2021年12月13日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー10

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB
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なかなか十字軍が終らない。(笑)今日は一気に第5回から第7回までを研鑽したい。
第5回(1228-29):多くの記述は、フリードリッヒ2世が外交交渉で聖地回復した程度。だが、ちょっと裏事情もある。前述したが、フリードリッヒ2世は、自分自身参加しなかったことで、批判を浴びた。1225年、フリードリッヒ2世は、イェルサレム王の要請でその娘イザベル2世と結婚。イェルサレム王を称した。しかしさらに2年の引き延ばし1227年にイタリアの部凜ディッシュまで行ったが疫病が流行し多くの将校が命を落とし、引き返してしまった。彼に友好的だった教皇ホノリウス3世も亡くなり新たに教皇になった強硬派のグレゴリウス9世は、彼を聖約違反として破門する。
1228年、破門されたまま出発。アイユーブ朝とのコネクションで出発前に予備交渉をして、モンゴル帝国の脅威を感じていたアル=カミールと岩のドームを除くイェルサレム、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で休戦条約を締結した。
このイェルサレムの奪還への評価は低く、破門は解かれなかった。フリードリッヒ2世はイェルサレムで戴冠式を行ったが、妻となったイザベル2世はコンラート4世を生んだ後亡くなっており、王としての正当性も疑わしく、ドイツ騎士団総長は出席したが、現地の諸侯の反応も芳しくなかった。それどころか、「破門皇帝への十字軍」を教皇が宣言(凄いな)、その対応のため帰国した。1238年にも、第5.5回といえそうなバロン十字軍(教皇はあくまでイスラム教徒打倒を企てたが、フランス諸侯の小規模な十字軍は戦うことなく、領土を拡げた。)

第6回十字軍(1248-54):1239年にフリードリッヒ2世の休戦期間が切れた後、1244年モンゴルに追われたホラズムの一派がアイユーブ朝に雇われ、イェルサレムを占領、多くのキリスト教徒が殺害された。ところが、西欧は1187年の頃と比べると格段に豊かになっており、命や財産を失う危険を払ってまで聖地を取り戻そうという宗教的情熱はなかった。十字軍国家もある程度のイスラム教徒との共存が成立していた故に新たな十字軍の派遣を望んではいなかった。しかし、フランス王・ルイ9世は、信心深く、周囲の反対を押し切って十字軍を起こすことに決める。ところが、マンスーラの戦いでルイ9世は捕虜にされる。捕虜の総数は1万を超えたと言われ、エジプトではクーデターがありアイユーブ朝からマルムーク朝に代わったが、占領地の放棄と40万リーブル(当時のフランスの貨幣単位)という莫大な身代金でルイ9世と一部は解放された。(その他の捕虜はイスラム教に改宗させられた。)以後、アッコーを本拠にマルムーク朝と同盟してシリアを責めるが成果は上がらず、1254年摂政だった母が死去したので帰国した。

第7回十字軍(1270年):ルイ9世は、内政に励んでいたが死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。チュニジアのスルタンがキリスト教に改宗も考えているとされ、それを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にする構想をもった。しかし上陸すると抵抗を受け、飲み水の劣悪さ暑さにより病気が蔓延、ルイ9世も病没した。実は、第7.5十字軍もある。その主役はイングランドの皇太子エドワード(後のエドワード1世)であるが、さすがに割愛。

…十字軍、教科書や資料集だけでは面白さは伝わらない。受験ともなればスキルが重要だが、授業する側としては、100を知って50くらい論じるのが安心感がある。この調子ではなかなか研鑽が進まないが、懲りずにやっていこうと思う次第。

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