2019年1月31日木曜日

PBTの話(9) M先生最後の日

3年前に共にPBTに赴任したM先生の、今日は最後の出勤日であった。同じタマンデサに住んでいるので、よく車で送って頂いたし、家族ぐるみでのおつきあいをさせていただいた関係である。理系のクラス減で、勇退されることになったのだが、実に残念である。まだまだ教えて頂きたいことがあったのだが…。

で、今日は妻に弁当をつくってもらうことを辞退し、M先生といっしょに昼食をミッドバレーに食べに行った。私が単身赴任していた頃は、地下にある安い経済メシをよく食べに行ったものだ。最近は3Fのちょっと高いがおいしく、クーラーもきいたフードコートで食べておられるとのこと。久しぶりにミッドバレーに食事に行ったのだった。
ちょうど、旧正月の飾りができあがっていて、いっしょに回らせていただいた。ちょっと紹介しておきたい。こういうことも最後かと思うと寂しいが…。
今年は猪年ということで、中国では「豚年」である。ムスリムが最も嫌う動物が干支なわけで、だいぶ気を遣っていたが、お店には、豚グッズも売っていた。
最近は、そういう規制もだいぶゆるやかになったのだと言う。もちろん、KLなどでの話である。(M先生談)M先生には、マレーシア生活の様々なご教授をいただいたし、数え切れないほどお世話になった。これからの益々のご健勝を祈るばかりである。

PBTの話(8) サクラ・サクラ

https://twitter.com/ps_acs/
status/797282447482200064
今週は、今日までにサクラが2つ咲いた。2人とも一度はサクラが散った経験があり、私も心が痛んでいたが、いやあ嬉しい。

明日は、KLなどの連邦直轄領DAYで休み。土日があって、一週間チャイニーズの旧正月でスクールホリデーとなる。出願などの手は全て打ったので、ひと休みというところだ。とにかく、今日はサクラの一つ、R大合格の報に接して心から安心立命した。

とはいえ、スクールホリデー以後が勝負である。まだまだこれからだ。

2019年1月30日水曜日

内田樹 追悼・橋本治

橋本治氏の有名な駒場祭コピー
https://chuff.hatenablog
.com/entry/2018/02/07/
170500
内田樹氏の橋本治氏への追悼文と、2009年に書かれた書評が面白かった。今、小論文で四苦八苦している我がF40Aの学生諸君に是非読んで欲しいと思い、エントリーする。
https://blogos.com/article/354356/

内田樹氏の文章には、ディテールに凝ったものも多い。今回の追悼文で、書かれている「私家版ユダヤ文化論」(これは既読した。実に面白い一冊。)が、橋本治氏が選考委員をしていた小林秀雄賞受賞し、受賞理由を語った後の内田樹氏の謝辞がいい。「…アマチュアバンドが自費出版で出したCDが音楽賞をもらった時に、ジョンレノンがその曲のコード進行について解説してくれたようなものです。」本人は、よくわからない比喩と書いているが、私には実に分かりやすい。(笑)その後の橋本氏が地雷原をすたすた歩いて行って、振り返って「ここまでは平気だよ。おいで。」という比喩も凄い。

後に続く「書評」の論点も実に面白い。
バルト(有名な神学者である。)が「大学批評」と読んだ批評の方法について、実にわかりやすく書かれている。文学部系小論文のパワーアップを目差す学生諸君は、是非、この書評を読んで、「大学批評」の問題点と、橋本治氏の作品がなぜ通常の「大学批評」で推し量れないのか?について書いてみるといい。

2019年1月28日月曜日

ああ黎明は近づけり。

https://jaa2100.org/entr
y/detail/058716.html
昔々、私は旧制高校の学生にあこがれを抱いていた。おそらくは、「どくとるマンボウ青春記」を読んだからだと思う。デカルト、カント、ショーペンハウエルで1年を過ごすという哲学青年たちの姿を追い求めた時代があったのだった。破天荒な格好で、街を闊歩し、およそ非現実的な観念論に生きていた彼らに言いしれぬあこがれを抱いていたのだった。疾風怒濤。鬱勃たるパトス。哲学を語れない教授を軽蔑し、友との友情に準ずるような人生観は実に格好良いと思った。

ところで、「ああ黎明は近づけり」という旧制大阪高等学校の寮歌がある。ウィキによると、第一高等学校の寮歌などからパクッている歌詞もあるらしい。それが、「君が愁いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」と言う箇所だ。「白い恋人」を「面白い恋人」とアレンジする大阪人の端くれの私としては、東京のパクリだろうとなんだろうと、この歌詞が好きだ。思えば、そういう場面が高校時代(もちろん新制だが…)や大学時代にあったし、それ以後もあった。無制限で信頼できる友がいるということは、人生最大の喜びである。反対に、こういう友情を経験できていない人は寂しいだろうなあと思う。
http://www.eonet.ne.jp/~ougc117/others/Zenryouka.html

若い思春期の、疾風怒濤時代の学生諸君に長年囲まれてきた私としては、心底胸に迫る歌詞である。「君が愁いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」若き日の友人たちの顔が今日は夢に出てきそうだ。今日は、そんなことを考えていた。

2019年1月27日日曜日

現時点で韓国の問題を考えるⅩ

それ以上の解像度はありません
http://polandball.wikia.com/
wiki/File:%ED%8C%8C
%EC%9D%B4%EC%8B%9C%
EC%8A%A4%EC%98%AC.png
正直なところ、あまり韓国のことはエントリーしたくないのだが、私自身が驚いた事実があるので、エントリーしておきたい。それは、様々な韓国への制裁が語られ出した中で、「支払い信用状」の発効停止ということが出てきたためだ。

ここで再度確認しておきたいが、私は、韓国の多数派を占める人々が、偏向した反日教育・日本=悪と決めつける教育の中で、自らの「物語」を熟成し、真実や理性的判断を失っているところに、最大の問題があると思っている。まるで、戦前の日本で、一部の帝大出のエリートだけが天皇機関説の正しさを認識していながらも、「神国日本」教育によって、軍人や一般庶民が、天皇を現人神と信じていたように、である。この隣国の「物語」を一度破壊しなければ、両国の空虚なコトバでない未来志向はないと考えている。そのために、必要悪である制裁を行うことに賛成である。

この「支払い信用状」とは、韓国の輸出入銀行は国際的信用がないために、日本の銀行が、韓国の輸入の際、信用を肩代わりしているという話である。具体的には他国の輸出業者への韓国企業の支払いを日本の銀行が一時肩代わりしていることをさす。韓国は、この信用状がなければ(つまり、日本の銀行が手を引けば)、全て前払いでしか物を輸入できなくなるということになるという。すごいな、いつも無茶苦茶言われているにも関わらず日本はこんなカタチで韓国を支えていたわけだ。
https://www.youtube.com/watch?v=8hEjYc3KcvI

(いつの話か明確ではないが)ASEAN諸国会議で、オブザーバー参加の韓国が議題と関係のない日本批判を繰り広げた際、これをインドネシアの代表が遮り、韓国はASEANを見下しているが、我々が日本のそばにあったら、どんな国家でも韓国程度の発展は出来る。韓国の成功は100%日本のお陰であって、別に韓国が誇れるようなものではない。韓国人が恩を受けた日本人に感謝ひとつできない人たちであることが我々には全く理解できない。と語ったそうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=TLiHAcaS-yg

日本人の我々でさえ、知らなかった「支払い信用状」の話。当然、韓国の多くの人々は知らないだろう。この事実を韓国の人々に知って貰うことは、彼らの偏狭な「物語」を打ち破るのに最も効果があるのではないか、と私は思った次第。

日本(いや国際社会もだが)にとって、あれだけ嘘や非常識な対応をする韓国への「信用」自体が、地に墜ちている現在、日本が「支払い信用状」を発効することは完全に矛盾している。もちろん、韓国経済に与える影響は、意趣返し的な戦略物質のフッ化水素の輸出禁止より、はるかに大きいかもしれない。それは自業自得としか言いようがない。一度そういう局面に立ってもらうことも、「物語」を破壊するための必要悪かと思う次第。

2019年1月26日土曜日

マレーシア正式に中国にNO

マレーシア政府が、政権交代以来の懸案だった中国の鉄道建設を正式に中止したという報道が流れた。中国の一帯一路プランの大きな打撃となると言われている。インドネシアの鉄道計画もとん挫した。パキスタンの鉄道、スリランカやモルディブの港湾インフラなど、他国にも「借金地獄」からの脱出を目指す動きが加速している。中国の覇権主義的なスタンスが、危機感を生み、これに対抗しようという動きが強まっている。これまでの欧米の植民地主義下における「学び」がいよいよ生きてきているのかもしれない。途上国やマレーシアのような中進国でも、欧米や日本で学んだ優秀な政治家や官僚が、国益のために頑張っているともいえる。そう簡単に、新しいカタチの植民地に堕することはないだろう。(カンボジアはちょっと心配だが…)

このところ、世界中で政治的な混乱というか破綻というか、おかしなニュースが多く報道されている。アメリカの政府が停止し、昨日やっと解除された。(また政府が止まる可能性や非常事態宣言で壁を構築するかもしれないが…。)アメリカが異常なのはわかりきっていることだが、イギリスのEU離脱をめぐる混乱も、フランスのデモ騒動も、そして隣国の尋常でない反日活動と国連の制裁決議違反…。

暗澹たる思いになるばかりである。そんな中、マレーシアは、毅然とした態度をとったわけで、在マレーシアの私としては、ちょっと嬉しい。

またまた英語に苦労する。

今朝のタマンデサ・メディカルセンター
糖尿病の治療のため、病院に行ってきた。朝8時に入ったのだが、今日は何故か時間がかかり、11時過ぎまでかかってしまった。ずいぶん本は読めたが、かなり疲れてしまった。

肝心の血糖値の方は、病院で血液検査して5.3という数値。ドクターは、これまでの私が計ってきた数値の一覧表と見比べて、大いに喜んでくれた。薬も少し変わったのだった。とはいえ、相変わらず英語力不足で病院に行くのは苦しい。なんとなく慣れてきたので、診察の流れはわかっているし、なんとかなるのだが、リスニングにはかなり苦労する。これで、余計疲れるのかもしれない。

そういえば、昨日税金の書類が回ってきた。こっちも、病院以上に苦労する。憂鬱である。留学ビザ取得や様々な日本語の提出書類に悪戦苦闘する学生諸君の気持ちがわかる気がする。(笑)

2019年1月25日金曜日

沢木耕太郎の「銀河を渡る」6

沢木耕太郎のエッセイ集、朝の650番のバスで少しずつ読み続けている。今は第4部「いのちの記憶~暮らす」である。短いエッセイのひとつひとつが、…面白い。

沢木の仕事場と自宅の徒歩通勤の経路にある小さな今川焼きの店の話を描いた「この季節の小さな楽しみ」。父の葬儀(密葬)の際に、焼香に来た婦人が、亡父が子供にエレベーターでいつも声を掛けてくれたと語る逸話と、沢木がエレベーターで宅急便の若者に「頑張って」とかけた一言に、帽子をとって軽く会釈しながらの「ありがとうございます」という一言。それで気持ちの良い朝を迎えれた喜び。父子のエレベーターでの「ひとこと」が、不思議にクロスオーバーする「ありきたりのひとこと」。

中でも、第4部のタイトルにも鳴っている「いのちの記憶」は、いろいろ考えさせられるエッセイだった。子供の頃、父親に「明日の朝起こしてくれる?」と頼むと、必ず起こしてくれた。食べ盛りの頃、母親は、おかずがなくなると自分の皿から移し「食べなさい」と言ってくれた。そして、今、親になり自分の娘に同じようなことをしているとふと気づく話だ。沢木は、これを親の義務だとは思わない。ごく普通に「時間」や「食物」を削っている様は、自分の「いのち」を削っているに等しい。しかしそれは「喜び」である。この親から「いのち」を削ってもらった記憶は、「いのち」の連鎖である。これが、虐待などで途切れたら、人間にとって何よりも大切なはずの「いのち」の連鎖もまた途切れてしまうかもしれない、と沢木は結んでいる。

…親不孝者だった私だが、こういう親の恩をふと思い出すことがある。年齢的には「白秋」といえるかもしれない私は、両親をすでに見送っている。もう、どうあがいても親孝行はできない。だからこそ、染み入るエッセイだった。(今日の画像は、沢木が亡父を描いた作品/無名)

2019年1月24日木曜日

PBTの話(7) 国費生卒業式

今年も来て頂いたラザク先生のご子息・タンスリ(称号)のスピーチ
3度目の国費生の卒業式である。今年は全員が理系なので、私が教えた期間のは1ヶ月にも満たない。正直なところ、顔は見知っているし、愛着はあるが、名前は定かではない。そんな中途半端な感じの卒業式であった。

今年の国費生の卒業式で私が感じたのは、これまでの保護者の違いである。学生はなかなか良いのだが、保護者が式典中、私語したり、新聞を読んだり、(開会前に司会から携帯の電源を切るように指示があったが)携帯電話が何度も鳴ったり、雑然とした感じがぬぐえなかったのである。

正直なところ、これまでの保護者との階層の違いのようなものを感じたのだ。私費生の多くは経済的に恵まれている。これは当然だ。私費で日本に留学するというのはかなりの資金力を必要とするし、それが可能な家庭が多い。(もちろん全員ではない。)

今回の国費の学生諸君はなかなか優秀であった。しかし、マレー系の中でも中間層、あるいはその周縁層の出身者が多かったのではないだろうか。これは決して悪いことではない。確かに式典は雑然としたが、これから数年後が楽しみである。彼らは現状打破のためにも大いに日本で頑張るのではないか、と思うのだ。恵まれた環境の者だけが高等教育を受けるという状況から、マレーシアも脱しているのかもしれない。そう思うと、余計に彼ら国費生を応援したくなる。
今回の卒業生の歌は、VTR付き
大阪の中小企業の街で、工員のひとり息子として育った私は、今から思うと家庭の経済状況など歯牙にも掛けず、自分は大学進学するのが当然だと思っていた。親不孝者故に、我が道を歩めたのだが、そういうことが可能な国であることは重要だ。思えば、アマルティア=センの貧困の概念を私は打ち破った一人なのかもしれない。マレーシアでも、潜在能力を活かせる時代がいよいよ到来したような気がする。

今朝、出勤時にエレベーターで清掃の女性ワーカーと少し話した。聡明そうな娘さんだ。インドネシアから来ているという。彼女たちの国には、まだまだそういう時代は訪れていないのかもしれない。この差は大きい…。そんなことを考えていたのだった。

2019年1月23日水曜日

現時点で韓国の問題を考えるⅨ

http://news.livedoor.com/article/detail/15905599/
おそらく、日本と韓国との関係は、少なくとも文政権の間は切れるような気がする。今回のロックアウトの問題で、さらなる嘘(低空飛行?)を重ねて、責任転嫁して、(文革風に言うと)反日有理を貫いている。こういう発言は、日本人が最も忌み嫌うものだ。

2日前の産経の世論調査(いわゆる徴用工問題だけの調査だが…。)でも、76.8%が対抗措置をとるべきだとしている。最も保守的な産経新聞とFNNの調査ではあるが、これが朝日系列でも相当数の、少なくとも60%近い数字がでるのではないかと推測できる。

これに、ロックオン問題が加味されるわけで、カタストロフィー・ポイントを超えたような気がする。これだけの数字を見て、何らかの制裁を行わないと、こんどは日本政府の方が持たないだろう。

友好国に「親日罪」などという罪が存在するとは、普通信じられない。5月の天皇即位式に、天皇へのテロを推奨(教科書にテロリスト讃美が書いてある)するような国は呼べまい。我々は、友好国のそういう黒い部分を知ってしまったのである。空虚な外交辞令で飾った「未来志向」や「遺憾」ではすまないような気がする。

多文化共生を旨とするESDの徒としては、非常に辛いのだが、日本人の一人として、もし、制裁が必要かと問われれば、私も”YES”としか言いようがない。それしか、かの国を「反日の物語」から救い出すことは不可能だろうと思う。現実と真実を知らしめるためには、冷静な対話が不可能故に、なんらかの制裁は必要と思われる。

現時点での危惧は、制裁を行うにあたり、あの独裁的な大統領とイエスマンで固めた日本の宗主国・アメリカが信頼するに足りないことだ。在韓米軍を引きあげる可能性は十分ある。そうなれば、安全を守る存在がなくなり、日米などの在韓西側市民も引き上げることになる可能性が高い。米朝会談を2月に行うなどと、ホワイトハウスは言っているが、小学5年生とイエスマン集団に核放棄の成算などあるわけもなく、感情的な交渉決裂となる可能性が高い。その後のことは、ここで書きたくもない。そういう読みを持つからこそ、英仏は日本海に海軍を送ってくるのだ。

もう主張しても無駄だろうが、比較的なまともな隣国の人々は、親日罪でつかまるか、民族存続の危機に立つのか、選択に迫られるだろう。できれば、一刻も早く文=反日ポピュリズム政権を倒して欲しいところだが…。

最後に、何度も何度も書いているが、在日韓国の人々と反日神話の物語に生きる半島の人々を同じに見ることは間違っている。日本の教育を受けた私の在日の教え子達は、また友人達は、日本人と同様に、制裁にNOと言わないはずだ。彼らも、責任転嫁や嘘を重ねるかの国に疑問と憤懣を抱いていることは間違いないからだ。日本の同胞に告ぐ。かの国と同様の(在日韓国人は半島の韓国人と同じである、などという)「物語」を勝手につくるべきではない。われわれは、「(嫌韓)物語」ではなく、「真実」の中で生きるべきだ。私はそう主張したい。

2019年1月21日月曜日

PBTの話(6) 世界地誌PP

今年の1月は授業が多い。JPAの理系2クラスで週6コマ、F42の文系2クラスで4コマ。余裕がないので、F40Aの進学指導がままならない。まあ、愚痴を言っても仕方がないが、今週でJPAの理系が終わる。木曜日が卒業式であるからだ。これ以後は、もう少し余裕が生まれるはずである。とはいえ、コツコツとF42文系の世界地誌の教材研究を進めている。

今日はタイプーサム(インド系のお祭り/2017年2月10日付ブログ参照)で休日である。ちょっと、世界地誌の教材(パワーポイント)についてエントリーしておこうと思う。これまで、私はこの時期、地理はT先生にまかせていて、EJU前に復習するカタチをとってきたが、文系のクラスが増えた関係で、今回新たに、再構成して作り直している。F42の学生は、日本語がやっと中級に入ったくらいなので、どんどん画像を見せてイメージをふくらませなくては、面白い授業が成立しない。

まず、ヨーロッパ、さらに北南米の地誌の教材は完成した。これらをプリント化するのも時間がかかる。重要なPPの画面はスクリーンショットを載せて、さらに項目別にまとめているわけだ。

当然ながら、各国の風景なども挿入している。これをネタに、いろいろと質問したりして面白くするわけだが、ネットで画像を選択するのも、時間がかかる。(笑)地誌をやりながら、農業や鉱工業などの話題にも触れていく。マレーシアの学生は、あまりこういう授業を受けてきていないようなので、かなり新鮮に受け止めてくれる。まさにタブラ=ラサなので、社会科教師としてはやりがいがあると言える。こうして、毎年毎年、教材を良いものに更新していくと、これまでの学生諸君には申し訳ないような気もしてくる。教師も成長していくものなのだ。それがあるからこそ、学生の成長もある。60歳を過ぎても、私はまだまだ少しでも良い教材を求めたい、成長したいと思っている。

2019年1月20日日曜日

コンドのジムで汗をかく。

平日は、バス停3つ分を歩くことにしているが、休日はそれができない。昨日は妻に頼まれて遠くのショップロットまで、おいしいパンを買いに行ったりして歩けたが、今日はそういう用事もない。仕方がないので、コンドのジムに行ってきた。これで3回目くらいになる。

我が住処は古いコンドなので、そんなに綺麗ではないが、それなりの設備は整っている。私は最もイージーな自転車のマシンを漕ぐことにしている。まあ、20分で3kmくらい。少し負荷をかける設定で漕ぐので、20分で十分汗をかく。

血糖値を下げるためには、運動と節制しかないようで、両方苦手な私だが、マレーシアに少しでも長くいるために頑張ろうと思っている。さすがに自転車を漕いでいると、日々の心配事(そのほとんどはF40Aの進路のことだ。)もあまり浮かばない。24時間の中でそんな時間が少しあってもいいと思う。

2019年1月19日土曜日

現時点で韓国の問題を考えるⅧ

例の日本海でのロックオンは、韓国が北朝鮮となんらかの国連安保理の経済制裁決議への違反行為をしていたところ、自衛隊機を追い払うために行ったという国際世論がほぼ形成されたようだ。まあ、普通そう考えるのが妥当だろう。

これに、イギリス、さらにフランスの海軍も監視活動に参加するという報道が流れた。日本の外交努力の賜物であることは事実だが、日本が大喜びするのはちょっと…と私は思う。と、いうのも、このイギリス・フランス両国は、近代以来世界の大国として、軍事作戦も含めた外交巧者であるからだ。

「沈黙の艦隊」(かわぐちかいじ著)という「漫画」は凄い。漫画を超えた漫画であると私は思っている。(PBTのOB・OGも是非読んでみて欲しい。)原子力潜水艦が主人公で、戦闘場面も面白いが、登場する政治家の一言一言が凄い。たとえば、海江田艦長が無線で世界に演説し、マスコミが、世界に向けってアンケートを実施する。この時、「もっと彼のコトバを聞きたいか?」という質問があり、日本の首相が不思議に思う。なぜ彼の考えでなく、「コトバ」なのか?そう、一神教の伝統が日本にはないからだ。この質問は、救世主や預言者の「コトバ」として捉える必要があるのだ。(コトバを聞きたいと答えるということは、彼を預言者や救世主として捉えていることに直結する。)こういう蘊蓄が随所に見られるのだ。この事件の解決に向けて、世界の主要国(米・英・仏・露・中・独・日)が集まるポーカールームでの討論などは、まさに俊逸である。

この時、フランスの首相は、「傍観者は全ての権利を失う」旨の発言をしていると記憶する。そうなのだ。もし、極東で何かあった時、英仏はもう傍観者ではない。自己の国益をも主張できる立場になる。フリーゲート艦一隻・哨戒機1機を送るだけで…。

英仏は、これまでの経験から、極東で日米と西側陣営として与することが有利と見たにすぎない。国際政治とは、かくも冷徹な利害に彩られている。これが歴史から学ぶ事実認識だ。だから、イギリス・フランスも参加してくれた、ありがとう。やったね!と日本が喜ぶのは、ちょっとおめでたい話だと思うのだ。だが、現実的には、西側諸国がこのように極東でパトロールするという事態は、日本にとっては大きな国益の推進であることは間違いない。

さて、韓国はこの事実をどう受け止めるのか。いつまでも「反日の物語」の中に引きこもり、危機を呼び込むのは賢明ではないと思うのだが…。

何度も主張しているが、私は在日韓国人の教え子や友人のことを心配している。先日の民団の新年会では、代表が、立場上本国の政治姿勢を肯定していたようだが、在日の人々のために、はっきりと否定した方がいい。日本で教育を受けた我が教え子達は、本国のような反日教育の物語を受け入れていない。おそらくは、本国の理の通らない主張を日本人同様奇異に感じているはずだ。
我が同胞にお願いしたい。この違いを明確にして欲しい。ステレオタイプに同視化しないでほしい。日本人の知性を信じたい。

2019年1月18日金曜日

PBTの話(5) サクラ三分咲き

https://media.rakuten-sec.net
/articles/print/13107
3つの大学の合格発表が重なった1日だった。残念ながら、三分咲きというところだ。サクラが咲いたK君は、面接練習でもなかなか良かった。よく、文系は面接勝負と言われるが、それを絵に描いたような合格だったと思う。

昨日、面接についていろいろ書いたが、面接受ける一人一人がアイデンティティをしっかりもつこと(金太郎飴化)が大事だと思う。今日さっそく、空き時間に心配な2人の学生とじっくり話した。

朝は、山口県と外国の関係について、レクチャーした。面接でN君がそんな言を発していたからだ。長州は、関ヶ原以来の反幕府で、尊皇攘夷の本家のような藩であったこと。インテリジェンスに優れていた開国した幕府に、天皇を盾に攘夷を迫り、実行されないと見ると自らが攘夷を行い、四国艦隊にボコボコにやられたこと。以来攘夷を捨てたこと。こんな中,、吉田松陰という人物を産んだこと。松陰門下から多くの人材が輩出されたこと。長州ファイブなどという密出国した若者の話もしておいた。短時間だったが、意味はあると思う。勝つために、後は自分で調べて欲しい。

今年の受験戦線はまだまだ厳しい。気を引き締めていきたい。

2019年1月17日木曜日

「柔道部物語」を手にする。

久しぶりに、日本人会の無人古本コーナーに行ったら、「柔道部物語」が2冊あった。文庫版の3巻と6巻だった。なんとも中途半端であるが、RM1だし、2冊とも我が住処にご招待した次第。

さすがに、マレーシアの住処には、「漫画」は1冊もない。この「柔道部物語」は、小林まこと氏の名作中の名作であると私は思う。デッサンがしっかりしているし、ユーモアがあって、何度も読み返すことが出来る。(ちなみに、同じ作者の1・2の三四郎よりさらに完成度が高い。)実は、ほぼ内容は暗記している。(笑)だが、なんとなく、頭を休めたいときにいいかもしれない、と思ったのだ。

この柔道部物語は、全くの素人だった主人公・三五十五が、岬商業高校の説教という前時代的な柔道部のしきたりで2年生にコテンパンにやられ、このままやめてたまるかと柔道部を続けるが、白帯ながら意外に背負い投げという必殺技を手に入れ、県大会で個人優勝。以来、どんどんと成長し、金鷲旗の大会で優勝するという物語だ。県で、全国でライバルもいろいろ登場するし、柔道部の仲間も個性豊かである。私は同年で最も弱いが、情報通の岡が好きである。

ところで、そんなに簡単に柔道が上手くなるとは思えない。先日読んだ沢木耕太郎のエッセイにもあったが、インターハイで活躍するような選手は、中学時代に実力を認められ、地方から東京の講道学舎に集まるらしい。前任校も公立高校としては柔道部はかなり強かったが、白帯の生徒がたまに入部しても99%レギュラーにはなれない。やはり、漫画であるわけだ。
とはいえ、大好きな漫画である。ちょっと嬉しい。残りの巻も手に入れたいなあと思う。

PBTの話(4) 合同面接練習

金太郎飴
https://kotobank.jp/word/%E9%
87%91%E5%A4%AA%E9%83%8
E%E9%A3%B4-481508
昨日は、4限目が、F40Aの国公立大学志望者の面接指導だった。面接官は3人、面接指導を受けるのは1人ひとりで、仲間が見ているという、なかなかシビアな状況である。これまですでに小グループで面接指導を受けているので、その集大成という感じの面接指導だった。

ところが、昨年のF38に比べて完成度が低いように私は感じた。と、いうのも昨年は5人くらいで、今年はその倍いる。したがって濃密さが違うような気がしたのだ。私は今年はF40の理系の週3コマが2クラス、F42の文系の週2コマが2クラスの授業があるので、週1回面接指導に参加するのがやっとである。関わりもぐっと少ない。

面接の練習は数をこなす必要があるし、個人差もある。これはまずいと思って、空き時間に少しずつ個人的に関わっていこうと思っている。

面接で最も重要なことは、志望動機を中心とした自分のアイデンティティを確立することであると思う。私はこういう学生です。そんな質問が来ても、そのアイデンティティが崩れない、ちょうと金太郎飴のようなスタンスがいい。しかも質問の意味を明確に把握することも重要である。とんちんかんな答えはマイナスだし、答えに詰まるのもマイナスである。簡単なように見えて、留学生はこれを日本語でやらねばならない。なかなか大変なのである。頑張れ!F40A。

2019年1月15日火曜日

PBTの話(3) ゾロの武士道

https://blog.goo.ne.jp/munasecond/e/
9cbddcfb30a5f98ab58f856050320f49
授業で難しいコトバを使って高所から説くのは、そんなに難しいことではない。時には、学生の位置まで下がって説くほうがいいこともある。

国費のF40の理系の学生達には、昨日今日と「日本人の心のカタチ」を話していた。マレー系の彼らとは、かなり共通点もある。なにより彼らは熱帯の農耕民族だ。マラッカ王国以来のムスリムであるけれど、日本の多神教世界も理解しやすい。仏教の無常観や儒教の仁・義・礼などを説いてから、まとめとして「武士道」を説いた。今の日本には武士は存在しないが、震災の時など危機的状況かにおける日本人は、極めて武士道の世界に入る。赤ちゃんをかかえた若いお母さんが泣く子をかかえ、他の被災者の迷惑にならないように外に出る姿は、まさしく武士道である。どんなに空腹でもちゃんと順番を守り列を成して並ぶ姿も武士道である。

ところで、武士道にはもう少し細かいこともある。たとえば、「忠」主君に対しては忠義を尽くすが、必要な場合換言も行う。ここで、ワンピースのゾロの登場である。ゾロは、ウソップが仲間を抜けて戻ろうとしているとき、喜んで迎えようとするルフィーに対し制止する。「義」刀に欠けて約束は守る。ゾロは、「二度と負けない。」とルフィに約束して、それを死守している。「勇」死を恐れず困難な状況に立ち向かう。これと「誠」意地が忠・義・勇を行う力となる。ゾロが最も凄いのは、クマにルフィーがやられて死にそうなとき、自分の命を投げだそうとしたことだ。後から同じように命を投げだそうとしたサンジを気絶させ、クマが取り出したルフィーの痛みを全て受け止める。後に血だらけで立っているゾロにサンジが駆け寄り「何があった?」と聞くが、「何もなかった。」と答える。うーん、痺れるほどの武士道である。(以下のブログに詳しい。)
https://blog.goo.ne.jp/munasecond/e/9cbddcfb30a5f98ab58f856050320f49

こんな話をしていると、ワンピースを知っている学生は、思い切り頷いていた。(知らない女子学生には、youtubeを見てごらん、これも日本文化の勉強。といっておいた。笑)

2019年1月14日月曜日

巨星 梅原猛氏 墜つ。

http://www.yayoigallery.com/
past-exhibit/detail/03-u
mehara/03-umehara.html
梅原猛氏が死去した。梅原氏は、高校時代の私の進路を示した人物である。2017年3月16日付ブログ「40年前の私が考えていた事」参照。私の人生に大きな影響を与えた書物はいくつかあるが、その最初の1冊が梅原氏の「哲学の復興」であることは間違いない。

改めて、現在の状況下で、仏教思想こそが世界をリードすべきであることを今日は大まじめに記しておきたい。

まず西洋哲学の現在を概観したい。氏は、「哲学の復興」デカルトの二元論などの近代を形成した西洋哲学を批判的に見ていた。西洋哲学は、基本的にキリスト教を土台としている。神と人間の二元論も、自由な個人と不自由な共同体という社会の二元論も、理性と物体という二元論も、資本家と労働者という階級の二元論も、全て同じ土俵の上に築かれている。

フランスの現代思想は、ポストモダンの現在を的確に預言したと私は思う。ドゥルーズの預言どうり、これまでの社会のコードは喪失し、いまや完全にスキゾな状況下にある。フーコーの預言したとおり、権力による知の独占もしかりである。しかし、預言が的中したからと言って、何も変わらない。ロゴスやコギトや神の存在をいまさら否定しても何も変わらない。西洋哲学の限界は明らかである。

中国思想、特に儒教の仁や義は日本にのみ精神性として残存しているが、死を想定外においた孔子は、所詮仏教の足下に及ばない。仏教の慈悲は、仏の慈悲であり、儒教的な家族への心情を遙かに超えた愛である。キリスト教の神の愛(アガペー)は、二元論的な立場から捉える限りにおいて、仏教の慈悲にはかなわない。自己と他者が二元論的に存在する中で、これは隣人愛にはなりえない。仏教の慈悲は自己と他者の区別はない。自己即他者、他者即自己である。この仏教的な不二の発想こそ、構造的暴力に彩られた世界の中で、持続可能な開発を可能にする。

なんとかファーストなどといった狭い自己利益重視のスキゾな世界は、所詮六道輪廻を超えることはない。これらを俯瞰した仏教思想こそが未来を指向できると私は今も確信しているわけだ。

仏教が最強の思想だと信ずるも、私は同時に他の思想を否定するつもりはない。仏教的な思想の一部を語るものもある。梅原氏が追求したハイデッガーや、サルトルも仏教的な発想を共有している。また梅原氏の愛した京都学派の西田幾多郎は、仏教を西洋哲学的に論じたわけだが、純粋経験というコトバより、仏教的な言い回し(たとえば仏性)の方が分かりやすいと私は思う。西田の努力は認めるけれど、だから何なんだというのが実感だ。

地球市民は、仏教的な平等大慧の仏性から出る慈悲を根本に、あらゆる民族的な差異を乗り越え、理解し、持続可能な開発を進めるのが最も良い。私の哲学的結論はここにある。

巨星・梅原猛氏に対して、はなはだ失礼な追悼文になったけれど、氏のおかげで今の自分があるという「縁起(因縁)」は、たしかに今も強く認識させていただいている。心からお礼を述べたいと思う。…梅原氏への供養として。

2019年1月13日日曜日

ケニアの地熱発電

http://afri-quest.com/archives/10000
読売新聞によると、ケニアの地熱発電は、2015年現在で約60万キロワット。これを500万キロワットまで拡大するらしい。この事業を推し進めているのが、地熱発電の世界3強と呼ばれる日本企業(東芝、日立、富士電機)であるそうだ。(当然ながら、これらのプロジェクトをケニアの電力公社と実務面で進めているのは、メーカーではなく、豊田通商や丸紅、三菱商事といった商社である。読売新聞にはこの記述が欠けている。)
https://www.yomiuri.co.jp/economy/20190113-OYT1T50035.html

発電機メーカーは、企業的には、そもそも温室効果ガス対策で火力発電の受注が減っている。一方ケニアでは水力発電も干魃などによる影響で発電量が低下しているという。それらの事情を受けて受注が好調なのだという。地熱発電は、安定的なクリーンエネルギーである。大いに期待したい。持続可能な開発はビジネス的にもwin-winでなければならぬ。
https://www.toyota-tsusho.com/about/project/12/
ケニアのナイロビの北西、ナイバシャ湖の近くに、グレートリフトバレー(大地溝帯)の中の東リフトバレーに、オルカリア火山体があり、火山活動は休止中だが噴気活動は続いている。ここが地熱発電の地である。首都ナイロビに近いというのは、(送電時にいくらか電力が失われる故に)発電には極めて好条件である。

この東リフトバレーは、モザンビークからエリトリアまで続いている。特に、エチオピアでは、すでに地熱発電所が建設されている。ケニア・エチオピアに続く可能性があるのは、タンザニア、ウガンダ、ジブチといったところであるらしい。
https://special.nikkeibp.co.jp/as/201207/africa/vol4/step1_p2.html

…東アフリカの持続可能な開発にとっても、重要なプロジェクトの1つである。各日本企業には頑張って欲しい。東芝は原子力発電所をバックアップしてきた忖度・官僚を受け入れているという報道も流れ、批判を受けているようだが、地熱発電ではこれからも大いに貢献して欲しいところだ。

2019年1月12日土曜日

沢木耕太郎の「銀河を渡る」5

井上康生氏はなんとかしなきゃプロジェクトに
参加しているようだ。これも嬉しいな。
http://nantokashinakya.jp/member/
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BA%B7%E7%94%9F/
沢木耕太郎のエッセイ「銀河を渡る」の書評、久しぶりの続編である。先日、井上康生男子柔道監督が、女子レスリングの吉田選手の引退にあたって、電話で「ご苦労さん」と伝えたというニュースが配信されていた。オリンピックで主将を務めながら、まさかの敗退をしたにもかかわらず、他の選手の応援にかけつけていた井上康生氏の姿は、私も印象に残っている。

今回のエッセイは、第二部「過ぎた季節」の最後に収められている井上康生ストーリーである。沢木は、ボクシングを始め様々なスポーツを取材している。第二部の構成は、そういうアスリートにまつわる話も多い。

井上康生は、東海大相模の主将として、高校選手権で個人戦・団体戦と優勝している。特に、団体戦は、世田谷高校の中堅・副将・大将の3人を相手に勝利している。この時、沢木は新しいスターの誕生を見た。その4年後、シドニーオリンピックで、全て一本勝ちで優勝した。井上康生は表彰台に母の遺影を掲げ金メダルを受ける。そして、3位の選手の表彰が終わると、すぐ降りてしまった。表彰台で3人が並ぶ写真は撮られなかった。このことが、沢木は敗者への配慮が欠けていると見た。沢木が次のアテネで見たかったのは、アテネの表彰台での井上康生の振る舞いだったという。だが、前述のように井上康生は表彰台に上がれなかった。
しかし、沢木は、女子バレーボールや野球の会場で、他の日本選手を応援する井上康生と出会う。メダルを取れなかった故に、誰にも会いたくないだろう事は明らかだ。おそらくかなりの無理をしているにちがいない、と思いながらも、表彰台では見れなかったが、他の場所で大きく変化した井上康生を見ることができた、という話である。

…いい話だった。「私」がいかなる状況であれ、主将としての「公」としての責務を全うする…。井上康生氏は、柔道家として大きく成長し、今は日本の男子柔道監督として戦っているわけだ。ここにも武士道に生きる人物がいる。それが嬉しいではないか。

2019年1月11日金曜日

武士道と論語の対立/李登輝

http://www1.odn.ne.jp/
~ccf25350/3framseijika.htm
李登輝という台湾の元総統は、今も公人として生き抜いている、極めて武士道を体現した人物であると思う。その李登輝元総統の秘書を務めた早川氏の記事が面白かった。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15035

ものすごく簡単に要約すると、論語の「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」という一節に、中国と日本の精神に決定的な差があると、李登輝は考えているそうだ。日本人は、「死」を大前提にして限りある生の中で、いかにして自分はこの生を意義のあるものにしていくか、はたまたどれだけ公のために尽くすことが出来るかという「死」を重んじた精神性を有しているが、中国人は正反対である。めいっぱい生を堪能しようして、自己中心的な価値観や拝金主義がはびこるようになったというのだ。

…私は、日本人の精神性をPBTの学生に説くとき、やはり「武士道」を説く。武士道には、日本古来の清き明き心を基盤に、仏教の無常観や儒教の精神も含まれていると思う。日本の精神は重層的である。しかし、儒教も日本的な取捨選択が行われている。礼以上に仁や義が強調されているのは言うまでもない。

…中国古来の、本来の儒教は、廊下に「走るべからず」と書かれた注意書きのようなもので、規制しなければならなかった中国の現実があった、とは前々任校の中国通のK先生の言である。しかし、日本ではそんな注意書きを嫌う。昔の家では鍵を掛けず、「半紙」を戸に糊付けしてすましたように、他人に迷惑を掛け帝は行けないという各自の精神に訴えかけるような姿勢が、今の日本の治安の良さや落とした財布が戻ってくるような社会を形成していると私は考えている。

…同じ儒教圏でもずいぶんと異なるわけだ。まして隣国は、その儒教すら頭の片隅にないのかもしれない。あるのは、自国優位の「礼」のカインコップレックスのみ。「(日本政府は)もう少し謙虚な姿勢をもたなければならないと思う」と言ってのけた人物には、仁も義もないと言わねばならない。仁とは、相手の立場を思いやることだ。日本の精神性は、こういう相手の立場を無視した発言を最も嫌う。大阪弁で言えば「どの口が言うとんねん!」となる。義とは約束を守ることである。約束を破り、嘘をつくことを日本人は最も嫌う。ロックオン事件の嘘の上塗りには、日本人の多くは嫌悪感をもったと思う。大阪弁で言えば、「ようこんだけ、嘘ならべれんな。あほちゃうか。」これは、長年培ってきた日本の精神性だ。おそらく、隣国との関係は、政府が変わり、少なくとも仁や義をもち、礼のカインコンプレックスを振りかざすようなことをしない人物が現れない限り、絶対好転しないだろう。

…武士道を体現されている李登輝氏も、最近の隣国の動きを見て鬱勃たる想いを抱いておられるに違いない。

2019年1月10日木曜日

PBTの話(2) 3人が日本へ…

暗闇が深ければ深いほど暁は近い。(ホイットマン)住処からみた日の出前
いよいよ、F40Aの学生諸君が私大の入試のために日本へ旅だった。関西に2人、東京に1人である。この土日が試験日で、昨日まで面接指導をしていたわけだ。

昨年も入試が行われたが、日本に行く必要がない書類審査の入試やスカイプの面接入試であったので、いよいよ今日から入試本番というわけである。私費生の入試で一番大変なのは、なにより出願である。書類を用意して、コーディネーターにメールしてからFedexで送る。受験料の入金をコーディネタ-にお願いして、大学に送ってもらい、受験票を受けるまでハラハラする。この年末年始も2校分お願いした。

今年のF40Aの入試は、インターネット出願、カード決済(海外でもOK)が比較的多かったが、それでも、何かあるのでは?と心配する。最近、髪が薄くなったような気もする。(笑)日本で教師をしていた頃は、担任をするたびに白髪が増えたような気がしたが、最近は薄くなっていくようだ。

これも教師冥利なのだが、サクラさえ咲いてくれれば…と思う。日本に飛んでいった3人の奮闘を期待したい。

2019年1月8日火曜日

連続低血糖の日

今日のエントリーと関係ない住処から見た初日の出
このところ、運動(といってもバス停・3つ前から坂を登って帰るだけなのだが…。)のおかげで、ずいぶんと血糖値が下がっている。1月2日から学校が始まったが、土日を除いて順に数値を並べてみると、4.3、3.8、4.1、3.7、3.2となっている。日本式に100を指数とした場合、77.4、68.4、73.8、66.6、57.6となる。だいたい18:30くらいに帰宅してすぐ計った数値だ。このうち、昨日・今日は「低血糖」であるという評価を機械がした。(ブザーがなる仕掛けになっている。笑)

低血糖というのは、血糖値が低すぎる場合で、手がしびれたり、ふらついたりするので、高血糖もよくないが、低血糖の方が実は危ない。長年糖尿病の治療を受けているので、その怖さを私は認識している。(日本ではブドウ糖をいつも持っていた。)低血糖は、だいたい自分でわかるのだ。昨日は、授業が90分×2.5コマ、進路指導の雑務も重なって、かなりハードワークだったので、自分でも低血糖だなとわかった。しかし、今日は授業が2コマだったし、後は教材研究に勤しんでいたので、まさかの結果だった。薬が効きすぎるのか、運動のしすぎなのか?うーん。

17.2(日本式では309.6)などというとんでもない数値だったころからから見れば、大いに喜ぶべきなのだが…。

実は今日は、日本大使公邸での新年パーティーの日であった。ご馳走がならぶ中で大いに飽食できるチャンスだったのだが、血糖値が気になって欠席したのだった。日本を取り巻く情勢やマレーシアの様々な状況の中で、大使がどんな話をされるか、興味があったのだが、健康優先ということで、まあいいか、と思う。

2019年1月7日月曜日

ムハンマド5世国王の退位

https://polandball.cc/comic/sad-history-of-singapore/
マレーシアの国王であるムハンマド5世陛下が、辞任されたというニュースが流れた。マレーシアは、各州(9/13州)のスルタンが、5年ごとの輪番制で国王を務められるという世界でも類のないシステムをとっているが、任期途中(2/5年)での退位は独立以来初のことである。
https://www.bbc.com/japanese/46778337

国王がなぜ辞任されたかは、健康説やロシア人女性との結婚説などが流れているが、よくわからないし、私などが推測する立場にもない。

ただ、日本の読者には、誤解を生みそうなので解説しておくと、ロシア人女性との結婚については、イスラム教徒は多妻制であるし、男性の一神教徒(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の女性との結婚はシャリーア(イスラム法)上はOK(反対はタブー)であることを明確にしておきたい。結婚した女性がイスラム教に改宗するのはもっとOKであるが…。

ちなみに、スルタンは、各州のイスラム教徒の法(シャリーア)の守護者である。各州のカリフのような存在(ちょっと言い過ぎかもしれないが…。)で、政治的な実権はあまりない。とはいえ、マレー系の社会をささえているのは、間違いなくスルタン制であるといえるだろう。

2019年1月6日日曜日

沢木耕太郎の「銀河を渡る」4

第1部の最後のエッセイは、「足跡ー残す旅と辿る旅」である。このエッセイは、森本哲朗氏との対談から始まる。砂漠を旅した経験を語り合うのだが、ここで両者の旅は違いがいくつもあるが、沢木は「夢見た旅」であるという共通点を感じる。だが、その後、この「夢見た旅」にも2種類あるのではと思うようになったという話だ。ひとつは自分が自分の足跡を残す旅であり、もうひとつは誰かが踏み残した足跡を辿る旅…。内容が極めて面白いので、ネタばらしは、ここまでとしておく。

…私もこれまで公立高校の社会科教師としては、スタートが遅かったわりに、様々な旅をしてきた。ツアー旅行であった最初のアメリカ行やJICAにお世話になったケニア行、研修旅行の付き添いだったアイオワ州や北京などを除いて、たしかに、自分で足跡を残した旅と、誰かの足跡を辿る旅があったように思う。

…自分で足跡を残した「夢見た旅」。念密な計画を立てて臨んだNYC10日間の旅。サウスダコタやワイオミング州を回った旅もそうだ。南アフリカ・ジンバブエ行・ブルキナファソ行もそうだと思う。

…ロスからサンディエゴ、そしてR66をめぐった旅は、TVで見たR66の街・セリグマンを目差したので足跡を辿った旅といえるかもしれない。先日のパース行も、昔見た雑誌がその因となっている。一時期、アメリカ南部・公民権運動の足跡を辿ろうと計画したこともある。もし実現していればまさに足跡を辿った旅になっていたはずだ。

…ちなみに、森本哲朗氏の名前が出てくるが、森本氏の「そして文明は歩む」は、比較文明論の名著のひとつだと私は思っている。沢木耕太郎の本を読んでいると、私との属性の強さを改めて感じる次第。

2019年1月5日土曜日

沢木耕太郎の「銀河を渡る」3

https://bigcomicbros.net/comic/kimacon/
沢木耕太郎の「銀河を渡る」第1部の後半に、「心は折れるか」というエッセイがある。インド映画は、旅先で見るにふさわしい、「とりわけ旅をしていて心が折れるようなことがあったときには…」と沢木がつい映画についての一文で書いたわけだが、知人から「(沢木までもが)心が折れるというような流行のコトバを使うようになった。」という批判があることを聞かされ、しまったと思ったという話だ。この表現はいまだ熟していないという懸念を沢木が抱いていたからだ。とはいえ、コトバとして正統な佇まいがあるような気がしており、なんとなく気になる表現であり続けていたという。

その後、ビッグコミック・スピリッツのホイチョイ・プロダクションズの「気まぐれコンセプト」の中で、面白い話に出会う。「最初はグー」というじゃんけんのかけ声は志村けんがやりだしたという。さらにセックスを「エッチ」と言い出したのは明石家さんまであること、そして「心が折れる」という表現を使ったのは女子プロレスラーの神取忍だと書いてあったらしい。沢木は、神取忍ではなく、すでに誰かが有名な作家が使っていたような気がしてならなかった。1ヶ月後、いつものように「中国詩人選集」をアトランダムに選び、旅に出た。今回は「杜甫」だった。「冬至」という詩を読んでいるとき、その「心が折れる」という字句を発見するのだ。

『心折此時無一寸』(心は砕けてこの時 一寸も無し)

心が折れるという表現を使っていたのは、唐の大詩人・杜甫だったのだ。(翻訳では折れるとは訳されていないが、折れるのほうがふさわしいような気がすると沢木は書いている。)流行のコトバは、すでに1250年前に使われていたというお話である。

…実に面白いエッセイであった。「気まぐれコンセプト」は昔、私もよく見ていた。テニスに行くには、フォルクスワーゲンの赤いゴルフで行かなければならない、などという(広告)業界人のコンセプトというか蘊蓄が載っていて、なるほど…と思っていたりした。沢木も目を通していたのが面白いし、深夜特急以来「中国詩人選集」を旅に持っていくというルーティーンを維持していたことも、実に面白い。

沢木耕太郎の「銀河を渡る」2

Kindle版の合本がでたらしい
沢木耕太郎のエッセイ、少しずつ噛みしめるように読んでいるのだが、第一部「鏡としての旅人」をついさっき読み終えた。いやあ、面白い。1つひとつは短文のエッセイなのだが、深く印象に残るものだ。ちょっとずつ紹介したい。

タイトルになっている「鏡としての旅人」は、沢木が「深夜特急」で香港・マカオや東南アジアを旅したことが、若い日本人にとって、これらの地域がオヤジたちが企業戦士として戦っている場であり、買春ツアーの目的地から、「旅する場所」に変化したことについて書かれている。

閉話休題。沢木はこんな風に書いている。「アジア、とりわけ東南アジアは、どこに行っても食事に困らないだけでなく、長く旅をしていても精神的に追い詰められることがなかった。多くの人がいる気配が心を安らかにさせてくれたし、彼らの根本的なやさしさが旅を続けていく勇気を与えてくれた。」…今、マレーシアにある私にとって、まさに皮膚感覚で納得できる文章だと思う。

そして、私たちが旅する土地としてのアジアを発見したように、今アジアの人たちが、旅する土地として日本を発見してくれている。彼らが感動するのは、日本人にとってはなんでもないこと、清潔、親切、美味しいといったものに心を奪われているようである。日本の政治家は依然として沸騰するアジアの中心にいたいと願っているらしいが、所得倍増計画が出た1959年の同じ正月の新聞に、三島由紀夫のエッセイが載っていたという。「世界の静かな中心であれ」沢木は、三島に同意するわけだが、その静かな中心とは何か?それは、アジアから来る「鏡としての旅人」に正面から向き合うことで何かが見えてくるのではないか?と結ばれている。

…さすが、第1部のタイトルにされているエッセイである。沢木もこのエッセイを気に入っているのであろう。私は、今、沢木のいう「鏡としての旅人」を毎日育成しているわけだ。そして日本が、三島の言う「世界の静かな中心」となることに私も大いに賛成だ。

2019年1月4日金曜日

PBTの話(1) 柿食えば…

1月2日からPBTは、というよりマレーシアの学校は授業である。F42の国費生には、日本の都道府県の紹介をしている。最初に、その県の国立大学の文系学部の紹介なども入れている。今日は、D・Eクラスとも、近畿地方をやっていた。同じ古都でも、京都の雅とちょっと地味な奈良の違いなど、面白おかしく教えたりしていたのだが、奈良の最後に有名な俳句も紹介した。

正岡子規の「柿食え(へ)ば、鐘が鳴るなり 法隆寺」である。

以前、宮城県で、松尾芭蕉の作とされていた「松島や ああ松島や 松島や」も、あまりの美しさにコトバにならない事を歌っているのだ、などと、紹介したが、こちらの方が俳句らしい。問題は、日本語中級のはじめの学生に理解させることである。うーん。

で、私はこう説明した。柿(味はパパイヤに似ている)を食べていると、鐘の音がする。ああ、法隆寺(木で出来た建物としては世界一古いお寺)の鐘の音だな、いいなあ。という俳句なのだ。うーん、マレー系でムスリムの学生には、ピンとこないようだ。もっと具体的に説明しなくては…。

ドリアンを食べていると、アザーンが聞こえてきた。なかなか上手いアザーンだ。ああ、ブルーモスクのアザーンだな。

ドリアン食えば、アザーン聞こえる ブルーモスク (575ではないけれど…。)

みんな、なるほどという顔をしていたのだった。(笑)こんな感じで授業が進んでいく。

2019年1月3日木曜日

帝京大ラグビー部 敗れる。

https://www.asahi.com/articles/ASM12552VM12UTQP013.html
帝京大のラグビ-部が、大学選手権10連覇を目差していたが、準決勝で天理大に敗れた。私も、帝京大学グループの一員であり、そもそも帝京大学ラグビー部のファン、それもFBの竹山のファンであったので、極めて残念である。

大晦日に、準々決勝の試合をYouTubeで見た。完勝であったので、今年も行けると思っていた矢先のことだ。しかし、現実は無常である。10連覇という偉業はならなかったが、それもまたラグビー。結局強い者が勝つのがラグビーである。監督が敗戦後語られたように、相手が上、強かったから、というのがラグビーである。ラグビーの試合には、奇跡は起こらない。ただ単純に、強いか、弱いかである。

帝京大学は今年敗れたが、新たにスタートを切る。ひたすら強くなるために。次の戦いに向けて…。いいなあ、ラグビー。これからも応援したい。

追記:サッカーの全国高校選手権で、なんと秋田商業高校がベスト8に進出してることを発見した。こちらも応援したい。頑張れ、公立の星・秋田商業高校!

2019年1月2日水曜日

沢木耕太郎の「銀河を渡る」

https://www.catsthemusical.com/broadway/sample-page-2/
昨年末に、東京のT先生からお土産として頂いた沢木耕太郎のエッセイを読み始めている。やはり沢木耕太郎はいい。第一部は、「鏡としての旅人」というタイトルで「*歩く」とある。面白かったエッセイばかりで、書評の書きようがないくらいだ。

あるエッセイで、ニューヨークの「ウィンターガーデン」という名前が突如として出てきた。ブロードウェイの有名なミュージカルの劇場である。私もここで、「CATs」を見た。その他にも、イメージが出来る地名がたくさん出てくる。それだけ私も、沢木耕太郎の背中を追って旅してきたのか、と思う。

今、また何処かへ夫婦で行きたいな、と思っている。パースの次はどこにしようか、というわけだ。実は血糖値はかなり正常に戻っているものの、昔のように元気はつらつではない。途上国の旅は、なんとなく辛くなってきているのだ。それだけ歳をとったのだろうと思う。
…この本を読んで、沢木耕太郎の背中を見ながら、じっくりと考えるとするか。

2019年1月1日火曜日

マレーと日本のジレンマ

新年明けましておめでとうございます。2019年になった瞬間、マレーシア・KLでは、またまた花火大会が住処の窓から見渡せました。「行く年くる年」、除夜の鐘ゴォーン…といった、無常観は当然ありません。(笑)今年は、愛機G1Xに、花火モードがあるので撮ってみましたが、シャッタースピードが遅いので、手ぶれしてしまいました。幸い、10分ほどで、この花火大会は終わり就寝することができました。(旧正月はもっとアトランダムなので、安眠妨害状態になります。笑)

ともかくも、3回目の新年をマレーシアで迎えました。マレーシアでは昨年5月に政権交代があり、マハティール氏が復帰しました。マレーシアの最大の懸念は、やはりブミプトラ政策であるようです。先日、国連人種差別撤廃条約の批准をめぐって、マレー系の人々が反対を唱え、かなりの規模の反対運動が起こりしました。マレー・ジレンマは未だ健在です。このブミプトラ政策は、人種差別に当たるのかは難しいところです。(選挙権は各民族平等ですので…)これを改訂するとすれば、憲法10条や153条を改正する必要があり、これにはスルタン会議の承認が必要です。いわば、国家のカタチにも関わる問題であります。非常に難しい、また微妙な問題です。

一方、時差1時間の日本でも、ジャパン・ジレンマが大きな問題になっています。北朝鮮さらに迷走する韓国、国益優先の米国と中国とどう関わっていくのか。どうしても軍事的な問題を考慮せざるを得ません。憲法第9条の平和主義は日本の国是であることは間違いありません。とはいえ、嫌韓的な世論が盛り上がっていて、どう動くか先が見えないという危惧があります。政治的にはど真ん中でマレーシアにある私としては、静観するしかありませんが…。

さて、今上陛下が5月に退位されます。今上陛下は、明治天皇が「五カ条のご誓文」通りに自らを律されたように、日本国憲法下の象徴天皇の意味を深く思慮し、皇后陛下と共に行動に移されてきた素晴らしい天皇だったと私は感じています。皇太子殿下も、その意志を継がれるとは思いますが、実は私は、5月に天皇の在位空白期間が生まれることを危惧しています。象徴と規定されているとは言え、天皇は日本の事実上の国家元首です。あらゆる組織で言えることですが、長が不在になる時が最も危険だと思うのです。何事もないことを心から祈ります。
オーストラリア・パースにて ウォンバットと共に
ともあれ、日本・マレーシアをはじめとした世界の平和、東アジアの平和、アフリカの平和と持続可能な開発の進展、読者の皆様の今年のご多幸を、心から祈念して新年のご挨拶とさせて頂きます。