2017年3月31日金曜日

ちょっとマラッカ。

マラッカに妻と1泊で行ってきた。2泊するF先生とタマンデサの病院前で待ち合わせて、バスが出るTBS(バスターミナル)へ。なんと鉄道のKLセントラルより立派感のあるバスターミナルであった。2時間のバス旅の料金はRM14弱。住処からブキッビンタンにタクシーで行くより安い。マラッカのバスターミナルも少し郊外にある。ここから観光の中心・オランダ広場まで、タクシーだとRM20くらいだとか。KLからマラッカまでのバス料金より高いのである。(笑)もう1年もKLに滞在している私たちとしては、ローカルの17番バスで向かう。これならRM1.5である。要するに、かなり安くでマラッカに行ける、ということである。これなら、気に入れば何度来てもいいと思ったわけだ。「ちょっとマラッカ。」KLにいるとそんな感覚である。

マラッカは、まさにマラヤがイスラム教を受け入れた地でもあり、ヨーロッパの植民地支配の原点ともなった地である。最初に来たポルトガルの影響はカトリック寺院、たとえばザビエル教会などとともに、小高い丘にあるサンチャゴ砦なんかに見られる。オランダの影響は、オランダ広場のランドマーク的な教会(ムラカ・キリスト教会)やマラッカ川に面した砲台などが見られる。意外にイギリスの影響はペナンほど見られなかった。とはいえ、直轄植民地らしく、やはり、中国系・インド系が多い。面白いのは、モスクがかなり東南アジア系の建築であることである。ペナンとはまた違った趣があって、なかなか良い。ところで、マラッカは観光客が多い。私は、木曜・金曜と滞在したわけだが、金土日曜には夜店がどどっと出るそうで、もっと多くなるのだろう。マレーシア第一の観光地といってもいいような気がする。…つづく。

2017年3月29日水曜日

サウジの「ビジョン2030」考

http://polandball.blog.fc2.com/blog-entry-3622.html
昨日、妻が面白いことを言った。先日、日本に一時帰国した際に、「なにやら土地のもつエネルギーのようなものがマレーシアより少ないと感じた。」というのだ。「車も少ないし、歩いている人も少ないし…。」と言う。「2月初頭という季節的なものではないか?」と私は言ったのだが、どうも、そういう感覚を持ってマレーシアに帰ってきたらしい。まあ、こっちは暑いし、雨も多いし、鳥も多いし、我が住処はKLという大都会のまっただ中にある。「大阪の郊外の住宅地といっしょにしてはいけないのではないか?」と言ったのだが、妻のこの感覚は、どうやら、そういうものを超えたものらしい。

さて、サウジの国王が日本にも来て、新ビジョン(ビジョン2030)を打ち出し、協力を求めたとのこと。サウジは、現在極めて厳しい状況に置かれている。原油安に加え、アメリカのイラン承認と、イエメンやイラクでのシーア派の台頭など、内憂外患に苦しんでいるからだ。

新ビジョンでは、1.石油依存度の低下 2.産業発展による雇用の創出 3.メッカ小巡礼の呼び込みによる観光業の発展 4.物流拠点整備 5.経済特区設置による海外からの直接投資 6.国民の技術教育・職業訓練の強化が謳われているようだ。

…開発経済学の観点から、このビジョンは至極まっとうなモノだと思われる。当然名のある専門家が策定したのであろう。日本が関われるとすれば、まず投資の増大、物流拠点や観光業に関わる交通インフラの整備、理系教育の受け入れなどであろうが、その実行にあたっては、日本でも強い懸念が示されている。

…マレーシアにある私は、その強い懸念に共感せざるを得ない。マレーシアは、いち早く東アジアの経済発展に乗って飛翔した。しかも、商工業などのビジネスに長けた中国系・インド系の人々がいた。政治的には様々な問題はあるが、彼らの存在は経済的には極めて大きい。ムスリムのマレー系の人々について、マハティール首相(当時)は、プミプトラ政策を推進しつつも、中国系・インド系との差を深く認識していたようだ。(今読んでいる「マハティールのジレンマ」にも出てくる。)

…いささか遅きの感があるサウジのビジョンは、そういう認識がかなり欠如しているように思われる。UAEなどでも、外国人労働者に頼った開発政策が推し進められた。いわば砂上の楼閣のような開発で、かなり危なっかしい開発だと私は思う。私はサウジに行ったことはないが、サウジの(妻の言う)土地の持つエネルギーはいかほどのモノなのだろう。大臣の執務時間が1時間という国で果たして、そういう開発が可能なのだろうか。たとえトップが超優秀であっても、中間ならびに下部の人材が不足していては、ガバナンスは良くならない。

…マレーシアの土地のもつエネルギーとは、まだまだ貧しい人も多いけれど、外国人労働者も含めて、豊かになりたいという人々の心のエネルギーの総体ことだと思う。それを牽引しているのは、やはり中国系やインド系の人々であるし、マレー系の中にも彼らに感化され経済的地位向上に立ち上がった人々がいる。それに対し、日本は成熟した先進国である。そういう豊かさをひたすら追求するエネルギーは、すでに過去のものになったのかもしれない。さてさて、サウジには、そういうエネルギーは、これまでが豊かすぎて全くないのではないか。この新ビジョン、その実効性については、そういう意味で、どうしても疑問符がついてしまうのだ。

<東洋経済オンライン>http://toyokeizai.net/articles/-/164673
今日のポーランドボールの画像は、英検を受けるサウジのハナシ。私の今日のエントリーとも関係が指摘できます。よければ是非ご覧下さい。
http://polandball.blog.fc2.com/blog-entry-3622.html

2017年3月28日火曜日

オバマケア廃止失敗の件

少し前のThe Huffington PostのWEB版に、オバマケア廃止に失敗した理由は、大統領首席戦略官の高圧的な態度があったのではないかと書かれている。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/25/obamacare_n_15615008.html

この大統領首席戦略官・スティーブン・バノンという人物、かなり危険な臭いのする人物である。まあ、トップがトップだけに、それを助長していると言うのが妥当かもしれないが…。

政治というのは、極めて人間くさいものだと私は思う。共和党の議員に「この法案に賛成する以外選択肢はない。」と言って恫喝したらしい。おそらく独立心の極めて強い議員たちは「何様のつもりか?」と思ったに違いない。選挙で選ばれし者に対しての言とは、到底いえまい。

人間は、自分がかわいいし、優れていると思っているし、他者に対して優位に立とうとする。これを仏教的には「修羅」というが、この超克はなかなか難しい。「修羅」をいかに冥伏できるかが、「大人」としての醍醐味でもある。

まあ、米国の現政権も、子供っぽいというか、稚拙というか…。だからこそ恐ろしいのであるが…。

2017年3月27日月曜日

急にマラッカ。

予約したホテルから、ハードロックカフェが見えるそうだ。
このスクールホリデーは、どこにも行く予定はなかったのだが、急にマラッカに行くことになった。マラッカは、KLから2時間くらいの距離にある。日帰りも可能な場所だ。だが、せっかくなので、1泊することにした。前から私は行きたいと思っていたが、ついつい先延ばしにしてきた。ここで一気に背中を押される格好になった。

背中を押した妻が言うに、「マレーシアで行かなければならない場所といえば、マラッカやろ。」たしかに、マラヤが植民地支配を受けることになる最初の第一歩の土地である。ただし、私はあまり観光名所については詳しくない。例によって、いきあたりばっ旅になるような気がする。どちらかというと、観光名所より、人間が見たいな。街並みの空気を感じたい、そう思っている。近々出発である。やはりワクワクする。

2017年3月26日日曜日

私論 国会証人喚問

http://cherrychan.exblog.
jp/m2015-04-01/3/
去る2月28日に「もしかしたら…オオゴトの予感」というエントリーをした。これが、本当にオオゴトになり、国会の証人喚問にまで発展した。参議院と衆議院での喚問の内容や、その後の経過をWEBで調べていると、どうも暗澹たる気持ちになる。野党は、首相の「自分や妻が関わっていたら国会議員も辞める」という言質にこだわり、政局にもっていこうとしている。だから、学校にが寄付をしたか否かということを大きく取り上げ、首相の強権で学校設立が有利に行われた、というストーリーを認証しようとしているようだ。

「礼記」に、修身・斉家・治国・平天下という有名なコトバがある。今回の首相のパートナーの様々な対応を見ていると危なかしくて仕方がない。首相は、当然この礼記を知っているはずだ。知らないで、教育勅語がどうのこうのとは言えないはずである。「斉家」がちゃんと行われていないのに、治国、まして平天下は可能なのか?と言われたら、どう答えるのだろう。パートナーは私人である。言論の自由も保障されてしかるべし、というのだろうか。ならば、国費で働く官僚の秘書がつくのはおかしい。誰が考えてもあたりまえである。

小選挙区制になって、自民党総裁の権力が強くなりすぎている。選挙の公認を盾に何も言えない状況があるようだ。したがって、個々の政治家の力量も大きく下がっている。それをいいことに何でも許されると思ったら大間違いである。権力者の心の隙を見事に突かれたので、つい見栄(前述の言質)をきってみせてしまったように私は思う。

中選挙区制にもどすべしというのが、私の持論なのだが、こんなところにも政治家の力量低下が表れている。感情的な韓国政界はともかく、中国の政治家は激しい権力争いに勝ち抜いてトップに立つ。こんな輩と勝負できる政治家が果たして日本に何人いるのだろうか?そういう危機意識を私は持ってしまう。正直なところ、北朝鮮情勢が大揺れに揺れている時に、日本の政治は、なにをやっているのか?斉家もできないような首相と何も言えないとりまきの政治家という状況下で、危機管理は本当に大丈夫なのか?と思うのである。(と言って、阪神大震災と東北大震災の状況を思い出すと、野党がそれに代われるとは、毛頭思えないのだけれど…。)

TVのワイドショー的には極めて商品価値の高いハナシである。国民の関心は高かろうと思う。しかしながら、そもそも、国有地の払い下げの問題である。どんどん、焦点がずれているように私は思う。国民がとことん真実を知りたいのなら、特捜にまかせるべきかと思う。そこで、犯罪行為を行った政治家や官僚の名前が出てくれば、それはそれで処分されるべきである。まあ、特捜も特捜だと、佐藤優の体験本などを読んでいると、そう思わざるを得ないけれど…。

2017年3月25日土曜日

「マハティールのジレンマ」

昨日、なんとなく日本人会の古本コーナーを覗いてみた。すると、「マハティールのジレンマ-発展と混迷のマレーシア現代史-」(林田裕章著・中央公論出版社/2001年11月発行)という本を見つけたのだった。もちろんRM1である。背表紙には日本円では1800円、マレーシアKLの紀伊国屋ではRM99.9の値札がついていた。つまり、当時1800円の本が、マレーシアに輸入され3000円ほどの値がつき、どなたかが購入し、私はその1/100程度で購入したという歴史がこの本にあるわけだ。

著者は、読売新聞記者である。シンガポール特派員として、マレーシアに関わりをもち、この本を書き上げたらしい。「はじめに」を読んでいて、実に興味深い内容であることがわかった。

第一章は、マハティールが首相に就任して以来の高度経済成長の内実とマハティールに絶大な権威を与えるようになった過程を説明する。
第二章は、政治家になるまでのマハティールの歩みや思想を紹介するとともにマレーシアの政治構造の成り立ちを振り返る。
第三章は、アジア通貨危機に対するマハティールの論理を分析し、グローバリゼーションの中でどういう意味を持つのかを考える。
第四章は、アンワル逮捕事件とその後の政治的動きについて描く。
第五章は、マレーシアの民族問題に焦点を当て、マハティールの認識を解説する。
第六章は、マハティール以後のマレーシアの選択の方向性を予測する。

古本であるから、その書かれた時期を念頭に読まねばならないのは当然だが、極めて興味深い内容だと思う。以前読んだ「ラーマンとマハティール」(本ブログでは、その内容について、昨年12月に「マレー・ジレンマ」というタイトルで9回エントリーを重ねた。)の続編に値する内容である。古本コーナーで手にとって、パラパラめくっていていた私の顔は、きっと満悦の笑みを浮かべていたのではないかと思う。

2017年3月24日金曜日

IBTの話(89)4月から新担任

昨年12月に卒業したF36Aクラスの川柳
3月の授業は今日で終わりである。来週はスクールホリデーで4月3日までIBTは休みとなる。(と、言っても私は一時帰国しないし、旅行にも行く予定もないので出勤するつもりでいるのだが…。)

実は、4月からF38Aクラスの担任をすることになった。だいぶ前に校長先生からお話を伺ったのだが、今日の昼休み、いよいよ学生たちにも情報公開されたわけだ。IBTでは、普通、日本語の先生方が担任をされる。日本語能力の向上がIBTではなにより重視されているからである。ところが、様々な事情が重なって、私が私費生文系のクラスを担当することがベターだということになったようだ。まず、今年は文系志望の学生が少なくて、昨年の3クラスから2クラスになっていること。12ヶ月コースの文系特進コースが成立しなかったことで、社会科の授業は予定よりかなり少なくなったのである。パートナーのT先生は日本語教師の資格も持っているが、これから先のことを考えると、なんとしても社会科教師としての経験を積んで欲しい、それで地歴分野はT先生、公民分野は私と、文系の生徒が多くなると皮算用して今年の教科分担を明確にしたのだが、私など週6コマ(90分×6)になってしまった。要するに暇なのである。きっと遊ばせておいては、日本語の先生や他教科の先生にシメシがつかない、ということで担任をさせようということになったに違いない。(笑)と、同時に、私費生の進学指導を強化したいという指示があった。昨年以上の成果を期待されての登板でもあるらしい。(そういう期待値的な評価をいただいているようだ。)

前任のH高校で、1年から3年まで最高のクラスづくりをしてきた。もうこれ以上はできないと思って、卒業式の時に「H高校では2度と担任はしないつもりだ。」と宣言した。生徒を称える気持ちと同時に正直な気持ちであった。だが、まさかまさかで、マレーシアで担任をやることになるとは…。嘘をつかないのが私の教師としての信条であることは教え子たちはよく知っている。まさかまさかのマレーシアでの担任だし、私が担任したの最後の卒業生たちも、その座を譲ることにきっと納得してくれるはずだ。嘘をついたわけではないけれど、最後の担任宣言は、かなりはっきりと言ったので…。(笑)

1年間しかIBTを経験していないが、私費生の進学指導は極めて大変な仕事であることだけはよくわかった。まず志望校に合格させるのも大変だが、諸書類の翻訳、志望校との連絡、合格した後の生活の相談やビザ関係の指導など、横で見ていても疲れるほど、大変な仕事なのだ。だが、それを承知で校長先生が指名して下さったわけで、その大きな期待に応えなければならない。正直な気持ちを吐露すると、担任が大好きな私としては実に嬉しい。さてさて、まだまだ理想に生きることになりそうだ。

2017年3月23日木曜日

ツチヤ教授の哲学講義を読む。

日本人会のロビーでRM1の文庫本を大分前に何冊か購入した。やはり文庫本はズボンの後ろポケットに忍ばせておけるし、ちょっとつかの間の読書にも適している。何冊か併読してる中に、文春文庫の「ツチヤ教授の哲学講義」(著者は土屋賢二お茶の水女子大名誉教授)がある。たまに哲学系も読んでおかないと基礎的な学力が下がるかな、と思い、購入したわけだ。

最初少し読んだだけで、ツチヤ氏はウィトゲンシュタインの徒であることがわかった。この辺は、一応専門家のはしくれなのである。さて、この本は、大学での講義をそのまま本にしたような話し言葉で哲学が語られている。それがなかなか新鮮である。まだ完読したわけではないが、私は第3章のプラトンとアリストテレスの比較のところが面白かった。ウィトゲンシュタインの立場から、プラトンとアリストテレスの哲学の相違を、こう述べてある。

プラトンは、未解明な部分を残さないような答え方をしないと「なぜか?」という問にちゃんと答えたことにならないと考えているわけです。それに対し、アリストテレスやぼくらは、完全に解明していなくても、説明のつかない部分がいっぱい残っていても(中略:具体的な原因を挙げるかたちの)答え方をすれば「ちゃんと答えた」とみなしています。だから、プラトンとアリストテレスは、「なぜか?」という問題にちゃんと答えるとはどういうことかという点で対立していると言ってもいいんです。

ここでは、プラトンのイデア論と、アリストテレスの形相因・質量因・目的因・起動因の話がなされている。ウィトゲンシュタイン的視点だとこういう話になるのかと深く納得した次第。学生の間に、読んでおいて損はない本だと思うのである。IBTの留学生にとっても、教養課程の哲学より、意外に読みやすいかもしれない。

追記的に、こそっと報告しておきます。昨日59歳になりました。と、同時にわが友、ケニア人のピーター・オルワ氏の命日でもあります。もう何回忌になるのだろうと思います。未だにピーター氏がこの世にいないとは思えないのですが…。というわけで、毎年、あんまりハッピーなバースデーではないのです。もう、誕生日がめでたい、という歳でもありませんし…。

2017年3月22日水曜日

IBTの話(88)国費生の旅立ち

お祈りをしているところ(22日)
この二日間、KLIAへM先生の車に同乗させていただいて、国費生の見送りに行ってきた。日本への出発便は、当然ながら、ナショナルフラッグであるマレーシア航空の成田便(23:30発)である。我々は、授業が終わってから、空港へ向かうわけだ。

私は関西空港と直行便があるLCC専用空港のKLIA2しか利用したことがなかったので、KLIAに足を踏み入れるのは実は初めてである。各航空会社のチェックインカウンターの向こうに、舞台があり、そこに国費生と見送りの家族や友人が集まっていた。

まず、お祈りがあって、JPAの指導があって、その後、下りのエスカレーターで出国のカウンターに向かうようになっていた。その周囲は吹き抜けになっていて、見送りの人々がいっぱい。声援を受けて、エレベーターを降りていく。なかなか壮観であった。
大勢の家族や友人に見守られて出国カウンターに向かう(21日)
いつかマレーシアを背負って立つ人材に成長して欲しい。教え子は、教師の夢そのものである。

2017年3月21日火曜日

NewsWeekの記事から

NewsWeekの日本語版のWEB記事に、デュラントという米国作家の歴史書(日本題:歴史の大局を見渡す)の話が出ていた。この人物、なかなか興味深い。カトリックの家に生まれ、イエズス会の大学に進学しながらも、ダーウィンやスペンサーの進化論と出会い、信仰がゆらぎ、スピノザの影響を受け、進学校を去り、NYの労働者階級のためのモダン・スクールの教職に就く。コロンビア大学の大学院で学び、哲学の講義内容が注目されて出版、哲学を一般的なものにしたとして、ベストセラー作家となる。その後、文明について書き始め、ピュリツァー章(一般ノンフィクション部門)を受けたという。

…なかなか面白い経歴である。ダーウィンの進化論という近代自然科学、それを社会科学的に応用したスペンサーの哲学が、彼の信仰を揺るがし、スピノザの汎神論的な哲学に影響を受けたというのは、西洋哲学史から見ても、系譜的に、なるほどと頷けるところである。

…彼の歴史観は、やはり進化論的で、自然淘汰から逃れることはできないとする。フランス人権宣言の自由と平等を両方を手にすることなど、できないと言う。確かに、自由と平等は二律背反している。

…特に重要なのは民主主義は、知性を身につけていることが必要で、多数の人をだまして大国を支配することは可能だと警鐘を慣らしている。「耳に心地よいだけの言葉に乗らないよう、ものごとを知り、自ら考え判断することが求められる。」という部分であろう。

この記事のタイトルは、「50年前に発していた現代の警告」である。かなり意味深なタイトルである。(笑)

2017年3月20日月曜日

IBTの話(87)停電と卒業文集

スコールによる強い雷はこれまで何度もあった。先日も日本人会の避雷針を直撃したらしく、何度か火災警報装置が鳴ったりもしたことがあった。しかし、今日は何事もないのに、5限目の授業中に急に停電したのだった。これにはびっくりである。

窓の明かりと廊下の明かりを頼りに、そのまま授業を続けたのであるが、職員室にもどると、ほぼ暗闇の中である。そこで、仕事を黙々と続けておられる先生方を見た。すごいシチェーションであった。

日本人会の噂によると隣の工事現場で何かあったのではないか、という事だった。日本人会だけでなく、地域的な停電らしいのだ。マレーシアに来て初めての停電である。いやあ、人生いろいろ島倉千代子である。

ところで、今日F36の卒業文集が届いた。明日、明後日と国費生の学生たちは日本に旅立つ。それになんとか間に合ったわけだ。オールカラーでなかなか面白い。ちょっと眺めただけなのだが、敬虔なムスリムのB君が私が教えた仏教用語の「愛別離苦」について最後に書いていた。嬉しくもあり、意外でもあり。人生いろいろ島倉千代子である。

2017年3月19日日曜日

KLで糖尿病の薬を入手する。

昨年の一時帰国の前に、モントキアラ(KLで最も日本人が多い街)のMクリニックに行って、マレーシアで入手できる糖尿病の薬について聞いてきた。結局、私が日本でもらっていた薬は4種類あるのだが、それと同様のモノをこちらで手配すると1ヶ月RM1500になることがわかった。はっきり言って、どえらい金額である。コンドの賃料に決して遠くない金額である。それで、帰国時に日本で入手することにしたのだが、これまた無保険故に3ヶ月分で9万円ほどかかった。(保険加入時の10倍)うーん、このままでは血糖値ばかりか、医療費負担額の多さに脳の血圧まで上がってしまう。

ところで、その4種類の薬の中でメイン(これだけ朝晩飲むことになっている。)となる薬がある。意外なことに、これが、マレーシアでは一番安価である。1ヶ月RM150。これだけなら、そんなに脳の血圧上昇の原因にはならない。とにかく、これだけでも確保して、毎日飲むことにした。(少なくとも何も飲まないよりはマシである。)

Mクリニックでは、このメインの薬の在庫があるとのことで、昨日、3ヶ月分購入したのだった。すでに初診料も払っているし、診察料も取られず、薬だけもらえた。タクシー代も前回よりはかなり安くついた。良い運転手にあたるとRM18位でモントキアラまで行けることもわかった。しかし、できれば、薬自体がわかったので、歩いて行けるタマンデサの病院で手に入ればもっと良い。現物を見せて、これだけ欲しいというくらいの英語なら何とかなるような気がする。

マレーシアでの生活には満足しているが、この糖尿病などの医療に関しては、少なからず問題があるわけだ。まあ、つつましい生活というか、ビンボー精神がしみついたともいえるけれど…。(笑)

ソマリアの飢餓 考

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/031600035/?P=1
ナショナル・ジオ・グラフィックのWEBページに、ソマリアの飢餓のニュースが載っている。評論的に書くより、視覚に訴える方がわかりやすい。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/031600035/?P=1

飢餓の原因は、エルニーニョなどの他国ではちょっとした気候変動。そのありふれた変化が脆弱な天水農業(灌漑農業ではなく、降雨に頼る乾地農法)に頼らざるを得ないソマリアを直撃している。

記事の中に、南スーダンやイエメン、シリアといった地域への支援で国際社会は精一杯、ソマリアまで支援も回らないらしい。国連が呼びかけた支援の6%しか集まっていないのだという。また、干ばつの後の飢餓は食糧の高騰によって起こることも書かれていいる。アマルティア=センの飢餓の研究でも、食糧があっても需要と供給の市場経済化では、人道を超えた不条理が起こる。よほどうまく市場を飼い慣らさないと飢餓が発生するのである。国際支援で食糧が入手できても、ガバナンスが悪ければ惨事が拡大するのである。ソマリアには、アルシャバブというテロ組織はあっても、そもそもの支援もなければ、それをうまく扱える政府もない。まさに絶望的な状況である。

ところで、新米国大統領は、独首相と難民の件での話合いには、全く応じなかったらしい。しかも気候変動にも全く無関心。国連の分担金などを削減し軍事費にあてるという。エゴイズムの固まりのような人物である。おそらくソマリアの飢餓など知らないのではないか。キリスト者として牧師の説教を聞き、聖書に手を置き、就任の宣誓したというが、全くのカタチだけだ、自分に都合のよいようにふるまっただけだ、と非難されても仕方がないだろうと思う。為政者として、前任者とのあまりの落差に愕然としてしまう。新自由主義経済とポピュリズムの時代が生んだ黙示録が始まっているのかもしれない。そんな気にさせるほど不愉快な米独首脳会議のニュースでもあった。

ソマリアの人々を懸命にに支援している方に感謝しつつ、一人でも多くの方にこういうアフリカの人間の安全保障の危機を知って欲しいと思う。我々に出来ること、それはまず、知り、それを少しでも多くの他者に伝えるところから始まると私は思う。

2017年3月18日土曜日

日経 スティグリッツ氏の提言

3月17日付の日経に、スティグリッツ氏(ノーベル経済学習受賞者・米国コロンビア大学教授)が、環境省の地球温暖化対策の有識者会議で「炭素税などの炭素の価格付けが日本経済を強くする」と述べて、炭素税の早期導入を訴えたという比較的小さな記事が出ていた。こういう記事をふと目に出来るのは、重ねて言うが、IBT新社長のおかげである。この記事の内容は、私はかなり重要だと思うのでエントリーしておきたい。

スティグリッツ氏は、炭素税は温暖化対策のための技術開発投資を誘い、経済成長を促すとし、はじめは高い価格を設定し、次第に下げて温暖化ガス排出量1tあたり$50~100にするのが適正だと述べた。また、総需要が少ない日本にとって、支出を減らす消費税は良い税ではないと指摘した。

会合後の会見で、「炭素税が化石燃料を使わない再生エネルギーの導入を後押しする。」「(原発については)リスクを伴う。社会全体で負担することになる。」と否定的見解を示した。さらに、トランプ政権が地球温暖化政策に消極的であることに触れ、「日本がリーダーシップを発揮することが大切だ。」と期待を示した。

…EJU(日本留学試験)のテキストにも、この炭素税の問題が登場する。環境省と経済産業省との間でせめぎ合いが続いているが、スティグリッツ氏の炭素税導入賛成の意見は、その政策的効果を重視したものだ。炭素税を払うのがいやなら、技術革新せよという明確なメッセージを送り、投資を誘い、その技術の輸出効果も含めて経済成長を促すというわけだ。単純な税負担の増加と考えず、前向きな政策だと捉えるわけだ。なるほど、と思うのである。

インド舞踊を見に行く2



昨夜、M先生ご家族とインド舞踊を見に行ってきた。今回は、”the kuara lumpor  performing  art center”という、KLCCの北西側にある劇場である。M先生がファンである”Datuk Ramli Ibrahim”という男性ダンサーの監督作品。イーブラヒーム(ヘブライ語に直すとアブラハム、そのアラビア語読み)という名前からわかるとおり、彼はイスラム教徒であり、マレーの人である。マレー系がインド舞踊の監督というのが凄い。

画像にあるバックの画面には、芸術性豊かなインドの絵画が次々映し出され、その前でインド舞踊が繰り広げられるわけだ。今回の舞踊のタイトルは”Amorous Delight ”副題は "a case of possession by love "とある。アマールシャタカの古代のアンソロジー(詩文を集めたもの)から「愛」をテーマに創作されたもので、かなり官能的なダンスだった。当然、全て英語なので、ナレーションの半分以上がよくわからなかったけれど、ダンスのうまさには当然魅了された。前任校のダンス部だった教え子たちが見たら、すこぶる感動し、きっと次の振り付けに応用するだろうなあ、と思ったのだ。インド舞踊の振り付けは凄い。

私は、身体全体の動きもだけれど、場面場面で、違う手の「印」を結んでいることに興味を覚えた。それぞれに意味があるように思えてならない。妻は、ダンスはもちろん、演出もすばらしいと称えていた。特に、エローラやアジャンターにあるようなシルエットからダンスが始まったりして、たいそう感動したようだ。

今回は極めて芸術的なインド舞踊だった。でも、見ていて楽しいのは同じ。マレーシアに来て、こんな芸術鑑賞をするとは夢に思わなかった次第。またまたM先生に感謝である。

2017年3月16日木曜日

40年前の私が考えていた事

3月16日は私にとってのある記念日である。その記念日となった40年前の私は何を考えていたか?を書こうと思う。40年前というと、ちょうど大学1回生の終わりである。高校時代、哲学青年のマネをしていた私は、1冊の本と出会った。梅原猛の「哲学の復興」という講談社現代新書である。この本に記されていた内容に大いに衝撃を受けた。それは、近代哲学の問題点の指摘、特にデカルトの二元論的な近代科学への批判と、東洋思想、就中、仏教思想の優位である。それまで、私は、大学では西洋哲学をやろうと思っていたのだが、この本を読んで大きく風向きが変わった。

当時は、まだまだ全共闘世代や新左翼が元気だったし、社会思想では、やはりマルキシズムが主流だった。実存的思想としての仏教は、社会思想としても優位でなければならない、そう信じていた私は、「サヨク」に代わる社会思想としての仏教を指向していたのだった。実存的な自己変革による社会改革、みたいなことを稚拙ながらも、漠然と指向していたのだった。当時の学生は、私だけではなく、まだまだ社会変革に夢を抱いていた時代だったのだ。

以来、40年。この時の思索は今なお自分の中で息づいている。マルキシズムは、この間に大きく後退していった。他の多くの社会思想も混迷の度を深めていて、新自由主義的な経済思想が重視されるにいたって、大きな経済格差をうみ、政治的にはナショナリズム的なポピュリズムに変化している。

大乗仏教による平等観は、平等大慧、全ての人は仏の因を内在していると説く。これほどの分かりやすい平等観、しかも社会思想となる理論があろうか、と思う。同時に仏故に、六道輪廻(様々な苦悩)からの自由を得ることが可能な存在者なのである。西洋哲学的な自由の概念を超越した自由である。仏教に於いては、自由と平等は二律背反しない。

40年間、様々な哲学・思想・宗教を学んできたが、やはり仏教が優位にあるというのが私の結論だ。仏教は、理論であるとともに実践論である。この優位さは、身近な生活の一場面から、世界的な視野からみた社会思想としての深い可能性までの全てをを秘めている。ブティストとして、その理念をアイデンティティとして生きる道を選んだ私は間違っていないと思っている。

2017年3月15日水曜日

釜山に空母カールビンソン

http://japanese.donga.com/
List/3/all/27/412107/1
米国の空母カールビンソンが、ついに釜山に着いたそうだ。名目は、演習への参加だが実に危険な兆候だと思う。様々な軍事的評論がWEB上にもあるが、米国は「弱気」を嫌う国である。ましてや短慮な大統領の出現で、すでにサイは降られた可能性がある、と私は思っている。

小規模な軍事行動、たとえばシールズによる特殊部隊のみの戦いですめばいいのだが、おそらくレーダー基地や核施設など、多くの攻撃目標に巡航ミサイルやステルス機(B2やB1B、F22、F35など)が、一気に襲い掛かり、同時にSLBM搭載の潜水艦への攻撃が行われる可能性が強い。そうなると、北の指揮系統が生きていた場合、ソウルが非常に危険な状態になる、と思われる。あまりに国境に近いからだ。「火の海」という表現を北朝鮮はよく使うけれど、可能性は否定できない。膨大な数の短距離のロケット弾が降り注ぐ可能性があるからだ。米国は、戦術核(ICBMなどの都市をまるまる破壊するような戦略核ではなく、小規模な核を意味する。)を使用するのではないかという憶測さえ流れているが、私は核施設などとともに、ソウル近郊の北朝鮮軍に使うという可能性は否定できないと思っている。

もちろん、そうならないことを祈っているが、すでに外交交渉の次元を超えてしまっていることは確かだ。中国・ロシアとも入念なネゴシエーションが行われている可能性が高い。もちろん、日本政府ともである。5月の大統領選挙まで、韓国政府は十分機能しない。しかも反対に親北朝鮮の政権が生まれる可能性が高い。米国として、今をおいてないと考えているはずだ。

米軍のことだから、プランAからZまで、念密な戦略をすでに立てていると思われる。カールビンソンが来たということは、いよいよ準備完了を意味する。米国は、自国ならびに在日米軍基地を守ることを第一に考えているはずだ。その後の戦略も立てているだろうが、こちらはアフガンやイラクなど間違いを度々犯してしまっている。内戦・難民流出をできるだけ避ける方途も作戦の中に入っていると思う。

日本が巻きこまれる最大の可能性は、北のミサイルが発射されるか否かにかかっている。発射の余裕を与えないことが、米軍の作戦の最大のコンセプトだろう。SLBMを持っている潜水艦への対応は、海上自衛隊の任務となっている可能性すらある。

集団的安全保障がいよいよ現実になるかもしれない。来週には、IBTの教え子も多くが日本に向かう。もちろん日本にはその数百倍の教え子がいるし、友人・知人が数えきれないほどいるわけで、心配でならない。まさに東アジア全体の危機である。

というわけで、東アジアの静謐をひたすら祈る次第。罪のない人々が誰一人傷つきませんように。

2017年3月14日火曜日

IBTの話(86)第3回定期試験

http://www.okagakuen.org
昨日から、F38の学生の定期試験が始まった。私の社会科というか「総合科目」は、今回T先生の地理分野が85%、私の公民分野の準備学習が15%という配点で、1教科にまとめての実施にした。今回から60点未満の生徒は追試験を受けなければならない。(昨年までは50点だったのだが、様々な理由でハードルが高くなった。)とはいえ、学生諸君は、T先生によれば、かなり頑張ってくれたということである。私の試験範囲も同じである。

4月から新クラスになるが、この試験結果、特に日本語の能力がその編成に大きく左右するらしい。特に、社会科は日本語の能力の上に乗っかっているといっても過言ではない。幸い、11月のEJUでは、世界平均を大きく上回る成果をだせたが、これも日本語の先生方の努力の賜物であると私は思っている。特に、読解能力や漢字能力が大きくものを言う。その意味で、中国系の学生は、中国語世界にあって漢字に親しんできただけに、マレー系の学生より日本語習得には有利である。

しかしながら、11月のEJUの試験の最高点は、マレー系の学生だった。血のにじむような努力をしたのだと思う。その辺が教育の面白いところでもある。いかに努力するようにもっていくか、教育実践には、正解はない。学生も毎年変わるし、様々な方法を試しながら経験値を積み、その上で最良の方法を見つけ出すしかない。

先日、IBTの全体会議があって、本年度の反省を行った。時間の関係で、校長先生のおっしゃりたいことは会議では語られず、文書として職員室に張り出されてある。それを読み、全く同じ事を考えておられると実感したのだった。私の日本での経験値は、もちろん無駄にはならないが、日本流にやればよい、というのではない。マレーシアならではの、新たな問題、新たな挑戦がある。私には、そういう環境にあることが嬉しい。「理想に生きることをやめた時、青春は終わる。」ー私の座右の銘を実践に移すことが、まだまだ続きそうだ。

2017年3月13日月曜日

ヨブ記と映画「エデンの東」

http://ameblo.jp/little
-big-mans/entry-
12063187597.html
「ヨブ記-その今日への意義ー」(浅野順一著・岩波新書)をおおかた読んだ。このヨブ記はなかなか深い。私はブティストなので、理解しがたい部分も多々あるが、昨日エントリーしたように、一神教の信仰とは何かを突き詰めて考えるためには必読書なのかもしれないと思う。

ところで、唐突であるが、この本を読んでいて、ふと昔々見た映画「エデンの東」を思い出した。ジェームス・ディーン主演の名作である。当時、中学生だったような気がする。だから見た時は、この映画の良さは全くわからなかった。最も印象に残っているのは、良き人である兄が、列車の窓ガラスを自分の頭で割り血だらけになるシーンだ。弟であるジェーム・スディーンは決して良き人とはいえなかった。良き人が苦しみ、悪い人が栄える…理屈抜きになにか強い不条理を感じたことを覚えている。

ちなみに、この映画のタイトルの「エデンの東」とは、カインがアベルを嫉妬で殺した後、後悔してエデンの東にあるノドに去ったという旧約聖書からとっているらしい。

なぜ私が「エデンの東」を連想したのか?「ヨブ記」については、ゆっくりと思索しながらエントリーを続けたい、と思う。

2017年3月12日日曜日

「ヨブ記」を読む動機

http://meigata-bokushin
.secret.jp/index.php?
今、「ヨブ記」(浅野順一著/岩波新書693青)をシーク教の本と併読している。登校中のバスでの読書が多いので、なかなか進まないが、いずれ書評をエントリーするつもりでいる。なぜ「ヨブ記」を読もうと思ったのか?まずは、その動機についてエントリーしておこうと思う。

多民族国家マレーシアにあって、特にマレー系のイスラム教徒の人々と中国系の人々のあまりの相違に愕然とすることがある。

我々日本人にとっては、中国系の人々のスタンスの方がわかりやすい。彼らは現世主義だ。先日の中国系の旧正月でも、カネが儲かりますようにという「招福」の願いが、充満していた。日本でも、恵比寿など「商売繁盛」の信仰はあるが、それ以上にストレートである。彼らは、現世の幸福の追求に余念がない。だから勤勉でよく働く。日本人も勤勉だし、現世の幸福を求めるが、同時に「恥の文化」があるので、「カネ」「カネ」と言うのは美しくないという流儀みたいなものがあるが、彼らにはそういう遠慮はない。極めてストレートである。道教寺院もマレーシアには数多い。フードコートには必ず祠がある。住処の近くで車で商売している「鴨爺爺」は、閉店して帰るとき、必ず同じ場所に供物と線香を置いて帰る。

それに対して、マレー系の人々は、そういう現世的な利益を全くといって良いほど求めている気配はない。彼らの信仰するイスラム教における現世利益的な教えはどうなっているのか?それを知る手立てとして私が選んだのが、同じ一神教のユダヤ教の旧約聖書の諸書にある「ヨブ記」なのである。ヨブは、極めて敬虔に神に仕え、財産も持ち人格者であった。そのヨブが、神によって一気に不幸のドン底に落とされる話がヨブ記である。イスラム教では、25人の預言者を認めている。アダムやノア、アブラハム、イサク、モーセ、さらにユダヤ教の預言者や、ヨハネやイエスも入っている。ヨブもその中に入っている。

このヨブ記を読むことで、マレー系ムスリムの人々の現世利益観を理解する一端になれば、という思いが私にはある。多文化共生をはかるマレーシアにおいて、マレー系と中国系の宗教的「現世観」の相違は、極めて重要な問題であるように思うのだ。

2017年3月11日土曜日

3.11 チリ・ソース考

http://www.airtripper2.net/mcmy.html
今日は、妻とミッドバレーのメガ・モールに買い物に行ってきた。近くのマーケットにはないものを購入するためだ。日本製の瓶詰めのザーサイや黒豆茶などの食品、日本製の保存用ラップなどである。イオンやダイソーがあるので意外に便利である。ちょうど、4Fでは教育フェアを開催中で、IBTもマーケティング活動中だったので、激励にも行かせて頂いた。その帰り、昼食をとったのだが、久しぶりにマクドナルドに寄ることにした。メガモールには、ケンタッキーもミスタードーナッツも吉野屋もある。(笑)
マレーシアのマクドナルドについて詳しいWEBページより
チリソースのセルフサービス・コーナー 
http://www.airtripper2.net/mcmy.html
面白いのは、ローカル(マレーシアでは地元の人々をこう呼ぶ習慣がある。)の人たちが、チリ・ソースをたっぷりとハンバーガーやポテトにつけて食べることだ。これは、マレー系も中国系もインド系も同じ。中華料理でも同様にチリの入ったスープというか辛くすることが可能な調味料がいつも付属している。麺にどっと入れて食べる人が多い。私は辛いのは苦手なのでほとんど使わない。まして、マクドナルドでは「フィレオ・フィッシュ」しか食べないので、タルタルソースで十分である。

妻が言うに「マレーシアに長くいる日本人も、あのチリ・ソースに慣れるとやめられないらしいで。」…なるほど。辛い食事故に甘い飲料、甘いスイーツ。これがマレーシアの食事の定番である。糖尿病正規軍の私としては、できるだけ、マレーシアの辛さには抵抗して、その延長線上にある甘いものを避けようとしている次第。(笑)

「慣れ」というのは、無意識から来るのかもしれない。だからこそ意識することが重要だと思う。今日は、3.11である。あの震災から6年。日本のTVではおそらく特集を組んでいるだろうなと思う。いつも意識しておかねばならないことがある。日本にとって、復興が進んだとはいえ、震災の被災者のことは常に意識する必要があると思うし、沖縄の問題もそうだし、世界市民としてはシリア難民やソマリアの飢餓など、意識下に入れておかねばならないことがそれこそ山のようにある。ついつい、北朝鮮問題や米国の異様な変化に目が奪われがちではあるが、そういう意識をもつことは必要だと思う。

チリ・ソースは刺激的だが、刺激が「慣れ」になると、本来の味がわからなくなる。世界を見る目も同じなのかもしれない。

2017年3月10日金曜日

「教育勅語」を論じてみる。

ポーランドボールでは未だWWⅡの日本の話題がよく出てくる
http://blog.livedoor.jp/pacco303/archives/2017-03.html
2月18日付のブログでエントリーした大阪の某小学校を巡る事件。やはり、かなりオオゴトになっているけれども、疑獄事件としての側面と、首相の関わり(どうも大阪の某政党と某知事が間に入って関係しているという報道もある。)、そして、教育勅語をめぐる教育論争など、百花斉放百家争鳴状態である。私は、あくまで疑獄事件として追及するのが筋だと思っているのだが、今日は「教育勅語」を園児に素読させていること(報道では、唱えさせているとか、読ませている、とか復唱するとか様々な表現がされているが、ここはコメントの内容はともかくも、某防衛大臣が使った「素読」という言葉が最もふさわしいと私は思う。園児に、教育勅語の意味を教えることはおそらく無理だろうと思うからだ。)について、教育関係者の1人として所感を述べたいと思う。ブログで何度も主張しているが、私は右でも左でもない。

教育勅語については、昔々大学の教育史の講義でレポートを書いたことがある。だから、何度も読んだので冒頭を覚えている。「我が皇祖皇祖…。」もの凄く乱暴に言ってしまうと、山県有朋によって作られた国民皆兵のための国家教育装置である。御真影とともに、天皇制国家・国民皆兵制度のための維持装置として機能してきたという歴史がある。だが、私は山県有朋はとんでもない政治家だとは思っていない。近代国家建設にあたり、山縣が着々と進めた天皇を中心とした近代国家建設は、明治維新以来の国是であったからだ。歴史に「if」はない。WWⅡの敗戦から、それまでの全てを否定する見方は、少しばかりドクマチックだと思う。

問題の第一は、戦後両院で否定された「教育勅語」を幼稚園で素読させる教育が、私立学校とは言え公教育の場で行われていることが、「違憲であるか否か」である。もちろん、個人の思想信条の自由は保障されるべきだが、この教育勅語は、憲法に於ける象徴天皇制からは、大きく逸脱しているといわざるをえない。明治天皇が、絶対君主として国民を臣民として、日本=皇室(国体)であり、皇室が長い歴史の中で育んできた徳目を守るべしと勅しているのが、この教育勅語である。したがって、象徴天皇制とは並立しがたいと見るのが常識だと思う。特に、今上陛下は、極めて象徴天皇のあり方を追求されてきた方だ。タイから戻られて、この事件をお知りになって、深く心を痛めておられることだろうと私は推察する。教育勅語は、象徴天皇制に対するアンチテーゼだといってよい。

問題の第二は、この教育勅語が日本の道徳の基本であり、現在の教育が失ったものであると、支持する人々が安易に主張している点である。この教育勅語に、天皇の臣民が守るべき12の徳目が記されている。それはかなり儒教的・朱子学的な内容ではあるが、それ自体は普通にある徳目である。しかし最も重要なのは、当然最後の「一旦緩急あれば義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という国民皆兵の義務を説いた部分である。ここは、やはり、教育勅語=日本の伝統的徳目、よって善、というには、問題があると私は思う。教育勅語は、国民皆兵によって国民国家を形成しようとした装置であることを大前提に論議する必要がある。山縣が示したのは、父母や兄弟を大切にと言う儒教的な徳目が決してメインではない。これを支持することは、平和憲法の否定と同義である。

現在の日本は、欧米的な(階級社会を打ち破ろうとしたデモクラシーの影響を受けて)権利ばかりを主張することが、以前より増えた。これは戦後教育の誤りであるという主張も私は、全く否定するつもりはない。たしかに、そういう側面もある、と思う。だが、だから教育勅語を素読させよ、というのは、上記の2つの論点から無理がありすぎる、と私は思うし、今その必要性を認めることはできない。

現在の教育に対して、私は良いなどとは思っていないのだが、以下のドイツ在住の作家・川口マーン恵美さんの「分析」を読んでみて欲しい。大局から見ると日本の教育の成果もちゃんとあるのである。実は、マレーシアに住んで、もうすぐ1年になろうとしているが、彼女の言おうとしていることは、痛いほどわかる。日本の教育の成果は、もの凄い日本の強みになっていると思うのだ。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2662857

以上、3点から私は、少なくとも、今の教育界に教育勅語などいらないと思うのだが…。

2017年3月9日木曜日

日経 米国保護貿易批判

http://polandball.blog.fc2.com/img/WS000003_20170203210936006.jpg/
IBTのO社長から、毎日、日経のお下がりを頂けるようになって大変助かっている。特に「経済教室」は、いつもながら勉強になる。政治経済の授業でこう教えたらよいというヒントになることが多い。たとえば、7日付けの「日米貿易摩擦は回避できるか(下)」赤字相手国の批判不適切と題した、慶応大学の清田教授の「トランプ政権による保護貿易化」の問題点の整理は、実にわかりやすかった。備忘録的にエントリーしておこうかと思う。以下は、その要約である。
思考実験として、ある国が関税の全くない無税の状態から、関税により貿易を制限する状態へと移行するケースを考えてみる。この時貿易を保護する効果は理論的に3つに分けられる。第一に保護を通じて自国の生産者の生産を維持する効果。自国の生産者は激しい競争を回避できる。このため、生産者にはプラスの効果がある。第二に、関税収入を得る効果。輸入をする限り、その国には関税収入が生じる。これもプラス効果である。第三は、保護された製品の価格が上昇する効果である。第一の自国の生産を維持する背後には関税を通じた価格の上昇がある。製品価格上昇の影響を受けるのは消費者で、これはマイナス効果になる。
一般に、この消費者のマイナス効果は、生産者と関税収入へのプラス効果を上回る。(その例として、清田氏は日本の自動車産業を関税で保護した場合を想定して説明している。自動車産業に係わる人も多いが、自動車を利用する人の方がもっと多いからだ。)このため、関税による保護は、自国の生産者が得る便益と関税収入を、全て消費者に還元したとしても、一国全体としてはマイナスになる。
しかも、企業のグローバリュー・チューン(国際的な価値の連鎖)の拡大により、自国の子会社から部品や完成品の調達が関税によって制限される。それは結果的に生産者に対してもマイナスの影響を与えかねない。同様のロジックは、関税だけでなく、輸入量の制限や輸出に対する補助金などの他の貿易政策にもあてはまるので、保護貿易には問題があるとされている。しかも、貿易には相手国が存在する。その相手国が報復をする可能性もある。1929年の世界大恐慌からWWⅡは、この保護貿易政策に起因している。

貿易に関してもう一つ重要なことは、一国全体の貿易収支が赤字は、必ずしも通商上の問題ではないという点。説明を簡単にするため、貿易収支と経常収支を同じものとする。貿易収支は輸出-輸入である。そしてGDPを支出からとらえた場合、GDP=消費+投資+政府支出+輸出-輸入と表すことができる。ここで、経済全体の税を除いた所得(可処分所得)は消費か貯蓄に回ることに注意すると、GDP=消費+貯蓄+税と表すこともできる。この二つの関係から、消費+投資+政府支出+輸出-輸入=消費+貯蓄+税となり、輸出-輸入=(貯蓄-投資)+(税-政府支出)という式が成り立つ。この意味は、近年の米国のように、政府支出が税収を上回る財政赤字の場合、それを上回る貯蓄超過がない限り、貿易収支は赤字になるのは必然ということになる。貿易政策と、国内の貯蓄や投資に影響を与えるものではないので、貿易収支にも影響を与えない。つまり、貿易収支が赤字だということは、政府部門を含めた国内の貯蓄と投資の問題だということになる。

トランプ政権が、日本や中国に対し、貿易赤字だ、不公平だというのは明らかな間違いである。日本も中東諸国やオーストラリアに対しては貿易赤字である。資源を輸入する必要のある日本にとって輸入超過になるのは自然である。リカードが比較優位を唱えて、今年は200年の節目だそうである。貿易は「ゼロサム」ではなく「プラスサム」であるという基本概念を理解し、保護貿易化が招いた悲惨な歴史を繰り返してはならない。

…非常にわかりやすい保護貿易批判論である。米国内の構造問題に起因する問題を貿易赤字国に転嫁していることが理論的にはっきりする。嘘をつくのが大好きな大統領でさえ、これくらいの経済理論は理解できるのではないか、と私は思うのだが…。

ちなみに、今日の画像に使ったポーランドボールは、アメリカの保護貿易を皮肉ったもので、かなり面白いものです。興味のある読者の方は是非本編をご覧ください。
http://polandball.blog.fc2.com/img/WS000003_20170203210936006.jpg/

2017年3月7日火曜日

日経 インド経済の課題

http://orangeretail.jp/blog/retail-market/4244
昨日の日経(アジア版)に、「インド、経済大国への課題」と出したマーチン・ウルフ氏(financial Timesのチーフ・エコノミクス・コメンテーター)のコラムが載っていた。これまで、あまりインドの政治経済には興味がなかったのだが、マレーシアにあって、インド系の人々と接する機会も増えている。しかも、シーク教の本を毎日読んでいる。だから思わずこの記事が目に留まったのだ。日本にいたら、この記事は流していたと思う。これも在マレーシア効果なのではないだろうか。

インド財務省の経済白書で、同国の1人あたりの実質GDPは、過去37年間・毎年4.5%増加しているという。購買力平価で、2050年には、世界で第2位(1位は中国・3位は米国)となるだろうと予測されている。同白書によると、経済発展の要因として、社会主義を捨て「開かれた貿易やより開かれた資本市場、そして民間部門重視の姿勢」を挙げている。しかし、インドの民主化に経済発展が追いついていないとしている。

マーティン・ウルフ氏は、重要な課題として3つ、短期的な課題として1つを挙げている。第1は、教育問題。インドでは各州が教育に責任をもつとされ、モディ政権は各州が競い合う「競争的連邦主義」を打ち出してはいるが、まだまだ十分に機能していないこと。第2は、環境問題である。都市化が急激に進み、人口集中が進む中、化石燃料の利用を大幅に増やさずにいかに発展していくかが重要であること。第3は外部環境である。インドの財やサービスの輸出は10年で倍増するだろうが、現在世界で起きている反グローバル化の動きが大きな懸念材料である、というわけだ。短期的な問題は、低調な投資問題。企業の借金依存や不良債権が投資や成長の妨げになっている。金融システムの抜本的な改革が急がれるとのこと。なるほど。アフリカ開発経済学をかじっている者としては、よく理解できる。

…私はインドの思想・哲学・宗教には人一倍興味をもってきたが、政治経済については、これまでほとんど見聞きしなかった。これを機会に改めねばと思った次第。

2017年3月6日月曜日

IBTの話(85)桜が咲いた日

http://ameblo.jp/liamo2013
/entry-11781014029.html
F36の私費生のX君が、国立大学に合格した。日本時間の10時、こちらでは9時に合格発表で、実は私はF38の学生の宿題のチェックに追われていて、少し遅れてHPにアクセスして知った。もうすでに私のGメールには、「桜が咲きました」という本人からのメールが入っていた。合格したら、日本ではこう表現するんだよと教えたのだが、ちゃんと覚えてくれていたのはさすがである。だが、そこからが、大変。大学に電話するやら、メールするやら。私費生は入学手続き、ビザの申請、入学金の払い込みなど、大忙しなのだ。とはいえ、嬉しい悲鳴である。私自身初めてで、わからないことも多いのだけれど周囲の先生方の助言を受けながら勤め上げようと思う。

一方、前任校で浪人生活を送っていたA君も志望の公立大学に合格した。いやあ、言葉がないほどに嬉しい。1年間よく頑張ったと思う。A君、ほんとにおめでとう。

と、いうわけで、今日は桜が見事に咲いた日になったわけだ。

と、喜んでばかりもいられない。北朝鮮がまたミサイルを撃ったようで、極めてきな臭い。アメリカの指導者も短慮かつ、自国の利益しか考えていないし、韓国は指導者不在だし、中国も配備するためにゴルフ場を差しだしたロッテをきつく締め上げるくらいTHADD配備を怖れている。今や、北の味方などどこにも存在しない。どう考えても危ない状況である。日本でも例の小学校事件で揺れている。これらを打ち消すには絶好のキカイになる。桜が咲いて言祝ぐことができるのは、平和であるからこそ、である。政治指導者たちの冷静かつ、理性的な判断を望むばかりである。

2017年3月5日日曜日

ペナン彷徨5 壁画 アート

http://malaynanao.exblog.jp/20577636/
ペナンのショップハウスやビルには、壁画がたくさん描かれている。世界の街並みを歩いてきたが、私はこういう壁画とか落書きが大好きである。芸術的であればあるほど実に楽しい。最も有名なのは、Tシャツにもなっている自転車に乗る子供の壁画(上の画像)である。ただ、私はこのTシャツは値切って1枚買った(RM25)けれど、実際に見ていない。(笑)2日目の朝、ユダヤ人墓地から、妻の希望で聖ジョージ教会まで歩いた。その途中で発見した壁画の画像を少しエントリーしておきたい。まずは、ある奥まったホテルへと続く道の両側の真っ白い壁にすてきな壁画を発見。
なかなか面白い。こういう金属系統のものもたくさんある。
ジョージタウンは、歩いていて楽しいのである。(ちょっと日差しがきついが…。)これは、前日の彷徨の時に発見したホテルの壁面に大きく描かれた壁画。さらに、こんな車のアートもホテルの近くで発見した。(笑)
最後に、壁画ではないけれど、驚いたのが道教寺院の巨大線香。私は、もうこれはアートだと思う。
ペナン島・ジョージタウン。これからも何度も訪れたい街である。

ペナン彷徨4 海鮮料理

左の青いところで昼食
華人が50%以上を占めるペナンでは、海鮮中華料理が美味しいらしい。妻と夕食は海鮮料理を食べにいくつもりだったのだが、炎天下の彷徨のためか、あまり食欲がわかなかったので、次回に回すことになったのだった。これは非常に残念。とはいえ、ちょっと食したものを上げておく。まずは、ホテル近くのフツー食堂で麺類をいただいた。さすが、海鮮のペナンだけあって、大きなエビが入っていた。美味な上にKLよりさらに安い。

なるほど、さすがペナンと期待が高まったのだが、1時間半+2時間の炎天下の彷徨がたたって、疲れ果てていたので結局夜は近くの屋台街に行くのが精一杯だった。とはいえ、珍しいお粥を食べた。鴨粥である。屋台の奥の店で食したが、実はデザートのプリンの方がRM6で高かった。(笑)
屋台街の鴨粥のおねえさん
鴨粥もなかなか美味。プリンはタマンデサの近くの店の勝ちと妻の言
朝は、高級そうな海鮮のレストランが飲茶をやっていたので、満員の店内に入った。新聞を読んでいる華人の老夫婦と相席であった。いつもどうり、飲茶の時は、ポーレイ茶を頼んだ。実は、この朝食がペナンで食べたものの中で最も高くて2人前RM30強であった。(笑)

この写真の後で、エビシュウマイを追加した。期待どおりすこぶる美味であった。やっぱりペナンは海鮮なのだ。ペナンには、きっとまた来ることになると思う。

ペナン彷徨3 ユダヤ人墓地

翌朝裁縫したユダヤ人墓地
さて、ペナンのユダヤ人墓地についてエントリーしようと思う。私はこれまで、イェルサレムのオリーブ山、ポーランド・クラクフのユダヤ人墓地に行ったことはあるけれど、このペナンのユダヤ人墓地はまた違った趣があった。専門家である息子によれば、イギリス統治が終わった後、ここにはユダヤ人社会はもう存在しないらしい。だから、インド系のおそらく公務員(服装はそうは見えなかったけれど)が管理している感じだった。話した彼はユダヤ教徒ではなく、ヒンドゥー教徒だと言っていた。お墓の形態は、クラクフの銘板型ではなく、いかにも土葬といった感じである。少しWEBで世界のユダヤ人墓地を調べてみたが、イギリス型というのでもないようだ。したがって、私の主観的・感覚的なコメントしかできないのでひたすら写真で紹介することにしたい。



比較的、新しいお墓もあった。それでも、1960年代であった。お墓の上に石がのせられているのは、ユダヤの敬意や哀悼の意を示すものである。誤解無きよう。

観光地ではないし、興味がある方はあまり多くないと思うが、一応案内をしておく。コムタからマカリスター通りを西に向かい、ちょっと高いビルとクレイポットの中華レストランの間の道(Jalan Zamal Ahidin)を100mほど北に向かうと門がある。朝10時~夕5時。基本的には無料だが、「お気持ちを」と言われたので、10分ほど早めに開けてくれたし、少しばかり渡した。管理費もそれなりにいるのだろうと思う。

ペナン彷徨2 ショップハウス

ペナンとくれば、「ショップハウス」である。宇高雄志氏の「多民族社会マレーシア」の前半部で、詳細に描かれているショップハウス。一階が店舗、二階が住居になった奥行きの長い日本の町屋のようなもので、他の東南アジア諸国にもあるけれども、その街並みがこれだけ集中して見られるのはめずらしいらしい。旅装をといて、まずはジョージタウンの中心部をめざすことにした。
ところが、ペナン島の道はわりと複雑である。なかなか中心部につかない。だが、ショップハウスはいたるところにあって、歴史を感じさせるもの、カラフルに彩られたものなど、様々な展開を見せてくれた。意外にバイク関係の店が多い。おそらくKLより、ペナンはバイクの走行比率が高いと思う。結局、ジョージタウンの中心部へはたどり着けなかった。炎天下、歩き疲れて、妻がギブアップしたのだ。無理もない。一度ホテルに戻った。私は、この分では明朝行く予定のユダヤ人墓地も彷徨うことになるのではと、考えた。WEBで調べた記憶を頼りに、ひとり下調べに向かったのだった。
やっと見つけたユダヤ人墓地
しかしここでも約2時間彷徨うことになる。なんと見当外れの聖ジョージ教会まで行ってしまった。どうやら、最初に進むべき道を間違えたらしい。こういうことは、様々な国でひとり旅をしてきた私にとって、非常に珍しいことだ。「歳をとったなあ。疲れているのかなあ。」と何度も悔恨の情がこみ上げてくる。結局コムタまで戻り、もう一度重い足で歩き出した。2時間近く歩き続けて、ついにユダヤ墓地を発見した。(ホテルからは実は10分もかからない。)ちょうど閉園間際であった。インド人の管理人がいて、入れてくれたけれど、明日また妻と来ると言うと、10時開園だと教えてくれた。Tシャツは汗を吸ってかなり重くなっていた。だが、この2時間以上の彷徨のお陰で、かなり地理感がつかめたし、発見もあったのだ。

ユダヤ人墓地近くのモスク
それは、あたりまえのことだが、ジョージタウンは、中華系とインド系の街だということである。貿易のための直轄植民地だったので、マレー系の人々はここでは少数派なのである。たしかにマレー系の人々も少なそうだし、KLでよく見かけるような、敷地の広いりっぱなモスクは極めて少ない。肩身の狭そうな感じで佇んでいることが多かった。
ショップハウスの1Fの道教の祠
反対に、中華系の道教寺院やヒンドゥー寺院がかなり多いのだ。しかもショップハウスには、道教寺院風のような場所もたくさん見られた。おそらく、空き家になったハウスを道教の寺院化しているのだろう。KLでもよく見かける「祠」が家一軒分になったような感じになっているわけだ。ジョージタウンは、同じマレーシアでもKLとは大分違う。なかなか興味深い街だと思う。