2014年4月30日水曜日

高尾具成氏のガーナ・ルポ

http://www.answers.com
/topic/w-e-b-du-bois
高尾具成氏の「サンダンルで歩いたアフリカ大陸」。オバマ大統領追跡ルポ、ガーナ編のエントリーを続ける。オバマ大統領がガーナを訪問したのは、民主的な選挙で、政権交代が繰り返し実現しているサブサハラ唯一の国だったからだ、と高尾氏は書いている。この訪問時、オバマ大統領とその家族は、アグラの西へ160Kmにあるケープコーストへ行っている。「アフリカ系米国人やアフリカ人の子孫である二人の娘が、”二度と戻れない扉”を通り抜けた後、再び扉を抜けて戻ってきた。-その姿を決して忘れないだろう。未来は不可知だが、風は常に人類の進歩の方向に向かって吹くのだということを思い起こさせるものだった。」と述べた。過去にガーナ入りした米大統領の中で、奴隷貿易跡地を訪問したのはオバマ大統領が始めてであった。

高尾氏は、このルポの中で、近代黒人解放運動の父と称される人物と彼と関わるビッグネーム2人の話を書いている。

1957年3月6日。ガーナの独立記念式典にキング牧師が参列している。「最後は正義が勝利するという私の信念を再確認した。自由のための闘争において私に新しい希望を与えるようにー。」とキング牧師は述べている。

1963年8月28日。リンカーンの奴隷解放から100年を記念して行われたワシントン大行進の前夜。アフリカ系米国人のW・E・B・デュボイス氏がガーナで死去した。大行進に集まった約20万人は、米国の、そしてアフリカの「近代黒人開放運動の父」に対して黙祷を捧げた。
デュボイス氏は、1900年ロンドンであった汎アフリカ会議創設大会で決議文起草の責任者を務め、以後第4回会議まで牽引した人物。

高尾氏はこう書いている。「興味深いのは、当時米公民権運動とアフリカでの植民地からの独立運動はリンクしていたことだった。」

アクラのカトリック学校で教鞭をとっていたエンクルマ氏(ガーナ初代大統領)は、1935年に米国に」渡り、ニューヨークのハーレムでも暮らした。デュボイス氏に強く影響を受け、公民権運動への連帯を深めた。1945年、ロンドンに渡り、その年全アフリカの開放や独立、そして統一を掲げて18年ぶりに開催された第5回汎アフリカ会議の中心人物としてデュボイス氏とともに奔走した。

1957年。ガーナ独立。このときデュボイス氏は米政府のパスポート発行拒否により独立に立ち会えていない。しかし、1961年エンクルマ大統領に請われガーナに渡った。妻とともに米国籍を放棄し、ガーナの市民権を獲得したあと95歳で死去したわけだ。

オバマ大統領は、デュボイス氏が眠るアクラ中心部のデュボイスセンターを訪れることはなかったが、米国から彼によって持ち込まれた黒人史関係の書物数千冊が朽ち色あせながらも並んでいる。同センターで働くディクさんは、オバマ大統領はアフリカ人に対しての自信や自立を促した演説を聴いて、デュボイス氏の銘文を指し示しながら右の握りこぶしで自らの胸を二度、力強くたたいたのだった。

…オバマは、米大統領として、自分の故郷に錦を飾るより、アフリカ系米国人として黒人解放運動の故郷を訪れたのだ、といえるだろう。

高尾具成氏のケニア・ルポ

http://www.skyscrapercity.com/showthread.php?t=917208&page=8
高尾具成氏のルポ「サンダンルで歩いたアフリカ大陸」には、オバマ大統領にまつわるルポが2編続いている。オバマ大統領は、ケニアのルオ人の血を引いている。高尾氏はそのルーツを求めてケニアを取材している。当時のオバマ氏は、まだ上院議員で大統領候補だった。父のシニア・オバマ氏は、4度の結婚をしているが、その2番目の妻の子である。父は米政府の奨学金で初のアフリカ人留学生となった人物でハワイ大留学時にオバマ氏は生まれている。2歳の時、父はハーバード大へ進学、一時はシアトルでともに生活をしたようだが離婚。シニア・オバマ氏はケニアに戻り、財務省の主任エコノミストなどを歴任したという。ちなみに、「バラク」という名は、スワヒリ語で「祝福」を意味する。

その父の出身地、ニャンゴマ・コゲロ村に近いビクトリア湖畔の都市キスムでは、冗談のような話だが、大統領専用機・エアフォース・ワンが離着陸できる空港が必要だ、ということで、総工費26億ケニア・シリング(約31億円)の大工事が行われた。大統領就任後の対米関係発展、支援の増加、雇用の創出…。経済効果は50億ケニア・シリング(約60億円)と見込んだという。しかし、この拡張工事を受注したのは中国企業であったという。チャン、チャン、である。

結局、オバマ大統領がアフリカ大陸訪問の際、向かったのはガーナだった。ケニアの故郷の人々の期待は思い切り空回りしたのだった。

2014年4月29日火曜日

高尾具成氏のルワンダ・ルポ

ウムガンダの日の孤児たち 彼らには食料も支給されるとのこと
http://www.sotokoto.net/jp/daily_photo/?keyword
=%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80
高尾具成氏のルポ「サンダンルで歩いたアフリカ大陸」には、ルワンダのルポも載っていた。ルワンダについては、私は複雑な印象を持っている。最初は、あの虐殺を乗り越えたカガメ大統領の素晴らしい実績を讃えていたのだが、コンゴ民主共和国の資源を巡って、きな臭い情報も入手することになった。あの大発展はコンゴ内戦を踏み台にしたものではないのか、という疑惑が生まれたのだ。ともあれ、高尾氏のルワンダ・ルポである。

高尾氏は、南アからインターネットで入国審査番号を予約して入国している。各国のルワンダ大使館に赴く手間を省略できるらしい。さすが、IT立国として投資を呼び込んでいるルワンダだ。高尾氏らしいのは、入国後すぐに持参した携帯ラジオの周波数を合わせたことだ。もし、私がルワンダに行ったら同じコトをすると思う。ラジオこそ、あの大虐殺の震源だったからだ。軽快な音楽が流れてホッとしたとある。…高尾氏が訪れたのは2008年。大虐殺から長い時間が経過しているが、その気持ちがよくわかる気がする。

ルポには、大虐殺のあった1994年4月3日(即ち当時のフツ人系のルワンダ大統領とブルンジの大統領の登場する航空機が撃墜された4月6日以前)、「千の丘の自由ラジオ」(RTLM)が、奇妙な「政治予報」を流していることが書かれている。「5日過ぎには、キガリ(ルワンダの首都)でちょっとしたことが起きる。7日、8日からは銃声や手榴弾などが炸裂する音が聴かれることになる。」そして、大統領機撃墜の30分後には、「大統領が乗った飛行機が撃墜された。(ツチ系主体の反政府組織)愛国戦線が攻めてくる。村を封鎖して検問を実施しろ。」「愛国戦線のスパイが潜んでいる。マシェーテ(山刀)やマス(釘を埋め込んだ棍棒)を持って立ち向かうんだ。」やがて、ツチ系住民に対するヘイトスピーチは「イニエンジィ」(ゴキブリ)とたとえるまでに激化、大虐殺が始まったという。

多くの山々に囲まれ、「千の丘の国」と形容されるルワンダは、日本の四国の約1.4倍ほどの面積で、キブ湖など7つの湖と5つの火山、ナイルの水源ニヤパロンゴ川を有する。豊富な降水量に恵まれ、良質なコーヒー、紅茶の産地としても世界的な評価が高まっている。アフリカのシンガポールを目指すルワンダは、フランス語圏ながら、英米独の支援を受けて経済成長を果たし、2008年英語を公用語として採用、さらに2009年、英連邦に加盟した。

毎月末の土曜日の午前、ルワンダ全土では車が路上から姿を消す。「ウムガンダ」と呼ばれる政府主導の清掃などの奉仕活動が実施されるためだった。カガメ大統領も掃除をする。大虐殺直後、街は遺体であふれた。野良犬がうろつき、異様な数の鳥が空を覆った。「虐殺の記憶を清算すると同時に決して忘れないとのメッセージが奉仕活動に込められているんだよ。」キガリの石畳の道を丹念に掃除していたボナバンチュール・ムバウェヨさん(30)のコトバだ。

「即」「15分」「30分」政府の許認可申請書類には役人が順守すべき「対応スピード」が記されている。営業免許や会社登録などは無料。官僚主義がはびこるアフリカでは異例の施策だった。外務協力省幹部は「知恵をしぼり、再建を模索してきた。それを農業で培われた勤勉な国民性が支えている。」と胸をはった。ウムガンダの日、キガリ郊外では植林活動も実施されていた。カラリサさん(40)は、軽やかに語る。「この国には、規律という美徳があります。大虐殺ではそれが間違った方向に働いたのです。」

…このルポを読んで、ルワンダが、アフリカの「シンガポール」を目指している姿が鮮明になるのは私だけではあるまい。と、同時に、最後のカラリサさんの言葉に、もう一つのある国の過去を思い起こさせるのも…。

2014年4月28日月曜日

春一番2014に行こうか。

私はゴールデン・ウイークに旅行することはほとんどない。せいぜい妻と近畿圏の展覧会に行ったりするぐらいだ。部活の応援にも行きたいし、あまり妻孝行できない。先日、車のFMラジオで突然懐かしい曲が流れた。斉藤哲夫の「吉祥寺」である。…大塚まさじがDJをしている番組で、曲のあと「春一番」の宣伝をしていた。「春一番」とは、昔から続くフォークの野外ライブだ。斉藤哲夫も大塚まさじも5月3日に出るらしい。

吉祥寺:https://www.youtube.com/watch?v=WxBvOpayGAY

妻に促されてWEBで調べてみた。ビッグネームもたくさん出てくる。5月3日から6日まで4日間、大阪の服部緑地で行われるようだ。妻と、せめて1日でも行こうか、ということになった。どうも3日・4日は部活の応援に行くことになりそうなので、5日か6日だなと思う。

5日は、石田長生や金子マリ、豊田勇造が出る。6日は有山じゅんじ、加川良、そして木村充揮が出るようだ。うーん。2日とも行きたいなあ。かなり迷うところだ。

*斉藤哲夫:妻が古くからのファン。吉田拓郎が歌った「されどわが人生」をはじめ、「バイバイグッドバイサラバイ」「グッドタイムミュージック」などは70年代の名盤であると私は思う。
*大塚まさじ:今は亡き西岡恭造氏の相方で、プカプカが代表曲。私たち夫婦は「アフリカの月」が大好き。
*石田長生:大阪を代表するギタリスト。親友のH氏が最も尊敬しているミュージシャン。
*金子マリ:妻の大好きなシンガー。昔、金子マリとバックスバニーを結成していた。
*豊田勇造:京都のフォークシンガー。「大文字」などシブイ曲が多い。
*有山じゅんじ:上田正樹とサウスtoサウスでコンビを組んでいた。「俺の借金全部でなんぼや」など今でもソラで歌える。(笑)
*加川良:昔からアルバム(LPだ。)を買い揃えてる、古くからのフォークシンガー。いい曲が多すぎて、加川良といえばこの曲、とはいえないほどだ。
*木村充揮:伝説の大阪のブルースバンド・憂歌団のボーカリスト。天使のダミ声で有名。私は「シカゴバウンド」が一番好き。「おそうじオバちゃん」「パチンコ」など素晴らしい。でも絶対カラオケではまねできない。

2014年4月27日日曜日

バスケットボール IH予選を見る

昨年、日本史研究という授業で体育科の生徒を教えていた。最もやんちゃな生徒が、男子バスケット部員で、最初、思い切りしかったのだが、その後ずいぶんと私を慕ってくれて、かわいがってきた。前から、公式戦を応援に行く約束をしていた。実は、それが今日だったのだ。ありがたいことに試合会場は本校・第二体育館である。

対戦相手は、私の自宅にほど近い府立H高校であった。副顧問のI先生に聞くと、なかなか強いらしい。前任校では女子バスケット部の顧問をしていた関係で、バスケットのフォーメーションもある程度わかるし、今日を楽しみにしていたのだ。

試合はなかなかの接戦になった。序盤は10点差くらいで推移したのだが、一度は同点に追いつかれたりして、ひやひやした。だが、終盤、引き離して勝利した。私のこれまでの経験では、バスケットはどんどん選手が入れ替わる。運動量が凄いからだ。相手校はどんどん入れ替えていたが、本校のチームはレギュラーが出ずっぱりでなかなか代わらない。特に、今日の約束をしていたやんちゃなN君は最後まで一度も代わらなかった。まさに攻守の要である。

実は、3年4組にはバスケットボール部が3人いる。キャプテンのI君、団長のA君、それにおとなしいいつも丸坊主の髪型のA君である。丸坊主のA君は1年からずっと教えているが、授業でいじった(大阪弁で質問したりすること。)経験がない。それほど性格的におとなしく目立たない生徒だ。

おそらく入れ替わり立ち代りに3人とも出てくるのだと思っていたのだが、この3人の中で、今日試合で使われたのは、意外なことに丸坊主のA君だけだったのだ。彼は、スリーポイントシュートを左右から見事に決めていく。なかなかやるではないか。

実力に大きな差があるのか、結局8人くらいで試合をまかなったことになる。他のメンバーは、ベンチに座ったままだった。昨日の野球の応援でもそうだが、スポーツの厳しさを感じた次第。普段の授業や学校生活では見れない姿を見せてもらったのだった。

IH出場を目指して、控えの選手もさらに腕を磨いて欲しいものだ。

2014年4月26日土曜日

野球部の春季大会を応援に行く

向こうに花園ラグビー場が見える
野球部の春季大会初戦が今日あった。2回戦から登場である。相手は同じ市立のM工業高校である。決してやりやすい相手ではない。場所も、ラグビーで有名なを東大阪・花園にある球場だった。なかなか気分が盛り上がる。

昨年担任したレM君のお母さんに、メンバー表をいただいた。先発組に普通科の生徒が3人も入っていた。打順では4・5・6番といいところを占めているし、一塁、三塁、捕手と守備も要の位置である。体育科の生徒もよく知っている生徒が多い。控えのメンバーの背番号もよくわかるので、ありがたい。

試合の方は、初回からチャンス。相手投手が四球を連発し満塁に。捕手のO君は待てのサインが出ていたのだろう。押し出しを狙ったが見逃し三振。彼はバッティングがいいので、ちょっと残念だったろう。この流れが、悪い方向にいかなければいいのだがと思ったのだった。ところが、その裏、先発の体育科のエースK君の調子はいい。素人目に見ても球がキレていた。見事に三者凡退で流れを変えたのだった。

2回表。ビッグイニングになった。気分良くピッチャーのK君がヒットを打つ。以来、打者一巡の猛攻になった。私が応援に最も力が入る4番のT君、5番のM君はデットボールたったり、凡打で残念ではあったが、先ほど見逃し三振のO君が二塁打で大量点だ。終わってい見れば7点も入れた。

5回で10点差ならコールドゲームらしい。その5回にも3塁打や犠牲フライで2点。おしくも5回コールドを逃したという感じだった。結局6回にも1点追加して、10-0・6回コールドで勝ったのだった。

ところで、キャプテンのH君はレギュラーではないが、守備が終わった時も、攻撃が終わった時も、常に皆を励まし、ハイタッチしながら声をかける。ランナーに出ていた者に、さっとグラブを渡したりと、なかなかいい動きをしていた。他のベンチ入りの選手も、彼の指示下、それぞれ動き回っていた。本校のバックネットには、「全員野球」の文字がある。まさに、そのコトバどうりだった。

ついつい、私の目はそういう光があたらをない生徒の方にいってしまうのだが、今日は、制服で応援だけに来ていた3年生を見るのはつらかった。春季大会2回戦では、いつもの派手な歌やパフォーマンスもしていなかった。ただ、座って応援しているだけだ。我がクラスの野球部の生徒もいたのだが、あえて声をかけなかった。

試合は大勝だったが、様々な想いが交錯する試合でもあった。

2014年4月25日金曜日

陛下の晩餐会でのお言葉

安全保障、TPP…国賓オバマ大統領の訪日報道がマスコミを賑わせている。たしかに、これからの日本の針路に大きな影響を与える重要事項であると思う。だが実は、私が最も注目していたのは、オバマ大統領を迎えての宮中晩餐会での陛下のお言葉だった。おそらく陛下は、あの震災でのアメリカの支援について、何よりも先にお礼を述べられるに違いないと考えていたのだ。

毎日新聞の報道では、陛下は最初に以下のように述べられた。
「3年前の東日本大震災の際に、米国の政府や国民からお見舞いと支援を頂いたことに深い感謝の気持ちを伝えたく思います。貴国の軍人が参加したトモダチ作戦をはじめ、貴国の人々の支援活動は、厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えになりました。」

やはり、陛下なのだ。安全保障もTPPも重要だが、まず日本の象徴として、震災のお礼を述べられた。そのことが、私を唸らせる。陛下は、韓国へ向かう大統領に対して、ホテルにわざわざお見送りまでされた。その陛下の思いに私は打たれるのだった。

2014年4月24日木曜日

高尾具成氏のリビア内戦・ルポ

http://mellakheer.ramez-enwesri.com/2013/11/30/
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私のアフリカ・ウォッチングの対象は、サブ=サハラ・アフリカである。ホワイト・アフリカ(エジプトからマグレブにいたる地中海沿いのアラブ世界)については、正直あまり興味がない。リビアの内戦についてもそんなに詳しくない。しかし、今やその後遺症として、マリやニジェールなどに大きな影響を与えていることは知っている。そんな中、高尾氏のリビア・ルポを読んだのだった。

カダフィ大佐の功罪については、いろいろ言われている。石油収入をかなりAUに注ぎ込んで、サブ=サハラ・アフリカ諸国を支えていたことは有名だ。だから、リビア内戦時、サブ=サハラ・アフリカの諸国は困惑を隠せなかったし、ブルキナファソは大佐の亡命先に名乗りをあげたくらいだ。ところが、国内では、かなり恨みをかっていた。それがこのルポではよくわかる。

ベンガジで、圧政・弾圧の象徴だった治安施設などの開放を求めて市民が行進する中、政府軍や外国人の雇兵が無差別に発砲し、数百人が犠牲になった。地元の大学で農業を学んでいたモハンメドさんは、前日に友人が射殺され「許せない。デモに行く。」と憤り、無差別発砲の犠牲になった。非暴力のデモだった。同じ大学に通うハディーヤさんは、当日のデモについて、「恐怖もあったが怒りはそれ以上だった。」と振り返る。

ベンガジから警察組織が撤退した。代わって交通整理などにあたっているのは市民の有志たちだった。子供たちの姿も多く見かけた。小学生のズウェイ君は「国中が大変な時だからこそ、人に役立つことをしよう」と高校生の兄とともに信号のない交差点に立ち、通行車両から「シュクラン(ありがとう)」と声がかかるたびに明るい笑顔を返していた。「(ずっと休校状態の学校に早く行きたいけど)自由で平和なリビアの未来を願って続けるよ。」

反カダフィ派の最前線には、多くの義勇兵が集まっていた。その多くが、上着にスカーフを巻いただけの普段着に近い格好だった。「武器を持つのは初めてだ。今朝使い方を覚えたばかりだが問題ないよ。」迷彩服風の上着にジーンズとスニーカー姿。ベンガジの大学で経済学を学ぶ学生だった。高尾氏に「腹は減っていないか」「喉が渇いていないか」と盛んに気を使ってくれたという。ナツメヤシを無理やり手のひらに押し込まれた。時折響く銃声にうろたえると、「おれたちがお前を守る。心配するな。リビアを平和な国にすることを約束する。」と笑顔が返ってきた。

3月11日。ベンガジの街のTV画面はリビア情勢と、東日本大震災のニュースで占められていた。津波の映像を見ながら市民が頭を抱えていた。銃を肩に背負った彼らが向かう数百キロ先は砲弾や銃弾が飛び交う最前線だった。そんな義勇兵から、高尾氏に「津波は気の毒だった。お見舞いを伝えたい。国が安定してから支援をしたい。」とジュースやナツメヤシなどを手渡された。ヒロシマ・ナガサキや敗戦から立ち上がった日本の戦後史を語り、「日本は必ず立ち上がる」と言った若者もいた。「お前はここにいるべきじゃない」と叱咤もされた。称賛されたのは、地震や津波の混乱時に、利己的にならず多くの人が示した規律や助け合いの姿だった。ある若者は「学ぶべき強い精神力を日本人に見た思いがした」と語ったという。

…リビアの若者が、正義のために立ち上がり、命がけで戦った様子が生き生きと描かれている。3.11に対する彼らの反応には、目頭が熱くなる。高尾氏もまた、3.11とリビア取材の中で心がアンバランスになったことを告白している。こんな純粋な命が内戦で失われていいものだろうか。一昨日のエントリーと重ねて、つくづく若者を戦争にやってはならないと思うのだ。

2014年4月23日水曜日

身体検査の日 ダンス初練習

身体検査の日である。保健委員が中心になって、歯科やら眼科、聴力、さらに身体測定など、2時間の授業のあと、クラス写真も含めて一気にやる日だ。団活動の時間もうまく使えばできる日でもある。生徒に聞くと、サブテーマを決めること、体育祭でのダンスをやってみる、とのこと。

サブテーマは、前回、団名を決めたと同様、みんなに書いてもらって、黒板上で投票して選んだ。なかなか面白いのもあった。コピーライターの才能がありそうな生徒もいる。(笑)

その後、ダンスをやってみる。音楽なしだが、振り付けはかなり決まっているようだ。ダンス部の有志ですでにある程度考えてくれていたという。私などの世代は、生徒が踊るようなジャズ・ダンスを踊った経験がない。フォークダンスでさえ大の苦手だ。ところが、生徒たちは女子は当然、男子も振り付けをされて、すぐに反応できる。運動神経がいい生徒が多いのだ。女子も、わりとおとなしいのだが、なんのなんの、一気にものにしていく。かなり盛り上がって楽しんで練習していた。みんなのダンス能力の高さに、正直びっくりしたのだった。こりゃあ、ミュージカルもいいものになりそうだ。

身体測定の予定を早めに終えたので、ダンスの練習を続けるという。進路の相談会をしようと思ったのだが、まあいいか。(笑)学年のトップを切って、団活動をガンガン進めてくれている我がクラスが嬉しい。

最後のSHRで今日のダンス練習を褒め称えた後、ちょっとだけ話をした。黒板で行ったサブタイトルの決め方の話だ。(事前に団長には話しておいた。十分納得してくれた。)

「団長のA君がテキパキ決めてくれたのは、なかなかよかった。賛意のなかったコピーに線を引いていったこと(決してダメ、ボツといった感じで上から線を引いたわけではないのだが…)について、私なら、何もしないで、票が集まったものだけ丸で囲む。せっかくみんなが考えてくれたのだから、そこまで気を使って欲しいと思うのだ。これから下級生を指導していくわけだから…。上に立つ者は、下から支えるのだ。一人ひとりを大事にして欲しい。団長だけではない。全員がダンスを指導する立場になるのだから…。これから、団長をはじめリーダーたちにする指導は、クラス全員でシェアしていこうと思う。いいかな。」

みんな、ハイ、といい返事をしてくれた。「じゃあ、Tやん(クラス代表のあだ名である。)、頼むわ。」というと「起立~。礼。」爽やかな一日の終わりである。さすが3年生である。

2014年4月22日火曜日

ずっとひっかかっていること。

NHK HPより
ずっとひっかかっていることがある。4月16日に見たNHKクローズアップ現代「イラク派遣10年の真実」を見て以来である。。この報道番組は、陸上自衛隊がイラクのサマワに派遣された際の様々な映像を紹介したものだった。背広組に「戦場ではない。」と認定され、派遣された隊員が果てしなく「戦場に近い戦場でないトコロ」で苦労していた様子が、莫大なテープに記録されていた。そして最後の方で、5年間、サマワに派遣された隊員1万人中、28人の方が帰国後、自殺されているという事実が報道された。なんという重い事実なのだろう。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3485_all.html

私などが、簡単に論ずることなどできないが、かなりひっかかっているのも事実である。あいかわらず、中国や韓国とのしこりは消えるどころか拡大再生産される毎日。さらに集団的自衛権の論議や9条論議など、感情的ナショナリズムの春一番が吹く中で、かなりひっかかっているのだ。私は、自衛隊のこれまでの立場には同情的だが、かといって9条の改正には懐疑的で、ほんと左右の中間に位置していると思っている。教師としては、私は非組合員のひとりだ。日教組の「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンについても、長い間どうもしっくりこなかった。だが、ここにきて、このスローガンが妙に現実を帯びてきたような気がするのである。

今朝も、他のクラスに気になる生徒がいて、担任の先生と話していた。どうも陸上自衛隊という進路を考えているらしい。様々な問題を抱えていて、将来を考えた末のことだろうという。うーん。わかる気がする。妥当な選択かもしれない。だが、先日の番組を見た後だけに、不安が募るのだ。今春も海上自衛隊に入隊した生徒もいる。それぞれ自分の選択だから、私が口出しすべき問題ではないのだが、どうしてもひっかかっている。

自衛隊の皆さんや、その職務を批判しているのでは決してない。ただ教師として、教え子のことを考えて、このところずっとひっかかっているのである。

2014年4月20日日曜日

社会学からキリスト教 談義3

http://mises.org/daily/4070
「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書2100・11年5月20日発行)の書評、さらなる続編。近代化の過程で、なぜキリスト教(カトリック圏)が主導権を握ったか?という問いに2人の社会学者が回答を出す。

イスラム教の聖典には、キリスト教の新約聖書のような不一致や矛盾が含まれていない。法の面でも整合性が高く、前述のようにシャリーアの体系というシステマチックな規定がある。ウェーバーは、近代化とは、様々な分野における合理化の過程と見た。事実、中世まではイスラム教の方がはるかにリードしていた。しかし、キリスト教は、律法がないゆえに、自由に法律をつくれることが大きかったと2人の論議は進むのだ。カトリックは、力が弱かったゆえに、世俗法(ローマ法とかゲルマン慣習法)を守るようにしか言えなかった。これらが時代遅れになった時、立法機関として議会制民主主義が起こったわけだ。

キリスト教社会には自由な立法が可能だった。銀行をつくり、利子をとり、小切手・当座預金口座…。資本主義成立へ、様々な複雑な法的環境が整備されていく。ユダヤ社会もイスラム社会も、まず聖典と比べて正しいか?ということが重要(利子については、大きな規定がある。)になる。キリスト教徒は、まず法をつくる目的があり、聖書に禁止されていないことは、神が許すと考える。

さらに、宗教改革で、伝統社会の慣習やカトリック教会の慣行も聖書に根拠をもたないものは全て無意味という結論を導いた。聖書に書かれていない、また公会議の正統な解釈にない聖人崇拝や煉獄、免罪符、告解などをプロテスタントは認めない。解釈が違えば分派するしかない。だからプロテスタントは多くの宗派に分かれたわけだ。カトリックは神との間に教会が絶対必要とするが、プロテスタントは教会は重要ではない。投資家にとって利潤を生めばよいわけで、投資先は二義的。いわば、プロテスタントの教会・宗派は、企業や投資ファンドのようなもの、重要なのは神と個人の関係だというわけだ。

プロテスタントの中でも、その徹底性でいえばカルヴァン派が重要である。橋爪は、ウェーバーの理論に対して、次のような補足・批判を加える。予定調和説は、聖書にある神の後悔(たとえば、ノアの箱舟の話のように、終末の決断を変えノア一家を残すような)を認めない。神の決めたまま、救われる者は救われ、救われない者は救われない、とした。では、なぜこのようなカルヴァン派から勤勉が生まれたのか?

橋爪はゲーム理論で論じる。プレイヤーは神と人間の2人。神は、救済する/救済しない、人間は勤勉に働く/自堕落に暮らすという選択肢をもつ。予定調和なので、神が先に、救済する/しないを選択し、あとから人間が、勤勉/自堕落を選択する。人間は神の選択を知ることはできない、というのがゲームの設定である。すると、神がどちらを選択しても、人間は自堕落に暮らすが支配戦略となる。(救われるのなら働くだけ無駄。救われないのなら働くだけしんどい。)だが、予定調和を信じる社会では、自分はこのゲームからはみ出していることを証明したいという者が出てくる。地上で自分の利益だけを考えると、自堕落が支配戦略だが、その状況下で、もし勤勉に働く者がいたら、それは神の恩寵によってそうなっている、勤勉に働くことが神の命じた隣人愛の実践である。自分が神の恩寵を受けていると確信したければ毎日勤勉にならざるをえなくなる。神の恩寵はゲーム理論の戦略的思考を超えていて、逆説的に勤勉な者が増えるのである、と。

…自由な立法の可能性。カルヴァン派の勤勉の謎をゲーム理論で説く。なかなか面白い説だと思う。

社会学からキリスト教 談義2

サンピエトロ広場のパウロ像
http://www1.u-netsurf.ne.j
p/~R-Yama/trip03_20.html
昨日のエントリーの続編である。「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書2100・11年5月20日発行)は、社会学の立場から、キリスト教の一神教でありながら、ユダヤ教の律法、イスラム教のシャリーアといった確固とした神の法を持たないゆえに、違う発展をしたというのが、本書を貫く主要な論理である。

今回は、キリスト教がいかに「西洋」をつくったか、橋爪・大澤の社会学から見た重要な視点を整理しておこうと思う。

新約聖書において、パウロの手紙は極めて重要な位置にある。神の子・イエスについての証言である福音書は神の言葉だと容易に納得できるが、解釈であるパウロの手紙は人間によるものであるといえる。そこで、パウロの手紙は聖霊が書かせたものということになる。旧約聖書やコーランには、こういう現象はない。三位一体という原理はこうして必要性に迫られるわけだ。

カトリックと正教会は、ローマの東西分裂によって生まれたが、(特にカトリック側の)スポンサー不在ゆえに途中の警護や経費の負担のため、合同の公会議が開けなくなる。そこで両教会の解釈が食い違う。カトリックはラテン語、正教会はギリシア語を典礼の言語とした。正教会は布教のため、その地域の言語を典礼にも採用したが、カトリックはラテン語を固持したので、「1つの教会、多くの国家」という西ヨーロッパの土台をつくった。ユダヤ教・イスラム教と違い、キリスト教はそもそも多言語である。イエスはヘブライ語(アラム語)を使い、パウロはギリシア語で書簡を書いた。キリスト教における神の言葉は翻訳されることを厭わない。この辺もユダヤ教(ヘブライ語)・イスラム教(アラビア語)との大きな相違だ。

カトリックは正教会と異なり世俗の権力が二元化する。教会の権力が弱体化していたと言った方がよい。幸いケルト人の信仰していたドルイド教の祭司の社会的地位が高かったゆえ優遇されたが、ゲルマン人は政治権力が強く、司祭らを任命していた。ここから中世の聖職叙任権闘争の歴史が始まる。そもそも古代ローマ帝国時代に一度特権的な地位を占めたカトリックは、教会の統一と独立を保つために全力をあげた。それがラテン語固持に繋がったわけだ。この教会のラテン語ネットワークは商業や外交、情報伝達に有効で、教会存続に役立った。何百年もの長い時間をかけ、キリストの代理として救済財(人々を救うのは教会であるという権限)を得、結婚もサクラメント(秘蹟)にすることに成功した。相続は正しい結婚によって成立する。教会の協力がないと封建勢力は自らを再生産できないしくみをつくったわけだ。聖職者は独身ゆえ相続の問題は起こらない。家族や血縁とは無縁のヨーロッパ全体をカバーする官僚機構を構成した。分割相続下の封建領主は、余った男子を教会に送り、持ちつ持たれつの関係を構築することになった。

…こういう視点は、実に面白い。世界史の隙間を埋めるような興味深い説であると私は思う。

2014年4月19日土曜日

社会学からキリスト教 談義1

「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書2100・11年5月20日発行)を読み終えた。この新書も以前、前期入試の際、本校図書館でおもしろそうだと手に取ったものである。アマゾンで入手して、通勤時に線を引き引きしながら読み終えたのだった。極めて示唆に富む内容だった。
エントリーのために表紙画像を探していて初めて知ったのだが、12年度新書大賞受賞作だった。なるほどと、思う次第。

今まで、一神教にまつわる本は、かなり読んだが、この新書は全く視点が異なる。東工大の橋爪大三郎氏にも、元京大教授の大澤真幸にも毀誉褒貶があるようだが、比較宗教学・社会学の立場から一神教が語られていて、非常に新鮮であったことは間違いない。

この本の最大の論点は、一神教の構造についてである。この世界は神によって創造された主人であって、人間は奴隷に等しい。人間は安全保障のために神に従うという一神教の認識である。多神教世界の我々日本人にはなかなか理解しづらいところである。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を比較した場合、ユダヤ教とイスラム教は、神に与えられた律法とシャリーアが確固として存在する。それに対し、預言者を超えた神の子・イエスとその立場を贖罪・三位一体という概念でキリスト教化したパウロによって、ユダヤ教・イスラム教の、律法・シャリーアのような確固とした安全保障の契約があいまい化された。そこにキリスト教が世界で大きな力をもつ要因が生まれたというものだ。

この新書のタイトル、「ふしぎなキリスト教」というのは、奇異な感じのする商業主義的なタイトルで、私自身の嗜好とは合わないのだが、同じ一神教のユダヤ教・イスラム教比較すると、たしかに不思議な矛盾を多く抱えているといえる。新約聖書の四福音書の相互矛盾などを多くの事例がその根拠として語られる。だが、この律法・シャリーアに強烈に縛られていないというキリスト教の特徴こそが、逆に強みとなったというのがこの2人の社会学者の対談による結論だといえる。

イスラム教のイジュマー(イスラム教徒が、神に服従するために、神の意思を知るシャリーアの体系の中で、神の啓示であるコーラン、預言者ムハンマドの言行録ハディースに続いて参考にする大学者の会議で決まった事のこと)は、全会一致で決定するのに対し、キリスト教の公会議は多数決である。この事実は、キリスト教の特徴をよく示唆している。

さらに、キリスト教は、(人間が知ることなど到底出来ない)神の描いている設計図を理解する手がかりとして「理性」を、宗教的に再解釈した。社会契約論でいう「自然法」は、神のつくった世界のうち、人間が理性で発見できる「一部分」である。ユダヤ教やイスラム教では、神の法は聖典の中に書かれているゆえに、わざわざ聖典の外に求める必要がないわけだ。

…このような視点が必ずしも正解ではないかもしれない。だが、重要な示唆に富んでいると思われる。この新書も備忘録的にもう少し書評を書き続けておこうと思う。

2014年4月18日金曜日

イベントマニュアルと抄録と

今年の時間割も、選択科目の関係や非常勤講師の先生の日程で、著しく偏ったものになっている。月曜日と火曜日は5時間授業である。その代わり木曜日と金曜日は2時間授業である。(水曜日は団活動とLHRを入れると4時間授業になる。)つまり、週の前半と後半がえらくアンバランスなのだ。教務の係の先生方のご苦労はよく知っているので、文句は言えない。まとまった仕事は週の後半に、ということになるだけだ。

昨日は、団活動に備えて、舞台発表をするためのイベントマニュアルを仕上げた。A4版全7枚。本校の生徒に合わせて、前任校でつくったものを再構成しつつ、新たに書き下ろした。表紙はほぼそのまま、ブロードウェイ・ミュージカルのロゴをレイアウトしたものだ。各クラスの進行状況を見ながら、舞台関係生徒主体の講習会を行う予定にしている。

そして今日は、国際理解学会の研究発表の抄録の作成である。新学期の仕事に忙殺されていて、昨夜ふと締め切り日はいつだったかと、不安になってHPを開いたら4月20日となっていたのだった。げげげっ。慌てて1日で書き上げることになってしまった。と言っても学会の研究発表の抄録である。いいかげんなモノにはできない。昨日に引き続き、根をつめてPCを見つめることになってしまった。で、なんとか間に合わせることが出来たのだった。

2014年4月17日木曜日

日経 南アで中国・欧米連携

ナイロビの日本企業の看板
http://gigazine.net/news/20111119_kenya_nairobi/
今朝の日経で、南アやザンビアで、中国企業が欧米企業と連携して、鉄道開発に関わることになったとの記事が載っていた。貨物用の機関車や安全システムに関わるものらしい。中国製品の価格の安さだけでは、そろそろアフリカ諸国も、性能や燃費などの問題で満足いかなくなったようである。中国としても投資のリスクを欧米と分散できるという利点があり、欧米としても中国のアフリカ進出に歯止めがかけられると三者三様の利点が取りざたされていた。

だが日本企業は蚊帳の外である。アフリカでは、日本製への信頼は厚い。だが、どうしても良かろう・高かろうというイメージが先行する。ブルキナでは、日本製のバイクは、ステイタス・シンボルだった。価格の安い中国製(日本車にそっくりである。)が幅をきかせていたが、日本製へのあこがれは強いようだった。ケニアでも、私が日本人だとわかると、TOYOTA、SONY、CANONなどの企業名を連呼して歓迎してくれた。

何度かこのブログでもエントリーしたが、「日本力」の真価が、アフリカでもいよいよ試されていく時代に入ったのではないだろうか、と門外漢ながら感じた次第。

2014年4月16日水曜日

”WICKED”

http://www.londontheatredirect.com/news/1442/Wicked-Confirms
-Remaining-Dates-For-Record-Breaking-UK-Tour.aspx
今日は、体育科・武道科の野外活動(キャンプ)実習で、団活動が出来ない故に、5・6限連続でLHRであった。生徒に聞くと、まず体育祭のダンスの体制を組みたいとのこと。それから、団の名前を決めていきたいとのことだった。すでにクラス内にはLINEのネットワークが構築されていて、私の知らないところで、団活動への準備が着々と進んでいたのだった。(笑)聞くと、およそ団の名前は決まっていた。WICKED(ウィキッド)。ミュージカルのタイトルだという。と、いうことは、舞台発表で、このミュージカルをやるつもりらしい。どんなものか私はよく知らなかったのだが、緑色の顔をもつ魔法使いの話なので、緑団としては意味が通るとのこと。なるほど。

最初私はOZの魔法使いをやるのだと思っていた。実は前任校でOZのミュージカルをやったのだ。だから正直、また?と思ったのだが、このWICKED、そのエピソード編だったのだ。ここには、OZの魔法使いに出てくるライオンやかかしの謎ときも入っているらしい。生徒の方がよく知っていた。USJでも縮小版が以前公演されていたとのこと。ウィキで調べてみたが、なかなか複雑なシナリオだった。だが、何も忠実に再現する必要もないだろう。準備も含めて25分間のスパンの中で、どうオリジナル化するか。なかなか面白そうである。

みんなこのWICKEDの内容を聞いて、納得したようだ。団名は、これを意訳して漢字化しようということになった。全員に紙が配られ、ダンスの組み分け班ごとにワイワイいいながら、辞書を開けて考えていた。男子も女子も一人ももれず、考えている。こういう光景は、実にいいなあと思う。制限時間が過ぎたので、黒板に中心メンバーが、候補作を書いていく。多数決で、「翠魅瞳」と決まった。それぞれの漢字に意味があって、なかなかいい。緑という文字を使わないところも、エメラルドシティーというOZに出てくる地名とからんでいるとか。なかなか深い。

最後に、私から少し話をした。4組は、勝ちて和すのか。和して勝つのか。実は昼休みに中心メンバーに事前に聞いてみた。団長は「和して勝つ、でいきたい。」と答えた。WICKEDを提案したN君は、「両方です。」と答えた。その話をしたのだ。みんなはどう思うか?と問いかけたのだった。

放課後、我が4組はこの1年、「和して勝つ。勝ちて和す。」で行こう、と私は決めたのだった。

追記(17日):朝のSHRで、さっそくWICKEDの画像に「和して勝つ。勝ちで和す。」という文字を入れたB4版のポスターを持っていった。その後、クラス書記の生徒が最も目立つところに張ってくれた。うむ。なかなかいい。こういう雰囲気作りも重要だと私は思う。

2014年4月15日火曜日

世界史Bでルイジアナを語る

 昨年世界史は、ヨーロッパ史を中心に近代国家論をやった。民主主義の確立をまずテーマに、イギリスのピューリタン革命・名誉革命、さらにフランス革命、ナポレオンときて国民国家論に結びつけたのだった。2単位ではこれが限界。で、その間にあるアメリカ独立革命は3年生でやる、と生徒に言っていた。世界史は、とにかく地理的な知識がないと、あちこちに飛んでいくと円広志の歌ではないが、頭の中が”まわって、まわって”ぐちゃぐちゃになるのだ。最近の中学の地理教育は、かなりレベルが低いので、あえてすっ飛ばしたのだった。

で、アメリカの独立革命の話である。まずは、フランスの勢力範囲であるセントローレンス川とミシシッピ流域の話になる。なんとなく、ピューリタンがメイフラワー号に乗ってやってきてアメリカが建国された、などというのは、全くの間違い。スペイン、フランス、オランダなどがまずやってくる。イギリスは後発組である。ところで、私はミシシッピ「川」と呼ぶのには抵抗がある。「ミシシッピ」だけで、ネイティブ・アメリカンの言葉で「偉大な川」を意味するからである。この流域をフランス人たちは、ブルボン朝の王・ルイの名を取って「ルイジアナ」とした。面白いのは、フランス人は、ネイティブ・アメリカンとは毛皮取引を生業としていて友好的な関係だった。ちなみにデトロイトは毛皮の集散地であったし、後に自動車産業の首都となったデトロイトが生んだ高級車は、当時の毛皮取引のための砦の名前をつけたのだ。それがキャデラックである。

つい、話が脱線してしまう。今のルイジアナ州の話だけでも、生徒の興味を引く話はいくらでもある。ちょっと州コードを教えた。ルイジアナはLAである。ニューオリンズの近くに、、ピザなどにかける「タバスコ」の工場がある。世界中のタバスコはここで生産されている。生徒に、「家に帰ったら見てごらん。ラベルにLAと書いてあるから。」と言っておいた。(「タバスコにLA、ありましたようぉ。」と何人かの生徒から反応が返ってきた。笑)またニューオリンズの北に、楕円形の湖がある。ポンチャートレイン湖というのだが、ここに直線の橋が架かっている。よくCMで車が両側が海のような直線道路を走っていくのがあるが、この湖であることが多い。(もしくはフロリダ州のキーウエストへ向かう海上のR1、セブンマイル・ブリッジである。)そんな話をしていると、全く進まない。(笑)

ポンチャートレイン湖
13のイギリス系のコロニーについては、山師のようなイギリス人がヴァージニアにやってきた話。タバコ栽培で、ネイティブアメリカンに助けられながら、土地を奪っていく話。クエーカー教徒のウィリアム=ペンが信教の自由を求めてペンシルベニア(ペンの森という意味になる。)を拓く話。だから今もPAにはアーミッシュがいることなど、これまた話すと止まらない。メリーランドもアイルランド人のボルチモア卿が拓いた。だからカトリックが多いのだが、専門的になりすぎるから、ベーブ・ルースの生家があって今は博物館、などと言って終わることにした。(笑)

いずれにせよ、土地を奪うイギリス人と毛皮交換のフランス人。ヨーロッパの対立を持ち込んだ英仏の戦い、ネイティブアメリカンが味方するのはどちらか、わかりきった話である。これが、フレンチ=インディアン戦争である。この戦争がアメリカ独立に大きく影響するわけだ。

こんな感じでガンガン世界史Bは進んでいる。

2014年4月13日日曜日

高尾具成氏の南ア人権・ルポ

http://fr.kichka.com/2010/04/07/
eugene-terreblanche-assassine/
南アのAWB指導者殺害事件のとき
イスラエルのイラストレーターが描いたもの
AWBのマークがナチスに似ていることを
皮肉って描いている
高尾具成氏のルポ「サンダンルで歩いたアフリカ大陸」の南ア編の最終エントリーである。

まずゼノフォビア(外国住民排斥)の動きについて。2008年5月から6月にかけて南ア全土でジンバブエやモザンビークからの移民への暴力が吹き荒れた。職のない低所得者の怒りの矛先が移民らに向けられたのである。かつて、反アパルトヘイト闘争を主張したANC(アフリカ民族会議)には、周辺国から多くの支援を受けた恩義があった、マンデラ氏もアフリカ全体の発展を掲げていた。そうした背景から移民に対して寛容な政策を取らざるをえなかったのである。サブ・サハラ=アフリカの経済の3・4割を占める南アの豊かさもその背景にあった。しかし、2008年の金融危機以降、金(ゴールド)の価格は高騰したが南アの生産量は減少の一途をたどった。生産コストの上昇が激しく、利益が十分にあがらなかったことが理由である。採掘現場が深くなり地圧や地熱対策への設備投資が膨らんだこと、アパルトヘイト後、労働者の賃金アップが迫られたこと、それに鉱山会社にも電力使用制限がかけられたことなどで、生産コストが大きく上がったのだ。

…南アの基幹産業である金が大きく減産したことは大きい。私も失敗国家・ジンバブエから多くの南アへの移民が生まれ、かなり苦労しているとの報道(もうかなり前になる。)を見て気にかけていた話である。その背景のひとつには、金の減産があったわけだ。

ジンバブエと言えば、白人農場主の国外退避について様々な本を読んだが、南アではどうだったかという話が出てくる。W杯開幕の二ヶ月前、アパルトヘイト政策撤廃に抵抗した極右指導者が殺害されるという事件が起こった。民主化から16年。被害者は、白人至上主義組織アフリカーナー抵抗運動(AWB)を指揮した人物である。1994年以降農場経営の大半を担う白人が数千人殺害されていた。AWBはそんな状況下、民主化後の黒人政権を信用せず、自警組織としての側面も兼ねながら仲間同士で武装し、農場や白人コミュニティを守ろうとしていた。今回の事件は農場での賃金支払いを巡る金銭トラブルが原因だという。葬儀の際は、アパルトヘイト時の国旗が周囲に翻り、トランスバール共和国やオレンジ自由国の旗もあったという。南アでは民主化後、人種や民族対立をあおる言動は禁止されていたがお構いなしの状況だった。初公判の際は約2000人が裁判所に集まった。警察隊は鉄条網で白人と黒人を分断した。この鉄条網を設置したのはカラードの警察官だったという。AWBが白人政権下の国歌を歌いだすと、取り巻いた黒人たちは開放歌を歌う。前のエントリーにも書いたが、この二つの歌はひとつに結ばれて今の国歌になっているのに、だ。

事件後、自首した28歳と15歳の黒人の若者に金銭トラブル以外にも性的暴行を受けていた疑いも出始めてきた。この農場で働いた黒人労働者から「食事は出たが給料はなかった。」という証言も飛び出した。給料を求めると家畜が消えたとの理由で拒否され、警備犬をけしかけられたという証言や、被害者に下腹部をけられた、彼は僕らを人間とみなしていないという証言もある。

南アでは白人農業主が7割。政府は今年(2014年)までに3割を黒人農場主にするという目標を掲げたが、実際には委譲された農地は約5%に過ぎない。民主化後、第二次・第三次産業では裕福な黒人も登場しているが、農業における黒人の不満はくすぶったままなのである。

…南アの農業がすぐに黒人農場主中心になるとは私は思わない。ジンバブエのような悲劇を繰り返すような馬鹿なことはしないだろう。ただ、この大きな不満をいかにやわらげるか、極めて難しい問題である。結局は白人側の意識の問題が大きい。殺害されたAWB幹部のような意識は論外であるが、「虹の国」をめざす南アの理想を教育によって定着させるしかないわけだ。

…私が南アとジンバブエを訪れた2004年でも、人種間のあつれきを感じる場面に何度も出来くわした。あれから10年たつ。だが、日本における人権問題の教育成果が出るのに20年から30年かかったと私は思っている。徹底した教育を受けた子供が親になるくらいの時間が必要だと思うのだ。まだまだ時間が必要なのだろう。

2014年4月12日土曜日

アフリカ学会 公開講座4月

”残桜”の京大稲森財団記念館
アフリカ学会50周年記念の公開講座「アフリカ、その魅力と可能性」もいよいよ最終回である。国立民族学博物館準教授の飯田 卓先生の「お好みどおりのアフリカを作る」。映像・メディア論からのアプローチである。

司会の京大の重田先生が、「最終回には深い意味があります」とまず言われた。飯田先生は、京大・大学院出身の生態人類学の徒で、主なる調査地は、マダガスカル。漁業と自然との関わりを研究されているそうだ。昨年民博で開催されたマダガスカル展(13年5月11日付ブログ参照)にも深く関わっておられたそうだ。マダガスカル展は様々な展示工夫がされており、素晴らしい展示だった。がぜん身を乗り出して聞くことになった。

講座は、いきなり今話題の小保方さんの話から始まった。飯田先生は「研究の詳細についてはよくわかりませんが、画像処理の問題とか、研究論文の切り貼りといった論文上の問題と、今日の話は大きく関連性があるのです。」と、言われた。「…?」と最初はマダガスカルのキツネザルに包まれたような気がしたのだった。

「海を駆ける民」というTV放映されたドキュメンタリー番組が、今日の重要な教材であった。懐かしい音楽が流れた。日本生命提供の「神々の詩(うた)」というシリーズである。民放だが、今のバラエティ化した海外ロケものとは一線を画す、極めて正統派のドキュメンタリーである。私も昔よく見ていた。実は、この番組、飯田先生が院生の時、研究していたマダガスカルの漁民を扱ったもので、番組制作会社から問い合わせがあったものだそうだ。彼らは、小さなカヌーに乗って、サメ漁をするという「絵になる存在」だったのだ。

最初に、おごそかに「詩」が出てくる。「風を集め 海を駆け 雨期にそなえて魚をとる そして聖なる木の下で 精霊に祈りを捧げる それが彼ら海の民の生き方」

ここに今回の番組で主張したいコトが集約されている。…自然の恵み。カヌーで海に出る。信仰。そして家族。プロの詩人が毎回書き下ろすそうだ。日本生命の提供なので、必ず毎回、家族の絆が強調されると言う。「製作側に悪意はないようだが、ここまでやっていいかな。」という疑問が飯田先生から提起された。

番組内容(VTR)を追いながら、さらに飯田先生は様々な指摘をしていく。海に祈りを捧げるシーン。毎回しているように演出されているが、サメを取る時のみ。連続しているように見せているシーンで船も(サメ用から普段の近海用に)変わっている。女性が「海に行こうよ、海は魚がいっぱい」と現地語で歌って蛸を取っているシーンで、歌われているのは実は教会で歌う賛美歌で、現地語がわかる飯田先生が聞けば、同じような人々の台詞(テロップで示されている)も、全然違う。製作会社に書面で質問状を出したところ、「これは意訳の範囲です。」とのこと。飯田先生が最も困ったのは、漁師たちは、「何ヶ月も村を留守にし、島に暮らす漁師たちはめっきり少なくなってきた」というナレーションである。実は飯田先生の博士論文と真っ向から対立する内容だったのだ。実際には、市場経済がこの村にも浸透し、乾燥させたフカヒレは保存がきき、香港やシンガポールの向けの輸出品として、貴重な現金収入源になっていた。この島もグローバリゼーションに巻き込まれつつある時期だったのだ。

なるほど。小保方さんの論文の話が最初に出てきたことに納得がいった。

我々が目にするTVや新聞報道、あるいは著作、WEBなど様々な情報が、どこでどう改ざんされているかわからないという教訓だった。悪意があろうとなかろうと、近年の画像処理技術は凄い。どこまでやっていいか。非常に難しい問題なのだ。ありのままの事実を私たちが知ることは、極めて不可能に近い。アフリカを知りたい。だが、ありのままを知ることは不可能に近い。実際に足を運んでも、短時間では無理なこともある。だからわからない。でも知りたい。アフリカを学ぶということは、まさにそういうことなのだ。重田先生が最初におっしゃった「最終回の深い意味」の謎も解けたのだった。

今回も非常に興味深いお話を聞かせていただきました。飯田先生、重田先生をはじめ、スタッフの皆さんにお礼申し上げます。
新たな公開講座は秋以降ということで、楽しみにしています。

なお、ブルキナファソで荒熊さんと共にお会いした遠藤聡子さんの本を会場で拝見しました。京大のアフリカ研究出版助成で博士論文が本になったと推察します。現地では、研究対象の女性宅にホームステイしながら密着体制で研究を続けていたと聞きました。そのご苦労の結晶だと思うと感慨もひとしおです。

Ameba ヒコーキGET.

Amebaのピグライフで、先ほど4月前期のクエストをクリアーした。相変わらず、無課金である。そのかわり、かなりの時間をPCの前で過ごす羽目になる。今回は、休みが多かったこともあって、ちょっとありがたかった。なぜなら、クエストで得られるのが、私の大好きなヒコーキだったからである。(画像参照)

子供っぽい話だが、かなり嬉しい。クエストを進めるのに、無課金なのでゲーム上のストレスもたまるのだが、ある意味、のめり込むコトで、日常のストレスを忘れることにもなる。自分の仮想空間を持っている、というのもまたいいものだと思ったりする。

2014年4月11日金曜日

「天皇 君主の父、民主の子」

『天皇 「君主」の父、「民主」の子』(保坂正康著・講談社文庫/2月14日発行)を読んだ。昭和天皇については数多く読んでいるが、本格的に今上天皇について書かれたものは初めてである。内容については、およそ私の今上天皇に対する理解、すなわち戦後、民主主義化の象徴天皇とは何かを問い続けておられることを実証している書であった。

本書の中でも、備忘録的にエントリーしておきたい事項がいくつかある。

昭和天皇は、皇太子(今上天皇)が満十歳になられた昭和18年、陸海軍の武官に任ずるという皇族身位令第19条を無視された。東條の「士気を高めるために皇太子に軍服を着せて任官して下さい。」という申し出に、ついに頷かれることはなかった。

終戦直前、学習院の生徒たちと疎開していた日光で、(もうすでに乗る航空機はなかったので)少年航空兵たちが徒歩で爆弾をかかえ戦車に体当たりするという訓練をしていたことに接した皇太子は、軍人の講話、質問会の後、特に質問を促され、「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの?」と質問された。言下に「臣民の命をそれほど粗末にあつかっていいのか。」と言われたわけだ。

終戦直後、昭和21年学習院初等科の卒業記念に、昭和天皇は中古のカメラを贈った。新品の高価なものをもつ必要はない。中古で充分。加えて機械に関心をもって、ひいては科学を学んで欲しいという期待をもっておられたという。実際その後、学習院大学では政治経済学部に進まれた(外国訪問などの公務の関係で、結局卒業されていない。中退である。)が、ハゼの研究で生物学者として国際的にも評価を受けておられる。

皇太子は一般の国民と同様配給の食糧で生活しておられた。主食も副食も不足しており、仮寓所で自ら野菜を栽培しておられたのである。物資も不足していて、極めて質素な生活。学友宅から雛をもたって育て鶏から卵をとった経験もおありだという。こういう社会性がその後の皇太子の歩む道に大きな影響を与えた。

皇太子の中等科時代の話。英語の試験で、英単語の訳を回答する際、書いたものは全て正解。だが、自信のないものは白紙。慎重だともいえるが、確信のあることしか口にしない、あるいは答えを書かないという態度を身につけておられたのだ。有名なヴァイニング夫人は、「どちらがお好きですか?」といったいいかげんに答えていいようなことでも、真面目に考えこんだ末にきっぱりと答えられる。軽々とは口を開かない。彼女は、皇太子のこういうご性質をIntellectual honesty(知的正直さ)と褒めた。

昭和24年6月。マッカーサーと皇太子は会見。皇太子は、少年らしい威厳をもって接した。この会見録はなかなか愁眉を開く内容である。

今上天皇の幼少期の話が、特に充実していた一冊だった。

2014年4月10日木曜日

アドレナリン大放出の「団抽選」

団抽選 3年団長が集合
今日の午後は、団抽選であった。毎年、3年生は盛り上がるのだが、自分の学年ながら例年以上に盛り上がったと思うのだ。各クラスとも、団長がカラーボールを引く際に、クラス全員でオリジナルの掛け声をかける。様々な仮装も許されている。今年もガンガンに団活動が盛り上がりそうだ。
もちろん、我が4組も、朝から準備をしていた。比較的、女子がおとなしい子が多いので心配していたのだが、皆の顔を見ていると大声を出して団長を応援していた。大いに楽しんでいたと思う。これが伝統というものだろう。

3年4組も大声で声援を送る
我が4組は、結局4番目に「緑」を引いた。実は昨日のLHRで皆の希望を聞いてみたのだ。黄色が多かった。団長個人は「赤」だったのだが、「黄色を引いてくるなあ。」と、舞台に上がったのだった。だが、その前のクラスに黄色を引かれてしまったのだった。あちゃー。(笑)2年生は体育科、1年生は武道科が同じ「緑」を引いた。体育祭では、ちょっと有利かもしれない。(笑)
今年の文化祭は、耐震工事の関係で、校内に工事用の区域が多く設定されると予定だ。私たちが1年生時にやった製作の部はとてもできないとの判断で、アドパネルという四面ある広告塔をデザインは2・3年が3面担当するが、実際の作成は1年生に任せることになっている。また2年生の模擬店も中庭ではなく、教室で行われることになった。いつもとは大分違うものになりそうである。クラス代表の生徒は、私に「うーん、文化祭は厳しいかもしれませんねえ。絶対に4組が舞台で勝たねば。」と言っていた。たしかに、私もそう思う。体育科も武道科も全員クラブで忙しくて大変だからだ。いずれにせよ、今日から本格的なスタートである。

2014年4月9日水曜日

3年4組 始動

昨日は始業式だった。いよいよ団活動での最後の人づくりが始まる。実は、ここ1ヶ月ほど悩みに悩んでいたことがあった。2月7日付ブログでエントリーしたが、早くからクラス替えは終了していたのだった。その後、団長候補をうまく振り分けたつもりだったのだが、後からもう1人いたことがわかったのだ。それも我がクラスでダブルブッキングしていたのだ。選択科目の関係で再振り分けは不可能だった。この問題をどう解決するか、ずっと考え続けていたのだ。結局、大掃除の時、特別区域の清掃ということで、団長候補の2人とそれぞれ同じクラブの友人2人を後見人としてピックアップし、社会科準備室で鳩首会談を開いたのだ。彼らに経過を報告した上で、どうするべきか意見を聞いた。結局、始業式後、団長候補2人が立候補の思いをみんなに伝えた上で、選挙する。ただし、後見人2人で開票。数値は2人だけの胸にしまう。どちらになろうとも、両者とも協力していく。ということになった。私を中心に5人で手を合わせた。この男子4人がまずは、新クラスの中核。それを拡大していく、という契りだ。皆真剣に私の思いを受け止めてくれた。胸が熱くなるような瞬間だった。

他の生徒は、始業式が終わるまで何も知らないまま、後見人の2人が中心になって、選挙となった。敗れた生徒はやはりかなり落ち込んだのだが、放課後も全力で激励した。本来、私は男子には厳しい指導をする。だが、彼には裏でささえるだけでなく、団長という華やかな立場と等しい表での活躍をさせてやりたいと思っている。こういう思いを持つのは、今までにもあまりないことだ。男子は常に裏でいい。女子に金の思い出を作らせるのが男の美学だというのが私の心情だ。だが、今回はちょっと宗旨替えしてもいいと思っている。

今日、朝のSHRは離任式ゆえに講堂集合だった。我がクラスはちゃんと集合しており、聞くと団長選に敗れた男子がうまく仕切っていたのだという。もちろん団長も協力してくれたそうだ。式後のLHRでは、彼がクラス代表に立候補した。彼を助ける形で団長や数人の女子が前に出て、どんどんHRの委員や団活動の役割を分担してくれた。

明日は団抽選である。団長がスポットライトを浴びる中で、団の色や1・2年生のクラスが決まる。ダンス部の女子たちが中心になって、クラスの掛け声のやり方をみんなにアピールした。全くの4組オリジナルだ。我がクラスはおとなしい女子が多いのだが、みんなワイワイと盛り上がった。クラス代表となった元団長候補の男子生徒も大きな声でみんなをリードしてくれていた。

嬉しかったのだ。本当に嬉しかった。3年生はクラスづくりに時間をかけれない。昨日の社会科準備室での男子4人との契りが、一気に拡大していく。みんな今日1日で4組をつくってくれた。こういう時、教科指導にはない教師としての喜びがある。人づくりは、ホント、やりがいがある。苦しいがやりがいがある。…勝ちて和す。和して勝つ。

2014年4月7日月曜日

高尾具成氏のマンデラ・ルポ

http://www.aids.org.za/970/
高尾具成氏の「サンダルで歩いたアフリカ大陸」、南ア・ルポの続編は、マンデラ氏の話である。また印象に残った部分をエントリーしておきたい。

マンデラ氏はコサ人で、テンプの首長と第三婦人の子。本名は「ロリフラフラ・マンデラ」という。我々が「ネルソン・マンデラ」と呼ぶのは、7歳時に小学校の担当教師が「ネルソン」という英国名を与えたからだという。南ア国民からは「マディバ」(故郷の東ケープ州の氏族名)という愛称で呼ばれている。高見氏は、南アで暮らしていて、最も思い出に残る瞬間を問われれば、この大人物を間近で見ることが出来たことに尽きると言っている。と、言っても日本の新聞記者として面会したわけではない。2009年の国民議会選挙の時、朝4時から投票所付近で待機していて実現したものである。まさに”サンダルで歩いて”得たものである。他の南アの人々とともに不思議な雰囲気を味わっている。マンデラ氏は笑顔を絶やさないまま、ゆっくりと投票を済ませた。女性は歌い、踊りだし、涙を流す人、震える人も。

46664という数字はマンデラ氏が、今は負の遺産として世界遺産になっているロベン島の収容ナンバーである。三畳にも満たない部屋ですごし、「精神の拷問」と表現される目的のない、ただ岩を砕く作業を命じられたりもした。このロベン島は、オランダ語で「アザラシ」を意味する。ペンギンやアザラシの生息地で、17世紀に流刑地となり、19世紀にはハンセン病や精神障害の患者の隔離場所としても使われた歴史をもっている。ロベン島での27年間の獄中生活後、突然ケープタウン郊外の刑務所に移送された。国際社会の非難に白人政権が追い込まれていたのである。盗聴器が仕掛けられたこの刑務所は私邸のようなつくりでプールまであった。ここにANCの要人が面会にきていたのだという。

マンデラ氏は大統領就任時、南アだけでなく、アフリカ大陸全体の発展を掲げた。1993年から始まった30万人が死亡したとされるブルンジ内戦。ミサゴさんというブルンジ人は漠然と「マンデラ氏ならブルンジを救ってくれる。」と思い南アに逃れてきた。2000年、ブルンジ内戦の調停に赴いたマンデラ氏は首都の惨状に涙した。その映像を南アで見たミサゴさんも泣いた。「内戦の悲劇を理解してもらえた。」という嬉しさからだったという。

ケニアのナイロビで、アフリカのよき指導者を育てようと2006年にNGO(IDEA)を立ち上げたコデさんは、指導者の唯一無二のモデルとマンデラ氏を讃える。空港で水を飲もうとして突然立ち上がったマンデラ氏はコップと水差しを手にしながら「のどが渇いている人は他にいないか?」と歩き出したのだ。そんな「大統領」の姿を見たことがなかったコデさんは「人種間、民族間の壁を克服し、国民統合を掲げた指導者の本物の姿を見た思いがして、やはりこうなんだなと感じた。誠実かつユーモアを自然に体現する人物だった」と振り返る。

…高尾氏のマンデラ氏を語る文章は、大きな敬愛の情で満ち溢れているのだった。

2014年4月6日日曜日

世界人名ものがたり 備忘録2

http://it.wikipedia.org
/wiki/Lisa_Gherardini
梅田修氏の「世界人名ものがたり」備忘録の続編である。エリザベス(Elizabeth)という名前は、愛称がたくさんあることは知っていた。ベティ(Betty)、リズ(Liz)などは有名。知らなかったのは、ダ・ビンチの「モナ・リザ」もエリザベスさん。モナはマダムの意で、フィレンツェの富豪夫人のエリザベッタ(リザ)を描いたものらしい。面白いなと思う。

エリザベスは、旧約聖書でモーセの兄弟アロンの妻エリザベト(Elisabeth)として登場する。。新約聖書では、洗礼者ヨハネ(3月30日付ブログ参照)の母として登場。ルカの福音書に、旧約のアロンの子孫で歳をとっても子宝の恵まれない彼女に、天使ガブリエルが妊娠することを告げ、ヨハネという名前をつけること、その子はエリア(旧約に出てくる預言者)の霊と力で主のために先立って生まれ、整えられた民を準備するだろうと告げたとある。またエリザベトの従姉妹が、その6ヵ月後に受胎告知をうけたマリアである。マリアが訪ねてきた時、互いに妊婦なのだが、エリザベスのお腹の中にいるヨハネが、エリザベスの口を借りて、マリアに「あなたは女の中で祝福された方、胎内のお子様も祝福されています。(後略)」と聖霊に満ちた声で言った、とある。だから、マリアとエリザベスは、女性名の中でも最も祝福された名前だといえるわけだ。

ちなみにエリザベト(Elisabeth)の「EL」は、カナン神話では神を表す語、ヘブライ語の用法では、力や強さという意味を持っていたとのこと。ユダヤ人が挨拶や別れの言葉で使うシャローム(Shalom)の原義が「平和」なのは有名だが、この言葉は単に戦いのない静かな状態を意味するのではなく、「EL」の力に満たされた状態を意味する言葉であるとのこと。聖書に登場するソロモン(Solomon)やサロメ(Salome)という名は、このような「平和」という意味で、エレサレム(Jerusalem)は「平和の基」を意味する地名だそうだ。

力の満ちている状態が「平和」だという概念、一神教の異文化理解にとっても極めて重要なものだと思う。

ところで、エリザベスはスペイン語形では、イザベラ(Isabella)となるそうだ。ヘンリー8世が離婚した正妻はスペイン王家から来たカザリン。その母がイザベラ。愛人との間に生まれ、スペインをやっつけた義理の孫・エリザベス1世と同じ名前だということになる。(12年5月12日付ブログ参照)実に面白いではないか。

2014年4月5日土曜日

毎日 アフリカのニュース3題

ケニア・モンバサ
http://bez-granic.pl/2010/03
/mombasa-afrykanski-tygiel/
今朝の毎日新聞の朝刊・国際面に、アフリカの悲しい話題が3つ載っていた。まずは、ケニア・モンバサでイスラム指導者(通称:マガブリ師)が殺害されたという報道。この記事が最も多く紙面を割いていた。アル・シャバブとの関係が指摘されていた人物らしく、ケニア治安当局が暗殺したと疑う支持者による暴動が起きる可能性もあり、現地では緊張が高まっている。

そもそも、このマガブリ師という人は、アル・シャバブへの資金、要員確保に関与しているとして12年8月、国連安全保障理事会の専門家委員会によって渡航禁止・資産凍結の対象だった人物で、かの英国人女性「白い未亡人」を過激派に引き込んだと噂されている。すでにモンバサでは、12年以降アル・シャバブと関係が指摘されたイスラム指導者が2人殺されており、「次は自分の番だ。」と毎日新聞の取材に答えていたという。

…先日、ソマリア難民に対する緊急令のことをエントリー(4月2日付ブログ参照)した際、危惧していたことがさっそく現実になってしまった。

一方、ナイジェリアのボゴ・ハラムの方も悲劇的な事態になっている。今年1月から3月の間に、治安当局の掃討作戦で1500人以上の死者が出ているとの報告をアムネスティ・インターナショナルが発表したそうだ。半数以上は民間人だという。ケニアの記事よりは扱いは小さかったが、これも決して見逃すことが出来ない記事だ。

また、その記事の下には、エボラ出血熱がマリ国内で3人感染した疑いがあると政府の保健・衛生相は明らかにしたとのこと。この西アフリカのエボラ出血熱渦についても、先日エントリーしたばかりである。(3月25日付ブログ参照)どこまで拡大するのだろうか。非常に危険である。

…昨日、民放のTVで、オードリーの春日が、コンゴ民主共和国のワゲニアという人々の村を訪れ、コンゴ川の激流での漁を体当たりで行っていた。バラエティ番組なのだが、春日自身の真摯な姿勢には惹かれるものがある。番組の中で、サルの燻製を食する場面があった。以前、このサルの燻製についてもエントリー(10年4月29日)したことがある。昨日、このエントリーのアクセスが急増したのは、この番組の影響だと思う。ところで。この猿、エボラ出血熱と極めて関連が深い。春日をはじめ、ワゲニアの人々(素朴でフレンドリーな人たちだった。)は、大丈夫だろうかと、時期が時期だけに、つい心配になった次第。

2014年4月4日金曜日

高尾具成氏の南アW杯・ルポ

http://www.eluniversal.com/2010/06/07
/sur10_esp_zakumi,-una-mascota_04A3146251
今日は職員会議やら机の移動やら、新クラスの準備などで目が回るほどの忙しさだった。そういう日常とは全く関係なく、先日エントリーした高尾具成氏のルポ「サンダルで歩いたアフリカ」から、印象に残った貴重な話を残しておきたい。

京大の公開講座でも高尾氏が「南アの公用語が11もあることには意味がある。」と言われていたが、南アのサッカーW杯の大会スローガンは「Ke Nako」公用語の1つソト語で「ーするときがきた」「今がその時」に続けて,「Celebrate Africa's Huma」nity.」日本語に直すと、「今こそアフリカ人であることを祝おう」となるわけだ。ソト語+英語で表現されていることに大きな意義があると、私も思う。
南アの公用語には、その他にズールー語、アフリカーンス語、コサ語、ツワナ語などがあり、国歌ではそのうちの5言語を用い、なおかつ、旧白人政権時代の国歌「南アフリカの叫び声」と黒人開放歌「神よ、アフリカを祝福したまえ」(ンコン・シケレリ・アフリカ)を結び付けている。まさに国歌は、虹の国南アの象徴的存在である。

W杯の公式マスコットは、「ザクミ」(ZAKUMI)という勇気の象徴ヒョウである。(画像参照)「ZA」は公用語の1つアフリカーンス語で「南アフリカ」(Zuid Afrika)の省略形。南アのメールアドレスの語尾は、日本のjpと同じように「za」である。「KUMI」は、主に黒人が使用するズールー語などいくつかの言語で開催年の「10」と意味する。だから、ZAKUMIとは「南ア・2010」という意味の命名なわけだ。
そのザクミの誕生日の設定は、1994年6月16日。南アで初めて全人種参加の選挙が行われた1994年と、反アパルトヘイト闘争の象徴的出来事とされるソウェト蜂起の記念日・6月16日にちなんでいた。

…こういう、様々な公用語の組み合わせ、実に面白いと私は思う。ちなみに、南アに行った時、私はソウェト蜂起の記念館に行ったことがある。子供が白人警察官に射殺された場所にモニュメントがあったりして、かなり臨場感のある展示であった。ある意味、アパルトヘイト博物館より迫力があったと記憶する。

ところで、公式マスコット「ザクミ」は「地元の雇用を生まない」と論議になっていたそうだ。ザクミを含む関連商品の多くが中国で生産されているためで、しかも中国企業の生産過程で未成年労働者が低賃金の長時間労働で搾取されているとかで問題化したそうだ。

また大会前にはFIFAの商業主義に地元から反発が起こったらしい。地元企業が「2010」をデザインしたキーホルダーや南ア国旗、ブラゼル(あの角笛のような応援グッズ)を販売しようとして「権利の侵害」と非難されたり、競技場近くでの物品販売が厳しく制限されたりと、小さな商売で生活を営むアフリカの人々の実情を無視していると批判されたりしたらしい。

残念ながら、高尾氏がサンダルで歩いて収拾した様々な情報は、あまり日本では知られていないと思う。私は実に面白いと思うのだ。…と、今日はここまで。

2014年4月3日木曜日

ユナイテッドのマイレージ

ユナイテッド航空全米路線図
私はユナイテッド航空のマイレージがたまるクレジットカードを使っている。もうかれこれ15年以上になるはずだ。昔は、2ヶ月おきくらいに、シカゴやデンバーから直接マイレージがどれくらい貯まったか国際郵便の封書が届いていた。それが、インターネットの普及で完全にHPでアクセスするカタチになり、ちょっと見ていないうちに、かなりシステムが変わってしまった。「PINコード」って何だ?

何回かログインを試みては失敗し、イライラしてほったらかしにしてあったのだ。しかし、妻が「どうなってんねん。」と、せっつくので、今日ついに電話で、マイル数の確認とPINコードを習得したのだった。平日でないと出来ない技である。昨日からすっと花粉症の悪化で頭痛と鼻が悲惨な状況だったので(特にさしせまった仕事もないので)年休をいただいていた。決意して、電話番号を調べ(かなり苦労した。)、東京まで電話したのだった。

私は一度、マイレージを使ったことがある。南アのヨハネスブルグまで、バンコク・シンガポール経由でシンガポール航空を使って行った。帰路は南ア航空とルフトハンザ航空でフランクフルト経由で関空まで帰ってきた。ユナイテッドを使ってはいないけど、スターアライアンスの提携航空会社で世界半周したわけだ。消費税はかかったけれど、まあありがたいサービスだ。それ以後は、マイレージは使っていない。

現在の獲得マイル数は77287マイルであった。一応、米国本土に往復(もちろんエコノミーである。)できるマイル数だ。妻と2人でも、アジアならどこか行けそうである。(笑)

これだけほったらかしにしておいてもマイルが消えないのは、クレジットカードの効果である。長いこと、航空機に乗ってマイルを貯めていない。アメリカ研修旅行や中国修学旅行の付き添いなど、いつもマイルが貯まる提携をしているANAだったのだが、仕事だし、マイル申請など出来ない。ブルキナ行きの時は、結局手配してくれたNGOの指示でエールフランス、イスラエル行きもエルアル航空だったりして、結局ユナイテッドのマイルとは無関係だった。無理してスターアライアンスの航空会社を選んでもよかったのだけれど、便数や安全面(エースフランス)、価格の問題(エルアル)など、なかなか上手くいかなかったのだった。

ところで、私がなぜユナイテッド航空のマイレージにしたかというと、当時は、アメリカばかり行っていたからである。地方の小さな都市にもアクセスが容易で、重宝した。決してユナイテッド航空のサービスがいいとかいう問題ではない。(笑)

2014年4月2日水曜日

ケニアのソマリア難民・緊急令

ダダーブの難民キャンプ https://clwr.wordpress.com/tag/dadaab/
今朝の毎日新聞に、ケニアの情勢が報道されていた。ケニア政府が、国内の都市部に居住するソマリア難民に対し、指定された難民キャンプに戻るように緊急令を発したとのこと。

現在ケニアには約50万人のソマリア難民が流入している。ソマリア国境沿いのダダーブは世界最大の難民キャンプと言われている。さらにナイロビにも難民が集まる大規模なソマリ人地区が形成されている。ソマリアの過激派アル・シャバブが近年国境を越えて、ケニアの地域社会に徐々に浸透していている。ケニア軍がソマリアに軍事介入した2010年10月以降、ケニア各地で報復テロが頻発している。昨年のモール事件もその延長線上にある。

3月25日に緊急令が発令されたが、さっそく、3月31日にソマリ系ケニア人やソマリア難民が多く住む地域で爆破があり6人が死亡したという。この地区ではアル・シャバブの犯行と疑われる爆弾テロがたびたび起きている。戦闘員がソマリ人地区に潜伏している疑いがあり、都市部の貧困地域で若者を勧誘するケースもあるという。

さらに、600人以上のソマリ系の人々が拘束されたというニュースがNHKから流れている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140402/k10013430821000.html

こうしたソマリア難民への帰還・緊急令に対し、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ(本部ニューヨーク)が、過密で整備が不十分なキャンプへの強制的な移住計画は再考すべきだと反対しているという。

…たしかに国境なき医師団のダダーブでは4割以上の人々の住居がなく、栄養失調も深刻化しているといった惨状である。(下記の国境なき医師団のニュース参照)ケニア政府を批判することは簡単だが、そもそもケニア政府が招いた問題ではないと私は思う。ケニアもソマリア難民同様の被害者であるというのが、冷静な見方ではないだろうか。ケニアもソマリアからの難民だけでなく、武器が流入することで私たちが訪れた2003年の段階でも治安の悪化が叫ばれていた。ケニアも苦しんできたのだ。
http://www.msf.or.jp/news/detail/headline_1142.html

私が今、一番危惧しているのは、ソマリ系の人々はケニアではわりと目立つ存在だと言うことだ。それは、文字通りソマリ人は目鼻立ちがすっと伸びていて、特に女性は美しい。故ピーター・オルワ氏も「あの人はソマリやね。すぐわかる。」と教えてくれたのを思い出す。ケニアには様々な民族が共生しているが、ネグロイドでも人類学的には民族によって大きく特徴が違うらしい。ピーター氏は、彼はキクユ。彼はカンバと、それぞれの特徴を教えてくれたりした。たしかにそう言われれば見た目で違うことがわかったのだった。その中でも、ソマリの人々はケニアでは突出しているのだ。政府の緊急令によって、大きな騒動が起こらなければいいが…と私は危惧している。日本の私たちが想像している以上にケニアも多民族が共生していて、事あるごとに、この民族的な問題が顕在化する脆弱な社会であるからだ。

重要なのは、ソマリアの問題がすぐに解決しないのであるならば、国際社会が認める中、ソマリアに介入したケニアの治安の回復と、難民キャンプの大々的な改善であるだろうと思う。難民キャンプの多くの人々が帰国を望んでいない以上、国際社会が無関心を続けないことだと思う。貧困が暴力を生む。ソマリアの若者とケニアの人々ががこれ以上傷つかないことを切に望みたい。

2014年4月1日火曜日

高尾具成氏のアフリカ・ルポ

先日の京大での公開講座でお話を聞かせていただいた高尾具成氏の特派員ルポ「サンダルで歩いたアフリカ大陸」(岩波書店/13年6月25日発行)を取り寄せた。講座でも特別価格で販売していたのだけれど、私が行った時には、すでに品切れになっていたのだ。アフリカと東北に優しい眼差しを向ける高尾氏のルポ。…是非読みたいと思ったのだ。

予想通り、凄いルポである。タイトルにある”サンダルで歩いた”というのは、これ以上の形容はないという感じだ。現地の様々なアフリカの人々と同じ目線で書かれていることが、たった30ページほど読んだだけでわかる。まず、序章で打ちのめされるような文章に出合った。

「私の生きてきた時代は、南アフリカで言えば、反アパルトヘイト闘争のまっただ中にあり、また民主化後のプロセスの最中であった。そして多くのアフリカの国々が独立した時代であり、その後の政治混乱や紛争という激動の過程にあった。紛れもなく同時代を歩んできたはずだったのに、結果的には遠ざけてしまっていた。「遠い」というアフリカを「遠く」してきたのは、私の無関心さであり、想像力が欠如していたからに他ならなかった。それは私に限ったことではないだろう。…(中略)…2001年9月の米同時多発テロ事件に対しては、多くの人が思いを及ぼすことができるが、その3年前の1998年8月、ケニアの首都ナイロビとタンザニアの主要都市ダルエスサラーム米大使館で、ほぼ同時期に発生したテロ事件まで想起する人は稀だろう。これらの事件は、歴史の流れの中で関連性をもって進行していた。だが、アフリカの事件まであわせて考えようとした人は多数派とはなりえなかった。いずれの事件も被害者や犠牲者遺族らは、今も補償のほとんどない中で、揺れる思いを抱えながら日々を送っていた。だから、同時代を生きてきた者として、過去への無関心への自省や自戒を込めて、反芻すべきとの思いがあった。等身大のアフリカの人々を見つめ、対話を重ねながら、歴史や過去を歩みなおす作業は、現在を捉える上でも、不可欠のように感じていた。」

…そうなのだ。その通りだと私も思う。高尾氏が特派員としてアフリカにあったのは、2008年から2012年。私が最初にケニアに足跡を残したのは、2003年。それまでの私も、全くアフリカに「遠い」存在だった。無関心。想像力の欠如。まさに高尾氏の指摘する通りである。ナイロビとダルスの米大使館テロ事件については、たまたまその直後に、アメリカ・サウスダコタ州の航空博物館で、星条旗が半旗となっており、戦略空軍基地ツアーが中止になっていた故に知ったくらいだ。(10年12月2日付ブログ参照)ナイロビのJICA事務所は爆破された米大使館のそばにあり、当時まだまだテロへの警戒が解けていなかった。後に、9.11との関わりが指摘されて、意外な感じがした。まさに私のことを指摘されているようで、ドキッとしたのだ。

まだ30ページほどなのに、朱線を引いた箇所が何十箇所とある。このルポについても、少しずつエントリーしていこうと思う。