2010年10月16日土曜日

紀州の津田出(いづる)は凄いゾ

 いよいよ明日は修学旅行に出発なのだが、残念なことにこれまで皆勤で見てきたNHKの「龍馬伝」が見れない。どうやら、「いろは丸事件」が主題らしい。”いろは丸”といえば、ぶつかったのは紀州藩の船である。ところで、先日MW校のRM先生がホームスティするというので、大掃除をしていた時に、いつ買ったかわからない古本が出てきた。『明治という国家』という司馬遼の本である。読んでみると、これがなかなかいい。紀州藩におもしろい人物がいたことが記されている。戊申戦争後、明治の初めのころのことである。紀州藩つながりということで、今日は津田出という人物について書いておきたい。以下は、修学旅行から帰国後に使う、私の日本史Bのプリントからの引用である
 
 西郷は、新政府の青写真をかける人物を探していたようだ。ここに面白い人物が登場する。紀州藩の津田出(いづる)である。彼は、ヨーロッパの1公国のような藩政改革を考えた。その基本は、武士の制度を廃止して百姓にしてしまい、百姓に洋式訓練をして防衛にあたらせるという革命的なものであった。藩主茂承(もちつぐ)は、この津田の案に賛同する。第二次長州征伐で奇兵隊に敗れたからである。しかし、この案は葬られた。しかし、鳥羽伏見の戦いの後、復活断行された。藩主、藩士の収入が抑えられ、門地ではなく、才能と能力次第で登用されるようになり、藩政の最高機関として「政治府」を置く。その下に公用・軍務・会計・刑法の4局をおき、群ごとに民政局を置いた。さらに学校の制度を整えた。軍隊は、陸軍と海軍にわけ、病院を置くとともに、傷病になった兵士の面倒をみる廃兵院も置く。陸軍は、軍務局を頂点に、騎兵・砲兵・歩兵・土兵を置き、兵士は武士・農民を問わず、20歳に達した青年から選抜徴兵し、給料を支給する。また通商省という「開物局」を置き、洋式技術や洋式機械により皮革業をおこしたり、靴製造、木綿製造を行ったりした。つい先ほどまで御三家の一つ紀州徳川家だった、しかも財政的には田舎のこの藩が、いきなり新時代の政体と、小さな新文明の国家を出発させたのである。後にこの津田の改革は、各国公使の話題となり、見学会がもたれたという。また後に東京の新政府に呼ばれた津田に、うわさを聞いた西郷は合いに行き、大久保に「津田先生を頭とあおぎ、われらはその下につこう。」と言ったという。

 この津田出氏、後に陸軍のえらいさんになるのだが、それより紀州藩が一気に近代化を進めていたという事実が凄い。ガバナンスが良ければ開発が進むという好例であろう。

 さて少なくとも木曜の夜まで、ブログの更新はストップすることになります。
 私のブログの統計を見ていると、意外に思う事があります。ページビューが多いのは、なぜか7月の投稿です。(今日現在、4月19日/オナトラ船のTVで爆発的ビューによるもの、5月2日/トイレの神様の話、これは不思議。そして、7月11日、7月20日、7月5日、7月10日、7月7日、7月4日、7月9日、そして7月13日の順になっています。)
 そこで、それ以前の投稿で私自身深い思い入れのあるものを、”我田引水”して紹介したいと思います。

 1月は、28日の「デモクレイジー」 
 2月は、3日の「節分はダイアン吉日」と12日「非常勤講師の報酬に異議あり」、15日の「ナイロビの水虫」
 3月は、8日の「アフリカ3へソーラーの光を」、12日「96丁目雪の降る日に」、13日「神があなたをゆるさないわ」、16・17日の「JEWYORKな話」、19日・21日の「アパルトヘイトは消滅したか」
 4月は、6日の「Africaガバナンスの善し悪し」、17日「ブルキナのサヘルで井上陽水」、21日の「キべラスラムに GoodPoo」
 5月は、2日の「ひとりでは夢を見ないアフリカ人」19日「ハーレムでエヴァンゲリオン」
 6月は、29日の「子供嫌いのアメリカ文化」

 これらは、”エッセイ”として、あるいは”広く発信したい情報”いう2つの観点で選んだものです。BLOGGERのシステム変更で、コメントをその投稿(かなり古いものでも)の所で書きこんでいただければ、すぐコメントがあったことがわかるようになりました。よろしければ、コメントもお願いします。

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