2021年12月31日金曜日

大晦日に改めて想うこと。

大晦日である。妻と本年最後の買い物に八幡浜に出かけた。八幡浜(保内)では、漁船が国旗や大漁旗をはためかせていた。八幡浜の季節的な風物詩のようだ。

ところで、今年の漢字は「金」だそうだ。東京オリンピックのイメージからきているらしい。TVがない我が家では、野球で金を取ったことは知っているが、隣国のネガティブ騒動で不愉快だったので、全くピンとこないのが本音。ただ、獣医をしているM高校の教え子が馬術競技の国際ボランティアとして参加したことを先日知って実に嬉しかったし、O大学を卒業して旅行会社に就職したPBTのOGもオリンピックの役員として活動していたと聞いている。こういう人的な属性もあるし、最も多数の日本人の投票によるものだから、是とすべきだろうと思う。

ただ、私が今年の漢字一字を選ぶなら「嘘」だと思う。今年は、昨年からの米大統領選で結局「嘘」がまかり通ってしまった。民主主義は死んだような気がする。コロナ禍も「嘘」だらけである。陽性が何人と毎日報道され、危機感をマスコミは煽ったが、陽性=患者ではない。現にコロナの死者数は日本では非常に少ない。ワクチンもそうだ。70%の人は国=厚生省を信じて打ったようだが、これでコロナに罹らないわけではないし、その非重症化効果も時間と共に減じていく。反対に接種で死ぬ人が増加した。厚生省は接種で死亡したら保証すると言いながら、ほとんどのケースを認定外にしている。死に損である。「嘘」がまかり通っている。飲食店がコロナの最大の被害者かもしれない。実際は家庭内感染が多いのに「嘘」がまかり通って営業時間を減らされている。それだけでなくボトルネック、サプライチェーンの障害で経済は大きな打撃を受け、スダクレーションになるだろう。

あまり触れたくはないのだが、KK問題でも「嘘」ばかりである。M内親王は、複雑性PTSDだったらしい。それが本当なら米国は入国拒否するはずだ。KKの学歴や留学経過、NY司法試験の受験資格なども「嘘」だらけである。なにより皇室典範がぶっ飛ばされ、皇室離脱について審議すべき皇室会議は開かれなかった。一般人になりながら外務省や大企業の恩恵を受け、納税者としは看過できるものではい。私は天皇制は国体であり、必要不可欠だと思うけれど、このままでは済まされないと思う。根本のところで「公」を捨てた皇族は不要だ。

隣国や中国から流れる「嘘」はいちいち指摘するまでもなく多い。日本が、これらの「嘘」の影響を明年受けないことを祈りたいが、暗雲が立ち込めている。日本は、いつまでこれらの「嘘」に踊らされるのだろう。

というわけで、私生活はともかく、「嘘」にまみれた社会に生きているという実感がある。正月と言うのは、リセットの文化である。「嘘」が少しでもリセットされますように。

受験の世界史B 研鑽ー23

https://www.azquotes.com/author/20248-Jan_Hus
…ヨーロッパの中世という時代は、まさにホッブズの「万人の万人に対する戦い」の時代である。王族は領地の拡大を貪欲に求め、詳細に見ていくと王位の継承という問題がかなりクローズアップされる。封建諸侯は生き延びるために臣従する相手を臨機応変に選び、生き延びることに精力を注いできた。戦争にはいつの時代も金が必要で、中世の都市の発達は、傭兵を雇える経済力がものを言う時代、近世に繋がっていく。

…一方で世俗権力と教皇権のパワーバランスの問題が中世を貫いている。破門といえば、カノッサの屈辱とヘンリー8世を連想するが、なんと数多くの破門があったことか。そもそも分割相続の弊害を避けるために(貴族出身の)聖職者が生まれたといえる。同じ穴の狢なわけで、このころの教皇はなんとも自己の欲望に塗れた薄汚いイメージである。

本年最終の研鑽は、教皇権が衰退し、近世の宗教改革につながる、ウィクリフとフスの宗教改革、さらにコンスタンツ公会議について調べようと思う。

ウィクリフ(1320頃-1384年)は、オックスフォード大学の教授であり聖職者である。ローマカトリックの教義は聖書から離れている等、真っ向から批判した。リチャード2世が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じた彼は、晩年、聖書を英訳する。(アン王妃が成婚したのが1382年。調べてみると1360年に初めて翻訳されたもので、カトリックのラテン語の標準聖書をチェコ語に翻訳したドレスデン聖書であるようだ。)聖書に基礎を置く説教を重視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。ウィクリフの死後30年、1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣言され、12年後教皇マルティヌス4世の命により実行された。墓を暴かれ遺体は燃やされて川に投じられた。1401年には反ウィクリフ派法が定められ、1408年には彼の著書や英訳聖書を読むことは死に値する異端の罪とされた。

ヤン・フス(1369年頃―1415年)は、ブラハ大学の哲学部長(1401年)、さらに学長(1402年)を務めた人である。1382年にアン王妃の影響で、ウィクリフの哲学書がちょうど1401~2年頃ボヘミアにも広く知られるようになった。しかし、早くもプラハ大学での1403年にウィクリフに賛同する55の論文について議論が禁止された。しかし、研究者としてフスは強く魅了される。ところで、この時代は教会大分裂(シスマ)の時代で、ボヘミア王ヴァーツラフ4世は、ローマ教皇グレゴリウス12世を支持せず、並立する3教皇を中立に支持するよう、高位聖職者と大学に対して命じた。しかし大司教はローマ教皇に忠実で、大学でも中立を明言したのはフスを代表とするボヘミア人(=チェック人)で、多数派の移民してきたドイツ人ローマ教皇側についていた。1409年、ボヘミア王は、大学の諸問題に対しドイツ人を追い出す。(彼らはライプツィヒ大学を創立。)フスは名声を得、大司教は孤立した。

大司教は対立教皇(1409年、ローマとアヴィニョンの教皇を見限った枢機卿が集まったピサ教会会議選出)のアレクサンデル5世との拝謁時にボヘミアの騒動を告発、1409年、教書で大司教の権限を強化しウィクリフ派に対し、法的手続きをとった。翌年、ウィクリフの書は焚書され、フスとその支持者は追放された。しかし国王はフスを庇護し、フスは一層大胆に批判した。プラハの教会は閉鎖され、教皇アレクサンデル5世による禁令がプラハに発せられた。しかし、フスらボヘミア人の運動は止まらなかった。特に、1411年対立教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を擁護するナポリ王国ラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣、遠征費用を賄うために贖宥状=免罪符:教会大分裂の時代、教皇ボニファティウス8世の時代にローマまで巡礼できない者に同等の効果を与えるとして発行されたのが最初である。それ以後も中世では様々な名目で売買された。)の売買を始める。これを1412年フスはウィクリフの論文を引用して抵抗した。フスは大学に留まることができなくなり、国王はそれでもフスの味方だったし、民衆もフスに着くべきだと考えた。

1414年、3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させるためコンスタンツ公会議が召集される。招集したのは神聖ローマ王兼ハンガリー王・ジギスムント(ヴァーツラフ4世の弟で、子供のないヴァーツラフ4世の後継者にあたる)は、国内から異端者を無くしたいと願っていた。しかし、フスの身の安全を保障し公会議に招く。ところが実際には聖職者たちによって73日間幽閉され、(彼を庇護してきたボヘミア王が事実上支持する)ヨハネス23世が廃位されたことも重なり、1415年新教皇のもと、大聖堂で火刑の審判が下された。遺灰はライン川に捨てられた。(フスの名誉回復が図られたのは、1999年の教皇ヨハネパウロ2世による。)

このコンスタンツ公会議を招集したジギスムントが、ヴァーツラフ4世の死後ボヘミアを相続した(1419年)。フス派はいよいよ反抗的になり、ジギスムントはボヘミアを征服するため十字軍を結成、フス戦争が起こった。当初は急進的なターボル派が十字軍を撃退、国王の廃位・フス派のボヘミア国家を実現したが、フス派の内部分裂が起こり、穏健派が中心となりジギスムントと和解、彼を国王と認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。

ところで、コンスタンツ公会議(1414―1418年:神聖ローマ帝国内コンスタンツ司教領で開催)だが、3人の教皇、ローマ教皇グレゴリウス5世・アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世・対立教皇アレクサンデル5世の死後後継のヨハネス23世を、影響力を高めようとした神聖ローマ皇帝・ジギスムントが召集した。まず、ヨハネス23世が正統性を確認されると期待(彼はナポリ出身で多数のイタリア人枢機卿を味方にしていた。また前任のアレクサンデル5世は、ボヘミア王ヴァーツラフ4世・ハンガリー王ジギスムントの兄弟、イングランド・フランスが支持していた。)していたが果たされず逃亡。捕らえられ廃位。1415年、グレゴリウス12世は自ら退位を宣言。残ったベネディクトゥス13世は退位を拒んだが、1417年廃位を宣言。そして、マルティヌス5世が新教皇として選出された。ウィクリフとフスを異端として断罪のものも、この公会議である。しかし、教会改革は行われず宗教改革への伏線となった。

…フスの名は、佐藤優の著作を呼んでいると何度も出てくる。属性はあったのだが、きちっと調べてみると、実に興味深い。世界史はホント面白いのだ。

2021年12月30日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー22

シチリアの晩梼 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Francesco_Hayez_023.jpg
先程まで三崎支所で開塾(前半担当)して、地理Bを理系の受験生2人に教えていた。今日はイタリアの歴史について研鑽したい。世界史Bの教科書には、「イタリアはドイツ同様中世末期には多数の国、諸侯、都市にわかれていた。南部では両シチリア王国がシチリア王国とナポリ王国に分裂し、中部の教皇領を挟んで、北部ではヴェネチア・フィレンツェ・ジェノヴァ・ミラノなどの都市国家が分立していた。神聖ローマ帝国がイタリア政策によって介入してくると、諸都市内部で教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)がたがいに争い、国内統一をさらに困難なものにした。」とある。少し時間軸を戻して研鑽を進めたい。

476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられた。オドアケルは西皇帝の帝冠をコンスタンティノープルの皇帝ゼノンに送り、西ローマ帝国は廃止された。5世紀、東ゴート族のオドリックがゼノン帝の命を受けオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国。シチリア島・サルデーニャ島、コルシカ島はアフリカからのゲルマン人ヴァンダル族に征服される。6世紀、(東)ローマ帝国皇帝ユニティアヌス1世は軍を派遣、ヴァンダル族を滅ぼし、552年イタリア全土をローマ帝国領とした。しかし、568年、(ゲルマン系で当初ローマ帝国に協力した)ランゴバルト族のアルボイーノが北イタリアに侵入、南端を除くイタリア全土を征服しランゴバルド王国(英語ではロンゴバルド=ロンバルディア平原の語源)を建国。ただし、ローマ帝国の総督府のあったラヴェンナから教皇のいるローマにかけての細長い部分は8世紀末まで征服できなかった。これが後の教皇領となる。以後、774年にカール大帝によって滅ぼされるまで約2世紀続くが、安定して統治されていたわけではなく、諸侯の力は強く、7世紀にはローマの伝統を受けいれ、一部がキリスト教に改宗したが宗教的民族的対立は解消されなかった。イタリア分裂の端緒となる。

ランゴバルド王国以後は、ローマを中心とする教皇領、北イタリアのイタリア王国(843年のヴェルダン条約でカロリング朝西ローマ帝国の一部となり、951年オットー1世がイタリア王を兼ねた。)、ヴェネツィア共和国、南イタリアに四部される。10~12世紀は皇帝の定めた法が効力を発揮していたが、11世紀以後神聖ローマ皇帝と教皇の対立が激しくなり、しばしば戦場となった。ミラノ公国やフィレンツェ共和国などの都市国家が海運や商業によって繁栄、12世紀にはロンバルディア同盟(教皇派)を組織、イタリアでの実権をフィードリヒ1世(バルバロッサ)から守り抜く。ヴェネツィア共和國は、ビザンツ帝国の飛び地として始まり、金印勅書を得て名目上も独立。南イタリアは、9世紀から12世紀までアラブ人の侵略にさらされていたが、教皇の求めでノルマン人ヴァイキングがこれらを征服、1130年オートヴィル朝シチリア王国が成立。13世紀、神聖ローマ皇帝とシチリア王家の血を引くフリードリヒ2世はイタリア半島統一を目指すがロンバルディア同盟などの反抗で果たせず、教皇はさらにフランスの手を借りて対抗した。ルイ9世の末弟シャルルは、フリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シチリア王カルロ1世となった。1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民による「シチリアの晩梼(ばんとう:夕べの祈り)」と呼ばれる暴動を起こす。(この時の合言葉「Morte alla Francia Italla anela」(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)がマフィアの語源との説もある。)シャルルはナポリに追放され、シチリアはアラゴン王のペドロ3世に庇護を求めた。この結果、シチリア王国は分裂。半島側はナポリ王国と呼ばれることになる。

…この「シチリアの晩梼」は、1282年3月30日の復活祭の翌日の月曜日で教会の前には大勢の市民が晩梼(夕べの祈り)を行うために集まっていた。彼らが暴動を開始した時に晩梼のを告げる鐘が鳴ったことからきている。そもそも、シャルルは、教皇と組んで東ローマ帝国の征服を計画しており、住民から強引な食料や家畜の搾取を行っていた。そこにアンジュ―家の兵の一団が住民の女性に暴行したことがきっかけで、4000人ものフランス系住民が虐殺された。また遠征用の鑑定も多数が破壊された。教皇マルティヌス4世は十字軍の妨害をしたとして全島民を破門したが、アラゴン王国のペドロ3世(シャルルに敗死させられた前王マンフレーディの娘婿にあたるし、)が上陸王位を宣言した。教皇マルティヌス4世はペドロ3世を破門、彼を支援したビザンツ帝国皇帝ミカエル8世も破門した。さらに後日談、翌年カルロ1世は、ペドロ3世に手紙を送り、ボルドーでの決闘を申し込んだ。(結局仏に入国したが決闘はしていない。)

2021年12月29日水曜日

南アの政治変化 考

https://martabookpro.hatenablog.com/entry/2019/02/03/203628
アフリカ・ウォッチャーとしては、何があろうと月1であってもアフリカについてエントリーしたいと決めている。年も押し詰まって、アフリカ関連の記事を調べて、興味深い記事を発見した。南アの政治状況が変化しつつあるようだ。

南アの政治は、長らくANC(アフリカ民族会議)がずっと多数派だった。マンデラ氏を中心にアパルトヘイトを打破し、それを終了させた政党である。それが、統一地方選挙で、得票数が過半数を割り込み(46%)、ヨハネスブルグ、プレトリア等の市長選挙で敗北したという。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e5be6bf185f065f9c59a5088de232991ceb5f5f3

マレーシアにいた時、独立以来ずっと与党だったUMNO(統一マレーシア国民組織)が、マハティール氏の野党連合に負けた総選挙を経験した。地方選とはいえ、それを彷彿とさせる話だ。

開発独裁政権は、基本的に強い。南アがデモクレイジーによる政権だとは思わないが、よほど国民に飽きられたり、失望されているのだろうか。多党化は、それだけ民主政治が円熟化したともいえる。選択肢が増え、野党の様々な特徴的な公約が、最大公約数的なANCを凌駕したのだろうか。

確かに、1994年のANC・マンデラ大統領誕生から27年たった。ジンバブエやモザンビークなどの経済的移民が押し寄せ、ローカルの人々と対立したり、エイズの対策にも失敗したが、国富の流出は防ぎ、BRICSの一員として存在感はキープしている。これから先の経済のかじ取りがますます重要である。記事には、ナイジェリアが経済的に接近しているとある。

…2024年には総選挙が予定されている。(画像は、2004年に訪れたプレトリア大学)

今年この一冊 2021

https://blog.goo.ne.jp/bunri0234/e/2a710d295d9ff1aedf0d6ce148510058
今年もあまり読書は進まなかった。今年この1冊と言っても、極めて少数から選ばなければならない。

「知の旅は終わらない~僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと~」(立花隆:文春新書/2020年1月)がその中では、最もふさわしいように思う。内容もさることながら、本年4月30日に他界されたことへのレクイエムとしても、今年の1冊にふさわしい。

次点としては、中溝康隆氏の「現役引退ープロ野球名選手最後の1年-」(新潮新書)を挙げたい。私は、未咲輝塾を離れるにあたり、桑田真澄でいきたいと思った。巨人で2軍を最後にNPBを離れ、MLBに挑戦した生き方に感銘を受けた。結局19試合だがメジャー昇格を果たした。ロマンにあふれる最後ではないか。引退というのは、かなり各人の美学の問題であるように思う。松坂が今年引退したが、ボロボロになるまでやりきった。それも彼の美学なのだろう。

私も4月から、老体に鞭打って、いや老脳に鞭打って、大阪市立M高校以上の進学校に挑む。世界史、倫理、政経を受け持つという話で進んでいる。倫理・政経はほぼ目をつぶって講義できるが世界史Bはそうもいかない。近世以後近現代史は問題ないと思うが、それ以外は十分準備して臨みたい。

2022年度は、おそらく読書量は格段に増えるだろうと思う。

2021年12月28日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー21

https://blog.goo.ne.jp/daimajin-b/e/7540165ffe0120fdaa1371118913d946
山川の世界史Bの教科書には、次のようにある。「これまで述べてきた国(英・仏・西・葡)とは逆に、政治的分裂と不統一が深まっていったのが神聖ローマ帝国である。ここでは大諸侯の力が強く、また自由都市もこれとならぶ独立勢力となる一方、歴代の皇帝はイタリア政策を追求して国内を留守にしがちであったため、帝国の統一がおぼつかなかった。シュタウフェン朝が断絶した後、政治的混乱は、事実上皇帝不在の大空位時代のときに頂点に達した。その後も皇帝権力はふるわず、皇帝カール4世は1356年に金印勅書を発布して、神聖ローマ帝国の皇帝選挙の手続きを定め、皇帝選出権を聖俗の七選定侯に認めた。」

今日の研鑽は、この内容を深めたい。前述の東フランク王兼イタリア王のオットー1世の戴冠が神聖ローマ帝国とされる。とは言っても教会の保護者・西洋世界の普遍的支配者たるローマ皇帝で、ゲルマンの風習から選挙王制であったが、ザクセン朝(オットー1世以来の家系)・ザーリアー朝(カノッサの屈辱のハインリヒ4世が出た)・シュタウフェン朝(フリードリヒ1世:バルバロッサが出た)では事実上の世襲制であった。オットー1世の父ハインリヒ1世は、分割相続制を否定、オットー1世自身は地位を世襲しない聖職者に注目し、帝国内の教会を官僚組織として統治機構に組み込んだ。(帝国教会政策:要するに次男や三男を聖職者にする政策)しかし、教会の人事権を握る事態が教会からの反発を招き、歴代皇帝(イタリア王を兼ねている)は、教皇とイタリア都市国家を牽制するために戴冠式を兼ねてイタリアの進駐した(これがイタリア政策である)。叙任権闘争でカノッサの屈辱以後、教皇派と皇帝派に分かれていた諸侯は、教皇派が強くなり、皇帝権は徐々に弱まった。

1209年ヴェルフェン朝になる。フリードリヒ2世は、諸侯の特権に法的根拠を与え支持を得るとともに各々の領地の経営に専念させた。東方移住が促され、1226年プロイセンのキリスト教化のためドイツ騎士団国を建国した。しかし、十字軍出兵を渋りグレゴリウス9世から破門され、第5回十字軍でもイェルサレムを奪還しながらもイスラムと戦わなかったとして非難されたのは前述。ゲルマン、ローマ、キリスト教の三要素からなる帝国は元のゲルマンのみになって、中世的封建制帝国から近世的領邦国家へと長い時間をかけて変わっていく。1356年、カール4世は、金印勅書を発布し、ローマ王は7人の選帝侯による過半数の得票で選出すると定められた。選帝侯には多くの特権が与えられ両方分裂体制が固定化する。7人の選定侯は、マインツ大司教、ケルン大司教、とりーあ大司教、ライン宮中伯、ブランデンブルグ辺境伯、ザクセン大公、ボヘミア王である。

フリードリヒ2世の死去した1250年または1254年や1256年から、ハプスブルグ家のルドルフ1世が国王に選出された1273年までを大空位時代(王はいたものの権力がなかった期間)と呼ぶ。1272年、弱体な君主を望む諸侯は、当時弱小だったハプスブルグ家のルドルフ1世を王に選出した。しかし、彼は残されていた王権を利用し一躍大諸侯の一角に押し上げた。スイスからオーストリアに軸足を移し、オーストリア公として着実に勢力を伸ばしルドルフ4世は大公を自称した。1478年にアルブレヒト2世が継いで1440年フリードリヒ3世がローマ王になってからは王位をほぼ世襲化する。(それまでは跳躍選挙で国王は一代限りだった。)1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇に戴冠を受けずに工程を名乗り始め、婿入りの形で当時ヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったブルゴーニュ家に入り、ブルゴーニュ領・ネーデルランドを得、さらにその子世代の婚姻関係でスペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世下でヨーロッパの一大帝国を現出させることになる。

2021年12月27日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー20

https://ja.wikipedia.org/wiki/
レコンキスタについては、中世ヨーロッパの人口増が原因で、東にはエルベ川以東の開拓、さらには十字軍と同様に、イベリア半島への拡大というカタチでいつも教えている。受験の世界史Bでも、そんなに詳しくは教えないようだ。実際のところ800年(718年-1492年)にもわたる話であるから当然のように思える。だいたい12世紀のカスティリア・アラゴン・ポルトガルの3王国が出来たくらいから教科書は書かれている。

もう少し詳しく研鑽していくと、ナバラ王国(現在のバスク地方)がという国があって、そこの王が暗殺され、継承権を有していたアルゴンカスティーリャはナバラへ侵攻、先に首都のバンブローナに到着したアラゴン王国のサンチョ・ラミネスがナバラ王となり強固な地盤を得たアラゴンは、1104年アルフォンソ1世(武人王)が即位した後、1118年ムラビート朝(ベルベル系遊牧民を母体とするイスラム王朝でアンダルシアからサハラ西部を支配していた。)のサラゴサを攻略、これには仏独の十字軍騎士が貢献したらしい。この頃、ポルトガル王国が建国している。

12世紀後半まで、キリスト教国とイスラム勢力(モロッコでの反乱があり、イベリア半島へも飛び火してムラビート朝が滅亡、ムワッヒド朝に取って代わられた。)はほぼ互角であった。1198年、教皇インノケンティウス3世の呼びかけで、第4回の十字軍が結成され、イベリア半島でもキリスト教連合軍が結成され十字軍騎士が来援、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いで勝利するが、その後10年間は体制は動かなかった。ムワッヒド朝で3人のカリフが擁立され内乱状態に突入したのを機に1230年、南方へ侵攻する。1251年グラナダ(ナスル朝:シエラネバダ山脈と巧みな外交で1492年まで存続した。イスラム教徒だけでなくユダヤ人が移住し経済的にも文化的にも繁栄)を除きイスラム勢力を駆逐する。この時点でレコンキスタは終焉したように見えるが、キリスト教勢力内部の分裂などでグラナダ陥落は1492年までかかる。

教科書に載せられているのは、1474年のイザベル1世がカスティリーニャ女王となり、夫のアラゴン王太子ジローナ公フェルナンドが共同統治王としてフェルナンド5世と称された。(カトリック両王)1479年にフェルナンドがフェルナンド2世としてアラゴン王に即位。これによって、カタルーニャ=アラゴンは統合され、スペイン王国が誕生したことである。

1482年、グラナダで内乱が発生、これを好機にカスティーニャは侵攻、1490年グラナダを包囲したが、2年かかって陥落させた。その後、血の純潔規定などキリスト教強化策を取り、ユダヤ人の財産を没収して追放した。これが、後の大航海時代後のスペイン没落に繋がっていく。

2021年12月26日日曜日

三崎でも雪

全国的にかなり降雪があるようだが、三崎でも昨夜から雪になっている。しかも、この佐田岬半島は風が強い。突風が吹き荒れて、凄い音がしている。おかげで、あまり積もらないのだが…。

今日は、はなはなでイベントが予定されていたようだが、この悪天候を予想して中止になったそうだ。地域おこし協力隊の仲間が用意をしていたらしいが、さすが自然には勝てない。

妻も、この雪のことを知っていて、だからこそ昨日買い物に行ったのだった。さすがである。

2021年12月25日土曜日

八幡浜のさかなクン

朝から、八幡浜のみなっと・どーや市場へ行ってきた。このところハマっている新鮮なお寿司の朝食をとるためである。(妻はいろんな魚を買っていた。イカ、フグ、タイ、カレイ、ハモ…。とにかく新鮮で安いのである。)何度も行っているどーや市場に「さかなクン」の来訪記念イラストがあることを発見した。今日はG1Xを持参していないので、妻の携帯のカメラでパチリ。実に味のあるイラストだ。(画像は拡大可能)さかなクンは、TVチャンピオンに出た時から知っている。今も大好きである。

その後、大洲で買い物をしてきた。大洲の本屋で、世界史の参考書やノートを見ていたら、山川の「世界史B書き込み教科書」を発見した。このところ、中世のヨーロッパ史のかなり詳細な研鑽をしてきた。この研鑽も大きな意味があるが、この書き込み教科書で、重要な人名や語句を押さえておくのも必要だと思ったのだ。共通テストレベル、関関同レベル、立命レベルと差をつけながら記入しようかと思っている。4月からこれを使って授業するのもいいかな。

2021年12月24日金曜日

巻雲の朝

今朝は珍しく佐田岬半島上に巻雲が出ていた。あまりに綺麗なのでG1Xで撮ってみた。この巻雲、雲の中では最も高い所にできる雲らしい。高層の空気に流れが速くなる秋に多いらしい。先日冬至が過ぎて、今日はよく考えるとクリスマスイブである。三崎にいると、クリスマスイブの感覚はほとんどといって良いほどない。都会のようにジングルベルなどのクリスマスソングは聞こえない。(笑)

まあ、私はブディストだし、関係がないのである。と、言いながら、先日、塾でクリスマス用のうまい棒(チョコレートコーティングしたもの)を生徒一人ひとりに配ったのだった。

巻雲からクリスマスに見事に話題がそれたが、何気ない自然に感激できるほうが人間らしく、幸せだと思う次第。この田舎生活もあとわずかである。

受験の世界史B 研鑽ー19

https://recoboo.com/tudor-dynasty/
百年戦争の後、イングランドではバラ戦争が起こる。今日の研鑽はバラ戦争について。この内乱は、実情としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものだと言える。具体的には、ノルマン・コンクエスト後のプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家ヨーク家の30年にも及ぶ権力闘争で、最終的にはランカスター家の女系の血を引くテューダー家のヘンリー7世が武力でヨーク家を倒しヨーク家のエリザベス王女と結婚し、テューダー朝を開いた。

百年戦争の原因を作ったエドワード3世の男子、黒太子の息子はリチャード2世。そこでこの血筋は絶える。ジョン(ランカスター家)の息子がヘンリ4世、そしてヘンリ5世と続き、仏王シャルル6世の娘カトリーヌと結婚してできた幼王・ヘンリ6世となる。
エドワード3世のもう一人の息子エドモンドの血筋がヨーク家で、ランカスター家は和平派、ヨーク家は主戦派であり、権力闘争を繰り広げていた。百年戦争に敗れヘンリー6世は精神錯乱になり、1455年第1次セント・オールバーンズの戦いで内乱の火ぶたが切られた。

以後、第一次内乱(ヨーク公の長男エドワードが、エドワード4世として王位につき、ヨーク朝が成立)、第二次内乱(一時的に復位したヘンリー6世・王太子をはじめランカスター家の王位継承者は根絶やしにされた。)、第三次内乱(エドワード4世が急死、弟のリチャード3世が幼い遺児エドワード5世を差し置いて即位、国内は混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーが1485年兵を率いてイングランドに上陸、ボズワースの戦いでリチャード3世を打ち破り、ヘンリー7世として即位、エドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚しヨーク家と和解し、テューダー朝が開かれた。)という経過をたどる。
*ヘンリ―・テューダーの祖父オウエン・テューダーはウェールズ君主の血を引く下級貴族だが、ヘンリー5世の未亡人でフランス王女カトリーヌ(キャサリン)と結婚したので、彼の父は、ヘンリー6世の異父弟となる。

バラ戦争後、イングランドの貴族は、戦死や処刑、嫡出男子の欠如による家門断絶などで25%程度減少した。公爵や伯爵と言った大貴族はほとんど姿を消した。ヘンリー7世は貴族数を抑制し、1485年の即位時の50家が1509年の死亡時には35家になっていた。断絶した貴族の所領は王領地化された。また、貴族の私兵の抑制もはかり、最初の議会で私兵(従属団)を保有しないことを制約させた。地方統治には、国王にとって危険な貴族に頼らず、ジェントリ(郷紳)に依存しようとするランカスター朝・ヨーク朝の政策が継続されたが、その達成には長い時間が必要だった。このような絶対王政の基礎を固めたが、コモン・ローや議会の制約の為、フランスやスペインのような強力な中央集権化には至らなかった。

2021年12月23日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー18

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百年戦争の経過の続きである。ジャン2世を捕縛され客死した後の話である。1364年、父の客死した同じ年に即位した息子のシャルル5世(賢王)は、戦争による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要収入を直轄領からの年貢のみの方式から国王課税収入へと転換した。税金の父と呼ばれるほどのこの改革は、王家の財力を飛躍的に伸ばし権力基盤を高めた。同時に様々な外交手段で親イングランド勢力を弱めた。

1370年、ゲグランをフランス王軍司令官に抜擢、シャルル5世は会戦を避け敵の疲労を待って着実に白や都市を奪還、ブルターニュ(ブルターニュ半島部)をほどんど勢力下においた。1375年、フランス優位の中で2年間の休戦協定が設けられたが、76年に黒太子、77年にエドワード3世が死去し正式な平和条約は締結されなかった。1378年、シャルル5世はブルターニュ併合を宣言したが、ブルターニュ諸侯の激しい抵抗があり、税の減額を決定した。1380年シャルル5世死去。長男のシャルル6世が継ぐ。1381年、新英のジャン4世ブルターニュ公の主権が認められた。同年、1375年以来の停戦合意から和平条約締結へと交渉が始まる。黒太子の息子リチャード2世とシャルル6世の話し合いはまとまらず、ずるずると休戦合意が延長される。

1392年、両王は直接会談となったアミアン会談の後、1396年に1426年までの全面休戦協定が結ばれた。これには両国とも内紛や混乱があったためである。

イングランドでは、1380年リチャード2世が親政を開始したが、フランス寄りであったため、訴追派貴族と呼ばれる5人の貴族が1377年ラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破り翌年無慈悲議会と呼ばれる議会で王の寵臣8人を反逆罪で告発、これに反発した国王はフランス和平案に反対した貴族を処刑した。またダービー伯ボリングブルックとノーフォーク公を追放刑に処したことで、議会派諸侯は再び軍事蜂起しリチャード2世を逮捕。(ロンドン塔に幽閉後、1400年獄死)逮捕翌日、ダービー伯ボリングブルックがヘンリー4世として即位する。ランカスター朝。彼は、リチャード2世の従弟ランカスター公の息子にあたる。

一方、フランスでは、幼少のシャルル6世の後見人となり、国王課税を私物化したブルゴーニュ派と1388年シャルル6世の親政後王を支える官僚集団のアルマニャック派が対立、しかも1392年シャルル6世が突如精神錯乱となり、泥仕合の内乱となった。しかも共にイングランド軍に援軍を求めることになる。

最初、アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は1412年ノルマンディーに上陸、しかし両派が和睦したので帰国。1413年ヘンリー4世が死去し、その子のヘンリー5世が即位したが、1414年ブルゴーニュ派と同盟を結び、1415年ノルマンディーに再上陸。アキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジュ―の返還とフランス王位を宣言した。仏王家は混乱していたがパリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、大軍(英軍の3~4倍)を派遣したが、アジャャンクール(カレー近郊)の戦いで大敗。アルマニャック派のオルレアン公は捕らえられ、派は弱体化し、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も無力で、1417年、再上陸したイングランド軍はノルマンディー一帯を掌握した。

この間、フランス王家はシャルル6世の跡継ぎ問題で泥仕合を続けていたが、結局1420年トロワ条約を締結した。シャルル6世の王位をそのまま終生認める。シャルル6世の娘カトリーヌ(英名はキャサリン)とヘンリー5世が婚姻し、その子をフランス王の継承者とする=イングランド・フランス連合王国を目指すものであった。シャルル6世の王太子(後のシャルル7世)は不服とし抵抗するが、トロワ条約は三部会の承認を受けた。

しかし、1422年ヘンリー5世が急死、さらに同年シャルル6世も死去した。イングランドはトロワ条約で生まれたヘンリー6世(1421年生まれ)をイングランド王位とフランス王位につける。(実際には8歳でイングランド王戴冠、フランス王は、1431年のシャルル7世の戴冠の4か月後である。ちなみに、百年戦争後もイングランド王はフランス国王の称号を1801年まで使い続ける。)

百年戦争が大きく動いたのが、オルレアン(パリの南部)である。当時オルレアンの少し南部のブルージュで反イングランド勢力と同盟を結んだシャルル7世は再起を狙っていた。1429年、イングランドに包囲されていたオルレアンを救うべく、フランス軍が防衛軍と合流し、包囲砦を陥落させイングランド連合軍を撤退させた。(オルレアン包囲戦)この時大活躍したのが、ジャンヌダルクである。(農夫の娘だが神の啓示=「英軍を駆逐し王太子シャルルをランスに連れて行き王位に就かしめよ」を受けたとしてフランス軍に従軍、ニシンの戦いの預言が的中したことからシャルル7世の王宮へ行くことを許可され、騎士の軍装を寄付された。シャルル7世は、進学者の顧問団に彼女の宗教的正当性を諮問し正当性を認めた。オルレアン包囲戦では、当時の司令部の作戦を無視し積極攻勢を貫いた。)オルレアン包囲戦に大勝した後もランス(北東部にある都市で戴冠式が行われるノートルダム大聖堂がある。)に向かい、シャルル7世は戴冠する。しかし、その後の戦い(1430年のコンビエーニュ包囲戦)で負傷・捕縛され、1431年異端審問裁判で火刑になる。(1456年、復権裁判が開かれ、無罪、1909年聖福、1920年列聖。)

この頃、シャルル7世を財政面でささえたのがジャック・クールである。1427年王立の貨幣鋳造所を入札、1439年には会計方に任じられている。毀誉褒貶の多い人物であるが…。

その後、シャルル7世とブルゴーニュ公との間で6年間の休戦協定が結ばれ、さらにブルゴーニュと荒らすの和約を締結、同盟を結んだ。さらにイルド=フランス(パリの周囲)シャンパーニュを制圧、アキテーヌには周囲から圧力をかけ始める。1436年パリにフランス軍が入場、1439年オルレアンでの三部会で軍の編成と課税を決定、傭兵隊の編成、1445年には常設軍「勅令隊」が設立され、貴族は予備軍となった。平民からは各教会区で一定の徴兵が行われ、訓練・軍役と引き換えに租税の免除がなされることになり自由の名のついた自由射手隊が組織された。またこの頃から大砲が活用され始める。(1440年にこれらに反対する貴族の反乱・プラグリーの乱が起こる。中央集権化への反発だが、一方で諸都市は、街道荒らしと呼ばれた貴族の私兵や傭兵隊による略奪に反発各地で問題となっていたので、王を支持した。)これら一連の軍備編成を終えたシャルル7世は、1449年ノルマンディーを支配する英軍討伐を行い、ルーアンを陥落させる。さらにシェルブールに上陸した英軍を1450年のフェルミニーの戦いで大勝、完全にノルマンディーを制圧した。すぐさま、アキテーヌ占領に着手、ボルドーを陥落させる。一時は奪還されるもカスティヨンの戦いに大勝し再度ボルドーが陥落、百年戦争が終息した。

…百年戦争は、複雑で醜悪である。受験の世界史では、詳細にやる必要はないだろうが、一度きっちりと経過も見たかった。太字が少ないのが、このことを何よりも物語っている。

2021年12月22日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー17

https://www.lookandlearn.com/history-images/A003511/English-
longbowmen-at-the-Battle-of-Crecy-France-Hundred-Years-War-1346
百年戦争(1339-1453)が今日の研鑽のテーマである。その原因については長々と記述してきた。次に百年戦争の経過を中心に記しておきたい。

初期には、エドワード3世の王太子(つまりプリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード黒太子(こくたいし)が大活躍する。なぜ黒太子か?は、黒い鎧を着ていたからというのが多い。フランス側からは残虐行為に対して「黒」と呼んだからと必ずしも明確ではないし、存命中そう呼ばれたわけでもない。1346年のクレシ―の戦い(カレー近郊でイングランド1.2万vsフランス3-4万でイングランドが白兵戦を制した。)では16歳。この戦いでは、仏側のジェノヴァ人の傭兵のクロスボウより、英側の練度が高く1分間に6-10発撃つウェールズ人の自由農民のロングボウが圧倒した。その後仏の重騎兵部隊が突撃したが退却していたクロスボウ隊を踏み潰してしまい、しかも傾斜や人工の障害、雨による不安定な地盤で英の陣形を崩すことが出来なかった。イングランド軍はこの後カレーを包囲するがペストの流行で、一時休戦協定を結び足踏みすることになる。

その後、黒太子は、ウィンチェルシーの海戦、1356年のポワティエの戦いでは、数的劣勢を跳ね返し、フランス王ジャン2世(ヴァロワ朝第2代の王・フィリップ6世の息子:捕虜になりイングランドに渡り、1360年にブレティニー条約で子のルイが代わりに人質になったが、脱走したためやむなくイングランドに渡り虜囚のまま没する。善良王と呼ばれる。)を捕虜にして大勝利を収めた。1362年、黒太子は、アキテーヌ公に任じられたが、カスティーリャ王国の継承戦争に関与し、ナヘラの戦いでも大勝したが、度重なる戦争や王に匹敵する豪奢な生活のため財政性が破綻、1368年アキテーヌ公領に人頭税を課し不満が高まった。アキテーヌの豪族たちやアルマニャック伯がフランス王シャルル5世の管轄するパリ高等法院に提訴、出頭を命じられた黒太子は、宗主権ごと割譲されたと認識しており、「自分の好きな時に大軍を率いて出頭する」と返答、シャルル5世はアキテーヌ公領の没収を宣言、1369年百年戦争が再開された。

しかし病に臥せっていた黒太子は指揮を取れず、支配下の都市がフランス軍に奪還され1371年には本国へ帰還、弟から実権を取り戻したが、1376年死去。父エドワード3世も1377年死去。王位は黒太子の息子リチャード2世に継がれた。

百年戦争は、戦争費用を捻出するために、増税が課せられた。フランスでは1358年、ジャックリーの乱が起こる。ペストや貨幣の改悪、ポアティエの戦いの敗北などで王権は失墜しており、傭兵団による略奪が横行しフランス北東部で広範囲な農民反乱が起こったのである。一方、イギリスでも1378年、ワット・タイラーの乱が起こる。百年戦争による財政悪化と増税、ペストによる労働力不足から農奴制を強化したことなどが原因で、ロンドンの南東ケントから反乱軍が進みロンドンを占拠した。

*重要な事項(共通テスト・難関私立大入試必須)を太字にしておいたほうがいいと思うので、過去の研鑽にも遡って太字化しておくことにした。

2021年12月21日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー16

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A3%E
3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%95%99%E7%9A%87%E5%BA%81
イギリスとフランスの領土と対等・君臣の複雑な関係は、百年戦争に繋がるのだが、ここで、カペー朝についての研鑽を進めたい。ルイ5世が逝去しカロリング朝が断絶した後、カロリング朝の前のロペール朝のロペール1世の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがランス大司教アダルベロンが聖俗大諸侯会議で推挙、987年戴冠した。ちなみにカペーとは俗人修道院長がはろった短いケープのことで、あだ名が家名になった。また同年、その子ロベールも共同統治者として戴冠、この疑似世襲は、以降6代にわたり踏襲される。以後はイングランドとの抗争や諸侯の圧迫もあって、権威はあったものの実効的な権力はなかった。

12世紀後半、第5代・ルイ6世の時代から王権の強化が始まる。第7代・フィリップ2世(尊厳王)とイングランドの抗争(vsリチャード1世・ジョン王)で領土を拡大したのは前述のとおり。アルビジョア十字軍は第9代・ルイ9世の時代に終わったが、フランス南部にまで王権が伸張した。総じて13世紀のフランス王権の強化はローマ教皇との連携を前提にしているが、ルイ9世時代の第6回・第7回十字軍はフランス財政に重い負担となった。

14世紀に入ると、フランス国王とローマ教皇の関係は対立へと転じる。第11代・フィリップ4世が大きな転換期に活躍する。フィリップ4世は、1297年、当時経済の中心地だったフランドルに勢力を伸ばし、羊毛を輸出していたイングランドのエドワード1世と戦うことになる。この戦争の戦費を調達するために、フィリップ4世は初の全国的課税を実施し、教会も課税対象となった。これに教皇ポニファティウス8世は、1300年を聖年とし全聖職者のローマ巡礼(巡礼者に天国行きを確約)を強要し、教皇の権威は他のあらゆる地上権力に優越すると宣言、フィリップ4世に教皇の命にしたがうよう促した。

1302年、フィリップ4世は、聖職者・貴族・市民の三部会を設定、フランスの国益を宣伝し、指示を求めた。フランス人としての意識が高まり、教皇の汎ヨーロッパ的価値観に対抗したわけだ。怒った教皇ポニファティウス8世は、フィリップ4世を破門、国王は悪徳教皇弾劾の公会議を要請した。フィリップ4世は、腹心の法曹官(レジスト)ギヨーム・ド・ノガレ(彼の両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていた。)がローマの教皇離宮のあるアナーニを襲撃(アナーニ事件)、教皇は憤死。1305年、次の教皇にフランス出身のクレメンス5世を擁立した。当初からフィリップ4世の強い影響下にあり、フィリップ4世臨席の元で登位した。クレメンス5世は一度もローマに入ることもなく、フランス南東部のアビニョン(一応ナポリ王国の所有だがフランスの強い影響下になった。)に教皇庁をを置いた。(=アビニョン捕囚)以後70年間、教皇庁はアビニョンにあり、フランス王の強い影響下に置かれる。また、1307年にテンプル騎士団総長らを一斉に逮捕、拷問による異端審問の後、騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収したうえで火刑にした。1328年、フィリップ4世が崩御、教皇クレメンス5世も逝去した。

このシャルル4世の死後、カペー朝は男子の継承者を失い、王位は従兄弟にあたるヴァロア伯フィリップがフィリップ6世(以後ヴァロワ朝となる。)として戴冠する予定だったが、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張(前述)、しかしフランス諸侯を説得させることが出来ず、1329年、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げ王位を認めた。

しかし、このギュイエンヌ問題(=アキテーヌ問題:少しだけ残っていた仏南西部のイングランドの領地もしばしば内政干渉やフィリップ4世やシャルル4世に占拠された。)やフランドル問題(フィリップ4世時代に対立、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態にあった。)、さらにスコットランド問題(13世紀末からスコットランドはエドワード3世のイングランドの侵略にあっていたが、亡命したスコットランド王はフィリップ6世の庇護下に入った。)これに対し、エドワード3世はフィリップ6世と対立していたアルトワ伯のロベール3世・ダルトワの亡命を受け入れ、引き渡しを拒否、これに対し、1337年フィリップ6世はギュイエンヌ公領の没収を宣言、エドワード3世はフランスに宣戦布告し、百年戦争が始まるわけだ。

2021年12月20日月曜日

緊急 マレーシアの洪水

https://www.jiji.com/jc/p?id=20211219193942-0040157590
マレーシアで洪水が起こっているようだ。セランゴール州が特にひどい状況である。セランゴール州と言うのはクアラルンプールを取り巻くように位置する州で、ブルーモスクのあるシャーアラムの映像など見てられない。

早速、KLのO氏やセランゴール在住のL君に連絡を入れた。2人とも無事で被害はないようだが、O氏の勤める工場のスタッフはすでに避難所にいるそうだ。明日様子を伺いに行くそうだ。ちょっとホッとした。KLのPBTの先生方や日本人の友人の多くは、高層のコンドミニアムに住んでいるので大丈夫だとは思うが、これから様々な感染症とかが襲ってくるかもしれない。心配は尽きないが、お世話になった全ての愛するマレーシアの人々の無事を祈りたい。

餅つきな終業式の日

三崎高校は今日が終業式であった。今回も学校との連携を旗印としている故に終業式に参加した。始まる前から、体育館前でPTA会長のU氏が石臼を3つ用意していた。餅つき大会の用意である。熱湯で、石臼を洗浄・殺菌するのに熱湯が必要とのことで、何回も塾の横にある調理室(3階である)まで往復されていた。調理室では奥様がもち米を蒸しておられて、ホント、準備が大変である。

終業式・HRが終り、生徒諸君が臼の周りに集まってきた。やはり男子は元気で大声を上げながら杵を振り上げる。愛媛も丸餅らしく、横の机で餅を丸める作業も始まった。全部で5クラス(といっても25人学級と言う感じなので、大阪なら3クラス強)というアットホームな小規模校なので、実に盛り上がる。1年も2年も3年もなく、みんなで楽しんでいた。

それにしても、ありがたい話である。こうして餅つき大会ができるのも、U氏ご一家のおかげである。勤務の関係で参加できなかった2人の講師の分の御餅をもらって塾に帰ってきた。

受験の世界史B 研鑽ー15

https://talking-english.net/domestic-partnership/
コモン・ローは、一国に共通する法律の意味で、イギリスにおいて生まれた概念である。ノルマン朝の12世紀後半から、国王裁判所で判例が蓄積され、次第に先例として体系化された。13世紀以後のイギリスの議会制度の発展と共に王権を制限する意味合いが強くなっていく。

少し専門的に言えば、記録ない時代からイギリス人を律してきた慣行と慣習上の準則で成り立ち、私人間の正義と公共の福祉の一般原理で補足され、国会制定法で変更を受ける場合がある。完成された理性、神の法とされる。

このコモン・ローは、①ノルマン人の王朝が従来のアングロ・サクソン人のそれぞれの地方の慣習に優越する「王国の一般的慣習」として用いたのがきかっけであること、②教会法と対概念であること、③ローマのブリテン征服は植民ではなかったので、他の地域のようにローマ法による政治組織や法体制が確立されなかったし、④後にエクイティー(衡平法:コモン・ローで解決されない分野に適用される法準則で、例えば自分の所有する乳牛が隣人の地に迷い込んだまま、どうしても返してくれない場合、原告としてはその乳牛を返して欲しいだけなのだが、コモン・ローでは金銭的価値の返還となる。柔軟に差し止め命令を出したりする。)という法概念が成立した。⑤判例法・不文法とも呼ばれることもある。かなりの多義性がある。

またコモン・ローの特質は、①法の支配(マグナ・カルタへの王の署名により最終的に確立)②エドワード1世が裁判官を官吏ではなく弁護士の代表から選び、行政と司法を分離した。(司法権の独立)ただし、コモン・ローでは、裁判官は仲裁者的な役割を担う。③一般市民から構成された陪審によって有罪と表決されなければ重罪について有罪の判決を与えることが出来ない陪審制が1670年から施行された。④判例主義となる。

…コモン・ローは、現在も元英連邦の国家で採用されいる。アメリカは、世界初の成文憲法を作ったが、その基礎にはコモン・ローがある。マレーシアなどでは、成文法の連邦憲法があるが、コモン・ロー=イギリス法の下にあるといえるし、シャリーアをはじめ各民族・地域の属性に応じた法も認められている。このあたり、私は法学には疎いので、とりあえず受験の世界史B・受験の政経に対応しえる範囲に留めようと思う。

2021年12月18日土曜日

受験の世界史B 研鑽ー14

https://www.britain-magazine
.com/features/royals/kings-
queens-edward-i-1272-1307/
続いて、ジョン王以降のプランタジネット朝について研鑽しようと思う。プランタジネット朝・第4代のイングランド王(1216年即位)はジョン王の息子ヘンリー3世である。年少(9歳)であったのが幸いした。(フランスでも1226年に12歳のルイ9世が王位を継ぐ。)1227年から親政を開始し、1229年にフランスの領土回復のため侵攻したが失敗。1236年に、ルイ9世の妃の妹エリナーと結婚。1242年にまた侵攻したが、逆に最後に残っていたフランス南西部のアキテーヌ地方を占領され窮地に陥る。ルイ9世はイングランドとの抗争を好まず、ノルマンディーやアンジュ―を正式に放棄し、アキテーヌ公としてフランス王に臣従を誓うことを条件にアキテーヌ地方南部のガスコーニュの領有を認めるパリ条約を締結した。

度重なる外政の失敗や財政難・課税の強化に、諸侯や聖職者は反発し、1258年にレスター伯・シモン・ド・モンフォールらが王権を監視する国王評議会の設置と定期的に議会を招集する取り決めを定めたオックスフォード条項をヘンリー3世に認めさせた。1261年、ヘンリー3世は、教皇アレクサンデル4世の許しを得てオックスフォード条項の誓いを反故にした。王党派と改革派が対立、不穏になったのでヘンリー3世は再び条項を承認した。ここでヨーロッパの調停者・ルイ9世に調停を依頼したが、自身も国王であるゆえに条項の廃止と反乱者への恩赦を軸とした裁定を行った。両派ともこれに納得せず、ついに内戦となった。シモン・ド・モンフォールは改革派の諸侯とロンドン市民等の民兵を率いて戦い1264年、王を捕虜とした。彼は、実質的なイングランドの支配者となり、各州から平民身分である騎士と都市の代表(市民)を招集した議会(ド・モンフォールの議会)を開き改革案を施行した。しかし急激な改革が反発を招き、1265年イーヴシャムの戦いで改革派は破れ、シモン・ド・モンフォールも戦死し、さらに1266年ケニスワース包囲戦で改革派は降伏、改革案は大部分破棄された。(=第二次バロン戦争)内乱終結後、王太子エドワードはルイ9世とともに第7回十字軍に参加した。(前述のようにルイ9世はチュニジアで死去したが、ルイ9世の弟でシチリア王の野心家シャルルと共にアッコンに向かう。=第7.5回十字軍:数々の戦闘には勝利したが結局聖地奪還はならずであった。)

エドワードは、即位(1272年:エドワード1世)後、法整備を進めた。改革の精神を受け継ぎ、平民身分を含めた定常的な議会の開催は、彼のの治世で実現(模範議会:1295年)する。イギリスの立憲君主制の基盤である。

このイギリスの法整備は、プランダジネット朝初代のヘンリー2世時代、コモン・ロー(普通法)を制定、貴族から裁判権を奪い、国王裁判官による巡回裁判を開催し、国王法廷への帰属を拒否する教会と対立した。ジョン王の破門もその流れ上にある。中央集権のシステムをイギリスは、ヨーロッパでいち早く作ろうとしていた。コモン・ローについては、次回の研鑽15でさらに深めたい。

一方、エドワード1世は、1277年と1282年-1284年にウェールズに侵攻。併合した。さらに、皇太子エドワードにウェールズ大公の地位を与えた。以降、この称号は英国皇太子に与えられることになった。次にスコットランドに侵攻した。王位継承に介入し、自らに臣従させた。反乱が起こり撃破して、1296年、自ら王位に就く。さらに抵抗運動が激化、1307年その遠征時に死去した。次のエドワード2世時にスコットランドを失う。

エドワード2世は山川の世界史用語集にも出てこない。寵臣に政治を任せ諸侯や議会と対立、王妃イザベラ(仏王フィリップ4世の次女で、男系が途絶え、女子相続を認めたないフランスでは、エドワード3世に王位継承権が移ると考えられた。)と愛人にクーデターを起こされ、議会で廃位させられ、幽閉後、拷問され惨殺されたとも伝えられている。英国史上最低の王らしい。

次の研鑽は百年戦争関連になるが、その前にコモン・ローについて整理しておきたいと思う。

2021年12月17日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー13

イギリス史とフランス史を概観した。ノルマンコンクエストにより、ノルマン系フランス貴族(=ノルマンディー公ギョーム)の王朝(ノルマン朝)が成立し、4代で途絶えた後、アンジュ―伯がプランタジネット朝を開き、さらにフランス王と対等&臣下という変な関係が続くことになる。何故、アンジュ―伯家なのか?嫡子を失ったノルマン朝最後の王ヘンリー1世は娘(マティルタ:神聖ローマのハインリヒ5世と結婚後、死別していた)を後継者に指名しアンジュ―伯ジョフロワ4世と結婚させたからである。(ただし、ヘンリー1世の甥にあたるスティーブンが先に即位、20年間も無政府時代という内乱になった。1153年、ジョフロワ4世の息子アンリ(後のヘンリー2世)とスティーブンがついに和解=ウォーリングフォード協定)スティーブンが死去した1154年、プランタジネット朝が始まる。ちなみにその後のランカスター朝・ヨーク朝も男系の傍系、チューダー朝は女系で繋がっている。

ヘンリー2世は、積極的に領土を拡大し、中央集権を推進した。ヘンリー2世には、若ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人の男子がいた。フランス王の介入もあり父子兄弟間の争いが絶えなかった。リチャードは、父王の前で公然と仏王に臣下の誓をし、公然と反抗・敵対した。1189年ヘンリー2世が病死するとイングランド王に即位した。

リチャード1世は即位すると王庫の金だけでは足りないと城、所領、官職等を売却して十字軍遠征の資金を集め、スコットランド王の臣従を1万マルクで解除した。1190年仏王フィリップ2世や神聖ローマの赤髯王と第三回十字軍に出発した。この中で、仏王フィリップ2世とも、オーストリア公レオポルト5世とも対立し、1192年休戦条約を結んだが、フィリップ2世はハインリヒ6世と結託し弟ジョンの王位簒奪(さんだつ)を支援していると知り、帰国を急ぐ。途中船が難破しオーストリアでレオポルト5世に捕らえられ幽閉される。翌年ハインリヒ6世に引き渡され身代金を払って解放される。この時、フィリップ2世はジョンに「気をつけろ、悪魔が解き放たれた」と知らせたと言われる。イングランドに戻り、ジョンを屈服させ王位を回復、その後フランスでシャルル2世と争い、十字軍中に奪われた領地を回復したが、1199年、鎧を脱いでいた時にクロスボウの矢を受け死亡。後継者を甥(弟ジェフリーの息子)のアーサーと考えていたがフィリップ2世に臣従した故に、弟ジョンに変更した。第3回十字軍の英雄、中世騎士道の鑑と言われたリチャード1世は、その在位中イングランド滞在はわずか6か月であった。

さて、第3代のジョン王とフィリップ2世と教皇インノケンティウス3世の話にいよいよ入る。1190年、フィリップ2世は正妻のイザベルが亡くなり、1193年デンマーク王の娘インゲボルグと結婚したが、気にらず離婚を宣言、1196年にバイエルン貴族の娘アニェスと結婚した。イングボルグは離婚を認めず重婚だと教皇ケレスティヌス3世に訴えた。教皇はこれを認め、死別しないうちの再婚を認めなかった。フィリップ2世はこれを無視、新教皇インノケンティウス3世は、フィリップ2世を破門、フランス全土で聖務停止を命令、ミサ、洗礼、結婚、葬儀も行われなくなり、遺体が墓地に並べられ伝染病が流行した。1201年、ジョン王との抗争にローマ教皇の支持が必要と判断し、教皇の要求に屈した。「イスラム教徒だったら良かった。ローマ教皇のいないサラディン(アイユーブ朝創始者)がうらやましい。」と述べたとされる。

一方、ジョン王は、すでに婚約者のいたイザベラと結婚したが、婚約者はフィリップ2世に訴えた。仏王は法廷にジョンを召喚し、拒否されるとジョンの全フランス領のはく奪を宣言し、交戦した。1203年フランス内の諸侯の多くははジョンを見限り仏王に降伏した。1208年、カンタベリー大司教の任命をめぐって、教皇インノケンティウス3世と対立、1209年教皇はジョンを破門した。フィリップ2世はジョンに不満なイングランド諸侯やウェールズ、アイルランドと呼応し侵攻計画を進めたが、1213年、ジョン王は謝罪して教皇に屈し、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形で返還された。

その後も破門経験者のジョン王とフィリップは争う。1214年のブーヴィーヌの戦い(フランク諸侯連合軍vs神聖ローマ・イングランド連合軍)が有名であるが、敗北した神聖ローマ帝国の皇帝オットー4世は、インノケンティウスから破門宣告を受け、ローマ皇帝の座から引きずり降ろされている。結局イングランドは大陸の領土をほとんど失い、フランスから見れば領土を回復したわけだ。晩年には、前述のアルビジョア十字軍に対して、1209年時点では部下に任せ、教皇の影響が強くなりすぎるのを警戒していたが、1216年十字軍が苦戦している際には王太子ルイ(後のルイ8世)を派遣、フィリップ8世・崩御(1223年)後に南部フランスを抑えた。フィリップ2世は、都市の育成やパリ大学の設立など内政も良くし、フランス王国最初の偉大な王で初代ローマ皇帝アウグストゥスにちなんで尊厳王(Auguste)と称された。

一方、ブーヴィーヌの戦いに敗れ、イングランドに戻ったジョン王は、国内諸侯の反発を受けた。戦費捻出は議会を通さず臨時課税を乱発していたからである。内戦状態になり、ロンドンを制圧されたジョンは、国王の課税権の制限、法の支配などが明記されたマグナカルタを1215年認めざるを得なかった。

マグナカルタには、余談があって、ジョンはインノケンティウス3世に訴え、無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じた。憤慨した諸侯は再び蜂起して内乱となり、諸侯はフランス王太子ルイ(=後のルイ8世)に援軍を要請、第一次バロン戦争が勃発した。ジョンはこの戦争中に赤痢に罹って病没(1216年)。戦争理由が亡くなったので、諸侯は王位を9歳だったジョンの息子に継承させ、ヘンリー3世の名前であらためてマグナカルタを発行させたのである。

突然リンダリンダの日

16日は寮生のクリスマスパーティーの日であった。昔はたしか寮でやっていたのだが、今年は三崎高校の在校生の過半数を占めているので、体育館で行われた。3時すぎからドッジボールなどを楽しんだ後、カレーライスパーティをしていたようだ。塾では、地元の受験生も帰宅したので誰もいなくなった。ちょっと様子を見に出かけたのだが…。

ちょうど、出し物になっていた。なかなか盛り上がっていた。(笑)さて、戻ろうとしたら吹奏楽部のK君が、「リンダリンダ」を歌ってもらえませんかと念願してきた。聞くと、いつもブルーハーツを歌うレジェンドのT先生が腰痛でダメらしい。他の先生も誰も歌えないとのことであった。T先生は、いつも跳ねながら絶唱されているので、パフォーマンスもしなければならない。うーん。だが、いつも塾で頑張っているK君のたのみなので、腹を決めた。

結果は悲惨だった。声はかすれるし、跳ねると無茶苦茶しんどい。でも寮生は喜んでくれていた。まあ、いいか。思えば、M高校で3年担任の時の文化祭で、松山千春を弾き語りで歌って以来である。T商業高校ではティーチャーズの一員だったし、I工業高校でもM先生とよく舞台に立った。(漫才が多かったが、吉田拓郎の我が良き友よを歌ったこともある。)3年の学年主任の時は学年団でSMAPを歌った。(笑)意外に舞台にはたくさん立っているのだった。

2021年12月16日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー12

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94
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フランス史を遡ると、5世紀後半、ゲルマン人のフランク人(ローマ帝国時代は将軍や傭兵、執政官になった者もいる)のクロヴィス1世(キルデリク1世の息子で祖父のメロヴィングの名を王朝名とした。496年キリスト教に改宗)によってフランク王国が建てられたことに始まる。クロヴィスの死後、分割相続の習慣から4人の息子に相続され分王国はそれぞれ領土を拡大したが、その後分王国間での勢力争いが激化、その中でアウストラシア(後のドイツ)の宮宰ピピン2世が台頭する。当時唯一のフランク王・テウデリク3世を手中に収めただ一人の宮宰となり、その息子・カールは732年イスラム軍(ウマイヤ朝)をトゥールポワティエの戦いで破り、ヨーロッパでの拡張を阻止した。
しかし、未だ古代の名残を残したガリア南部ではイスラム以上の破壊を行い、神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、カール・マルテルと称された。すでにメロヴィング家ではなく彼こそが、フランク王国の事実上の支配者と見なされた。
カール・マルテルの息子たちの中で、(宮宰として)最終的に単独の支配者になったのはピピン3世で、メロディング王家を廃するために、ローマカトリック教会の権威を求め、751年、教皇ザカリアスによってフランク王に推挙され、神によって選ばれたことを示す塗油の儀式が教皇特使によって行われた。この血統より教会の権威が勝ったことの意義は大きい。ここに、カロリング朝が成立した。ちなみに、メロヴィング朝の最後の王・キルデルク3世とその息子は剃髪され修道院に送られた。その後、有名なピピンの寄進がある。教皇領(都市ローマの宗主権+ラヴェンナ総督府領:東ローマ帝国がイタリア半島に支配していた地)の始まりである。

https://ameblo.jp/worldhistory-univ/entry-12039464226.html
ピピン3世の息子が、かのカール大帝(1世:フランス語読みではシャルルマーニュ)である。ここでも分割相続なので弟カールマン1世とフランク王国を分け合った。しかし、互いに長男にピピンの名をつけたことで反目が強まり、弟の死で単独王となり、以後戦争の日々を過ごし領土を拡大した。778年後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア北部、ザクセン人、アジア系のアバール人など46年間に53回も遠征した。一方、教皇よりも上位であることを知らしめるためにイコノクラスム論争に介入したりした。800年のクリスマスの日にサンピエトロ寺院で、教皇レオ3世より皇帝に戴冠された。また、カロリング・ルネサンスと呼ばれる面でも評価が高い。アルクィン(イングランドの修道士・神学者)をアーヘンの王宮に招き、ラテン語の教育やカロリング小文字体の普及にも努めた。

カール大帝の中央集権的な統一は分割相続によってまたもや崩れる。権力争いが再燃し、結局843年のヴェルタン条約で、ルードヴィッヒ2世の東フランク王国、シャルル2世の西フランク王国、皇帝たるロタール1世の両王国の中間部分とイタリアに分割された。中フランク王国は、さらに分割相続で3つに分かれた。その後も各国で分割統治が進んだが、870年のメルセン条約で結局フランス、ドイツ、イタリアの原型が形成された。ところで、このメルセン条約で揉めたのは「ロレーヌ」で、結局両者間で分割された。…仏独の領土的揉め事であるロレーヌ(有名な鉄鉱山がある。)は、この時代から存在していたわけだ。

東フランクはカロリング家の支配が維持されたが、西フランク王国は地方分化が進み弱体であった。887年、カロリング家のシャルルを抑えて、ノルマン人を撃退したパリ伯カペー家のユーグ・カペーが王に選出される。以後カロリング家から王位に選出される者は出ず、断絶と見なされている。

さて、やっとイングランドのジョン王とフィリップ2世の話に戻れるわけだ。フィリップ2世はカペー朝の二代目である。

2021年12月15日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー11

http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-672.html?sp
今回の研鑽は、イギリスとフランスの関係を主にしたい。まずは、イギリス史を遡る。そもそもブリテン島にB.C.7世紀頃、ケルト人が鉄器と共に流入したらしい。B.C.55年にローマ帝国のユリウス・カエサルが侵入、43年には皇帝クラディウスによってブリテン島の大部分が占領された。ケルト人の侵入を防ぐための長城が建設され、この地域をブリンタニア、また在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。(→ブリテン)また支配のためのロンディニウム(→ロンドン)と呼んだ。5世紀にゲルマン人の侵入が始まり、ローマ帝国は混乱、ブリタニアでの植民をあきらめ引き返した。449年にアングロ・サクソン人が侵入をはじめ、在地のケルト人は征服され同化し、一部は南西部のコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出された。

アングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サクソン人)は7つの王国を建設し覇権を争った。これを七王国時代と言うが、当初アングル人の王国が有力だったので、ローマはアングリア(アングルア人の地)と呼び、それがアングロサクソン風に言うと「イングランド」となった。8世紀には、アングル人の王国マーシアのオファ王がフランク王国とシャルルマーニュと対等に渡り合い、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いたが、統一を果たしたのは829年、サクソン人のウェセックス王国のエグバート王である。(イングランドの統一)

ここに、デーン人(ヴァイキング)が侵入、(ウェセックス王国の)アルフレッド大王はこれに立ちはだかり撃退したが、1016年にはデンマークのクヌートにより当時のエドマンド2世・剛勇王が破れ、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立した。

一方、9世紀にノルマン人がフランスに侵入、ノルマンディー公国(911年にサン=クレール=シュール=エプト条約で西フランク王国のシャルル3世=単純王の譲歩によって、ノルマン人の首長ロロに与えられた。)

北海王国のクヌートの死後、アングロサクソンによる王朝ウェセックス家のエドワード懺悔王が共同統治者(クルートの息子・ハーディカヌートに招かれた)となり、さらに1043年、ハーディカヌートの死後、イングランド王として戴冠した。しかし、修道士の心情をもっていて無為無策だが、ウェストミンスター寺院の基礎をつくった聖人とされているエドワードの死後、王位に就いたハロルド・ゴドウィンソンに対し、1066年、ノルマンディー公ギョームとノルウェー王ハーラル3世が異議を申し立て、ヘイスティングスの戦いで勝ち、ギョームはウェストミンスター寺院でイングランド王に即位、ウィリアム1世を名乗った。これによりアングロサクソンによる王位は途絶え、征服王朝としてのノルマン朝が成立する。これが、ノルマン・コンクエストである。征服王朝であった故に絶対王政が最も早く確立した原因であるとともに、ギョームは、イングランド王としてフランス王と対等であり、ノルマンディー公としては臣下という奇妙な立場になる。これが後(1337年-1453年)の百年戦争の遠因となる。

ノルマン朝は、わずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、1154年フランスのアンジュ―伯家からヘンリー2世が迎えられた。これがプランタジネット朝である。イングランド王・ノルマンディー公国に加え、アンジュ―伯領も得たわけで、フランス王からすればさらに複雑な関係になった。次の王、リチャード1世は、第三回十字軍に参加した。第3代の王がかのマグナカルタのジョン王(欠地王:兄たちに所領が分配された後領地が残らなかった故)で、フランス王フィリップ2世(尊厳王)との抗争に敗れ大陸領土のほとんどを失った。この抗争は教皇インノケンティウスを巻き込んでかなり複雑なので…つづく。

2021年12月14日火曜日

高知県梼原町の視察

7月に四国カルストに行く前に訪れた高知県梼原(ゆすはら)町から視察団が来られた。あの素晴らしい「雲の上の図書館」のある町である。梼原高校の学校長や教育,、中学校校長をはじめ8名が来られた。調べてみると、梼原高校もなかなか頑張っている。生徒数や進学実績も似ている。ただ公営塾はないようで、様々な質問も寄せられた。

もう一度行きたいと思っている町からの視察であり、学校長や教育長が来られるとなると、さすがに対応度合いは濃くなる。正直、少し疲れた。(笑)もう塾長の名刺も残り3枚。今回は3月に塾を去ることだし、8名全員に渡せないので、名刺交換を避けた次第。

意外なやり取りがあった。私が3月で退任するとのことで、地域の教育のアドバイザーの方がその後はどうされますか?と、梼原に来ませんか?というオーラを発しながら言われたことである。残念ながら、最終ステージは最高の場所に決まっている。丁重にお断りというか、「兵庫県の私立高校に決まっています。」と答えたのであった。

我が塾の講師陣の熱心さ・優秀さが良く分かってくださったように思う。今回の視察が少しでも梼原町のこれからに資することが出来ればと思う。

2021年12月13日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー10

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB
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なかなか十字軍が終らない。(笑)今日は一気に第5回から第7回までを研鑽したい。
第5回(1228-29):多くの記述は、フリードリッヒ2世が外交交渉で聖地回復した程度。だが、ちょっと裏事情もある。前述したが、フリードリッヒ2世は、自分自身参加しなかったことで、批判を浴びた。1225年、フリードリッヒ2世は、イェルサレム王の要請でその娘イザベル2世と結婚。イェルサレム王を称した。しかしさらに2年の引き延ばし1227年にイタリアの部凜ディッシュまで行ったが疫病が流行し多くの将校が命を落とし、引き返してしまった。彼に友好的だった教皇ホノリウス3世も亡くなり新たに教皇になった強硬派のグレゴリウス9世は、彼を聖約違反として破門する。
1228年、破門されたまま出発。アイユーブ朝とのコネクションで出発前に予備交渉をして、モンゴル帝国の脅威を感じていたアル=カミールと岩のドームを除くイェルサレム、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で休戦条約を締結した。
このイェルサレムの奪還への評価は低く、破門は解かれなかった。フリードリッヒ2世はイェルサレムで戴冠式を行ったが、妻となったイザベル2世はコンラート4世を生んだ後亡くなっており、王としての正当性も疑わしく、ドイツ騎士団総長は出席したが、現地の諸侯の反応も芳しくなかった。それどころか、「破門皇帝への十字軍」を教皇が宣言(凄いな)、その対応のため帰国した。1238年にも、第5.5回といえそうなバロン十字軍(教皇はあくまでイスラム教徒打倒を企てたが、フランス諸侯の小規模な十字軍は戦うことなく、領土を拡げた。)

第6回十字軍(1248-54):1239年にフリードリッヒ2世の休戦期間が切れた後、1244年モンゴルに追われたホラズムの一派がアイユーブ朝に雇われ、イェルサレムを占領、多くのキリスト教徒が殺害された。ところが、西欧は1187年の頃と比べると格段に豊かになっており、命や財産を失う危険を払ってまで聖地を取り戻そうという宗教的情熱はなかった。十字軍国家もある程度のイスラム教徒との共存が成立していた故に新たな十字軍の派遣を望んではいなかった。しかし、フランス王・ルイ9世は、信心深く、周囲の反対を押し切って十字軍を起こすことに決める。ところが、マンスーラの戦いでルイ9世は捕虜にされる。捕虜の総数は1万を超えたと言われ、エジプトではクーデターがありアイユーブ朝からマルムーク朝に代わったが、占領地の放棄と40万リーブル(当時のフランスの貨幣単位)という莫大な身代金でルイ9世と一部は解放された。(その他の捕虜はイスラム教に改宗させられた。)以後、アッコーを本拠にマルムーク朝と同盟してシリアを責めるが成果は上がらず、1254年摂政だった母が死去したので帰国した。

第7回十字軍(1270年):ルイ9世は、内政に励んでいたが死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。チュニジアのスルタンがキリスト教に改宗も考えているとされ、それを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にする構想をもった。しかし上陸すると抵抗を受け、飲み水の劣悪さ暑さにより病気が蔓延、ルイ9世も病没した。実は、第7.5十字軍もある。その主役はイングランドの皇太子エドワード(後のエドワード1世)であるが、さすがに割愛。

…十字軍、教科書や資料集だけでは面白さは伝わらない。受験ともなればスキルが重要だが、授業する側としては、100を知って50くらい論じるのが安心感がある。この調子ではなかなか研鑽が進まないが、懲りずにやっていこうと思う次第。

2021年12月12日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー9

https://keijoseph.amebaownd.com/posts/4373105/
さて、十字軍の話がまだ続く。第5回から第7回十字軍。これらは、世界史Bでは第4回までと比べてかなり重要度が低い。Wikipediaを調べてみたら、第5回~第8回十字軍に分類されていた。特に「Wikipediaの第5回十字軍」は、世界史Bでは省かれている。このあたり理由は不明だが、教科書にない「第4.5十字軍」として備忘録を記しておこうと思う。

第4.5十字軍(1217-21):第4回十字軍が結局イェルサレムに向かわないことに失望したインノケンティウス3世は、1213年教皇教書で新たな召集を呼びかけ、1215年の第4ラテラン公会議で正式に発布。(教皇主導の最後の十字軍)神聖ローマでは、教皇が支持するフリードリッヒ2世が即位し、フランスでも異端派(アルビ派orカタリ派:神によってつくられた精神が、悪魔によって作られた肉体・物質に囚われており、禁欲的な完徳者を中心に集団を作っていた。)を征伐するアルビジョワ十字軍が終息しかけていた。しかし、フリードリッヒ2世は十字軍には熱心ではなく、フランスでもアルビジョワ十字軍が再燃、次の教皇ホノリウス3世の呼びかけには、フランスの騎士はあまり集まらず、ハンガリー王のアンドラーシュ2世と伊・独・フランドルの騎士が参加、イェルサレム王国のジャン・ド・プリエンヌら十字軍国家とアッコーで合流した。シリアで小競り合いが続いたが、アイユーブ朝を攻略する必要があるとしてダミエッタの港を包囲する。

ここで、教皇使節のペラギウスが到着する。彼がこの十字軍の厄介者になる。十字軍の指揮権を要求し軋轢が生まれただけでなく、アイユーブ朝がクルドの反乱(1219年)が起こり、ダミエッタ港等と交換で旧イェルサレム王国領の返却を条件に和睦を申し出た際、異教徒との交渉を拒んだ。艦隊を派遣していたジェノバも商業的利益を望んで反対した。これは、聖地イェルサレムの優先度が激減したことを意味する。しかもペストが流行し、テンプル騎士団の総長も陣没した。新たな援軍が到着、ペラギウスは諸侯の反対を押し切り攻撃を命令、再度の和睦も拒否した。ついにダミエッタ港を占拠したが、ここを教皇領とするというペラギウスに、イェルサレム王は激怒しアッコーに戻ってしまう。神聖ローマの援軍も来たので、ペラギウスはカイロに進撃した。しかし、諸侯の忠告を受けず十分な食料・補給を用意せずナイル川デルタで進撃を阻まれた。ちょうど増水期で、しかも堤防を破壊され泥沼で孤立、ダミエッタを返却する条件で降伏・解放された。

ペラギウスが失敗の責任者として非難されたのは当然だが、フリードリッヒ2世も自ら行かなかったことを非難された。これが、第5回十字軍に繋がっていく。…つづく

2021年12月11日土曜日

三崎港”はなはな”で吹奏楽

朝7:30に町内の放送が流れた。今日三崎港の”はなはな”で、ライトアップ点灯式があり、三崎高校の吹奏楽部が出演するし、花火もあるらしい。

珍しく妻が行こうと言い出した。「おそらく最後の花火だし。」と言っていた。(笑)私としては、吹奏楽部が出るのは、伊方町役場の点灯式だと思い込んでいたのでびっくりした。”はなはな”だと歩いて行けるし、毎日関わっている帰国子女のW君もダンスをすると聞いていたので応援してあげたい。というわけで、カメラを持って出かけた。

ところが、またやってしまった。カメラのバッテリーがない。花火を写すことができなかった。(笑)意外なことに、6時すぎに花火と点灯式があって、三崎高校の吹奏楽部は40分後だった。これ幸いと休憩所にコンセントがあったので充電していた。イベントの時間設定としては、実に間が開いている。後にわかったのだが、吹奏楽部は、二名津(トンネルをひとつ越くぐったところにある集落)でも点灯式があって、まずそこで演奏してからこちらに来るかららしい。

今回も吹奏楽部も、バレー部のミッキーマウス隊も、1年生のダンス隊も頑張っていた。文化祭やみさこうフェスティバルで見慣れたパフォーマンスなのだが、何度見てもいいものだ。今回は2年生のリーダー群が石川県能登に遠征しているので、ヘルプチームは1年生が主力になっていた。管理職を始め、多くの先生方が来ておられたし、いつもながら大変だ。でも、地域にこういう高校があるとみんな元気になる。そういう熱気が蔓延していたのだった。

受験の世界史B 研鑽ー8

バルバロッサ 赤髯王 https://www.greelane.com/
十字軍の話、続きである。

第二回十字軍(1147-49):きっかけは、十字軍国家の1つエデッサ伯国の陥落である。ベルナルドゥス教皇の勧説でフランス王ルイ7世、ドイツ皇帝コンラート3世も参加。しかし明確な戦略や協調性を欠き、ダマスカスを攻撃したが、さしたる成果もなく終了。

第三回十字軍(1189-92):エジプト(アイユーブ朝)のサラディンがイェルサレム王国を陥落させた事態を受けて教皇に召集された。皇帝フリードリッヒ1世(赤髯王=伊語でバルバロッサ)、フランス王フィリップ2世(尊厳王)、オーストリア公レオポルト5世、イングランド王リチャード1世(獅子心王:しししん王)が参加。総司令フリードリッヒ1世の不慮の死(小アジア・キレキアのサレフ河で溺死といわれる。卒中・暗殺説もあり)もあり、ビザンツ帝国との対立もあり失敗に終わった。ただし講和時に聖地巡礼の安全が確保された。…ここで面白かったのは、不慮の死を遂げたバルバロッサ(赤髯王)が、伝説化したことである。民間伝承で、彼は今も眠り続けており、ドイツの危機に際し目覚め繁栄と平和をもたらすとされていく。バルバロッサと聞けば、WWⅡ時にナチがしかけた対ソ戦の作戦名である。ここから来ていたのだった。こういう関連の発見こそが世界史の醍醐味だと思う。

第四回十字軍(1202ー04):主要国の国王が参加したが成果があまりなかった第三回十字軍から10年たち、インノケンティウス3世は新たな呼びかけたが、国王たちは参加を拒んだ。シャンパーニュで開かれた馬上槍試合で勧誘したら、シャンパーニュ伯を始め70人ほどの有力諸侯が参加を決めた。エジプトのアイユーブ朝を攻撃するという具体的な遠征計画を立て、ヴェネチアに輸送を依頼する。しかし、ヴェネチアは、アイユーブ朝と、アレキサンドリアなどの自由入港、その代償としてエジプトへの遠征を援助しないという協定を結んでいた。十字軍参加者はヴェネチアに集結したが、予定した3万人の1/3も集まらなかった。参加者の有り金を集めても船賃が不足し出航できなかった。そこで、ヴェネチアと協議し、かつてのヴェネチア領で現在はハンガリー王国のザラ(現在のクロアチア)を攻略することで不足分を補うことになった。教皇は激怒し彼らを破門したが、弁明を受け許す。そこに、ビザンツ帝国の亡命皇子アレクシオスが訪ねてきて、帝位回復を願い出た。その見返りは、20万マルクの支払い、ビザンツ帝国の十字軍参加、東西教会の統合であった。結局、指導層(ヴェネチア含む)もこれに乗り、コンスタンチノープル攻略に進む。躊躇したのは当然で一部の者は離脱したが大部分は参加した。…こうしてみると、ヴェネチアの策謀が見える。

さて、コンスタンチノープル攻略を果たし、アレクシオスは父と共同皇帝(アレクシオス4世)となったのだが、20万マルクを用意できず、また税を課す力もなかった。さらに正教会の激しい抵抗にあった。十字軍は約束の履行を要求したが、本人が先帝の婿(後の5世)に暗殺された。再びコンスタンティノープルを攻撃、略奪と殺戮・暴行をつくし、新たにラテン王国を建て、フランドル伯ボードゥアン9世が選ばれた。領土はヴェネチアや諸侯が分割支配した。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略後は東西の教会統合を祝福した。そして再度エジプトへの出立を促したが、獲得した領土(それはパレスチナよりも豊かであった)に満足して、あるいは現地の反乱への対策で動くことはなかった。…まさに、ヴェネチアもヴェネチアだし、教皇も教皇、十字軍参加者も参加者である。

2021年12月10日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー7

http://medival.seesaa.net/article/460013007.html
中世のヨーロッパ史とくれば、ローマ教皇権力と世俗権力の変化が最も面白い。特に、ピピンの寄進、レオ3世時のフランク王国のカール大帝への戴冠、ヨハネス12世時の神聖ローマ帝国の成立(前述)、正教会との分離(前述)、グレゴリウス7世時の叙任権闘争とハインリヒ4世のカノッサの屈辱(前述)、そしてウルバヌス2世時の第1回十字軍、最盛期の「教皇権は太陽、皇帝権は月で有名なインノケンティウス3世時と、教皇権力は右肩上がりなのだが、その後衰退する。H高校で世界史Bを教えていた時、この辺は十分に研鑽済みだし、きちんと講じた記憶がある。十字軍については、7回あるのだが、勝利したのは第1回のみなので、後は詳しく講じなかった。今日の研鑽は、十字軍について詳しく研鑽しようと思う。

第1回十字軍(1096-99)セルジューク朝トルコの侵攻に対してビザンツ帝国の救援要請に答える形で召集された。1071年、マラズギルトの戦いでロマヌス4世が捕虜となり、アナトリアの支配権を失ったアレクシオス1世は、1095年傭兵の覇権を期待して、ウルバヌス2世に援助を求めた。教皇は、クレルモン教会会議を開催、カトリック世界によるイェルサレム奪還いう解釈で、武器を取って異教徒から聖地を奪還するよう訴え、群衆は興奮しこれに答えた、というのが、十字軍前段階の詳細。傭兵の派遣ですむどころか、人々は男女・貧富・老若を問わず、真摯な宗教心から富への渇望まで様々な理由から十字軍に参加した。

イスラーム勢力の分裂により十字軍は勢いを増し98年にアンティオキアを占領、エデッサ伯領やアンティオキア公領、トリポリ伯国(リビアでのトリポリではない)、小アルメニア王国、キプロス王国を樹立(十字軍諸国家)、99年にはイェルサレムを占領、イェルサレム王国(1099ー1291)を建てた。ロレーヌ公ゴドフロアが王位についた。第1回十字軍の指導者たちは、奪った封土として家臣に与えた。多くの十字軍参加者が帰国後、残った支配者は現地の人と共存し、貿易による商業活動も行ったが、主な関心は軍事で、ヨーロッパから騎士を雇った。

新しい戦闘的な修道会(騎士修道会)も生まれ、イェルサレムのユダヤ神殿跡近くに本拠を置いたテンプル騎士団(フランス:1119年承認)などが有名である。彼らは清貧と貞潔の誓を立てた修道士だが祈りよりも軍事に従事した。パレスチナに向かう巡礼の保護が第一の任務だったが、十字軍国家に守備隊を送りヨーロッパから聖地に金銭を輸送するなど任務が多様化し、莫大な富を蓄え、ヨーロッパにまたがる銀行支店網を展開した。

テンプル騎士団を含む三大騎士団が成立したのこもこの頃で、最も早く(1113年)認められたヨハネ騎士団は、イェルサレムのヨハネ修道院に病院を建て医療に従事するとともに、2つの要塞と140の砦を守っていた。当時はホスピタル騎士団とも呼ばれていた。イェルサレム陥落後は、トリポリやアッコン(現アッコー:地中海沿いの美しい街である。)を死守していたが、陥落後は、キプロス島へ逃れ、さらにビザンツ帝国のロドス島を奪い、本拠を移し、ロドス騎士団となる。1312年にテンプル騎士団が解散させられ、その財産が没収された時、多くこのがヨハネ(ロドス)騎士団に与えられた。イスラームと戦う唯一の騎士団(実態は海賊行為)故に多額の寄進も集まった。ちなみに、後1444年マルムーク朝、1480年にオスマントルコの襲撃を受けたが撃破。しかし1522年、スレイマン大帝の20万の兵には勝てず(ロドスは7000の兵)、シチリアに撤退した。教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝のカール5世の斡旋でマルタ島に移動。賃貸料はシチリア王への「マルタの鷹1羽」であった。マルタ騎士団となってからも、イスラームやヴェネツィアのユダヤ人への海賊行為を続ける。1565年に再度オスマン軍の襲撃があるが、スペインの救援とスレイマンの死でかろうじて防衛した。ナポレオンがマルタを占領した際は、正教会のロシアを頼った(総団長の座を皇帝に献上)が、1803年にはカトリックに戻る。現在は、ローマに本拠を置く国土を有さない主権実体で110か国と外交関係を持ち、120か国で医療活動を行う。国際赤十字やIOCと同様の非政府国際団体として国連のオブザーバーの地位にある。

もう一つの騎士団はドイツ騎士団である。聖地巡礼を護衛、医療活動を行う目的で設立され、1198に公認されたが、主に1266年以降、プロイセンへの布教・開拓を主任務とし大規模な東方移民を推進し、ドイツ騎士団領を形成した。

一気に第7回十字軍まで研鑽するつもりだったのだが、騎士修道会、特にヨハネ騎士団がマルタ騎士団に繋がることが面白くて、ついつい長くなった。…つづく。

2021年12月9日木曜日

HEAVENESE

妻がYouTubeで、HEAVENESEというグループを見つけた。よくYouTubeでバンされなかったものだと思う。無茶苦茶クオリティが高い替え歌の社会批判ソングだ。

彼らのHPには、すでにYouTubeで21万回された後、バンされた”コロナラプソディ”がアップされている。ここなら安全のようだ。クィーンの名曲と社会批判が見事にコラボされている。

http://www.heavenese.jp/kaeutapage.html

その下には、陽水の名曲から、”決まりじゃないのよ接種は”、郷ひろみの名曲から”疑惑40万の見込み”、美空ひばりの名曲から”お祭り蔓防”、サザンの名曲から”勝手な検査キット”などなどが貼られている。どれもクオリティが無茶苦茶高い。

もし忌野清志郎が存命なら、こういう社会風刺ソングをオリジナルで作っていただろうと思う。そういう意味で、彼らはオリジナルではないにせよ、忌野清志郎の系譜を継いでいると思う。日本のマスコミではあり得ない話だと思うが、彼らこそ紅白に出場して欲しいと思う次第。

受験の世界史B 研鑽ー6

まず、昨日の研鑽で出てきたイコノクラスムの話の付記から。倫理で、正教会を教えるとき、その特徴的なものの一つに「イコン」がある。レオン3世は、このイコンを偶像刷拝の1つとして迫害した。それ以後も迫害があり計2度テオドラ、エイレーネー(左の画像)という女帝が解禁した。私はNYでロシア正教会、イェルサレムでアルメニア正教会の教会内部に入ったことがあるが、イコンは、蝋燭に照らされ、なかなか幻想的である。

地理では、ヨーロッパの宗教事情も扱う。南ヨーロッパとフランス、ドイツ南部とオーストリアは、ローマカトリック。旧ユーゴでも、スロベニアとクロアチアはローマカトリック。東欧ではポーランドがカトリック。バルト三国でもリトアニアはローマカトリック。ギリシアと東ヨーロッパの多くは、正教会。そのルーツが、今回のスラブ人の動向部分である。

スラブ人はインド=ヨーロッパ系で6世紀以後東ヨーロッパに拡散したようだ。後のロシア人、ポーランド人、チェック(現チェコ)人、スロバキア人、クロアティア(現クロアチア)人、セルビア人、ブルガール(現ブルガリア)人などである。そこにアジア系のマジャール人(現ハンガリー在)、ラテン系のルーマニア人も共生していた。

南スラブでは、セルビア人が9世紀頃キリスト教を受容、11世紀にはセルビア(ゼータ)王国を建設、ビザンツの実質的支配を受けていたが、徐々に勢力を拡大14世紀、ステファン=ドンシャン王時に最盛期を迎えバルカン半島西部を支配下に置いたが、その後コソヴォの戦いでオスマン帝国に敗れ従属することになる。また、9世紀、クロアティアとスロヴェニアがフランク王国の影響下となりカトリックを受け入れ、14世紀以後は神聖ローマ帝国(オーストリアおよびハンガリー)に組み入れられる。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも北部や東部はカトリックを受け入れたが、西部では正教会を受け入れた。地理的に周囲と隔絶していたこともあり、15世紀にオスマン帝国の支配を受けるまでは独自の地域分化の発展を遂げた。…このあたり、チトー亡き後のユーゴスラビアを念頭にまとめると、この頃からその混乱のルーツがあることを実感できる。

ブルガール人は、元々はトルコ系の遊牧民であったようだがセルビア人と同化し定住した。847年に第一次ブルガリア帝国のポリス1世は、ビザンツ皇帝を代父(信仰の証人)として正教会を受けいれ、スラブ語での典礼を用いて正教会を根付かせた。ビザンツ帝国とは和平と競合を繰り返したが10世紀に北からのペチェネーダ人やキエフ公国、南からビザンツ帝国のパシレイオス2世によって滅亡した。しかし12世紀には首都をタルノヴォに置き第二次ブルガリア帝国を樹立。しかし13世紀後半には内政の混乱とモンゴルの攻撃受け、14世紀末までにはオスマン帝国に併呑される。また、ルーマニア人は、14世紀にトラキア公国、およびモルドヴァ公国を建て、オスマン帝国に貢納することでその後も自治を認められる。…現在のモルドバのルーツもこの辺にあるのだった。

今日のロシア=バルト世界を構成する国々もこの時期に成立をみた。現スウェーデンン系のノルマン人のルス(ルーシ)人が862年ノヴゴロド国を建国した。これがロシアの起源である。また882年、ドニエプル河沿いにキエフ公国を建国した。いずれも東スラブ人と同化して定住した。キエフ王国は黒海・バルト海の交易の中継地として栄え、キエフ大公・ウラディミル1世の時に、ビザンツ帝国のバシレイオス1世の妹と結婚し、正教会に改宗、国教化した。しかし、ポロヴェッツ人(キプチャク)の攻撃に苦しみ12世紀までに公国は形骸化、諸侯国に分裂し、13世紀半ばにはキプチャク=ハン国への従属を強いられた。(タタールの軛:くびき)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC
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キプチャク=ハン国のもとで、モスクワのイヴァン1世が大公の称号を許されたのを機にモスクワ大公国(1480年独立)が諸侯国の中で優勢となる。ドミトリー=ドンスコイ大公の時、クリコヴォの戦いで、キプチャク=ハン国を破り、ティムールの攻撃も受け弱体化したキプチャク=ハン国は分裂衰退した。その後、イヴァン3世は、ロシア諸侯国を統一して、「タタールの軛」からロシアを開放し、統一法典を整備した。ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪ゾエ(ソフィア)と結婚し、ビザンツ帝国=ローマ皇帝権を継ぐ皇帝(ツアーリ)を名乗った。モスクワが第三のローマと呼ばれるのはそのためである。その孫のイヴァン4世=雷帝の代にロシアはモンゴルを駆逐し、ポーランドを抑えて大国としての地位を獲得する。

…中世の東欧の歴史も意外に面白いのであった。

2021年12月8日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー5

https://quercus-mikasa.com/archives/11064
中世時代は、東ローマ帝国はビザンツ帝国と称される。西ローマ帝国が崩壊して以後、ローマの政体、キリスト教の信仰、ギリシア語に基づくヘレニズム文化の3要素が、ビザンツ帝国の理念を支えた。今日は、初期・中期・後期に分けて概説しながら研鑽を深めていくことにする。

初期:古代末期のローマ帝国 330年のコンスタンティヌス大帝によるコンスタンティノープルへの遷都は大きな転機となり、8世紀までに帝国の中枢はキリスト教徒が多数を占めるようになった。7世紀にはラテン語に替わって東地中海の共通語・ギリシア語が行政の言語となった。テオドシウス2世はローマ法の整理に着手し、首都の防衛の要となる城壁を巡らせた。さらにユスティアヌス1世は、ハギア=ソフィア教会を大ドームの聖堂として3度にわたり再建し、キリスト教世界の信仰と政治の中心と位置付けた。この大聖堂で、皇帝戴冠式が挙行され、コンスタンティノープル総主座が置かれた。(ビザンツでは、皇帝が総主教の任命権を持ち政教両権を握る「皇帝教皇主義」が確立した。→レオン3世の時代)
また、534年、ユスティアヌス1世は、ローマ法大全をトリポニアヌスらに命じて編纂させ、北アフリカのヴァンダル、イタリアの東ゴート王国、西ゴート王国の一部を奪い、旧ローマ帝国の再征服を部分的に果たした。当方では、7世紀にヘラクレイオス1世がニネヴェの戦いでササン朝ペルシアを圧倒したが、ヤルムークの戦いでイスラム勢力に敗退した。

中期:8世紀~12世紀 ユスティアヌス1世時に最大の領土を確保したビザンツ帝国は、北方からルス(ロシア人)やスラブ人が南下し、東からはアラブ人やトルコ人のイスラム諸国民が迫った。一方、旧ローマ西方領では、カトリック世界が台頭し、政治・協議の両面で競合した。ヘラクレイオス1世の時代に、全領域を行政と軍事を任された将軍の元に、土地を支給された屯田兵を配するテマ制度が整備される。またイコノクラスト(聖像禁止主義者)のレオン3世は、726年に聖像禁止令を出した。この論争は843年の聖像崇拝復活までカトリックとの緊張関係を生んだ。一方で、ビザンツ文化が9世紀には興隆し、11世紀には第一次ブルガリア帝国を滅ぼすなどしたのだが、1054年には東西両教会は相互に破門、分裂した。1071年、マンジケルトの戦いでトルコのセルジューク朝に敗北、アナトリアにおける勢力は大きく後退した。アレクシオス1世は周辺民族と渡り合い勢力の再建を目指したが、現状維持にとどまった。1095年、アレクシオス1世は、セルジューク朝の圧力をカトリックの力を借りて撃退しようと救援を要請、ビザンツのギリシア正教会より上位の地位を目指すカトリックは、第1回十字軍を派遣する。しかし、ビザンツとその周辺に大混乱を引き起こした。1204年、ヴェネツィアの傭兵軍が第4回十字軍の際、首都を襲い、コンスタンティノープルにラテン帝国を確立した。ビザンツは、亡命国家となり、アナトリアのトレビゾンド等に小国家を形成、捲土重来をきすことになる。

後期:13~15世紀 1261年、ミカエル8世がラテン帝国から首都を奪還した。セルビアやモンゴル、西ヨーロッパ諸国と対立。1453年、オスマン帝国のメフネト2世の侵攻を受け、コンスタンティノープルは陥落、ビザンツ帝国は滅亡する。

ビザンツ帝国は1000年にも及ぶ長い歴史なので、これまでの研鑽内容の前や後にも伸びる。この辺が世界史のややこしいところである。タテで教えた方がわかりやすいが、ヨコも無視できない。

2021年12月7日火曜日

中国共産党・習政権の市場破壊

https://www.asahi.com/articles/ASPD45WS3PD4ULFA002.html
今、中国経済をめぐって、世界的な金融危機が起こるかもしれないと、日本以外では言われている。日本のマスコミは、完全に中国共産党の言うことをそのまま流しているから、あまり公になっていない。

恒大集団という不動産ディベロッパーがデフォルトを起こしそうだと前々から言われていて、ドイツの市場調査機関(DMSA)などはすでに起こっていると公言している。中国経済をけん引してきたのは、この不動産投資である。社会主義国家である中国では、土地はすべて国有で、地方政府がその賃貸料を取って企業に貸している。その土地にマンションをはじめとするほぼ街ごと開発をして、恒大集団は巨大化してきた。莫大な資金が必要であるので、様々なところから資金調達している。株式や社債だけでなく、多くの内外の金融機関からもかき集めている。

この恒大集団だけでなく、その他の不動産ディベロッパーも現在デフォルトの危機にある。理由は簡単である。習政権が不動産取引を締め上げたのである。それは、前政権の江沢民や温家宝の親族が経営参加しているからである。権力闘争である。もし、デフォルトしたら、多くの金融機関、建設業者、もちろん顧客にも大きな影響が及ぶだろうが、習政権にとっては、中国人民がどうなってもいいらしい。

ところで、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)というものが金融にはあるらしい。高校生にもわかるように言うと、企業がデフォルトを起こした時のリスクを引き受ける「掛け捨ての保険」のような金融商品だ。CDSを引き受けた金融業者は、デフォルトが起こると大変だが、無い限りにおいては利益を生む。今回の恒大集団においても、このCDSがどれくらいあるのか、未だに分からないし、どんな影響が世界市場に起こるかわからない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6348a788a6de565c0a12a4878544079878efa45e/images/000
一方、習政権は、国内のIT産業にも規制をかけており、これも大きな問題になっている。最近では、ディディ(滴滴)という配車関係のIT企業が、NYSE(ニューヨーク証券取引所)に上場して直後に、アプリのダウンロードを停止された。当然ながら株価は急激に落ち込んだ。アリババやテンセントなどのIT企業も締め付けを受け窮地に追い込まれている。

これらIT企業も恒大集団と同様、旧勢力の利害が絡んでおり、どう見ても権力闘争の為せる術である。これらのIT企業に投資したアメリカをはじめとした投資家の怒りは収まらない。当然ながら、習政権にとって、これらの企業の労働者、投資家などへの配慮は微塵もない。

独裁政権の中国共産党が権力闘争を理由に、このような理不尽な市場操作を行うことを世界は許さないだろうと思う。市場の失敗どころではない。市場の破壊である。経済の語源が経世在民であることを自国の文化でありながら忘却しているとしか言いようがない。

2021年12月6日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー4

https://ameblo.jp/takafumiaoki000/entry-12277664000.html
オットー朝による神聖ローマ帝国成立のころ、すなわち10世紀から11世紀のヨーロッパのエントリー。フランス(西フランク王国)でも、カロリング家を凌ぐ強大な王家は登場しなかったが、それでもブルターニュ伯、ノルマンディー公などの諸侯が台頭してくる。987年にカロリング家の男系血統が断絶した。王国集会で、フランキア大公でパリ伯のユーグ=カペーが王家継承者に選ばれ、カペー朝が始まる。1338年までフランス君主を輩出する。

イギリス(アングロサクソン人の地)では、イングランドの統合が進み、973年にカンタベリ大司教がエドガー王(平和王)に戴冠した。全ブリテン島の皇帝を名乗った。これがイングランド王国の成立である。ここでも、移動式宮廷が組織され、地方統治組織(シャイア)制が整備される。と共に、フランスのクリュニー制を持ち込み、王立修道院を改革、各地に司教座を設置した。

スカンディナビアでは、10世紀末から11世紀初めに、スヴェーア人、デーン人、ノルウェー人が、それぞれスウェーデン、デンマーク、ノルウェーという統一王国を形成した。デンマーク王国の統一を果たしたハーラル=ゴームソン王(青歯王)が960年にオットー朝の働きかけで、洗礼を受け、多神教(オーディンの神やドルイド僧などで知られる。)の地域信仰からの改宗を果たした。その息子のスヴェンはイングランドを征服、孫のクヌーズはイングランド・デンマーク・ノルウェーの王位を兼ね、北海帝国を作り上げた。

10世紀のイベリア半島では、西ゴート王国からの亡命者が北部にアストゥリアス王国をレオン王国が引き継ぎ、後ウマイヤ朝と激しい領土争いをしていた。一方、カタルーニャ地方ではカール大帝が設置したイスパニア辺境伯領やバルセロナ伯領が中心になり、西フランク王国に忠誠を誓う新たなカタルーニャ伯領を形成した。…現在のカタルーニャ独立問題を考えるとき、すでにこの頃からのルーツを感じる次第。

これらの事項から、1000年頃のヨーロッパでは、ビザンツ帝国下のバルカン半島・キエフ公国(正教圏)と中央ヨーロッパ・スカンジナビア・ブリテン島、イベリア半島北部とカタルーニャにカトリック圏がキリスト教を統治理念に組み入れ、独自の教会組織を整え、地中海の対岸に拡がるイスラム世界と相対する構図が形成されたわけだ。

1049年、改革派のレオ9世が教皇に即位する。その後数代にわたって教皇座の改革が進む。教皇の地位は、世俗の王や皇帝の恣意ではなく、枢機卿団の選挙によって選ばれるものとされ、教皇は全キリスト教世界の霊的指導者と明確化された。1054年、教理上の問題で対立していたローマとコンスタンチノープルは、外交上のトラブル(東側使節の非礼)をきっかけに互いを破門、分裂した。

グレゴリウス7世が教皇に即位すると、聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯の禁止を主眼に改革を進めた。ミラノ司教座をめぐって、神聖ローマ帝国皇帝(ローマ王=ドイツ王・イタリア王・フランケン公・バイエルン公兼務)との間で司教の叙任権をめぐる政治的対立になる。教会会議でグレゴリウス7世の廃位を宣言したが、教皇は王権を停止、家臣の忠誠の誓いを解き、破門を宣言。1077年のカノッサの屈辱に繋がるわけだ。

一方、1059年、教皇座はノルマンディー公領の貴族オートヴィル家の騎士ロベール=ギスカールをカラブリア侯に任じ、ドイツ、イスラーム、ビザンツに対抗する軍事力を得る。またイングランドの継承権を主張するノルマンディー公ギョームに「教皇旗」を掲げる特権を与え、1066年イングランドに上陸、ロンドンに進軍して、ウェストミンスター寺院においてイングランド王に戴冠した。ギョームはイングランド王(ウィリアム1世:征服王)となり、ノルマン朝を創設した。このように、11世紀の教皇権は、軍事力において台頭しつつあったノルマン人傭兵と手を結び、地中海における政治。外交の主導権を握る。これが、後の十字軍に繋がるわけだ。

メタに見ると、中世では、教皇権が拡大し、世俗権力を凌駕し、十字軍ので衰退していく。カノッサの屈辱は、その教皇権・世俗権力のグラフの交点に位置すると、昔教えたことを思いだす。ノルマン人傭兵・ノルマン朝の成立は今回改めて学んだ。「教皇旗」とは面白い、鳥羽伏見の戦いの「錦の御旗」と重なるところがある。

受験の世界史B 研鑽ー3

https://twitter.com/mesonco/status/1050963613249236992
神聖ローマ帝国について今日は記しておこうと思う。10世紀の初め、西ヨーロッパでは、ヴァイキング・マジャール人・アラブ人などの外敵の侵攻によって、破壊された修道院や教会の再建が大きな課題になっていた。そこで、ブルゴーニュ地方に死後の魂の救済に欠かせない修道士の祈祷を重視するクリュニー修道院が創設され、周辺の諸侯の土地の寄進(昨日記した耕地と農民のセット)を受けた。この改革は各地に飛び火し、王侯の支援や教皇の庇護を受け、一大改革運動となっていく。これが、ひとつの背景である。

クリュニー修道院創設の翌年の911年に、東フランク王国のカロリング家の男子血統が途絶えた。王国分裂の危機の中、ザクセン大公のハインリヒ1世がマジャール人への対策を期待されて国王に推戴された。オットー朝あるいはザクセン朝と呼ばれる。955年、その長男のオットー1世がマジャール人を打ち破り、さらにローマ教皇の要請で救援に応えたオットー1世は、962年、長らく空位であったローマ皇帝に加冠される。これが神聖ローマ帝国の始まりとされる。

さて、オットー1世は、他の君主同様首都を定めず、当地領域を宮廷とともに移動する「移動宮廷」(巡幸王権)を基本としていた。その理由の1つは、王位の承認(王としての資質を全人民に示し、隊列を組んで都市に入場し王国会議や教会会議を主催、また裁判を行う)ことであり、理由の2つ目は、徴税システムの問題である。王の財政は自らの領地からのもので、一方臣民には王への饗応義務があり、数百人に及ぶ巡幸要員の宿泊・食事・人馬を提供する必要があった。王の宮廷は、権利を行使しながら各地の問題を処理し、戦争を控えている時には提供される兵士を集め戦場に向かった。この移動宮廷は、実際には極めて効率的な統治手段だったわけだ。

2021年12月5日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー2

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/Piramide_feudal.gif
世界史は基本的にヨーロッパ史がどうしても中心になる。ギリシア・ローマの歴史は目をつぶって講じれるというほどではないが、およそカバーしている。西ローマ崩壊後のフランク王国などもまあカバーしているが、その後の中世の動きは少し暗い。

近世は、市民革命を理解するのに必要不可欠なので、ヨーロッパの人口増に始まる、大航海時代、ルネサンス、宗教革命はかなり研鑽を積んだ。この隙間を埋めなければならない。今日は、まず、中世の封建制について記そうと思う。

中世の封建制の基盤は、土地領主制(荘園制)である。領主直営地と農民保有地に分かれていた。直営地では農奴と自由民である農民が存在した。農民保有地では貢租を領主に収めていたが、村落を形成し三圃制などの効率的な農法を編み出した。封建領主は、農民を搾取するとともに、不輸不入権(インムニテート)で国王から保護したりもした。日本史同様、不輸不入権があったというのも面白い。

この土地領主制の利点は、土地経営が耕地と農民のユニットになっている点で、所領の交換・譲渡・売却したり、魂の救済のため教会・修道院に寄進したり、家臣に下賜することが容易であることだ。

カロリング朝以降、伯や大公などの国の役職者は、任地で王権を代行する過程で、王から下賜された領地を世襲する貴族が現れ、さらに他の自由人に所有する一部を与え、軍事奉仕や助言を求めた。封建的主従関係が成立する。これらは、異民族(ノルマン人・マジャール人ら)の侵攻に備えるものであった。

ところで、ヨーロッパの爵位はややこしい。最後にこれを付記しておこう。大公というのは、王の息子や弟や分家の長の爵位。次の公爵は、王族に連なる者やそれに匹敵する大貴族で、地方の領地を統治する上位の地方長官。公爵はまた、軍事的優れた有力者の意もある。その下の侯爵は、フランク王国の辺境伯に由来する将軍の称号。王族以外での最高位。伯爵は王の側近で地方へ派遣されている地方領主、神聖ローマでは、宮中伯と呼ばれ大臣のような中央行政を担っていた。子爵は伯爵の補佐・副官格。小都市や城の管理などもしていた。伯爵の嫡男が爵位を継ぐまでの爵位でもある。男爵は、地方の有力者、日本で言えば豪族で、その起源はフランク王国のBaro(自由民で土地を支配する領主)。ちなみに、貴族の爵位ではないが、騎士は中世ヨーロッパにおいて国家や君主に尽くした褒美として与えられる一代限りの名誉称号。

こんな感じで、備忘録的に研鑽内容をエントリーしていこうと思う。

2021年12月4日土曜日

受験の世界史B 研鑽ー1

世界史という教科は実に面白いのだが、受験の世界史Bともなれば、少しばかり話が違う。先日エントリーしたが、進学校で世界史Bを担当するとなれば、受験する大学で対策が微妙に変化する。

最も一般的で基礎的な受験は、共通テストなのだが、センター試験時代とはこれまた対策法が変化している。今のところ、昨年度の試験しか前例はないので不安である。

次に関関同立などの私大対策。これも微妙で、立命のみ記述式。かなり難解で、重箱の隅まで出る可能性もある。同志社と関学はマーク式。関大もマーク式だが他大学よりは基本的な問題が多い。関東の早慶やMARCHも難度の差があるだろうが、同様のカテゴリーに入る。

さらに旧帝大(京大や阪大など)の前期試験。これは、記述式というより論述問題である。

簡単に分類すると、こうなるのだが、分析はまだまだこれからである。専門外であるとはいえ、プロとして4月までに対策を考えなければならない。毎日、いくつかの世界史Bの参考書を開いたり、問題集を見たり、整理ノートを見比べたりしている。

世界史Bをどう教えるべきか。まずはその面白さを伝える事。これは社会科の王道。さらにメタな視点、関連性・法則性を認識させること。これも重要。一方で、暗記しなければなならない事項を整理し伝える事。これは完全な受験のスキルに属する。

というわけで、このブログでも、備忘録的に私の受験の世界史B準備をエントリーしていこうと思う。私がまず面白いと感じる事が重要だと思うし、これまで教えた中でも空白地帯、あるいは流した時代もある。つまり私の弱点部分であるのだが、その辺の研鑽をアトランダムに記していこうかと思う。

朝の八幡浜 みなっと

四国での生活も4か月を切った。今のうちに四国を楽しまねばならぬ。行きたいところには、だいぶ行った。松山の道後温泉(歩いただけだけど…)も、坂の上の雲ミュージアムも。、内子の劇場や街並みも大洲のおはなはん通りや思ひで倉庫も。西予の愛媛県歴史博物館も開明学校も米博物館も。鬼北の鬼モニュメントや一揆博物館、愛南の紫電改も。宇和島の伊達博物館や児島惟謙の像も。そして四国カルストや高知県の雲の上の図書館にも…。

八幡浜も行くべきところは行ったし、大島にも出かけた。そんな大島に行った際、道の駅みなっとのどーや市場で、魚屋さんのお寿司を食べた。500円で八貫の握り寿司。新鮮でネタが大きい。今日は、そんな朝食を取りにみなっとへ出かけた。もちろん、週一回の買い物の為である。ネタは日替わり。当然ながら、めっちゃ美味いのである。

大阪に帰ると、こういうことはできまい。海鮮が新鮮で美味いのは三崎や八幡浜の大きな付加価値である。

しかも、今はまだ柿の季節で、富士柿という八幡浜の柿が実に美味なのである。(上記画像参照)今日は、義姉と息子に、富士柿と紅マドンナ(超高級の柑橘)をみなっとから送った。きっと喜んでもらえると思う。

2021年12月3日金曜日

ご報告 4月からの勤務先

https://www.sandagakuen.ed.jp/
期末考査最終日、午後から町の教育委員会に行ってきた。N教育長とアポイントメントをとっており、私の4月からの勤務先についてご報告させていただいた。帰校後、学校長にも同様の報告をさせていただいた。

塾の講師陣は、我がチームなので、すでに報告した。公営塾の採用・指導をしてくれているP社の担当者にも報告をした。また個人的な学校関係とかかわりのない友人たちにも報告してある。しかし、町と学校関係者には一切言っていなかった。まずは、オーナーである町教委、そして学校長に報告するのが筋だと考えてきたからだ。

報告内容は、以下のとおり。

私は、兵庫県の私立三田学園中学・高校にお世話になることになった。私は高校の免許しかないので、高校で世界史・倫理・政経を担当する。校訓は質実剛健・親愛包容。110年の伝統校で、文武両道(京大・阪大・神大や医学部などの国公立大に多数進学するとともに、甲子園やサッカー全国大会出場の歴史をもっている)、おおらかな校風と豊かな自然環境のもとで全人教育をしている、素晴らしい中高一貫校である。(ちなみに、渡哲也の出身校である。)私自身は、最後の教師生活をこのような最高の場所で送れることになり、実に嬉しく思っている。

JR学研都市線・宝塚線で枚方の自宅から1本で通える。おそらく座っていけるだろうから、少し、通勤時間はかかるが、6年ぶりに通勤読書の時間を十分確保できそうだ。(笑)

伊方町からの高中小学校のプロデューサーという要請もあったが、いろいろあって流れた。

大阪府立高校への講師登録は、一切する気はなかった。

愛媛県立高校への講師登録という道もあったが、自分で道を決めたかった。

伊方町・三崎高校にいる時間は、残り少ない。全力で取り組んでいくのはもちろん、4月からの世界史の受験指導は、初めてではないのだが、評判の良い参考書や整理ノートを集めて、コツコツと再勉強している。すでに新たな挑戦が始まっている。

理想に生きることを辞めた時、青春は終わる、この師の言葉は、63歳になった今も座右にある。それが一番嬉しい。

2021年12月1日水曜日

2021 流行語大賞 考

https://www.sankei.com/article/20210406-2UINAOXVZBJETHGZQPFGQP67DY/
現代用語の基礎知識主催の今年の流行語大賞は、「リアル二刀流」「ショータイム」の大谷翔平投手がらみの言葉が選ばれた。実に良い選択だと思う。

今年は、アメリカの大統領選挙をめぐる何とも不可思議で理不尽な、裏に何かがあるような始まり方だった。SNSやYouTubeでは、日々様々な制約が課されていった。トランプという人名が使えなくなり、寅さんになった。リンウッドさんは鈴木さんになった。それ以後も、コロナ禍系、特にワクチン批判でも制限がつき、最近ではKK問題もそうだ。言論の自由がなし崩しになっていった年だった。これは、ヘイトなどの公共の福祉の概念を逸脱した権力的な匂いがプンプンする規制だ。

そんな暗い世相を明るくしたのは、コロナがらみ、さらに隣国の不愉快な騒動ばかりが目についた東京オリンピックではなく、ただただ大谷翔平投手だったことは間違いない。審査員の方々は、その辺の国民感情をくみ取ったのではないだろうか。

改めて、大谷翔平投手に感謝したい。