2010年4月30日金曜日

♪ 横雲なびく生駒山~


 突然であるが、私の母校(高校)は、大阪市立工芸高等学校である。その図案科(現在はビジュアルデザイン科と称されている。)出身である。小中と、社会と美術だけは、何があろうと「5」だった。中学では、化学も得意だったので、最初府立工業高専の工業化学科に行くつもりだった。が、ちょうどその頃大阪で化学工場が爆発し、今は亡き親父が「お前はあわてものだからやめとけ。」と言った。その言に納得して、では…と美大に行く希望をもって工芸の図案科に進んだわけだ。ところが世の中には、絵の旨い奴がゴマンといることを知らされた。よって私に残された才能は、「社会」しか残らなかった。こう言ってしまうと「社会」がかわいそうだが、有難いことに、今それで飯を食わせてもらっている。
 タイトルの「横雲なびく生駒山」というのは、母校の校歌である。<写真は当然、母校の正面である。昔は銅ぶきでもっと威厳があった。最初見た時は裁判所かと思ったくらいである。google検索でお借りした写真を使わせてもらっている。>まあ、高校時代はそういう意味で、シュルト・ウント・ウルム・ドランクであり、挫折の連続でもあった。思い出すと後悔することの方が多い3年間であったが、今も母校を愛していることに変わりはない。ちなみに愚妻は3年間を共にした同級生である。(そのことはどーでもいいのであるが…。)
 
 今日のブログの本題は、私が工芸高校図案科卒であることに由来してる。実は、国際交流部の仕事だけでも激務が続いているのだが、本校の新しいパンフレットを少ない予算で急遽作成することになり、教頭から白羽の矢をぶち込まれたのである。「♪私はとまどうペリカン~」などと歌っている場合ではない。A4で4ページ分。基本コンセプトから私が作ることになった。隠れポリシーは、「はじめにコトバありき」というヨハネの福音書の冒頭を置いた。(これは本来の意味のロゴスではない。一般的な意味合いである。)本校が、国語科・英語科というコトバを軸に進学をめざす学校だということを基本コンセプトにおいた。国語科のページは国語辞典、英語科のページは英和辞典をモチーフにデザインすることにした。先週は、なんとかラフスケッチまで出来た。で、今日は本校は遠足なのだが、学校に残り、午前中は、国際交流部通信の本年度最初の号”姉妹校交換留学生報告会特集”を作り、午後からは、いよいよ新パンフレット作りに励んでいた。表紙はなんとか形が出来た。ほとんどデザイナーの世界である。
 当然私は、こういう仕事は嫌いではない。小学校の時は新聞記者にも憧れていたし文章を書くのは全く苦痛ではない。コピーライターの修業も一時したこともある。教師になって、そんな長所や才能らしきものを生かす場が与えられている。結局のところ、人生何にせよ修業したことに無駄は無いということか…と思うのである。 

2010年4月29日木曜日

コンゴのオナトラ船と「猿」論争


 一昨日は、地理Aの砂漠気候の話を書いた。授業進度からいくと前後してしまうのだが、毎年、熱帯雨林気候(Af)の授業で話すコンゴ川を行き来する「オナトラ船」の話を今日は記しておこうと思う。先日コンゴ人に会ったことだし(4月26日ブログ参照)、またアフリカ33景(4月22日ブログ参照)にも関連した文章が出ていたからである。
 オナトラ船というのは、コンゴ川の上流キサンガニ(熱帯雨林気候の代表的な都市の1つ。よく入試にも出てくる地名だ。)と首都キンシャサを結ぶ定期船である。と、いっても時刻表など無意味なくらい不定期な運航状況であるらしい。もちろん、私は乗ったことはない。本で知ったのだった。今回の貴重な画像も、パリ・デ・ランデブーというブログからお借りしたものである。この船は、客を乗せるというよりは、コンゴ川流域の村々と物々交換しながら進んでいく、いわば移動する市場のような存在である。オナトラ船には、食用となるワニと猿が満載されている。つまり、付近の村からカヌーでやってくる人々からワニや猿を手に入れ、日用品を供給するである。オナトラ船自体はゆっくりと動いていいて、かなり危険な取引らしい。初めて、この話を読んだときはびっくりした。ワニは主に口をしばられ生きたママ船内に置かれ、猿はおもに干物や丸焼きになって、いたるところにぶら下がっているいるという。凄い異文化空間である。とはいえ私はナイロビでワニの肉は食べた経験があるが…。(うまくない鶏肉といった感じだった。)
 さて、アフリカ33景で、この猿を食することについて書かれていた。「飢えるザイール(ザイールはコンゴ民主共和国の旧国名)」という著者の記事(キンシャサで組織的に猿の燻製や丸焼きが販売され、消費されていることを報道した内容:おそらくこの猿肉の何%かは、オナトラ船によって運ばれているはずだ。)に人類学者が反論したのである。人類学者氏は、アフリカの伝統と社会的な貧困を同列で扱うべきではないとする。「仮に日本が大災害に見舞われたとして、タコやナマコを食することとだぶらせて報道しているような記事だ。」と批判したのである。それに対して、作者は、この猿を食することは、アフリカでも蔑まれていることをあげ、飢餓寸前の彼らは食べたくて食べているわけではないと主張した。実際に猿肉を売買する人々にカメラを向けると拒否されるという。
 人類学者氏は、”生態系の一員”としてアフリカ人が組み込まれており、外国人はそれをありのままに容認すべきだと言う。しかし著者はこう主張する。アフリカ人の願望を誤解してはならない、生態系の一員に留まることは、マラリア、眠り病といった風土病、伝染病をそのまま容認することに繋がる。そこから脱却したいとアフリカ人は願っている。猿を食するのは、伝統的であっても、飢餓ゆえに伝承したものであり、自分でやめたいと思っても、選択の余地はなかったのである。ザイールは、ベルギー統治時代、その輸出の6割までが農産物であったが、銅景気に酔った政府が、農業振興と輸送路確保を怠ったゆえに飢餓寸前に追い込まれたのである…と。
 この伊藤正孝氏(アフリカ33景の著者)と人類学者氏の論争、かなり深く大きな問題を含んでいる。現場の教師としては、この論争自体を生徒にぶつけることになる。地球市民として是非とも考えて欲しい問題だ。

追記:この”オナトラ船”の記事に、今週1589回ものアクセスがありました。多くの方に読んでいただけるのはたいへんありがたいのですが、何故急に異常なほどのアクセスがあるのか不思議でなりません。最新キーワードの50位にランクされていることはトラックソースで確認できましたが…。正直、気味が悪いので、ここにアクセスいただいた方、どういう経路でアクセスされたのか教えていただけませんか?コメントをいただければ幸いです。(謎が解け次第、コメント削除いたします。気軽に教えて下さい。)10月1日20:37 katabira no tsuji

2010年4月27日火曜日

ラクダに乗れるか否か


 1年生の地理Aは、今年も世界の気候区からやっている。熱帯が終わって、乾燥帯に突入している。ケッペンの気候区分で言えば、BW(砂漠気候)の話は面白い。この気候区は、年平均降水量が250mm以下の地域をさす。定義したら簡単なのだが、かなりえげつない気候区である。ワジと呼ばれる枯れ川がある。私はケニアのAw(サバナ気候区)でも沢山見た。地理の教師仲間の金沢のT先生とキャーキャー言っていた。この枯れ川、なかなか深い意味をもっている。唐突に生徒に質問した。「砂漠気候で、最も多い死因は何か?」およそ高校の授業らしくないのだが、実は重要な質問なのである。生徒は、「水不足」や「熱中症」などと答えるのが常である。しかし正解は、「溺死(水死)」である。
 砂漠気候の降水は、何年かに一度ドパッと集中豪雨として降ることがある。その豪雨が枯れ川をつくるのである。ところで、砂漠を行くキャラバンは、この枯れ川を利用して進むことがある。つまりラクダとともに枯れ川を歩いているのだ。そこに遠くでおこった豪雨の水が鉄砲水として襲ってくるのである。このことは、何かの本で随分前に読み、授業でずっと使わせてもらっている。また1日の気温の日較差が大きいのも特徴。昼間暑いからといって、簡単に野宿してはならない。夜はマイナスの気温になることも多い。私はブルキナのサヘルで半・野宿したことがあるが、全ての衣類を着て、シュラフ(寝袋)にくるまって寝た。
 
 ところで今日の本題である。これも生徒に話したのだが、ラクダの話である。私はラクダが好きではない。ラクダは、家畜の中でもかなり凶暴で、気に入らないと唾を吐く。この唾が強烈に臭い。アフリカのラクダは”ひとこぶラクダ”である。乗るのは、こぶの上であり、馬などに比べかなり高いし、不安定である。こんなラクダに乗る連中は偉大だ。そのラクダに乗るはめになった。ゴロン・ゴロンという街での出来事である。4月17日のブログで登場したトゥアレグ人のアルベリーが、ラクダに乗るオプショナル・ツアーをコーディネイトしてくれたのである。気は全く進まなかったが、これも異文化体験とOKした。ところが、鐙(あぶみ)もない上に、鞍の位置が信じられないほど高いのである。私は腹筋がない。足も長くない。アルベリーやオマーンに無理やり乗せられた時、股が裂けるのではないかと悶絶した。しかも、前で足をクロスさせ、ラクダの首筋に置くよう言われたのである。あほか。そんな態勢でラクダが立ったら、私は左右どちらかに倒れるのは必定である。きっと彼らは物理学というのを知らないのだ。私は、見事に物理学の法則にしたがって落下した。アルベリーもオマーンも必死の形相になった。ここで、私がせめて騎乗(ラクダだが…)の人にならなければ、彼らは大損である。みんなに支えられ、ようやく写真だけは撮ったのである。当然、ラクダは一歩も進まなかった。進んだら、物理学の法則が働くであろう。二度と私は乗らない。とはいえ、アルベリーやオマーンには感謝している。滑らない話を1つ作ってくれたのだから…。

 人間には2種類ある。それは、「ラクダに乗れる人間」と「ラクダに乗れない人間」である。ワガに帰ってから、荒熊氏に「ラクダに乗ったことはありますか?」と聞いてみた。荒熊氏も私同様、ラクダに乗れない人間だった。ちょっと安心した次第である。

追記:明日は、本校の教職員の歓送迎会です。赴任9年目、激務の日々の中、ついに幹事の役が回ってきたのでした。4月はブログ皆勤を目指してきたわけですが、その日のうちに帰宅し、PCの前に座れるか定かではありません。月間皆勤を目指していますが、無理やり達成するために駄文を書くのは美しくないと思います。と、いうわけで明日はおそらくお休みすると思います。スミマセン。

2010年4月26日月曜日

そんなんじゃダメだ!コンゴ人!


 昨日は、ちょっと所用があって昼過ぎに京橋まで出たのである。すると、京阪モールとJR京橋駅の間にまた黒人が所在なく立っていた。私は、以前声をかけたウガンダ難民(1月12日付ブログ参照)だと思い、「ジャンボ、ハバリ?」と声をかけたのだが、「…?」という顔をされた。彼はコンゴ人だったのだ。「英語ははなせるの?」と聞くとわかっているようだったが、凄くシャイな男であった。「私がアフリカに3度行ったよ。」と言うと、「どこに行ったのか?」と聞いてきたので、「ケニアやブルキナや南アやジンバブエ…」と言うとニカッと白い歯を見せた。で、「少額だが」と募金箱に小銭を入れた。
 ところで、である。彼のちょうど正面には、障害者の云々と大書きした幕をはった団体が、拡声器で支援を訴えており、背後では、奨学金云々と書いた旗をもった別の団体がカンパを求めていた。なかなか過激なシチェーションなのである。彼はというと、在日アフリカ難民の支援を訴える例のビラを持ち、首から募金箱をぶらさげているので、よく見ると彼も何かしらの支援を訴えているらしい…とわかるのである。
 私は、「もっと声を出して、支援を訴えなければ。」と励ました。せめて、「エクスキューズミー」とビラを差し出さねば。彼は、判っているようだが、廻りの声に消されて、意気消沈している感じだった。

 彼を見ていると、言葉の通じない完全なる異文化に放り出された『バーンガ』の世界そのものである。(4月20付ブログ参照)それも、戸惑いあるのみである。

 少し彼に聞いてみた。「君が日本に来たのは、政治的な理由か?」「そうだ。」お互いそれ以上の会話が進まない。私でこれだから、フツーの人と会話が進むわけがない。<今日の画像は、外務省の渡航情報のコンゴである。見事に東半分が真っ赤である。超危険地帯である。レアメタルなどの鉱産資源の罠にはまりまくったコンゴ民主共和国である。>彼が、反政府ゲリラであったとは思わない。ゲリラに追われたフツーの人ではないか、と思う。しかし、彼は生きていかなくてはならない。あたりまえの生活を取り戻すために。
 私は彼の肩を抱き、宮田珠己風に、こう言った。「そんなんじゃダメだ!コンゴ人!」

2010年4月25日日曜日

ご姉弟、諺を脱構築する凄み


 昨日のブログの続きである。読者の哲平氏が、このアニメを御存じだとは驚いた。結局、今日も朝早く起きる羽目になり、「ご姉弟物語」を見た。今日の前半の話は、2人がかよう幼稚園で、先生が、諺を元にかるたを作った所から始まる。「長いものにまかれろ」とか「二階から目薬とか」…。姉弟を始め、幼稚園児たちは、この諺をリアルに捉えるのである。すると、長いものにまかれるということは、蛇なんかに羽交い絞めされているイメージとなり、二階から目薬というのは、眼科医が屋根の上から、患者に向かって目薬を投薬するイメージとなる。煙草屋のおばあさんにみんなが教えてもらった「膝が笑う」というのも、膝に口が出来たりしてシュールである。たしかに、これらの諺は、リアルにイメージすると怖い。そして次の日、みんな怯えて絵札を取れなくなるという話なのである。かなり笑えた。最後のオチは、姉弟が新しいバージョン・すなわち怖くない”かるた”を作って、それが幼稚園のオリジナルかるたとなった。メデタシメデタシなのだが、どんな”かるた”なのか、よく聞き取れなかった。残念。
 この「ご姉弟物語」のストーリーは、まさに、デリダの『脱構築』である。広義な意味合いとして、『ある対象を解体し、それらのうち有用な要素を用いて、新たな、別の何かを建設的に再構築すること。』また、『ある対象に隠された、矛盾する(あるいは倒錯している)、無意識下の形而上学を暴き出すための手法。この場合、脱構築された対象は、我々が一般的に認識している観念・概念を揺るがし、覆すものとして現れる。』ということになる。 
 要するに、まず、かるたに使われるような諺を一度解体し、それまでの既成概念を取り去ったのである。幼稚園児という立場が、諺は比喩であるというような既成概念を取り除いたのである。さらに、再構築したのが、リアルな空想である。見事に我々が一般的に認識している諺というものを揺るがしたのである。だから笑えるのである。
 何も、ここまで哲学的に考えなくてもいいのだが、こういう話を倫理の教材として私は使うのである。デリダの脱構築を高校生に説くのはかなり難しい。ロゴス、形而上学、言葉など西洋哲学史の基盤をしっかり理解していないと、ポスト構造主義は説明できない。私は、デリダの脱構築を、いつもソフトバンクのCMで説明している。最初上戸彩の兄が黒人であることからCMが開始された。さらに父が犬であり(彼は「紅の豚」のように変身したことが後でわかる)、母は普通だが、父が勤める学校の校長であることもわかる。どんどんと既成概念を破壊し、再構築されていく。さっき確認でHPを見たら、このファミリーは、白戸と書いて「ホワイト」と読むらしい。この漢字の読みさえも脱構築しているのには笑える。
 このような脱構築の手法は、エンターテーメントや広告業界でよく用いられる。とはいえ、今日の「ご姉弟物語」の脱構築はお見事でした。おそれいりました。

2010年4月24日土曜日

ご姉弟とBOYAKING


 このところ、激務が続いているからか、土曜日は睡眠不足を解消することが多い。平たく言えば昼寝をしてしまう。それも過度の…である。結局、日曜の朝は、いつもどおり起きてしまうのである。朝6時前というわけだ。仕方なく、寝室を出て階下の居間でTVをつけることになる。2週間それが続いた。今日も同様の過ごし方をしたので3週連続になりそうだ。ところで、この2週間、日曜日の早起きが苦痛ではない。日曜の朝は私にとってアニメタイムなのだが(3月14日付ブログ参照)、そのラインナップにもうひとつ新しい番組が加わったからだ。それが、『ご姉弟物語』である。最初は、へんなマンガをやっていると思っていたのだが、これがなかなかいい。うろ覚えだが、ある1話はを紹介しようと思う。姉弟(キャラがいまいち不思議である。今日の画像参照)のもとへ、郵便屋さんがハガキを届けに来る。彼らは、それをまねて、郵便ポストを自作し、ご近所を回るのである。これに東京(HP等を調べると高齢者の多い巣鴨らしい)の下町の人々が答え、彼ら自作のハガキに何事か書いて入れてくれる。ポストは弟の純一郎が被っている自走式である。(笑)ハガキに友への想いを綴るという、忘れかけていたノスタルジーを思い出させてくれた彼らに、ご近所の人々は素直に愛らしく感じるのである。このへんの、ほとんどの日本の都市共同体が喪失した『ほんわかした感覚』がいいのである。
 こういうアニメを子供に見せたいものだ。大阪では日曜日朝6時30分放送である。

 最近の各民放は、不況による製作費削減のためか、やたらバラエティ番組を流し飽食気味である。いつのまにやら、若い漫才師(死語か?)たちを、どんな芸があるのか知らないが「芸人」と呼び、持ち上げ、乱用している。芸人というのは、その人特有の「芸」をもつ人々を指す言葉であって、漫才師なら”やすし・きよし”や”オール巨人阪神”や”Wヤング”といった話芸自体が「芸」と呼べる人にだけが本当の「芸人」なのである。モノマネや手品や…そう宮沢左近ショーのあの凄い三味線を弾くおっさんは、どうしたのだろう。無茶苦茶旨いのである。「アー私なんでこんな旨いんでしょ。」というのが決まり文句であるが、誰しも拍手せざるを得ない。私たちの年代的には、ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの”ハイウェイスター”のリードギターの”サビ”みたいなもんだったのである。あれが、「芸人」である。
 「芸人」もそうだが、「アーティスト」というのも、もうひとつ気いらない言葉だ。彼らは、歌手、あるいはバンド、あるいはシンガーソングライターなのであって、「芸術家」ではない。昔々、サザン・オールスターズが、「勝手にシンドバット」を出して注目され始めた頃、たまたま「ザ・ベストテン」(あの黒柳哲子がやってた伝説の歌番組である)で取り上げられたのを目撃した。後のサザンのことを考えると歴史的目撃者の1人となったわけだ。アナウンサーがなにかほめ言葉を言ったと思う。その時、桑田が「自分たちは芸人である」風の発言をしたのだ。詳しい言葉は覚えていないが、「芸人」という語に、こいつら他のバンドとは違う…と思ったことを記憶している。桑田の「芸人」に対する認識は正しい。

 いいものが脇に追いやられ、たいしたことにないものが持て囃される。これも世の常かもしれませんが、ミナサン!…これは人生幸朗という、いつもぼやいている「芸人」の決まり台詞。こんな感じで今日のブログの〆としたい。

2010年4月23日金曜日

ストロング・マイノリティ・ラスタ



 昨日は、セラシエ皇帝のことを書いた。『ラスタ』についてもっと書きたいと思った。ブルキナで、荒熊氏の文化人類学のフィールド・ワークについて行った経験は、現場の高校教師にとって大きな財産だった。荒熊氏は、都市の文化人類学を研究しているのだが、ストリート・チルドレンの研究などとともに、ラスタの研究もしていた。ラスタとは、主にレゲェ音楽を媒体にジャマイカを中心に起こった「アフリカ」をキーワードにした黒人解放、黒人優位とアフリカ帰還を根幹とする社会文化運動のことである。
 面白いことに、私の職員室での隣席は、卒業式にも来てくれていたジャマイカ人ALTのサンジェイ先生である。一度他の学校に行ったけれど、岩をも貫く一念でリターンしてきた。今日の昼休み、サンジェイ先生に聞いてみた。「エチオピアのセラシエ皇帝のことを本で読んだのだが、ジャマイカのラスタの人々は彼を信じているのか?」
 ラスタの予言の中に、アフリカ皇帝が誕生し、千年王国(キリスト教的な意味で理想郷と言っていいかもしれない。)が実現するというのがある。セラシエが皇帝に即位した時、この予言が現実になったとラスタの人々は大歓喜で迎えたらしい。やがて、パレスチナはアジスアベバであり、モーセは紅海を渡ったのではなく、ナイルを渡ったとか、マリアやイエス、天使ガブリエルもBlackである、という理論が確立したらしい。肌の黒いイエス像やマリア像を私はなにかしらのTVで見たことがある。興味深い話である。
 サンジェイ先生は、深く頷いた。今でもジャマイカのラスタたちは、セラシエを尊敬し、信じているとのこと。サンジェイ先生は「私はラスタではない。」と言った。「ラスタはジャマイカではメジャーなのか?」と聞くと、「サム。ストロングなマイノリティかな。」と答えてくれた。彼は、さらに長々と英語で教えてくれたのだが、リスニング能力に欠ける私には、ここまでしか判らなかった。(情けない…)
 
 <今回の画像は、ブルキナの首都ワガのダウンタウンにあるラスタ的壁画である。>この絵を描いたアダマ(アダムの意)君は、ネスカフェの缶を使ってバイクのおもちゃも作っていたらしい。荒熊氏が、何故ネスカフェだけで作るのか聞いたところ、彼はこう言ったらしい。「ネスカフェは、ヨーロッパ資本主義の侵略の象徴である。ブルキナベの健康を害している。しかも缶はゴミになる。そのゴミをおもちゃにしてヨーロッパ人に引き取らせているのだ。」この話を生徒にするとワリと受ける。みんななるほど…と思うらしい。但し、荒熊氏は「本物のラスタと呼べる奴はあまりいません。カッコウだけのラスタが多い…。」とちょっと不満そうだった。ちなみに、ストリートチルドレンの世界とラスタ」の世界は、直接関係はないそうだ。
 黒人の壁画は、右から、 オバマ大統領、ボブ・マーリー(ジャマイカのレゲェ・ミュージシャン/ラスタに大きな影響を与えた人物)、南アのマンデラ大統領、M・L・キング・Jr牧師、チェ・ゲバラ(よく考えると彼は白人のアルゼンチーナである。だが、絵の肌は黒い。)、パトリス・ルムンバ(コンゴ民主共和国の初代首相で汎アフリカ主義を唱えたが暗殺された。)、クワメ・エンクルマ(ガーナの初代大統領で汎アフリカ主義者。アフリカ統一を夢見たが挫折してしまう。)、そして、キング牧師の死後、暴力的・イスラム的な方向性を示したマルコムX である。

2010年4月22日木曜日

歴史書・アフリカ33景を読む


 火曜日だったか、愚妻に普通の薬局や化粧品店では買えない「某社のクリーム」の購入を頼まれていたので、大阪ビジネスパークという駅で途中下車した。その後、京橋まで歩いて帰ることにした。ツインタワーを突っ切ろうとしたら、『大古本市』をやっていた。財布の中は春だというのに北風が吹いていたのだが、こんな空間を無視して立ち去れるほど私は大物ではない。結局、安そうな文庫本を中心に見て回るはめになった。

 北風の影響で、1冊だけ購入した。『アフリカ33景』伊藤正孝著、朝日文庫。昭和60年2月20日第1刷発行。軽く25年前の本である。目次に並ぶ項目は、「ハイレ・セラシエの日本庭園」、「アミン大統領都落ち」、「アダムソン婦人の死」…などなど。出た時は、”報道”であったろうが、今や完全に”歴史書”である。その歴史書という価値に、私は300円という代価を払った。安い!ちなみに、ハイレ・セラシエは、エチオピア皇帝で、ブルキナで荒熊氏に『ラスタ』(ラスタファリアニズム)について教えてもらった時、その名が出てきて、なるほどそういう風に捉える事ができるのかと感激した人物。アミンは、ウガンダの独裁者、なにかとスキャンダルの多い大統領である。アダムソン婦人とは、「野生のエルザ」を書いた白人のオバンサンである。

 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの項を読むだけでも十分価値がある。ちょっと引用してみたい。『彼は、近代的憲法を作り、国会を創設し、エチオピアを立憲君主制に導いた皇帝だった。奴隷制度を一掃したのもこの人である。しかし半世紀にもわたる彼のエチオピア近代化の努力も、封建制度の再編成にすぎなかったのだろうか。』『皇帝の日本びいきは本物ではなかったかと思う。書斎に入る。西洋人によって書かれたアフリカ関係の本が網羅されている。その中に漢字の本が一冊混じっていた。日本語読本下巻という書名、黄ばんだ表紙をめくると、扉の部分にアムハラ語の書き込みが入っていた。皇帝の自筆のようだ。』『ハイレ・セラシエ皇帝は、1974年の革命の進行中、抵抗らしい抵抗、反撃らしい反撃をしなかった。このことはエチオピア革命における謎とされている。(中略)逮捕された朝、皇帝は自分を取り巻いた軍人たちに対して、「君たちの、国家建設のお手並みを拝見しよう」と述べ、静かにほほ笑んだと言われる。(中略)アフリカの為政者としてはきわめて異例な心境である。日本式庭園での瞑想が、皇帝をこんな東洋的諦観に導いたのだろうか。』

 なるほど、大きい。ラスタの人々が慕うだけのことはある。次の「国家元首の宿命」の項で、1963年のOAU(アフリカ統一機構/今はAUに発展した。)の会議での様子も描かれている。『OAU創設に最も貢献したのはエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝と、ガーナのエンクルマ初代大統領だった。この二人に比べると、今は長老になったセク・トーレもニエレレも、小僧っ子にすぎなかった。』とある。(セク・トーレはギニアの大統領で、完全独立を果たす。「隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」という言葉は有名。ニエレレはタンザニアの大統領である。ウジャマー社会主義の理想を掲げた。)ますます皇帝に興味が出てきた。

 すでに半分ほど読んでしまった。読めば読むほど、面白い話が出てくる。大当たりである。だからこそ、ますます古本市を素通りすることなど出来なくなる身体になるのである。

2010年4月21日水曜日

キべラスラムに Good PeePoo 


 先日、リンクにある『アフリカのニュースと解説』を見ていたら、ナイロビのキべラスラムの話が載っていた。「ナイロビの水虫」事件(2月15日付ブログ参照)で、私は病院から帰り、その日の午後に、キべラスラムを訪れたのだった。<今日の画像は、その時、金沢のT先生が撮影したものである。>最初からびっくりした。フライング・トイレットの話がでたからである。キべラスラムには、上下水道がない。よって、糞尿はプラスチック・バッグ(ビニール袋)に入れて屋根の上に放りあげるのだとの説明を受けた。この時の衝撃は現地に行って、五感で体験しなければきっとわからないと思う。
 そのキべラスラムに朗報なのである。スウェーデンの建築家が、排泄物を入れる袋を開発したのである。缶などにその袋をいれて、サムシングする。封をすれば24時間に臭わず、しかも袋内にコーティングされた尿素によってサムシングは2~3週間で肥料に変わるのだという。Pee Pooという名前だそうだ。すばらしい成果を挙げているとあった。キべラスラムだけでなく、下水道の完備していない都市生活者のアフリカ3にとって朗報である。しかもこれは、大きなビジネスにもなる。
 
 キベラスラム…。「はわゆー。はわゆー。」と声をかけてくれる子供たち。ヤギのフンと雨季の雨水とあらゆる種類のゴミが散乱する道。屋台から聞こえる大音量のレゲェ。冷めた視線を送る若者。日本からきた「白人」を全く存在しないモノのように通りすぎる婦人。エイズの実態を熱っぽく語った看護婦さん。おそるおそるチャイを運んでくれた痩せた若者。そして、見渡す限りのトタン屋根…。

 エイズのカウンセラーが、カウンセリングを受けないと参ってしまうほどの現実を我々は聞かされた。アフリカの深い闇を、私はナイロビのキベラスラムで知ったのだった。

 そのキベラスラムに、人間の安全保障の1つのヒカリがさしたようだ。きっとうまくいく。その名前は、PeePoo。彼らは、きっとこの袋を、”Good PeePoo”と笑って名付けるような気がする。

2010年4月20日火曜日

バーンガ 2010


 昨日に続いて、今日はB組で『バーンガ』というアクティビティをやった。このバーンガ、やるのはずいぶんと久しぶりである。私が担任をした1年C組のLHR以来ではないかと思う。実は、準備がかなり邪魔くさいのである。使うのは、普通のトランプである。但し、時間短縮のために、A~10のみ使用する。これを6セット。社会科準備室にトランプを置いていたはずが見つからない。私の机やロッカーは、本やファイルや国際理解教育の教材で、ごみ山のようになっている。結局また近くの100円ショップに買いに行くはめになった。それから、これが最も邪魔くさいのだが、トランプのルール(セブンブリッジみたいなルールである)を書いた紙を6種類作るのである。それぞれが微妙に違うのである。時計回りにカードを出すとか、反時計回りだとか。数が大きい方が強いとか、小さい方が強いとか。スペードは、いつでも出せるとか、ハートはいつでも出せるとか。それを人数分コピーするのである。インターネットで『バーンガ』で検索するとモデルになる文書を見ることができる。今回はこれを元に少々いじってみた。
 さて、授業はグループをつくることから始める。このバーンガのポイントは、一切声を出さないということだ。それに慣らすため、黙ったまま、誕生日ごとに輪になってもらった。もちろんボディラゲージはOKである。そのうえで、7人~6人のグループに分け、机を4つくらいひっつけてトランプの開始である。それぞれのグループにトランプとゲームのやり方を書いた文書を人数分配っていく。生徒諸君はみんな真剣に読んでいる。で、まあやってみようか、ということで練習を2回ほど。さあ、本番。みんな真剣にゲームに興じるのである。この間にこそっと、全てのルールを書いた紙を回収する。先にカードが無くなった勝者と最後までカードが残った敗者を決める。勝者は時計回りの隣のグループへ、敗者は反時計回りの隣のグループへ移動するのである。実は、ここからが、このバーンガの本番なのである。「じゃあ、2回戦開始!」私の声に、みんなやり始める。すると、あちこちで、声のない言い争いや説得のような仕草、あるいは私に助けを求める声なき声、様々な反応が返ってくるのである。今日もなかなか盛り上がった。「ハイハイ、声をださないで!」と言いながら、無視して「では3回戦!」…中には不平を顔に出す生徒もいて楽しい。同様のトラブル、パニック…。「さて、もうしゃべってもええぞう。」と言うと、口々に「なんでこんなことになるん!」「おかしいわあ!」「もっかいルール見せてぇ!」…いつもは淑やかな女子クラスのB組が、凄い喧騒に包まれた。(笑)こういうアクティビティである。
 このバーンガ、JICA東京でのケニア研修旅行前の事前研修で教えてもらった。私は、結局同じグループで移動することなく、ほとんど牢名主のように、ここのルールは、こうだ!と言い張る役回りだった。なんか変な奴が来ては文句をつけるので「アホか」と言う感じで仕切っていたのを思い出す。実は、このアクティビティは、”異文化理解”のためのものなのである。しゃべらせないのは、言語が通じない状況をつくっているのに近い。移動したメンバーは、一気に異文化に突入し、右往左往するのである。また元のメンバーは異分子の登場にイライラするのである。謎解きを終えると、みんな大いに納得してくれた。なるほど…という声があちことに聞こえた時、チャイムが鳴った。久しぶりなのでどうなるかと思ったが、ホッと一息ついた私であった。

2010年4月19日月曜日

ウーリー・シンキング2010


 今日は、国語科A組の現代社会の授業で、「ウーリー・シンキング」というアクティビティを久しぶりにやってみた。10の命題を立てて、それぞれが関係していることを主張し、互いに同意すれば、自分のチームの毛糸を巻きつけて帰ってくるというものだ。それぞれの毛糸の色が違うので、綺麗なクモの巣状の世界が完成する。本来、命題は、何でもいいのだが、ESDとは何かを教えた直後でもあるし、戦争・環境・宗教・人権・異文化・途上国といった命題を中心に、日本、コトバ、ジャニーズ、このクラスの担任のT先生の名前(ご本人了解済み)の10種類にした。

 なかなか楽しいアクティビティなのである。ワイワイ・キャーキャー言いながら自分の命題と他の命題を結んでいく。例えば、戦争と宗教の命題どうしなら、宗教が戦争の原因になっているとか、宗教が戦争を阻止できるとか、そんな論争がおこなわれるのである。私はいつも「SMAP」というのを命題に入れる。自分の学年のPTAの懇談会で、お母さん方にかなりうけた。案外繋がるものである。今回は、嵐とかいうグループなどが活躍していると国語科のA先生に聞いたので、「ジャニーズ」にしたのだが、男子が交渉役だったこともあって苦労したようだ。

 なんとか形になったところで、毛糸を結びつけられる役の生徒諸君を椅子に座らぜ休んでもらう。ここからが、このアクティビティの第2ラウンドである。実際苦労した話題を質問する。生徒もどんどん話してくれるので助かる。さすがは3年生である。次に、「君たちは今、この世界のどこにいる?」と質問する。みんな、「日本」のそばを指した。(笑)「いやいや、そういう意味じゃなく…。」すると、ある生徒が、担任のT先生を指差した。(笑)T先生は生徒に信頼されているのである。いいじゃないですか。
 第3ラウンドは、この様々な問題を解決するために、毛糸を元にもどしていく。もう毛糸を結びつけられたメンバーに立ってもらう。この時点で授業時間は、あと10分。全てが元どおりになり、机ももどしたところで、チャイムが鳴った。JICAのセミナーに参加した生徒が一言。「プロですねぇ。」ちょっと嬉しい。アクティビティは、ファシリテーターの腕の見せ所である。
 明日は、『バーンガ』を隣のB組で行う。英語科C組・D組で現代社会をやっている後輩のU先生に、こういったアクティビティを伝え、実際に試してもらうのが大きな眼目である。金曜日にU先生に実際にこの2つのアクティビティを見学してもらう。そのための準備である。私に残された時間は決して多くない。

2010年4月18日日曜日

私の下足札は51


 今日は、愚妻にせがまれてお風呂に行って来た。新しくできた高速道路沿いに走ると、いつも行くN温泉に一気に行けることがわかった。で、靴を入れる。私の下足札の番号は51である。脱衣所でもロッカーは51である。51が空いていない時は少し不機嫌になる。そう、51はイチローの背番号である。私は別に贔屓の野球チームはないが(アンチ巨人であり、親阪神であるが、ファンだとは自任していない)、イチローだけは大好きなのである。
 そのイチローが、先日背番号42を着けていた。というより全メジャー・リーガーが42を着けていた。初の黒人メジャー・リーガーであるジャッキー・ロビンソンを記念してのことだ。(4/15は彼のデビューの日である。彼の背番号42は、所属チームだったドジャースのみならず全球団の永久欠番になっている。)
 この様子を見て、私はサチュル・ペイジのことを思った。<今日の画像はサチュル・ペイジその人である>昔、「史上最高の投手はだれか」という文庫本を古本屋で見つけ読んだ。二グロリーグという黒人だけのリーグで、2000勝以上をあげたという凄い投手だ。投球練習の際、ホームベース上に置いた煙草の箱の上をボールが通過するほどコントロールに優れていたらしい。まるで星飛雄馬である。しかもすごい速球で、170kmはでていたのではないか、と言われている。
 しかし、ペイジは少し生まれるのが早かった。、「史上最高の投手はだれか」の冒頭は、ペイジ記念球場と呼ばれるボールパークを探しに行くところから始まる。しかしそれは、ほぼただの原っぱだったのだった。これほどの投手でありながら、活躍したのは二グロリーグ(実力はメジャーより上だったという説も強い)であり、ペイジもメジャーデビューするのだが、42歳では遅すぎた。それでも46歳で12勝を挙げている。岩田鉄五郎もまっ青である。悲運の人なのである。なんと野球殿堂に入ったのが、1971年であった。
 私は、ジャッキー・ロビンソンを悪く言っているつもりはない。彼も初の黒人メジャーとして苦労したらしい。だが、その陰にこんな凄い人がいたということを知っていてもいいんじゃないかと思うのである。人生は光の当たる場所に立つこともあれば、陰で判ってもらえる人だけにわかってもらえる場しか与えられない場合もある、ということである。
 そんなことを考えて露天風呂に入っていると、阪神:横浜戦の中継をTVでやっていた。あの金本がベンチにいた。…連続全イニング記録が途絶えたのだった。

2010年4月17日土曜日

ブルキナのサヘルで井上陽水


 突然であるが、私は70年代フォークの徒である。拓郎・陽水・かぐや姫で青春を過ごしてきた。今朝、いきつけの内科へ糖尿の薬をもらいに愛車を運転していると、陽水の曲が流れてきた。愚息が入れてくれたMDで、いろんなアーティストが陽水の名曲を歌っている。この中では私はユーミンの「とまどうペリカン」と清志郎の「少年時代」が好きだ。ふと、今日のブログで陽水の「東へ西へ」の話を書こうと思った。

 「東へ西へ」という曲にはいろいろ思い出がある。高校時代にみんなで歌った思い出が最も古いが、5年ほど前に、今は某高校の教頭になっているS先生にさそわれて、今年転勤したM先生と共に、文化祭で『きのこのたね』というグループを結成して生徒の前で歌ったことがある。S先生が、この歌を当時3年生だった担任していた生徒に贈ったのだった。「ガンバレ!みんなガンバレ!」のフレーズを熱唱していた。この時私はパーカッションでジャンベ(アフリカのドラム)をどついていた。そう、この時私は、数人の生徒といっしょに”ジャンボ・バナ”(2月16日のブログ参照)を歌ったのだった。

 で、今日の本題である。最も最近「東へ西へ」を人前で歌ったのは、ブルキナの北部、サヘル(サハラ砂漠の南縁)の村である。<今日の画像はその時の様子である>写真左からトァレグ人で遊び人のアルベリー、英語もしゃべれる観光ガイドのオマーン、そして運転手のズゥレである。彼らと首都のワガドゥグからやってきた。アルベリーは、オマーンの友人でギターをつま弾きながらトァレグの歌を歌ってくれた。さすがに遊び人だけあって、歌が済むとさっさとホテルのトァレグと話し込んでいた。オマーンもギターを弾くようで、ポロポロと弾いていたが、私に日本の歌を教えてくれと頼んできた。将来日本人観光客が来た時に歌うのだという。そこで私が歌ったのが、「東へ西へ」だった。ネックが太くてもAmとE7とGくらいで弾けるからだが…。オマーンは、「ガンバレ!みんなガンバレ!」のフレーズが気に入り、何度もアンコールしたのだった。一応「ガンバレ!みんなガンバレ!」については意味を伝えた。他の歌詞は陽水のシュールな世界なので訳せなかったが、まあいい。オマーンは喜んでくれたのだから。

 サヘルからの帰路、自転車で長い坂道を汗だくでこぐ人々を見た。「ガンバレ!みんなガンバレ!」と心の中で歌ったら、なぜか涙が出た。オマーンが私の様子に気づいたようで、「どうした?」と聞いてきた。ブルキナべの貧困や苦労や将来への希望のなさや…全ての重いものが私の感情を一気に刺激したのだと思う。うまく英語で伝えられなかったが、オマーンは、「あたりまえのことだ。我々はあたりまえのことをあたりまえにしている。私も今は4WDに乗っているが、ああやって自転車をこいでいた。」と言ってくれた。
 前回のブルキナの旅で学んだことは多い。アフリカの人々に学ぶことは多い。あたりまえに生きる…重い言葉だと私は思う。だから、簡単に「ガンバレ!みんなガンバレ!」などと言ってはいけないのだ。

2010年4月16日金曜日

日本史Bジャパニーズ・ボックス


 今日も雨である。北海道や東北では雪だそうだ。4月も中旬だというのに、どうなっているのだろう。チベットの地震やアイスランドの火山噴火も気になる。地球が、悲鳴をあげているような感覚である。現代社会の授業で、国際理解(途上国の問題)や人権、平和、異文化理解、そして環境といったESDの柱について、生徒諸君の思い描くイメージやキーワードを聞いていたが、すこぶる気味が悪いほどに環境問題についてのニュースが重なった日でもあった。
 今日の本題は、「受験に関係しない日本史B」での『ジャパニーズ・ボックス』である。3月30日付のブログでも書いたが、今日はそのジャパニーズ・ボックスの発表の日だった。我が「受験に関係しない日本史B」選択生徒は、結局15名だったので、3人ずつ5班に分けて討議させた。元気な班もおとなしい班もある。なかなかおもしろい。いろいろなモノが挙がったが、現実的なもの、女子高生らしいもの、妙に意味深なもの、シュールなもの、様々である。私の選んだ今回のジャパニーズ・ボックス、ベスト3は以下のモノである。

 第3位:日本の国旗(日の丸) 実は、今まで何度かこのアクティビティをやってきたがこんな解答は初めてである。生徒の理由は、「これぞ日本のアイデンティティではないでしょうか?」というもの。なるほど。さらに突っ込んで詳しく聞いた。「赤い丸は太陽である。」「何故太陽が日本?」「天照ですかねえ。」また白地の意味も問うたが「…。」私の思うところは、米をつくる農耕民族で、太陽は恵みの象徴だったわけだ。その神格化が天照だと言っても過言ではない。白は、日本では、清く明かき心を意味すると思われる。日本的善である。きっちりと答えていたら第1位だったかもしれない。
 第2位:魚拓 「白黒の世界がワビサビにつうじるのでは…。」と生徒の説明。なるほど。他の国では魚拓はないのかなあと調べてみたが、なさそうであるが、よくわからない。これも初めての解答である。おもしろいと思う。生あるものが、白と黒の世界に表され、そしてそれは完成された時すでに無いものである。刹那の表現でもある。なかなか面白い視点であると思う。
 第1位:食品サンプル <今日の画像は食品サンプルである>日本の食を表現しきる技術、その細やかな表現が日本そのもだという説明に納得する。これも初めての解答だった。たしかに凄いよな。みんな第1位に納得である。

 その他では、日本のアニメのぬいぐるみ、ペットボトルをリサイクルしたエコ商品、鮮度を保つ醤油、ドラえもんの目覚まし時計、大仏のミニュチュア(ボタンを押すとお経が流れるようなもの…そんなん無いと思うが)、こいのぼり、ひな人形(これに結納が入ったら、松屋町のフクイタヤである)などなど。それぞれが、存在感のあるジャパニーズ・ボックスであった。
 さあ、これが3学期、日本近現代史を講じ終わった後、どう変化するだろうか。これこそジャパニーズボックスだというモノを最後に提案していただこうかと、ほくそ笑む私であった。

追記1:愚息が、またまた日本脱出。今回は超短期間ながら、台湾に出かけていったのでありました。
追記2:今日は、祝!ブログ通算100回です。おそるおそる書いてきたブログですが、私の生活習慣となってしまいました。頻繁にコメントしていただけたからこそだと、読者のみなさんに感謝です。

2010年4月15日木曜日

南京町に絵を見に行く


 今日は創立記念日である。いつしか教職員は年休を取らねばならなくなったが、創立記念日である。前から今日を楽しみにしていた。神戸の南京町に絵を見に行く予定を立てていたからだ。
 一昨年、南京町に行った時に、森康亘さんという方の個展を偶然見た。版木を立体的に彫りこみ、その上に彩画してある不思議な絵だった。モロッコの絵が並んでいた。モロッコの町並みや、皮染めの作業場の絵など、掘りこんである凹凸と彩画が絶妙にマッチしていて、素晴らしかった。「こういう描き方もあるのだ。」と感心したのであった。その森さんから先日ハガキが来た。4月15日から20日まで、同じギャラリーで個展を開くというお知らせだった。ちょうど創立記念日が初日である。何が何でも行こうと愚妻にせまったのであった。<今日の画像は、そのハガキである。>
 今年の個展は、チュニジアとクロアチア、中国、そして日本が描かれていた。相変わらずいい。ハガキのチュニジアの絵も、実際に見るともっと立体的で迫ってくる。階段の1段1段が掘りこまれてあるのである。愚妻は、日本の岐阜県高山の店を描いた絵が気にいったようだ。たしかにいい。欲しいと思った。到底買えるような値段ではないが、こんな絵を飾れる境涯になりたいものだ。森さんにお礼を述べてギャラリーを後にした。
 南京町に来ると、豚まんが湯気をあげていて、つい買い食いしたくなる。今日こそと思っていたのだが、格安のバイキングがあったので、広場近くの店に入った。満腹になり、結局今日も豚まんは次回に回すことにした。ところで愚妻は中華食材を見るのが大好きである。料理が得意であるからでもあるが、ものすごく集中して見て回る。しかし結局キクラゲと、鍼灸院のH先生がマニアである塩(なぜか南京町にボリビアの赤い塩が売られていた)を買っただけである。絵を見に来たのか、中華食材を見に来たのかわからない日だった。(笑)夜、鍼灸院に行った。H先生は大喜びされて、お返しにタケノコをいただいた。

2010年4月14日水曜日

ホームステイ・バンク説明会


 いよいよ、国際交流の仕事が本格的に始まった。今年は、6月にアメリカのアイオワからアーバンデール高校、9月にオーストラリアのメルボルンからマウントウェヴァリー高校がやってくる。今のところ、40名ほどの姉妹校の生徒が本校生徒宅でホームステイをするわけで、その段取りをしなければならない。入学式の日に、早くもY先生が保護者に説明をした。9日には、ホームステイお願いの書類とバンクの登録用紙を全校生徒に配布した。そして今日は、その説明会である。<今日の画像は私が作った説明会のポスターである>40人近くの生徒が集まり、保護者の方も数人来ていただいた。盛況なのか、少ないのかちょっと判断できない。来週のバンク締め切り時点での、申し込み数次第である。かなり胃に悪い仕事である。
 本校生はこういう国際交流には極めて積極的である。昨年も、外務省主催の東アジア高校生大交流計画というのがあって、朝のSHRで「韓国と台湾の2コースあり。とりあえず希望するもの会議室に集合。」と連絡したところ、これも40人ほどが集まった。異常である。(笑)新型インフルエンザによって台湾が無くなったが、結局大阪府の韓国派遣団の半数近く11名が本校生になったくらいだ。このホームステイも、おそらく全校生徒の半数以上ができることなら姉妹校の生徒を受け入れたいと思っているのではないか、と思う。しかしながら、何より問題なのが家の広さである。いくら経済的に余裕があってもマンション住まいはきびしい。私が担任をしている時も、みんな断腸の思いで断念したらしい。しかもこのところの不況。別に特別な料理や、観光などしなくていいですよと言っても、人情としてそうもいかないことも事実である。さてさて、今日説明会に参加してくれた生徒たちは、保護者の方とどういう会話をしているのだろうか。…明日は、本校の創立記念日である。時間はたっぷり用意されている。

追記:リンクを追加しました。”BrukinaFaso清廉潔白な人達の国”ブルキナで幼児教育をされているJOCVのブログです。写真が多く素晴らしいです。ブルキナの人々を心から愛しておられるのが、1枚1枚の写真に出ています。頑張ってください。

2010年4月13日火曜日

3つのコンフリクト


 昨日は、多くのコメントをいただいて大変嬉しく思っている。今日は『3つのコンフリクト』というタイトルで書こうと思う。私の倫理の授業を受けた生徒諸君ならなつかしく思うはずである。倫理の最初の授業で必ずする話である。昔々私が初めて倫理社会を教えた時、某教科書の最後の方に参考として載せていた内容なのだが、教科書を使わない主義の私はプリントにして最初に使うことにしたのである。要するに、人間は、自然・社会・自己自身と戦ってきたという内容だ。自然とのコンフリクトは、寒さ・暑さや疾病・飢餓との戦いである。宗教のベースとなったアニミズムやシャーマニズム、トーテミズムなどの話をした後、私は必ず学生時代の「腸チフス騒動」の話をする。これも私のすべらない話シリーズのうち上位に入る話だが…。
 私が京都で学生をやっている頃、木造3階建てのアパートに住んでいた。隣に変わった先輩がいた。真っ暗な中で座禅をしている人なのである。ある日、友人のY君(彼は現在新潟で小学校の教師をしている)が遊びに来て結局泊まった。私は自分のベッドに、Y君はコタツに雑魚寝である。朝、私の部屋の戸をたたく音がするので「朝からうるさいのぉ」と開けると、真っ白な男が立っていた。白い帽子、マスク、白衣。私の名を確認した後、「失礼します。」と突然消毒を開始したのだ。私はまだよいが、Y君は…。白い男は保健所から来たのだった。隣の先輩が腸チフスになったのだという。「突然ですが、あなたは大の時、紙を何枚重ねて拭かれますか?」との質問を受けた。初対面での会話である。(永年の付き合いでも聞かないだろうが…)私は絶句していると、腸チフスの感染経路を話し出した。(私はここでいつも略図を描く)腸チフス菌は、ポットン便所において、保菌者のエニシングからウツルらしい。他の者が、その菌のいるポットン便所でエニシングすると、それはフォールして反作用が起こる。このサムシングが、付着するわけだ。大阪では”OTURI”と呼ぶのだが、これを拭く際の紙の厚さが、感染率を左右するというわけだ。なるほど…。私は多く紙を使うので大丈夫だと思った。Y君の顔は青かった。その夜、先輩のKさんの部屋で、学生が集まり、緊急会議が開かれた。おもむろに「家庭の医学」という本を書棚から取り出したKさんは、「まず発熱がある…。」と腸チフスの項を読みだした。1人発熱している奴がいて、みんな引いたのだった。結局全員が検便をし、無事だったことがわかったのだが、座禅マニアの先輩はいつしか引っ越しした。と、いう実話である。
 要するに、現在の我々は、腸チフスに勝ったのである。ポットン便所がなくなり水洗になった。問題の原因をさぐり、その対処をするところに科学がある、と高尚な結論に持っていくのだが…。同様に、社会とのコンフリクト、自己自身とのコンフリクトを具体的に説明する。これらは、後に哲学史を語る上で、極めて重要な羅針盤になるのである。タレスやアナクシマンドロス、デモクリトスなどのミレトス学派は、自然について哲学したのである。デカルトやベーコンも自然について哲学した。カントの先天的認識形式なども、いかに人間は認識するかという点で、自然とのコンフリクトにスタンスを置いている。一方、ホッブスやロック、ルソー、コントなどは社会とのコンフリクトを考えた哲学者である。自己自身とのコンフリクト、すなわち人間がいかに生きるべきかという問いかけは、自己自身とのコンフリクトにあたる。実存主義がその代表であろう。
 今日、腸チフスの話をした現代社会演習の4人には、これからギリシア哲学を語っていく。その根幹をなすのは、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの三代の師弟である。この3つのコンフリクトで整理すると、極めて判り易くなるのである。<今日の画像は、ちょっとありきたりだが…美瑛の”哲学の木”である。>

2010年4月12日月曜日

サバイバルイングリッシュの話


 今日は朝から、学研都市線がまたまたトラブって超満員電車の登校となった。今日から本格的な授業が始まるというのに…である。今日の時間割は1・2時間目が、新1年生の地理Aである。30年目とはいえ、初めての生徒なので、それなりに緊張する。4限目は日本史B、金曜日に授業を1回したのであまり緊張しない。7限目が現代社会で国語科A組。これも初めての授業である。50分授業が4発。かなり疲れた1日であった。社会科の授業と言うのは、まず興味を持たせることが大切であると思う。だから、次の授業を楽しみに思ってもらえるよう、特に第1回の授業での『つかみ』がプロフェッショナルとしての腕の見せ所である。
 7限目の現代社会の授業では、地球市民の記憶の話をして、ちょっとアメリカの話を入れてみた。R66を見に行った時の話である。ロスまでタイ航空で行ったのだが、ここから、地下鉄でダウンタウンまで行った。「地球の歩き方」には、絶対やめるように書いてあるルートである。途中治安の悪い地域を通るからだが、そこで、こんなことがあった。
 この辺は地下鉄というより地上の鉄道なのだが、ある駅ででっかい黒人が乗ってきた。それも『ニシキヘビ』を首に巻いて、である。私は当然偽物だと思っていた。黒人の家族が座っていて、ちっちゃい女の子が、「おにいちゃん、それホンモノ?」と聞いた。蛇の頭の部分は、彼のシャツの胸ポケットに入っている。で、彼はニヤッと笑って、頭の部分を出した。舌がチョロチョロと出ているではないか。「ひぃえー」と私はのけぞった。女の子もその家族も奇声をあげた。彼は、またまたニヤッと笑って次の駅で降りたのであった。なるほど、「地球の歩き方」もたまには、本当のことを書くのだと思った次第。
 ロスのダウンタウンから、アムトラックというUSのJRのような列車に乗ってメキシコ国境の街サンディエゴへ向かった。全車2階建。<今日の画像は、そのサンディエゴの駅とアムトラックである。>貧乏旅行だったので、安宿を探した。YMCAは部屋が気に入らず、結局3時間ほどウロウロして1泊$30の安いホテルにリュックを置いた。今時クーラーなし、扇風機と白黒TVである。(笑)汗を拭いてベッドに腰掛けた。バキッという音がした。なんとはずした眼鏡を壊してしまったのだった。裸眼でも車は運転できるので支障はないが、地図や文庫本が読めない。カウンターのベルを鳴らし、オーナーに近くの眼鏡屋の場所を聞いた。オーナーの書いた地図をもとに慌てて行ったが、もう閉まっていた。サンディエゴから、レンタカーで走ったのだが、なかなか眼鏡屋が見つからない。(まあ運転中そんな余裕がないのと、田舎ばっかり走っていたし、ラスベガスは夜だったし…)で、結局6日後にサンディゴに戻って、また同じ安宿に1泊した。そして、ついに眼鏡屋に行けたのだった。その前に辞書を見て英作文をした。『眼鏡が壊れたので修理してほしい。』しかし、その紙を忘れてしまったのだった。(何してんねん!と自分で突っ込みを入れた。)結局、私は、眼鏡屋のオバサンに、壊れた眼鏡を見せて、こう言ったのだった。「Help me!」
 なかなかいい『つかみ』となった。地球市民は語学力ではない。多くの多文化と共生する”意思”なのだ。

2010年4月11日日曜日

ブルキナの赤い土 その2


 今夜は龍馬伝を見るのをやめて、鉄腕DASHのソーラーカー日本一周完結編と6チャンネルの”ウガンダ”の井戸掘り&カマドづくりを、チャンネルを切り替えつつ見ていた。ソーラーカー・ダン吉は、7年5カ月やっていたらしい。最初から見ていたので感無量である。それだけ私も年をとったのである。そのまま見ていようかと思ったのだが、ウガンダの方が気になって結局6チャンネルに合わせてしまった。変な演出を民放はすることがあるので、好きではないのだが、思いのほか真面目に取り組んでいた番組だったので良かった。最近アフリカのニュースや、こういった番組がちょくちょく見られるようになり、嬉しい半面、ちょっと複雑な気持ちである。日本はアフリカに学ばねばならないこともある。先進国の傲慢な視線はどうも好きになれない。嫌味である。

 さて、TVを見ていて、Iさんの話をまた書こうと思った。<今日の画像は、私がブルキナで泊まったNPOの事務所前の写真である>子供たちの後ろにあるのは、井戸を掘る機械である。Iさんに言わせれば、もう役に立たないスクラップだという。庭には、パイプや先端のビットも置いてあった。Iさんは、ブルキナに来た当初、井戸掘りに情熱を燃やしていたという。村の長とのなかなか進まない話し合い、40℃を越える灼熱の中での作業、マラリアにかかったことも判らなかったという。大変な苦労をされたのだった。
 最近は、カンボジアで、せっかく掘った井戸がヒ素に汚染されていたりと、様々な問題も起こっている。しかし、井戸掘りは『人間の安全保障』の中でも重要な要素である。今日のTVを見ていて、全くの素人のIさんが50を過ぎてやっておられたことを思い出した。生半可な情熱ではない。

 その頃、Iさんはフランス語も満足にしゃべれなかったはずだ。今では全然問題ないが、最初は大変だったと言われていた。ひたすら頭が下がる思いである。私にとっては、フランス語地獄のブルキナであった。私もフランス語の初歩を勉強したのだが…。
 ブルキナに行く前に、こんなことがあった。その日も足が痛くて、寝る前に愚妻と愚息に足をマッサージしてもらっていた。「ありがとう」と言おうと思って、スワヒリ語で”アサンテ”と言ったつもりが、フランス語で”アシャンテ”と言ってしまった。愚息が「…?おかあさん、お父さんがオカシイ。『はじめまして』って言ってる!」と大騒ぎになったのだ。愚妻は「ついにボケたか…。」と吐き捨てるように言ったのであった。嗚呼、私のフランス語地獄は行く前から始まっていたのだった。   

2010年4月10日土曜日

地球市民の記憶 ガボン


 昨日ボーッとTVを見ていたら、パリの映像が映った。NHKの街歩きの番組である。そういえば、昨日最初の授業があって、パリの話をしたのだった。”現代社会演習”という名の「倫理」を教える授業である。何故パリの話になったかというと、私の授業は、全て『地球市民』を育むためにあると、説明しやがて、このブログにもある”地球市民の記憶”の話になった。いろんな国の人と対話した経験が異文化理解のためにも重要だと話していて、なんとなく『ガボン』を挙げたのだった。生徒は、ガボンなんて国を知らなかった。オイオイ! で、「シュバイツァー博士って知ってるよな?」…?オイオイ!「小学校の図書館に世界偉人伝シリーズであっただろう。」…!という感じでガボンを紹介する。私が、ガボン人と会ったのは、なんとパリのエッフエル塔の下である。昨夏パリ経由で、ブルキナに行く時トランジットが23時間もあったので1泊したのだった。私のパリの印象はすこぶる悪い。フランス語地獄だった。ホテルから、ユネスコ本部を経て、エッフエル塔まで歩いてきた私はかなり疲れていた。<今日の画像は、CanonEFで撮ったエッフエル塔である。クリックして拡大するとちょっと面白い画像になるハズ。>フランス人の中華思想というものをイヤというほど知らされたのだが、最大のパリでの良い思い出は、ガボンの人々との対話だった。彼らは、フランス語圏なのに、エッフエル塔のお土産を売っている関係で英語を話したのだった。塔の下で、集団でお土産を売っている彼らを、私はベンチに座って1時間ちかくウォッチングしていた。彼らは、いかにもといった白人を狙って声をかける。なかなか売れない。だが、しつこくない。すぐ次の観光客に狙いを定める。なんといっても屈指の観光地である。次々に獲物はやってくる。統計を取ったわけではないが、30人にあたって1人くらい買ってくれるような感じだった。子供連れが狙い目だ。子供にきらきら光るエッフエル塔のキーホルダーを見せて歓心をかい、親心に迫るというコンセプトのようだった。やがて、彼らの1人が私のところにやってきて「いらないかい?」と英語で聞いてきた。「どこから来たの?」と聞くと「ガボン」だと言ったのだった。「みんなガボン人か?」と聞くと「セネガル人もいる。」とセネガル人を呼んできてくれた。「あんまり売れないね」と言うと、2人とも笑った。どうやら、このグループを仕切っているボスが集合をかけているようだ。「じゃあ。」といって彼らは去って行った。
 これから、ブルキナへ行くという日に、同じアフリカのフランス語圏の人々と接したわけだ。彼らは宗主国で生き延びようと必死だった。彼らの未来を勝手に想像した。国から親戚や友人を頼って出てきた。とりあえず食を得るために、不本意ながらこのお土産売りをしている。でも小金を貯めてさらなる飛翔をはかろうと考えているのだろう。学校へ行くのか、店を持つのか…。私は「ガンバレよっ」と心の中で合掌したのだった。
 授業で教えるガボンは、産油国でもあり多少なりともアフリカでは裕福な国である。とはいえ、他のアフリカ諸国と同様の様々な問題をかかえている。ちょっと調べてみたら、エボラ出血熱も流行したようである。こんな”ささやかな出会い”でも、地球市民の記憶=異文化理解の輪は拡がる。そんなことを、たった4人の現代社会演習の生徒に説いていたのだった。

追記:今朝、H鍼灸院に行って来た。例の酸素不足は十分元に戻ったらしい。快調である。(ちなみに、理学療法士りり~さんのコメントにあった指先で酸素量を測る器械は、H鍼灸院だから…あるとのこと。)帰ってから3時間も昼寝してしまった。ちょっと過労気味だったのかな?

2010年4月9日金曜日

松屋町の『きたなシュラン』


 今日は、離任式であった。U先生、国語のM先生、そして英語のM先生が出席していただけた。いつも離任式は生徒がしっかり聞いてくれているのだが、今日は特別しっかり聞いていてくれていた。頭も動かない。U先生の離任の挨拶は素晴らしいものだった。茶目っけたっぷりに、しかも教師としての本分を”凜”として伝えられた。U先生最後の生徒へのスピーチだと思うと目頭が熱くなった。国語のM先生の話もよかった。自分の病気の話をユーモラスな語り口で説いてくれた。みんなシーンと聞いていた。英語のM先生の話もよかった。彼の美学に彩られていた。特に、最後に「私的な挨拶ですが…」と言って、口調を変え、愛するバレー部に辛口の檄を飛ばしたのだった。私の知る限り最高の離任式だったと思う。 

 さて、昨日の血液中の酸素不足の件だが、今日も尾を引いていた。普通でも足の太ももが堅いというか、”元気玉”がウロウロしているというか…なのだが、今日はとにかく足が痛かった。昨日H先生は「水を飲み、塩分を控えるようにしてください。」と言っていたのである。で、塩分を…と思ったらハタと気づいた。

 最近、松屋町筋ぞいの某食堂にかよっているのだが、そこの店は塩分が高いのである。この店は、昨秋くらいから、本校教員が続々と通いだした『きたなシュラン』である。とにかく安い。私の大好物はかつ丼であるが、なんと450円なのである。近くのたこ焼き屋の「やきそば」500円より安いのである。かつ丼にはなぜか、サービスでエビの天ぷらが1本入っている。不思議だ。漬物も山盛りで塩分がきつい。そして最後にバナナが1本つく。職員室に、バナナを持った先生が帰ってくると、そこに行ったことが明白になる。うまくて安くて、エビ天も入ってバナナつきである。そういえば、今週は月曜は愛妻弁当、火曜はかつ丼、水曜はかつ丼、木曜はたこ焼き屋のやきそば、そして今日もかつ丼だった。3日も『きたなシュラン』してしまったのである。…塩分過多である。

 こんなことをしていては、えらいことになる。私はダメになる。…と思った離任式の日であった。

2010年4月8日木曜日

新学期・入学式・定期券


 新学期である。始業式があり、入学式があった。天気も良く、大阪のダウンタウンにある本校の桜も満開ちょっとすぎといった日和であった。めでたい。<本日の画像は日曜日のものであるが…>

 ところで、大阪市から、先日次のようなお達しがあった。JRを利用している教職員は、定期券を分割した方が安くなるので、分割しなさい、とのこと。私の場合、学研都市線の津田―京橋間である。6カ月で54440円。これを津田-住道と、住道-京橋にすると30240円+24190円=54430円になり、市費を削減できるという。たった10円である。(笑)で、津田駅に行ったら、継続のイコカをこのように変えると、残りの日数は返金できないとのこと。なんか、あほらしくなってその日はやめた。次の日、京橋駅に行ったら、その分(5日分)をペラペラの旧定期券にしてくれた。9日から書きなおしたイコカを使えばいいですよ、とのこと。津田駅のJR職員、悔い改めよ!(怒)である。というわけで、今日まで春休みはペラペラの定期券で通勤してきた。私は血糖値の関係で、よく地下鉄の別の定期を持っているのにイコカで地下鉄まで乗ってしまい、イコカの電子マネーが作動し230円損をしたりすることがある。間違ってJRでイコカPiでもしようものなら、470円ほど損をする。何のためのペラペラ定期か?となる。これが恐ろしいので、明日から有効になるイコカを財布から出し、鞄に隠し持っていた。
 せっかくのペラペラJR5日間有効定期券が無駄になってしまいそうで、いらん心配というか、怖い思いをしてきた。ふっーである。たった10円のためにと思うと、かなりバカバカしい。

 聞くとことによると津田駅の2つ向うの長尾から通うY先生の場合だと、なんと5000円も節減できるそうだ。

追記:今日、ブログを書いてから、ホームドクターのH鍼灸院に行って来た。H先生が私の『脈診』をしたのだが、慌ててなんかの機械を持ってきた。人差し指に挟んだその機械のデジタル画面には”90”とある。「何ですか?」と聞くと、血液中の酸素が少ないらしい。”90”もあるじゃないかと思ったのだが、フツーの人は”99”だそうだ。結局ハリを打つ前は、最高でも”93”だった。全ての治療が終わって”96”にまで回復した。さすが神様である。とはいえ、「”90”なんて、フツーの人なら倒れてますよ。」と若手のS先生。H先生も「高地トレーニングしてる感じだと思いますねえ。」と最後まで心配顔だった。煙草の吸いすぎ?仕事の過労?それとも…定期券から来た心労なのだろうか?(笑)<22:37記す>

2010年4月7日水曜日

ブルキナの赤い土 その1


 「モザンビークの青い空」という本がある。ポルトガル語もできないのに、単身モザンビークに渡りビジネスを成功させた中年オジサンの話である。ビジネスはまさに紆余曲折。現地の子供を養子にもしている。私は、昨夏ブルキナファソに行った時、このオジサンより、はるかに凄い人物と出会った。それが、Iさんである。私がIさんの生きざまを本にするとしたら「ブルキナの赤い土」と題すると思う。それが、今日のタイトルの意である。きっと一回では無理なので、その1とした。

 今日、Iさんのことを書こうと思ったのは、たまたま昨日、私のブログのリンク先をチェックしていたからである。ここで、ちょっと寄り道をして、リンク先を紹介したい。トップにある「赤提灯…」は最初に読者になっていただいた荒熊さんのブログである。某大学の博士課程に籍を置く文化人類学者さんである。(この方も凄い人である。Iさんと同様ブルキナで知り合った。)次が、Iさんのブログ。久しぶりに記事が載っていたのである。昨日は嬉しくてコメントしてしまったのであった。3つ目もIさんのHP。ブルキナで孤児院をつくることがIさんの夢の1つである。開発経済学テキストで紹介した「詩」もここから引用させていただいた。4番目の「そこはかとなく…」は、ケニアに一緒に行った金沢のT先生のHPである。お世話になりっぱなしの地理の先生である。さらに、5番目の「りり~の部屋」、6番目の「☆あかばる☆」は、先日枚方で会ったOBのブログ。内容がおもしろい。次の「アフリカのニュースと解説」は時々目を通している情報源。私のお気入りのブログである。そして、貴重な読者である哲平さんと知り合うきっかけとなった成毛眞さんのブログとなっている。最後は説明無用のHPである。

 Iさんは、ブルキナで自立した経済的地位を得るため、また孤児院の建設・維持費用捻出のため、さらには、何年も先になるがの孤児たちの雇用先として、居酒屋をやっておられる。私が、ブルキナに行った時はちょうど工事が完成するかしないか、の時であった。<上記画像は昨年8月上旬の様子である。愛機CanonEFで撮影>私もちょっとだけ、ペンキ塗りを手伝った。門の同心円の部分である。その後、居酒屋:和が家はずいぶんとりっぱになっていた。一度「西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし」の2月6日付記事にアクセスしてみてほしい。店の前も整備され、店内にも私がお土産にもっていった松屋町の旗屋さんの吊旗「茶」が写っている。ブログが長いこと停まっていたのは、きっと水害や様々なトラブルや心労や、読売TVの取材(ぐっと!地球便で昨年Iさんのことが紹介された。)やなんかがあったからだと思うのである。

 と、ここまで書いて、アリナミンAのCMのように右肩が…固まった。続きはまたいずれ書くことにしたい。

2010年4月6日火曜日

Africa ガバナンスの善し悪し


このところ毎日新聞の国際欄に、ジンバブエやスーダンのニュースが大きく取り上げられていた。新聞は、その日のニュース量で扱いが変わるものだが、アフリカを常に注目している私としてはありがたい。ジンバブエのニュースは、ハイパーインフレがようやく収まりかけているとはいえ、食糧不足と失業(なんと9割)という難題を抱えた中、ムガベ大統領が、次の大統領選にまだしつこく出馬するとのこと。まさにアホちゃうかといったところ。スーダンの方は、反政府勢力が、大統領選をボイコットするとのニュースである。スーダンのバジル大統領は、ダルフール問題で、人道に対する罪で国際刑事裁判所から逮捕状が出ている人物。やれやれである。またNHKニュースでは、セネガルの大統領が思いつきで立てた独立50周年の銅像(自由の女神より5m高い北朝鮮製)が完成し、入場料の35%が大統領のものとなるという。反対のデモが押し寄せ、「無駄遣いだ。この費用(25億円)で病院が10立つ。」と気勢をあげているという内容をやっていた。

と、いうわけで日曜日のNHK特集の話である。「アフリカンドリーム」の第1回。”ルワンダの奇跡”をブログ上で再録したい。

この画像は、ルワンダの首都キガリの写真である。NHKのHPから引用させてもらった。今、ルワンダは例の94年の大虐殺を乗り越えて、驚異的な経済発展を遂げている。その原因は、やはり”ツチ人”と”フツ人”の対立と調和にあった。そもそもベルギーが植民地時代、言語も同じだった人々を、鼻筋が通っているから優秀と見なされた少数の支配階級の”ツチ”とそれ以外の多数派”フツ”に分断した。独立後、長年の恨みがフツによるツチへの大虐殺という形で現れた。この時、あるいはこれ以前に欧米に出て行った”ツチ”の人々がいる。彼らはユダヤ人の「離散」の言葉を借りて『デイアスポラ』と呼ばれている。欧米で教育を受け、様々なスキルを身につけ、資金を持つ彼らは、国を建て直すために祖国に帰って生きたのである。その数100万人。ルワンダ全体で1000万だから、かなりの比率である。現在のカガメ大統領もディアスポラの1人である。大統領もディアスポラへの税の優遇を進め帰国を応援してきた。「アフリカ1」の彼らは、祖国に資本を蓄積し、消費し、様々なスキルを元にビジネスを起業し、国家再建を果たそうとしているのである。
だがここで、問題がある。”フツ”の人々との問題だ。政府は、いち早くIDカードから”ツチ”と”フツ”の記載を無くし、国民国家としようとしている。(私はこれは凄いと思った。)ディアスポラの帰国で、資本が蓄積され、様々なビジネスが起業され、首都は繁栄に突き進んでいる。しかし、多くの”フツ”の人々は、地方の農村で「アフリカ3」として暮らしている。この格差をいかに止揚するかが、ルワンダという国の将来を決めるといっても過言ではない。互いの不信感は極めて大きい。番組の後半は、”フツ”のコーヒーを生産する南部の村に、”ツチ”のビジネスマンが、コーヒー工場をつくり、輸出も手掛けるという共生のビジネスを持ちかけるケースを紹介している。結局、利益の配分は、50:50で契約したのである。(これは考えられないほどの農家の利益率である。)”ツチ”のビジネスマンは、虐殺で”フツ”に殺された母の言葉を大切にしてきた。「”ツチ”と”フツ”は必ず一緒に生きられる。何故なら私たちは同じルワンダ人なのだから。」…”フツ”の人々を少しずつ「アフリカ2」にしていく、この戦略。私は感激した。

いい番組だった。思わずメモを取りながら番組を見てしまった。(現在、我が家はビデオもDVDも使用できないのであった。)
今のアフリカは、まさに『ガバナンス』の善し悪しが、幸福度を左右するのである。こうしてみると、ポール・コリアーの提案(1月28日付:デモクレイジー/民主主義がアフリカ経済を殺す参照)は具体性をもって迫ってくると私は思うのだが…。

2010年4月5日月曜日

空堀かるた 読み札決定!


 今日は、アフリカのことを書くつもりだったが、下校間際になって教頭先生が、重そうな紙袋を持って私の名前を呼ばれた。空堀かるたの入選作が確定したそうだ。紙袋には、かるた絵の為に私がお願いした小ぶりのケント紙300枚と、リキテックス24色セットが6セット入っていた。と言うわけで、急きょ予定を変更して、今日はかるたの話としたい。国語科の今年の卒業生の作品が8首(新3・2年生は1首ずつ、計10首)読み札として入選し、優秀作品として1首が選ばれた。48分の10が本校生の作品となったわけだ。応募総数は1480首というから、K老師もA先生も、2年生のT先生も、生指のY先生も大喜びだった。読み札の入選作を、イニシャルで速報しておきたい。<画像は読み札決定を伝える「かわら板」拡大が可能>
 
 <読み札:いろは順>
 はしゃいでる 扇の校舎を 見上げふふっ  H君(OB)
 賑わいの 中にひっそり 石畳       Yさん(OG)
 近松の 墓のみ残す 法妙寺        Kさん①(OG)
 和菓子屋の 店先輝く 金平糖       Oさん(3年)
 ただいまや 行ってきますを 言える町   Nさん(OG)
 けんけんを したくなるのは しかたない  Mさん(2年)
 歩きづらい それが良いのだ 観音坂    Yさん(OG)
 瞳(め)が合った 野良猫佇む 店の角   Sさん(OG)
 戦災に 耐えて佇む 長屋群        Kさん②(OG)
 ん~とこしょ 石段登る おばあちゃん   Kさん(OG)
 <優秀作品>
 自転車と 犬と杖と 制服と        Hさん(OG)

 Kさん①②とあるのは、同一のOGの作品である。たいしたもんである。
 いよいよ新学期の始まりと共ににかるた絵の製作開始である。仕事が山ほど…。これも暇よりは、ありがたいと思っている。
 
 追記:愚息が、さきほどフィリピンから帰国した。荷物が思いのほか少ない。いっぱしの…である。 

2010年4月4日日曜日

吹奏楽・筝曲演奏会ハシゴの日



 今日は、31日のブログでも書いたように、3つのクラブをハシゴする1日であった。まずは、ブラバンの定期演奏会である。本校は小規模校(1学年4クラス)ながら、ブラバンの部員数は1クラスくらいになる。昨年度は関西大会にも進んだ。なかなか頑張っているのである。N先生というフルートのプロの演奏家が指導して下さっている。彼とは顔なじみなので、金曜日にも少し話をした。今回も、なかなか聞かせてくれた。第一部は、「カタロニアの栄光」「ミス・サイゴン」(あのミュージカルのミス・サイゴンから4曲である。)「The Seven Night of July」といった曲である。N先生がタクトを振ってくれた。聞き苦しいハズレ音なし。さすがである。第2部は、毎回コミカルな曲をやってくれる。今回は寸劇を挟んで、ピンクレディーのヒット曲やETのテーマなど。ちなみに私は、ピンクレディの曲では、「渚のシンドバット」が一番好きなのだが、演奏されなかった。(笑)第3部は、「第六の幸福をもたらす宿」の組曲、そして最後にガーシュインの「パリのアメリカ人」である。変なことに気付いた。N先生が、フルート奏者なので、最初に、フルートかピッコロから始まる曲が多い。(笑)でも、たくさんのOB・OGに会えたし、十分満足させてくれる内容だった。ブラバンのみんな、ありがとう。
 次の筝曲部の演奏会は、15:00からである。アンコール曲が終わり、慌てて会場を後にした。千日前線のホームには、すでに先客のT先生がおられた。彼女もハシゴ組らしい。ともに、高津宮へ急いだ。もう一人ハシゴ組がいたのである。F教頭先生。なんと自転車で移動されてほぼ同時刻。西長堀から谷九まで…。恐るべし…である。高津宮には、顧問のA先生、Y先生を始め、ダーリンを連れたT先生も来られていた。花見客でごった返す中、筝曲部の現役が、「さくら協奏曲」「六段の調」等を弾いてくれた。まさに花見客気分である。OB・OGが、先日、本校の庭で引いた…また名前を忘れたが、…の「コナユキ」を弾いてくれ、最後は、現役が本校筝曲部のテーマ曲のようになっている「タッチ」を見事に弾いてくれたのであった。よっかたよ、筝曲部。
 16:00学校着。最後は、女子バスケット部のOG会である。体育館に行ったが無人である。「…?」主顧問のK先生に電話したが応答なし。我が学年のOGにメールを入れたら、やっと教室で茶話会をしていることが判明、駆けつけた。なつかしいOGの顔を見れて、安心して下校したのであった。

 今日は、20:00から龍馬伝、21:00からNHKスペシャルでアフリカを特集する。急いでブログを書いたのであった。…忙しい一日であった。でも、頑張っている生徒の顔や、なつかしいOB・OGの顔を見るのは、やはりいいものだ。

2010年4月3日土曜日

Lost Symbol ロスト一般教養


ダン・ブラウンの小説は、うちの愚妻が大ファンで、「ダ・ヴィンチ・コード」・「天使と悪魔」と出るたびに買っては読み、している。(私も毎回おこぼれにあづかることになっている。今朝完読した。)今回の「ロスト・シンボル」も同様である。ダン・ブラウンは、構成がうまいというのが、我が家の結論で、今回も十分面白かった。次回作の舞台は、愚妻はチベット、私はエレサレムであると主張し、両者譲らないままである。なぜ我が家でうけるかと言うと、この3作品とも、極めて宗教学的な素養を主題にしているからである。我が家は、こんな本が大好きな一家である。(笑)
 
 本来の刊行順では、バチカンを舞台にした「天使と悪魔」、さらにイエスの末裔を主題にした、「ダ・ヴィンチ・コード」と、共にヨーロッパの歴史とキリスト教的教養をかなり要求される極めて知的な小説でなのである。今回の「ロスト・シンボル」は、ワシントンD.C.が舞台であり、フリーメーソンが題材である。フリーメーソンは、かなり謎の多い団体であるが、ダン・ブラウンは好意的に書いている。フリーメーソンは、宗教的な問題は重視するが、特定の宗教を中心に置かないので、アメリカ史を含めて、欧米的な文明と宗教的教養、それに今回は世界的な(欧米外の)宗教的教養も含まれるのである。
 
 とにかく、このような欧米『文明』の、知的探索を主題にした小説を読むためには、かなりの一般教養が必要となる。教養なしに読んで、興味を持ち新たな読書欲を持つのも良しである。生徒にも勧めたいが…。

 日本では、このような欧米人が普通見につけている教養を、異文化圏でもあるし全くと言ってよいほど見に着けていないのが現状である。私は、少なくとも基礎的なことぐらいは知ってないといけないと思っている。ユダヤ・キリスト教的伝統。創世記やアブラハムとイサクの話も知らず、欧米で信頼関係は築けないのではないか。ギリシア・ローマの神話や哲学の素養も極めて重要である。私の職員室の机上に、アメリカの小学生の教科書がある。(もちろん半分日本語である)このあたりのヘレニズム・ヘブライズム的素養は、我々日本で言うところの信長・秀吉・家康級の常識である。当然、自文化理解の必要性を私も痛感するので、日本では小学生から教える必要はないが、高校・大学では、一般教養として得るべきだと思うのである。
 
 以前何かの本で、イギリス人の知的エリートは、大学で、ギリシア・ローマとラテン語をやり、実学は修士で学ぶとあった。うちのイングランド人のALTに聞いたら、「オフコース」と言われた。「だから私はホンモノなのだ。」と胸をはったことがある。(3月5日付私のブログの、アイスコーヒーを否定するL先生の言である。面白すぎる奴なのでちょっと信用できないが…。)
 なんか、また昨日のブログで書いた「反3回生就活論」の続きになるが、日本の教育システムは、うすっぺらいのである。自分で教養を高めるよう頑張るしかないのである。ガンバレ!教え子たち。

2010年4月2日金曜日

学生時代に1tの本を読め!


私のブログの常設ページ(右側のアーカイブ、ラベルの下のガジェット参照)に、今春卒業した生徒に渡した『学生時代に1tの本を読め!』を掲載した。内容は、この2月現在で書かれているので、もうすでに新鮮さが失われていたりする。時のたつのは早いものである。元のWordの文章をコピーして貼り付け、フォントや、大きさ、色などを揃えただけで、もともと画像は入っていない。画像を入れるときっと綺麗だろうが、大変なので当分これでいこうと思う。
 
 最近の学生さんは、3回生で就活だとか。OB・OGの話を聞くと大変だなあと思う反面、そんなんで世の中いいのかなあと思う。いつ勉強するのだろうか。私は学生時代、寮ではないが、まるで寮のようなアパートに下宿していた。いろいろな先輩がいたが、同志社の新聞学科(今はどういう学科名なのだろうか知らないが…)のTさんという人が、ひたすら私に「本を読め!」とうるさかった。自分の乱雑にならんだ本棚で、後ろを向きながら、「3段目の右から4冊目の本を取ってくれ。」と言ったりするのだが、本の題名と内容がスラスラ出てきた。…カッコ良かった。私は、その影響で読書が日常化したのであった。Tさんには今でも感謝している。

 読書だけが、人をつくるわけではないと思うが、ビタミンのようなものであることは間違いがない。不足すると、人間としての成長が遅くなるような気がする。教え子たちには、ホント、タイトルどおりに学生時代に1tの本を読んで欲しいと思っている。 

2010年4月1日木曜日

新年度は”Pi”で始まった


 新年度である。新校長がこられ、本校も新年度がスタートした。さっそく、国際交流部の仕事もスタートである。とりあえず、今年は、アメリカとオーストラリアの姉妹校の訪問団が、6月と9月にやってくる。そのための準備として、ホームステイをしてくれる生徒とその家庭を募集し、キープしなければならない。そのためのシステムがホームステイ・バンクである。4年前、2年前の資料を検討し、Y先生とじっくりと話し合って書類を作成した。さて、どれくらいホームステイしてくれる家庭があるのだろう。本校のPTAは、なかなか熱心であるが、不況でもあるし、運営側としては不安がいっぱいという感じである。

 一方、今日から出勤したときに、自分のカードを「カードリーダー」にかざすことになった。”Pi”という音がした。これで出勤。まあ、タイムカードみたいなものだ。民間では普通のことなのだろうが、ちょっと緊張である。(笑)事務のM先生に聞くと、下校の時は”Pi・Pi”と鳴るという。最近は炊飯器でも「声」を出す。「炊けました!」とか…。せめてカードリーダーも「おはよー」とか「おつかれさん」とか言えばいいのに、電子音のみである。(笑)私はこういう普通の人が普通にできることが苦手だ。出勤簿の捺印を忘れる常習犯だった。他の先生方のように、机の中に入れておくとカードをかざしに行くことをきっと忘れると思う。で、財布の中に、免許証やクレジットカードといっしょに入れておくことにした。まだこのほうが忘れないだろう。なんか、またまたしょうもない負担が増えた感じがする。

 新学期は、”Pi”・P(Parent)・”Pi・Pi”で始まったのであった。