2022年10月19日水曜日

「頭山満伝」中野正剛のこと

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頭山満伝の中には、日本近現代史に名を残す多くの有名人が登場する。玄洋社精神の体現者として、突然中野正剛の話が出てきたのには少し驚いた。玄洋社は、そもそも福岡・黒田藩の人々から発しており、中野正剛も中学は修猷館(元藩校で今は県立高校)出身で、早稲田大学を経て東京朝日新聞記者となった。若い頃から頭山邸に出入りし、大正9年に34歳で衆議院議員(連続8回当選)となった。昭和19年、国家権力の強化に反対して大政翼賛会を脱会、東條英機に反抗した。昭和18年、これも玄洋社の系譜につながる朝日新聞主筆の緒方竹虎(彼も修猷館・早稲田出身)に勧められ書いた「戦時宰相論」に発する。中野は、「このままでは戦争に負ける。余力のあるうちに集結を図らねばいかん。」と東條内閣を亡国の政権と見ていた。中野の最後について、この書には詳しく書かれている。

早朝、紋付きの羽織袴姿の中野は、肘掛椅子に座った状態で、半紙を巻いた日本刀で横一文字に2回腹に当て、その後刀身を頸動脈に当てた。吹き出す血しぶきを左手で抑え隣室に控えていた憲兵2人に気づかれないようにっして、前にうつ伏せになっていたという。黒田武士の作法通りで、机上には「大西郷全伝」が広げてあった。遺書は12通あり、全て護国頭山満先生と頭書きがあり、仏壇に収められて、頭山に託されていた。(憲兵隊に手出しさせないためであった。)四男によると、中野は、頭山満、徳富蘇峰、三宅雪嶺を尊敬していたという。

中野正剛のイメージは、どうしてもムッソリーニとヒトラーに会いに行ったファシストとなりがちである。しかし、中野は頭山の孫文の大アジア主義と共通する視野にたっており、日中戦争を修めるのに必死だったそうだ。

中野の葬儀は、盟友の緒方竹虎が葬儀委員長となった。東条は死亡記事の扱いを小さくさえたり、斎場で支持者の検問をしたりと最後まで弾圧をしたが、2万人の会葬者が集まり、山本五十六の国葬と並ぶ民間葬となった。首相秘書官が東条の花輪を持って来た時、緒方は「故人はは恩讐の彼方に在る。誰の花輪でも受け取るであろう。しかし、葬儀は現世では生きている者が執行する。花輪をどこに置くかは、この委員長が決める。それを承知ならばお受けしよう。」と言い、秘書官は一言もなく引き下がった。葬儀が終わり、緒方は粛々と続く葬列を見ながら、頬をぬらし、胸中で叫んだという。「中野、貴様ぁ、死んで東条に勝ったぞ。」

…この「頭山満伝」には、玄洋社に係わる様々な人物が登場する。追って紹介していきたいと思う。

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