2017年3月10日金曜日

「教育勅語」を論じてみる。

ポーランドボールでは未だWWⅡの日本の話題がよく出てくる
http://blog.livedoor.jp/pacco303/archives/2017-03.html
2月18日付のブログでエントリーした大阪の某小学校を巡る事件。やはり、かなりオオゴトになっているけれども、疑獄事件としての側面と、首相の関わり(どうも大阪の某政党と某知事が間に入って関係しているという報道もある。)、そして、教育勅語をめぐる教育論争など、百花斉放百家争鳴状態である。私は、あくまで疑獄事件として追及するのが筋だと思っているのだが、今日は「教育勅語」を園児に素読させていること(報道では、唱えさせているとか、読ませている、とか復唱するとか様々な表現がされているが、ここはコメントの内容はともかくも、某防衛大臣が使った「素読」という言葉が最もふさわしいと私は思う。園児に、教育勅語の意味を教えることはおそらく無理だろうと思うからだ。)について、教育関係者の1人として所感を述べたいと思う。ブログで何度も主張しているが、私は右でも左でもない。

教育勅語については、昔々大学の教育史の講義でレポートを書いたことがある。だから、何度も読んだので冒頭を覚えている。「我が皇祖皇祖…。」もの凄く乱暴に言ってしまうと、山県有朋によって作られた国民皆兵のための国家教育装置である。御真影とともに、天皇制国家・国民皆兵制度のための維持装置として機能してきたという歴史がある。だが、私は山県有朋はとんでもない政治家だとは思っていない。近代国家建設にあたり、山縣が着々と進めた天皇を中心とした近代国家建設は、明治維新以来の国是であったからだ。歴史に「if」はない。WWⅡの敗戦から、それまでの全てを否定する見方は、少しばかりドクマチックだと思う。

問題の第一は、戦後両院で否定された「教育勅語」を幼稚園で素読させる教育が、私立学校とは言え公教育の場で行われていることが、「違憲であるか否か」である。もちろん、個人の思想信条の自由は保障されるべきだが、この教育勅語は、憲法に於ける象徴天皇制からは、大きく逸脱しているといわざるをえない。明治天皇が、絶対君主として国民を臣民として、日本=皇室(国体)であり、皇室が長い歴史の中で育んできた徳目を守るべしと勅しているのが、この教育勅語である。したがって、象徴天皇制とは並立しがたいと見るのが常識だと思う。特に、今上陛下は、極めて象徴天皇のあり方を追求されてきた方だ。タイから戻られて、この事件をお知りになって、深く心を痛めておられることだろうと私は推察する。教育勅語は、象徴天皇制に対するアンチテーゼだといってよい。

問題の第二は、この教育勅語が日本の道徳の基本であり、現在の教育が失ったものであると、支持する人々が安易に主張している点である。この教育勅語に、天皇の臣民が守るべき12の徳目が記されている。それはかなり儒教的・朱子学的な内容ではあるが、それ自体は普通にある徳目である。しかし最も重要なのは、当然最後の「一旦緩急あれば義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という国民皆兵の義務を説いた部分である。ここは、やはり、教育勅語=日本の伝統的徳目、よって善、というには、問題があると私は思う。教育勅語は、国民皆兵によって国民国家を形成しようとした装置であることを大前提に論議する必要がある。山縣が示したのは、父母や兄弟を大切にと言う儒教的な徳目が決してメインではない。これを支持することは、平和憲法の否定と同義である。

現在の日本は、欧米的な(階級社会を打ち破ろうとしたデモクラシーの影響を受けて)権利ばかりを主張することが、以前より増えた。これは戦後教育の誤りであるという主張も私は、全く否定するつもりはない。たしかに、そういう側面もある、と思う。だが、だから教育勅語を素読させよ、というのは、上記の2つの論点から無理がありすぎる、と私は思うし、今その必要性を認めることはできない。

現在の教育に対して、私は良いなどとは思っていないのだが、以下のドイツ在住の作家・川口マーン恵美さんの「分析」を読んでみて欲しい。大局から見ると日本の教育の成果もちゃんとあるのである。実は、マレーシアに住んで、もうすぐ1年になろうとしているが、彼女の言おうとしていることは、痛いほどわかる。日本の教育の成果は、もの凄い日本の強みになっていると思うのだ。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2662857

以上、3点から私は、少なくとも、今の教育界に教育勅語などいらないと思うのだが…。

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