2019年1月25日金曜日

沢木耕太郎の「銀河を渡る」6

沢木耕太郎のエッセイ集、朝の650番のバスで少しずつ読み続けている。今は第4部「いのちの記憶~暮らす」である。短いエッセイのひとつひとつが、…面白い。

沢木の仕事場と自宅の徒歩通勤の経路にある小さな今川焼きの店の話を描いた「この季節の小さな楽しみ」。父の葬儀(密葬)の際に、焼香に来た婦人が、亡父が子供にエレベーターでいつも声を掛けてくれたと語る逸話と、沢木がエレベーターで宅急便の若者に「頑張って」とかけた一言に、帽子をとって軽く会釈しながらの「ありがとうございます」という一言。それで気持ちの良い朝を迎えれた喜び。父子のエレベーターでの「ひとこと」が、不思議にクロスオーバーする「ありきたりのひとこと」。

中でも、第4部のタイトルにも鳴っている「いのちの記憶」は、いろいろ考えさせられるエッセイだった。子供の頃、父親に「明日の朝起こしてくれる?」と頼むと、必ず起こしてくれた。食べ盛りの頃、母親は、おかずがなくなると自分の皿から移し「食べなさい」と言ってくれた。そして、今、親になり自分の娘に同じようなことをしているとふと気づく話だ。沢木は、これを親の義務だとは思わない。ごく普通に「時間」や「食物」を削っている様は、自分の「いのち」を削っているに等しい。しかしそれは「喜び」である。この親から「いのち」を削ってもらった記憶は、「いのち」の連鎖である。これが、虐待などで途切れたら、人間にとって何よりも大切なはずの「いのち」の連鎖もまた途切れてしまうかもしれない、と沢木は結んでいる。

…親不孝者だった私だが、こういう親の恩をふと思い出すことがある。年齢的には「白秋」といえるかもしれない私は、両親をすでに見送っている。もう、どうあがいても親孝行はできない。だからこそ、染み入るエッセイだった。(今日の画像は、沢木が亡父を描いた作品/無名)

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