2019年5月30日木曜日

天皇皇后両陛下のこと。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/trump-tenno_jp_5ceb583ae4b00e0365713313
先日、令和最初の国賓として、米国大統領閣下が来日、さまざまな話題を振りまいて帰国した。米国では、そのまま日本に滞在し、帰ってくるなとかいろんな意見があったようだ。(笑)日本国内でも、首相のおもてなしがやりすぎだとか、F35を買いすぎだとかいろんな意見が出ている。(笑)

ところで、私が一番印象に残ったのが、雅子皇后陛下のことである。これまで、様々な批判を受けてこられたが、一気に面目を挽回されたようだ。そもそも東大ーハーバードという超エリートであり、英語が堪能というより、米国大統領夫妻以上だろうというくらいの英語力であるから、通訳なしで、それもウィットに富んだ会話をして、周囲を驚かせられた。皇后陛下がハーバードなら、天皇陛下はオックスフォードである。令和という時代の皇室は、通訳なしで国賓を迎えることができることを内外に大きくアピールしたわけだ。私は、(英語が不如意であるから、よけいにかもしれないが)実に素晴らしいことだと思う。

なにより、皇后陛下がお元気で、元外交官という専門性を十分に活かされたことが嬉しい。やはり、地位や役職(の責任感)が人を作るのだと思う。(お恐れ多いが)皇后になられて、責任の重さから、一気に繭から出られたような、そんな気がする。
繭と言えば、皇后は、天皇が田植えをされるように、蚕の世話をされるはずだ。それが皇室の伝統である。それもまた皇后の重要な任務である。つつがなくおやりになれることを祈るばかりである。(…私は、蚕などのインセクトについても不如意である。)

2019年5月29日水曜日

ZOOM

ZOOMというTV電話のアプリがあるそうだ。スカイプのさらに上を行くシステムらしい。まさにITの世界は日進月歩である。このZOOM、会議に参加するだけなら、アプリのインストール、アカウントの作成といった面倒なことはいらないらしい。相手のURLをクリックするだけで繋がるという。

昔、TV電話というと、SFの世界だったのだが、今やスマホやタブレットでもこのようなコミュニケーションが可能になったわけで、しかも私のような時代遅れのジイサンにも簡単にアクセスできるというわけだ。さてさて、スカイプとどれくらい違うのだろう。ちょっと楽しみである。

2019年5月28日火曜日

すき焼きな夜

妻の友人のHさんが、一時帰国していて、今日オミヤゲを持ってきてくれた。なんと、生食できる卵である。マレーシアの食事は極めて美味しいのだが、生で食べれる卵はない。と、いうわけで、今日のディナーは、すき焼きになったのだ。マレーシアで初めて食べるすき焼きである。(笑)

とはいっても、すき焼き鍋があるわけではなく、フライパン。(笑)白菜がきれていたのでキャベツ。糸こんにゃくもないので春雨。もやしと長ネギは先日の土曜日にたまたまゲットしていた。ちなみに、メインの牛肉はオージービーフである。

いやあ、幸せである。私はすき焼きが大好物。大阪の生野区という下町の中小企業の工員の息子であるから、すき焼きこそ、ご馳走の中のご馳走である。(子供の頃は、オヤジの給料日の定番メニューだった。)

すき焼きは、生卵があってこそ完成する。Hさんに感謝。…今日は実に良き日である。

2019年5月27日月曜日

PBTの話(28) 宿題

先週の金曜日、政治分野の宿題を1時間目のDクラスに手渡した。Eクラスは、また後でと思っていたら、F43の定期試験のインタビューテストの廊下監督にあたっていたりして、結局Eクラスに配布するのをすっかりと忘れてしまったようだ。

今朝、提出物を確認していたら、やたらコピーされたものが多い。それもEクラスばかり。「…?」と確認したら、授業用のカゴに、どどどっと1クラス分の宿題が残っていたので、私のミスが判明したのだった。あちゃー。

2限目にEクラスの授業があり、お詫びを言った後、事情を聞いたら、A君がEクラスにだけ宿題が渡されていないことに気づき、クラス全員の分をコンビニで両面コピーしてくれたようだ。国費生は、同じコンドで寮生活しているので、この辺の対応は素晴らしい。聞くと、1枚RM0.4ほどかかったらしい。すべてA君が負担しているという。当然ながら、私がコピー代を負担することにした。A君は固辞していたが、これが『日式(マレーシアでは日本式はこう表現されている)』の責任の取り方である、としてRM20札を手渡した。もちろん多いのだが、彼の機転と手間を考えると当然のような気がする。

ともあれ、彼のお陰で国費生全員の宿題が提出されていたわけで、今年の国費生、なかなかやるのである。私のミスは大いに反省するとして、それ以上に彼らの自立心に拍手を送りたいと思う。

2019年5月26日日曜日

ラマダンのブキッビンタン

所用があって、ブキッビンタンに出た。最も大きなモールであるパビリオンで、妻と食事をし、ミッドバレーにもある『コムギ』というパン屋に寄ってから帰ってきた。昨日エントリーしたが、ラマダン中は、中華系の旧正月のようには、あまり盛り上がらない。イスラム教徒は、偶像崇拝を好まないので、商業施設としては派手なデコレーションが難しいのだ。ところが、今年は、緑色を主体に(イスラム教のカラーである)したデコレーションがされていた。マレーシアの第三次産業は日々進歩しているようだ。
トルコ風?の綺麗なランプが売っていたりしてなかなかいい。ひとつRM200から500というところ。手が出ないことはないが、最大の問題はどうやって日本に持って帰るかだ。珍しく、妻が一生懸命見ていた。息子夫婦の店のインテリアとして考えていたのだろう。
ところで、今日食べた地下フードコートのMEE JAWAというスープ麺も、独特のスープのとろみと揚げた魚、レタスとのからみも抜群だった。こっちに来て食べた麺類の5本指に入るかと思う。いつもは満員で諦めることもあるのに、さすがにラマダン中はお客が少なかった。

北海道で記録的な猛暑

私は、大阪出身であるが、北海道大好き人間である。何度渡道しただろうか、うーん思い出せない。(笑)その北海道で今日、異常な猛暑日になったようだ。太平洋から暖かい風が吹き、フェーン現象で猛暑となったという分析らしい。

最も気温が上がったのは佐呂間。サロマ湖のあるところである。それにしても38.8℃というのは、群馬県より凄い。北海道には、およそクーラーとか扇風機などは存在しないので、熱中症などの人的被害がかなり出たのではないかと杞憂する。

さらに、今は5月。これから北海道では6月・7月にかけて、原生花園に花が咲く。(サロマ湖には砂州の上にワッカ原生花園がある。素晴らしいトコロだ。)彼ら野に咲く花や、もちろん冷涼を好む作物にも被害が出ないか心配である。このような事が続くと、経済的な打撃を受けることも考慮しなければならない。まさに自然の驚異である。

そうそう、今日はその地球温暖化の脅威に立ち向かおうとするパリ協定から離脱した米国大統領閣下が、大相撲を観戦する日だ。日本政府はともかく、地球は大統領閣下をあまり歓迎していないかのようにも見える。

2019年5月25日土曜日

土曜日のタマンデサ

中華系の人々が昼食で賑わっている
土曜日は、このところ妻とタマンデサで買い物をすることになっている。GSでお金をおろしたり、糖尿病の血液検査の器具を買ったり、おいしいパン屋に寄ったり、ビールの安い店で(妻の)ビールを一週間分買ったり…。今日はスマホのトップアップ(1ヶ月に1度RM30ほど電話会社に入金すること)が主目的であった。

今日は昼時だったので、一番近いショップロットの中華料理屋さんで、久しぶりに昼ご飯をテイクアウト(こちらではテーク・アウェイと言わなければならない。)した。ローストポークライスである。妻はそれに2品目おかずとなる野菜料理を買ってきた。私は店の外で待っていたが、実になれたものである。

タマンデサの道沿いには、いくつも屋台があって、おなじみの鴨爺々という鴨料理の店やジャックフルーツの店、果物屋、魚屋なんかが並んでいる。そこに車が縦列駐車いや停車して、なかなか進むのが困難である。(笑)昼時は、こういう混雑が普通だ。いかにも東南アジアなのである。私は、こういう活気に満ちた街並みが好き。

スーパーでは、さすがラマダン(断食月)なのでにマレー系は少ないが。中国系やインド系、それに白人もたくさん買い物に来ている。いつも、フルーツを一週間分買いだめするのだが、今日はパパイヤとリンゴにした。冷蔵庫には、マンゴーもバナナも少し残っている。こういう生活は日本から見ると極めて贅沢で、まさにマレーシアは天国なのかなと思ったりする。
そうそう、ラマダンなので、スーパーには、デーツ(なつめやし)がたくさん並んでいるし、ハリラヤ(ラマダンが終わった後のお祭り)の装飾(上記画像参照)なども売っていた。なんか中国系の旧正月のようで面白い。そんな、土曜日の買い物の話である。

2019年5月24日金曜日

愛国心について考える。

https://www.yacchaesensei.com/entry/2018/02/20/070100
先日、社会科教育法のことを考えていて、文科省の社会科の学習指導要領を再読した。教育は国家のための装置であるから、当然ながら愛国心のことが書かれていた。この愛国心というのは、実に難しいと私は思う。思想良心の自由という基本的人権とぶつかることがありうるからである。

我々の世代は左翼の洗礼を受けた最後の世代かもしれない。愛国心は戦争に結びつくというテーゼがあった。私は非組(教職員労組に参加していない)であったが、『教え子を再び戦場に送るな』というスローガンは重かった。私は、右でも左でもないど真ん中で社会科を教えることを旨としてきた。だが、若干心情的に左にスライドしていたと思う。愛国心を語ると言うことは、右に大きくスライドすることになると思ってきた。

ただ、今マレーシアにあることで、右や左とかいうスタンスとは別に、愛国心を語ることが可能になった。外国にいると言うことは、日本を外から見ると言うことである。私はマレーシアが大好きだし、マレーシアの人々も大好きだ。ただ、日本人と比べたとき、その相違がある。それは、日本人の多くは、プロフェッショナルであろうとしている、ということだ。仕事に対して決して手をぬかない人が多い。それは、ハンバーガーショップのお姉さんも、スーパーのレジのオバサンも、ビジネスマンも、我々教師も、である。あらゆる職業に於いて、プロフェッショナルでなければならないと信じているような気がする。倫理の教師として分析すると、これは朱子学的な影響であるといえよう。武士は武士として、農民は農民として理と気を合一しなければならないということは、言い換えればそれぞれが自己の立場でプロフェッショナルたれということだ。

この意識はさすがにマレーシアの人々には、あまり強くない。日本人の美徳だと言っていいだろう。日本を誇りに思うのは、こういう経験をする中で生まれるような気がする。もちろん、マレーシア人の方がが日本より優れていると思うことも多い。比較してどちらが優れているなどということは地球市民にとっては問題外だ。愛国心などというものは、強制されるべきモノではなく、こういう自然に感じるモノだと私などは思うのである。

2019年5月22日水曜日

某議員の推定有罪と党の姿勢

https://www.mag2.com/p/news/242075
マレーシアは先週の土曜日から月曜まで三連休、そして今日も休日である。結局どこへも行かずに身体を休めている。ブログの更新が進まないのは、4月にたくさんエントリーしすぎた反作用かもしれない。(笑)

さて、先日某党の大阪の代議士が、大失言をした。内容についてはもう触れない。内田樹先生は、公人故の『推定有罪』と断罪されている。公人となったからには私人を捨てるのが当然である。まさに正論。
ところで、私がもっと気になったのは、所属していた某党の姿勢である。すぐさま除名、さらに議員辞職決議案を他党にも働きかけた。これをどう見るか。潔いと見るのは、この党のこれまでの動きを見るとムリがある。この党は、完全なポピュリズム政党である。政治哲学など皆無である。これから先の党の保身のために、切り捨て、イメージ回復のために最高の手をうったとしか私には見えない。

繰り返しになるが、当の本人は東大・通産省の役人まで経験した人間らしいが、その後の対応を見てもコメントする気にならないほどの人間のようなので、どうなろうと私はかまわない。気になるのは、政治屋の党のほうである。大阪人として、こういう党や代議士を選出した風土であることが極めて恥ずかしい。マレーシアからいつか帰国することがあるだろうが、あまり大阪に住みたいと思わないのだ。

2019年5月20日月曜日

エゼキエル書38章

https://lineblog.me/kappyofficial/archives/478787.html
久しぶりに国際情勢についてエントリーする。どうも、イラン情勢がきな臭い。イスラエルはどう見ているのだろうかと思い、「オリーブ山便り」を読んでみた。当然ながら、イスラエルは直接イラン攻撃を念頭に置いている。以前、スーダンの某工場を爆撃したとき、ちょうど距離的にイランの核施設になるという情報もあった。おそらく、モサドは様々な情報を摑んでいるだろうし、イスラエルはアメリカ以上に躊躇しないだろう。

ところで、「オリーブ山便り」の最後の方に気になる記述があった。『エゼキエル書38章』という聖書の預言を読んでみて欲しいという一節だ。とりあえず、調べてみた。

この38章によると、北の果てからイスラエルが攻められるとある。首謀者はマゴグの地のゴグ。ゴグと連携してペルシャ、クシュ、プテが出陣し、ゴメル、ペテ・トガルマも参戦するとある。ここで言われているペルシャはイランであることは明白で、クシュはエチオピア、プテはリビア、ゴメル、ペテ・トガルマはトルコとなるそうで、周辺国(これまでの歴史的な経過を見ても、エジプトやヨルダンはイスラエルと戦争はしないだろうし、レバノンやシリアもその余力はない。)との戦争ではなく、もっと大きな戦争を預言した書だということである。

イスラエル人は当然ながら、この『エゼキエル書38章』を知っているだろうし、単なる記述とは見ていないはずだ。米国大統領閣下がご存じかどうかは知らない。うーん。

2019年5月19日日曜日

finjanのロゴができたようだ。

息子夫婦の京都のカフェが盛況なようだ。極めてマイナーな言語教室を中心に、常連さんが集まっているようだ。近所の方の協力でロゴもできたとのこと。

「文系博士号待ちが生きていく灯台ないし道標」(ゼットンさんのツイッター)「東外大並みの勢力を誇る」(加味逍遙しゃんのツイッター)…凄いレトリックだなあ。

カフェを開くという話を聞いたときは、大丈夫かなあと思っていたのだけれど、こうして多くの常連さんが喜んで集まってくれて、ありがたいかぎりである。

ヘブライ語、ペルシャ語に続いて、ブルガリア語やタタール語、チャガタイ語、ウズベク語などもやっているみたい。
https://twitter.com/finjan_kyoto?lang=ja

2019年5月18日土曜日

陸奥宗光のこと。

https://toriharu.
postach.io/post/
2013nian-benesse
-xiao-6chiyarenzi
jiao-cai-yong-irasuto
先日、PBLの実践例で「陸奥宗光に完全な条約改正を可能にする案を提案しよう」というとんでもないテーマがあって、私は陸奥宗光をボロクソに書いた。(笑)龍馬暗殺の時に、海援隊の仲間を集め復讐に向かおうと声を掛けながら.その場に来なかったという話である。その後の陸奥宗光は、岩倉具視に推挙され、外国事務局御用掛になっている。動機は、伊藤博文、井上馨、五代友厚、寺島宗則、中井弘。なかなかのメンバーである。

勝海舟から「あれも一世の人豪だ。しかし陸奥は人の部下について、その幕僚となるに適した人物で、幕僚に長としてこれを統率するには不適当。もし、大久保の下に属したら十分才を揮い得たであろう。」と言われている。大久保ではなく、大久保の後継者伊藤の第二次内閣の元で外相になっている。

今日、横で妻が近現代史のYouTubeを見ていた。(私はその講義の声だけを聞いていたのだが…。)陸奥についてなかなか面白い話があった。

そもそも、日清戦争、日露戦争という一連の日本の条約改正にまつわる戦争の裏には、ドイツの世界戦略があったようだ。ビスマルクが、作り上げたヨーロッパの体制をヴィルヘルム2世が壊していく。その影響が東アジアに大きな影響を与えたというわけだ。ロシアの目をアジアに向けさせたのは、ドイツだといわけだ。たしかに彼は日本を黄色い猿と罵倒し、ニコライ2世をたきつけたことはよく知られている。で、イギリスだ。このドイツにたきつけられたロシアとフランスの露仏同盟のに対抗すべく、日本と手を結ぶ必要性に迫られる。光栄ある孤立を誇っていたイギリスは、そもそも条約改正反対の最右翼であったが、中国の利権を守るためにしぶしぶ日本と結ぶことになる。陸奥は、ロシアから中国の利権を守れるのは日本だけだと、ほとんど恫喝に近い外交戦を展開したようだ。ところで、三国干渉については、ロシア・ドイツ・フランスが干渉してくることを予想した上で下関条約でGETしたようだ。このへんの読み、なかなかのものである。

幕末・維新の動乱期を生き抜いた明治の政治家というのは、とんでもない奴が多いが、それなりの力を持っていて魅力的だ。改めて陸奥宗光を調べてそんなコトを思った次第。

物理エンジン

我が家では、TVがあるがほとんどつけない。妻は、よくYouTubeを見ている。最近、ハマっているのが、「物理エンジン」だという。私にも「見ろ、見ろ。」というので一昨日初めて見た。どうやってつくっているのか判らないが、3Dのアニメーションである。のび太や出川哲朗に似たキャラクターが出てくる。(笑)チャンネル登録者が50万人もいるというのも凄い。
https://www.youtube.com/channel/UCI2-ki0BQzmQ_tE4mxG8rXQ

昔、出川がTVでやっていたペットボトル・ロケットで飛ぶのを再現し、さらに様々なケースを想定してアニメーション化していた。もちろん、念密な物理計算によって導かれているわけで、完全文系の私などは大いに恐れ入りたてまつるわけだ。

ドラゴンボールの界王星の物理学的分析も面白かったし、ジョジョの奇妙な冒険のスタンドの能力の分析、ワンピースのゾロの三刀流の分析なども面白かった。漫画の世界を物理的に分析すると、漫画であるというコトがどれだけ奇天烈であるかが明確になるわけで、わかってはいるものの、それが数値で示されるということが実に面白い。
と、いうわけで私も少しハマって、昨日はひたすら見続けてしまったのだった。

2019年5月16日木曜日

日本人会のカタツムリ

珍しく朝から雨であった。(こういう日は1年に何回もない。)雨だったからか、日本人会の中庭に、カタツムリが大量に出てきていた。朝一番は、大小かなりの数のカタツムリがコンクリートの壁に張り付いていたのだった。

授業の合間に調べてみた。まず、カタツムリは、植物性のエサをとっているようだ。コンクリートに張り付いているのは、殻のカルシウム摂取のためでもあるらしい。また雌雄同体であるらしい。こういう事は小学校で習ったような記憶がうっすらとある。

マレーシアのカタツムリには、(日本人会のカタツムリたちがそうかどうかは定かではないが)アフリカマイマイという種類のものがいるそうだ。寄生虫がいて、触っただけで寄生され、死に至る場合もあるとのこと。ゲゲゲ。
http://malayaipoh.blogspot.com/2014/12/blog-post_21.html
昼過ぎには、このカタツムリたちは、一斉に消えていた。どこかに隠れたのか、ワーカーさんに駆除されてしまったのか、よくわからない。ちょっとミステリアスだ。
走り去る650番/これは今朝撮った写真ではないが…。
ところで、雨の朝、我が650番のバスも、先日に続いてミステリアスだった。いつもより遅れてバスが来たと思ったら、スルーされたのだ。といって、大混雑しているわけでもない。このバスに乗り込めたH先生に聞いて判ったのだが、Tauch'goのカードを読み取る機械が故障していたらしい。それでとりあえずタマンデサで降りる客だけを乗せて走っていたようだ。(H先生が乗り込めたのも不思議だ。)だが、結局バス停ごとでパニックになり、約30分後に来た我々が乗ったバスの5分前にやっとミッドバレーに着いたとのこと。なにしてんねん、650番。という話である。そんな雨のラマダンの朝だったのだ。マレーシアは面白い。

2019年5月15日水曜日

ムスリム学生に教えるといふ事

今年は、私の担当する学生は、全員ムスリムの学生である。日本人の社会科教師にとって希有な経験であることは間違いない。こういう機会に恵まれていることを感謝している。

歴史分野の最後は、アラブの春からシリア内戦である。面白かったのは、マレーの学生は、この「~の春」という表現がなかなかイメージ出来ない。一年中夏のマレーシアだからこその話だが、こういう苦労が面白いと私などは思うのだ。

また、ここでは、イスラム復古主義についても論じる。彼らは、穏健なムスリムであるので、暴力肯定の過激派に対しては極めて否定的である。当然の反応だが、同時に欧米的な、多分にプロテスタント的な冨の追求に対しても、否定的である。一方で、自分たちはマレーシア人であるという国民国家的な発想は強い。近代国家論から復古主義を見ると、自分たちが置かれている立場を良く理解してくれた。近代国家・マレーシアの人定法の支配と神定法・シャリーアの元にあるムスリムの立場、その微妙さの中で彼らは生きているわけで、この差異を深く認識して欲しいと私は思う。タリバーンのようにイスラム神学しか知らないと、道を誤ってしまう。欧米的なるモノも含めて、様々なスタンスを認識しながら、自分の進むべき道を進んで欲しいと思う。

さて、いよいよ政治分野に入った。やはりマレーシアの政治体制から、議会制民主主義を説きたいところなのだが、聞くと、全くといっていいほど、そういう日本で言う公民的な学習を経験していない。連邦憲法のところでも述べたが、憲法自体、条文が極めて難解で、しかも量が多い。これまで学んでこなかったのも頷けるのだが、マレー系の国費生は、将来マレーシアという国を背負う人材であるから、知りませんではすまないと私思う。今日は、イギリスと対比しながら、およその政治システムを教えた。学生達は、大いに喜んでいた。次回からは、日本との対比になるのだが、彼らの寄って立つマレーシアは、日本とは大いに異なる。そういう異文化学習的な政治学習になっていく気がする。それでいいのだ。と私は思う。

2019年5月14日火曜日

社会科教育法 私感

https://home.hiroshima-u.ac.jp/kusahara/kusalab/class/2016/jogakuin_spring/ss.html
ふと、社会科の教育法について考えて見た。私も社会科教師の端くれであるから、当然大学で単位を取った。これをとらないと教育実習にいけないという教職課程では必須の単位だった。ただし、何も覚えていない。(笑)現場で授業をやっていると、社会科教育法などという理論を学んでもたいした成果はないと私などは思うのである。

幸い、私は商業高校、工業高校、英語系の進学校、体育系の普通科高校、そしてマレーシアにあって日本語を学習して間もない、しかも日本の社会科に全く属性のない学生を教えた経験がある。これを鑑みるに、それぞれに合った社会科の教育法を見つけることが重要だと思う。当然ながら、普段の読書や海外渡航などの様々な教材研究の蓄積が物を言う世界である。
商業高校では、政経で経済を教えなかった。理由は簡単で、商業科で教えているからだ。今思うと荒削りだったと反省する。工業高校では、就職希望者が多く、当然ながら社会科に対する興味が薄い。これをどう克服するかが課題だったが、結局のところ、授業の面白さしかなかったように思う。進学校では、一気に社会科の立場が変わった。また本格的にESDをやり出した。大学進学を志す生徒には、向上心もあるし、さらなる伸びしろがあって違う意味で面白かった。受験指導は大変だったが、その苦労もまた面白かったのだ。体育系の普通科の生徒は、学力的には平均で、どう社会科に興味を持たせるかが再度課題になった。そして、今はマレーシアで、ムスリムの学生に教えている。彼らのスタンスを理解しながら、教えるのもまた新鮮で面白い。

これらの実践をもとに社会科をどう教えていくのかという理論構築をするのは、無理な話ではないが、結局のところ、教師自らが面白いと思える授業が良いと私は思う。生徒のニーズはいろいろだが、そのニーズに対応しながら、教材を取捨選択していくのも経験値のなせる技である。こんな歳になっても、たいした理論もなく、その辺が結論になるかもしれない。

2019年5月12日日曜日

PBLの資料を入手する。(2)

ここ3日ほど、風邪なのかそれともアレルギー症状なのか、鼻が詰まって苦しかった。時々咳き込んだりした。というわけで、ブログのエントリーがストップしてしまったのだった。PBLの資料の話を続けたい。
3冊借りた中で、この本もなかなか参考になった。「アクティブ・ラーニングを位置づけた中学校社会科の授業プラン」(小原友行編)である。おそらく、義務教育課程では、こういう研究や研修が熱心に行われているようだ。高校では、まず受験という大前提があるので、あまり聞かない。まして日本を離れて4年目である。

この本の特徴は、資料をもとに考察させるものが多いことだ。地理分野などでは、「統計から考えるアジアと日本とのよいつながり」「様々な立場から経済発展と環境保護の対立を考えよう」「アフリカの自立のための援助として、どの解決策が望ましいか判断しよう」など。特に最後のアフリカの課題は、援助という言葉が気になる(正しくは国際協力だと私は思う。)が、私のやっていた実践(ただし、もっとリアルだが…。)に近い。アフリカをひとまとめにすることは私は良いと思わない。各国それぞれの事情があるし、人間の安全保障が必要な国もあれば、インフラで系座発展を望める国もあるし、農業の地道な開発から進めるべき国もあるし、まず観光開発がよいと思われる国もある。中学校の時点では、これでいいのかもしれない。

歴史分野で面白いと思ったのは、「陸奥宗光に完全な条約改正を可能にする案を提案しよう」というとんでもないテーマだ。陸奥宗光といえば、紀州出身の亀山社中の一員で、竜馬暗殺時に大騒ぎしつつも何もできなかった人騒がせな奴で、よく外務大臣にまで出世したなあという人物。(笑)しかも外相の力量で条約交渉が可能なほど外交戦は甘くない。だが、タイトルとしては、なかなか良いと思う。

当然ながら、これらのPBLのテーマを見ると、私などは、自分の結論がすぐ出てきてしまうのだが、これが良くないのだろう。じっくりと生徒に調べさせ、考えさせるところに大きな教育効果があるわけだ。しかしながら、事実からかけ離れた方向へ行った場合はどうすればいいのだろう。その辺の匙加減が難しいような気がする。

2019年5月9日木曜日

PBLの資料を入手する。

PBTの同僚のT先生は、元小学校の先生で、アクティブ・ラーニングなどの教育実践をしてきた人だ。私は、JICAと開発教育から、ESDの世界に入ったが、T先生は教育委員会主催の研修などで入ったらしい。ともあれ、彼女は小中学校でのこういう実践についてはくわしいので、PBLの資料はないかと聞いてみたら、なんとマレーシアに持ってきていたのだった。さっそく見せてもらった。「中学社会科アクティブ/ラーニング発問174」(峰明秀著/学習みらい社)を始め、持ってきてくれたのは3冊。

先日も少しエントリーしたが、問題解決型学習で、公民分野はなんとなくイメージ出来るのだが、歴史分野をどう料理するのだろうと思っていた。意外に中学の学習内容は深い。長年高校の教師をやってきた身としては、中学でどれくらい教えるのかといったことは全く未知の世界である。おもしろそうなものを拾ってみる。

平家物語をゲーム化してみよう。基本データを調べて、名場面を絵にして並べ、ストーリー化。…歴史の大まかな流れをとらえる。
平清盛を経済・外交・軍事などの面から5段階評価したり、武士・商人・貴族など違う立場から5段階評価、また人物そのものへの5段階評価とその理由を記述する。…現代にも通じる観点から歴史的人物を評価することで、歴史を現代の視点でとらえたり、現代の判断に応用したりする。

…なるほど。なんとなくイメージが拡がったのだった。

2019年5月8日水曜日

650番バスがオカシイ

一昨日、650番のバスが途中で止まって、結局タクシーで登校するハメになったのだが、今日もどう考えても異常なバスだった。どうもクラッチの状態がおかしいのだ。変速する度に、バスがガクンと大揺れする。運転手が半クラッチをしていないか、クラッチ板の異常かだと思う。最近は、オートマチックの車が多いので、こういう「半クラ」などという語は死語かもしれない。(笑)

とにかく気分が悪くなるほどの運転だったのだ。我がPBTのタマンデサ組の先生方も、みんな朝からどっと疲れたのだった。妻に話すと、「ラマダン(ムスリムの断食月)の影響かなあ。」…なるほど、あり得ない話ではない。少なくともバスの点検は真剣にやって欲しいものだ。

日本という国は、マレーシアから改めて見直すと、どんな仕事もプロフェッショナルとして対応する国だという実感を持つ。海外で暮らすと、日本をじっくり見直すことが可能だということだ。とはいえ、マレーシアには日本にはない、良い面もたくさんある。どちらが上というのではなく、互いを理解し合う精神こそ、異文化理解なのだと改めて思うのだった。

2019年5月7日火曜日

PBTの話(27) ホロコースト

国費生は、全員ムスリムであり、マレーシアはイスラエルと国交を持っていない。パレスチナ問題でユダヤ教徒を敵視しているとまでは言わないが、好感情を持っているわけではない。当然ながら、これまでの教育でホロコーストの事実を学んではいない。歴史分野で、第二次世界大戦が終わったので、以前作った人権学習のホロコースト編を見せることにした。日本に留学する彼らを井の中の蛙にしてはならないと思うのである。

私の作った人権学習のホロコースト教材は、かなりレベルが高い。出てくる語彙も難解だが、国民国家の概念もよくわかってくれているので、「近代国家内で、ユダヤの人々のネットワークは為政者にとっては脅威である」との内田樹先生の指摘も少し理解できたようだ。

これまで知らなかった分、極めて刺激的な内容であったようだ。私の教材は、単にホロコーストの紹介ではなく、共生の意味を問うている。多民族社会であるマレーシアを背負う人材には、貴重な体験になったのではないかと自負している次第。

2019年5月6日月曜日

隣国の「ゼロ記号」

https://www.youtube.com/watch?v=opr9jb1xtSk
先日、デリダのゼロ記号についてエントリーした。思うに、この「ゼロ記号」という概念、様々な社会集団に存在する。ある特定の集団内で、客観的に説明することが不可能な記号(シニフェはあるが、シニファンが不明確)のことである。このゼロ記号があるからこそ、その集団の統一が図られ、行動形式を規定する。

私が一番先に思いついたのは、先日記した「戦犯企業」という記号である。この言葉、戦犯というシニファンと企業というシニファンが結びついているようだが、ではこれは何なのか?隣国に規定はあるようだが、それが果たして戦犯であり、戦犯のような(すなわち戦争犯罪に結びつくような)企業だったのか。極めてあやふやであり、客観的な証拠も示されていない。隣国の反日思想に凝り固まった集団以外に、おそらく世界中が納得できるようなものではない。その集団はよくわかっていないのに、これを感情的に振りかざす。

「強制徴用工」という記号も、「従軍慰安婦」という記号も同様にゼロ記号である。もっと突き詰めると、「日本の植民地支配」という記号もゼロ記号である。日本は併合したのであって、植民地支配したわけではない。植民地支配だと主張するのであれば、植民地支配とは何か?明確に示し、その記号にある特徴的な政策と、日本併合時の政策を対比し証明するべきだ。すると、これらの記号がゼロ記号であることが逆説的に証明されるだろう。隣国には、こういう論理的な思考が出来る社会学者がきっといると思うが、道具的理性に支配され、沈黙を守っているのか。全く持って隣国の「ゼロ記号」にはウンザリさせられる。

ウンザリと言えば、今朝650番のバスが、インド系の人々が多く乗ってくる停留所近くの交差点で10分以上立ち往生した。おそらく音からするとクラッチに問題があるようだ。結局、同じコンドに済むY先生・I先生とともにバスを諦め、ちょうど停まっていたタクシーで、ミッドバレーまで乗って事なきを得た。こんなこともあるマレーシアである。とはいえ、隣国のゼロ記号の方が、はるかにウンザリ度は高いかな。

2019年5月5日日曜日

日本史の教科書を読む。

マレーシアに来るとき、一応日本史Bと世界史Bの教科書を持ってきた。(当然ながら山川出版のものである。歴史は山川、地理は帝国、というのが業界の常識である。)職員室の書棚に私物として置いておいたので、少し埃がかぶっていた。ふと、久しぶりに日本史の教科書を読んでみようと思ったのだった。

私の社会科教師生活は長いのだが、日本史を教えたのはたった2回しかない。工業高校で1回、進学校で1回(といっても受験科目ではない生徒向け)。もちろん日本史Aである。おそらく一般の方々よりは、詳しいとは思うが、古代から江戸初期にかけては教えた経験はない。この2回も幕末から教えたのだった。ちなみに幕末以後の日本史は十分な知識があると思っているし、大好きな箇所だ。反対にそれ以前が疎遠なのは、あまり属性がないが故である。

というわけで、前史から読んでみた。縄文・弥生時代については、なかなか詳しく書かれていた。私が高校で習った内容とはかなり違う。その後の古墳時代しかり。私の日本史は1970年代の歴史学の水準で停止していたのだ。最も驚いたのは、大和朝廷という語彙が消滅し、ヤマト政権になっていたことである。完全に浦島太郎的状況である。こりゃ、いかんと思ったのだった。
とにもかくにもまずは通読しておこうと決意した。(笑)地理や政経は変化が著しく、常に意識してきたが、日本史もまた歴史学の通説が変化しているわけで、歳をとったとはいえ、まだまだ現役を続ける上で勉強が必要だと痛感した次第。

2019年5月4日土曜日

M・ウェーバーの「脱呪術化」

https://eva.udelar.edu
.uy/course/view.php?id
=6202&section=4
社会学史(大澤真幸著/講談社現代新書)の備忘録の続きである。マックス・ウェーバーの「脱呪術化」について。M・ウェーバーの有名な理論の1つに、支配の形態論がある。カリスマ的支配、伝統的支配、合法的支配。(これは高校の教科書にもちょっとだけ登場する。)この形態の変化は、合理性の程度が高まっているといえる。この合理性のエッセンスが、「脱呪術化」である。これは、神と人間の関係と言い換えることができる。

呪術=神強制は、神の力を利用しようとする行為で、人間が神に対して(人間の願いを神の力をもって実現するという意味合いから)優位性をもっている行為である。神が人間に対して優位であることを、決定不可能にする。「私は嘘つきです。」という命題の真偽がはかれない『嘘つきのパラドクス』と同じだというわけだ。
それに対して、M・ウェーバーによれば、宗教改革はカトリックの中に残っていた呪術的な残滓(免罪符のごとき神強制)を払拭したと考えた。合理的な宗教は、自己準拠による決定不可能性を逃れているというわけである。

ところで、M・ウェーバーは、社会的行為の四類型という理論も出している。感情的行為、伝統的行為、目的合理行為、価値合理的行為。上記の支配形態論から見ると、合理的支配が、さらに2つに分類されているのである。

さて、かの名著『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』が、カルヴァン派の予定説を根本に論じられていることは有名である。近世の富豪・フッガ-と『時は金なり』と言ったベンジャミン・フランクリンを対比して、「非生産的な時間の使用は倫理的に間違っている」というフランクリンの倫理性に着目している。資本主義の精神とは、正統な利潤を「天職(召命)」として合理的に追求する心情だというわけだ。職業を天職と見るのは、ルターから始まるらしいが、「祈りかつ働け」という修道院を世俗化したという意味合いが強い。それが極点まで高められたのが予定説を重視したカルヴァン派である。

この予定説を著者は、簡単に次のような例を引いている。試験を前に、教師が学生にあらかじめ点数を決めていることを明らかにした時、学生は学習に励むか?普通はしないだろうが、この教師が神であったとしたら、…励むというかなりの逆説である。さらに『ニューカムのパラドクス』というゲーム理論で説明している。詳細は省くが、禁欲的なプロテスタントは、超越的な神は自分たちの行動をあらかじめ知っている。その神の知っている行動に合致するように、行動することが信仰であることが証明される。神の超越性を最も厳格にとると予定説になり、完全な脱呪術化となる。

プロテスタント的な生活、計算し尽くされたような生活は、前述の「目的合理行為」であり、神は自分たちの行動をあらかじめ知っているという、予定説を信じるところ(他者から見ればたぶんに非合理的な行為)が、「価値合理行為」である。ちなみに、M・ウェーバーのもうひとつの有名な「官僚制」の話は、「目的合理行為」から導かれるわけだ。

2019年5月3日金曜日

PBTの話(26) 新人のK先生

4月から、PBTの社会科教師が3人になった。K先生という若い男の先生である。今日、彼の机の上に、SDGsの教材の本があった。私が、マレーシアにいる間に、SDGsの様々な教材が出来ているようだ。聞くと、SDGsのセミナーにも参加していたそうだ。難民問題のセミナーにも行っていたようだし、どうやら国際理解教育に強い関心を持ってくれているようだ。

私にとっては、何よりも嬉しいことだ。PBTは、どちらかというと予備校的な部分が多いが、EJUが終わったら、こういう教育を是非して欲しい。指向性が同じだということは、実に喜ばしい。今日は、自分の持ちクラスで、囚人のジレンマを教えていたらしい。あまりEJUとは関係がないが、なかなか面白い。…ちょっと安心したのだった。

2019年5月2日木曜日

M・ウェーバーの人生

https://mooretoons.com/durkheim-vs-weber/
社会学史(大澤真幸著)のエントリーの続編。今日は、社会学者として超有名なM・ウェーバーの人生についての備忘録である。ユダヤ系の多い社会学者の中で、彼は生粋のドイツ人である。父は当落を繰り返すような政治家。母は、敬虔なプロテスタント。ベルリンで育ち、ハイデルベルグ、ベルリン、ゲッティンゲン大学という有名大学で学び、ベルリン大学で法学博士。28歳で社会政策学会より東エルベ地方の農業労働者の調査に派遣され、将来を嘱望されていた。やがてハイデルベルグ大学の経済学部正教授になる。母親が、ハイデルベルグに来たいと言い出した。しかし父親もついてきた。息子は、たまには母親を休ませてやれよと激怒する。父は怒ってベルリンに帰り、友人とロシア旅行に行き、リガで突然客死してしまう。葬儀をすませ、妻とスペイン旅行に出かけたが、突然鬱病になってしまう。以来、教壇には立てず大学教授の席を明け渡す。絵に描いたようなエディプス・コンプレックスである。

病気になったことで、反対に社会学者として影響を与える論文を書いていく。同時に政治的な発言も多くしている。WWⅠ開戦にあたって、アメリカを参戦させてはいけないと主張、敗戦後ベルサイユ講和条約ではドイツの代表として出ている。当時、大学に所属しないフリーの学者として高く評価されていたわけだ。しかし、その直後肺炎で死去する。

なかなか波瀾万丈の一生である。ベルサイユ講和会議に出席していたというのは、なかなか重要な情報である。

2019年5月1日水曜日

Y先生夫妻とKLを歩く。

前任校でお世話になった英語科のY先生がマレーシアに遊びに来られたので、休日の今日1日だけだが、KLをご案内したのだった。リクエストは、ディープなKL。私が案内できるところは限られているし、それらはディープでもある。(笑)これまで、教え子のFちゃんや東京のT先生を案内したルートが最強であると思うし、結局そうなった。チョウキットである。今回はモノレールで、マーケットの北から侵入した。まずは雑然とした雑貨街。通路が無茶苦茶狭い。さらに奥に進むと、果物と野菜街。そしていよいよ肉街(チキンや牛、なにより豚もあったのは、私も驚きである。)に突入。うーん、ここはKLの最深部のような気がする。
そしてシーク教の寺院。ここは、やはり外せない。KLなら何と言ってもモスクだし、ヒンドゥー寺院、仏教・道教寺院なのだが、あえてシーク教。今回は、昼時で、多くのシークの人々が食事をしていた。おそらく我々が行っても無料で食事をふるまってくれるだろうと私は確信していた。(シーク教徒ののこういうボラティア行為は善行を積む修行のひとつである。)で、「(異教徒の)我々が入っても良いか?」と聞くと「あたりまえではないか。」。K先生ご夫婦に聞くと、「せっかくなので。」ということでご相伴に預かることになった。食事は、まさにインドの定食だった。チャパティ、豆のカレー、ヨーグルト、白米、それとオレンジ色の甘めの米、さらにデザートのブドウ。美味とまではいかないが、十分彼らの善意を味わえたと思う。

その後、イスラム美術館へ向かった。ここも、絶対日本では見ることはできない。Yご夫妻は、世界中のモスクの模型に圧倒されていたし、クルアーンやマレーの刀剣などにも大いに関心を示して頂けた。ミュージアムショップも楽しんで頂けた。最後にKLセントラルで、ナシレマとアイスカチャンを食して頂いた。これは、ディープというより定番だと思う。(笑)今回のKL散策、大いに喜んで頂けたようで、私も嬉しい。あと2日、こちらに滞在される予定だ。ブルーモスクに行かれることを強くお勧めした次第。お気を付けて。