2010年10月31日日曜日

西宮へアフリカのお面を見に行く

昨日、ブログで記したように、今日は西宮の大谷記念美術館というところへ、アフリカのお面を見に行ってきた。当然妻と共にである。サカキ・マンゴーのコンサートは無料だった(要予約)ので、展示を見てコンサート(90分)込みで800円はムチャ安い。今日を目指して行ったのは正しい!のである。ワンピースのTVが終わってから、準備をしてJR学研都市線+東西線+神戸線1本で、さくら夙川駅まで。アクセスも抜群である。時間があったので、昼食を取ることにしたが、適当な店がない。偶然、阪神電車の「香櫨園」の駅近くの「まめ牛」いう炭火焼肉屋に入った。時間がかかったが、880円の切り落とし定食は、ブログに書く必然性を感じるほどおいしかった。肉もご飯もおかわり可能だったが、一見(いちげん)さん故、遠慮した。もし近所にあれば通うことになるであろう。
 さてさて、本題1である。今回の美術展は、『アフリカの仮面と美術:生命と創造の大地』というのが、正式な名称である。西アフリカ、中央アフリカ、ナイジェリアと3部門に分かれ、数々の興味深い仮面や彫刻等が展示されている。そもそも、民博のファンで、特にカメルーンの造形に惚れている我が夫婦は、こういうのが大好きである。もちろん、カメルーンの仮面も、ガボンの仮面も、マリの仮面もよかったが、私のイチオシは、コートジボアールの騎馬に乗った男像である。理由は特にないが、もし、私が書斎を持っていたら、机上にこれが欲しい。(笑)
本題2は、当然サカキマンゴーのコンサートである。妻は、親指ピアノの音色については、私のムビラしか知らない。さて、どう反応するか楽しみであったが、意外にノリノリで楽しんでいた。一つには、サカキマンゴー自身の演出やアフリカ学的な要素も含めて、観客参加型のステージを創っていたからであろう。90分、見事なコンサートだった。これで無料は申し訳ない。「親指ピアノ道場」という著書とサカキマンゴーバンドのシールを2枚買ったのであった。<右の画像は、サカキマンゴー>
 いやあ、楽しい日曜日だったが、1つ問題をあげるとすると、焼き肉屋から出た時、雨になっていて、ずいぶん濡れたことである。帰りも雨が止まず、美術館でビニール傘を2本買うことになった。その値段が、1本110円である。今時、こんなことがあっていいのだろうか、と思う。100円ショップで購入したと思われるが、原価である。極めて良い美術館であるとしかいいようがない。

2010年10月30日土曜日

ジンバブエ外伝・ムビラを語る

 今日は、「ジンバブエについて熱く語る」の外伝という形で、ムビラについて語りたい。ムビラとは、アフリカの伝統楽器、親指ピアノのジンバブエ版である。私が、苦労してジンバブエ行きのバスの切符を入手、ついに入国した2日間は、悲しいかな休日でこれといった土産店は開店していなかった。公園の露店といった店で、私はムビラを見つけた。まさに土産用といったチャチなものである。店のオヤジが本物のムビラを演奏していた。私には土産用のものを勧めたのだが、結局私はオヤジのムビラを買うといってきかない。おそらく愛着もあったのだろう。そのぶんの価格も含めて日本円で1500円くらいで買った記憶がある。日本で手に入れるとなると、軽くその5倍以上する。ムビラは変な楽器だ。ビールのふた(金属)がついていて、ガシャガシャといった雑音も混じる。そこがいいのだ。ムビラは、親指ピアノだし、音が小さい。ひょうたんを使って、拡声することもある。しかも単調で、誰にでも弾けそうな気がする。そこもいい。私はムビラのCDを2枚持っているが、授業で聞かせたことはない。絶対生徒は寝ると思う。(笑)でも、「ものランゲージ」として、生徒に触れさせるアフリカ教材としては、かなりいい。

 今日こんなことを書いたのは、明日、西宮の美術館にアフリカの仮面展を見に行く予定だからである。何故明日かと言うと、そこにサカキ・マンゴーが来るからである。サカキ・マンゴーは、旧大阪外大のスワヒリ語科の卒業生で、親指ピアノにハマったヒトだ。前から注目していた。なかなか縁がなくてコンサートに行けなかったのだが、ついに明日会える。ちょっとワクワクしているのである。

2010年10月29日金曜日

第二の革命・廃藩置県を語る

 このところ、日本史Bでは、廃藩置県のことをやっている。廃藩置県は第二の革命と言うほど日本の近代化にとって重要な事件である。受験に関係ない日本史Bとしては、大いにこだわりたい。戊辰戦争は、そもそも、薩長土の藩兵が官軍の中心になって行われた。戦争が終わると、各藩兵は故郷へ帰ってしまう。あたりまえのような話だが、ここが凄い。東京の新政府には、国家権力の基盤が無に等しくなったのである。しかも新政府の財政は、旧幕府直轄領からの年貢米のみ。それも凄い。生徒に質問する。「新政府としては、かなりヤバイ状況だ。どうすればいいと思うかね?」いろいろな意見が出た。その中でも皆が驚いたのが、「藩に分れているから、内乱の危険があり、まずいと思います。藩をつぶしてしまうべきです。それから軍隊を改めて作ったらいいと思います。」他の生徒から思わずため息がもれた。なんという暴論!という感じだ。しかし、これが正解だったのである。「そう、それが、廃藩置県の意味だ。」と私が言うと、中学の歴史で、曲がりなりにも「廃藩置県」という重要語句を知っている生徒たちは、思わず机を叩き、「へぇ~」ボタンを押したのだった。
 この廃藩置県、新政府の権力掌握上避けられない過程であり、木戸孝允や大久保、そして後に陸軍の中心者となる山縣有朋などが同時進行で思索していたようだった。しかし、社会の基盤である藩をつぶすのである。彼らだけでは到底できない。薩摩に引っ込んでいた西郷の人望に頼るしかなかったのである。西郷の説得には、山縣があたった。山縣も命がけである。西郷が断った時は刺し違える覚悟だったという。このあたり、明治の政治家の気骨というか、サムライなのである。(山縣は最下層の奴さんの出自だが…。)対する西郷も、山縣の説く意味がわかった時点で、死を覚悟したらしい。薩摩の久光を説得する為には死を決してあたらねばならない。この辺が凄い。やくざ映画どころではない。一国の生き死にに関わる問題である。<今日の画像は、山縣有朋にしたかった。ところが若いころの山縣の画像がない。そこで、銅像探索日誌というHPからお借りした。左が山縣、中央は木戸、右は伊藤。萩市の道の駅にある銅像だそうである。>
 廃藩置県は、一気に進んだ。いろんな本を読んだが、日本と言う国に流れていた植民地化への危機意識と、和をもって尊しとなすと言う集団主義を基盤にすでに国民国家となっていた故であろう。一滴の血も流されなかったのは世界史上の奇跡であると私は思う。まさに第二次大戦の終了時を彷彿とさせる。日本とは不思議な国である。
 ところで、この廃藩置県で、人口の6%強の武士が一気に失業した。録にしたがって退職金らしきものは支払われたのだが、悲惨な話である。面白いのは、学校に行くことで生き延びようとした武士が多かったということだ。この学びへの信仰のような姿勢こそ、近代日本の礎ではないかという気もする。中国・朝鮮のような科挙のための学びではない。イギリスの貴族階級のような階級意識に支えられたエリートとしての学びでもない、中間管理職を大量に排出するプラグマティックな学びであったところが面白い。この辺、趣がアメリカのプロテスタンティズムに似ていて妙である。

2010年10月28日木曜日

中間選挙のアイオワへ

本日午後、アメリカ研修旅行に参加する英語科2年生が全員無事旅立った。どうやら今秋のアイオワは寒いらしい。最低気温は1℃だとか。と、いうわけで、今日の画像のU校のマスコットは、雪が降っているわけである。先ほどもNHKのクローズアップ現代でやっていたけれど、U校への研修旅行の時は、いつも中間選挙か大統領選挙の真っ最中である。私の担任の時も中間選挙であった。アイオワの家はだいたい芝生があって、そこに支持する議員名などが書かれた立て看板や幕が立て懸けてあったりする。ちょうどハロウィンとも重なって、おもしろい風景である。今年は、アメリカも経済不況で、ティーパーティーという共和党の運動が盛んらしい。アメリカの精神(個人の自由の尊重)に立ち返れと言う白人保守層の運動であるらしい。合衆国憲法を配り歩いて、その原理主義的な立場を鮮明にしているらしい。…なるほど。なるほど。
 日本にいると、アメリカ人は政治好きなんだな、くらいに思えるかもしれないが、この政治に関する重大な日米の文化的相違がある。初めてアメリカを訪れた時、その大きな衝撃的事実を知った。
 それは、日本ではサラリーマン(私も広い意味でそうだが)など勤め人は、税金を給料から天引きされているので、税金をどれくらい納めているのか、あまりよくわかっていないということである。この形だと、どうしても納税意識が低くなる。ところが、アメリカでは、全ての人が、自分自身で申告するのである。自分で1年分の領収書を集め、自分で申告書を書き、納税する。苦労する分、納税額への関心も高いし、当然その使途である政治への関心も高くなるのである。

 アメリカの公立学校は、そういう関心の高い税金(まさに血税である!)で運営されている。小学校などは、コミュニティの意見を当然反映せざるを得ないし、保護者(納税者)が学校運営に口をだすのは当然である。校長は、ある意味コミュニティのカネを預かって、いかに効率的に、しかも成果をあげる学校を運営するかを問われる経営者であるといっていい。当然良ければ給料は上がるが、無能なら解任である。一般教員も同様で、高校レベルなら、進学実績や特色ある授業などが個々に評価され、個別に契約を結ぶのである。ボストンの高校で、私は台湾出身でIT教育でゴールデン・アップル賞というのをもらったという優秀な先生に車で送ってもらったことがある。校長は、彼女のような優秀な教員をスカウトできて満足している、と言っていた。完全に経営者である。彼女の授業が受けたいと、優秀な生徒が集まるのであろう。

 この納税システム、邪魔くさがりの私にとっては、ノーサンキューだが、公立学校がこういう緊張感に立たされ、競争しあうというのは悪くない、と私は思っている。日本人は、アメリカを理解しているようで、こういう基本的な事実をあまり知らない。アメリカの政治理解の基礎、しいては文化風土の基礎ではないか、と私は思っている。異文化理解は、こういうところから教えたい。

2010年10月27日水曜日

アナタ・ボリビア、私ケーナ

学校が終わってから、京阪電車に乗って、枚方市民会館の”ANATA BOLIVIA”というボリビアのフォルクローレのバンドのコンサートに妻と行って来た。本来は、ラテン音楽好きの息子が帰国している可能性もあり、一応妻と息子の分のチケットをキープしたらしいのだが、息子はまだルーマニアあたりらしい。で、代役に私が行くことになったのである。やれやれ。とはいえ、ケーナの音はやはりいい。息子が中学生だったと思う。私がNYCに行く時、「お土産に何が欲しいか?」と聞いたら、「手榴弾とケーナ」という答えが返ってきた。この時の手榴弾事件については、以前このブログでもふれた。(昨年12月26日付ブログ参照)
ケーナとは、フォルクローレで使われるたて笛である。NYCのとある民族楽器店で、私はそれを手に入れた。その店は、入り口が非常に狭く、手荷物を入口のカウンターに置かされるのだった。店内はまさに民族楽器で造られたジャングルである。「何を買いたい?」とオヤジに聞かれたので、「ケーナじゃ。」と言うと、大声で、ジャングルの奥に向けて、叫んだ。「ケーナだとよ!」すると、奥から「OK」という若い声が聞こえたのである。「よし、進め!」とオヤジが私に言った。よく事情が呑み込めなかったが、ここは「見るだけ」などという甘い世界ではないことは判った。「こっちやでぇ」という声を頼りにに、ジャングルを進むと、若い兄さんが埃だらけの箱から、数種類のケーナを出してきて、吹いてくれては、値段を明かしたのである。結局、そう変わらないように思えたので、$30のにしたと記憶している。「店長に、ケーナを持って行って金を払ってくれ。」と彼が言うので、またジャングルを戻った。すると、他の客が勝手に入ろうとしていて、店長にどやされているところだった。奇妙な民族楽器店だった。<上記写真参照>

 さてさて、昔話はともかく、今日のフォルクローレ、6人のボリビア人と1人の日本人のバンドであった。日本人の彼が、楽しくコンサートを進めてくれた。スペイン語の歌がほとんどで、私はミニバス(ケニアのマタツーのようなもの)という歌が気にいった。バックに、ラパスのミニバスの映像が流れ、バスの車掌役の少年の掛け声(スペイン語)を客席とやり取りしながらのステージは、なかなかのものだった。もちろん、ギターの腕前も歌唱力も大したものであった。結局、CDを2枚も買ってしまったのだった。満足。満足。

2010年10月26日火曜日

河内音頭 IN 月壇中学

 中国修学旅行シリーズ、一応の最終回。今日は月壇中学との交流について書こうと思う。月壇中学は北京で唯一日本語を第一外国語としている学校である。<右の画像はその正門。電光掲示板に熱烈歓迎と本校名が表示されている。>本校以外にも多くの日本の高校と交流関係にある。ただ、本校はその中でもここ5年連続して訪問し、かなり重要な交流校と認知されていると私は思っている。前回も校長が交流式典に出席されたし、今回も所用を終え、交流式典には間に合わなかったが、その後はずっと本校校長と懇談されていた。月壇中学の校長は、どっちかというと北京市のえらい方で、実務は副校長に任せておられるので、2年連続校長と懇談できたとうことは、本校に対してそれなりの重視の表れなのである。(この辺、社会主義国の役職の序列云々を重視するマスコミ報道みたいだが…。)この月壇中学は、かなり優秀な学校で、北京大学をはじめ、素晴らしい進学実績を誇っている。日本留学でも、東大、名大、筑波大、早大、慶大など錚々たる大学名が並ぶ。
 とはいえ、交流は交流である。進学実績なんか関係ない。日本語はできるが、シャイな生徒諸君が多い。今回は、式典で本校生徒が”3人丸暗記同時中国語スピーチ”を披露した。監修のK老師が、太鼓判を押したメンバーだ。月壇中学の先生方も非常に誉めておられた。さらに、本校生のアトラクションは、「河内音頭」だった。全員が浴衣に着替えての本格的なものである。最初見ているだけだった月壇中学の生徒(写真ではスカイブルーの体操服を着ている)に、担任のT先生が声をかけ(日本語だ。しかし彼らは日本語が堪能である。)、徐々に輪に入っていく。いい交流だった。その後、校舎見学、教室での懇談、さらに少し暗くなった運動場で、レクレーションを楽しんだ。交通事情もあって若干延着した我々を、時間オーバーして精一杯もてなしてくれたのだった。
 実は、現地ガイドの王さんが、月壇中学の卒業生で、毎回細かいところまで面倒を見てくれる。今回も、彼の念密な打ち合わせのもと、無事に交流が出来たのであった。ありがたいことである。本校生徒、そして月壇の生徒たちの満足げな顔を見ていると、マスコミ上の様々な日中の問題はふっとぶのである。王さん・劉さんとともに、月壇中学の友人とも、地球市民的つながりを結んでくれたら、私はこの修学旅行の意味がさらに深まると考えている。

追記1:今日は多くの生徒に「カラダ、大丈夫ですかぁ?」と聞かれた。かなり心配をかけたようである。授業では、それを払拭すべく汗をかいて熱血の講義をしたのだった。現社では、アマルティア=セン、倫理ではキルケゴールとヤスパース。久しぶりの渾身の授業であった。追記2:higashi101さん、読者登録ありがとうございます。コメントもお願いしますね。

2010年10月25日月曜日

間前一小歩、文明一大歩

今日は、体験入学の代休日である。ちょっと早めにブログ更新をしたい。中国修学旅行シリーズの続きである。私は、昨年、今年と続けて北京に行ったわけだが、だいぶ以前に行った個人旅行での北京とも絡めながら少し考えたい。
 1つ目は、なによりも車の多さである。個人旅行で訪れた頃は、ダイハツとVWのタクシーが目立ち、高速道路も出来つつあった。ホテルから無謀にも、ハードロックカフェ・北京にタクシーを飛ばした。頼りは、硬石飯店の住所と止まってるホテルの住所のみ。英語など通じない。タクシーは、胡同(前日のブログ参照)の人力車よろしくカーチェイス状態で、何度も死ぬかと思った。今、北京の高速道路をあんなに飛ばすことは、余程の深夜でもないかぎり出来ないだろう。完全に飽和状態である。劉さんのガイドによると、平日に、1/5ずつの一般車の通行を規制しているらしい。月曜日なら1と6、火曜日なら2と7という風にナンバーの最後の数字で、規制の曜日が設定されているという。(ちょっとうろ覚えだが…。)北京オリンピックの時は、奇数偶数で規制されていたので、もっと車の稼働率が悪かったはずだ。規制を緩くした分、車の販売台数が増え、しかも、高級車と言ってよい新車がガンガン走っていた。
 2つ目は、「勇気優先」である。この車の交通ルール、まさに弱肉強食である。当然、政府・軍関係車、トラック・バス、高級車、大衆車、軽自動車、バイク、自転車、そして人間と、すさまじいヒエラルヒーがある中、一瞬のスキをつきながら前へ前へと進むのである。劉さんに言わせると、北京の交通ルールは「勇気優先」となるのである。生徒が感心していた。(笑)
 
この車の莫大な増殖と、勇気優先の修羅場を、今回は強く感じた次第。場所は、北京雑伎団の公演会場前の信号である。<写真はその会場。まだ人通りが少ない時点での撮影。>とにかく筆舌に尽くしがたい移動風景である。莫大な車、人、クラクション。壮絶な戦いと言ってもいい。私は,足を痛めた故に車いすを使用している生徒もいたため、最も危険な位置で生徒達の移動を見守っていたのだった。人と車に酔った、という感想だ。雑伎団公演は、今回は2階席で満員だったこともあり、講演が始まってから、まだまだ人が入ってきた。生徒の横に他の団体客が遠慮なく座っていく。さらに、劇場のスタッフに注意されると、大声で反論する。勇気優先は、交通ルールだけではないのである。

 この我々日本人から見れば多少揶揄したくなるような喧騒は、なにより中国の人々の数の多さからくる宿命的なものだと私は考えている。「和」を保てるのは、肉親・血縁。そして地縁が限界であり、それ以上になると極めて難しくなる。日本のスタンダードで測るべきものではない。とはいえ、今中国政府は、これをなんとかしようと懸命である。劉さんが、朝のバス停で整列乗車を呼び掛けるボランティアの紹介をしていた。オリンピック以来、街が飛躍的に近代化し、綺麗になった。それを有効に使いこなすには、「脱勇気優先」のスタンダードが必要である。その一つの現れであろう。

 今日のタイトルの「間前一小歩、文明一大歩」は、某公衆トイレで見つけた金属プレートの文句である。<写真参照>男性用トイレの前にあったので、意味は明瞭であろう。しかし、深く読んでみると、この脱勇気優先問題、長い時間をかけて一歩一歩中国が進んでいかなければならない大問題であると私は思うのである。北京「首都」空港では、ライターを持ち込ませない。喫煙所以外で喫煙する勇気ある者がいるからであろう。これには、まいった。(笑)

2010年10月24日日曜日

劉さんの「私、子供産みますヨ」

 昨日は、中学生のための「体験入学」で登校日(授業は1・2限、午前中準備・午後体験入学)だったのですが、熱が下がらず(38℃)、結局休むことになりました。地理Aの授業もあり、体験入学の役係もあたっていたのですが、どうすることもできませんでした。妻に背中から腰にかけて湿布を貼ってもらい、関節や筋肉の痛みに耐え、ジュースやゼリーやアイスクリームなどの食事で1日じっと耐えておりました。今朝ようやく平熱に戻った次第です。

  さて、今日は、今回の中国修学旅行で最も印象に残ったことについて書きたいと思います。胡同(フートン)でのことです。
 今回は、昨年の行程に若干変更を加えました。昨年行った「頤和園」と「明の十三陵」をやめて、「胡同」を入れたのです。 昨年の生徒諸君のアンケートの結果と、タイトなスケジュール緩和が、その理由です。さて、この胡同、要するにに古い北京の町並みで、アメリカで言えば、「歴史地区」といったところでしょうか。北京の膨大な数の近代的ビルと高速道路で停滞する車の列に圧倒される我々に「清朝時代の中国」を感じさせてくれるところだといえます。さて、この胡同、人力車で散策するとことまで往復するのですが、あいにく小雨が降ってきました。(午前中の万里の長城はなんとかもったのですが…。)<画像を参照>この人力車、私は個人的に、自分が偉そうにしているようで気に入らなかったのですが、時間の関係もあって、そんな感傷もクソもないまま、慌てて乗り込むはめになりました。すると、数十台の人力車が、まるでカーレースさながらに同時にスタート、スピードを競うのです。もちろん、前方から車は来るわ、人は来るわ、横にぶつかりそうになるわで、物凄いスリルがあるのです。なかなか面白かったというのが、私の感想です。生徒は、どう感じたのでしょうか。
さて、胡同の散策を終え、バスに戻ってみると、劉さん(先日紹介した現地ガイドさん)がいません。後で、聞いたところによると、携帯電話を人力車の座席に忘れた生徒がいて、その世話をしてくれていたのでした。本来、この人力車、安い賃金で働く車夫はチップが生命線。今回は団体なので、私もチップを払いませんでしたが、わざわざ携帯電話を届けてくれた車夫に、劉さんがチップを払わないわけがありません。聞くと20元支払ったとか。「私が出すよ」「ダメ!いらない。」「劉さんに払わすわけにはいかない。」「ダメ!いらない。」普段は、”愛想の塊”のような劉さんが折れません。とりあえず、この時はは私が引いたのでした。その日の本校教員だけのミーティングで、これは本校が払うと決めました。北京空港で最後の最後に校長に渡してもらうことにしました。
 そして、北京空港。結局、校長が渡しても、劉さんは頑として受け取りません。「私、子供産みますよ!」というのが、劉さんの拒否の言葉でした。
 これには、少し解説が必要です。劉さんは、若く美人なので全くそう見えませんが、既婚者です。3年前、本校の修学旅行のガイドとして登場した時は、未婚でしたが、昨年の修学旅行前に結婚されました。ただ「私は一人っ子政策の第一世代なので、子供を産む勇気がありません。子供が子供を育てられませんヨ。」と、子供は、まだまだと言っていたのです。つまり、「子供を産みます。」というのは、「次の修学旅行でガイドしませんよ。」という”脅し”だったわけです。

 この劉さんと王さんという現地ガイドのお2人は、今年で連続3回目。今回は特に尖閣諸島問題で実施されるかどうか、非常に心配していたそうです。2人にとって、本校のガイドは、単なる”仕事”ではなかったのです。姉の世話をしたから、その妹の世話をするという感覚というか、”内輪”の感覚があるのです。だから、車夫にチップを支払うのは当然で、金銭の問題ではないということなのだと私は理解しています。その証拠に、劉さんは、私が持っていた二元札(今はもう発行されていない)に「珍しいですね。」というので、その札をあげたら大喜びましたし、ホームヴィジットのため用意していたけど、使わなかった「日本の民芸風お手玉」をあげたときも、喜んで受け取りました。でも、生徒の為の二十元は受け取らなかったのです。「私、子供産みますよ!」という拒否の言葉には、自分の全てをかけた本校生徒への想いがこもっているのです。この気持ちが、嬉しい。涙がでるほど、無茶苦茶嬉しいのです。
 王さんも北京空港で1年ぶりに再開した瞬間、私が、彼にハグしにいったことに感激してくれていました。「本当に嬉しかったです。」彼にそう言ってもらえて、私も嬉しかったです。王さんも、北京空港から天壇公園に向かうまで興奮気味で、バスの中で自分で何を言っているのかわからなかったとか。それくらい今回の本校のガイドを楽しみにしていてくれていたことを、後で知りました。王さん・劉さん彼ら2人の想いが、本校の中国修学旅行を支えているのです。本校は、中国・北京になによりの「財産」をキープしているのと私は思うのです。

 昨年彼らと出会った国語科3年生に、先日授業でこういう問いかけをしました。「万が一、尖閣諸島の問題が悪化し、中国と日本が戦争になったとして、君たちは、王さん・劉さんに銃を向けれるか?」
  
  …全員が沈黙しました。
 
 これが、地球市民の平和学だと私は思っています。

2010年10月22日金曜日

男の美学・発熱に敗北

定刻通りに家を出たが、どうも熱っぽい。お世話になった先生方への挨拶や、お土産を置いてまわり、職員朝礼で国際交流部としての公式のお礼を述べた。今日は1・2、5・6限と授業がある。1時間目の日本史Bの授業を終えたら、吐き気がした。今まで長い教員生活でこんな事は初めてである。2時間目の倫理は4人だけだし、自習にしてもらい、ちょっと休んだ。その後国際交流部通信を作ることにした。明日は、体験入学で中学生が来るし、2年生の国語科の生徒も玄関に速報版があればきっと喜んでくれるだろう。ところが、遅々として進まない。私のCPUの稼働度がかなり低い感じがする。これと明日2年国語科に配布するアンケートを作った。もうボロボロで、とても5・6限の授業などできる状況にない。見かねたK老師や周りの先生が「帰りや、帰りや」と言うので、甘えることにした。自宅にタクシーで帰り、体温を測ると38℃3分あった。3時間ほど爆睡した後、無理してもH城鍼灸院には行きたかったので、妻と行ったら、史上最高に痛い鍼を打たれた。右の薬指のつめの下である。死ぬかと思ったのだった。ゼリーや梨などの夕食を終え、やっとパソコンに向かうことが出来た次第。いろいろ書きたいことが山積みだが、体調を考えて明日にしようと思う。

2010年10月21日木曜日

中国修学旅行より帰国

定刻より若干早く関空に着きながらも、枚方行きのバスの時間の関係で、10時過ぎに自宅に帰ってきました。いろいろと細かな問題はありましたが、無事全員帰国できて、ほっとしています。
 <写真は、北京空港でみんなを見送ってくれている、中青旅のスーパー現地ガイドの劉さん(左)と王さん(右)>
 北京での詳しいことについては、明日以降に書いていきたいと思います。
 今日はさすがに疲れているので、すみません。

2010年10月16日土曜日

紀州の津田出(いづる)は凄いゾ

 いよいよ明日は修学旅行に出発なのだが、残念なことにこれまで皆勤で見てきたNHKの「龍馬伝」が見れない。どうやら、「いろは丸事件」が主題らしい。”いろは丸”といえば、ぶつかったのは紀州藩の船である。ところで、先日MW校のRM先生がホームスティするというので、大掃除をしていた時に、いつ買ったかわからない古本が出てきた。『明治という国家』という司馬遼の本である。読んでみると、これがなかなかいい。紀州藩におもしろい人物がいたことが記されている。戊申戦争後、明治の初めのころのことである。紀州藩つながりということで、今日は津田出という人物について書いておきたい。以下は、修学旅行から帰国後に使う、私の日本史Bのプリントからの引用である
 
 西郷は、新政府の青写真をかける人物を探していたようだ。ここに面白い人物が登場する。紀州藩の津田出(いづる)である。彼は、ヨーロッパの1公国のような藩政改革を考えた。その基本は、武士の制度を廃止して百姓にしてしまい、百姓に洋式訓練をして防衛にあたらせるという革命的なものであった。藩主茂承(もちつぐ)は、この津田の案に賛同する。第二次長州征伐で奇兵隊に敗れたからである。しかし、この案は葬られた。しかし、鳥羽伏見の戦いの後、復活断行された。藩主、藩士の収入が抑えられ、門地ではなく、才能と能力次第で登用されるようになり、藩政の最高機関として「政治府」を置く。その下に公用・軍務・会計・刑法の4局をおき、群ごとに民政局を置いた。さらに学校の制度を整えた。軍隊は、陸軍と海軍にわけ、病院を置くとともに、傷病になった兵士の面倒をみる廃兵院も置く。陸軍は、軍務局を頂点に、騎兵・砲兵・歩兵・土兵を置き、兵士は武士・農民を問わず、20歳に達した青年から選抜徴兵し、給料を支給する。また通商省という「開物局」を置き、洋式技術や洋式機械により皮革業をおこしたり、靴製造、木綿製造を行ったりした。つい先ほどまで御三家の一つ紀州徳川家だった、しかも財政的には田舎のこの藩が、いきなり新時代の政体と、小さな新文明の国家を出発させたのである。後にこの津田の改革は、各国公使の話題となり、見学会がもたれたという。また後に東京の新政府に呼ばれた津田に、うわさを聞いた西郷は合いに行き、大久保に「津田先生を頭とあおぎ、われらはその下につこう。」と言ったという。

 この津田出氏、後に陸軍のえらいさんになるのだが、それより紀州藩が一気に近代化を進めていたという事実が凄い。ガバナンスが良ければ開発が進むという好例であろう。

 さて少なくとも木曜の夜まで、ブログの更新はストップすることになります。
 私のブログの統計を見ていると、意外に思う事があります。ページビューが多いのは、なぜか7月の投稿です。(今日現在、4月19日/オナトラ船のTVで爆発的ビューによるもの、5月2日/トイレの神様の話、これは不思議。そして、7月11日、7月20日、7月5日、7月10日、7月7日、7月4日、7月9日、そして7月13日の順になっています。)
 そこで、それ以前の投稿で私自身深い思い入れのあるものを、”我田引水”して紹介したいと思います。

 1月は、28日の「デモクレイジー」 
 2月は、3日の「節分はダイアン吉日」と12日「非常勤講師の報酬に異議あり」、15日の「ナイロビの水虫」
 3月は、8日の「アフリカ3へソーラーの光を」、12日「96丁目雪の降る日に」、13日「神があなたをゆるさないわ」、16・17日の「JEWYORKな話」、19日・21日の「アパルトヘイトは消滅したか」
 4月は、6日の「Africaガバナンスの善し悪し」、17日「ブルキナのサヘルで井上陽水」、21日の「キべラスラムに GoodPoo」
 5月は、2日の「ひとりでは夢を見ないアフリカ人」19日「ハーレムでエヴァンゲリオン」
 6月は、29日の「子供嫌いのアメリカ文化」

 これらは、”エッセイ”として、あるいは”広く発信したい情報”いう2つの観点で選んだものです。BLOGGERのシステム変更で、コメントをその投稿(かなり古いものでも)の所で書きこんでいただければ、すぐコメントがあったことがわかるようになりました。よろしければ、コメントもお願いします。

2010年10月15日金曜日

破壊的に忙しい日に

 今日は破壊的に忙しい1日だった。そもそも授業が4/6時限ある。さらに、中国修学旅行の結団式が入って5/6時限となった。ひぇーである。では、残る1/6時限は何をしていたかというと、英作文をしていたのだった。私が中国から帰国して、1週間も立たないうちに、今度はアメリカ研修旅行が出発する。国際交流部からは、部長のY先生が行かれるのだが、Y先生に託したいものがあったのである。それは、4年前、私がホームステイさせてもらったU校のミラー先生へのプレゼントである。夏のB級バス旅行で、天の橋立に行った時、GOODSを買っておいた。ミラー先生には、3Lの黒いTシャツ(背中に白地で「侍」と書いてある。)、奥さんには、純日本的な携帯電話入れ、そして、『みらー』と名前をいれた千社貼札である。で、メッセージを書くためにカードを先日J堂の本屋さんに行った際買ってきたのである。<今日の画像はそのカード。自分をちょっとイメージしてみた。>

 英作文も、当然サバイバルなのだが、一応国際交流のI先生に見てもらった。U校のB先生に聞くところによると、ミラー先生は、定年でU校をリタイアされたらしい。悠々自適の日々だと聞いた。ミラー先生は、建築の専門家で、U校生徒と実際に家を立てるような授業をされていた。地下室にはバイクもあるし、様々な工具類もあって、器用な方である。きっといろんな楽しみをもって日々を過ごされているのだろう。私のU校でのホームステイ体験についても、いずれまた書こうかなと思う。まあ、とにかく空き時間も英作文に励んでいたのだった。(笑)

 ところで、今日は、破壊的に忙しい日だったのだが、破壊されなかったのが、『私の神話』である。K学院大学のAO入試を受けていたM君が合格したのである。ここ何年か、R大学やK学院大学のAO入試に携わってきた。(D大学とK大学は、いわゆる一般のAO入試をやらない。)1期生は、今インドの大学院にいるR君や野球部のピッチャーだったH君らである。彼らはR大の法学部と政策科学学部だった。翌年、R大の政策科学学部に野球部の後輩のキャッチャーT君を送り込み…と、毎年毎年、R大学とK学院大学に合格者を送り込んでこれた。昨年は某県立大学にも送りこめた。それらのほとんどが、国際関係や国際協力、開発経済学などに興味を持ち、その方面の私の知識を求めてきた生徒たちであった。いわば、地球市民AO塾である。私が関わるAO入試受験者は、本校の誇る小論文指導の雄、K老師と比較すると格段に少ない。だが、合格率は極めて高い。今回も、「神話を信じて面接に行っといで。」と激励した。(笑)
 M君、おめでとう!本当にうれしい。おかげで、清々しい気持ちで中国へ行くことができる。ありがとう。

2010年10月14日木曜日

今日受け取った郵便物・二題

 職員室に、各教員の名前がついたトレイがある。学校宛に届いた様々な郵便物などが入れられるのだが、私はこういう面が極めてルーズなので、すぐ満杯になってしまう。特に今年は社会科主任なので社会科宛のもの、さらに親交会の幹事長なので忘年会の案内などがアホほど来る。事務所のS先生は、やさしい方なので、今日はトレイに入りきらない分を、わざわざ私の机まで運んでいただいた。(反省)その中に、月刊のクロスロード(JICAのJOCVの雑誌)とJICA’sWorldの10月号があった。JICAが毎月送って下さる雑誌である。何度かブログでも記事を紹介したが、今回はJICA’sWorldの特集記事(科学技術×高等教育というタイトルで経済成長の原動力となる人材を育てるJICAの活動報告)、その中でも、ケニアのロボコン(ロボットコンテスト)の話題を紹介したいと思う。

 ケニアのナイロビで、今年1月に第2回ロボットコンテストが開かれた<今日の画像>。牧野さんという専門員さんが、技術振興にはロボット製作が有効だと考え、ケニアの科学技術省や工学系の高等教育機関の関係者をベトナムで開かれたアジア・太平洋ロボコンに連れて行ったところから、この話は始まる。同じ途上国のアジア諸国やエジプトなどのアフリカ勢の活躍を見た彼らは、自分たちの国でもやりたいという熱意を持ち、JICAが後押しして、第1回大会を開催した。しかしロボットの素人ゆえに本番では全く動かないものもあったらしい。だが彼らの情熱は衰えなかった。そんな中、牧野さんが急逝されてしまう。牧野さんの遺志を継ぎ、絶対成功させたいと、第2回大会が開催されたのだった。優勝したのはケニア教員養成カレッジで、なかなか見事な能力を発揮したという。ウガンダやルワンダの学校もオブザーバー参加したので、将来的には、東アフリカ大会が開催されるかもしれないという。

 ケニアは、理数科教育のJOCVやスマッセの専門家がたくさん派遣されていて、この分野ではアフリカをリードする存在である。私もJICAの視察で、いくつかの工科系大学や専門学校を見せてもらった。農業の生産力が向上したうえで、特に雇用創出力の大きい工業の発展が、貧困から抜け出す王道であると開発経済学のセオリーは教えている。牧野さんの想いを胸に頑張ってほしい。何事も小さな一歩から始まる。牧野さんの残した道は、偉大だ。私は、牧野さんのような地球市民を創りたい。私自身には、技術もないし、伝える力もないが、『人』を創ることはできる。

 さて、S先生が運んでいただいた郵便物の中に、もう1つ、あっと驚く封書があった。日本国際理解教育学会からである。夏の大会で、『国際理解教育の辞典をつくる計画』を理事の先生方が報告されていたことは知っていた。研究者でもない私とは無関係だと思っていたのだが、なんと執筆依頼だったのである。学習領域論/地球的課題の「人口問題」と「累積債務」、国際理解教育の学習論・方法論の「シミュレーション・ゲーム」の3つに私の名前があった。さすがに、前の「人口問題」「累積債務」については、全くの学識不足である。とても書ける自信がない。「シミュレーション・ゲーム」については、なんとか書けそうな気がしたので、その旨を返書した次第である。締め切りは2月末だとか。浅学の身だが、資料を集め、自分なりにベストを尽くしてみようと思っている。

2010年10月13日水曜日

中国修学旅行へカウントダウン

 中国修学旅行の出発が迫ってきた。明日中間考査が終り、金曜日の授業では、試験を返し、成績を入力しなければならない。当然新しい授業の準備も必要である。実は、無茶苦茶忙しい。「中国に行けていいなあ。」などというのは第三者の発想である。と、言いながら、今日は午後から半休を取って、妻と梅田に行って来た。愛妻家として銃後の守りを固めなければならない。梅田のHホテルにOというレストランがあって、13:30からのバイキングランチをやっているのだが、この割引券を妻が手に入れたので、「どこかへ行きたい。」という妻の願いの気持ちを和らげるため貴重な時間をさいた。こう言うと、素晴らしい夫に聞こえるが、ここのバイキングランチは、かなりうまい。私も楽しみにしていたのだった。”忙中閑あり”というところか。(その分、このブログを書いた後、日本史Bのプリント作りをする予定だ。)もうひとつ、今日は妻と楽しみにしていたのは、共にJ堂という本屋に行くことであった。妻は、新聞広告で見つけた「渡来の源境」という秦氏の歴史を書いた本を欲しがっていた。私は、佐藤優の獄中記に載っていた「山椒魚戦争」を修学旅行中の文庫本として持って行きたかったので、それぞれ買い求めた。私はともかく、妻の読書のベクトルは十分変わっていると私は思う。
 さて、今日の画像は、そういう多忙な日常の中でのアフリカである。大阪国際交流センターで、この土曜日からアフリカ映画祭がある。第1回は、ウガンダ難民キャンプの内容なので、是非行きたいところだが、修学旅行前日なので、厳しいかもしれない。妻の話によると、8月27日付のブログでふれた看護婦さんと、またまたH城鍼灸院で会い、この映画祭のことが話題になったそうだ。妻が「知ってる?」と聞いたので、当然私はすでに知っていると述べた。大阪は、東京に比べてこういうイベントがはるかに少ない。リリ~君のように身軽に東京に行ければいい(彼のブログ:10月11日付参照)のだが…。
 中国修学旅行出発まであとわずか。カウントダウンの中で、最も価値的に時間を使っていきたいものである。

2010年10月12日火曜日

ジンバブエについて熱く語るⅢ

 今日は、午後から、若手のF先生と共に、枚方や交野市の中学校を回って広報活動を行ってきて、つい先ほど帰宅した。そういうわけで、若干早めのブログ更新である。ジンバブエの話・第三弾である。
 そもそも何故ジンバブエに私は来たのか?それは、授業でジンバブエの事を教え、生徒に質問を書いてもらい、それを私がインタービューするというフィールドワークだったからだ。ジンバブエの問題は複雑で、かなり時間をかけて教えた。だいたい以下の通りである。

 ジンバブエは、昔ローデシアという南ア同様白人支配の国だった。アパルトヘイト同様、黒人は抑圧されていたが、この間ゲリラ戦闘を続けていた黒人勢力は、イギリスの支援もあって、白人を追い出さないことを条件に政権を譲り受け、国名を「ローデシア」から「ジンバブエ」に変え、改めて黒人中心の国として独立した。この時の指導者の一人がムガベで、その後現在に至るまで、実質的に最高権力者の座を維持してきた。人口1200万人のジンバブエで、白人は1%以下の7万人しかいないが、農地の6割は当時、白人の農場で、黒人就労人口の1割を白人農園が雇用している。白人の農場を没収しなかったことで、独立後もタバコを中心とする農産物の輸出を順調に続けることができた。ジンバブエは、アフリカで黒人と白人が和合している数少ない国の一つで、隣の南アフリカがアパルトヘイトから脱却するためのモデルと考えられていた。

 ところがその後、ジンバブエでは、この特長が新たな対立の火種となった。かつて模範的な指導者といわれたムガベの政策が失敗し、経済は破綻した。それを批判する国民の目を他にそらすため、ムガベは、白人と黒人の対立をことさらに煽り、白人農園主が何人も殺されることになった。国家運営に失敗したら、民族対立や地域格差を煽って政治生命を維持するという、指導者の「定石」が展開されたのだ。

 ジンバブエは独立時の取り決めで、白人農園主から政府が土地を市場価格で買い取り、それを黒人の貧しい人々に再分配する計画だった。だが独立後、数年間の好景気時代が過ぎると、財政が悪化し、白人から土地を買う予算がなくなってしまった。1990年、ムガベは批判をかわすため、白人から黒人への農地の移転を加速すると表明し、イギリスやアメリカ、国際機関などから資金を借り、白人の農場を政府が購入して黒人に分配した。ちょうど冷戦が終わり、英米は世界的な「市場原理」の導入を画策しはじめたときで、タバコなど輸出作物を作る黒人の農園経営者を育成するというムガベの政策が、援助を得るうまい口上となった。 だが、土地の配分を受けた黒人農民の多くは、輸出できる水準の作物を作るにはどうしたらいいか、という営農技術を何も教えてもらえないまま、土地だけ与えられたため、土地利用の効率は下がった。農民自身が消費する作物を作るだけの土地が増え、農産物の輸出が減ることになった。 また優先的に土地の分配を受けた人の多くが、ムガベ大統領や政府高官の親族や関係者だったことが暴露された。これを機にイギリスなどは、ムガベ政権が白人の土地を買うための資金の融資を渋り出した。
 窮したムガベ大統領は「イギリスの植民地となり、黒人が先祖代々耕してきた農地を白人に奪われたとき、黒人は何の補償も受けられなかった。白人が独占する農地を没収して黒人に返しても、ジンバブエ政府は何も補償する義務はないという主張を始めた。独立後に白人が所有する農場を没収せず、市場価格で買い取るという合意に反する主張だったため、英米はジンバブエに対する支援を打ち切った。

1997年には、国際金融危機の影響でジンバブエの通貨も急落して外貨が底をつき、ムガベはIMFに支援を求めたが、土地問題での譲歩を拒否したため、断られた。外貨の裏付けがないままお札を刷り続けたのでインフレがひどくなり、失業率も7割に達した。国民の平均所得は、独立当時より3割も下がってしまった。99年後半、ムガベは憲法の改訂を提案した。「政府は白人の土地を没収できる」という条項を加えることが改訂の主眼だと宣伝されたが、本当の目的は別のところにあった。改憲には、大統領経験者が一生逮捕されない権利など、自らの権力を強化する項目が、いくつも盛り込まれていた。2000年2月の国民投票で、憲法改訂は55%の反対で拒否されてしまった。投票結果が判明した後、ムガベは敗北宣言をしたが、この後、黒人の農民たちが白人農場に押し掛けて占拠する事件が頻発したのである。全ての白人農場の25%にあたる約1000ヵ所の農場に、黒人農民が押し掛けたが、群集を率いていたのは、白人政権時代の1970年代にゲリラ戦に参加していた黒人たち、つまり独立戦争の英雄たちだった。白人の農場主の多くはムガベの陰謀を感じ取り、抵抗せずに黒人たちを農場内に入れたため、最初は衝突が回避された。だが、農場占拠は、4月になって各地で殺傷事件に発展し、十数人の白人が殺されるに至った。

 私が、ジンバブエを訪れた頃、白人農場は、ほとんどが黒人に占拠されていた。行きのバスで臨席になったマラウイ人が、道路沿いの農場を見ながらこう言ったことを私は鮮烈に覚えている。「White…get away」…つづく。

2010年10月11日月曜日

Severn Suzuki を課題に使う

 修学旅行中、私は授業に大きな穴をあけることになる。日本史Bは、本来が受験教科なので、自習教材が豊富だ。問題は、現代社会と地理Aだった。悩んだあげく、今回は、3年生(現社)も1年生(地理)も同じ課題をかすことにした。リオの環境サミットで、カナダの日系の少女、セヴァン・スズキが世界の指導者相手に、堂々とスピーチをやってのけた事がある。それを訳し、自分の意見をまとめることである。最初だけ引用してみたい。

Severn Suzuki
Address to the Plenary Session, Earth Summit, Rio Centro, Brazil, 1992
Hello, I’m Severn Suzuki speaking for E.C.O.-The Environmental Children’s organization.We are a group of twelve and thirteen-year-olds from Canada trying to make a difference: Vanessa Suttie, Morgan Geisler, Michelle Quigg and me. We raised all the money ourselves to come six thousand miles to tell you adults you must change your ways. Coming here today. I have no hidden agenda. I am fighting for my future.Losing my future is not like losing an election or a few points on the stock market, I am here to speak for all generation to come.

 このスピーチ、だいたいA4で、2枚分ある。私の課題は、”英語科の課題”ではないので、重要な部分だけ和訳し、引用するように課題を課した。 無茶なようだが、2時間分の課題なので、まあ3年生にとっては受験の小手試し、1年生にとっては、ちょいと引いても、やれる課題だと思っている。
 なにより、重要なのは、現代社会でも地理Aでも、私が中国から帰国後、アフリカ開発経済学をやろうと考えているので、この課題は、そのプレリュードであることである。セヴァン・スズキのスピーチでは、”環境”の問題が主に問われている。

 1992年…あれから、内容はともかくも、”環境”や”エコ”という言葉は、「人権」と同じように、教育の現場で『普遍』として扱われ、これにマスコミが合体し、「人権」の時よりもはるかに早いスピードで『普遍化』していった、と私は考えている。環境問題は、ESDの重要課題の1つである。それに触れてから開発経済学の世界にいざなうのも悪くない。

2010年10月10日日曜日

ジンバブエについて熱く語るⅡ

ショナ族のおばさんは小指を立てた             
南ア・プレトリア発の夜行バス(グレイハウンド)は、南アの高速道路をひたすら走る。オレンジ色のライトを見ると、アメリカにいるような気分になる。さて、プレトリア駅前のバスステーションで、ショナ族のおばさんと知り合った。(6月6日付ブログ参照)私は、「ショナ族の方ですか?」と聞いた。「イエース。」笑顔が返ってきた。私は合掌し、胸につけた。ショナ族の男の挨拶である。彼女は「マガティー」とショナ語の挨拶を返してくれた。結局、彼女の荷物(13個もあった)を積むのを手伝うことになった。ジンバブエ国境に着いたのは、完全に「丑三つ時」である。国境ゲートで寝ている人々もいて、「ああ、ジンバブエに着いた。」と思った。イミグレでは少し戸惑ったが、なんとか入国した。で、おばさんが呼んでいる。13個の荷物のうち、5個ほどを私のそばに寄せた。どうやら、それでやりすごすらしい。係官は何も言わなかった。おばさんは、親指を立てた。(笑)
ショナ族のおばさんはランドを持って走った
夜が明けてきた。先日(10月6日付)画像に出したバオバブの木と夜明けのセッションは素晴らしかった。さて、30分ほど走ったら、ドライブインに入った。雑貨店が一件あるだけの小さなドライブインだった。ここで、多くの乗客が、朝飯(といってもパンだが…。)や飲料を購入している。ところが、私はランド(南アの通貨)しかもっていない。それに気づいたおばさんは、私に、ランド札を持ってる?と聞くや否や、その札を持って走っていたのだった。オイオイ!すると、彼女は運転手氏と交渉して、ジンバブエドルに両替してきてくれたのだった。この時のレート、20ランド=2万ジンバブエドルを私は手帳に書いておいた。
ショナ族のおっさんは顔をしかめた
18時間の長いバス旅が終わった。首都ハラレに着いたのは、昼の2時。しかも、まずい事に今日・明日とも休日なのだという。おばさんは、そのことを私に言い残して去って行った。さて、と私は喧騒としたバスターミナルに立って考えた。銀行が休みなら、しかたない。**両替の男たちがレートを耳打ちしてくる。それが、高いのだ。私は、メモに、おばさんが運転手と交換したレートを書いた。すると、ショナ族のおっさんは顔をしかめた。「無茶言うなよ!」私は、慌てず、煙草をふかし、このバスターミナルのようすを観察していた。どんどんとバスが着き、**両替の男たちが、声をかけて回る。しかし誰も見向きもしない。ついに、1人の男が近づいてきて、このレートでOKだといった。かなり低いレートだったらしく、私が金を受け取って立ち去ろうとすると、親分にどやされていた。おばさん、万歳!である。ジンバブエの一光景であった。あの喧騒としたハラレのバスターミナル、私は好きだ。今でも、グーグルアースで、時々天空から覗いている。

2010年10月9日土曜日

ノルウェイの森からの”コトバ”

ノーベル賞の話題に関して、今日は少し書こうと思う。ノーベル文学賞では、ペルーの作家、マリオ・バルガスリョサ氏が受賞した。私は、文学には造詣が深いわけでもなく、受賞者の名前も作品も知らない。ただ、候補者として名の挙がったケニアの作家、グギ・ワ・ジオンゴ氏<左の画像参照>のことは少しだけ知っている。キクユ語で作品を書いた作家だ。なにかのアフリカ本で読んだ記憶がある。キクユ人は、ケニアのマジョリティのエスニックグループであり、ケニアの黒人の間では、経済的・政治的に最も立場が強いグループでもある。(「牧畜二重経済の人類学」という本で、サンブル族の家畜を購入し、都市に運ぶのはキクユ人に限られていた。)とはいえ、ケニアの公用語、英語で作品を書かず、民族の誇りをもって、文学で闘う作家であることに違いはない。来年こそは受賞してもらいたいものだ。来年の受賞までに、彼の作品を読んでみようかな、と思う。 

一方、平和賞では、中国の人権活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏が受賞した。<右の画像>朝日新聞のWEBニュース(2010年10月9日15時7分)から、ちょっと引用。
『一方、9日付の中国各紙は、受賞に反発する中国外務省の談話を伝える国営新華社通信の配信記事を一斉に報じた。中国当局が報道を規制する指示を出しているとみられ、NHKなどの海外テレビも関連ニュースの放映が中断される状況が続いている。』 さらに、『中国共産党機関紙の人民日報は2面で「平和賞の冒涜(ぼうとく)だ」との見出しで報じた。また、同紙系列の時事情報紙の環球時報は「ノーベル賞の選定者は中国の平和や団結を望まず、中国社会が無尽の紛争に陥り、ソ連式の分裂に向かうことを望んでいる」と社説で反発した。』とある。

中国政府の反発と報道規制は、多くの批判があるだろうし、『人権が「普遍」であること』が、グローバル・スタンダードであることに間違いないから、またまた中国批判が高まることは必定である。しかし、まてよ、と私は思う。テクノクラートの胡錦濤も温家宝も、、『人権が「普遍」であること』は百も承知だと思うのだ。上記の下線部は、まさに”直球”で返した中国政府の『本音』であろう。先日(9月25日&27日付)で私の考えを記したが、、「ノルウェイ人よ、お前たちは、13億のこの国を、飢えず、しかもじょじょに豊かにさせ、文句を言わせず、うまく動かしていけるのか。できるものならやってみろ!」という彼らの悲痛な叫びが、この社説から感じ取れるのである。

ノルウェイは、ヨーロッパのただの小国だという認識は間違っている。HDI(人間開発指数)では世界最高水準(2009年度は1位)である。つまり、1人あたりでは最も豊かで、教育もあり、幸せな状態にあるといえるだろう。だからこそ、様々な国際政治の局面でイニシチァブを取れる余裕があるのである。この状況は、中国やアフリカ諸国、さらにはイスラム諸国にとっては、ノルウェイが発案する様々な事(ノーベル賞も含めて)を、無条件に善意として受け止めれるものではないような気がする。人権が普遍であり、至上の命題であるのは、キリスト教圏(特にプロテスタント的な)の価値観であり、彼らが世界の覇権を握っているから、グローバルスタンダードとなっているにすぎない、と彼らが考えてもおかしくはない。また、そのスタンダードを破壊しようと考えるのも…。

ノルウェイの森から発信された”(ロゴスとしての)”コトバが、世界に様々な波紋を呼んでいる。私は日本人の書いたノルウェイの森(かなり以前に読んだが、好きになれなかった。)から発信される”言葉”とは、かなり次元が違うような気がする。

2010年10月8日金曜日

ジョン(・レノン)の魂

 今日は、前から、ジョン・レノンの事を書こうと思っていた。今日は、ジョンの誕生日なのである。GOOGLEのメインページは、今日はジョンのイラスト風になっていて、みんな同じことを考えているのだなと思う。そもそも、ジョンのことを書こうと思ったのは、1週間ほど前に、英語教師のI先生(後輩なので、いつもは呼び捨てだが…。)の机上に、2年生向けのライティング(英作文)の教科書が置かれていたことに始まる。桐原書店のPRO-VISION Englosh Writingという教科書(業界風に書くと、212桐原/英W042)である。ちょっと拝見と、パラパラめくると、そこに、ジョンレノンの人生というページがあったのだ。カラー版でなかなか見やすい教科書であった。英文自体は、英作文の教科書なので、私でもわかるような簡潔なものであった。そうか…。ジョンの人生も簡潔に書けば、こんな短い文章になってしまうものなのだ。<著作権の問題があるので、そのページを画像として貼り付けたかったが中止した。Lesson26である。>
                      
 昔、NYCに行った時、当然のように、ダコタアパート<左の画像参照>に行ってきた。ジョンが撃たれたところだ。「ライ麦畑でつかまえて」を持った青年の凶行だった。このアパートは、かのニクソン大統領が入居を拒まれたという由緒あるものだので、ガードマンが立っている。当然話けれるような雰囲気は無い。ただ、ジョンの撃たれた場所に合掌した。すると、観光バスがやってきた。フランス人らしかった。彼らは、陽気に「イマジン」を合唱しながら、このアパートを見上げていた。通りをはさんで、東側にセントラルパークがある。ここには、ジョンの慰霊のために、碑というか、平面的なイマジンと書かれた円形のタイルの場所がある。ここは、”ストロベリーフィールズ”と名づけられていて、世界中から、ジョンのファンが集まってくる。誰ともなく「ストベリーフイールズ・フォーエバー」のメロディが口ずさまれている。この孤児院の名前も、ジョンの少年・青年期の恵まれない暗さのようなものを連想させる。
 ジョンは、ポールとともに、在英アイルランド人であったことはあまり知られていない。リバプールは、在英アイルランド人の多い町であった。UKとアイルランドは、大きな歴史的問題を抱えている。日本と韓国の歴史にも通じるところがある。日本でも、芸能人に、在日韓国・朝鮮の人が多いと聞く。野村進のノンフィクションの秀作「コリアン世界の旅」に、そういう記述がある。成功する一つの道として芸能界を選び、自らの力でのし上がってきたらしい。ジョンも、ポールも、そういう環境にいたことは確かである。いわゆる「赤版」(ビートルズの前期の名曲を集めたアルバム。ジャケットが赤い。ちなみに後期は青盤。)の時代の彼らには、そんなパワーが強く感じられる。

 ジョンの凄さは、後半が、一芸能人としての人生ではなかったことだ。最近は、誰でもアーチスト呼ばわりされるが、ジョン&ポールこそ、真にアーチストと呼ぶにふさわしい。特に、「サージョント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」以後(青盤の時代)は、時代のまさに最先端を走り続けた。ジョンは、音楽活動というベースの上に、”自分の生き方自体を作品化”していく。前衛芸術家であったオノ・ヨーコの影響もあろうが、芸能人/ポール・マッカートニーとは明らかに違う道のりを歩いて行ったのである。(私は、ポールも好きだが…。)

 妻が、そもそもジョンの大ファンである。私も、”我が家のオノ・ヨーコ”の影響を受け、ファンのはしくれに入れてもらっていると言ってよい。さて、我が家のトイレには、ジョンの「パワー・トゥー・ザ・ピープル」のポスターが張ってある。周恩来総理の肖像画(9月27日付ブログ参照)といい、なんと変な家だと思われるに違いないが…。ともかく、ハッピーバースデー、ジョン・レノン。

2010年10月7日木曜日

地理Aの中間考査問題/5問

 今日から中間考査である。小規模校の本校は、考査後にすぐ中国修学旅行にいくメンバーが早く採点できるよう時間割を組むしきたりである。と言うわけで、私の科目(現代社会・地理A・日本史B)は、今日と明日に試験が集まっている。ありがたいのであるが、反対に一気に3教科の試験をつくる羽目になる。問題作成には、かなり時間を費やすし、解答用紙を作り、それに解答し、万全を期すのであるが、しんどい。今回は、現代社会の試験でミスを連発してしまった。(地理Aはなかったようだ。)
その1:解答用紙のタイトルが、2学期の期末考査解答用紙となっていた。(笑)BY*****とローマ字で入れるのだが、自分の名前のスペルが間違っていた。見つけたA組担任のT先生がニヤニヤしていた。(笑)
その2:解答用紙は正しいのだが、問題の(6)が二つあって生徒を混乱させた。(これは笑ではない。…反省。)「あーあ」である。余裕がないとこういうことになる。私も歳をとったものだ。

 現代社会の試験は、市場経済の基礎問題と、冷戦と民族問題という視点から概説した戦後の国際政治、それと、事前にオープン・リーチした今回の尖閣諸島問題について、自分の意見を述べる論述問題である。(注:論述問題については、論理構成しか見ない。結論は評価対象ではない。)
 地理Aは、サブサハラ=アフリカの地誌である。どちらも、まだこのブログを書いている時点では、採点していない。ちょっと地理Aの問題ので中から、センター試験っぽい4択問題50問のうち、いくつかを記してみようと思う。私の教えるアフリカ地誌のレベル?が判るかもしれない。

 次の説明文は、何を説明したものか、後の語群より選びなさい。
(1)赤道が通っていない国
 【1.ケニア 2.コンゴ民主共和国 3.赤道ギニア 4.コンゴ共和国】
(2)南ア共和国に周囲を全て囲まれている国
 【1.スワジランド 2.コモロ 3.レソト 4.ブルンジ】
(3)モンバサ、マプト、ダルエスサラームなどの都市が面している海
 【1.紅海 2.インド洋 3.ギニア湾 4.地中海】
(4)アフリカには珍しく単一民族の国
 【1.ケニア 2.ブルキナファソ 3.ジンバブエ 4.ソマリア】
(5)タンザニアのペンキを使用した有名な絵画の手法
 【1.マウマウ 2.ンゴロンゴロ 3.ティンガティンガ 4.クスクス】
 
 解答は、コメントをいただいた時点で書き込むことにいたします。(笑)<今日の画像は、最後の(5)の問題のヒントとして入れました。>

2010年10月6日水曜日

ジンバブエについて熱く語るⅠ

 明日から中間考査である。というわけで、今日の授業などは、範囲までラストスパート!という感じなのである。英語科1年生には、先日登場した留学生のJ君もいるので、どうしても日本語と英語が6:4くらいの授業になる。(こう言うとカッコ良いが、当然サバイバルイングリッシュである。)今日は南アフリカ地域の各国の地誌をやったのだが、ジンバブエの話も、ハイパーインフレの話が中心で、凄い桁数のジンバブエドルを見せて終った感じだ。私としては、何故黒人政権が樹立され、白人農場が襲われ、現在の混乱が生じたかなどをゆっくり語りたいのだが、マダガスカルや、モーリシャスのことも試験に出しているし…ということで、消化不良だった。まあ、2学期後半に開発経済学のところで、ゆっくり触れようと思う。今日のブログは、その消化不良をぶっとばせ!ということで、ジンバブエについて熱く語りたい。

 蔵前仁一の「ゴーゴー!アフリカ!」などを読むと、ジンバブエは、人よし気候よし治安よしで、アフリカを旅するバックパッカーが沈没(居心地が良くて長期滞在してしまう意)する国として描かれている。私が行ったころは、白人がどんどん逃げて、経済が悪化してきたなぁという頃で、この蔵前仁一の言は、まだ神通力をもっていたと思う。たしかに、ショナ人は良い。とにかく親切だし、気さくだし。私が格安のロッジ(ツインで1泊450円くらいだったかなぁ)に泊まって、朝煙草をふかしていると、自転車に乗った労働者が前の道路を走っていく。目が普通に会い、ニカッと笑ってくれたり、「ぐっど・もーにんぐ」と声をかけてくれる。中には自転車を止めて、「うぇあー かむ?」と聞いてくる奴もいた。ひらがなで書いたのは、発音が、ジャパニーズ・イングリッシュそっくりだからである。あんなに英語の発音に気をつかわないですむところは無いと思っている。(気を使っても私の場合は同じなのだが…。)文法もかなりいい加減で、気楽に話せた。今日も生徒に、ちょっとだけ地図を確認させて遊んだ。ハラレの西南に、面白い地名がある。『KADOMA』である。大阪人は大笑いするはずだ。パナソニックの城下町の門真市と同じなのである。「モリグチ(門真市の隣の守口市を意味する)は無いか探してみて」と言うと、生徒は本当にあるのかと探すくらいだ。ショナ人の発音も言葉の感じも日本語に近いのは間違いない。

 また、治安面でも、一応注意はおこたらなかったが、首都のハラレでは、危険をいっさい感じなかった。(地方の白人農場では、かなりドンパチやっていたはずであるが…。)街角でたむろする青年諸氏とも、いろいろ話した。彼らを全然怖いと思わなかったし、彼らもいろいろと親切に質問に答えてくれた。気候も冬(8月だったので…)だったが、日本のちょうど秋ぐらい。空は晴れ、乾燥していて、すがすがしい。ジンバブエは、ほんと「沈没」してしまう国だと実感したのである。

 それが、今や世界に名だたる「失敗国家」と言われ、経済的にも政治的にも「沈没」してしまったのである。これ以上書くと、長くなるので、今日はここまで。ブログ上の不定期の連載物としようと思う。ところで、今日の画像は、ジンバブエのバオバブの木の画像をGoogleからお借りした。南アから夜明けに国境を超え、初めてバオバブを見た時、大いに感激したのである。

2010年10月5日火曜日

コアラと書籍が増殖中

 今日は、スナップ写真を2題ほど…。
 左の画像は、本校玄関のおしゃれな掲示板である。木のイーゼルにパネルを配したもので、国際交流部通信や、修学旅行説明会等、行事案内にも使われている。この国際交流部通信は、MW校が帰国した後、すぐに張ったものである。何故か、黄色い服を着たコアラの人形(MW校の生徒のお土産だと思われる。)が、2つ付いていた。。翌朝、なぜか3匹に増えていた。緑の服をきたコアラが仲間に入っていた。(笑)世間では、こんな場合、コアラが1匹消えたとかいうのが普通のような気がする。ところが本校では、増えてしまった。やはり良い学校なのだ!と思うのである。
 さて、もう1枚のスナップ写真は、我が家の玄関である。一昨日帰宅すると、でかい段ボール箱が3つ重ねられていた。よく見ると、イスラエルからの郵便物である。息子の本なのであろう。どんだけぇ~本を買ったのかわからないが、ただでさえ、本だらけの我が家にまた書籍が増えることになる。この郵便物が届いたということは、息子はイスラエルを離れたらしい。妻に聞くと、「ラトビアに入ったらしいで。」とのこと。今朝また「エストニアに入ったらしいで。」と聞いた。バルト三国を旅しているらしい。次はまたラトビア経由で、リトアニアに違いない。綺麗なところらしい。妻が「えーなぁ。」と言った。これはヤバい。またB級バスツアーに参加することになるかもしれない。

2010年10月4日月曜日

ちょっと上田正樹を語る

 このところヘビーな内容が続いたので、今日はちょっとライトにいきたい。帰宅してTVを見ていたら、上田正樹が”つるべ”と余市を旅していた。TVで見る限り「年とったなあ。」というのが率直な感想。もちろん私も年をとったわけであるが、上田正樹の髪の毛がない。そういえば”つるべ”も、昔すごいアフロヘアーだった。(笑)二人とも、若い頃、思いっきり長髪にしていたので、その因果応報なのだろうか。(幸い、私は白髪派になった。)
 ところで、私と妻は、上田正樹の古くからのファンである。サウストゥサウスの頃からであるから、年季が入っている。何度もキー坊(上田正樹のあだな)のライブにも行ったし、実は私は、若い頃、あるイベントのスタッフとして、キー坊と直接打ち合わせしたこともある。TVや舞台上のキー坊と普段のキー坊はあまり変わらなかったのを覚えている。とにかく、キー坊はいいのである!

 ライブでの思い出その1:大ヒットした『悲しい色やね』が、初めてTV放送された時、私は大阪・バナナホールにいた。大昔の話である。「ザ・ベストテン」という黒柳哲子と久米宏の歌番組の生中継だった。で、ちょっとだけTVに映ったらしい。担任していたクラスの生徒から、「昨日、白いサマーセーター着てたでしょう。」とSHRで言われたことを思い出す。(これでも、昔はおしゃれだったのだ。実は、妻に無理やり着せられたのだが…。)

 ライブでの思い出その2:プライベート・ファイルというLP(CDではない!)2枚組のライブ盤がある。このライブの録音は、大阪の厚生年金大ホールだったと思う。ジャマイカのドラマーとベーシストを呼んで、凄いライブだった。友人とこのライブに行っていて、キー坊が例のかすれた声で、「次はダンス・ザ・ワルツ…。」と次の曲名を言った時、奇声を上げて答えているのは、何を隠そう私なのである。(ちょっと恥ずかしい。)

 

2010年10月3日日曜日

小学校の運動会を見て思索する

 運動会のシーズンである。今日もH城鍼灸院に行ったのだが、道沿いの小学校で運動会をしていた。あいにく昼から雨脚が強くなり、中止したところも多いみたいである。鍼灸院から出たら下校している小学生の姿を見た。
 ところで、最近の子供と親の関係がおかしいと私は思っている。エディプスの三角形が見事に破壊されている。父親的な「社会規範」を教える立場がどんどんと後退し、母親的な「愛情」のみが強調されているような気がする。たしかに子供はかわいいし、発達心理学的にも3歳までは、かわいがってかわいがって育てるのが正しいそうだ。しかし、それ以後は、父親的な要素が非常に必要である。社会が豊かになったからだろうか?それとも普遍的ななにかがこの国に欠けているからだろうか。可愛がることが”善”となって、見事に社会性のない、甘えたの子供を大量生産している感じがする。

 6月29日付のブログで、アメリカの子育ての根本に、原罪思想があり、子供は悪であり矯正しなければならないという強迫観念があるという論を紹介した。同時に、アメリカでは、小学校では親が子供と深く関わり共に宿題をしたり調べ物をしたりと、日本の教育ママ以上の大活躍なのである。しかし、その後は徐々に突き放していく。自立心を養うのである。授業も自分の意見をまとめ、それをうまく伝えることに何よりも重点が置かれていく。私は、ボストン、オタワ(カナダ)、ミルウォーキー、デトロイトと視察して、そういう教育方法を取っていることを学んだ。
 アメリカやカナダの教育方法の方が良い、と言っているいるわけではない。それぞれいい面もあると思うが、日本の現状は巨大な甘えたの温室栽培に近いようだ。ここに塾という、他者による受動的な勉強法がカンフルされる。

 今、教育界が考えなければならないのは、どういう人材を育てるのかということだ。(理数系の優秀な人材は国益上必須なのは当然であるが、彼らがいくら学力的に優秀でも、人間力が甘えたであれば、大きな仕事ができるだろうか。グローバリゼーションの中、ますます国際競争力で勝負することが必要になる。)私は地球市民を育てることを旨としているが、それは甘えたなどではない。事実を直視し、自分の力で考え、理解し、行動できる人間である。これはなかなか高校教育だけで出来ることではない。教育行政には、小・中・高と、しょうもない雑務や締め付けを排して、教師一人ひとりが考え、余裕をもって生徒・児童に勝負できる環境を考えて欲しいものだ。

2010年10月2日土曜日

深夜特急アフリカ編が見たい

 先ほどまで、大沢たかおのアフリカ旅行のTVを見ていた。私は、どうも民放のアフリカものは好きではない。演出が過多に感じるからである。特に、「世界がもし100人の村だったら」シリーズで、それを感じたからかもしれない。妻が、町内会の会合(体育祭の打ち合わせらしい)から帰ってきて、「この大沢たかおは、深夜特急に出てた人やねえ。」と言った。そういえば、そうだ。私は、芸能界にほとんど無知なので、「どっかで見た事のある」くらいに思っていた。(笑)
 TVの内容については、これといった感想はない。先日(9月26日付)書いたように、私はアフリカに人間を見に行く。もちろん大自然や野生の動物は嫌いではないが、そこに人間がいて欲しい。だからタンザニアのオルドイニョ・レンガイをマサイの人々と登るところはちょっと面白かった。早川千晶さん(5月13日付ブログ等参照)が教えてくれたマサイの現在の三種の神器の1つであるスニーカーを彼らが履いているのが面白かった。(サンダルの奴もいたけど。)ルワンダの町が妙にゴミが落ちていないことも面白かった。ルワンダ再生は進んでいるので、ガバナンスが良くなっている(8月12日付ブログ参照)のだろう。海外投資が集まるわけだ。単に、アフリカを自然や野生動物、鉱産資源やコーヒー・カカオといった面で描いてほしくない。我々が、アフリカから学ぶことがたくさんあると私は思っている。ちょっと傲慢な言い方で申し訳ないが、まあ、民放としては、まあまあだったかなと思う。

 ところで、私は沢木耕太郎の大ファンである。深夜特急は、私のバイブルである。沢木耕太郎がもし、香港からユーラシアをめぐり、ロンドンを目指すのではなく、アフリカの喜望峰を目指したとしたら、どんな深夜特急を書いたのだろう。興味のあるところだ。沢木耕太郎の視点も人間に向いている。私は彼の作品の中では、特に「人の砂漠」と「バーボンストリート」が好きである。これらには彼の様々な人間洞察が凝縮されている。こんな沢木耕太郎だから、さぞかし面白いアフリカの作品が生まれたに違いない。大沢たかおではなく、本物の沢木耕太郎の深夜特急アフリカ編が見たいところだ。

2010年10月1日金曜日

サイバーテロじゃと妻が笑った

 このところ、私のブログの4月29日付の記事に、凄い数のアクセスがある。今現在で、この1週間に1777件である。それまで、ぜいぜい1日100件を超えたら、凄く嬉しく思っていた。少ない日でも40件ほど。それでも、ありがたいなあと思っていた。それが、ほとんど爆発的といっていい現象である。ちょっと気味が悪かった。
 妻は、「サイバーテロじゃ。中国や政府の悪口を書くからじゃ。」と笑ったのだが、これは、『サイバーテロ』というよりは、『ブログ炎上』ではないか?誰かに恨みを買ったのだろうか、と反省材料を探していたのだった。
 その記事に、どういう関係でアクセスされたのかコメントをいただくように依頼した。すると、記事に関するTV放映があることがわかって、注目キーワードになり、今日その放映があったようなのだ。私はそれを全然知らなかったのだった。幾つかのツイッターも、このキーワード流布には関連していたようである。なにか、悪意のある現象でなかったらしいので、ホッと一息ついたのである。

 それにしても、インターネットや携帯電話の情報ネットワークとは、凄いものであると実感した。このブログは、新しいコンピュータを買ったので、なんとなく立ち上げて、何人かのOGや知人に”見てや”と知らせたところから始まる。教師として、学校での出来事も書くため収益化など考えないで、まあ妻に言わせれば、「自己満足のためだけ」に書いてきた超個人的なブログである。それが、読者が1人増え、2人増え、新しいコメントをいただき、それを励みにして、できるだけ毎日何かを書こうとしてきたにすぎない。それが、例の記事以外にも、このところ1ケタ以上違うアクセスをいただいている。望外の喜びであるが、新たな緊張も生まれたことは否定できない。このような心情を「とまどい」と言うのであろう。

 21:30現在、例のページは1811件のアクセスとなっている。20時台のアクセスは2411件。ひぇ~というのが、本音である。<10月2日朝の時点で画像を、ブログのサマリーの週間統計に入れ替えてみた。>