2024年5月16日木曜日

聖母マリアとその原罪論

「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)から、興味深い箇所を拾ってみたい。カトリックもオーソドックス(長いので、以後正教会としたい。)の類似点で、著者は様々な表象・象徴を使う事を挙げている。しかしながら、有名なザビエルの聖画で、十字架が貫いている心臓を抱く姿を、正教会には見られない表象とわざわざ記している。有名な聖画だが、私は(頭のてっぺんにばかり目が行って)意外にこの心臓を見逃していた。そこで大きな疑問が湧いた。学院はザビエルのイエズス会が創設した学校で他県の姉妹校も同じ校章である。校章は、ハートの上に十字架が描かれている。この聖画と関係があるのではないか、と思ったのだ。宗教科の先生にお聞きすると、関係がないとのこと。学院のHPで確認してみたが、ハートについての記述はなかった。でも面白い一致だと思う。ちなみに、宗教の先生は、ザビエルの頭のてっぺんについて、ザビエルとは異なる不真面目な修道院の習慣で、この聖画は間違っていると、熱弁を振るわれたのだった。この話も面白い。

さて、本題。聖母マリアについて、両者とも崇拝している。カトリックは可憐な乙女のイメージが強く、正教会の方は成熟した女性として描かれている感じがするそうだ。(学院内にはマリアの聖画や像がたくさんあるが、たしかにそうだ。)カトリックでは、「無原罪の宿り」を聖母マリアの称号とし、原罪がない存在である。カトリックでは原罪とは、「人間の頭としてのアダムが犯した罪、あるいはアダムが子孫に伝えた罪を意味し、キリストとその母を除いて、全ての人間は原罪をもって受胎し生まれる。」としている。よって、原罪とは、罪と死の人間の本姓・根源への感染、死に至る体質の遺伝と規定しているわけであるが、イエスとマリアは除外されている。

これに対して、正教会では、原罪について、人の罪と死、陥罪(かんざい)とその結果について、「堕落とその結果について正教会は、人間は神の像をかろうじて保持しているばかりではなく、善と悪の選択の自由も保持していると理解し、人間の選択の自由の能力は堕落によって傷つき限界はあるが、決して絶滅されはいない。堕落の状態にあって人間の意志は病んでいるが死んではいない。健康な時よりはるかに困難だが、人間は依然として善を選択することができる。」と主張している。聖母マリアについては、「彼女が一切の個人的な罪から自由であったという意味で、”至聖なる者”と信じる一方で、正教会は、旧約時代のっすべての聖なる人々と同じくマリアもまた原罪の結果の下に服していたと考える。」としており、カトリックのようなマリアの無原罪という神学思想を採用せず、マリアは特別な人間ではなく、真の人間として生きた、ごく普通の人間が信仰生活(エルサレムの神殿付属の女子校に入り、聖にせられし他の器となるべく素晴らしい努力を重ね、純真・潔浄の生活を過ごした。)によって至聖なる救いの境地を指し示し、そこに到達したと、考えられている。

と、ここまで読んできたのだが、聖母マリアの原罪云々もそうだが、正教会の原罪論が強く印象に残った。直感的なものだが、前述の佐藤優氏の指摘は、正教会はヨハネの福音書を重視している、というものである。ヨハネの福音書は、有名な「はじめにロゴスありき」で始まる。ロゴスは、言葉と訳されたりもするが、明快なるロジック、あるいは理性をも意味する。正教会の、原罪はあるものの、人間の善悪の判断は可能という、このことが関係あるのではないかと感じたのだ。中田考氏は、キリスト教神学では、善悪を中心においていると批判していることも想起させる。こういう疑問とイメージを大切にしながら、続けて読んでいこうと思う。

2024年5月15日水曜日

オーソドックスとカトリック

学院の図書館で、「オーソドックスとカトリック」(及川信著/サンパウロ)という本を借りてきた。前回のバルト神学に続く、キリスト教本である。学院は、カトリック、それもイエズス会の設立した学校である。宗教科の授業も週1であるし、専門の先生方(カナダ人やエクアドル人、もちろん日本人)もそこそこおられるので、折角なのでいろいろと学びたいと思っている。図書館でもキリスト教関係の書籍が豊富であるのが幸いである。とはいえ、私はあくまでブディストの立場から、比較宗教学的なスタンスをくずすわけではない。学問的興味がある、というだけなのだが…。

ところで、この本の著者は、オーソドックス(正教会)の司祭である。オーソドックスの立場からカトリックとの似ている点や相違点を書いている。ちょうど、佐藤優氏の本で、両者の相違点についていろいろと読んでいたこともあって、チョイスしたわけだ。現時点で5分の1程度読んだのだけれど本日は、導入的に両者の十字架の違いについて書いておこうと思う。

https://www.publicdomainpictures.net/jp/view-image.php?image=398052&picture=
十字架を重視するのは、オーソドックスもカトリックも同じ。だが、形状が違う。オーソドックスでは、カトリックの十字架の上に1本、下に斜めになったもう一本が付け加わっている。上の1本は、イエスが磔になったとき、その罪状(INRI:ナザレのイエス、ユダヤ人の王の頭文字/聖書では3言語で書かれていたとある。)が書かれた板であり、したのもものは、イエスが足を打ち付けられた台である。斜めになっているのは、共に十字架刑に処せられた強盗2人のうち左の者はイエスを罵り地獄に落ち、右の者(聖ディスマス)は悔い改めて天国に行ったとされている。右が上がっているのは天国を指し示しているわけで、イエスの十字架は義の秤となったのである。

少しずつ、こういった相違点を見つけては、エントリーしていこうと思う。

2024年5月14日火曜日

何故政策金利を教えないのか

https://equity.jiji.com/commentaries/2023072700083g
現在の高校・政治経済の金融政策の学習内容から、政策金利(=旧公定歩合)の内容が省かれている。公開市場操作が日本の金融政策の中心になっているからしい(実教出版の政経の教科書P137の注意書き)が、それでは、国際金融における、FRBやヨーロッパ中央銀行、イングランド銀行などの政策金利の動きの意味がわからないままである。経済学部に進めば理解が深まるだろうが、他の学部に進んだり就職する生徒にとって、高校で基礎的なロジックを教えないことに対して、私は実に不可解であると思っている。

このように思ったのは、先日地理の授業で、EUの話をしていて、ユーロ圏内の国々のひずみが生まれている原因を語ろうとすると、各国の経済状況がふぞろい(インフレ対策が必要な国もあればデフレ対策が必要な国もある)であるのに、ヨーロッパ中央銀行に政策金利を一元化している故という話になってくるからである。

YouTubeの「モハPチャンネル」は、国際経済の現状を知るうえで実に役に立つのだが、政策金利の意味がわかっていないと、ほとんど理解できないことが多い。日本ではたしかに金利自由化や、売りオペ・買いオペが中心的になったといっても、国際経済的には今も重要な金融政策の柱である。

今は、地理を教えているが、政経や倫理、そして世界史・日本史など他科目の内容をフォローすることも多い。たとえば、「エジプトはナイルの賜物」と言われる。ナイル川が自然に水かさが増え、川の周囲を肥沃にし、また水が引くことが定期的に起こることからきている。これはナイル上流の地域が、夏に降水量が多く、冬に極端に少なくなるサバナ気候であるがゆえである。このような社会科内のフォローが絶対必要である。政策金利は、政経が中心だが、地理にも大いに関係しているのである。

今だに、政策金利を教えなくなった政経の教科書は不可解だ、何を考えているのだろうか、と主張したい。

2024年5月13日月曜日

放出の「王将」に行く。

(昨日の定期券に関するブログの続きである。)結局、放出(はなてん)駅で定期を買うことになった。H高校時代以来、久しぶりの放出駅下車。折角なので、昼食は放出の「王将」にした。最近は「王将」に行くこともなかったので、ちょっと嬉しい。(ご存じない方のために:「王将」とは、京都発祥の中華料理店で、餃子が有名。京都王将と大阪王将に分かれているが、私は京都王将のほうが好みである。なんといっても京都の学生時代の帷子ノ辻店以来馴染んでいるからである。)

注文したのは、「五目ソバ」と「餃子1人前」(いつもは2人前なのだが、なんとなく1人前にした。)細麺とあっさりしたスープの五目ソバは、餃子によくマッチする。このところ何年も、ずっと五目ソバである。(笑)あまり人気メニューではないと思うが、王将での隠されたオススメメニューであると思う。

2024年5月12日日曜日

JR西日本の定期券売り場削減

https://subway.osakametro.co.jp/news/news_release/JW_hatsubai2020.php
昨年、学園に通勤するのに、河内磐船駅で定期を購入した。今日、久しぶりに定期券を買いに行ったら、もうこの駅では買えないことが判明した。まあ、私が事前に調べていないのが悪いのだが…。改めて調べてみると、学研都市線では、京橋・放出・鴻池新田・四條畷・長尾・松井山手のみになっている。昔は最寄り駅でも買えたのだが、はっきり言って人員削減によるサービス低下が甚だしい。

JR西日本はよく止まるし、遅延も多い。車掌の言葉遣いは丁寧だが、お詫び=0円という感じだし、朝居眠りをしている客が多いのに大音量でアナウンスしたりと、どうもいただけない。マクドナリぜーションは、企業経営の屋台骨になっている、このご時世だが、文句を言わない日本人気質を当然のようにして、胡座をかいている感がいがめない。

今回は、JR西日本+大阪メトロの定期券になる。イコカが1枚で済むのは大いにありがたいが…。

2024年5月11日土曜日

またまた驚きの学院との縁

https://www.facebook.com/photo/?fbid=435826098793394&set=pcb.435826658793338&locale=ja_JP
土曜日であるが、あるクラスの授業を頂いたので出勤した。授業後、管理職の先生と少し雑談していたのだが、府立高校から数年前に学院に来られたことを知った。それも有名な府立の進学校である。OBでもあり、ラグビー部と関わっておられたと聞き、小中学校の同窓生の名を出すと、なんとご存知だったし、M高校で私が生活指導部長をしていた時、大いに助けていただき、中国修学旅行でも同室させていただいたT先生も同校ラグビー部OBで、よく知っているとのこと。実に驚いた。

さらに月曜日には、教え子のGくんが、大学の准教授に出世しており、学院に大学紹介に来るというメールももらっている。だたし、残念ながら私の授業と重なっているし、他の高校へも行く予定があるらしく、今回は会えないのだが、学院の近くに居を構えているとのこと。また次に会える日を楽しみにしている。

先日のK先輩もだが、意外な縁が私と学院にあるわけだ。これは、ますます頑張らなければ、と思った次第。

2024年5月10日金曜日

バルト神学とプレモダン

「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)を読み終えてから、何度も最終章を読んだ。そこには、現代神学が、19世紀の子であるバルトに、新たな可能性を見出していることが描かれているのだが、英語圏では、新正統主義派と呼ばれる人々が現れているようだ。ただ、著者は新正統主義派に対して、バルトの弁証法的な部分が削ぎ落とされてしまっていると批判的である。私が、面白いなと思ったのは、もうひとつのポストモダン派である。

バルト神学初期の、神を「絶対他者」とする主題と、ポストモダンの結びつきである。有限な人間には無限なる神を、一つの言語的文脈という限られた文化的状況の範囲内で描写することは全く不可能であるということ、いわんや特定の文脈のうちに閉じ込められた特異な神学体系によって描写することが不可能であるということをポストモダン派は主張する。ウォルター・ロウ、グレアム・ウォードの2人は、デリダとの親和性を引き出そうとした。

ロウは、バルト神学前期の「ロマ書講解」の第二版の、神の問題および神と世界の関係についての問題が最終的に決着がつく問題であると考えるような人間の神学的自己満足の全てに疑問符を附したバルトに、デリダの著作を援用して、教会の神観念が基本的にあいまいであったという歴史的現実を明確に証明する形而上学を展開しようとした。ロウは、デリダは相対主義的ニヒリストではなく、多くの人が、ポストモダン思想(=ポスト構造主義)自体が真理を最終的に放棄すべきものと捉えていることを批判し、真理問題は捨て去られるものでも、また捨て去ることができるものでもないと主張し、むしろ人間の有限な条件の文脈的性質に照らして、問い直される必要があるとしている。

ウォードは、後期の「教会教義学」で語られる、現実に直接的に迫るためには人間の言語が不十分であるとの知覚によって作り出された神学に対するバルトの挑戦を重視する。この「表象の危機」という概念こそバルトが取り組まざるを得なかった問題であり、神の言葉がどのようにして人間の言葉によって表現にもたらされるかという問題だといっていい。バルトは神学的言語の問題について解決しようと試みたが進むべき道を示したにすぎないとする。で、ここでデリダの哲学的補足を求める。この両者を組み合わせることで、神の言葉と人間の言葉のポストモダン的な神学を展開させることが可能とし、有限な人間が神について本当に知る事ができるのは神の根本的被蔽性および負荷知性であるとした。神の根本的他者性をこのように強調することは、神学的任務の理解を大きく変えることを要求しているといえるわけだ。

…たしかに、デリダの差異や再構築の理論はバルト神学に親和性がある。ポストモダンの時代に、このような視点で新たな神学の可能性を2人は開こうとしてるわけで、なかなか面白いと思ったのである。

もちろん私の理解はかなり浅いものであるに違いない。前述したが、ブディストの私にはまだバルト神学の根本である「啓示」(=神の言葉)がよくわからない。縁起(原因と結果)の存在しない一神教の理解は神への信仰なしには解らないのかもしれないと、つくづく思った次第。(本日の画像は、バルトとデリダの両者について並立して書かれた書籍にしてみた。)

2024年5月9日木曜日

驚きのK先輩との邂逅

学院での昼休み、職員用の下足の前で声をかけられた。最初マスクをされていたので誰だかわからなかったのだが、H高校時代にお世話になった体育のK先生であった。お聞きすると、改めて情報科の教員免許を取って、学院に週2日勤務されているとか。情報科の職員室は7階なので、これまで全く気づかなかったのだった。いやあ、驚いた。やはり、学院とも縁があるようだ。私が学院にお世話になったことに、PBTや三崎高校、学園と同じように、意味があるのは間違いない。

2024年5月8日水曜日

バルトの弁証法神学

学院の図書館で借りた「はじめてのバルト」(J.R.フランク著/教文館)をようやく一読しかけている。キリスト教神学(バルトはカルヴァン派)の知識が浅い私にとっては、なかなか難解である。表面的な理解はともかく、なにより、啓示というものの正体がつかめない。啓示の表面的な意味は知っている。「神が自分から進んで自身の存在や性質、思いを表すこと」であるが、ブディストである私には体験的に認識していない故に、それを理解するのが非常に難しい。

幾分保守的なスイス人の牧師の家に生まれたバルトは、若い頃、自由主義神学に惹かれるが、社会主義運動の高揚やWWⅠの反戦思想、さらには反ナチズムによって、それらを超克し自らの神学、弁証法神学を積み上げていったことは十分理解できた。常に原点に戻り、弁証法的なテーゼとアンチテーゼの間に立って、ジンテーゼを見つけようと努力する姿勢こそ弁証法神学の意味であると理解している。ただ、このテーゼもアンチテーゼもジンテーゼも、全てが神=イエス・キリストの啓示であり、人間が理性的に言語を使い形成するような神学ではない、また現実に起こっていることが神啓示でもある、というのだが、これが私には理解できないところなのである。

答えのない論争を神学論争などと揶揄することがあるが、たしかに神学は、極めて形而上的な論議のような気がする。もう一度読み返すべきか、とりあえず教養として蓄積しておくべきか、実に悩むところである。

2024年5月7日火曜日

いちご白書「が」もう一度

https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch
/%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%
94%E7%99%BD%E6%9B%B8/21600/
昔、いちご白書という文庫本を所有していた。(実際には難しすぎたのか、読みきった記憶がない。)1960年代のアメリカ・コロンビア大学での学生運動のノンフィクションで映画化もされた。日本では、バンバンが「いちご白書をもう一度」という歌を歌ってヒットした。この歌は、学生運動から足を洗って企業戦士となっていく若者を自虐的に表現した歌である。この歌には思い出があって、ある先輩が「こんな風にならないための自戒」としてカラオケで歌い上げていたことがある。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-05-07/SD39LYDWRGG000
現在、ハーバード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)で、イスラエルの戦争に対する抗議の運動が加熱している。卒業式ができなくなる事態もよそうされ、大学当局は退去しなければ停学措置も辞さないかまえであるそうだ。ちなみに、コロンビア大学では、卒業式は中止になり、NY市警が介入し、占拠していた数十人とデモ参加者など100人あまりがが逮捕されたという。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-05-07/SD39LYDWRGG000

この記事を見て、私は「いちご白書」を連想せざるを得なかった。現民主党政府は、極めてリベラルという次元を超えた左翼的な政策を打ちながら、イスラエルとウクライナを影に日向に支援している戦争屋として、軍産複合体を肥え太らせている。学生の純粋な政治への不満は、時代を超えて、また復活しているのである。

大谷選手と井上選手は日本の光

https://www3.nhk.or.jp/news/html/
20240507/k10014441951000.html
このところ、ドジャーズの大谷選手は絶好調で、ホームランやヒットを連発している。イチロー同様の打率で、長打が多いという、全く信じられない活躍である。それもリハビリ中なのであるから、まさに超人である。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1354805
一方、昨日井上尚弥選手が、前評判通り、メキシコの悪童・ネリを6回TKOした。1Rでまさかの(プロで初めての)ダウンを喫した。LIVEで見ていたら、心臓に悪かったと思うが、今朝YouTubeで勝利を知ったあと見たので問題はなかった。(笑)かなりハイテンションでボコボコにしてやろうというアクティブな姿勢が見て取れた。私はボクシングには詳しくないので、またYouTubeの「ボクシング解体新書」のネリ戦の解説がアップされたら、是非見たいと思う。

今の日本、売国奴的な政治家によって、まるで日本を滅亡させようとしているのではないか、という風にに見えるほど、どんどん悪化しているのだが、彼ら2人のアスリートの活躍(おっと、忘れてはならないサッカーやその他の競技も含めてであるが)こそが、日本の光であると思う次第。ありがとう、超人とモンスター、2人のアスリート。

2024年5月5日日曜日

シンガポール to マレーシア

https://jp.hotels.com/go/singapore/legoland-malaysia
地理総合の教科書には、様々な統計地図が掲載されていて、読み解くような工夫がされている。世界の観光客の移動状況を示した地図が掲載されていた。これを見て少し驚いた。シンガポールからマレーシアへの観光客の移動がかなり太い線で描かれていたのである。

実は私は、マレーシアに3年半滞在していたが、シンガポールには行っていない。理由は簡単で、物価がマレーシアよりはるかに高いからである。住んでいる人々も中華系が多いし、そんなに気候も風景もマレーシアと変わらないし、マーライオンその他の観光地にも全く興味がなかったのである。

ところで、シンガポールの住民がマレーシアに観光に来るのだろうか。そもそもシンガポールは、マレーシア連邦として独立し、後に離脱したので、(中華系中心だが)文化的にもほとんど変わらない。シンガポールの半島側には、ジョホールバルがある。これは私も行ってみたかったレゴランド・マレーシアがあるのだが、世界地図で示されるほどの観光客を呼ぶとは思えない。私は、ずばり買い物だと思う。前述のようにはるかにマレーシアの方が物価が安いので、国境を超え買い物に来ているのではないか。

でも移動人数はかなり多いので、統計地図に記載されているのだろう。実際に住んでみなければわからない事実である。

2024年5月4日土曜日

GWは中間考査作成週間

https://rinto.life/108211
このGWは、どこへも行かず、中間考査の試験問題と解答用紙の作成に取り組むつもりだった。特に、PCを使った採点に挑戦するので、早めにと思っているわけだ。幸い、総合コースと看護コースの5クラス分は、ケッペンの気候区分とヨーロッパの地名問題と範囲が明確であるので、コンパクトにまとめて昨日終了した。問題は、特進コースである。教科書に沿って授業を進めているのだが、まだ取り組んでいない箇所もあって、行き詰まっている。共通テスト風に、思考を求める問題を作ろうとすると、なかなか難しい。

で、結局今日は何も出来なかった。こんな時は、気分転換するにかぎる。久しぶりに妻と散歩に出かけた。「逍遙」と洒落込んだわけだが、少しずつ構想はまとまりつつある。明日は一気に進めようと思っている。GWも残り少なくなってきた。

2024年5月3日金曜日

ダチョウの話

https://infopicks.net/ostrich/
妻が、ダチョウについてのYouTuberチャンネルを見ていて、「面白いから見てみ。」と勧めてきた。こういうことはよくある。(笑)ダチョウはかなり脳が小さいらしく、(その大きな目よりも小さいらしい)メモリー機能も小さいらしい。面白いことに、それと反比例して免疫能力がすこぶる高く、また自己治癒力がめちゃくちゃ高いらしい。いろんなダチョウの画像を見ることになったのだが、その奇異さに驚くばかりだ。

ところで、ダチョウといえば、JICAでケニアに派遣された時、帰路のナイロビ空港で「ダチョウの卵」なるものを購入した経験がある。特殊な商品(野生ではなく飼育されたダチョウのものであることを断っておく。)なので、税関で申請する必要があったのだが、極めて貴重な教材なので購入した。何年かは、M高校の地理の授業で見せていたのだが、ある時生徒が卵を落として割ってしまった。本人はえらく恐縮していたが、諸行無常・諸法無我である。残念ではあるが、仕方ない。で、廃棄したのだった。(割れた卵は、かなり臭かった。笑)

長さ15cmくらいはある巨大な卵で、目玉焼きにしたら、鶏の何人分にもなるという話だったが、あまり美味しくないらしい。

2024年5月2日木曜日

遠足 飯盒炊爨&BBQ

https://www.ekiten.jp/shop_5803354/
学院の3年生は、今日が遠足で、BBQとのこと。ここ2日ほど天気が良くなかったので案じていたが、晴れてよかったと思っている。そういえば、昔(昭和)は飯盒炊爨と称していた。薪で米を炊き、カレーや野菜炒めなどをしていたのだが、今やBBQである。時代とともに贅沢になっているよなあ。(笑)

T商業高校でも、M高校でも、H高校でも担任の時に、このような遠足をした。T商業高校の時は、大阪市立の信太山キャンプ場で、まさに飯盒炊爨。私が高校時代、野外活動指導者連盟の高校生リーダーであった関係で、慣れ親しんだ信太山にしたのだが、「来たときよりも美しく」というキャンパー10か条の精神が生きていて、ひたすら備品のコッヘルや食器を生徒とともに洗った記憶がある。しかし、肉が余って私に処理を任され、妻が歓喜した記憶もある。(笑)M高校の時は、もうすこしゆるくなって、紙コップや紙皿を使い、レクリェーション的な感じだった。H高校の時は、他のクラスの担任が自前のガスバーナーなどを使って火を起こしてくれた。うーん。高校時代に鍛えた点火のスキルを使えずじまいだったことを記憶している。中にはマシュマロを串刺しにして、残り火で焼いたりする女子もいて、「飯盒炊爨」は死語になった気がした。(ただし、焼きマシュマロは、かなりイケるのでオススメ。)

こういう遠足は、仲間の絆も深めるのでいいものだ。ちなみに、画像を検索していたら、信太山キャンプ場は、「野外活動センター」という名称になりながら、今も存在していた。少しホッとした。

国連の本質と実態考

https://www.unic.or.jp/untour/subgen.htm
地理総合の特進コースでは、超久しぶりに教科書に沿って授業をしている。(仕方がないことだとは思うが)教科書は実に面白くないし、薄っぺらな記述が多い。世界のつながりで、国連についてやることになっているのだが、プリントを作りながら、やはり国連の本質について語るべきだと思った。

国連と日本では訳しているが、United Nationsを直訳すると「連合国」である。すなわち、WWⅡ中の、1941年8月、F.ルーズベルトとチャーチルが大西洋憲章を出し、国連連盟に変わる新たな世界の枠組みを提唱、1945年4月25日から6月26日にサンフランシスコで会議が行われた。ドイツが5月7日に降伏したので、会議の参加資格を得るために残る日本に宣戦布告した国も多い。1945年になってから宣戦布告した国は、エクアドル、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、トルコ、エジプト、シリア、レバノン、サウジ、アルゼンチン、チリなど南米を中心に多いのだが、結局51カ国が10月24日の国連(=連合国)設立メンバーとなったわけだ。

以後、中立国や植民地から独立した国、敵国であった枢軸国(日本やドイツなど)も参加して193カ国にまで拡大した。一般的に、最も加盟国の多い国際組織であることは間違いない。ただ、敵国条項(憲章77条・107条で元枢軸国が侵略行為やその兆しを見せた場合、安保理を通さずに軍事的制裁を行える)は死文化したものの削除されていない。この削除に関しては、1995年の総会でほとんどの国が賛成して決議された。ちなみに反対はゼロ、棄権したのは、北朝鮮、キューバ、リビアの3カ国である。なぜこの3カ国が棄権したのかを考察すると、社会主義国という共通項がある。リビアは、当時はカダフィのもと大リビアアラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ(:カダフィの造語で大衆による共同体制)国と称していた。ソ連とも繋がりが深く、イタリアの元植民地であったことも関係しているかもしれない。ロシアは北方領土の問題で、敵国条項を持ち出したこともあり、中国も同様の立場である可能性が高い。この条項が削除されずそのままなのは、安保理で、この2カ国が1995年決議では賛成したものの、残しておいたほうが有効だと考えている故のようだ。全会一致を避け、棄権した3カ国はそのシグナルだった可能性が高いと私は思う。よって、国連の本質は、今だにWWⅡの連合国である、というのは間違っていないと思う。

とはいえ、連合国だった米英仏と中露の冷戦、冷戦後の対立構造は大きく変わっていない。結局、経済力や軍事力といったパワーバランスが世界を動かしているし、しばしばこの五大国が関わった紛争が多く、国連の平和への理想は、拒否権で左右されてしまうし、総会では最も多くの票をもつ途上国も彼らに左右されていく傾向が強い。中国の一帯一路などという国家戦略は、この流れの中にあるに違いない。ちなみに、国連の分担金の推移は、長らく日本が第2位であった。これを中国が追い越したのは、その証拠であると思われる。中国は、経世在民のガバナンスを取り、国内の治水対策や失業者対策に、もっと金を使うべきではないかと思うのだが…。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/un.html
もういいかげん、安保理常任理事国の国益に左右される国連は解体し、新しい組織を模索してもいいのではないか、特にWHOから日本は脱退してもいいのではないか、などと夢想するところである。