2014年4月20日日曜日

社会学からキリスト教 談義2

サンピエトロ広場のパウロ像
http://www1.u-netsurf.ne.j
p/~R-Yama/trip03_20.html
昨日のエントリーの続編である。「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書2100・11年5月20日発行)は、社会学の立場から、キリスト教の一神教でありながら、ユダヤ教の律法、イスラム教のシャリーアといった確固とした神の法を持たないゆえに、違う発展をしたというのが、本書を貫く主要な論理である。

今回は、キリスト教がいかに「西洋」をつくったか、橋爪・大澤の社会学から見た重要な視点を整理しておこうと思う。

新約聖書において、パウロの手紙は極めて重要な位置にある。神の子・イエスについての証言である福音書は神の言葉だと容易に納得できるが、解釈であるパウロの手紙は人間によるものであるといえる。そこで、パウロの手紙は聖霊が書かせたものということになる。旧約聖書やコーランには、こういう現象はない。三位一体という原理はこうして必要性に迫られるわけだ。

カトリックと正教会は、ローマの東西分裂によって生まれたが、(特にカトリック側の)スポンサー不在ゆえに途中の警護や経費の負担のため、合同の公会議が開けなくなる。そこで両教会の解釈が食い違う。カトリックはラテン語、正教会はギリシア語を典礼の言語とした。正教会は布教のため、その地域の言語を典礼にも採用したが、カトリックはラテン語を固持したので、「1つの教会、多くの国家」という西ヨーロッパの土台をつくった。ユダヤ教・イスラム教と違い、キリスト教はそもそも多言語である。イエスはヘブライ語(アラム語)を使い、パウロはギリシア語で書簡を書いた。キリスト教における神の言葉は翻訳されることを厭わない。この辺もユダヤ教(ヘブライ語)・イスラム教(アラビア語)との大きな相違だ。

カトリックは正教会と異なり世俗の権力が二元化する。教会の権力が弱体化していたと言った方がよい。幸いケルト人の信仰していたドルイド教の祭司の社会的地位が高かったゆえ優遇されたが、ゲルマン人は政治権力が強く、司祭らを任命していた。ここから中世の聖職叙任権闘争の歴史が始まる。そもそも古代ローマ帝国時代に一度特権的な地位を占めたカトリックは、教会の統一と独立を保つために全力をあげた。それがラテン語固持に繋がったわけだ。この教会のラテン語ネットワークは商業や外交、情報伝達に有効で、教会存続に役立った。何百年もの長い時間をかけ、キリストの代理として救済財(人々を救うのは教会であるという権限)を得、結婚もサクラメント(秘蹟)にすることに成功した。相続は正しい結婚によって成立する。教会の協力がないと封建勢力は自らを再生産できないしくみをつくったわけだ。聖職者は独身ゆえ相続の問題は起こらない。家族や血縁とは無縁のヨーロッパ全体をカバーする官僚機構を構成した。分割相続下の封建領主は、余った男子を教会に送り、持ちつ持たれつの関係を構築することになった。

…こういう視点は、実に面白い。世界史の隙間を埋めるような興味深い説であると私は思う。

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