服を目指して互いに争うようになった。しかしなお周王の権威は以前重視されており、周王の名代として諸国を束ねる「覇者」の座に就くことが諸侯の目標となった時代である。尊王攘夷の語の源はこの周王朝を尊ぶにある。

周の東遷に大貢献した鄭の武公の子・荘公の時代、周王(桓王)に疎まれ、討伐を受けるがこれを撃退した。この時に追撃すべきとの家臣の進言に荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。鄭は王室直属の卿士の家柄であったが、所領は狭く国力は中の下といったところ。これ以後、各諸侯は独自の動きを始めるようになった。

その鄭がやがて衰え、東方の「斉」(太公望を始祖とする)と南方の新興の「楚」が勢力を伸ばし、中原の小国は楚の威圧に怯えていた。斉の桓公は、楚に対し周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。これにより諸国間の盟主となった斉の桓公は前651年、会盟を開き、周王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により、桓公は覇者と呼ばれ春秋五覇の第一に数えられる。しかし、斉の覇権は中原(黄河流域)に留まり、長江流域に勢力圏を持つ楚を止める力はなかった。

宰相の管仲を失った斉は覇者の座から転落し、「宋」(殷の遺民)の襄(じょう)公が次を狙うが失敗、楚と前638年に決戦(泓水の戦い:おうすい)を挑むも、敵に情けをかけた結果大敗(宋襄の仁)した。その後、北の大国「晋」の文公が第二の覇者となる。文公は周王室の内紛を治め、楚との城濮(じょうぼく)の戦いで大勝し、周王を招き会盟を開き覇者となった。さらに、「楚」の荘王春秋の五覇に数えられる。楚は周から封建された国ではなく、実力によって湖北・湖南を抑えて立国した。後に子爵の位を周より授かるが、国力に対して位が低いと王を名乗る。鄭の都を包囲、救援にきた晋を邲(ひつ)の戦いで大破した。この邲の戦い以後諸侯同士の争いは少なくなる。諸侯の下にいた太夫・士の中級から下級の貴族階級が勃興し。彼らに諸国の実権が移り、各国内での争いが忙しくなったからである。伝統的な身分制度が崩壊したことが、孔子の学の源になったと考えられている。

こういった背景から、前546年に弭兵(びへい:戦いを止めるの意)の会が晋と楚の間で行われた。一方でそれまで国政の座につくことのなかった出自の者も多く出てきて、斉の晏嬰(あんえい)などの名宰相が現れた。また鄭の子産(しさん:中国初の成文法を制定)、魯の孔子などが活躍する小国外交も行われるようになった。

春秋時代後期、長江流域では、呉と越という2つの新興勢力が台頭する。製鉄の先駆地域で鉄器生産が行われていたことも大きいが、人的に呉は闔閭(こうりょ)・夫差という君主に名臣・孫武伍子胥が、越には句践という君主に名臣・范蠡がつき、抗争を繰り広げる。呉は楚の首都を陥落させ、さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出、諸侯の盟主の座を晋と争った。しかし、屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により滅亡する。臥薪嘗胆の故事である。「臥薪」は呉の闔閭が越の攻撃を受け死んだ後の夫差、「嘗胆」は越の句践が呉に敗れ、夫差の馬小屋の番人になり、許された帰国後の故事である。