2019年1月11日金曜日

武士道と論語の対立/李登輝

http://www1.odn.ne.jp/
~ccf25350/3framseijika.htm
李登輝という台湾の元総統は、今も公人として生き抜いている、極めて武士道を体現した人物であると思う。その李登輝元総統の秘書を務めた早川氏の記事が面白かった。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15035

ものすごく簡単に要約すると、論語の「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」という一節に、中国と日本の精神に決定的な差があると、李登輝は考えているそうだ。日本人は、「死」を大前提にして限りある生の中で、いかにして自分はこの生を意義のあるものにしていくか、はたまたどれだけ公のために尽くすことが出来るかという「死」を重んじた精神性を有しているが、中国人は正反対である。めいっぱい生を堪能しようして、自己中心的な価値観や拝金主義がはびこるようになったというのだ。

…私は、日本人の精神性をPBTの学生に説くとき、やはり「武士道」を説く。武士道には、日本古来の清き明き心を基盤に、仏教の無常観や儒教の精神も含まれていると思う。日本の精神は重層的である。しかし、儒教も日本的な取捨選択が行われている。礼以上に仁や義が強調されているのは言うまでもない。

…中国古来の、本来の儒教は、廊下に「走るべからず」と書かれた注意書きのようなもので、規制しなければならなかった中国の現実があった、とは前々任校の中国通のK先生の言である。しかし、日本ではそんな注意書きを嫌う。昔の家では鍵を掛けず、「半紙」を戸に糊付けしてすましたように、他人に迷惑を掛け帝は行けないという各自の精神に訴えかけるような姿勢が、今の日本の治安の良さや落とした財布が戻ってくるような社会を形成していると私は考えている。

…同じ儒教圏でもずいぶんと異なるわけだ。まして隣国は、その儒教すら頭の片隅にないのかもしれない。あるのは、自国優位の「礼」のカインコップレックスのみ。「(日本政府は)もう少し謙虚な姿勢をもたなければならないと思う」と言ってのけた人物には、仁も義もないと言わねばならない。仁とは、相手の立場を思いやることだ。日本の精神性は、こういう相手の立場を無視した発言を最も嫌う。大阪弁で言えば「どの口が言うとんねん!」となる。義とは約束を守ることである。約束を破り、嘘をつくことを日本人は最も嫌う。ロックオン事件の嘘の上塗りには、日本人の多くは嫌悪感をもったと思う。大阪弁で言えば、「ようこんだけ、嘘ならべれんな。あほちゃうか。」これは、長年培ってきた日本の精神性だ。おそらく、隣国との関係は、政府が変わり、少なくとも仁や義をもち、礼のカインコンプレックスを振りかざすようなことをしない人物が現れない限り、絶対好転しないだろう。

…武士道を体現されている李登輝氏も、最近の隣国の動きを見て鬱勃たる想いを抱いておられるに違いない。

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