2017年11月29日水曜日

新しい電子レンジ

日本に一時帰国する前に、我が住処の電子レンジが故障した。動いているのだが、ちっとも暖かくならないのである。電子レンジがないと、お米を炊いた後の残り(適当な分量にわけて冷凍しておくことになっている。)を暖めることが出来ないので、妻は非常に困っていた。大好きな桃太郎の天ぷらうどんを作ることも不如意である。日本から帰ってきて、コーディネーターのJさんに見て貰ったら、「これダメね。オーナーに連絡して新しいの買ってもらうね。」と少しばかり助詞の少ない日本語で答えてくれた。

で、今日、新しい電子レンジが入ったというわけだ。マレーシアのコンドミニアムは、家具や電化製品などオーナーの趣味で揃えられている。これまでは、中国だか台湾だかわからないが、中国語表記主体(一応英語表記も小さく書かれている)の電子レンジで、なんとなくチャチな感じがしたが、今回はシャープである。おお、日本製といいたいところだが、台湾資本になっているし、そもそも生産国はどこだか解らない。(笑)とはいえ、前よりはるかに電子レンジらしい。(画像参照/上にあるのはK先生よりいただいたフィリップスのオーブン・トースターである。)

せっかくなので、最近の生活の改善状況も記しておくことにする。一時帰国した際に、枚方のイズミヤで「のれん」を買ってきた。キッチンの入り口にかけてある。料亭みたいで私は気に入っている。(本日の画像参照)ダイニングテーブルにも、NSK(業務スーパー)で購入した「ランチョンマット」があって、これまた高級感がある。のれんもマットも高価なモノではないが、なんか心が豊かになる。

今日も忙しかった。始業前から国立のS大学の経済学部のための面接指導。面接を受ける本人も大変だが、担任の気苦労も人一倍である。まあ、こういう気苦労こそが担任の醍醐味であるわけだ。そして、様々な気苦労を回復してくれるのは、落ち着ける我が住処という生態系になっている。

2017年11月28日火曜日

IBTの話(143) 偶像崇拝

マスジット・ジャメ http://kuala-lumpur.seesaa.net/article/287197626.html
哲学講義は、A・B両クラスともアリストテレスまで終了した。次はヘブライズムなのだが、4月にすでに教えている。しかもマレー系ムスリムのB組では、釈迦に説法というか、そんな感じである。モーセの十戒のところで、ちょっと私から「偶像崇拝」について質問してみた。(シナイ山を下りてきたモーゼが偶像崇拝するユダヤ人に激怒する話からだ。)

たとえば、「キティちゃんのぬいぐるみは、偶像崇拝になるのか否か」?大多数の学生の回答は、「子どものおもちゃとしてならば問題はない。」…なるほど。ならば、「キティちゃんが大きく書かれたTシャツなどはどうか?」これも大多数の学生の意見は、「普段着としては問題ない。(ただし、彼らはそういう柄の服装はほとんどしない。)」ではと、私が質問した。「マスジット(=モスク)・ジャメ(KLで最古のモスク)の入り口に、人の顔や動物などが書かれた衣服での入場禁止と書かれていたが、偶像崇拝ではないのか?」これに対し、数人の学生の意見。「モスクにおいては礼拝の集中を妨げるが故に禁止されている。」…なるほど。では、「(礼拝中に最も視界に入る)背中にそのような柄があったり、おしりに書かれていたり、靴下の裏なども、そのような柄は禁止か?」「当然である。(笑)」

まるでシャフィーイ派法学のフィクフを聞いているような感覚である。この時ばかりは私と学生の立場が完全に逆転である。(笑)ソクラテスの無知の知を語った後だし、イスラム理解は、疑問点を学生に聞くのが最も早いのだった。

2017年11月27日月曜日

IBTの話(142) 大車輪

EJUが終わっての2週間のスクールホリデー明け初日である。今日は変則的な時間割で、1限目が我が担任の私費生のA組、3・4限目が国費生のB組。今年も哲学講座の開幕である。(以前からの学生の希望である。)センター試験対応ではないし、大学の教養で哲学をとっても差し支えないようにするという程度の基本ポリシーなので、一気に進めていく。哲学の命題は、自然・社会・自己自身という3つあるという話から始めて、1コマだったA組は、ソフィストのプロタゴラスまで、50分多い2コマのB組は、ソクラテスまで終わった。途中、ギリシア神話ではエディプス神話とエディプスコンプレックスを教えたりしたのだった。(心理学をやりたいという学生を減らすために、EJUが終わるまで教えなかったのだ。特に国費生は心理学希望者が多いが、もう既に志望先は決定している。)かなりのスピードの講義ではある。

これに5限目は、日本語の研究発表の準備で、会議のあるK先生に代わって私がA組に入った。入試で日本に行ってまだ帰国途上の学生もいるので、全員が揃っているわけではない。とにかくこれからの準備を進める上での計画を立てさせることを主題にした。特に西郷・大久保・龍馬組などは、かなり日本史を教えておかなくてはならない。少しばかり講義した。かなり大変だと思う。一方、スクールホリデー中の2週間、よく調べてきている班も多々あったりして、なかなか期待大である。特に、新渡戸・杉原千畝班などは、日本語大好きのI君が、私が貸してあげた新渡戸稲造の名著「武士道」(岩波文庫)を読破してくれていたりする。

と、いうわけで、今日は4/5コマの授業だったわけだ。大車輪というタイトルは、そういう状況を表現してみた。

ところで、今日は休み明け故にクラスの学生から様々な報告を受けた。予想外に早く私大の合格通知がきたという嬉しい報告や、一方で書類が間に合わなかったのでD大の受験が不可能になったという心臓に悪い報告もあったし、合格した私大への申請書類の質問もあった。就職活動の報告もあったし、明後日に渡日する国立のS大学に、11月のEJUの結果を成績登録する旨の連絡(国際電話とメール)も送って話をつけた。さらに別の国立のS大学の特別入試が今日から始まり、その指導にも追われた。と、いうわけでゆっくり休憩する暇もなかったわけだ。追い打ちのように、卒業文集や私費生の卒業式の歌の係も決めなくてはならなかったし、日本から妻が送った荷物も届いたりと、いやあもう大変。(笑)

身体は大いに疲れたけれど、楽しい一日だった。妻の手料理に舌鼓を打ちながら、そんな風に振りかえれること自体が幸福なような気がする。

2017年11月26日日曜日

1ケ月ぶりのブキッビンタン

ブキッビンタンは、KLの繁華街である。大阪で言えば、梅田・なんばといった処である。用事があったので妻と行ってきた。ブキッビンタンへは、自家用車のない我が家としては、タクシーが最も便利である。だいたいRM17、15分ほどで着く。私たちは住処のあるタマンデサからしかタクシーは使わない。理由は簡単で、ブキッビンタンやKLCCなど観光客の多い地域から乗ると、変な運転手にあたることがあるからだ。

「グラブ」というタクシーより便利だと言われている一般車を使うシステムもある。一応、スマホにアプリは入れているけれど、私はもちろん、妻も使いこなせていない。(当然全て英語である。邪魔くさいのだ。笑)タクシーを使わないとすると、公共交通機関しかない。帰路、モノレールでKLセントラル駅まで行って、650番のバスを待つというのが、これまでの定番だった。モノレールはいつも混雑しているし、本数も少ない。KLセントラル駅近くのバス停も少しばかり離れていて、炎天下の場合なかなかつらいのだった。しかし、MRTが開通してからは、一気に便利になった。ブキッビンタンの地下駅からパサ・セニと発音するバス・ステーション(650番を始め多くのバスの始発地)まで2駅。本数も多いし、快適だ。ある出口を使うと、650番のバス乗り場そのものに出る。ずいぶんと楽になったのだ。

ところで、ブキッビンタンに出ると、最近はパビリオンというモールの地下のフードコートに寄ることになっている。美味しくて、安価で、しかも明るい雰囲気で妻共々気に入っている。パビリオンでは、まだ11月なのに、(もっと言えばイスラム国家なのに)すでにクリスマスの飾り付けが美しい。KLの各モールは、こういう季節の飾り付けが大好き。見応えがある。(クリスマスが終わると、新年の干支、さらに中国系の旧正月の飾り付けに代わるはずだ。)
と、いうわけで、今日のランチは中華粥をチョイスした。(上記画像参照)よく考えると、2日連続である。(笑)このお粥屋さんは、揚げパン(妻によると大豆が原料らしい)・豆乳とセットでRM9.9。実に美味であった。マレーシアで食したモノの中で十指に入ると私は思う。

2017年11月25日土曜日

街も政治も生き物である。

街は生き物である。日本でも1年ぶりに帰ってみると、新しい店が出来ていたり、新しい住宅が出来ていたりすると共に、つぶれた店もあったりする。我がタマンデサでも、来て早々にお世話になったフードコートの中華粥屋が閉店してしまい、妻が来てくれたから良いものの、単身なら大いに困っているところだった。

最近(といっても8月くらいだと思うが…)、同じ場所で新しいお粥屋が営業を始めた。前よりRM0.5高いのだが、これがなかなか綺麗に盛りつけしてくれて、しかも量も多いので、妻とよく食べに行くようになった。私はピータン、妻はゆで卵のチョイスである。(画像参照)カメラが故障中なので、なかなか写真が撮れずにいたのだが、今日、妻のバカチョンデジタルルカメラで撮ってみた。やはり、自動的にフラッシュをたいたりするので、写真的にはあまり気に入らない。(笑)

ところで、政治も生き物である。ついにムガベが大統領の座を降りた。見事な無血クーデターであり、マリの外相が言うように「アフリカの政権交代の新しいカタチ」となった。

そのアフリカに対して、とんでもない発言をする日本の政治家もでた。隣の選挙区の議員がアフリカとの友好議員連盟に参加していることを来賓挨拶の中で(おそらくはサービス精神の軽口だと思われるが)「なんであんな黒いのが好きなのか」という発言をしたらしい。この議員、大蔵官僚から何度も落選しつつ結局自民党に復帰し大臣にまでなっている。この程度の知性の輩が日本の政治を動かしているのかと思うと情けない。東大の法学部卒らしいが、学歴と人格は関係がないようだ。アフリカに学ぼうとする私からすれば、とんでもない暴言であり、到底ゆるせないものだ。差別的感情はついつい軽口からでる。差別感情はないという謝罪の言葉は絶対ウソだ。

そんなこんなで、長かったスクールホリデーが終わる。いよいよ月曜日から授業再開である。

2017年11月24日金曜日

「知立国家イスラエル」を読む

日本に一時帰国したとき、息子からまだ読んでいないけれど先に読むか?と託された本が3冊あった。その一冊が長々とエントリーした中田考氏の「帝国の復興と啓蒙の未来」である。残りの二冊は松山洋平「イスラーム思想を読み解く」と佐藤優の「集中講義 民族問題」であった。結局、この二冊はパラパラと斜め読みして終わってしまった。ところで佐藤優の本の同時新刊の広告に、この「知立国家イスラエル」(米山伸郎/文春新書・本年10月20日発行)が載っていたのである。タイトルに大いに惹かれたので、アマゾンで注文し、帰国時の機内で読み始めた。エアー・アジアXは、全くエンターテーメントがないので、読書するか睡眠しか選択肢がない、修行のようなフライトである。(笑)しかも、この本、第一章は全く面白くないのだ。第二章はちょっと面白くなり、第三章で初めて購入してよかったと思える本である。新刊なので、あまり詳しく書かないほうが良いと思っているのだが、少しだけ内容をエントリーしておきたい。

イスラエルには徴兵がある。実際イスラエルに行った際にも、多くの高校生は徴兵があるゆえにあまり勉強しないと聞いた。しかし、上位の人間は全く違うようだ。5万人の同学年の生徒の記憶力、繊細さ、知性、性格を測定するための計量的心理テストと知能テストが行われ、56段階に振り分けされるとのこと。これに体力試験を含め、97段階に分類され、パイロットなどになるにはトップの97になることが必要とされる。軍は、この結果を踏まえ、各人にいくつかの配属先を提示し選択させるらしい。極めて合理的なシステムになっている。

ところで、理工系の最優秀な30人ほどはタルビオットと呼ばれる最先端軍事技術を学ぶプログラムに送られる。彼らが軍の中で教育を受け、さらに高度な専門分野を学び、イスラエルのIT技術(国防だけでなく、民間の技術も含めて)を支えており、起業してGDPを稼いでいる。また、8200部隊というサイバー諜報活動に入るエリートもいる。
これらのエリートをイスラエルはうまく抽出し、育て、国防にも経済にも活用しているわけだ。結局、国家を支える一握りのエリートを育てる能力というのが、国家の存立に関わるという極めて分かりやすい例だなと思う次第。

2017年11月23日木曜日

夏のクアラルンプルへ戻る。

無事一時帰国を終えて、渡馬してきた。正直なところ、日常と非日常がが逆転し、こちらのほうが落ち着くのである。とはいえ、冬から夏へまたまた戻ったので、体調が心配。

ところで、今回の一時帰国で食したものは、マレーシアでは食べれないものばかり。まず卵かけご飯。(こちらの生卵は食せない)王将の餃子と五目麺(中華料理は豊富だが、日本人にやはり合うのは食べ慣れた王将である)大阪人としては、たこ焼き・イカ焼き。(お好み焼きは普段から妻の手料理で食している)それに枚方名物の御座候の大判焼き。鰻丼(こちらでも食べれるが極めて高価である)、寿司(ヒラカタのTサイトで食した。本当の日本式はKLではかなり高価)とお刺身。ゴボウ天・ごま豆腐・卵豆腐(こっちのはあまり美味しくない)。それにきつねうどん(関空で最後に食べた)。まあ、以前日常的に食していたフツーのモノばかりだが…。妻の方は、息子夫婦と「鮒寿司」と、かなり高価な大吟醸を楽しんでいたのだが、私は飲めないし食べれないので遠慮したのだった。(笑)

今日の画像は、行きに妻が息子夫婦に購入したバクのぬいぐるみ2体のうち小さい方(結局我が家の土産になった)。と、関空で購入したガーナ産のミニ・シャンベ。意外に安くて3000円くらい。妻はここの店(一村一品マーケット)が大好きである。それとKLIA2の空港で買った1mmのメビウス(街では売っていない。マレーシア特有?のどえらい写真付き)。街で買える最も軽いタバコは3mmのライトブルーのメビウスである。

2017年11月22日水曜日

冬のヒラカタ

ヒラカタのTサイト(G12で撮った写真)
今回の一時帰国についてエントリーしようと思う。タイトルを「冬のヒラカタ」としたのは、晩秋ながら冬のような寒気に見舞われたからである。ちょっと森進一の歌もイメージした。(笑)

前半は、3日連続で枚方市駅にバスで出かけた。市役所に行って、友人の見舞いに行って、糖尿病の病院に行って、歯医者に行って、CANONのサービスセンターに行くためである。その後J堂に行って荒熊さんの新刊本を購入。

IBTのOB/OGと前任校のA君
一日休憩をとって、土曜日にIBTの国費生で近畿圏にいる神戸大・滋賀大のOB・OGのメンバーと、たまたま大阪に来ていた静岡大のOB、前任校で今年奈良県立大に合格したA君と合った。私を入れて8人で京橋のカラオケに行ったのだった。女子学生はみんなカラオケが苦手なようだったが、A君を含めた男子学生3人がうまくリードしてくれて、楽しい時間を過ごせた。印象に残った曲。国費生が卒業式で歌った「オレンジ」。A君が浪人時代の気持ちを歌い上げた「笑顔でいられれば」。N君が歌った「大阪LOVER」。…なんでこんな歌知ってるんや。最後は、今や日本を代表する名曲「世界に一つだけの花」でしめた。

同窓会のホテルから生駒を望む
日曜日は高校の同窓会だった。妻と阿倍野へ。高層階のホテルで豪華な還暦の同窓会であった。内容は個人情報の固まりなので、笑い話を1つ。小学校からの付き合いのMちゃんが、ウーロン茶を頼んだので、私も「Me too」と思わず言ってしまった。マレーシアではフツーであるが、なんと水が出てきたのだった。「ミーツー」が「ミズ」になったのだった。(笑)

月曜日は、夜に駅前の店で、前々任校のOG2人と合った。二人ともここ1年で結婚して近隣に住んでいる。本人達の近況と、前々任校の卒業生たちの近況も聞けた。2人とも幸せそうで安心するとともに、心配な卒業生もいて、Gメールをくれると嬉しいなと思う。

一時帰国に際して、会いたいと思っていた先生方、友人や教え子もまだまだ多いのだが、昨年は風邪を引いて寝込んだので、今回は事前にメールで会う約束をしていたメンバーに絞った次第。来年は、空港まで送りに来てくれた前任校メンバーをはじめとして、いよいよ大学4回生になる。すでに、日本で使っていた携帯電話は破棄していて連絡も取れないので、彼らにもGメールを送ってくれることを期待したいと思う。

2017年11月21日火曜日

Canon G12との別れ

マレーシアの独立記念日(8月)前に、愛機G12 が故障して、中古のG12をヤオフクで落札したのだが、手にした翌日ディスプレイがすぐに映らなくなってしまった。で、Canonサービスセンター大阪に持っていって、修理を依頼したのだが、結局部品がなくて、修理不可能というメールが入った。あ~あである。

そのまま返却するか、新しいG12 以外のカメラと交換するという選択が示された。修理に出したG12は撮影と画像の保存は可能だが、全てのメニューが使えそうにない。

2種類あった交換機で、私が選んだのは、PowerShot G1X MarkⅡというカメラである。普通に買うと、5万円以上するのだが、27000円で手に入るようなので、究極の選択で交換を選んだ。まあ、結局、G12の代わりにこれを買ったのと同じくらいの負担になった。あまりカメラのことは詳しくないが、G12の後継機である。実際に手に取ったのは、サービスセンターから帰る時くらいで、特に好印象はないのだが…。
3ヶ月後か半年後に、妻が次に一時帰国した後、マレーシアの私の元に来る予定だ。それまでは、妻が日本に置き去りにしていたバカちょんデジタルカメラを使うことになった。ブログの画像を撮るにはまあなんとか…。

帝国の復興と啓蒙の未来(8)

ルソーの社会契約論
https://www.amazon.com/
Du-contrat-social-
Principes-politique/
dp/1549767127
「帝国の復興と啓蒙の未来」備忘録、いよいよ最終エントリーである。中田氏は、西欧的人権について、イスラーム法学者の立場から批判している。イスラーム法は属人法であるが、普遍的とされる西欧の人権は、他の文明圏への押しつけでしかないと。

ここでルソーの「社会契約論」が引用されている。
(ユダヤの法と)10世紀ものあいだ世界の半ばを支配してきたイシュマエル(アブラハムが奴隷に生ませた子である。イサクの義兄弟に当たる:アラブ人の祖とされる)の子(=ムハンマド)の法は、これらを制定した人々の偉大さを、いまなお告げている。そして高慢な哲学者や盲目な党派心をもつ輩は、これらの法律を制定した人々は幸運な山師にすぎないと考える。しかし真の政治家はこうした制度のうちに、永続的な事業を司る偉大で強力な精神の現れをみいだし、称えるのである。

…ルソーは、一般意志という概念を主張していることで有名だが、人間に法を与えるのは神でなければならない。と同じ「社会契約論」で述べているとのこと。この辺の感覚は私にも理解できる。一般意志と神定法であるイスラーム法は共通点が多いと思われる。

この中田考氏の著作の帯には「読み終わったとき、もっとも危険な世界史が見えてくる。」とある。中田考氏の著作を読み込んでいる身には、あまり帯コピーのような実感はないのだけれど、(初めて中田考氏を呼んだ方には)決してウソではないと思う。

2017年11月20日月曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(7)

モーセが批判した偶像
https://world.wng.org/2014/
03/remembering_god
_is_god_and_we_are_not
「帝国の復興と啓蒙の未来」の備忘録の続きである。中田氏は、「カリフ制の再興」を主張するイスラーム法学者であるから、当然この「帝国の復興と啓蒙の未来」の結論もまた、領域国民国家への否定である。この本のタイトルの「帝国」とは、カリフ制のイスラーム帝国を意味する事は明白だし、「啓蒙」とは、一神教から脱したキリスト教世界の欧米・領域国民国家を意味する。

前回のエントリーの後、さらに正教的ロシア世界と儒教的中国世界に於けるイスラームと関連の歴史、さらにオスマン帝国でカリフ制の崩壊を説き、現在の世界状況について、イスラームの側からの意見を述べている。面白かったのは、中田氏が梅棹忠夫(「文明の生態史観」を書いた著名な文化人類学者)や田中明彦(前JICA理事長で「新しい中世」を書いた国際政治学者)を引用していることだ。スタンスはともあれ、一流の学者は、やはりわかり合う部分が多いのだろうと思う。

ところで、中田氏の領域国民国家批判は熾烈である。またまたトインビーの登場である。ナショナリズムこそ、ヒューマニティーに立脚する西欧の啓蒙プロジェクトが抱える最大の矛盾、病弊でありイスラームこそがその処方箋になることを半世紀以上前に見通していたのはトインビーであった。「歴史の研究」の中で文明の衰退の原因を分析し、自分でつくった偶像の奴隷となり、選択の自由を失うこととしている。キリスト教だけでなくすべての高等宗教の教えに反する領域国民国家を崇拝するナショナリズムという偶像崇拝が、世界中で実際の人々が奉じている宗教になっている。このナショナリズムという偶像崇拝の悪魔的邪教は有史以来の21の文明のうちの14~16の滅亡の原因であったばかりではなく、今日ではデモクラシーの名を繕う国家主義の形を取ることによって、歴史上かつてないほどに戦争を残酷なモノにしており、真に人類の文明にとって重大な脅威になっている。
トインビーは、このように述べていて、今は眠っている汎イスラーム主義の覚醒に期待していたようだ。

…反ナショナリズムの議論の引用としては、これ以上の引用はあるまいと思う。なんといっても大歴史学者・トインビーである。トインビーがナショナリズムを一神教に於ける最大のタブーの1つである「偶像」という語彙で表現しているのが凄い。

NHK 龍馬最後の30日を見る。

NHKスペシャルの「龍馬最後の30日」を見た。越前藩に残された最後の龍馬の手紙を元に作られたフィクションだが、史実になかなか忠実で、見応えのある内容だった。

龍馬暗殺は未だに謎が多く、見廻組の仕業というのが一応の定説だが、このフィクションでは、山内容堂の陰謀説を採っている。たしかに、龍馬の思惑であった大政奉還を成し終えた段階で、武力倒幕をめざす薩長にとっては、龍馬のスタンスは邪魔であったに違いないし、幕府と薩長両者の中間的存在だった土佐は、旗幟を鮮明にする必要があったはずだ。しかし、龍馬暗殺(1867年12月10日)直後の小御所会議(1968年1月3日)で、山内容堂は、薩長は、慶喜の官職辞職と幕府の減封に対して反対しているので、(結局土佐は薩長側に寝返るが…。)私としては、少しばかり納得は行かない。薩長の可能性もあるし、佐幕派の線もありうる。

船中八策(これも歴史学上、謎が多いらしい)の先進性は、このドラマでも最後の松平春嶽の回想にあるように、極めて突出していたと思われる。ただし、西郷は下級武士による下院的な議会構想をもっていたらしいし、多くの先進的な志士の考えをまとめたものであるといえる。龍馬だけが、背負っているものが藩ではなく海援隊だけだったわけで、自由に発想し動けたわけだ。「どいつもこいつも頭が固うて自分が得することしか考えていない。」という台詞は、よくわかるけれど当時としては当然の話である。

いずれにせよ、春嶽のところにあった自転車(ビラスビイデ独行車)に龍馬が初めて乗り、春嶽も乗るというシーンはこのドラマの象徴的なシーンであると思う。この名君は幕末では特に魅力的な人物だが、情に厚いが故にこの時代をリードできなかったのかもしれない。ある意味、佐幕派に祭られてしまった会津の松平容保と対極を成すような気がする。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20171119
http://o.x0.com/m/623493

2017年11月19日日曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(6)

ウマイア朝時代の金貨
http://natt.jp/photoindex4112.html
「帝国の復興と啓蒙の未来」の備忘録エントリーを続けたい。中田氏はかなり詳細なイスラームの歴史を述べた後、トインビーに続いて、日本の歴史学者・宮崎正勝から多くの引用を得ている。

世界史の誕生についてはいろいろの考え方があるのは当然だが、私は多くの文明が併存し、膨大な歴史を積み重ねてきたユーラシアに、現在のイスラーム圏にちながるイスラーム大商圏が形成されたことを、世界史の誕生として位置づけるのが適当と考えている。

イスラームがグローバリゼーションの先駆けになったのは、地理的にも文明史的にも必然と言える。モロッコから東トルキスタン(現ウィグル自治区)まで東西に延びる大乾燥地帯、地中海沿岸の北アフリカからインド洋、南シナ海につながる海域がイスラーム世界に含まれており、東西文明が交流する回廊となった海の道、シルクロード、草原の道の大部分がイスラーム世界に属しており、古代の四大文明のうち中国文明を除くエジプト文明、インダス文明、メソポタミア文明がイスラーム世界のうちに内包されているからである。

中田氏も、この視点を支持し、アッバース朝革命は単に王統の変化ではなくアラブ帝国からイスラーム帝国への移行で、イスラーム教・イスラーム法・アラビア語による諸民族が統合される大空間を生み出し、イスラーム法による商業統制は緩いものであったため、商業活動が盛んになり「モノ、ヒト、情報が移動するネットワーク上の商業帝国」が維持されたと述べている。

…面白いのは、この大商圏の話だ。イスラーム法がムスリムの商人には2.5%の浄財を課している。庇護民の貿易商には5%の税、イスラームの外から来た貿易商には10%の税を課されており、関税に似た機能を果たしていたとしても、少なくとも理念上は通行税や関税は課せられていない。またイスラーム法は、正貨を金と銀と定め、市場監督制度で金銀の制度を保証している。アッバース朝は、東ローマ帝国の金本位制とサーサーン朝の銀本位制を引き継いだのだが、大商圏の拡大が金貨銀貨の供給量を超え、バグダッドに多くの銀行が出来、小切手の使用が一般化したことだ。モロッコでもこの小切手を現金化できたという。十字軍により交易が盛んになり、イタリア商人がこれを導入、銀行を設けた。小切手の語(たとえば英語のcheck)もアラビア語のサッカがなまったものだし、簿記の技術もイタリアに伝わり複式簿記として定着したというような事実だ。

2017年11月18日土曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(5)

https://www.goodreads.com
/book/show/369010.
A_Study_of_History
「帝国の復興と啓蒙の未来」の備忘録を続けたい。この本には、中田氏の著書としては珍しく、トインビーが出てくる。超有名なイギリスの歴史家である。トインビーのイスラーム観を中田氏は、必ずしも肯定しているわけではないが、今回の書物で地政学的な視点を歴史から説く上で引用が多い。

トインビーは、西欧キリスト教文明をヘレニズム文明の継承文明とみなす一方、イスラームをシリア文明の継承文明と見なしている。一神教の発明をシリア文明の最大の偉業と見なす一方、キリスト教については、その創造力の萌芽は、ヘレニック社会本来のものではなく、外から来たもので、キリスト教自身は理論上の一神教と偶像崇拝の禁止を忠実に遵守しながら、実際上はキリスト教に改宗したヘレニック社会人の多神教徒偶像崇拝に譲歩したと述べている。つまり、トインビーによると、キリスト教は一神教としてはその発祥のシリア文明に由来しながらも、一神教の正嫡であるユダヤ教から分離しヘレニズムの多神教と偶像崇拝を混淆(こんこう)しており、また地理的ににはヘレニズムのヨーロッパ社会にとって外来の異質なものであったというわけである。また、トインビーは、ユダヤ教については、普遍宗教に脱皮したキリスト教、イスラームと比較して、神の地方性と排他性という2つの特徴を残した宗教であり、「シリア社会の化石的遺物」に過ぎないと酷評している。

アーノルド・トインビー
https://en.wikipedia.org
/wiki/Arnold_J._Toynbee
トインビーは、キリスト教をイスラームと比較して、イスラームの創造的萌芽は、シリア社会の外から来たものではなく、はえぬきの土着のものであったと述べている。キリスト教をヨーロッパにとって決して本質的ではなく、ローマ帝国で国教になって以来、中世においては表面的にはヨーロッパを覆ったが、あくまでも偶有的で表層的だとし、本来の一神教からは逸脱したものであることを浮き彫りにすることに成功している、と中田考氏は説いている。

要するに、キリスト教がローマ帝国の国教となり、ゲルマン民族やケルト民族などの周辺民族もまた表面的に受け入れたものの、一神教とからの逸脱とのひき換えであったというのがトインビーの認識であり、ムハンマドが解き明かした一神教の最終形態として、本来の一神教から逸脱したユダヤ教・キリスト教に代わって登場したイスラームの歴史理解とおおまかに符合するというわけだ。

…なるほど。トインビーの洞察はなかなか鋭い。偶像崇拝という一点から見てもキリスト教とイスラームの相違は大きい。私は異教徒故にその是非を論じる立場にはないが、トインビーの指摘は世界史を教える者としても極めて重要だと思う次第。

ジンバブエのクーデター

http://www.bbc.com/japanese/41993142
先日から、ジンバブエのムガベ大統領が軟禁され、軍の主導で、大統領の妻の影響で解任された副大統領が復権か?というニュースが流れている。WEBだけの情報、それがたとえ、BBCやCNN、あるいはロイターやAFPなどの複数の報道であっても、なかなか真実はよくわからない。様々な憶測と解説があって、うーん、である。

私がジンバブエに旅したときは、ハイパーインフレの始まりの頃で、ムガベが白人を追い出して経済が傾きかけていた時だった。あれから、さらに凄いことになっていった。ただ、いくつかの記事にあるように、ムガベは独立時の英雄であり、ハラレなどの都市生活者はともかく、田舎では人気ある、と当時、バスの車内でガーナ人が言っていたのを思い出す。今は、すでに田舎でも実質的な支持は下がっていたのだろう。

…副大統領だった人物も独立時の盟友らしい。少なくとも若い大統領の妻よりははるかに為政者としては適任なのかもしれないが、いずれにせよジンバブエの失敗国家を再生するには、抜本的な改革が必要であると思われる。

…ムガベの白人追い出し政策で、欧米の投資は激減している。おそらく、中国の支援を渇望するだろうが、中国のアフリカ政策は、アメリカ以上に自国中心主義であるから、実質的に中国の植民地化する可能性もある。ジンバブエは、資源大国ではない。気候の良さと土地の良さ、それに人の良さがウリである。果たして、中国が内陸国のジンバブエ再建にどれくらい力を入れるかは未知数だ。

…欧米も当然、その動きを阻止する方向に動く可能性もあるが、かつての宗主国イギリスは、政権が変わっても、独立革命の盟友であり、これまでのムガベ政権の副大統領だった人物を容易に受け入れないだろうと思う。

…いずれにせよ、悪魔的ですらあったムガベが排除されたことは喜ばしいが、再建の道は険しい。私は、うーん、と唸るのみである。

2017年11月17日金曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(4)

http://islamchapter13.weebly.com/dar-al-islam-and-treatment-of-women-in-islam.html
帝国の復興と啓蒙の未来、さらに備忘録の続きである。ダール・イスラームについてのエントリー。イスラームは、全人口の8~9割を占めるスンナ(スンニ-)派、1~2割のシーア派に大別されるが、シーア派の9割を占める12イマーム派、その他のザイド派、シスマイール派、さらに300万人弱のハワリージュ派(アリーに反旗を翻し粉砕され、分裂を繰り返し、他宗派を異端視して殺害する狂信カルトともいうべき宗派だが、イスラームには正統教義を決める資格のある聖職者制度を設けることもなく、カリフが教学に介入し正統教義を定めなかったので、排斥されていない。)の流れを引くイバード派、さらにはイスラームの一派か否か曖昧なアラウィー派(例のシリアのアサド大統領が信仰する少数派)、ドルーズ派(イスラエルに行ったとき、その寺院に入ったことがある。)などの分派が存在する。ウンマ内で分派が特に殺し合いに至る争いを繰り返しながらも、ついに1000年以上にわたって一度も内包(教義)と外延(メンバーシップ)を公式に制度化して、どれか一つを正統としてそれ以外の諸派を排斥することもなく、「不可視的教会」として存在してきた。

キリスト教世界に対応する概念としては、「ダール・イスラーム」という概念がある。イスラームの世界観では、宇宙の創造心アッラーは天と地の主であり、主権はアッラーのみにあり、大地は全てアッラーに属する。領域国民国家という地球の分割という発想はない。地球の主権は神にあり、神授の天啓法シャリーアを世界の隅々まで施行することが人間の義務とされる。そこで、イスラーム法学では、ムスリムが支配しイスラム法によって統治されている法治空間を「ダール・イスラーム」とし、異教徒が「不法」に治めている「ダール・ハルク」(戦争の家)に二分する。このダール・イスラームを弘める義務をジハードと呼ぶのである。ジハードの規定において、ムスリムはダール・ハルクの住民にムスリムと成るか、ジズヤ(税金)を治め生命・財産・名誉の安全を保障されるズィンミー(庇護民)として、その居住地をダール・イスラームに編入するように呼びかける。

この庇護民となれるのは、キリスト教徒・ユダヤ教徒・ゾロアスター教徒のみとする学説と、全ての異教徒とする学説があるそうだ。(フィクフの本にもそのあたりが詳しく書かれている。またいずれエントリーしたい。)このダール・イスラーム、ダールハルクという大別は、スンニー派もシーア派も同様である。重要なのは、キリスト教世界には、異教徒の存在は想定されていない。イスラームでは、異教徒との共生が前提になっている。ジハードの目的は、あくまでイスラーム法の法治空間/ダール・イスラームの拡大であると中田氏は説いている。このキリスト教の排他的な信徒組織とイスラームの異教徒を支配下に置く都市国家の「国教」であるという相違が、文明としての西欧文明とイスラーム文明の相違を生み出したというわけだ。…なるほど。

帝国の復興と啓蒙の未来(3)

アウグスティヌスの洗礼
http://www.b-family.org/public_
html/omoi/027/augusdoc.htm
「帝国の復興と啓蒙の未来」備忘録エントリーの続きである。キリスト教の神の国とイスラームのウンマ(共同体)の相違について。

アウグスティヌスは、教会がキリストを頭とするキリストの身体であると見なす。キリストとその教会を神の国と呼んだ。しかし地上の可視的教会には「地の国」(その覇権を代表するのはローマ帝国)が入り込んでおり、すなわち悪人が善人の中に混ざっており最後の審判でふるい分けられると説いた。このアウグスティヌスの二国論に基づく中世の世界観は、神の国・ローマカトリック教会と、西ローマ・神聖ローマ帝国、さらに異教世界の地の国という二重構造かつ二元論的なものであった。歴史が示すとおり、この地上に於ける神の国の政治権力の所在をめぐってローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間で教権と俗権の対立を生む。宗教改革後は教皇権が弱まり、カトリックの独占が崩れると様々な教派が神の国を代表するようになり可視的な教会は内実を失い、政教分離が既成事実化し、世俗化の進展、主権国家の成立となる。キリスト教では全ての異教徒の支配は、「地の国」の覇権として範疇的に悪である。

カトリック教会では、第1回バチカン公会議(1869)で教皇の無謬を正式に決定した。伝統的には、教皇だけでなく、公会議の総意、全ての教会員の総意の無謬を認めてきた。

イスラームにおいて、キリスト教の教会とおおまかに対応する概念はウンマである。イスラームでは、ムハンマドの無謬性については合意が存在するが、スンナ派法学は「私のウンマは無謬において合意することはない」とのハディースに基づき、ウンマの総意は「イジュマ-」は無謬とされ、イスラム法のクルアーン、ハディースに続く第三法源となっている。(他方、シーア派は、イマームが預言者ムハンマドの無謬性を継承したと考える。)

キリスト教には、資格のある聖職者による公式な洗礼があり、メンバーシップが明確で外延が定まった可視的教会が成立するが、イスラームには聖職者もいなければ認可の手続きもなく、登録する機関もないので、ウンマにはメンバーシップもなく、外延もはっきりと定まらないため、可視的ウンマなどという概念そのものも成立しない。

つまり、キリスト教の教会に生じたように俗人の上に立つ霊的権威を有する聖職者階級が公式に信徒のメンバーシップの内包と外延を定め世俗権力が聖職者階級人事や彼らによる教義の決定に公式に介入すると言った制度はイスラームのウンマには成立しないわけだ。

私はブティストであるが、アイオワでルーテル派教会の日曜礼拝を見せて貰ったこともあるし、マレーシアでムスリムの事情も見聞きしていて、なるほどと思うのだ。

2017年11月16日木曜日

子どもたちの生きるアフリカ

先日、ブルキナファソでお世話になった文化人類学者の荒熊さんの編集による新刊が出たとのブログを読んで、これは是非手に入れなければと思っていた。で、中之島のCANONサービスセンターに行く用事もあったので、久しぶりにJ堂に行ってきた。

「子どもたちの生きるアフリカ-伝統と開発がせめぎあう大地で」という本で、検索したら3Fの人文書/文化人類学のコーナーにあると出てきた。最新刊なので、ちょっと心配だったが、ホッとしたのであった。さすがJ堂である。

こうして、自分の本が出るというのは、ちょっと大げさだけど、男子の本懐であると思う。私もいつか、機会さえあれば…と思う。

荒熊さん、おめでとうございます。そのうちに、書評をエントリーさせていただきます。
http://cacaochemise.blogspot.jp/

2017年11月15日水曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(2)

http://www.gregorius.jp/presentation/page_79.html
中田考氏の「帝国の復興と啓蒙の未来」のエントリー続編である。今回は、十字軍パラダイムについて。現在の社会をリードしているのはヨーロッパ(特に西欧)だが、昨日エントリーしたフランスのベストセラー作家の「服従」という作品に見られるように、イスラーム・コンプレックスがある。

イスラームはトラウマである。西欧によるイスラーム理解の歪みは単なる無知ではない。イスラームに自己の内にある譜のイメージを投影することで自己イメージを護ろうとしている、というのが中田氏の言うイスラーム・コンプレックスである。

西欧思想は、ヘブライズムとヘレニズムを二大源流としている。私も今まで倫理の授業でそう教えてきたが、イスラームこそが、ヘブライズムとヘレニズムの正統な継承者はイスラームだと中田氏は説く。これは、確かにその通りである。アブラハムを始祖とする一神教はユダヤ教・キリスト教・イスラム教を生んだ。これがヘブライズムである。ギリシア哲学を中心とする合理的精神はヘレニズムと呼ばれるが、その学問の中心地は、エジプトのアレクサンドリアであり、東ローマの正教世界からイスラームの世界に編入されている。一方、西ローマ帝国は早く滅び、ラテン語を中心としたカトリック化する中で、ヘレニズムは忘れられた。西欧のルネサンスは、イスラーム世界でアラビア語化されていたヘレニズムを十字軍以後再認識したにすぎない、というわけだ。これは、日本の学校であまり教えない厳然とした事実である。

十字軍パラダイムとは、ヨーロッパ・キリスト教世界とイスラームの対立を殊更に取り上げて絶対化、固定化させ、キリスト教同士の量的にも質的にもはるかに凄惨な相互殺戮の歴史の事実から目を逸らさせ、平和なヨーロッパと好戦的なイスラームという誤った自他イメージを心の中に植え付けるイデオロギーなのである。

この十字軍パラダイム、実に面白い。EJU後に今年も哲学講義をする予定なので、さっそく使わせてもらおうと思う。マレー系の学生は少し喜ぶと思う。

2017年11月14日火曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(1)

飛行機の中で、内田樹氏の「日本辺境論」(これも日本人会の無人古本コーナーで手に入れた。)を読んでいた。この本の冒頭で、内田氏は「大きな物語が消えてしまった」ことを嘆いている。大きな物語とは、たとえばマルクスの階級闘争の歴史論(自由人と奴隷・貴族と平民・領主と農奴・ギルドに属する親方と旅職人の4種)のような、「大雑把な括り方」を意味する。

ところで、今「帝国の復興と啓蒙の未来」(中田考著/太田出版・2017年7月28日)を読んでいるのだが、冒頭、中田考氏は、以下のように地政学的な「大きな物語」を提示している。

現在の世界は、西欧文明がその特殊な啓蒙の歴史的使命を終え、ローカルな1つの文明の地位に沈降しつつある一方、グリーバリズムの名を纏ったアメリカのどう猛な経済覇権主義が世界各地に防衛本能として経済ブロック化を招来し、そのブロック化が文明圏の再編の形を取ることで、ロシア、中国の領域国民国家の枠を越えた帝国としての存在の復興の野望をあからさまに誇示するようになり、第三次世界大戦前夜とも言える状況になりつつある。こうした動きの触媒となっているのが、文明の十字路に位置したユーラシア大陸とアフリカ大陸にまたがるイスラーム世界の中心部オスマン帝国の旧領である。

2015年1月7日、パリのシャルリー社が襲撃された。この日は、「服従」という近未来小説が発売された日でもある。浅田彰は、「あらかじめベストセラーになるべく予定されていた「服従」は歴史的事件となった。」(パリのテロとウエルベックの服従)と言った。この「服従」という小説は2022年にフランス大統領選挙でムスリム同胞団の候補者が勝利し、フランスがアッラーに服従するという衝撃的な内容だったのだ。著者のウエルベッグはフランスのベストセラー作家である。

この「服従」を元に、中田氏はヨーロッパとイスラムの関係性を説いていくのだが、それはまた次回以降のエントリーということで…。

2017年11月13日月曜日

イスラムのフィクフ考3

https://play.google.com/store/
apps/details?id=com.MoslemWay.
Fiqih4Mazhab&hl=ja
中田考氏の「イスラーム法の存立構造」という本は、極めて難解な法学書であるが、意外な発見があって面白い。昨日エントリーした内容が、実は「イスラムのフィクフ考3」というタイトルでもいいと思うが、気にせず3回目の備忘録とする。

今回はイスティンジャーゥの話。前述の「満足を求める者の糧」という書物から。日本では、浄・不浄という考え方が強い。しかし、イスラム法の浄・不浄はもっと徹底していると思う。このイスティンジャーゥは、用便の始末という意味である。

トイレに入る前は、「アッラーの御名において。悪と悪魔からアッラーに助けを乞います。」と唱え、出る際には「あなたの御赦しを」「私から有害物を取り去り、私を癒されたアッラーに称えあれ」と唱え、トイレに入る際は左足から、出る際は右足を先にし、モスクに入る場合や靴を履く場合とは逆にするそうだ。用を足すときは左足に重心を置き、空き地の場合は遠くに行って姿を隠し、柔らかい場所に向かって放尿し、放尿の後は左手で陰茎の根本から先まで3回撫で、3回しごき、もし汚れる恐れがあれば場所を移して別の場所でイスティンジャーゥを行うことがムスタハッブ(望ましいもの)である。

至高なるアッラーの御名の記されたものを身につけたままトイレに入ること(預言者=ムハンマドがトイレに入られる際に、”ムハンマドはアッラーの使徒である”と掘られた指輪をはずされたとハディースにあるそうだ。)、地面にしゃがむ前に服をまくり上げること、右手で陰部に触れること、2つの光(太陽と月)に向かって用を足すことはマクルーフ(避けたほうがよいもの)である。

お気づきの方もあるかもしれないが、ムスリムには、義務行為(絶対に行わなければ来世で罰を受ける行為:礼拝や断食などをさす)、推奨行為(行わなくても来世で罰は受けないが、行った方がよい行為)、合法行為(どちらでも良い行為:フィクフに特に規定がない行為)、自粛行為(来世で罰は受けないが避けた方がよい行為)、禁止行為(行えば来世で罰を受ける行為:飲酒や婚外交渉などをさす)と5種類の規定がある。上記のイスティンジャーゥは、推奨行為と自粛行為について述べられているわけである。

正直なところ、この項には少し驚いた。イスラームとは「神に服従すること」という意味であり、ムスリムは、シャリーアの体系に従って生活していることを頭では理解していたが、トイレに出入りする際にも、聖句を唱えるという事実。これは、文系の国費生にも確認した。彼らからすれば当然のことであるので、至極普通に「そうですよ。」と答えてくれた。

エルサレムで、ユダヤ教の律法に即して安息日の食事をごちそうになった際の、あの様々な約束事を思い出した。啓典の民というのは、なかなか大変である。

2017年11月12日日曜日

IBTの話(141) EJU本番 ’17

ハディースの1冊
https://www.kutub
-pdf.net/category/
EJU本番である。6月と同じカレッジである。やはり11月の第二回目の試験は真剣度が違う。とはいえ我がクラスの私費生はワイワイ・ガヤガヤと友人同士で出そうな処の確認に余念がない。一方、マレー系の国費生はこれが一発勝負である。緊張の面持ちである。開始前、彼らは文系も理系も一カ所に集まり、祈りだした。これも4回目のEJUともなれば、私にとっては普通の光景である。

日本語の試験の時間、中田考氏の「イスラーム法の存在構造」を読んでいた。毎回、面白いというか意外な箇所に出会うのだが、「自発の礼拝と禁止時間の章」という項に行き着いた。これは「満足を求める者の糧」というハンバリー派のフィクフの書の翻訳された箇所である。国費生の行っていた試験前の祈りは、この自発的な礼拝(=ウィトル)にあたるのではないかと思った。昼食休憩の時、教え子の文系の学生に尋ねてみたら、まさしくそうだった。

「アッラーよ、あなたの導きたもうた者の一人として私を導き給え。あなたの救い給うた者の一人として私を救い給え。あなたの側に召したもうた者の一人として私を側に召した給え。あなたの授け給うものによって私を祝福し給え。あなたが定められた厄災から私を守り給え。まことにあなたこそ、何者の決定にも縛られず決定を下し給う御方であり、あなたが側に召し給う者は卑しめられることはなく、あなたが遠ざけ給うたに栄光はありません。我らが主はいと導く、高きにおわします。アッラーよ。あなたの君寵と恩赦によってこそ、あなたからの守護を冀(こいねが)います。あなたがご自身を称え給うようには、我々はあなたへの讃美を尽くすことは出来ません。アッラーよ。ムハンマドとその一統を祝福し給え。」

これが、敬虔の祈り(クヌート)である。この前にクルアーンの「称え奉れ…」(87章)、「不信心者」(100章)、「順正」(112章)を読んだ上でこれを唱えるらしい。最後に両手で顔をなでるそうだ。もちろん、全てアラビア語で行われるので、詳しくはわからないのだが、日本語訳を示したら「それです。」とのことなので、そうであろうと思う。この敬虔の祈りは、注記によると3種以上のハディースに書かれているものから導かれているらしい。

こういう事実を知ることを少しずつ積み重ねていくことが異文化理解だと私は思う。我がクラスの中華系の学生が会場に向かう前、男子も女子も私とハイタッチして向かっていった。マレー系の学生には、男子は良いが、女子には出来ない。これも重要な異文化理解である。親族以外の男性が女子学生に触れることは、いかなる場合も許されないのだった。

ところで、今回の総合科目では、パラオが出たらしい。

2017年11月11日土曜日

内田樹氏と吉本隆明

昨日、小論文の題材を探していて、内田樹先生のWEBページに、「吉本隆明1968」(鹿島茂/平凡社ライブラリー・新刊)に寄せた解説文が載っているのを発見した。実に興味深く読ませて貰った。我々の世代にとっては「吉本隆明」というのは、ビッグネームである。ただ私にはあまりに敷居が高くて、この歳になるまで読んだことがないし、恥ずかしながら、その思想に触れたこともなかったのである。

内田先生の解説文は極めて衝撃的な内容であるが、ここでは、あえてふれない。興味のある方は是非読んでみて下さい。http://blog.tatsuru.com/

で、吉本隆明について調べてみた。たしかに、傍流の傍流を歩んできた人である。その代表作のひとつ、共同幻想論における思想性は、マルクスの上部構造とフロイドの下部構造を合わせている、とウィキにある。60歳近くになった私ならなんとか読めそうだ。ただ、その後の吉本隆明の足跡を調べてみると、先ほどエントリーした左翼の嫌み(意見の異なる者を徹底的に罵倒する資質)が多そうで、どうも…という感じである。

山口昌男を「チンピラ人類学者」、デリダやドゥルーズを「死んだ社会を荘厳にしているだけの思想」、ガタリは「てんからの馬鹿」、浅田彰・柄谷行人・蓮見重彦は「知の密教主義者」「知的スノッブ(俗物の意)の三バカ」「知的スターリニスト」、特に柄谷行人には「最低のブント(新左翼の党派)崩れ」などとボロクソに言っている。私は、人文・社会科学の学問の世界では論争は常であるかもしれないが、こういう趣は好きではない。意外に中沢新一とは仲が良いらしい。

ただ、「アフリカ的段階について史観の拡張」という著作には大いに興味がわいた次第。上記の新刊も含めて、帰国したら本屋で手に取ってみたいと思う。

ロシア革命100年 私感

当時の序列9番くらいだったスターリンが
高位のトロツキーより前にいる嘘くさい絵である。
http://www.euras.co.jp/tour/russia2017/
11月7日は、ロシア革命100年だった。TVを見ないので、日本やマレーシアや世界中でどのような報道がなされたかは知るよしもない。特にこの日は、我がクラスの学生がKG大に合格したことに喜びすぎて、ロシア革命100年についてエントリーしようと思っていたのだが、つい延び延びになってしまった。私はもちろん、マル経(マルクス経済学)の徒ではいし、ロシア史や社会思想史に詳しいわけではない。だが、興味深いWEB記事を読みながら、このところ思索していたのだった。東洋経済の「ロシア革命100年なぜこうも忘れられたのか」(神奈川大学の的場昭弘氏)である。
http://toyokeizai.net/articles/-/196567

的場氏は、当然マル経の方であるようだ。私たちの年代は、経済学の主流はマル経だったし、「革命」という語には特別な価値が付加されていた。「反革命」なととののしられることは、今なら人権問題として扱われるような侮蔑を意味する時代だったと思う。隣国では文革(文化大革命)中だったし、新左翼は成田闘争に向かっていた。したがって、ロシア革命100年と言われると、なんとなくノスタルジーを感じてしまうわけだ。

さて、東洋経済の的場氏の記事は、フランス革命との対比、新自由主義との登場による社会主義の完全否定などについて触れられており、実に興味深い内容だった。社会科の教師としては、様々な視点をもつ必要性、と共に出来るだけ中立性を保つこと常々実感しているが、2017年の現在では、ロシア革命の意義はかなり否定的な状況にあることは間違いない。ロシアというヨーロッパの後進国が「自由」より「平等」を求めた「反革命」なのだろうか。

近代国家における民主主義の歴史には、自由をまず求めたリベラリズムと、平等を求めたデモクラシーの二通りがある。(14年11月26日付ブログ:アメリカニズムの終焉の読む/参照)そもそも自由と平等は二律背反しているわけで、フランス革命でもジャコバン党の独裁期間(記事ではロベスピエールの名で象徴されている。)は、一気に平等化が進んだ。すなわち、普通選挙が実施されたのである。これは、全国民が参政権を持つ=国民皆兵という方程式になる。古来より欧州では政治的権力に関わる者=軍事に参加する権利であったからである。私は、このジャコバン党の時代こそ、フランス革命の最重要期だと直感している。後にこの下層民も含めた普通選挙は否定されるが、自由と平等が象徴的なカタチで止揚された期間だと思っている。(ナポレオンはこの国民皆兵制をうまく利用したので、他国民の自由へのあこがれと共にヨーロッパ征服を実現できたといえると思う。)ただ、平等を実現するためには自由の制限がどうしても不可避となる。ジャコバン党時代が不人気なのは、そのためだと思う。フランス革命の最重要な視点を自由におけば、ロベスピエールはたしかに反革命である。うーん、この辺は極めて判断が難しい。
右の人物がロベスピエール。ソ連時代の切手である。
http://fwkf8336.sakura.ne.jp/sekaisi/18c.htm
レーニンの革命は、たしかにロベスピエール的である。ボルシェビキという職業的な革命家による「平等」のための「独裁」、私は世代的にも決して否定的には見ない。だが肯定もしなかった。社会の教師としては、事実を伝えることに徹してきた。少なくともスターリンの時代は、人類史上最悪の人権侵害が行われたと思う。また冷戦後ほとんどの社会主義国が資本主義に「転向」した。だからロシア革命=否定ということにはならないと思われる。…ただ私が、左翼に違和感を感じるのは、他の考えを徹底的に否定するところだ。

うまくまとまらないが、あえてまとめる必要もない気がする。ロシア革命100年。各人がそれぞれ違う視点で考えてみる。それが重要であると思う次第。

2017年11月10日金曜日

IBTの話(140) 面接指導Ⅱ

http://www.city.kobe.lg.jp/ward/
kuyakusho/nishi/midokoro/
gakuen/kitemitegakuen.html
EJU前の最後の授業日である。放課後、K先生をお呼びしての面接指導。6人の内3人は最後の指導になる。EJU後のスクールホリデー中に日本での試験があるからである。この3人も含め、6人全員がかなり面接のやりとりが上手くなった。K先生からもお褒めの言葉を頂いて、ちょっと安心した次第。

特に2人は国際関係の学部を志望している。英語と中国語でも答えることができるように指導した。私が面接官なら、ちょっと発音などを聞いてみたいところだからだ。最後に1分間の自己アピールもさせてみた。日本語で1分間しゃべり続けることはかなり難しいと思うが、3人ともなんとかこなしてくれた。一度でも経験しておけば、きっと役に立つと思う。中には2分弱も頑張った学生もいて、たいしたものだと感じた。

EJUめざしてずっと走り続けてきた。全くの初体験だった昨年と違い、今年は担任としての重責もある。幸い総合科目の模擬試験では、私費生の我がクラスは満足のいく結果だった。(国費生はちょっと心配だが…。)明日は私も十分休息を取り、高得点を祈願するつもりだ。

2017年11月9日木曜日

IBTの話(139) 関西式闘魂注入

https://subestamp.com/review/
EJUまであと3日。放課後は、恒例の激励会である。昨年は「バナナを食べよう。」で盛り上げたが、今回は、アントニオ猪木でいくことにした。妻の赤いスカーフを借りて、アントニオ猪木に変身。(というほどのものではないが…。)「元気ですかー!」と言うと、文系の2クラスが、「オオッー。」「元気があれば何でもできる。」「1・2.3」「ダーッ!」とやったのだった。F38は5クラス中3クラスが理系で、文系は少数派だ。激励会はこれで4回目になるが、文系を常に元気にしたいと私は思っている。

実は、国費生の模擬試験は少しばかり不安を覚えるような結果で、様々な指導を入れた。問題の読解は漢字から類推(ムスリムでいえばキャース)すること。土曜日は、友人と共に学習するのではなく1人で机に向かう事。書いて書いて覚えること。あと少ししかないけれど、まだ総合科目は点数が伸びる等云々。かなり厳しく言ったので、激励会では、反対にとにかく元気をつけたかったのだ。で我がクラスも同様に、貴重な時間を使って授業中、ちょっとだけ「ダーッ!」の練習をしたのだった。まあ、広い意味で日本文化の学習でもある。きっと日本に行ってからTVかなにかで見たとき、喜んでくれるだろうと思う。(笑)

ところで猪木と言えば、「闘魂注入」である。本当はビンタであるが、学生にビンタするわけにもいかない。朝、ふと思いついたのが、大阪人の習慣である。「バーン!」とピストルを撃つマネをすると「やられた~。」と死んだふりをするのが、大阪人の偉大な習慣である。これを最後のオチとして2クラスの代表者を選んでやることにした。「関西式闘魂注入っ。」と叫んで、二人を立たせ、バーン、バーン。見ごことにやられてくれた。(笑)文系の両クラスはもちろん、理系の学生にも大うけだった。(笑)

EJU、まずは元気だ。体調万全で、前向きに頑張る意思が運をも味方にする。

2017年11月8日水曜日

反日有理への嘲笑

http://polandball.blog.fc2.com/blog-entry-1134.html
アメリカの大統領がアジア歴訪中である。日本では、在日米国人のデモがあったらしい。大統領来日時のデモというと、(世代は違うのだが)アイゼンハワーの来日を中止に追い込んだデモを、私などは連想するが、在日米国人のデモというのが凄い。首相はできる限りのおもてなしをしたようである。陛下に対してお辞儀をしなかったというのは、オバマ氏のお辞儀が批判を浴びたゆえかもしれないが、所詮傲慢な現大統領である。100%公人であられる陛下は別にお怒りではないだろうと思われる。まあ、日本では、とりあえず上々の訪問であったのだろう。

問題は韓国である。やはり韓国は(中国の文革での)「造反有理」ならぬ「反日有理」の国なのだろう。全て「反日」は許されるようだ。竹島(韓国では独島:ちなみに私はこれまで韓国をあまり悪く思ってこなかったし、領有権でもめていても、日本だけの立場では記したくないと考えている。)の海産物をわざわざ出し、慰安婦のご婦人を晩餐の席に呼んでいる。いかにも、韓国はアメリカと同盟関係にあっても日本とは同盟していない、日本とは協力しないことを、アメリカ大統領との外交の席で強烈にアピールしているわけだ。これは、(日本にたいしてはもちろん、アメリカに対しても)かなり非礼な話だし、アメリカの外交筋や軍関係者がその外交戦略上最も嫌うことであると思われる。韓国の外交筋はそのこともわからないのか、と思う。韓国の世論が、このような演出を後押していたのかもしれない。ならば、韓国政治家のポピュリズムも極まれりである。アメリカ大統領の外交の場を利用しでも「反日有理」、おそらく世界中の外交関係者の嘲笑が聞こえてきそうだ。たとえ普段の言動から非礼な大統領でも、非礼に迎えていいというものではあるまい。

極めて後味の悪いニュースだったと、地球市民を自認する私でさえ、そう思っている。

2017年11月7日火曜日

IBTの話(138) 祝KG大合格

https://manabi.benesse.
ne.jp/daigaku/school/3694/
H君がKG大に合格した。日本時間の朝9時発表ということは、KLでは8時である。私がIBTに着いたのは、その少し後で、職員室近くで待っていて報告をしてくれた。いやあ、嬉しい。今回のKG大受験に関しては、私の指導がかなり入っている。と、いうのも、H君は観光関係へ進みたいと念願していた。観光業に身を置くためには、やはり大都市圏の私大が有利である。いろいろ調べていくうちに、KG大のS学部が最も彼に合っていることが判明した。S学部には、文化人類学的なコースがあり、商業的ではない日本の本当の文化を伝えれるような観光業をやりたいというH君の希望にもピッタリだったし、意外と言っては失礼だが、6月のEJUでなかなか良い成績を残していたので、十分勝負できるとふんだのだった。

昔、前々任校でアメリカ・アイオワ州に研修旅行で行った際、OGが添乗する旅行業者を選んだことがある。もちろん入札制であるから、その会社が費用を安くおさえてくれたこともあるのだが、我が相方の担任の先生の教え子で、成長した姿に非常に喜んでおられたのを思い出す。そのOGがKG大の出身だったのだ。私の頭のどこかで、観光業への就職=KG大というイメージが残っていたのだと思う。

首都圏や近畿圏の国立大学・難関私立大学のハードルは、私費留学生にとってもなかなか高い。しかも彼は、高校時代よりはるかに、このIBTで日本語を頑張った学生である。今回の合格は、そういう意味でも快挙だったと思う。

私自身、小論文や面接指導もかなりやってきた。だが、彼の頑張りがあってこそ、今日の合格があると思う。こういう学生に巡り会えて、つくづくマレーシアに来てよかったと思うのだった。…とはいえ受験シーズンはまだまだこれからである。

2017年11月5日日曜日

イスラムのフィクフ考2

http://toko-muslim.com/buku-fiqih-islam-wa-adillatuhu-1-set-10-jilid/
中田考氏の「イスラーム法の存立構造-ハンバリー派フィクフ神事編」の備忘録の続きである。「2.ファトワー」の箇所で、面白い話が出てくる。ファトワーについては、以前エントリーしたことがある。法学者に一般信徒が質問し、その回答がファトワーである。ところで、このファトワーを出せる者(ムフティー)は、イスラム学の学識と並んで、現実の認識が必要とされる。

タタール人占領時代、イブン・タイミーヤがハンバリー派の同学の一人とともに、タタール人の一団が酒を飲んでいるところに通りかかったところ、同行者が彼らを咎めようとした。それをイブン・タイミーヤは阻止し、こう言った。「アッラーが酒を禁じ給うたのは酒がアッラーを念ずること、礼拝から遠ざけるからに他ならない。ところがタタール人に関しては、酒は殺人、児童誘拐、金品強奪から彼らを遠ざけているのだ。だから(社会にとって害の少ない酒宴故に)彼らを放っておきなさい。」

イスラームのファトワは、こういう現実主義的な側面がある。酒を飲むのは当然禁止事項だが、ムスリムの命・財産の保護の方が上位のフィクフであるとイブン=タイミーヤは判断したわけだ。

ところで、中田考氏がシリアの最高ムフティーに対してファトワーの請求と回答が載っている。実に興味深いので記しておきたい。

慈悲深く慈愛遍きアッラーの御名において
アブ-・アル=ヌール・イスラーム学院
質問:ワフバ・アル=ズハイリー博士はその著『イスラーム法とその典拠』3巻689頁において「キリスト教国からの輸入肉は、たとえ屠殺時にアッラーの名前が唱えられていなくとも、食用が許される」と述べています。それでは、シャリーアに則って屠殺しった肉が多少の負担で入手可能な場合でも、店で市販されているアメリカやオーストラリアからの輸入肉の食用は許されるのでしょうか?
ファトワー請求者 Drハサン中田考

回答:「啓典の民の食物は汝らに許されている」(クルアーン5食卓章第5節)との至高なるアッラーのお言葉の一般原則に基づき、キリスト教国からの輸入肉は食用が許され、それを食べることは問題はない。啓典の民の屠殺肉にはアッラーの御名を唱えることは条件とはならない。また同時に「ある男が預言者の元にやってきて「アッラーの使徒様、我々の中の一人の男が屠殺するのに至高なるアッラーの御名を唱えるのを忘れたのを知っておられますか?」と尋ねた時、彼はアッラーの御名は全てのムスリムの心中に存在する」と答えられた。(ナスブ アル=ラーヤ:ハナフィー派法学書4巻182頁)とのハディースに基づき、ムスリムの屠殺肉にもアッラーの御名を唱えることは条件とならない。(ムグニー・アル=ムフタージュ:シャフィイー派法学書6巻95頁)それゆえ、啓典の民の屠殺肉の購入が義務として課されることはない。
ヒジュラ歴1418年11月2日/西暦1998年3月1日 ダマスカス
Dr.アル=シャイフ・アフマド・タクタロー
シリア共和国最高ムフティー/イフターゥ最高評議会議長
アブー・アル=ヌール・イスラーム大学学長

なかなか興味深い。啓典の民とは、ユダヤ教徒・キリスト教徒をさす。では日本で仏教徒や無信仰の日本人が屠殺した肉はどうなるのだろう。日本在住のムスリムはこれを食すことは許されるのだろうか。ちょっと疑問がわいてしまったのだった。

イスラムのフィクフ考1

中田考氏の「イスラーム法の存立構造-ハンバリー派フィクフ神事編」を読んでいる。ここで論じられている「フィクフ」というアラビア語は、イスラム法(シャリーア)の体系を意味しているようだ。私の浅い理解で、イスラム法(シャリーア)は、その根幹にあるクルアーン、そして次に重要なムハンマドの言行録(ハディース)があって、ウンマ(イスラム共同体)における合意(イジュマ-)、さらにこれらを類推する(キャース)という体系がある。ムスリムは、神によって規定されたシャリーアの体系の中で自らの行動を選ぶことになる。クルアーンにある通りに、クルアーンに記されていないことはハディースにある通りに。もしこれらに書かれていないことはウンマの合意に従い、そこにもない場合は、類推するしかない、というわけだ。イスラムの法体系は極めて演繹的である。

この「フィクフ」は、ムスリムにとって重要なシャリーアの行動規範に関する論考なのである。中田氏は、イスラム法学者であり、この論考も法学なので、出来る限り精査された表現になっている。そこがまた新鮮なのであるが…。

第一章「フィクフとは何か」では、定義・シャリーアとの関係性・その発生と必要性・その主題・国家との関係・その平等主義・歴史・現在といったように詳細に論じられている。第二章「フィクフの基本概念」では、インジュティハード・ファトワー・フィクフの義務範疇・フィクフと人といった項目になっている。この第二章は実に面白かった。少し備忘録的に記しておきたい。

インジュティハードというのは、前述の自分自身の判断でフィクフの規範を演繹する作業のことである。語義は最善を尽くすことらしい。旅先で太陽や星の位置をたよりにキブラ(メッカの方向)を推測するのはインジュテイハードの本来の意味に近いわけだ。同様にどの瞬間においても、アッラーの御心に従うべく自分の知識と能力の限りにおいて、「最善を尽くすこと」はムスリムの義務であるというわけだ。しかし、フィクフの専門用語としてのインジュテイハード、つまりクルアーンとハディース(スンナ)から導き出され、理念的に全てのムスリムを拘束することを意図する「普遍的」な行為規範を定立する行為は、誰にでも許されるものではない。

当然、クルアーン・ハディースに精通した法学者で、様々な規定の構造(字句通り解釈すべきか否か、包括的か否か、明確か曖昧か、一般的か特殊か、無条件か限定的か、スンナの場合真性か否か、不特定多数へのものか個人か等)を理解し、イスラム史上のフィクフの規定に関する全ての争論と合意事項を知り、類推とその条件を知り、なおかつ、イエメンやシリア・イラクなどのアラビア語方言にまで精通する者となっている。当然、このような法学者は無条件ムジュタヒドと呼ばれ、スンニー派の4法学派の始祖たちを意味する。(もちろん、マレーシアの主流の法学派を確立したアル=シャーフィーイーも入っている。)したがって、一般的なムスリムは、彼らの判断に従うことになるわけだ。面白いのは、こういったフィクフの教養を欠く無学者は、理解できる範囲で知っているクルアーンとハディース(スンナ)の明文に従えばよく、それも不可能であればファキーフ(フィクフを修めた者:この認定機関もないところがイスラム的平等主義で凄い。)に相談することも許される。それが無学者のイジュデハードとなるそうである。

2017年11月4日土曜日

IBTの話(137) 面接指導

受験生の1人がめざすK大学
http://www.yasui.net/hikolog/i
ndex.php?itemid=575
先週も実に忙しかった。昨日の放課後は、6人の面接指導をK先生と行った。私費生は出願する大学については自由だが、願書の入手、出願日や入試日、合格発表の日程がバラバラで、6人が12月初旬までに受験する故である。特にEJU後2週間のスクールホリデーがある。スクールホリデー中に入試がある学生や直後の学生もいるので、実はあまり時間がない。

面接の指導は、日本で35年近くやってきたわけで、これまでにも何度も経験がある。入退室の所作から、質問への的確な解答、面接者の目を見て話すこと、沈黙してしまわないことなどが最重要事項である。我がクラスは日本語検定2級はほぼ全ての学生が取得しているが、こういう面接ではさすがに日本人のように上手く対応できない。

K先生の面接指導は実に勉強になった。やはり日本語の先生は、的確な解答とその言い回しをうまく指摘されるし、わかりやすい。

事前に面接のQ&Aも配布し、書かせるのだが、それ以前に日本語の授業で、なぜ日本に行きたいのか?なぜこの大学か?なぜこの学部・学科か?を徹底的に作文させたうえで書かせるのも重要だ。今回は、日本語の教員でない私が担任なので、K先生がずっと指導してこられた。私もかなり読ませてもらったが、K先生の頭には、一人ひとりの苦労した志望動機が詳細に入っている。IBTの面接指導は実に丁寧だ。

そう毎回K先生にご足労いただくのも申し訳ないので、来週の金曜日まで、私が時間をさいて個別指導していくことにした。「一週間の成長を楽しみにしていますね。」とはK先生の言である。

2017年11月2日木曜日

早くただのオッサンに戻るべき

http://blog.livedoor.jp/kaoriiida/archives/72171502.html
NYCで、ISの影響を受けたアメリカ国籍の男が単独テロを起こしたという報道が流れた。テロは憎むべき所業であるが、大統領がツイッターで「死刑にするべきだ。」とつぶやいて良いとは思わない。彼は、合衆国の三権分立という政治の根幹を理解しているとは思えない。行政の長として、司法権にむやみに介入するような発言は控えなければならない。おそらく小学生でも解る、自明の理である。それが解らないのでホワイトハウス=幼稚園と批判されているのだろう。
https://jp.reuters.com/article/new-york-attack-idJPKBN1D20S3

民主党は、このような幼稚な大統領が北朝鮮問題で暴走しないよう先制攻撃を禁止する法案を提出したらしい。残念ながら現在のところ民主党は上下両院で過半数を得ていないし、大統領には法案拒否権がある。これが成立する可能性は低いが、三軍の長としての現大統領にNOを突きつけていることに違いはない。このような法案を提出せざるを得ない状況こそ、異常であり不幸である。
https://jp.reuters.com/article/usa-democrat-north-korea-idJPKBN1D13DN

私は、ツイッターやフェイスブックをやっていない。短いセンテンスで自分の思いを表現する自信がないし、感情的に発信したりしたら極めて危険だと思っている。日本でも大阪出身の元政治家が極めて汚い表現で衆議院議員をなじって批判されている。政治に関わる人間の言葉は、極めて慎重であるべきだし、こうしてアクセス権を行使する一般人もまた、慎重に言葉を選ぶべきであると思う。それが出来ないのなら、しないほうがよい。

大統領は、まさにその資質に欠けると私は思う。早くただのオッサンに戻るべきだ。

2017年11月1日水曜日

アフリカ飯の話

久しぶりにアフリカの話をエントリーしたくなった。暗い話ではなく明るい(?)話題を。と、いうわけで、ルワンダの食事事情について、JOCVの方が書いていたものを紹介したい。
http://afri-quest.com/archives/7271

ルワンダの職場でのランチの写真が並んでいる。私などは、写真を見た瞬間に「ウマソー!」と思ってしまう。芋や米に豆入りのソースがかけられたもの。ケニアのセカンダリースクールで出されたものに近い。香ばしい豆のソース。これがいけるのである。肉の入ったものを見て、このJOCVの方と同様の感想がわいだ。「豪華!」テンションがあがるというのは痛いほどわかる。
だが、悲しいかな、こういう食事は旨いのだが、飽きるというのもわかる。アフリカではバリエーションに欠けるきらいがあるのだ。私自身はグルメというわけではないので、アフリカの食事は全く問題ない。

一方、私の住むマレーシアでも、アフリカに似たワンプレートの経済飯(中華系は雑飯と呼ぶ。)がある。私は大好き。だいたい野菜2種類と肉系(ハラルの関係で鶏肉が多いかな。)1種で、安ければRM5~RM10というところ。肉系を多くすれば追加料金というのも同じ。マレー系、中華系、インド系それぞれ美味しいし、チョイスできる種類も豊富だ。この辺は、東南アジアの凄さを感じる。マレーシアに在住の日本人で、こういう経済飯やローカルの人々が集まる屋台の店での食事を避ける方々もいるらしいが、私は大好き。郷にいれば郷に従えではないが、マレーシアのローカル(現地の人々の意)に近くに常にいたいと思うのである。