第Ⅰ部(1~5節)、第Ⅱ部(6~14節)、第Ⅲ部(15~18節)の3つの部分からなり、同じ1つの事、イエスの生涯の出来事を3つの観点から叙述している。このそれぞれは、その語彙と内容の対応から、A(はじめに登場したヨハネと「はじめ」という語)・B(人々・光)・C(「受ける」とその合成語)・D(父・ひとり子・恵み・真理)に小区分することができ、並行構造になっている。
この3つの部分(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)の相互関係を時間的前後関係として理解しようとすると無理が生ずるので、観点の違いを示しているとして理解を試みると、第Ⅰ部は、光と闇という黙示文学的な象徴によって全体を意味づける、序の機能、第Ⅱ部は救いの歴史の中でのイエスの出来事、第Ⅲ部は、信仰共同体の中で実現されている事柄が述べられている。
そうすると、第Ⅰ部は、創始以来の先住のロゴスについて述べているのではなく、第Ⅱ部・第Ⅲ部で述べられる内容を視点と表現を変えて、さらにその深い意味を告げているものと理解できる。すなわち、宇宙の創造に先立つロゴスの先住ではなく、具体的なナザレのイエスとの最初の出会いのことを語っていると理解しうると著者は記している。
序文の転回点を見ることで、福音書序文と本文の密接な対応関係を見出すことができる。第1~12章で、イエスの啓示に対して人々が2つに分離して、多くの人はイエスを拒み、第13~17章で受け入れた少数の人々に啓示がなされる、という構図である。
…著者は、岩波書店版新約聖書では、冒頭を「はじめに言葉(ロゴス)が”あった”。」(新共同訳)ではなく「はじめに言葉(ロゴス)が”いた”。」と訳している。これは、ロゴスが非人格的存在ではなく、人格的存在(=イエス)として捉えるのが正しい故、(日本語の)常識的な表現にしたとのこと。…なるほど、である。


