2022年10月16日日曜日

宗教と戦争 考

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さて、次のお題は、「宗教と戦争」の関係性である。

昔、NYでのユダヤ教研究の旅から帰国する途中のソウル空港でニュージーランドの牧師さんと話したことがある。彼は日本で英会話を教えていて、少し日本語もできる。英語と日本語のチャンポンで、宗教について語り合った。その中で、「神は戦争を否定しない。」と聖書を開いた。この体験を元に、また600字程度の論考を記したいと思う。

一神教の神を信ずる国々が戦争を否定していないことは、世界史を見ても明白である。多神教の国々もまた同様であるが、ここでは一神教を中心に論じたい。ユダヤ教徒は選民ゆえ、キリスト教徒・イスラム教徒は異教徒である。イスラム教徒は、同じ一神教徒であるユダヤ教徒・キリスト教徒を他の神を信ずる者とは区別し聖戦の際、ジズヤの支払いだけを命じた。ただし、昨今のイスラム復古主義(原理主義)は異教徒扱いをしている。クルアーン第1章にこの宗教についての批判が述べられており、微妙である。キリスト教徒については、隣人愛がキーワードになりそうである。この隣人は、同じ宗派の人々と解釈したほうが正確なようだ。カトリックの対イスラムの十字軍をはじめ、度重なる宗教戦争(ユグノー戦争や三十年戦争等)や各地で行われた宗教・宗派の違いから行われた民族浄化は、異教徒と見ているとしか思えない。異教徒への暴力は神の意志なのか。

一神教の神は、和辻哲郎の論によれば砂漠という風土から生まれている。厳しい環境下で、生存のための争いは避けられないという前提があるように思われる。一神教の世界における人間とは、戦争する(殺し合う)者である。アダムとイヴの長男、カインはアベルを殺し、最初の殺人を犯している。このあたりが、平等大慧の仏教の世界とは大きく異なっているのではないだろうか。ただし、仏教において平和主義が貫かれたのはアショカ王くらいなのだが。

以上、600字ジャスト。この問題は実に難しい。ウクライナ紛争に触れてもいいのだが、西ウクライナのちょっと違うカトリックについて語るだけで大変。時節柄、こういう設問はありうるだろうと思う。

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