2022年10月31日月曜日

宗教と経済 考

小論文指導の次のテーマは、宗教と経済である。ことは、特に一神教での利子にかかわる比較になることを先に指導した。

一神教の根本であるユダヤ教の律法には、利子を禁ずることになっている。これは、出エジプト記22章24節や申命記23章20節にある。ただし、この律法は同胞に対しての規定である。キリスト教世界でもまた、この利子について様々な検討がなされた。東ローマ帝国ではローマ法が、西ローマ領域内ではゲルマンの慣習法は利子を許していたが、様々な公会議や神学者によって利子は改めて恥ずべき行為として否定された。ユダヤ教徒は、キリスト教徒を同胞ではない異教徒と見なし、金融業において地位を確立していくのである。やがて、歴史的変化・資本主義経済の発達の中で、キリスト教徒も利子を得るようになっていった。

一方、イスラム教においては、現在も利子を取らない。ただし、違う方法で金融機関は利益を得る。イスラム金融のしくみは、例えば工業を立てる場合、銀行が建築資金を肩代わりし建設する。これを分割払いのカタチで企業に売り払う。銀行は、建築資金と売却代金の差額分が利益になる、いわばリース代やクレジットカードのようなしくみである。お金を貸すのではなく、モノの代金で肩代わりする方法である。これをムダーラバと言う。その他にも様々な金融の方法が実施されている。

いずれにせよ、現在の資本主義経済のもとで、利子を取るということは合理性がある。金融が成立しないと経済が進展しないためである。一神教の、神定法・利子の禁止規定は、結局のところ守られなかったと見るべきなのか、法の穴を探し当てたと見るべきなのか、難しいところである。

以上634字。最後の私感的な部分を削れば600字かなと思う。

参考文献:https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/shushi/pdf/88_01/88_01_07.pdf

2022年10月30日日曜日

宗教と芸術 考

ダリ 神の空間 https://gu
chini.exblog.jp/18604907/
ある生徒の小論指導のつづきである。今回のお題は、宗教と芸術について。600字限定では到底無理なので無制限とした。

宗教と芸術の関係、これはおそらく全ての宗教に共通すると思えるが、宗教美術にせよ、宗教建築にせよ、宗教音楽にせよ、宗教文学にせよ、信仰対象への賛美である。ユダヤ教・キリスト教に共通する『ハレルヤ』はヘブライ語で「主を賛美せよ」の意である。

宗教美術には、識字率が高くなかった古代より、神話や叙事詩の内容や教義が絵画によって表現し、一般大衆に啓蒙するという側面もあった。ヨーロッパの中世キリスト教の絵画や教会内の壁画などに顕著である。一神教においては、偶像崇拝は禁止されているが、少しずつ相違があり、これが宗教美術の範囲を決めている。なかんずく、キリスト教では、カトリックが最も範囲が拡大されており、イエスの絵画、彫刻にまで発展している。さすがに神はほとんど描かれないが、ミケランジェロの『アダムの創造』には描かれている。『ピエタ』はイエスとマリアの彫像として至高の作品と言われている。正教では、イコンという教会内に掲げられた聖人の絵画は認められているが、彫像はない。プロテスタント各派では聖像破壊(イコノクラスム)が起こり宗教美術はほとんど見られない。イスラムでは、最も偶像崇拝に厳しく、アラビア書道が発展した。またモスクの装飾としては、絵画ではなく幾何学模様になっている。教会建築についても、同様である。ユダヤ教では絵画よりも工芸品などに特徴が見られるが、一方神秘思想のカバラでは仏教の曼荼羅に近い絵画的要素も発展している。一神教以外では、信仰対象の彫像や絵画、教会(寺院)建築も含め、様々に発展してきた。

宗教音楽には、礼拝時の儀式的な側面と、一般大衆への信仰の促進という側面がある。これは、賛美歌を有するユダヤ教・キリスト教に共通する。プロテスタントのゴスペルなども教会での礼拝を至福の時とする装置である。一方で、古典音楽でも様々な受難曲を始めとした楽曲が作られた。イスラムでは、音楽は禁止されているが、クルアーンの読謡やアザーン(礼拝への呼びかけ)などは行われている。ちなみに礼拝時の呼びかけは、ユダヤ教ではラッパ、キリスト教では鐘が使われる。仏教でも声明(しょうみょう)という仏典に節を付けたものがある。これはインド・中国経由なので、広く分布している。いずれにせよ、原始的な宗教においても音楽は重要な要素をなしており、現在も残る各地域の民族音楽はほぼ宗教音楽から派生したものと言えるだろう。

宗教建築も、各民族の文化の影響下で、荘厳に作られてきた。カトリック教会には様々な聖人の像が施されているが、正教やプロテスタントにはないのも美術同様である。仏教寺院では、釈迦の遺骨が収められた塔(ストゥーパ)が伝播した地域ごとに見られる。インドのシク教には黄金の寺院がある。イスラム教のモスクも荘厳であるが、シーア派にのみ廟がある。

宗教文学については、各宗教の聖書・経典・解説書・叙事詩などの他に、宗教をテーマとして扱っている文学作品もある。たとえばキリスト教では、ダンテの神曲やドストエフスキーの罪と罰などである。

このように、宗教と芸術の関係性は極めて深い。

以上1000字ジャスト。小論文としてはテーマが大きすぎたような気がするのだった。

2022年10月29日土曜日

「戦争は知らない」に嘆息す。

https://www.youtube.com/watch?v=BJeeGkKd0Es&ab_channel=akinolemmo
最近、THE ALFIE の坂崎幸之助のYou Tubeを見て楽しんでいる。フォークソングにむちゃくちゃ詳しいギター芸人という感じ。元フォーククルセイダーズのはしだのりひこと「戦争は知らない」を歌っているのを聞いて、あらためて嘆息した。

♪野に咲く花の名前は知らない だけど野に咲く花が好き

 帽子にいっぱい摘みゆけば なぜか涙が涙がでるの

♪戦争の日を何も知らない だけど私に父はいない

 父を思えばああ荒野に 赤い夕日が 夕陽が沈む

♪戦さで死んだ 悲しい父さん 私はあなたの娘です

 20年後の この故郷で 明日お嫁に お嫁に行くの

♪見ていてください 遥かな父さん いわし雲とぶ 空の下

 戦知らずに 20才(はたち)になって 嫁いで母に 母になるの

嘆息した理由は今読んでいる「深海の使者」の影響である。いったい何人の人が戦死したことか。この小説にのめり込み、戦死というものを今かなり身近に感じているからであろう。

ところで、この寺山修司の詩からは、海軍ではなく、陸軍兵として死んだ父が想起される。野に咲く花とは、大地に倒れた無名戦士(位の低いその他大勢の戦死者の一人なのだろう。)、だから名前は知らないで始まる。そして野に咲く花は、この娘さんにとって父の化体なのだろう。それゆえ思いが募って涙が出る。荒野に沈む赤い夕陽、戦死されたのは満州あたりであろうか。いわし雲は秋の季語なので、この娘さんは秋に結婚するようだ。最後の母になるという結句は、父の血を受け継ぐ子を生むという、彼女にとってて最大の親孝行をしたいという願いなのだろう。

なんか現代文の授業みたいなエントリーになったけれど、感動を与える反戦歌である。初期のフォークソングでは反戦歌がいろいろ歌われたけれど、私はこの歌が最高だと思うな。

2022年10月28日金曜日

胡錦濤退場の余波

https://news.goo.ne.jp/article/globe_asahi/
world/globe_asahi-14754243.html?isp=00002
胡錦濤が、習近平の策略で追い出された事件について、様々な憶測が流れている。基本的にはチャイナ7を固め、その下の25人の政治局員が突然発表時に24人になっており胡錦濤の子分が急に外されていたようだ。胡錦濤がトップである中国共産主義青年団の政治局員が外されたのだ。(画像の中で連れ出している人物が持っている赤いファイルには政治局員の名簿が載っていた。)トップである胡錦濤が黙っているはずがない。(李克強は黙っていたが…。)そこで声を出す前に退場になったようだ。

習近平の属する太子党という幹部の血縁者が幅をきかし、血縁はないが優秀な中国共産主義青年団は排除されるというのは、中国古来からの貴族階級と科挙に合格した官僚の立場に似ている。習近平は、中国共産主義青年団にお前らはトップには立てないということをあからさまに示したということか。

ところで、胡錦濤は、アメリカ一極主義化でビジネスで協調しながらやってきた元国家主席だ。地政学の立場から、胡錦濤=アメリカ一極主義擁護者として捉えた場合、習近平の指示したこの退場劇をアメリカ一極支配打破志向の現れだと捉える人もいるようだ。

実際のところ、ウクライナ紛争の方は日本ではロシア劣勢が伝えられているが、NATOはかなり疲弊しているようで、アメリカ軍と言えど、ロシアと中国の両面作戦はとれないだろう。そこで、中国は千載一遇のチャンスとばかりに、この冬に台湾侵攻するのではないかと分析しているらしい。G7対BRICSとはならないだろうが、たしかにアメリカの一強時代は終りを迎えるのかもしれない。イギリスは英国債の暴落、内政の混乱に喘いでいる。EUもかなり経済的にも軍事的にもかなり疲弊している。

アメリカもまた、中間選挙を控えながら、インフレで混乱している。もし民主党がトランプの選挙を盗まなかったらこんなことにならなかったのではないだろうかと、私などは今更ながらに思う。いずれにせよ、共和党には頑張ってほしいものだ。もし、共和党が勝って、上下両院を抑えたら台湾有事もないだろう。ガバナンスが重要なのは、途上国だけでなく、先進国も同じだ。

2022年10月27日木曜日

習近平続投への市場の反応

https://www.youtube.com/watch?v=Y8288do2dU8
&ab_channel=%E5%A6%99%E4%BD%9BDEEPMAX
習近平の続投が決まった。チャイナ7もイエスマンで固めた。この動きに対して、市場が「こりゃあかんで。」と反応している。アメリカのNASDACの中国系企業の株価、香港のハンセン株価指数、上海の株価も、どどっと下がっている。ついでに人民元も安値を更新している。株式投資等をしている人間にとって忖度はない。正直なものだ。

中国経済は、近年習近平の経済政策でガタガタになっている。これは、私企業の膨張を抑え、国営企業(ゾンビ企業と揶揄されているほど競争力が低く、赤字垂れ流しが多い。)を温存する姿勢が見え隠れする。経済発展より、共産党の統制強化が重要だと考えているようだ。いよいよ中国経済は低迷すると誰もが考えている。

伊号とUボートの戦略的相違点

http://noriko-motooka.sblo.jp/article/101864077.html
伊30は、喜望峰を迂回して、旧フランス領ロリアン軍港に到着する。軍港にはブンカーと呼ばれる潜水艦用の防空壕(画像参照)があり、ドイツ海軍軍楽隊の君が代演奏とともに入った。このブンカーは係留桟橋以外にもドッグや修理工場があり、上部の屋根は7mの厚さでイギリス空軍の爆撃の耐えられる。雷撃に対しても魚雷を防ぐ堅牢な金網と低空で侵入する雷撃機に対して防塞気球が各所に掲げられていた。

伊30は、このブンカーに収まりきらず艦尾部を外に突き出していた。Uボート仕様なので小さいのだ。今回のエントリーは、伊号潜水艦とUボートの比較の話をエントリーしたい。実に興味深い相違がある。ドイツ海軍の潜水艦乗りが、伊30を見学し様々な批判をしたらしい。実にドイツ人らしいく思う。

まずは、伊30のエンジン系統の騒音が激しすぎることである。Uボートのエンジンその他の騒音はたしかに少なく、床などにも足音を消すような特殊な配慮がされていた。伊号はエンジン部の据付けが直接ボルトで締め付けられているのに対し、Uボートは、鉄板の両側をゴム板で挟み付けたものをボルトでしめる防震間座がほどこされていた。
第二に、船体の大きさである。魚雷搭載数がほぼ同じであるのに、100名の乗員を必要とする伊30に対して、Uボートは700t級で30名であった。

これらは、日独の作戦海域の相違からきていた。Uボートの作戦海域は狭く、イギリスは夥しい哨戒機と艦艇を放ってその撃沈に努めている。よって、Uボートは騒音を発しないことが重要なのである。しかし、伊号潜水艦は、対潜密度が薄い広大な太平洋を作戦海域としている。とはいえ、騒音問題は指摘のとおりで日本海軍は反省すべき課題であるということになった。
艦の大きさについては、Uボートが通商破壊戦を目的にしているのに対し、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、空母等によって構成された艦隊との共同作戦を行うように設計されていた。伊号とUボートの潜航時の速度はほぼ変わらなかったが、水上航走では、Uボートの16ノットに対して23ノットであったし、遠距離からの複数魚雷発射など大型化した理由があった。これに対しては、ドイツ側は批判を撤回した。

こういう批判・論理を構築するのは、実にドイツらしい。日独での潜水艦作戦の比較・相違も実に興味深いと私は思う。このころの潜水艦は、アメリカなどは、かなり弱いものと海軍上層部には認識されていたようで、常に駆逐艦の爆雷攻撃に怯える存在だと思われていたようだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%BF_
(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6%E3%83%BB%E5%88%9D%E4%BB%A3)
そうそう、今は対潜攻撃では爆雷は使われない。私が小学生の時、海自の『まきなみ』(画像参照)という護衛艦に乗せてもらったことがある。後甲板の最後尾に爆雷の投下機があったのをよく覚えている。

2022年10月26日水曜日

伊30と零式小型水上偵察機

http://xn--ww2-523es33s4hr4hk.jp/warship07027.htm
「深海の使者」にまず登場するのは、伊30である。(画像参照)この艦は、東インド洋方面の潜水艦隊に所属していた巡潜乙型の新造艦である。この艦がドイツとの連絡艦となる。この巡潜乙型艦には、艦橋の前部に格納筒があり、零式小型水上偵察機が搭載されていた。射出し、揚収する仕組みである。伊号潜水艦この潜水空母の話は幼い頃から知っていたが、やはり凄いと思う。

http://xn--ww2-523es33s4hr4hk.jp/ww2aircraft037.htm
この頃はまだ、レーダーも未発達で、こういう偵察機を飛ばして、各地に散らばる英軍の基地を偵察することが可能だったわけだ。「深海の使者」でもアデン港を星明かりをたよりに偵察、軽巡洋艦1、駆逐艦3、輸送船10の在泊を報告している。ジブチ軍港にも偵察に向かい、陸上防空隊の機銃掃射を浴びたが、商船6の在泊を報告している。

昭和17年。まだ優勢とはいえ、紅海沿岸にまで行って偵察していたのにはかなり驚いた。今日はここまで。

2022年10月25日火曜日

「深海の使者」吉村昭

先日「頭山満伝」とともに市立図書館で借りたのが、またまた吉村昭の「深海の使者」という文庫本である。吉村昭には軍記物というジャンルがあるのだが、あまり触手が動かない。ただ、この本は、太平洋戦争中にドイツを目指して行く潜水艦の話なのである。思わず借りたのには訳がある。

同年代の方にしかわかってもらえないと思うのだが、日本の潜水艦がドイツまで行くとなれば、東宝映画「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」なのである。この怪獣映画は、最後は信じられない(子供だましの)終わり方をするので、名作とは言い難いが、物語の始まりは天下一品である。ドイツに行った潜水艦が持ち帰ってきたもの、それはフランケンシュタインの心臓なのである。この映画で最も印象的なのが、この心臓のシーン。(画像参照)動いている。生きているのだ。この心臓が広島に運ばれ、そこに原爆が投下される。

http://juzji.jugem.jp/?eid=3069
放射能の影響で、フランケンシュタインは20mを超える巨体となり、地底怪獣バラゴンと戦うのである。(この続編でフランケンシュタイン2人が出てくる「サンダ対ガイラ」も見たけれど、駄作である。)このドイツから潜水艦でフランケンシュタインの心臓が運ばれ、広島で被爆し巨大化するというストーリー、実に凄いと私は思う。

これも同年代の方にしかわかってもらえないとおもうが、「サブマリン707」という漫画でも、速水館長は、太平洋戦争時にドイツに行き、ウルフというドイツ軍人とともに戦ったことになっている。まあ、ロマンあふれる話なのだが…。

私は航空ファンだが、同時に潜水艦ファンでもある。アメリカで、ボルチモア、NYC、シカゴと展示されている古い潜水艦の中に入っては、魚雷発射管を見て感激してきた。そういう過去から、ドイツに行った潜水艦の話故に、つい手にとってしまったのだった。内容については、また随時エントリーしていきたいと思う。

2022年10月24日月曜日

米国民主党の政策金利と覇権

https://kostrivia.com/4000.html
FRBが、0.75%の政策金利を上げて以来、世界の通貨はかなり安くなっている。日本も150円近くという円安になっている。このFRBの措置は、国内のインフレ抑制を狙ったものであるのは一目瞭然だが、かなり世界経済に多大な迷惑をかけている(韓国などはこれで経済破綻するかもしれない。)のだが、国益を見据えた金融政策だと言われれば仕方がない。しかし同時に11月の中間選挙での民主党政権勝利への布石でもあると見るのが妥当だろう。ならば党利党略である。

最近、米国・民主党のこういった覇権主義が目につく。戦争大好き民主党で、ロシアとウクライナを焚き付け、世界を混乱させているのは明白である。トランプの共和党ならこんなことにはなっていまい。ロシアをヒールに仕立て、エネルギー危機と食糧危機も演出して、世界を大混乱に巻き込んでいると私などは感じている。

米大統領選挙以来、米国、というより民主党は全く信用できなくなった。この米国に対して、長年の友好国であるサウジアラビアが湾岸諸国とOPEC+という産油国全体引き連れて、石油減産という反旗を翻した。これには様々な米国不信が背景にある。驚いたのは、民主党がサウジアラビアに制裁を加えるという法案をいくつか提出していることだ。…天上天下唯我独尊。この軍事力を背景にした覇権主義は、世界中の人心をすべからく失うことになりそうな気がするのだ。

2022年10月23日日曜日

「頭山満伝」陽明学 考

倫理の日本思想分野では、国家主義者の項がある。徳富蘇峰(同志社に学んだ)、三宅雪嶺(前述の中野正剛は娘婿になる)、陸羯南(正岡子規の恩人)などの人物名が上がるのだが、頭山満は出て来ない。この3人はジャーナリストとして有名だが、頭山は全くの無位無官で著書もないのだから当然であると思われる。

頭山満伝を読んで、尊王攘夷の志士の攘夷の系譜(西欧列強に対する対抗心と島津斉彬・西郷隆盛の大アジア主義)を強く感じるとともに、武士道、それも幕末に高揚した陽明学の徒としての意気を強く感じた。まさに西郷が西南の役で死んだ後、その精神をを継いだ人といえる。

ここで、陽明学について考えてみようと思う。朱子学は、政治学、存在論(理気二元論)、注釈学(「四書集注」等)、倫理学(性即理説)、方法論(居敬窮理説)など全てを包括する総合的な哲学体系である。陽明学は、そのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であるといえる。(四書は論語・孟子と五経の「礼記」から朱子が注釈した大学・中庸)

朱子学の倫理学は、「性即理」であるが、陽明学は「心即理」である。朱子学では、理(ものすごく安易に言えばプラトンのイデアのようなもの)と気(物質的要素)の二元論で、これを人間に当てはめたのが「性即理」である。人間の心そのものは天が授けた理そのもの(孟子的性善説)である(だから仁や義として具現化できる)が、気にふれると、情や欲が発生する。よって、心を本然の性(理)に戻す必要がある(=格物致知)と説く。

これに対し、陽明学では、情や欲を含めた人間の心がそのまま理であるとする。理は、心に立ち現れたものを実践にうつしてこそ現れる。(=知行合一)人間には先天的に正しさを判断する理が存在する能力(良知)があるゆえに、これを完全に発揮する(致良知)ことで、理すなわち善を実現できると説いた。

王陽明という人は、34歳のときに宦官の専横を批判、皇帝に上奏し、逆恨みで貴州に飛ばされている。ここで思索を続け、「心即理」に到達した。よって、この上奏事件は「良知」による行動で善であったということになる。このような意図があったのかどうかはわからないが、陽明学には反体制的な理論と結びつく要因がある。

幕末には、大塩平八郎、西郷を始め、佐久間象山、吉田松陰、河井継之助といった魅力ある人物の名が連なる。維新後は、三宅雪嶺が「王陽明」を著した。徳富蘇峰や幸徳秋水も影響を受けているとされている。安岡正篤も、東大卒業時に「王陽明研究」を出版、陽明学を「帝王学」としている。ここ(Wikipedia)にも頭山満の名は出てこない。

とはいえ、昭和まで生き残った幕末・尊王攘夷の志士であり、陽明学の徒である頭山満の存在は、たとえ歴史から抹殺されているとはいえ、大きいと思う。

少なくとも、東條某のように、戦犯として逮捕される寸前に、洋間で椅子に座り、米兵から没収したコルト拳銃で胸を打ち、ビビって急所を外し出血したが生き残ってしまった小心者ではない。その時の東條某の血まみれの洋間の写真(白黒)が、拡大するだけ拡大されて、ヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に今も展示されている。東條某の無様な自決未遂は、日本人として恥ずかしい限りであった。中野正剛の最後を見よ。来島恒喜の最後を見よ。広田弘毅の黙したままの最後を見よ。

今の政治家(右左関係なく)に、武士道を奉じた陽明学の徒はいないのだろうか。

2022年10月22日土曜日

指名漏れした東洋大のH君へ

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/hbnippon/sports/hbnippon-interview-8299
5月13日のブログで、H高校出身の東洋大学のピッチャーH君のドラフトに期待していることをエントリーした。先日、ドラフトが行われ、結局H君は指名に漏れたようだ。本人もさぞや、がっかりしていると思うけれど、社会人からプロに入り成功した選手も多い。

私が思いつくだけでも、落合博満、宮本慎也、古田敦也、小笠原道太、福留孝介…。投手だと内海哲也、岩瀬仁紀などなど。

結局、野球への真摯な態度が大切だとYou Tubeで宮本慎也が言っていた。諦めず頑張ってほしいと思う。私がマレーシアに旅立った4月に入学した彼とは、ちょうど入れ替わりで全く面識もないけれど、H君をこれからも応援していきたいと思う。

「頭山満伝」広田弘毅のこと

広田弘毅といえば、文官で唯一A級戦犯として処刑された人物である。彼もまた、頭山・玄洋社に繋がる。12、3歳の頃から玄洋社に出入りしていたという。玄洋社の柔道場で稽古し、修猷館を卒業後、玄洋社の平岡浩太郎に学費を出してもらい、一高から東大に進む。初めて上京した時に頭山と会い、「外交官になろうと思ってきました。」と言うと、その後様々な人物を紹介され薫陶を受けた。妻は、三菱財閥の令嬢との婚約を勧められたが、大隈事件の時の見届け役だった月成功太郎の娘・静子と結婚している。ちなみに、この静子は、巣鴨プリズンに入った広田の憂いを断つため自害している。さすがというべきであろう。

さて、広田弘毅のことは少しおいて、蔣介石と頭山の交友について記したい。蔣介石は、北伐を行い、第一次国共合作を上海クーデターで潰した。この時、国民党左派の汪兆銘(武漢政府)と蔣介石の右派(南京政府)に分裂する。「余は党のために身命を惜しむものではない。」と蔣は国民党が一つになるためにと下野し、昭和2年に来日する。旅装も解かずに頭山邸に来た。隣家で起居し、大アジア主義について教えを乞うたという。孫文を支援してきた松井石根(A級戦犯・絞首刑)や田中義一首相も訪れ、蔣の中国統一支持と満州の日本の権益保護が合意された。田中義一は、満州は張作霖に委ねようとしていたらしいが、関東軍によって爆殺され、田中ー蔣ラインの合意は田中内閣の総辞職により消えた。

頭山満と蔣介石 https://kknews.cc/history/ep6re4q.html
しかも盟友の犬養毅が5.15事件で暗殺された。その前には、血盟団事件の日召が頭山邸に身を隠し、自首を決意したので出頭させたりと、不穏な事件が続く。満洲国皇帝溥儀が来日した際には、頭山は招待を断っている。そして支那事変が起こる。こういうややこしい時期に広田弘毅は外相の任にあったわけだ。

さて、近衛首相が事変処理のために内閣参議(要するに相談相手)を探していた。当然のごとく、中国革命の支援者であり、国民党政府にも多くの知己がある頭山にという声が上がった。広田弘毅と緒方竹虎が諾否を求めに行くことになったが、内相の猛反対にあって流れた。頭山自身も「自分のような者は遠くにあって陛下を思うのがちょうどよい。」と受けなかっただろうといわれている。近衛首相は、緒方から頭山の名で書かれた対華全面和平の意見書を見て、西園寺公望に「自分はやっぱり頭山を(中国へ)やろうと思う。頭山と蔣介石は昔から非常にいい。頭山なら広田とも懇意だから、この二人をやればいい。」と言っていたらしい。一方、汪兆銘も来日時には、宮中記帳の後頭山のもとを訪ね、その後に総理といった関係だった。頭山は、なにより蒋と汪の両者をつなぐことが必要と考えていた。

昭和16年、東久邇宮ら「重慶に行って蔣介石と会い和平にもちこんでもらえないか。」と依頼を受ける。緒方竹虎、中野正剛、そして広田弘毅を呼集、緒方には蔣介石への連絡と会見の設定、事後の紙面でのキャンペーン、中野には国会対策、広田には重臣対策を指示した。「頭山翁とならば会いましょう。」との伝言が伝わり、最後のご奉公(86歳)が実現するかにみえたが、近衛内閣が東條内閣となり「その様な重要な問題を陸相兼務の総理である私に何の相談もなく勝手に進めてもらっては困る。」東久邇宮が説明しようとしても「今はそんな時期ではありません」と協議さえさせなかった。

広田は、重臣会議で、近衛首相の後継に東久邇宮を推挙したが、すでに軍がこの和平案を察知しており、木戸幸一主導の重臣は誰も賛成しなかった。(思うに、後の中野正剛の反東條の姿勢はこの顛末が重要な意味合いを持っているのではないかと私は思う。ちなみに木戸は、東京裁判で自己弁護に走り絞首刑を免れている。黙する広田への批判的な言も残している。)

頭山は、昭和19年10月亡くなった。徳富蘇峰、広田弘毅が弔辞を述べ、無位無官の者に対し異例の、天皇陛下より勅使が使わされ祭祀料が下賜された。フィリピン、インドネシアそして中国からも多くの弔電が届いた。

「東京裁判で、広田は一切の抗弁をせず、沈黙を守ったが、その理由の一つは、頭山ら玄洋社の先輩たちに迷惑が及ばぬよう配慮したゆえではなかっただろうか。」と著者は書いている。実際、広田は、玄洋社を過激な右翼組織と見るGHQの調査分析課長の影響もあって、絞首刑の判決を受けた可能性が高い。このような頭山・玄洋社を巡る和平案の試みの事実は、その後GHQによって、歴史から抹殺されたわけだ。

2022年10月21日金曜日

「頭山満伝」興亜論のこと

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/061/01.html
頭山は、西郷隆盛に心酔していたことはすでに述べた。西郷は島津斉彬の忠臣であった故に、アジアの諸国に対しては興亜論であり、朝鮮半島や中国とともに西洋列強の植民地化に対抗する思想を受け継いでいる。それが、征韓論に繋がるのだが、頭山は島津斉彬・西郷の意志を最も強く受け継ぐ存在である。

1884年(明治17年)、半島で甲申事変が起こる。開化党の金玉均らが、先に起った壬午の軍乱の首謀者として大院君を清国内に連れ去り拉致したことに対し、清軍がベトナムに移動したすきを突いてクーデターを起こしたのである。

頭山は、金と会い、彼の才と人物を見抜き、以後、身辺の庇護者として生活資金の提供者として支えた。これに対し、同じ支援者であった、福沢諭吉は甲申事変失敗後は、「誘導するに値しない国」と見限り、金の亡命数カ月後に「脱亜論」を発表している。福沢は、「日本が清国、朝鮮と同じような国だと見られるのは一大不幸だ。これらの悪友との交友を謝絶せよ。」と厳しく指摘している。(今となっては、福沢の脱亜論を完全否定することは難しいと私も思う。)

さて、その後頭山は、革命家・孫文、その弟子蒋介石とも友情を結ぶ。福沢のような冷徹な態度は取っていない。孫文が革命に何度も失敗し、来日するたびに激励し支援の手を差し伸べている。孫文が中華民国の大統領に就任した時、頭山と犬養毅が国賓級のゲストとして招かれている。その後も袁世凱に追われ、来日した際も頭山に匿われた。ついに第三革命を成功させた時、神戸で孫文と会った頭山は、二十一箇条の要求に強く反対しつつも、孫文の革命政権は不安定であり、清の故郷である満蒙では各列強が糸を引く軍閥が跋扈していた。故に、日露戦争以来の日本の権益を手放すのは(孫文の中華民国にとって)危険だと述べたようである。(…たしかに、するどい洞察力である。)

孫文は会見3日後に「日本はこれから、世界の文化の前途に対して、西方覇道の番犬になるのか、東方主義のの干城となるのかは、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている。」と所信表明した。これに対し、頭山は、「南州先生が生きておられたら、日支の連携なんぞ問題ではなかっただろう。アジアの基礎はびくともしないものになっていたに相違ない。そう思うとイギリスあたりの番犬になって鼻をうごめかしてお椀の飯を食っている様が情けなくてたまらぬ。」と雑誌のインタヴューで答えている。二人は同じ「大アジア主義」の地平に立っていたのだ。

頭山は、インドの革命家やアフガニスタン、さらにはエチオピアなどの人々も支援している。当然ながら、同じ視点である。孫文の後継者・蔣介石については、次回のエントリーに譲ろうと思う。

2022年10月20日木曜日

「頭山満伝」中江兆民のこと

https://www.iwanami.co.
jp/book/b246019.html
玄洋社は、福岡・黒田藩の武士たちが集まった政治結社で、初期は自由民権運動に関わっていた。頭山満も大久保利通暗殺の報を受けて、板垣退助に会いに高知に行っている。板垣が蜂起すると読んだのだった。しかし板垣は立たず、頭山に自由民権を説いた。まだ玄洋社ではなく向陽社であった時代、半年滞在した高知から植木枝盛と共に福岡に戻ってくる。植木は、向陽社が設立した向陽義塾で講義もしている。(この向陽義塾は、後に前述の中野正剛や緒方竹虎も学んだ修猷館中学となっていた。)向陽社・社長の箱田六輔は、自由民権運動の愛国社の大阪大会で、民権家のランクとして、最高位の大関・板垣に次ぐ関脇と評価されていたほどである。その後、玄洋社となり、憲訓が制定された。「第一条 皇室ヲ敬戴ス可シ 第二条 本国を愛重ス可シ 第三条 人民ノ主権(権利に置き換えた)ヲ固守ス可シ」 

玄洋社というか頭山満の人権論は、国家の独立があってこそ保全できると考えていた。幕末維新で植民地支配こそ免れたものの、不平等条約の改正に力を注ぐことになる。四民平等となったのだから、農工商を士の位まで意識を高めて平等にするという武士道民権論であった。

1887年(明治20年)今日のエントリーの中心人物・中江兆民と頭山が会う。それ以前にも中江は前回エントリーした来島恒喜を主催する仏文塾で教えていたし、当時の玄洋社・社長の平岡浩太郎と共に上海に行っている。初対面で、頭山を気に入った中江は、以来交友を続け、中江の死まで続く。中江は、頭山を「大人長者の風あり。かつ今の世、古の武士道を存して全なき者は独り君あるのみ。」と評している。

中江は、内田良平の黒龍会にも賛助会員となっているし、日露戦争前に対露強硬派がつくった国民同盟会にも弟子である幸徳秋水の反対を押し切って参加した。

明治34年中江は喉頭がんにかかり臥せる。頭山が駆けつけた。(声がでないので)石盤に頭山の名を書き、会いたがっていたと妻が言ったらしい。中江はがっしりと手を握りしめ涙を流して喜んだ。石盤に、「伊藤、山縣ダメ、後ノ事タノム」と記した。頭山がうんうんとうなづくと中江はにっこり笑ったという。

「昭和平成の人から見れば、右翼の源流と左翼の元祖の交友ということになる。当時の二人にはそういう意識などなく、ただひとえに欧米諸国の脅威から日本の独立を守り、国力を強化しようという愛国の同志であった。」と著者は書いている。植木枝盛との交友も含めてまさに昭和の人である私にとっても驚きの事実であった。 

2022年10月19日水曜日

「頭山満伝」来島恒喜のこと

https://ameblo.jp/mejibunka
/entry-12332155283.html
1882年、井上馨外相は治外法権の改正案(外国人裁判官の任用)を出す。これには世論が猛反発して辞職。その井上が1年足らずで閣僚に復帰し福岡に来た時、玄洋社の来島恒喜が「井上を切る」と騒いだ。頭山のもとに連れてこられ、「小勇にとらわるんな、大勇断が必要な時が必ず来るけん、おとなしゅう待っときやい。玄洋社で、ちょっとまとまったことをしようと思うとる。…そん時にやりやい。」となだめた。後任の外相となった大隈重信は、列強と隠密利に交渉を進めていたが、ロンドンタイムズにすっぱ抜かれた。小村寿太郎(当時外務省翻訳局長)の情報を元に陸羯南がこれを報道、世論は再び沸騰した。井上案同様、外国人判事の任命と外国人被告の場合外国人判事を多数として合議するというものであった。

頭山は、上京し内相兼蔵相・松方正義、前首相・枢密院議長の伊藤博文に直談判し、反対の尽力を誓わせた。しかし、閣議で黒田清隆首相は断行の言を吐く。どうやら黒田は力量在る大隈に内閣を任せきっていたようだ。肥前出身の大隈は大隈で、薩長政権に対抗するため命を張った勝負に出たようだ。

上京した来島に、頭山は「大隈に改正はさせぬ。」と結論だけ言った。「で、どのような策を取られますか。」「策?そんなもんはない。」「この上は…」「うむ。」「来島よ。天下のことは真の心をもってすべきだし、また誠の心によらんかったら、成りもせん。誠の心をもってすれば、たとえ仕損じても、意気に感じた者が後から後から立ち上がってくる。そげなもんたい。」と言った。

1989年10月18日、来島はフロックコートに山高帽の紳士然として霞が関の外務省前に現れ。閣議を終えて大隈の乗った馬車が来た。5~6mほどの距離からから爆裂弾を投げ車体を粉砕、大隈が倒れたのを確認して門外へ出た。

皇居に向かって一礼し、右手を高々と上げた。見届け役の月成光への合図である。続いて懐中から短刀を取り出し、鞘を払い、頸部に突き刺した。前方に思い切り引いて首を切った。そこはかつて福岡・黒田藩の藩邸があった場所であった。

大隈は、右足の大腿部の上から2/3を残して切断し、一命を取りとめた。もはや黒田首相を援けて条約改正断行を唱える者はなく各大臣は辞表を提出、内閣は総辞職した。国論に対して一人不屈の決意で推進しようとした大隈は来島の一撃で、文字通り「失脚」したのである。

来島の墓は、頭山の筆による。その横に「暗夜之灯」と記された常夜灯がある。これは、この件で来島に長文の手紙をもらいながら「世の中も我もかくこそ老い果てぬ 言で心になげきこそすれ」と何も出来なかった枢密院顧問間・勝海舟の文字であるそうだ。

ちなみに、この事件は、陰湿なテロリズムではなく、武士同士の意地の張り合い、果たし合いだったと筆者は見る。事実、両者に個人的な恨みつらみは一切なく、大隈は後日、来島を称えているし、玄洋社が来島の追悼会を開くたびに、弔詞や供物を送り、墓参りもしている。

頭山はこう言っている。「来島は大隈を殺すのが目的ではなかった。条約改正を殺すのが目的だった」と。

「頭山満伝」中野正剛のこと

https://ameblo.jp/kokugaku2
26/entry-12590105392.html
頭山満伝の中には、日本近現代史に名を残す多くの有名人が登場する。玄洋社精神の体現者として、突然中野正剛の話が出てきたのには少し驚いた。玄洋社は、そもそも福岡・黒田藩の人々から発しており、中野正剛も中学は修猷館(元藩校で今は県立高校)出身で、早稲田大学を経て東京朝日新聞記者となった。若い頃から頭山邸に出入りし、大正9年に34歳で衆議院議員(連続8回当選)となった。昭和19年、国家権力の強化に反対して大政翼賛会を脱会、東條英機に反抗した。昭和18年、これも玄洋社の系譜につながる朝日新聞主筆の緒方竹虎(彼も修猷館・早稲田出身)に勧められ書いた「戦時宰相論」に発する。中野は、「このままでは戦争に負ける。余力のあるうちに集結を図らねばいかん。」と東條内閣を亡国の政権と見ていた。中野の最後について、この書には詳しく書かれている。

早朝、紋付きの羽織袴姿の中野は、肘掛椅子に座った状態で、半紙を巻いた日本刀で横一文字に2回腹に当て、その後刀身を頸動脈に当てた。吹き出す血しぶきを左手で抑え隣室に控えていた憲兵2人に気づかれないようにっして、前にうつ伏せになっていたという。黒田武士の作法通りで、机上には「大西郷全伝」が広げてあった。遺書は12通あり、全て護国頭山満先生と頭書きがあり、仏壇に収められて、頭山に託されていた。(憲兵隊に手出しさせないためであった。)四男によると、中野は、頭山満、徳富蘇峰、三宅雪嶺を尊敬していたという。

中野正剛のイメージは、どうしてもムッソリーニとヒトラーに会いに行ったファシストとなりがちである。しかし、中野は頭山の孫文の大アジア主義と共通する視野にたっており、日中戦争を修めるのに必死だったそうだ。

中野の葬儀は、盟友の緒方竹虎が葬儀委員長となった。東条は死亡記事の扱いを小さくさえたり、斎場で支持者の検問をしたりと最後まで弾圧をしたが、2万人の会葬者が集まり、山本五十六の国葬と並ぶ民間葬となった。首相秘書官が東条の花輪を持って来た時、緒方は「故人はは恩讐の彼方に在る。誰の花輪でも受け取るであろう。しかし、葬儀は現世では生きている者が執行する。花輪をどこに置くかは、この委員長が決める。それを承知ならばお受けしよう。」と言い、秘書官は一言もなく引き下がった。葬儀が終わり、緒方は粛々と続く葬列を見ながら、頬をぬらし、胸中で叫んだという。「中野、貴様ぁ、死んで東条に勝ったぞ。」

…この「頭山満伝」には、玄洋社に係わる様々な人物が登場する。追って紹介していきたいと思う。

2022年10月16日日曜日

一神教と多神教の社会構造

https://smailog.com/sentotihiro-god/
さらに一神教と多神教の社会構造の相違について。

一神教においては、神の意思にそむくことは「罪」である。多神教世界(ここでは日本を中心に論ずる)では、八百万の神の統一した意思というものはなく、それにかわるもの、共同体の掟にそむくことは、罪というより「恥」であり、その人に汚れがあるゆえ、払い、禊という対処になる。現在のコロナ禍で、法制化されていないにも関わらず、日本人が皆マスクをつけているのはそういう社会構造の為せる技であると言える。(現在、一神教世界である欧米などではマスクはほとんどされていない。)故に、一神教世界では、基本的には個人主義的社会である。一方日本のような多神教世界は、個人というより組織や社会が優先される社会である。

一神教世界には骨格がある。天地創造から終末に到る直線的な歴史観。そして神定法。キリスト教では、律法の成就故に人定法。それに対して、多神教世界は骨格がない。故に、仏教や儒教、近代の欧米の思想を融通無碍に受け入れることができた。日本の思想は実に多層的である。このような相違は、社会構造に影響を与えている。

一神教世界の社会倫理は、上記の骨格上から導き出される。善悪は究極的に神が示すところである。しかし、日本の善悪は、古来からの清明心、あるいは仏教的な無常観や縁起、儒教的な仁・義・礼、欧米的な民主主義や人権思想など、人によって組織よってその都度選択される。玉虫色と表現されるように、あいまいな場合も多い。

今回は、ちょっと整理しすぎて593字というところ。これもなかなか難問ではある。

宗教と戦争 考

http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-1255.html?sp
さて、次のお題は、「宗教と戦争」の関係性である。

昔、NYでのユダヤ教研究の旅から帰国する途中のソウル空港でニュージーランドの牧師さんと話したことがある。彼は日本で英会話を教えていて、少し日本語もできる。英語と日本語のチャンポンで、宗教について語り合った。その中で、「神は戦争を否定しない。」と聖書を開いた。この体験を元に、また600字程度の論考を記したいと思う。

一神教の神を信ずる国々が戦争を否定していないことは、世界史を見ても明白である。多神教の国々もまた同様であるが、ここでは一神教を中心に論じたい。ユダヤ教徒は選民ゆえ、キリスト教徒・イスラム教徒は異教徒である。イスラム教徒は、同じ一神教徒であるユダヤ教徒・キリスト教徒を他の神を信ずる者とは区別し聖戦の際、ジズヤの支払いだけを命じた。ただし、昨今のイスラム復古主義(原理主義)は異教徒扱いをしている。クルアーン第1章にこの宗教についての批判が述べられており、微妙である。キリスト教徒については、隣人愛がキーワードになりそうである。この隣人は、同じ宗派の人々と解釈したほうが正確なようだ。カトリックの対イスラムの十字軍をはじめ、度重なる宗教戦争(ユグノー戦争や三十年戦争等)や各地で行われた宗教・宗派の違いから行われた民族浄化は、異教徒と見ているとしか思えない。異教徒への暴力は神の意志なのか。

一神教の神は、和辻哲郎の論によれば砂漠という風土から生まれている。厳しい環境下で、生存のための争いは避けられないという前提があるように思われる。一神教の世界における人間とは、戦争する(殺し合う)者である。アダムとイヴの長男、カインはアベルを殺し、最初の殺人を犯している。このあたりが、平等大慧の仏教の世界とは大きく異なっているのではないだろうか。ただし、仏教において平和主義が貫かれたのはアショカ王くらいなのだが。

以上、600字ジャスト。この問題は実に難しい。ウクライナ紛争に触れてもいいのだが、西ウクライナのちょっと違うカトリックについて語るだけで大変。時節柄、こういう設問はありうるだろうと思う。

宗教とジェンダー 考

https://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304893004579311781390314084
ある生徒の小論指導で、このような題を出してみた。自分なりに考察したいと思う。ここでいう宗教は、一般的な面と、様々な宗教の特徴をひろいながらの論点の二面性があるという前提でいきたい。

ジェンダーとは、性別による社会的規範とその差を意味する。一般的には女性に不利な状況を改善する方向を指すといえよう。

宗教は、このような女性が不利な状況を社会的規範としてきたと見られても仕方がないところがある。一神教(ここではユダヤ教・キリスト教のカトリックならびに正教・イスラム教)では、神の「産めよ増やせよ地に満ちよ」という言葉によって、ある意味、女性は子孫を増やすための存在とされてきた側面がある。ユダヤの超正統党派の女性やイスラム教では、服装規定もある。サウジアラビアでは最近女性の運転免許が許された。そういう意味では、ジェンダーという人権思想が生まれる前の社会規範として大きな壁になっていたといえるだろう。これらの一神教では、特に堕胎は認められないことが多いし、離婚についても大きな制約を持っている。人権思想としてのジェンダーは、プロテスタント系の欧米社会で生まれたがゆえに、同じ一神教でもプロテスタントはジェンダーには理解的である。

仏教においても、女性の成仏は法華経以前は認められていなかった。上座仏教では、女性はまず男性に生まれ変わる事が必要であった。ただ、大乗仏教では、平等大慧(すべての衆生に仏性が備わっていること)が説かれており、根本的な性差はないといえる。仏教で言う四衆は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷となっている。男性が先になっているものの、女性の僧、在家をきちんと明記している。

以上600字ジャストである。イスラム教の女性へのスタンスは、男性が守るべきものであり、差別的だと誤解されている部分が多い。ただジェンダーという観点から見れば、生活様式での差(行動の自由度)は大きい。人権思想としてのジェンダーを強調する人々からは、そういう宗教的な側面を理解されにくいだろうと思う。

2022年10月15日土曜日

TICAD8 京大公開講座

久しぶりの稲森財団記念館
調べてみると、2013年12月14日以来の京大公開講座である。なんと8年10ヶ月ぶりの稲森財団記念館である。今回の公開講座のテーマは「アフリカと肩を組む」、第1回目の今日は、JICAアフリカ部 吉澤啓先生の「TICAD8で語られたこと~ポスト冷戦時代からポストコロナに向けてのアフリカ開発」である。吉澤先生は、TICAD1から8まで、勤務の関係でスルーした3以外全てに関わってこられたというTICADの生き字引的存在である。しかもJICAの中で第一のアフリカ通である。いろいろと面白い話を伺った。今日の内容についてはJICAを代表して、というよりも個人の見解で話しますとのこと。吉澤先生の誠実なお人柄がにじみ出た素晴らしい講義であった。

まずは、TICAD8でどんなことが語られたのかについて。今回はコロナ禍のこともあって、7よりコンパクトになったそうだ。各国首脳の参加数は42名から20名に半減してしまったらしい。チュニスでの記念写真の前列に民族衣装を着た人がいるが、彼は西サハラの大統領。日本は未承認なので、首脳の数には入れていないらしい。またSNSで話題となった300億ドルのアフリカ支援のうち、ODAや国際機関を通じての、いわゆる公的資金は100億ドルで残りは民間の直接投資などによるものらしい。(政府は国民にきっちり説明をした方がいいと思うとのこと。)中国のアフリカ支援との対抗という側面は否定できないし、日本との密接な外交関係(国連安保理改革含む)という側面も否定できないが、アフリカ諸国は、欧米のダブルスタンダードへの反発が強く、先日来のいくつかの国連ロシア非難決議の賛成・反対・棄権・不参加などの票数に表れていると言われていた。細かな解説も入ってきた。経済、社会、平和と安定という3つのカテゴリーで説明があったが、JICAとしては、社会をトップにもってきたかったそうだ。7くらいからビジネス志向が急に強くなった。(当時の外相は、河野太郎で、その意向がだとか。フンッ。)

TICADの歴史を振り返っていただいた。細川政権時の1では、ほとんどメディアで取り上げられることもなかった。ODA供与の表明もなし。(表明するのは4から。)2は小渕首相時。MDGsの原型的な内容であった。3では、経済成長を通じた貧困削減を訴えた。4では、アフリカへのODAを倍増すると発表。外交史上類を見ない大規模な国際会議となった。5では、日本、AUC(アフリカ連合委員会)、国連、UNDP、世銀の5者共催となり、6では国債資源価格の下落やエボラ出血熱の流行を受けたナイロビでの開催。7では前述のようにビジネス促進が強く押し出された。(まあ、これは世界低潮流ではあるが…。)

岸派→福田派→安倍派がアフリカへの国際協力に熱心なのは、岸以来のアジア主義(アジアが豊かになれば日本も栄えるという思想)の延長線上にあるのではないかという話だった。…これは面白い話。今読んでいる頭山満伝と関連してきた。

ちなみに、ビジネス重視のわりに、日本のアフリカ投資は、欧米が増加しているのに減少しているようだ。たしかに人口増加は経済学上有利であるが、食料や雇用創出などの様々な問題が指摘されている。急に平野先生の開発経済学の話が出てきて驚いた。平野先生といえば、今のセンター長は同じアフリカ開発経済学の高橋基樹先生である。今日の公開講座にもセンターを代表して来ておられた。

神戸大学時代の高橋先生の「現代アフリカ経済論」は、平野先生を超える名著だと私は思っています。」と、講義終了後にご挨拶をさせていただいた次第。ほんと、今日、京都まで足を運んでよかったと思う。

2022年10月14日金曜日

「頭山満伝」浩然の気

市立図書館で、太い文庫本が目に止まった。738ページもある。「頭山満伝」(井川聡著・産経NF文庫)である。2学期後半戦、授業で日本の思想をやる。国家主義者の人名も出てくるので、参考に読むことにした。頭山満・玄洋社、といえば右翼の源のようなイメージがある。正直なところ、私たちの世代には「右翼」という言葉には大きな違和感がある。だが、読んでいてかなり引き込まれた。面白いのである。今現在読んでいるところ238ページまでを備忘録的に記しておこうと思う。

頭山満の思想的な系譜は、楠木正成→高山彦九郎→吉田松陰→西郷隆盛→頭山満となっている。幼少期に楠木正成に憧れ、庭に楠を植えたそうで、現在はショッピングモールに変わったが立派に存在してるらしい。高山彦九郎は、太平記を読んで発奮、京都に遊学し尊王思想を強くした尊王の志士の先駆けのような人物。全国を旅して多くの交流を行い親王思想の啓蒙をしたが、時早く幕府の弾圧を受け自刃した。(17923年)三条大橋東詰に、御所に向かい土下座する像が高山である。(この像のことは知っていたが、これが高山彦九郎だと始めて知った。)吉田松陰や西郷隆盛に影響を与えていることは当然である。この高山彦九郎の流れをくむ儒学者亀井道斎門下の四天王の一人とされたのが高場乱(おさむ)という女性眼科医で儒学者で、頭山は、彼女の塾(興志塾:通称は人参畑塾)に学んでいる。この高場乱という人も実に魅力的な人物である。ちなみに、吉田松陰の「松蔭」は高山彦九郎の諡(おくりな)である「松蔭以白居士」からとったと言われている。で、頭山にとって、最も重要な精神的師と言えるのは西郷隆盛である。萩の乱に参加しようとして果たせずそのまま獄に入れられ、西南戦争が終わって出所後の24歳の時、西郷の実家を訪れ、大塩平八郎の「洗心洞箚記」(当時は禁書で西郷が愛読していた、紙はボロボロで自筆の書き込みもある貴重なもの)を無断で借用した。東京や東北への旅でも肌身離さず熟読し、血となり肉とし、1年後に返却している。(とんでもない人物である。笑)よって、陽明学が頭山の思想的な基盤と言ってもいいだろう。

陽明学といえば、「浩然の気」であるが、頭山満本人も含め、玄洋社の人物は凄い。進藤喜平太は、萩の乱で獄中にある時木馬責めにもニコニコと穏やかな表情で泰然自若であった。畏敬の念で見られていたという。また玄洋社草創の頃、他県の政治結社との飲み会で、酒の飲めない頭山に親分格の男が「わしの酒が受けられんのか」と怒鳴った時、進藤が歩み寄り、襟首をつかんでずるずると引きずり階段から突き落とした。一座に向かって、ニコリと笑ってみせたという。進藤は、嬉しい時はもちろんニコニコすが、何か気に入らぬことがある時もニコニコする。そのまま立ち上がると、相手の強弱、人数の多さなど全然問題にしない。腕力も何もない。柔道家でもない。しかし相手は皆進藤の気にのまれて、手も足も出ない。その行動の強さは、物事は理屈ではない、精神ひとつだということを示している。

こんな内容なので、ついついのめり込んでしまうのだった。

2022年10月12日水曜日

「彰義隊」吉村昭 Ⅱ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9
D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
輪王寺宮は、結局、会津の敗北を受け、仙台藩の勧めで帰順し、京都の伏見宮預かりになる。実家である。ひたすら謹慎。箱館戦争が終了後、初めて伏見宮(父:仏門に入っていた禅楽親王)に会い謹慎が解かれた。兄(東伏見宮)から勧められ、東京に出る。このころ、徳川慶喜も謹慎を解かれ静岡にあった。兄がイギリスへ留学した直後、有栖川宮の屋敷に移される。有栖川宮の底しれぬ怨念、悪意からである。悶々とした日々、宮は兄同様留学を願い出る。明治天皇のはからいでプロシア留学が決まる。

宮は甥にあたる明治天皇の温情を感じた。船は渡仏する西園寺公望や渡米する森有礼らと一緒でサンフランシスコ・NY,ロンドン経由でベルリンに入る。明治4年2月である。ドイツ語を修め翌年の春には精通するようになる。この間」、北白川宮家を継ぐことになった。以後は北白川宮と呼ばれる。

プロシアの軍学校の教官を招き、数学、測地学、兵制を学ぶ。8年には陸軍大学校の1期生となり、10年卒業。ベルリンを離れる。帰国した際は31歳。ちょうど西南戦争の末期である。陸軍学校に入学、勲一等旭日大綬章を授けられた。歩兵中佐、大佐となり、第一旅団長少将、大勲位菊花大綬章も授かる。中将となり大阪の第四師団長になった時、日清戦争が起こる。朝敵の汚名を晴らすべく従軍を願い出るも、当時の参謀総長は、あの有栖川宮で何の音沙汰もなかった。しかし、その有栖川宮が死んだ。「宮は、時間の容赦ない流れを感じた。」と吉村昭は表現している。なんと文学的な表現であろうか、と私は思う。

兄の小松宮が新参謀総長になった2日後、宮は近衛師団長に任ぜられる。小松宮と共に講話直後の大陸に渡る。講和会議で日本領となった台湾に不穏な動きがあり、近衛師団に投入されることとなった。宮はようやく国恩に報いる時来たれりと台湾に向かう。台湾北部から南部に向かって進軍したが、多くの兵がマラリアに感染、宮も感染する。やがて馬に乗れなく成り、竹で作られた轎に乗り指揮をとった。最後は担架で運ばれながら南下、台南の地で亡くなった。48歳だった。

…朝敵の汚名返上のための鬼気迫る死に様である。エスタブリッシュメントとして、数奇な人生を生き抜いた人だったんだと、庶民である私などは感じる。

2022年10月11日火曜日

「彰義隊」吉村昭


彰義隊は、江戸無血開城後に、上野・寛永寺を根拠地としていた反新政府の幕臣たちの集団で、そもそも薩摩藩による江戸の騒乱を鎮める役割も果たした幕府の緊急時の治安維持装置でもあった。しかし結局、村田蔵六=大村益次郎によって壊滅させられる。この彰義隊のいた上野寛永寺と日光東照宮の山主が、本書の主人公・「輪王寺宮能久親王」である。今回の吉村昭の「彰義隊」、通勤時に、少々眠くても止まることなく夢中で読んだ文庫本である。その最大の理由は、私がこのあたりの幕末史は、大筋は知っていても、詳しくなかったことによる。極めて新鮮だったのだ。

彰義隊の上野の戦いの話の前に、和宮に続いて、輪王寺宮能久親王の幕府側にスタンスを置く皇族二人が、朝敵となった徳川慶喜への嘆願を依頼され、幕府や江戸の街への深い愛着から立ち上がる話が描かれる。これに対する新政府軍の総督は有栖川宮である。和宮の許嫁であった故に、幕府への反発が尋常ではない。輪王寺宮も有栖川宮の傲岸さに不快感を抱く。この軋轢が輪王寺宮を超敵側に追いやることになるのだが…。

ちなみに、私が大好きな山岡鉄舟の駿府行きなど、幕府側からのアプローチも描かれている。またまた、ちなみに私は学生時代、嵐電「有栖川」駅近くにも1年間下宿していたことがあり、この有栖川という極めて京都らしい名称に親近感があったりする。(どうでもいいことだが…。)

たしかに新政府軍はかなり傲岸である。(司馬遼の作品を読んでいても同様。)まあ戦争というのはそういう人間の根底にある野蛮さ・修羅の生命が前面に出てくる空間ではあるわけだが…。ところで、この輪王寺宮は、生粋のエスタブリッシュメントである。20歳初頭だが、なかなかの威厳と思慮、配下への思いが深い人物である。彰義隊に対しても、幕府の菩提寺・寛永寺、また徳川慶喜の近親の場を守護するという大義に強い親近感を持つのは当然のような気がする。結局流れの中で、彰義隊は殲滅され、寛永寺は焼かれ、輪王寺宮は落ち延びる。この辺は「桜田門外の変」や「長英逃亡」さながらの吉村昭のサスペンス劇場である。

結局のところ、輪王寺宮は榎本武揚の尽力もあって、東北へ落ち延びる。そこで東北列藩同名の盟主に押し上げられてしまうのである。まさに数奇な運命である。武器の優劣は戦況を左右する。薩長を中心とした新政府軍と古色蒼然とした東北の藩では如何ともし難い。

…現在のウクライナ紛争での、ウクライナの善戦はNATO諸国の最新の兵器の支援の賜である、ということを再認識した次第。今日はここまで。…つづく。

2022年10月10日月曜日

コーカサス3国の話 2

https://www.kaze-travel.co.jp/blog/naniwa20191221.html
「世界まちかど地政学」書評の続きである。本日は残るアルメニアの話。アルメニアの建国は前2世紀。以降はジョージア同様、覇者の侵略を受け、再独立の繰り返しで存続してきた。世界でキリスト教を国教としたのは、このアルメニア正教。アルメニア語、アルメニア文字とともに民族のアイデンティティである。かのノアの箱船が着いたといわれるアララト山(画像参照)は現在はトルコ領だが元はアルメニア領。トルコとの軋轢はWWⅠの時トルコ領内のアルメニア人大虐殺(100万~150万人)に始まる。以来、トルコにいたアルメニア人が欧州やアメリカに拡散する。

…昔の経験だが、NYの移民博物館・エリス島で、アメリカと他国の国旗がクロスしたバッジを売っていた。この時、かなりの数が陳列されていたのがアルメニアで、これだけバッジの需要が見込まれるということは、かなりのアルメニア人がアメリカに移住していることがわかった。私は、この時に初めてアルメニアという国・民族を意識したのだった。(画像はこんな感じのバッジということで…。日の丸を星条旗に変えてイメージしてください。)

よって、アルメニアは、反トルコであるわけでソ連に編入されるが、コーカサス3国で唯一ロシアとは接していないが、ロシアの軍事基地を置いていて、トルコ系のアゼルバイジャンとは極めて険悪な関係にある。EU志向のジョージアや世俗化したイスラム国家アゼルバイジャンに比べ、旧ソ連的な空気が強く残っている。

著者は、こう記している。「ジョージアは国内に多数の分派を抱えるが、ロシア以外に外敵はいない。逆にアルメニアは、ナゴルノ・カラバフ紛争でアゼリー人(=アゼルバイジャン人)を追い出して以降、ほぼ純粋にアルメニア人の国なのだが、かつての侵略者であるロシアくらいしか仲間がいない。かつてトルコにやられて苦しんだ民族浄化を規模は小さいとはいえ自分もやってしまったわけだが、業の深いことだ。そして今は、本心からの仲間がいないまま、おそらくはアララト山なみの孤峰の気分で佇んでいる。」…なるほど、と思うのである。

2022年10月9日日曜日

コーカサス3国の話

https://tabiette.com/?p=3688
コーカサス3国とは、アゼルバイジャン、ジョージア(グルジア)、アルメニアの3カ国を意味する。「世界まちかど地政学」にはこの3カ国を対比しながら書かれているので実に興味深い。ちなみに私は、JICA大阪でアルメニア人の文化人類学者さんにM高校の生徒とともに会った。またエルサレムで、息子の住んでいた所の大家さんの奥さんのご両親がグルジア人だったこともあって、アゼルバイジャン以外には縁がある。

そのアゼルバイジャン、首都バクー近海のカスピ海は、染み出す石油で汚染されている「油性の水辺」。このことの衝撃が大きかったが、バクーの歴史を考えれば当然である。トルコ系のアゼリー人は、シーア派でが、アゼルバイジャン語はトルコ語と大差ない。(イランの方が人口は多いらしい。)シーア派なのだが「世俗派ムスリム」の国で、女性は髪を覆っていない人が多いらしい。アザーンが響くこともない。ビールやワインが名物であるというのも驚きである。

ジョージアはアケメネス朝ペルシャ以来、アレクサンドロスの後継セレウコス朝シリア、帝政ローマ、ササン朝ペルシア、東ローマ、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジュクトルコ、イルハン国、ティムール帝国、サファビー朝ペルシア、オスマン・トルコ、帝政ロシア、ソ連といった国々に支配されてきたのだが、最大民族のグルジア人は一貫してこの地に留まり、それらの国が衰えるたびに独立を回復してきた。イベリア王国と名乗っていた頃、世界で2番めに古いグルジア正教を国教とし、5世紀までに独自のグルジア文字を発明している。余談だが、イベリア半島の名の由来はこのイベリア王国で、バスク人はその末裔ではないかという説があるそうだが、証明はされていない。(バスク人の由来は今も不明)そのバスク語もグルジア語も日本語と同じ名詞の後に助詞がつく膠着語で、アゼルバイジャン語(アルタイ系)アルメニア語(インドアーリア系)とは異なる。極めて孤立した国家だといえるだろう。ところが、ジョージアは、複雑な多民族国家でもある。アジャール人は同じグルジア語を話すグルジア人だがムスリムでスンニ派で自治共和国となっている。アブハジア人は、同じ系統の膠着語を話すが通じない。ロシア正教でキリル文字を使う。ジョージア出身のスターリンに中央アジアへ強制移住扨せられた歴史がるので、恨みが強い。オセット人はロシア正教でキリル文字だが、ペルシャ語圏で、ロシアをバックに内戦を起こし事実上独立している。同じ正教国ながらロシアと対立し、経済的に苦境に立ちEU加盟を夢見るジョージアだが、長い占領の歴史から見れば、むしろ平和な1コマかもしれないと著者は記している。

さて、最後にアルメニアであるが、今日はここまで。…つづく。

2022年10月8日土曜日

パナマ地峡の世界史

https://4travel.jp/travelogue/11395295
「世界まちかど地政学」で、パナマの話が出てくる。スペインのバルボアによって、地峡の存在が明らかにあり、これに同行していたピサロが、後のインカ帝国を滅ぼすことになる。

パナマ運河の重要性は言うまでもないが、たとえばアジアからコンテナでアメリカ東海岸を目指す場合、アメリカ本土の大陸横断鉄道を利用したほうが早いそうだ。大陸横断鉄道といえば、77kmと世界一短いのが、パナマ地峡鉄道。運河開通の半世紀前、1855年の開通で、アメリカの大陸横断鉄道よりも14年早い。ちなみにこの鉄道には、幕府の小栗上野介らの使節団がサンフランシスコからワシントンD.C.に向かうために乗っている。その12年後には、早くも日本最初の新橋ー横浜間の鉄道が開通している。

ところで、パナマには軍隊がない。隣国のコロンビアとは友好的関係であるし、コスタリカも同じく軍隊を廃止した国である。1988年にノリエガ将軍が麻薬組織と共謀してアメリカに密輸を繰り広げていたことに、パパ・ブッシュ政権が軍事介入して以来のことで、アメリカとしては珍しく後腐れのない軍事介入であったようだ。1999年末カーター政権時にパナマ運河をパナマ政府に返還、米軍も完全撤退した。アメリカにとって運河の自由な通行が重要で、運河の収入はパナマ政府にとっては重要であるが、アメリカにとっては雀の涙(著者の表現)であるし、パナマ国土や国民の支配は無用であるからだ。ただ、第三国がこの運河の自由高校を妨げれば、アメリカは黙ってはいないはずで、この経済的利害関係がパナマを守ってくれているといえそうだ。

2022年10月7日金曜日

最後の晩餐

https://www.tasteatlas.com/villageparkrestaurant
このYou Tubeチャンネルを見て、最後の晩餐は何が良いか考えた。

https://www.youtube.com/watch?v=jALXQQ_BXEk&ab_channel=%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%8C%E5%A0%B1%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BF%9D%E5%AE%88%E7%B3%BBNews%EF%BC%8Fhirokuma%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B

順番は決められないので、羅列しておこうと思う。

美味しい”たこ焼き”と”イカ焼き”。551蓬莱の豚まん。京都王将の五目ソバと餃子。天下一品の”こってり”ラーメン。マレーシアのKL近郊でM先生に連れて行ってもらった最高に美味しいvillageparkrestaurantの”ナシレマ”(画像参照)、ラム肉のステーキ。マッシュルームとサラミのピザ。キムチ鍋。

マレーシアの”マンゴースス”と”スイカジュース”、パパイア。マンゴー、赤のドラゴンフルーツ。日本の柿と桃。

あわしま堂の和菓子(桜餅・塩豆大福・よもぎ大福など多数)、美味しいジュークリーム。そして、”チョコモナカ・ジャンボ”。

まさに糖尿病患者っぽいリストになったような気がする。最近は血糖値も下がってきているので、少しずつ食しているけれど、最後の晩餐となれば後のことは全く気にせずに…。

2022年10月6日木曜日

エジンバラとグラスゴーの話

https://toyokeizai.net/articles/-/48249
スコットランドとイングランドの関係は、ウェールズやアイルランドが征服の対象であったのに対し、王室が政略結婚を重ねての縁籍関係でエリザベス1世後は、スコットランド王がイングランド王を兼ねることで統一への道筋が引かれてしまった。同君連合は、ちょうど清になって満州が中国の領土に入ったような感じだ。スコットランド人もケルト系だが、言語は聞き取りにくい英語の方言で、ウェールズ語やゲール語とは違う。

…昔M高校で、スコットランドからきたALTが、初の授業で我が英語科3年生に全く通じず、しょげて職員室に帰ってきたことがあった。たしかにスコットランドの発音はわかりにくい。(笑)

スコットランドは、パワーバランスの関係で統一されていくのだが、法は大陸の成文法の伝統を守ったし、英国国教会ではなく、カルヴァン派(プレスビテリアン)が主流。政治的には労働党の金城湯池という相違があった。1997年、スコットランド議会と自治政府が復活(ウェールズ・北アイルランドも同様)、2014年の住民投票では、UKからの独立が55対45で否決された。2016年のブレグジットの賛否を問う住民投票では、62%が残留を支持した。

「世界まちかど地政学」の著者は、北欧のような自然条件が、自由競争を好むイングランドとは異なる社会民主主義的な気風を産み、人口と生産力で圧倒するイングランドへの経済的依存を必然にしてきたのだろうと分析する。

首都エジンバラが歴史的なプライドから独立を求めるのに対し、経済の中心グラスゴーはEU離脱後イングランドから外資企業の移転という経済的メリットも視野に入れているようだが、イングランドという市場を失う可能性も強く、二者択一ではうまくいかないようだと著者。そもそもUKは、国内の様々な利害をだましだまし折り合いつけて臨機応変にやってきた。そもそもブレグジットの賛否を二者択一で行ってしまったのが間違いではなかったのかと結論づける。スコットランドはイングランドと離婚したがって入るが、北海油田が枯渇した後の経済的自立という難問も抱え、躊躇しているように見える、とのこと。

2022年10月5日水曜日

ウェールズの話

https://twitter.com/Wales_in_Japan/status/1404823215877197829
ウェールズは、四国より少し大きいくらいのUKのカントリーである。ウェールズ語はケルト語に由来する。国内では、主要な看板にウェールズ語が併記されているが、英語とは全く違う。一部の地域を除いて話者は少ないらしい。13世紀にイングランドに併合されたが、独自性を保っていることと同時に独立運動もないことに、「世界まちかど地政学」の著者は戸惑っている。

その理由を著者は、そもそもウェールズとイングランドの間に山岳地帯があり、イングランドに侵入した民族(昨日のエントリーで前述)が、この地まで進出してこなかったこと、併合時に王室の皇太子が「プリンス オブ ウェールズ」を名乗ることとなり、ステータスを守ったこと、そしてそれら以上に「薔薇戦争」の最終的勝利者となったリッチモンド伯(後のチューダー朝のヘンリー7世)の母親が幽閉時に、執事と恋に落ちるのだが、その執事がウェールズ公の孫にあたるゆえ、リッチモンド伯にはウェールズの長弓隊が助力し、その結果勝利したらしい。また後に石炭を多く産出したウェールズは、産業革命の原動力ともなり、イングランドの形成・成功に大きな貢献をした。こういう歴史的事実が、ウェールズの独自性の尊重として働き、プライドを持てているとのこと。実に興味深い話だ。

…南アのジョハズの空港で、私はウェールズ人の青年と話したことがある。どこから来たのと聞くと、当然ながら、「UK」ではなく、「ウェールズ」と答えてきた。ルフトハンザ航空に乗る乗客が一直線に規律正しく並んでいるのを見て、「彼らはクレイジーだ。」と笑っていいたのを思い出す。

北アイルランドは「イギリス人であり続けたい人々が多数派の地域」故に、アイルランドとの間に齟齬が生じるのを覚悟の上でブレグジットに付き合わざるをえないのだが、ウェールズはブレグジットをめぐって独立するという動きもなく、イングランドのわがままに、お供することになったという感じらしい。

もう一つのUKのカントリー、スコットランドは独立志向が強い。三者三様なのである。

2022年10月4日火曜日

ベルファストの話

https://twitter.com/momusplay/status/1208498972018409472
お気に入りのYou Tubeに「しげ旅」というのがある。今はちょうどヨーロッパをかなり長い間旅していて、イギリスの北アイルランド、ウェールズ、スコットランドと回っている。どっちかというと各地でグルメと酒を楽しむという、およそ私の旅とは対蹠点にあるようなチャンネルなのだが、面白い。https://www.youtube.com/watchv=JDp45rXnnSw&ab_channel=%E3%81%97%E3%81%92%E6%97%85

「世界まちかど地政学」も北アイルランドのベルファストの話が出てくる。北アイルランドといえば、クロムウェルのアイルランド侵略によってアイルランド島が植民地となり、その後ピューリタンとカトリック・アイリッシュの対立で長く続いた地だ。その北アイルランドは、豊かさではアイルランドにかなわなくなっている。(1人あたりのGDPがUKの1.5倍)昔はじゃがいも飢饉やアメリカへの移住などで貧乏な田舎だった(司馬遼の愛蘭土紀行の定義)カトリック国・アイルランドはIT産業や金融で栄えている。連合王国のカントリーである北アイルランドは、造船や航空機産業など重工業が中心で産業構造的には遅れてしまったのではないかと著者は見ている。

アイリッシュはケルト系でゲール語も話すが、そもそもUK自体が民族の混合体。アーサー王はケルト系だし、ドイツ方面から来たアングロサクソン、デンマークのデーン人、フランスから来たノルマン人などが複雑に混血しているのがイギリス人だ。ちなみに今の王室は、ドイツ系で、故エリザベスの夫君・フィリップ殿下はギリシア系である。この辺は単一民族国家・日本にはわかりにくいところ。

ブレグジットによって、EUに加盟しているアイルランドとの国境管理はどうなるのだろうか。北アイルランドの苦悩は続いている。

2022年10月3日月曜日

カリーニングラードの話

先日市立図書館で「世界まちかど地政学」を借りてきた。以前読んだのは続編で、これが最初の1冊である。今日は、その第1章、カリーニングラードの話についてエントリーしたいと思う。カリーニングラードは、バルト三国の南に位置するロシアの飛び地である。

そもそもここは、ドイツ騎士団が開拓し、プロイセン王国発祥の地であり、ケーニヒスベルグがあったところ。ケーニヒスベルグとくれば、かのカントが一生を過ごした所である。実際、カント島という名の中洲があるらしい。(オイラーの有名なケーニヒスベルグの7つ橋(位相幾何学の問題)は、このカント島らしい。)ここには、ドイツが寄付して再建されたケーニヒスベルグ大聖堂がある。宗派が気になったので調べてみると、そもそもはカトリック教会だったが、ルター派に。さらにロシア正教の2つの礼拝堂があるとのこと。やはり…である。ここにはカントの霊廟があり、1時間に四回、ベートーヴェンの運命の第5を4つの鐘が鳴らすらしい。おお、ドイツらしい、という話ではないか。
https://twitter.com/hidelcondorpasa/status/1232860493544509440
とはいえ、今は著者によると「社会趣味」(息子が言うところの社会主義的な建築物が多い)の街になっている。ケーニヒスベルグはWWⅡのイギリス軍の空襲と、ソ連赤軍の戦いで見るも無惨に消え去ったらしい。今更ながら当時の写真パネルが街中にいくつも展示されているのが鬼気迫る雰囲気だと著者は記している。この包囲戦で、4~5万人のドイツ軍将兵と民間人が死亡、捕虜として8~9万人がシベリアに送られ多くが帰還できずだった。ソ連側も6万人の死傷者を出している。陥落後12万人のドイツ人民間人が残されたが、その多くが病気や飢餓、暴行によって死亡し、2年後に生き残って東ドイツに追放されたのはわずか2万人だったという。レニングラード(現サンクトペテルブルグ)包囲戦では、67万人のロシア人犠牲者が出ているから、これは軽いものだと考えているのかもしれない、と著者。ちなみに、東プロイセンに住んでいた1.3万人のユダヤ人もナチスにより虐殺されている。

…WWⅡでは、民族浄化があたりまえのように行われていたわけだ。今は、バルト海のロシア海軍基地があるカリーニングラードの人口は、他の地から移住してきたロシア人が85%、これにウクライナ人・ベラルーシ人が住んでいるらしい。なにか、先日、ロシアに編入された東ウクライナを彷彿とさせる。

…地続きのヨーロッパのこういった移民や民族浄化というのは、島国日本ではなかなか実感しにくい。著者は北方領土を考える上で、カリーニングラードのことを知らずには語れないだろうと記している。同感である。

…大哲学者・カントの「恒久平和のために」が書かれた地は、多くの戦争犠牲者を出して、今こうなってしまっているわけだ。なんともやるせない話である。

2022年10月2日日曜日

長渕剛の訴えを支持する。

https://mobile.twitter.com/takuranke011
長渕剛といえば、私より少しばかり若い世代に圧倒的な支持を受けたシンガーである。拓郎・陽水・かぐや姫の世代から見れば、次の松山千春世代の更に後くらい。尾崎豊とともに”純子”や”純恋歌”、”乾杯”、”とんぼ”なんかは私も知っている。

その長渕剛が、ずっと私が気になっていたことを、コンサートで訴えてくれた。北海道でのコンサート。北海道の土地を外国人に売らないで欲しいというメッセージである。

https://www.youtube.com/shorts/LBbn7PICzzY

すでに、大陸の中国人によって、北海道の多くの土地(静岡県に匹敵するらしい)が買われている。これは異常事態だ。千歳空港(自衛隊の千歳基地)の近くも買われているし、水源も買われていたりする。何度かエントリーしたが、中国共産党は、「国防動員法」を定め、有事の際に破壊工作を行う義務を海外在住の中国人に課している。その中国共産党下にある大陸の中国人が北海道の土地を買い漁っているわけだ。日本政府の危機感のなさ、親中は国会議員の売国奴的姿勢に呆れる。右とか左とか言う前に、人間として、長渕の言う事は正しい。

私には、中国本土にも友人がいる。M高校時代世話になった現地旅行ガイドの洪さんと王さんだ。彼らを悪く言いたくはない。悪いのは人民ではなく中国共産党である。中国共産党のやっていることは実に悪意に満ちている。この長渕の訴えがもっと拡散することを願って、エントリーさせてもらった。

最後に、確認しておきたい。我がマレーシア人の中華系の教え子たちには、またマレーシアの中華系の友人たちには、全く関係がないし、中国共産党下の大陸の中国人と区別して欲しい。彼らに日本への悪意などこれっぽちもないのだから。

2022年10月1日土曜日

燃える闘魂 A・猪木死す

https://wrestlingch.tokyo/archives/11363
今朝、アントニオ猪木氏が死去したという報道が流れた。私は、プロレスは新日本、猪木のファンであるので、ついにその時が来たか、と思った。難病だったようで、入院している姿を見ると、あまりに悲しいので、「最後の言葉」というYou TubeがUPされているようだが、きっと見ないと思う。私の猪木は今もリング上にいて、コールされた時に赤いタオルをパッと払い除けている。

プロレスは、エンターテインメントであるから、ストーリーがある。八百長だという批判もあるが、そういう人は見なくていい。昔「私プロレスの味方です」(村松友規著)を読んで、私もプロレスの味方になって以来、そう考えてきた。猪木、坂口、藤浪、長州、そして佐山のタイガーマスクが登場した頃の新日本プロレスは最高だった。タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントといった外人レスラーも実によかった。

猪木自身は、魅力に溢れた大人物であることは間違いない。モハメド・アリや熊殺しウィリー、パキスタンの英雄など危険な試合も数多くしてきたし、参議院議員になってからは、師・力道山の思いを胸に北朝鮮との関わりを深めたりもしてきた。さらに湾岸戦争の時、外務省の反対を押し切って「平和の祭典」(プロレス興行)をバグダッドで開催、個人で飛行機をチャーターして人質全員を日本に連れて帰ってきた。政治家としてはぶっ飛んだ行動だが、このプロレス的政治は、”燃える闘魂”らしく”偉業”だと私は思っている。

新日本のレスラーからは、様々な猪木論が漏れ伝わってきて、人間的にはとんでもない部分があったのかもしれないが、常人には解らないスケールの大きさを感じずにはおれない。まさに、「燃える闘魂」。

…ありがとう、アントニオ猪木。…心よりご冥福を祈りたい。

ナンバーズ4


今は亡き父親が私が生まれる前、競艇にハマって、今は亡き母親が大変だったと常々言っていた。それがトラウマになっているのか、私はギャンブルはやらない。パチンコも一時少しだけやったが、1000円以上すったことはないし、競馬も工業高校時代同僚に勧められ、付き合いで有馬記念で大穴を当てて以来勝ち逃げ中である。麻雀は嫌いではないが、かけてやったりしない。アメリカやカナダで、カジノに入ったことがはあるが、あくまで観光気分、使っても$10。

と、いうわけで、ギャンブルにハマらない人生を歩んできた。唯一の例外は、宝くじくらいだろうか。と、言っても妻がジャンボなどを買うのを横目で見ているだけだが…。(宝くじがギャンブルか否かは議論のあるところだと思う。笑)

今朝、「週一回ナンバーズを買ってみたら。毎週楽しみができるやん。」と妻が言いだした。ナンバーズやロトという宝くじがあるのは知っていたが、いろいろ説明してくれた。まあ、1回200円ポッキリで、少しだけ夢を買うのもいい。

というわけで、夕方散歩がてらに、宝くじ売り場のある大型スーパーのH堂まで行ってきた。予定通り200円だけ。(笑)当たっても大したことはないが、当たったらそれはそれで嬉しいだろうなあ。(笑)