2014年4月12日土曜日

アフリカ学会 公開講座4月

”残桜”の京大稲森財団記念館
アフリカ学会50周年記念の公開講座「アフリカ、その魅力と可能性」もいよいよ最終回である。国立民族学博物館準教授の飯田 卓先生の「お好みどおりのアフリカを作る」。映像・メディア論からのアプローチである。

司会の京大の重田先生が、「最終回には深い意味があります」とまず言われた。飯田先生は、京大・大学院出身の生態人類学の徒で、主なる調査地は、マダガスカル。漁業と自然との関わりを研究されているそうだ。昨年民博で開催されたマダガスカル展(13年5月11日付ブログ参照)にも深く関わっておられたそうだ。マダガスカル展は様々な展示工夫がされており、素晴らしい展示だった。がぜん身を乗り出して聞くことになった。

講座は、いきなり今話題の小保方さんの話から始まった。飯田先生は「研究の詳細についてはよくわかりませんが、画像処理の問題とか、研究論文の切り貼りといった論文上の問題と、今日の話は大きく関連性があるのです。」と、言われた。「…?」と最初はマダガスカルのキツネザルに包まれたような気がしたのだった。

「海を駆ける民」というTV放映されたドキュメンタリー番組が、今日の重要な教材であった。懐かしい音楽が流れた。日本生命提供の「神々の詩(うた)」というシリーズである。民放だが、今のバラエティ化した海外ロケものとは一線を画す、極めて正統派のドキュメンタリーである。私も昔よく見ていた。実は、この番組、飯田先生が院生の時、研究していたマダガスカルの漁民を扱ったもので、番組制作会社から問い合わせがあったものだそうだ。彼らは、小さなカヌーに乗って、サメ漁をするという「絵になる存在」だったのだ。

最初に、おごそかに「詩」が出てくる。「風を集め 海を駆け 雨期にそなえて魚をとる そして聖なる木の下で 精霊に祈りを捧げる それが彼ら海の民の生き方」

ここに今回の番組で主張したいコトが集約されている。…自然の恵み。カヌーで海に出る。信仰。そして家族。プロの詩人が毎回書き下ろすそうだ。日本生命の提供なので、必ず毎回、家族の絆が強調されると言う。「製作側に悪意はないようだが、ここまでやっていいかな。」という疑問が飯田先生から提起された。

番組内容(VTR)を追いながら、さらに飯田先生は様々な指摘をしていく。海に祈りを捧げるシーン。毎回しているように演出されているが、サメを取る時のみ。連続しているように見せているシーンで船も(サメ用から普段の近海用に)変わっている。女性が「海に行こうよ、海は魚がいっぱい」と現地語で歌って蛸を取っているシーンで、歌われているのは実は教会で歌う賛美歌で、現地語がわかる飯田先生が聞けば、同じような人々の台詞(テロップで示されている)も、全然違う。製作会社に書面で質問状を出したところ、「これは意訳の範囲です。」とのこと。飯田先生が最も困ったのは、漁師たちは、「何ヶ月も村を留守にし、島に暮らす漁師たちはめっきり少なくなってきた」というナレーションである。実は飯田先生の博士論文と真っ向から対立する内容だったのだ。実際には、市場経済がこの村にも浸透し、乾燥させたフカヒレは保存がきき、香港やシンガポールの向けの輸出品として、貴重な現金収入源になっていた。この島もグローバリゼーションに巻き込まれつつある時期だったのだ。

なるほど。小保方さんの論文の話が最初に出てきたことに納得がいった。

我々が目にするTVや新聞報道、あるいは著作、WEBなど様々な情報が、どこでどう改ざんされているかわからないという教訓だった。悪意があろうとなかろうと、近年の画像処理技術は凄い。どこまでやっていいか。非常に難しい問題なのだ。ありのままの事実を私たちが知ることは、極めて不可能に近い。アフリカを知りたい。だが、ありのままを知ることは不可能に近い。実際に足を運んでも、短時間では無理なこともある。だからわからない。でも知りたい。アフリカを学ぶということは、まさにそういうことなのだ。重田先生が最初におっしゃった「最終回の深い意味」の謎も解けたのだった。

今回も非常に興味深いお話を聞かせていただきました。飯田先生、重田先生をはじめ、スタッフの皆さんにお礼申し上げます。
新たな公開講座は秋以降ということで、楽しみにしています。

なお、ブルキナファソで荒熊さんと共にお会いした遠藤聡子さんの本を会場で拝見しました。京大のアフリカ研究出版助成で博士論文が本になったと推察します。現地では、研究対象の女性宅にホームステイしながら密着体制で研究を続けていたと聞きました。そのご苦労の結晶だと思うと感慨もひとしおです。

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