2021年12月31日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー23

https://www.azquotes.com/author/20248-Jan_Hus
…ヨーロッパの中世という時代は、まさにホッブズの「万人の万人に対する戦い」の時代である。王族は領地の拡大を貪欲に求め、詳細に見ていくと王位の継承という問題がかなりクローズアップされる。封建諸侯は生き延びるために臣従する相手を臨機応変に選び、生き延びることに精力を注いできた。戦争にはいつの時代も金が必要で、中世の都市の発達は、傭兵を雇える経済力がものを言う時代、近世に繋がっていく。

…一方で世俗権力と教皇権のパワーバランスの問題が中世を貫いている。破門といえば、カノッサの屈辱とヘンリー8世を連想するが、なんと数多くの破門があったことか。そもそも分割相続の弊害を避けるために(貴族出身の)聖職者が生まれたといえる。同じ穴の狢なわけで、このころの教皇はなんとも自己の欲望に塗れた薄汚いイメージである。

本年最終の研鑽は、教皇権が衰退し、近世の宗教改革につながる、ウィクリフとフスの宗教改革、さらにコンスタンツ公会議について調べようと思う。

ウィクリフ(1320頃-1384年)は、オックスフォード大学の教授であり聖職者である。ローマカトリックの教義は聖書から離れている等、真っ向から批判した。リチャード2世が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じた彼は、晩年、聖書を英訳する。(アン王妃が成婚したのが1382年。調べてみると1360年に初めて翻訳されたもので、カトリックのラテン語の標準聖書をチェコ語に翻訳したドレスデン聖書であるようだ。)聖書に基礎を置く説教を重視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。ウィクリフの死後30年、1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣言され、12年後教皇マルティヌス4世の命により実行された。墓を暴かれ遺体は燃やされて川に投じられた。1401年には反ウィクリフ派法が定められ、1408年には彼の著書や英訳聖書を読むことは死に値する異端の罪とされた。

ヤン・フス(1369年頃―1415年)は、ブラハ大学の哲学部長(1401年)、さらに学長(1402年)を務めた人である。1382年にアン王妃の影響で、ウィクリフの哲学書がちょうど1401~2年頃ボヘミアにも広く知られるようになった。しかし、早くもプラハ大学での1403年にウィクリフに賛同する55の論文について議論が禁止された。しかし、研究者としてフスは強く魅了される。ところで、この時代は教会大分裂(シスマ)の時代で、ボヘミア王ヴァーツラフ4世は、ローマ教皇グレゴリウス12世を支持せず、並立する3教皇を中立に支持するよう、高位聖職者と大学に対して命じた。しかし大司教はローマ教皇に忠実で、大学でも中立を明言したのはフスを代表とするボヘミア人(=チェック人)で、多数派の移民してきたドイツ人ローマ教皇側についていた。1409年、ボヘミア王は、大学の諸問題に対しドイツ人を追い出す。(彼らはライプツィヒ大学を創立。)フスは名声を得、大司教は孤立した。

大司教は対立教皇(1409年、ローマとアヴィニョンの教皇を見限った枢機卿が集まったピサ教会会議選出)のアレクサンデル5世との拝謁時にボヘミアの騒動を告発、1409年、教書で大司教の権限を強化しウィクリフ派に対し、法的手続きをとった。翌年、ウィクリフの書は焚書され、フスとその支持者は追放された。しかし国王はフスを庇護し、フスは一層大胆に批判した。プラハの教会は閉鎖され、教皇アレクサンデル5世による禁令がプラハに発せられた。しかし、フスらボヘミア人の運動は止まらなかった。特に、1411年対立教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を擁護するナポリ王国ラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣、遠征費用を賄うために贖宥状=免罪符:教会大分裂の時代、教皇ボニファティウス8世の時代にローマまで巡礼できない者に同等の効果を与えるとして発行されたのが最初である。それ以後も中世では様々な名目で売買された。)の売買を始める。これを1412年フスはウィクリフの論文を引用して抵抗した。フスは大学に留まることができなくなり、国王はそれでもフスの味方だったし、民衆もフスに着くべきだと考えた。

1414年、3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させるためコンスタンツ公会議が召集される。招集したのは神聖ローマ王兼ハンガリー王・ジギスムント(ヴァーツラフ4世の弟で、子供のないヴァーツラフ4世の後継者にあたる)は、国内から異端者を無くしたいと願っていた。しかし、フスの身の安全を保障し公会議に招く。ところが実際には聖職者たちによって73日間幽閉され、(彼を庇護してきたボヘミア王が事実上支持する)ヨハネス23世が廃位されたことも重なり、1415年新教皇のもと、大聖堂で火刑の審判が下された。遺灰はライン川に捨てられた。(フスの名誉回復が図られたのは、1999年の教皇ヨハネパウロ2世による。)

このコンスタンツ公会議を招集したジギスムントが、ヴァーツラフ4世の死後ボヘミアを相続した(1419年)。フス派はいよいよ反抗的になり、ジギスムントはボヘミアを征服するため十字軍を結成、フス戦争が起こった。当初は急進的なターボル派が十字軍を撃退、国王の廃位・フス派のボヘミア国家を実現したが、フス派の内部分裂が起こり、穏健派が中心となりジギスムントと和解、彼を国王と認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。

ところで、コンスタンツ公会議(1414―1418年:神聖ローマ帝国内コンスタンツ司教領で開催)だが、3人の教皇、ローマ教皇グレゴリウス5世・アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世・対立教皇アレクサンデル5世の死後後継のヨハネス23世を、影響力を高めようとした神聖ローマ皇帝・ジギスムントが召集した。まず、ヨハネス23世が正統性を確認されると期待(彼はナポリ出身で多数のイタリア人枢機卿を味方にしていた。また前任のアレクサンデル5世は、ボヘミア王ヴァーツラフ4世・ハンガリー王ジギスムントの兄弟、イングランド・フランスが支持していた。)していたが果たされず逃亡。捕らえられ廃位。1415年、グレゴリウス12世は自ら退位を宣言。残ったベネディクトゥス13世は退位を拒んだが、1417年廃位を宣言。そして、マルティヌス5世が新教皇として選出された。ウィクリフとフスを異端として断罪のものも、この公会議である。しかし、教会改革は行われず宗教改革への伏線となった。

…フスの名は、佐藤優の著作を呼んでいると何度も出てくる。属性はあったのだが、きちっと調べてみると、実に興味深い。世界史はホント面白いのだ。

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