2022年10月22日土曜日

「頭山満伝」広田弘毅のこと

広田弘毅といえば、文官で唯一A級戦犯として処刑された人物である。彼もまた、頭山・玄洋社に繋がる。12、3歳の頃から玄洋社に出入りしていたという。玄洋社の柔道場で稽古し、修猷館を卒業後、玄洋社の平岡浩太郎に学費を出してもらい、一高から東大に進む。初めて上京した時に頭山と会い、「外交官になろうと思ってきました。」と言うと、その後様々な人物を紹介され薫陶を受けた。妻は、三菱財閥の令嬢との婚約を勧められたが、大隈事件の時の見届け役だった月成功太郎の娘・静子と結婚している。ちなみに、この静子は、巣鴨プリズンに入った広田の憂いを断つため自害している。さすがというべきであろう。

さて、広田弘毅のことは少しおいて、蔣介石と頭山の交友について記したい。蔣介石は、北伐を行い、第一次国共合作を上海クーデターで潰した。この時、国民党左派の汪兆銘(武漢政府)と蔣介石の右派(南京政府)に分裂する。「余は党のために身命を惜しむものではない。」と蔣は国民党が一つになるためにと下野し、昭和2年に来日する。旅装も解かずに頭山邸に来た。隣家で起居し、大アジア主義について教えを乞うたという。孫文を支援してきた松井石根(A級戦犯・絞首刑)や田中義一首相も訪れ、蔣の中国統一支持と満州の日本の権益保護が合意された。田中義一は、満州は張作霖に委ねようとしていたらしいが、関東軍によって爆殺され、田中ー蔣ラインの合意は田中内閣の総辞職により消えた。

頭山満と蔣介石 https://kknews.cc/history/ep6re4q.html
しかも盟友の犬養毅が5.15事件で暗殺された。その前には、血盟団事件の日召が頭山邸に身を隠し、自首を決意したので出頭させたりと、不穏な事件が続く。満洲国皇帝溥儀が来日した際には、頭山は招待を断っている。そして支那事変が起こる。こういうややこしい時期に広田弘毅は外相の任にあったわけだ。

さて、近衛首相が事変処理のために内閣参議(要するに相談相手)を探していた。当然のごとく、中国革命の支援者であり、国民党政府にも多くの知己がある頭山にという声が上がった。広田弘毅と緒方竹虎が諾否を求めに行くことになったが、内相の猛反対にあって流れた。頭山自身も「自分のような者は遠くにあって陛下を思うのがちょうどよい。」と受けなかっただろうといわれている。近衛首相は、緒方から頭山の名で書かれた対華全面和平の意見書を見て、西園寺公望に「自分はやっぱり頭山を(中国へ)やろうと思う。頭山と蔣介石は昔から非常にいい。頭山なら広田とも懇意だから、この二人をやればいい。」と言っていたらしい。一方、汪兆銘も来日時には、宮中記帳の後頭山のもとを訪ね、その後に総理といった関係だった。頭山は、なにより蒋と汪の両者をつなぐことが必要と考えていた。

昭和16年、東久邇宮ら「重慶に行って蔣介石と会い和平にもちこんでもらえないか。」と依頼を受ける。緒方竹虎、中野正剛、そして広田弘毅を呼集、緒方には蔣介石への連絡と会見の設定、事後の紙面でのキャンペーン、中野には国会対策、広田には重臣対策を指示した。「頭山翁とならば会いましょう。」との伝言が伝わり、最後のご奉公(86歳)が実現するかにみえたが、近衛内閣が東條内閣となり「その様な重要な問題を陸相兼務の総理である私に何の相談もなく勝手に進めてもらっては困る。」東久邇宮が説明しようとしても「今はそんな時期ではありません」と協議さえさせなかった。

広田は、重臣会議で、近衛首相の後継に東久邇宮を推挙したが、すでに軍がこの和平案を察知しており、木戸幸一主導の重臣は誰も賛成しなかった。(思うに、後の中野正剛の反東條の姿勢はこの顛末が重要な意味合いを持っているのではないかと私は思う。ちなみに木戸は、東京裁判で自己弁護に走り絞首刑を免れている。黙する広田への批判的な言も残している。)

頭山は、昭和19年10月亡くなった。徳富蘇峰、広田弘毅が弔辞を述べ、無位無官の者に対し異例の、天皇陛下より勅使が使わされ祭祀料が下賜された。フィリピン、インドネシアそして中国からも多くの弔電が届いた。

「東京裁判で、広田は一切の抗弁をせず、沈黙を守ったが、その理由の一つは、頭山ら玄洋社の先輩たちに迷惑が及ばぬよう配慮したゆえではなかっただろうか。」と著者は書いている。実際、広田は、玄洋社を過激な右翼組織と見るGHQの調査分析課長の影響もあって、絞首刑の判決を受けた可能性が高い。このような頭山・玄洋社を巡る和平案の試みの事実は、その後GHQによって、歴史から抹殺されたわけだ。

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