社会学史(大澤真幸著)のエントリーの続編。今日は、社会学者として超有名なM・ウェーバーの人生についての備忘録である。ユダヤ系の多い社会学者の中で、彼は生粋のドイツ人である。父は当落を繰り返すような政治家。母は、敬虔なプロテスタント。ベルリンで育ち、ハイデルベルグ、ベルリン、ゲッティンゲン大学という有名大学で学び、ベルリン大学で法学博士。28歳で社会政策学会より東エルベ地方の農業労働者の調査に派遣され、将来を嘱望されていた。やがてハイデルベルグ大学の経済学部正教授になる。母親が、ハイデルベルグに来たいと言い出した。しかし父親もついてきた。息子は、たまには母親を休ませてやれよと激怒する。父は怒ってベルリンに帰り、友人とロシア旅行に行き、リガで突然客死してしまう。葬儀をすませ、妻とスペイン旅行に出かけたが、突然鬱病になってしまう。以来、教壇には立てず大学教授の席を明け渡す。絵に描いたようなエディプス・コンプレックスである。
病気になったことで、反対に社会学者として影響を与える論文を書いていく。同時に政治的な発言も多くしている。WWⅠ開戦にあたって、アメリカを参戦させてはいけないと主張、敗戦後ベルサイユ講和条約ではドイツの代表として出ている。当時、大学に所属しないフリーの学者として高く評価されていたわけだ。しかし、その直後肺炎で死去する。
なかなか波瀾万丈の一生である。ベルサイユ講和会議に出席していたというのは、なかなか重要な情報である。
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