2010年5月31日月曜日

あかん。血糖値が高い。


 今日は朝から、ふわぁーとしていた。モーニングでホットドッグをポロリと落としたので、”こりゃああかん!”と思った。学校に着くと、咽の渇きが尋常ではない。さすがに、4時間しゃべりまくりの授業は無理と判断したので、1・2時間目の地理Aは、前からやろうと思っていた白地図の作業に変えた。前で講義するのではなく、机間巡視で生徒と触れ合う。ふぅー。天王寺にも、ウガンダ・コンゴ難民募金をしていることが判明した。これもまたいいもんだ。とはいえ、なかなかしんどい。4時間目は日本史Bでテスト返しと、しゃべくり。掟無用のミネラルウォーター持参である。7時間目の現代社会も同様であった。
 今日は5月末である。どこかの総理ではないが、本校の新パンフレットの締切日である。カラー印刷をして原稿と資料をCDに焼き、白黒プリントには、フォントを明記して提出した。その後クライアントの校長から2・3訂正のお願いがあった。(ALTはA.L.T.ではないそうだ。へー知らなかった。英語科からも指摘はなかったぞう。)それらを修正して再カラープリント、CD焼き直し。ところが、これが、血糖値の上昇と共に全然うまくいかない。事務所で何度も何度もやりなおし。ついに7時を過ぎてしまったのであった。ひーはーである。

ところで、今日から自称料理人の愚妻が”糖尿対策弁当”に切り替えるとのこと。久々の弁当である。おかずを見た時、どこが糖尿食かと思ったら、下の主食が”黒米”だった…。<写真参照>ちょっとびびったが、案外美味である。腹はふくれないけど…。缶コーヒー禁止令が出ているので、ミネラルウォーターを今日は3本も買って飲んだ。咽の渇きは1日中、強烈であった。こりゃ、だいぶ悪化している…。

2010年5月30日日曜日

最高のフルートとクマのプーさん


 今日も「ハーバード白熱教室/第9回」を見た。ロールズの正義論の続編である。今日のお題は、アメリカの大学における人種による優遇措置がテーマであった。実際にテキサス大学のロースクールで、白人学生が入学を許可されなかったことに対して訴えたことを取り上げ、学生の意見を聞く。大変難しい問題である。結局、①是正:教育環境のマイノリティーの不利を補う・②償い:過去の特に黒人差別に対する歴史的問題への償い・③多様化の必要性:大学の設置目的や氏名を教育的・社会的な立場から考える時多様性は不可欠といった3つの論が提起される。ハーバードのレガシーミッション(親等がハーバードを卒業している場合、入試で有利になる制度)なども論じられて、結局多様性の必要性を認めるとして、その基準と個人の公平な判定への権利との整合性を深めていく。
 後半は、この分配の正義について、一気に話はアリストテレスへ。”最高のフルートは誰の手に”という設問である。アリストテレス的に正義を考える場合、最高のフルートは誰が手にすべきだと彼は言っているか?そう最高のフルート奏者である。では何故?アリストテレスは、カントもロールズも認めない道徳的対価を認めている。最高のフルートは値すべきものに与えられるべきである。なぜなら、そのフルートの”目的”は、最高の音楽を創るためにある。これを成しうる人物に与えられなければならない。目的から正義が生まれるのである。これを目的論的論法という。(そうそう、センター対応で教えた。目的因である。)これは直感的でありしかも妙な説得力がある。
 クマのプーさんの哲学について、教授はふれていた。プーさんは、ブンブンという音を聞く。この音の目的な何か?羽の音である。その羽の音はハチのものである。何故ハチは音を立てているのか。蜂蜜を作っているのである。その目的は何か?私の為に蜂蜜を作っているのである。よって、プーさんは、蜂蜜を食べるため木に登っていた。(笑)このような目的論的論法をしないよう子供のころから教育を受けてきた(笑)次回は、この目的論的論法に反論しようと講義が終わった。…なるほど。今日も面白かった。
 しかし、ハーバードの学生の論議の旨い事にはいつも感心させられる。アメリカの教育制度を実際見聞してきた私には驚きではないが、こんな授業を受けて、常々ディベートやディスカッションで訓練されている連中を相手にに現日本政府ごときが太刀打ちできるわけがない、と思ってしまうのである。 

2010年5月29日土曜日

区間快速残酷物語


 ここ1週間、中間考査であったので本来はちょっと休憩というか、ホッとする1週間のはずなのだが、国際交流の仕事や本校のパンフレット製作とか様々な仕事が相まって、本来のゆっくり感が減退した。今日はなんと朝まで10時間睡眠をとり、さらに4時間も午睡をとってしまった。完全なる睡眠不足である。
 というのも、今週は血糖値が高かったこともあって、よく水を飲んだ。そのためか寝ていても1回はトイレに行かねばならない日が続いた。不完全な睡眠であった。しかも最近は5時台に起きている。その最大の理由はJRのダイヤ改正である。もよりのJR・T駅は普通しか停まらない駅であったが、ダイヤ改正で朝は区間快速が大幅に増えた。最初はありがたいと思ったのだが、それにもまして乗客が増え座れなくなった。朝は貴重な読書の時間である私にとって、これは困る。で、6時29分の普通にいつもターゲットをしぼることになる。山の中腹にあるといってよい自宅から駅まで12分(帰りは20分以上かかる)。とはいえ、ギリギリだと座れなくなる確率が高まり、結局6時10分に自宅を出てちょうどくらいになった。

 普通だろうが何だろうが、電車に座れて本を読めればいい。ところが今週はイロイロとあった。先日は、急にゴン!ゴン!という音がする。なにかと批判の多い学研都市線である。整備の具合が悪いのだろうかと気を揉んでいたら、何のことは無い、隣の青年が爆睡していて、窓ガラスに後頭部を打ちつけているのであった。あれだけの音である。痛くなのであろうか。何度も何度もゴン!ゴン!と打ちつけている。電車で寝てしまうことは誰しもある。だが、口をあけ極めて”美しくない。”姿を晒されると、朝から不愉快である。(笑)
 音量がもれているi-pod、電子音を切らないままのメール、こんな時、私は”車谷長吉”化してしまう。何より、詰めればもう1人座れるのに平気な顔をしている”ヒト”が多い。
 朝は皆不機嫌である。だからこそ、京橋で、いつものパブでモーニングをしてから学校へ向かうのである。コーヒー(この時だけなぜかホットだ!)を飲み、ホットドッグかトーストかロールサンドかをいただき、最後にゆで卵を食べる。このゆで卵がうまく剥けた時、全てが癒されるのである。(笑)ああ、ストレス社会である。

追記:5月26日付のブログ(聖☆おにいさんIN中間考査)に、実際の問題の画像を追加しました。

2010年5月28日金曜日

藤田東湖・回天詩史in中間考査


 今日は中間考査最終日で、私の日本史Bの試験日でもあった。受験に使わない15名の試験…。授業の方は結局ペリー来航の前説でほぼ終わってしまった。幕末維新を学ぶための序説といったところ。開発経済学から見た江戸という時代。そんな中抜け出した雄藩の状況。そして水戸学。受験科目という制約から抜けると押さえておきたい内容が次々出てきて、結局老中阿部正弘がパンドラの箱を開けたところで終わってしまった。
 さて、今回の試験、藤田東湖の回天詩史を出した。と、いっても詳しく教えたわけではない。烈公徳川斉昭が藤田東湖という人物を重用したと教えただけである。そこで、下記の漢詩を白文で出した。設問は2問。その1:この漢詩の作者を想定しなさい。東湖を含めて5人を列挙しておいた。記号回答。(正解は半数といったところだった。)その2:漢詩の中から1節を選び、感じるところを書きなさい。(書き下す必要はなく、あくまで感想文とした。まあボーナス問題である。)

三決死矣而不死。二十五回渡刀水。五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。

 -ちなみに書き下すと以下の通りである。-
三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと。

 かなり難しい内容だが、さすがは国語科3年である。「人生得失豈徒爾。」や「自驚塵垢盈皮膚。」「猶余忠義填骨髄。」などを、ほぼ読み切って感想を書いてくれた。(もちろん全然なのもあったけれど…)月曜日は、答案を返し、この回天詩史を解説するところから、次に進むつもりである。 

2010年5月27日木曜日

ブルキナの赤い土 その3


 24日の夜、ピーター会のK先生から携帯にメールが送られてきた。(我が家の通信状況は最悪なので当然翌朝に見たのだが…。)K先生はわれらケニア行きの教員の中では最長老で、退職まであと3年、最後の1年担任だそうだ。K先生の勤める府立T高校は、このところ良くなってきたそうだが、K先生の学年は荒れているらしい。K先生としては、学級通信をつくって、紙面の4分の1はどに詩を載せているとのこと。わかりやすくて、生徒の気持ちを前向きにしたり、やさしくするような「生徒に読ませたい」と思われるものがあれば教えて欲しい、とのことだった。K先生、実は大阪でも指折りの進学校で日本史を教えていた方で、今や押しも押されもせぬ”好々爺”である。ナイロビのホテル前で聞いた”ジャスト・マッタ(待った)・モーメント”のギャグは今でも使わせていただいている。

 で、さっそくブルキナのIさんの詩(3月1日付ブログ参照)の「バナナ売りの少女」をご推挙申し上げた次第である。<今日の画像は、荒熊氏のブログ(2009年9月1日付)から引用させていただいたIさん自筆の百聞は一見にしかずの板である。荒熊さんのブログで、この板をIさんの店”我が家”に飾るよう進言した以前ワガドゥグに滞在していたT氏とは私のことである。(笑)>
 私は、この書が大好きだ。百聞は一見に如かず。一見は百行に如かず。百行は一念に如かず。Iさんらしい。この書の深意を尋ねると、照れくさそうに「なんとなく思いついただけですよ。」とおっしゃっていた。私はそうは思わない。”一念”こそ全てを生みだす源泉である。Iさんのブルキナでの戦いは一念が定まっているから可能になったものだ。荒熊氏も同意見をブログに書いておられる。

 その荒熊さんも、またアフリカに行けるようになられたらしい。(5月24日付ブログから)うらやましい。荒熊氏も一念が定まっているからこその研究費獲得である。7月18日の”仮想世界ゲームIN本校”も、状況はきびしい。そう、なによりも”一念”である。ガンバロー!

2010年5月26日水曜日

聖☆おにいさん IN 中間考査


 今日は、3年生の現代社会の中間考査の日であった。今年の現代社会は、U先生とESDを基本に行っている。センター倫理もセンター・私大用政経は補習でカバーするという設定である。だから、ある意味受験に気遣うことなく進めている。まずは異文化理解の基礎ということで、ヘブライズムをやったので、私の担当する国語科の中間考査の範囲は、びっちりイスラームをプラスしたヘブライズムだった。なんとなく紙面があまったので、特別問題として、聖☆おにいさんの第4巻から試験をつくった。(以前ちょっと紹介した箇所である。5月10日付ブログ参照)このマンガを知らない生徒の為に、およその概説もしておいた。
 

 第4巻に、イエスとブッダがオンラインのRPGをする話がある。天界から使徒の2人も参加するのであるが、ブッダは初心者なのでなかなか会話もうまくいかない。さて、装備も身につけて(ブッダはここでも僧侶になるところがイエスの涙をさそう。)バーチャルの空間へ。そこには、超弱いキャラがいた。ブッダがびっくりしていると、使徒たちが「大丈夫です。戦闘力はものすごく弱いですから。ただ口が悪いマスコットキャラ的存在です。」などと言って笑う。そのキャラは「バカ」「まぬけ」とか罵しるだけである。イエスも笑いかけるのだが、その瞬間…イエスに向かって「おまえのとーちゃんデベソ!」と言うのである。イエスも使徒も凍りつく。イエスは、「この者は何をいっているのか自分で判っていないのだよ。大工のとうちゃんのことを言っているかもしれないし…」と言うのだが、使徒の2人は、「悔い改めよ!」と最大の攻撃力で、その弱キャラを成敗するのである。ギャァー!という悲鳴。PCの前に座るイエスは、ブッダにこうつぶやく。「ごめん、ブッダ。弟子たちがエキサイトして…。」
 さて、設問は『このマンガを見て、なぜイエスは、弟子たちのエキサイトをブッダに詫びたのだろうか。論理的に説明しなさい。』というものである。<問題の画僧はクリックで拡大できます。>

 あえて正解はこのブログには提示しないでおこうと思う。コメントに回答を寄せてください。(笑)

追記:昨日愚息が第5巻を買ってきた。フフフ。<今日の画像は湯気が出ていそうな第5巻!デス>ますます難解になっていました。ふふふ。

2010年5月25日火曜日

叢裏鳴虫


 政治向きの意見は、このブログでは書いてこなかったのだが、最近の政治状況を見てみると、あまりにあまりである。今日のタイトル『叢裏鳴虫』は、岩倉具視が隠棲させられていた頃書いていた手紙の名称である。私の意見など草むらの裏で鳴く虫の声くらいだという自虐的な立場で書かせていただく。
 現在の小選挙区制は、中選挙区制の矛盾が限界に達した故の産物であった。金権選挙のもとになったのは、自民党の長い政権下、自民党同士で議席を争い、選挙活動に金が乱れ飛んだ故である。派閥が各議員に金を出すことで派閥政治を生んだこともその弊害とされた。これらの解決策として小選挙区制が生まれたわけだが、そろそろ、その矛盾も明らかになってきたように思う。
 小選挙区制は、大政党が風次第で大勝する。政治家個人ではなく政党のイメージやその時の総理の人気などに左右されるようになった。TVによくでる者勝ちのような、政治家のイメージつくり。政治もバラエティ番組化されているような印象さえうける。特にひどいのは、マニフェストが選挙対策ONLYで、大衆受けする安易なも政策が多すぎることだ。政治は、所詮利害の調整である。「正義」がどこにあるのかは難しいが、少なくともぶれないで欲しい。元首相の言動はあまりにも安易でころころ変わりすぎである。「勉強して海兵隊の存在意義がわかった。」などと、国民の信頼感を根底から揺るがすような言を政治家は口に出してはならない。まして一国の首相ならば当然である。
 私のような叢裏鳴虫であっても、生徒に約束したことは絶対守る。「できないことはできない。」とはっきり言う。言ったことは何が何でもやりきる。信頼と言うものはそうして積み重ねていくものだ。そしてその信頼は、「破壊は一瞬」である。そんなこともわからない人間が国を動かしているのは恐ろしいことだ。

 小選挙区は、中選挙区の矛盾から生まれた。小選挙区の矛盾もはっきりしてきた。政党の党利党略で政治が混乱している。これだけマスコミが発言力を増し、政治とカネにもそれなりの倫理観が確立されてきた。(首相や政権党幹事長クラスになるとこれを超越できるらしいが…)また、派閥は派閥の良さもある。政治家が鍛えられ、少なくとも活力が生まれる。様々な民意をくむ意味で中選挙区制にもどしてもいいのではないだろうか。少なくとも今よりはマシだと思うのだが…。<今日の画像はオセロゲーム。小選挙区で一気に勝敗が変わる政治は、どうも私はいいとは思わない。>
 

2010年5月24日月曜日

食料の世界地図第2版


 今日は、血糖値の上昇を受けて、T屋のカツ丼をやめ近くのスーパーで”惣菜のお豆を煮たやつ”を買ってランチとした。(ちょっと情けないのである。)お豆を1粒1粒箸で取って口に運ぶのに時間がかかる。悲しくなって職員室の私の机の本を無作為に取り出した。それが、今日のタイトル『食料の世界地図第2版』である。だいぶ前に購入したカラーの本である。高価(2600円+税)である。教材として買ったのだが、あまりゆっくり見たことがない。豆を口に運びながら眺めていた。

 目にとまったのが、37・ファーストフードのページである。”米国では全供給熱量の10%がファーストフードによって接種されている”とか、”アフリカにハンバーガーはない”…ハンバーガーチェーンは、サハラ以南のアフリカ諸国へは投資を行っていない。その理由として先進国ではファーストフードは手頃な安い食べ物とされているけれども、開発途上国の人々の間では、そうは限らないということがあげられる。同様の理由でマクドナルドは南米市場から撤退している。…とか、”ビッグマックを買うのに必要な労働時間”イギリスで0.2時間、ハンガリーで0,8時間、トルコで1,4時間、ウクライナで3,3時間、グルジアで5,0時間とか…。このグラフと肥満とされる男性の割合が示され反比例していることが明らかにされていたり…なかなか面白い。(イヤイヤ、私の場合、面白がっている場合ではない。)

 39・広告とマーケティングのページも面白い。”食品業界は2001年において400億ドルの予算を宣伝に費やした”らしい。子供向け番組で放映されたコマーシャル1時間あたりで、食品関係のコマーシャルが一番多いのは、オーストラリア(12/29)、アメリカ(11/24)、イギリス(10/17)、フランス(8/16)となる。(食品CM/1時間あたりのCM)である。菓子類や朝食用シリアル、ファーストフードなどの商品であるそうな。

 ところで、今日の夕刊にドナルド(レーガンではない。マクドナルドのキャラクターのドナルドである。)に引退勧告が、某NGOから出されたという記事が載っていた。半世紀にわたり子供の肥満化、あるいは大人も含めて糖尿病等の成人病を助長したのがその引退勧告理由だとか。マクドナルド社は『あほか』と無視するらしい。
 あの強烈なドキュメンタリー映画『スーパーサイズ・ミー』(私のブログの血糖値シリーズのキャラでもある)にも、今回の引退勧告にも、ロールズの正義論にもめげず、これからも新自由主義の利益道をひたすら走り続けるらしいのである。うーん、頑張ってるなあ。そのうち石川遼クンも引退勧告されるぞぅ。

2010年5月23日日曜日

アフリカ日和 その3 再会


 前回の「アフリカ日和その2」(5月17日のブログ参照)でふれた園芸農業で、ケニアの貧困を克服しようとしていた革命家の喜田専門家のその後を調べてみた。NPOの道普請人の副理事長をされているらしい。故郷の香川県の広報誌にアフリカでの活躍が書かれていた。とにかく凄いオッサンなのである。<今日の写真はケニアの農業関係者と談笑する喜田さん。>
詳細は、http://www.pref.kagawa.jp/kohosi/0509/rashinban.html

 さて、早川千晶さんと再会したのは、梅田にあるアフリカ専門の旅行会社・道祖神のセミナーである。たしか、最初は、N女子大学付属中等学校のM先生に教えてもらったような記憶がある。2回来阪されたはずだ。第1回目は、キベラスラムの子供たちへの支援活動がテーマだった。このキベラスラムとの関わりは、その後大きく発展して、スラム内の寺子屋活動から、身寄りのない子供をケニアの田舎・ミリテーニ村に送り、コミュニティーをつくる活動へと発展している。(道祖神の月刊誌DoDoWorldに「ケニアを知る旅案内人独白!」というコラムが毎回載っていて報告が載っている。)第2回はマサイの話であった。この話は、またまたつづく…。

長い追記:今日は、1日中雨でジトジトしていたこと、血糖値400超の影響で少しばかり体調が悪かった。H鍼灸院でも、かなり「からだ」が痛んでいるとのこと。入念な鍼とマッサージをうけた。だが、行き帰りの車の運転は自分でも雑。ちょっといつもと違う。
 そんなわけで、さすがに早朝の『ご姉妹物語』には起きれなかったが、”ぼおぅ”としたまま、ドラゴンボール・ワンピース、午後6時からのK老師から聞いた「ハーバードの白熱授業」(今日はロールズの正義論だった。今日もなかなか良かった。)、そして「龍馬伝」と定番のTV番組は全てクリアしたのであった。日曜日はどうもTV休日になってしまう。明日からは試験である。とはいえ、その後の授業準備や体育祭、U校訪問団来校、修学旅行説明会など仕事は目白押しである。そんなにゆっくりはできないのである。無理せん程度に、身体をだましだましガンバロウ!と思うのであった。

2010年5月22日土曜日

血糖値400超の反省文


 今朝糖尿の薬をもらいに行って来た。久しぶりに血圧とか、血液検査とかをやったわけだが、なんと血糖値が400を超えていた。”ひーはー”である。N医師に「食事」と「運動」を改めて考えるように言われた。朝、薬も飲まずインスタント・ラーメンを作って食べていったのいがまずかったのだが…。(たいてい土日の朝は自分でなにか作るようにしている。)

 愚妻が、「凄い血糖値じゃ!入院じゃ!だいたい…」と激怒したので、逃避してこのパソコンに向かい反省文を書いている次第である。薬を飲まなかったら、血糖値が無茶苦茶上がることが実証された。このところの疲れや多汗や、渇きを考えるとさもあらんである。

 疲れていると、授業で活舌が悪くなる。いらん話が多くなる。今のところなんとかなっているが、やばい。
 疲れていると、書類上のミスが多くなる。なんでこんな重要なミスをしたのだろうと思うことが時々ある。

 まず昼食をなんとかしよう。T屋のかつ丼(450円)を連続3日食べるような食生活はよくない。
 煙草を減らそう。煙草を吸いに行く時は、せめてK老師のように散歩がてら遠方に行こう。
 缶コーヒーは絶対やめよう。ミネラル・ウォーターだけにしよう。
 愚妻の言うことを聞こう、いや服従しよう。
 「イスラーム」とは神に服従することであるが、私は愚妻に服従するしか生きる道はない…。
 ネパール、行きたいし…。(この反省文で、愚妻はOKくれるかな…。)
 

2010年5月21日金曜日

昔々ハンバーガーショップにて


このところ、雨でジメジメした日が続いたり、夏の日差しだったりで、授業中すこぶる汗をかく。まして月曜から中間考査である。模試や内科検診で抜けたりして、日本史Bも現代社会も試験範囲までギリギリの状態なので、気を抜けない。今度の体育祭のテーマではないが、”ひーはー”である。今日は、朝モーニングで糖尿の薬が切れて、昼食の薬が途絶えた。…5・6限と連続授業した後、ほんとんどHPが無くなった。とはいえ、掃除監督や体育祭の仕事や国際交流の打ち合わせや…でボロボロになって帰ってきた。と、言うわけで今日は、体調不良を表す”スーパーサイズ・ミー”の画像を久しぶりに貼ろうと思ったら、おもしろい画像を見つけたので貼ってみた。ハンバーガーなどの私の大好きな食事は、見事に体に悪い。
 さて、今日はそのハンバーガーショップの話をしたい。まだまだマクドナルドが、梅田や天王寺くらいにしかなかった私の学生時代の話である。学生アパートの先輩が、バイトの金が入ったとのことで、私や他の後輩をさそって深夜の外食にさそってくれた。本当は五条通りの焼きそば屋に行く予定であったが、あいにく休みでその近くのハンバーガーショップに行く羽目になった。みんな普段食べ慣れていないのでちょっと興奮状態であった。(笑)
 さて、注文を終え席に着き食べようかという時に、突然大声が店内に響いた。チンピラ氏が我々の隣席の二人組にイチャモンをつけたのだ。「おまえ、何見とんねん!」チンピラ氏は、アルミの定番の灰皿をちょうど”フリスビー”を持つようにもったと思うと、それを二人組のうちの一人に振りかぶった。すると我々のテーブルに鮮血が…。「なめとったら承知せんぞ、コラ!」という捨て台詞。アルミ灰皿を床にたたきつけ、カーン、コオーン、カーンとその音が店内に響いた。我々は、バーガーの包み紙をむいて口に入れようとしたまま停止状態になった。チンピラ氏が店内を出た後、隣の二人組は止血をしていたようだったが、「このままひっこめるか!」と怒りを露わにして出て行った。我々がバーガーを口に入れたのは、その後だった。
 先輩が、私にこう言った。「お前が止めに入るのではないかと気が気でなかった。」私も先輩に「先輩こそ、行くんじゃないかと…」と言った。だが、我々は無力であった。
 さて、この我々の行為(あのシチェーションで何もしなかった事)は、勇気がなかったのであろうか。この問いかけは、プラトンの四元徳における「勇気」という徳と、アリストテレスの習性的徳の『中庸』との違いにまつわるものである。今朝の倫理演習でこの話をした。生徒たちは、さすがに行くべきではないと結論づけた。「そう、あそこで止めに入るのは無謀だよな。」「同じ勇気でもTPOに応じた勇気を持つべきだアリストテレスは言うわけだ。単純に勇気があればいいというものではない。」「なるほど…。」
 「私は師プラトンを愛する。しかし、それにもまして真理を愛する。」現実主義のアリストテレスの面目躍如というところである。これも私の滑らない話シリーズの1つである。うん、かなりの修羅場でアリマシタ。

2010年5月20日木曜日

授業で浜村淳・エレファントマン


 私はあまり映画を見る方ではない。まして映画館に足を運ぶなどというのは稀である。最も最近見たのは、「ホテル・ルワンダ」である。(これも映画館ではなく、視聴覚行事のサンプルとして業者が開いた上映会場で見た。)それ以前となると全く思いだせない。が、約30年前、この『エレファントマン』は劇場で観た。衝撃的な映画であった。キリスト教を教える時、私はこの映画を必ず紹介する。この時ばかりは、”浜村淳”になるのである。(注:浜村淳は映画の説明を得意とするラジオのパーソナリティーで、独特の語り口とわかりやすさで関西では有名である。)
 エレファントマンのストーリーを簡単に説明すると、ロンドンに”エレファントマン”という見世物小屋が建っていた。世にも奇怪な姿の人間を見世物にしていたのである。野心に燃える青年医師が、自分の業績発表のため、このエレファントマンを小屋の親父から借り出す。エレファントマンの病状を詳しく調べ、様々な病気が原因だと発表するのである。さて、医師はエレファントマンは知能も低いと決めつけていた。しかし発表が終わった後、食事を運びに行くと彼の特別病室から声がする。良く聞くと聖書の一節である。エレファントマンは”普通の、いや信仰深い人間”だったのである。医師は、彼を救おうと、新聞にこの事実を発表する。すると様々な篤志家や女優が彼の病室を訪れる。こうなっては、元の見世物小屋の親父も黙っていられない。親父は、エレファントマンを殴りつけ、拉致しフランスで興行を再開する。医師は責任感からフランスまで追いかけ、ロンドンへ連れ戻す。安らかな場所を与えられたエレファントマンは、やがて教会の模型を作りあげると、それまで背骨の病気のため倒せなかったベッドを普通に設定し、安らかな眠りにつく…。

 何故、この映画を紹介するかというと、イエスの『律法の成就』という概念を受け、神を求める信仰(神への愛)と、神の愛(アガペー)が、無差別に、無制限にふりそそがれること、さらにその無差別な愛を隣人に与えることを、確認するためである。映画の話の後、私は生徒に必ずクイズを出す。最もキリスト者らしいキリスト者は誰か?①青年医師②見世物小屋の親父③エレファントマン④エレファントマンを見舞におとずれキスまでする女優、の4つの選択問題である。
 正解らしい正解はないのだが、ここは、やはり神の愛を最もビンビンと感じているエレファントマンであろうと私は考えている。だからこそ、彼は抵抗もせず”見世物”になっているのであり、自分をこのように扱う親父や、野心で自分に近づいた医師も、おそらくは売名のため見舞に来た女優に対しても”ゆるしている”のである。
 キリスト教の根本には、”神は守れない律法を与えることで、律法を守れず、私バカよね、おバカさんよねえと思わせる。だからこそ、神を求めるのである。神を求めなければ神の愛を感じることができない。”という前述の『律法の成就』という概念がある。そういう意味で、この映画、キリスト教の説明には最適なのである。…実は、サルトルを語るのに私は、もう一度”浜村淳”になる。いづれ、その映画のこともブログで書こうと思う。

2010年5月19日水曜日

ハーレムでエヴァンゲリオン


 授業でキリスト教を教える時、心がけるのはやっぱり「属性」である。案外生徒は、キリストをイエスの名字だと思っていたりする。キリスト教的言葉で、最も「属性」を呼び起こすのは『福音』である。私が、「英語で言ってもらおうか。」と言ってすぐ「ゴスペル」と返ってくることはめったにない。まして「じゃあギリシア語で…」と言って返ってくることもめったにない。(その”めった”が昨年倫理の授業であった。無茶苦茶よく出来た生徒だった。)そう、「エヴァンゲリオン」である。我愚息が中学の頃、ハマっていた。部屋にはポスターがたくさん貼ってあった。(笑)私は詳しくは知らないが、ガンダムと共に未だにその人気は高いのである。

 だいたい授業では、ちょっと脱線してハーレムでのゴスペルの話をすることにしている。私はれっきとしたブディストだが、音楽としてのゴスペルは大好きだ。NYCに行った時、トミー富田氏のハーレム・ゴスペルツアーに参加した。バブティスト(当然、キリスト教の様々な分派については毎回詳しく教えている。ルーテル派、クウェーカー、メソジストなど違いをちゃんと教えることにしている。こんな差異を知らないで、何が異文化理解かと私は思っている。)の教会にゴスペルを聞きに行くのである。たまたま私が訪れた教会は特殊らしく、デキシージャズ風だった。入った時、説教がまだ続いていた。着飾った黒人たち。原色が良く似合う。それにしても彼らは服飾に金を惜しまない。隣に座った5歳くらいの少年も、スーツに蝶ネクタイだった。説教が退屈らしく、身体をゆらすと隣のぶっといママにピシッと背中を叩かれていた。説教は、やがてアジテーションと化し、牧師が「ジーザス、カミング!」を繰り返す。聴衆もそれを復唱していく。凄い熱気である。牧師がひときわ大きい声で絶叫すると同時に、ペットやサックス、ボーンといったブラスバンドが左右から現れたのである。聴衆は総立ちになり踊りだす。私もとにかく立った。隣の少年はひどく冷静で大人たちを冷笑していた。(笑)凄いのである。何が凄いってトランス状態の人間を初めて見た。あの婆さん、危ないと私が思ったと同時に、ピンク色のナースたちが駆け寄り、「ハイこの人退場!」という感じで連れ去っていく。次はあの爺さん、と思ったらナース登場、次々に医務室に連れていくのである。私は、ハーレムで”目に汗をかいた”のであった。

2010年5月18日火曜日

USホロコースト博物館を語る


 授業でユダヤ教の話をする時、USホロコースト博物館の話は欠かせない。ユダヤ人の凄さを語ると共に、差別されている現実を語らねばならない。ESDの人権教育的課題である。ニューヨークに行った時、このUSホロコースト博物館にアムトラックを使って、ワシントンD.C.まで日帰りで行った。駅からタクシーを飛ばし、博物館に着いたのが正午前。運よく、カウンターのボランティアのおばさんが、すぐ入れる入場券をくれた。(普通はNYSE:ニューヨーク証券取引所のように、時間指定のチケットをくれる)厳しい入場チェック。それが済んだら、やっとパスポートを手に入れることができる。そのパスポートは、ホロコーストで命を落としたユダヤ人の身分証明書である。今日はその人物と共に回るというわけだ。
 ナチスが、ユダヤ人狩りの際使った「目の色の判別板」や「鼻の計測器」などは、ここでしか見れないだろう。この博物館はアメリカには珍しく写真撮影が不可である。ノートにスケッチしておく。私は一応歴史的な理解は十分しているので、それらの展示を足早に駆け抜け、虐殺の展示階へと進む。そこには、貨物列車が行く手を阻むように展示してある。この中を通らなければ次へと進めないのである。収容所へユダヤ人を運んだ貨物車であることは一目瞭然である。中を通ると、私は霊感がない方だが、妖気が漂っているのがわかる。鬼太郎なら、妖気アンテナがビンビンであろう。収容所に入る前に没収された、ナイフや眼鏡や入れ歯や、様々なものが透明のプラスチックの柱の中に山積みされて展示されている。その数、膨大。アウシュビッツの門をくぐる。虐殺に使われた毒ガス(正確には農薬だが…)の缶。赤いラベルに髑髏のマークがある。シャワー室から焼却炉までの流れは、真っ白な模型で展示してある。
 SS(親衛隊)による人体実験のビデオなどは、子供にはショックの大きすぎるので、ちょうど井戸を囲むように子供の背丈では見れないように展示してある。大人は井戸の中を覗くようにして鑑賞することができる。収容所が解放され、多くの虐殺された遺体の処理映像など、注視に堪えない。ここに来た誰もが疲れるのであろう、椅子がある。他の人々も虚ろな目をして焦点が定まらない。それほど強烈なショックをこの博物館は我々に与えてくれる。さて、進もうと重い腰を上げる。
 最後の出口に繋がる通路の両側には、靴、クツ、くつの山である。凄い数である。ガラスで仕切られているのに凄いにおいである。最後まで我々の良心にショックを与え続ける博物館であった。<本日のの画像は、そのワシントンD.C.のワシントン記念塔のすぐ南にあるUS(日本語に意訳すれば国立であろう)ホロコースト博物館である。>これが、国立であり、首都の一等地にあることが、アメリカにおけるユダヤ人社会の強さを物語っている。私は今まで、アメリカでいろんな博物館をめぐった。だが、いつか教え子に行って欲しい博物館としては、この博物館がNo1である。授業でも、いつか自分の目で確かめて欲しいと言ってきた。詳細は、http://www.ushmm.org/までアクセスを。

2010年5月17日月曜日

アフリカ日和 その2 喜田先生


 ようやく、アフリカ日和・続編である。2003年8月6日、我々の泊まるホテルに、ケニアで活躍するJICAの専門家が集まり、懇談会をもっていただいた。ちょうどこの日、ケニアの園芸公社で専門家として指導する喜田さんという、すごいオッサンと知り合った。JICAケニア事務所はこれでもか、これでもかというくらいJOCVの現場やODAの現場を視察させてくれた。その日の最後の視察場所・園芸公社…正直疲れ果てて、何の期待もしていなかったのである。ところが、ここで我々を迎えてくれたのが喜田専門家だった。公社のエライさんらしきケニア人が少し英語を話す。するとその10倍くらい日本語の通訳を入れるのである。やがて、喜田さんが、勝手に言いたいことを熱っぽく語っていることがわかった。私は、喜田さんがやろうとしていうることをノートしていたのだが、ふと気付いた。このオッサンは、園芸農業(野菜や花などを育てる土地生産性と労働生産性が両方とも高い農業)で、ケニアの貧困を何とかしようとしている。彼のやりたいこと(園芸農業の組合化)をするためには、インフラの整備をも含むケニア大改造計画が必要になる…と当時まだ開発経済学の存在すら知らなかった私だが、そう直感した。喜田さんに、あなたは”革命家”ですか?と尋ねたら、簡単に「そうだよ。」と答えた。凄いオッサンなのである。JICA職員に、今夜の懇談会に喜田さんに、来てほしいと言うと当然問題ないとのこと。喜田さんは、汚い背広で会場に現れると、JICAの所長の挨拶もクソもなく、私と静岡のM先生を呼びつけ、懐からケニアの地図を取り出し床に拡げた。そして自分のケニア園芸農業革命計画について再び熱く語りだすのだった。1時間、この話を聞いた。

 なかなか早川千晶さんの話にならない。(笑)実は、以前からJICA職員のK氏(なんと京大工学部卒!)に、金沢のT先生と2人で「早川さんに会いたい!合いたい!あいた~い!」と切望していたのだった。そしてついに、アリスのべーやんにそっくりな副所長氏が、開宴後1時間以上過ぎてから、私とT先生の名を呼んだ。そこには、写真どうりの早川さんがいたのだった。感激した。今度は、早川さんにいろいろ質問した。キベラスラムのこと、マタトゥーのこと、マサイのこと。ところが、早川さんは、素敵な笑顔でこういうのである。「わからないですよ~彼らのこと。長年いっしょに暮らしていいても結局のところ、よくわからないですよね~。」妙に感激してしまった。無理やり判ったような気になるより、はるかに真実に近い言葉だった。これが、早川さんとの最初の出会いだった。場所は、ナイロビである。早川さんと次に会ったのは大阪。道祖神主催のアフリカセミナーである。この件はいづれまた…。

 喜田さん、今はどうしておられるのだろう。ピーター氏と”ジャンボ・バワナ”をトランス状態で歌っておられた喜田さん。すごい”男”いや”漢”を、本物の”草莽の士”、”革命家”を見た。あんな人めったにお目にかかれない。早川さんとの素晴らしい出会いをぶっとばした凄いオッサンであった。

2010年5月16日日曜日

K老師に聞いた”ハーバード”


 先週の月曜日、私の隣席のK老師から、「日曜日の夕方におもしろい番組がありますよ。」と教えてもらった。NHK教育の『ハーバード白熱教室』という番組である。マイケル・サンデルという教授の授業を30分にまとめたものが2本。「あっとと言う間に見終わりますよ。」とのこと。老師の言われるように、難題なカント哲学やロールズの話だったが、判り易く、面白い。(とはいえ、さすがに西洋哲学の素養が必要。私もメモを取りながら見た…。)
 
 ハーバード大学は、MITとともにボストンの対岸にあり、。一応、私はハーバード大学を訪れたことがある。その意味では昨日の続編になる。素晴らしいキャンパスだった。生協にはハーバードグッズがあふれ、子供が出来たばかりの後輩にハーバードのヨダレかけを買ってあげた記憶がある。

 さて、番組の内容をかいつまんで説明すると、道徳形而上学原論を引用しながら、正義とは何かについての講義がまず最初にあった。カントは、経験をもとにした感性界と経験を越えた叡知界に分け、自由は叡知界のみに存在すると説いた。カントの言う自由は、道徳的自由であり、義務を自律として捉えたものであると説明した。(私は、仏教理論から、感性界は六道輪廻として置き換え、叡知界は四聖としておきかえれるよなあなどという感想をもった。)さて、教授は時折大教室に詰めかけた学生に論議をふっかけ、回答を迫る。さすがはハーバードである。凄い回答をする。K老師は、「きっとそれまでにテキストを読ませているに違いないと思います。」と言っておられた。私もそう思う。この問答はかなりハイレベルである。但し、アメリカらしく設問は現実的である。『殺人者が、君の友人を追って、君の家に入りこんできた。友人は隠れている。君は、ウソをつくことなく(すなわちカントの道徳律にしたがって)殺人者に対応したい。何とコメントするか?』といった設問で、カントの義務、自律を、結果を重要視する経験論的な功利主義と対立して考えさていく。必ず回答した学生の名を問い、授業で生かす。この回答は、およそ2つに分類された。明らかな嘘をつく場合、厳密にいえば真実を言う場合である。ここで、クリントン元大統領の不倫疑惑のビデオが流され、彼は厳密に言えば真実の回答をしていることを指摘し、大教室に笑いがこぼれた。

 後半は、契約の問題である。カントの正義から、これを継承したアメリカのロールズ(彼の政治哲学もセンター範囲なので必ず教える)の話になる。テーマは契約である。ロールズは、カントの仮説的契約と正義について、『無知のベール』という概念を提示する。何故なら、契約と言う政治哲学の基本概念の中で、道徳的善悪を明確にすることがかなり難題であるからである。政治は経験的である。教授は、自分の息子たちの野球カードの交換、インデイアナ州での車の故障と移動修理屋、あるいは妻の貞操の問題など様々な例を引き、学生に質問し、論理を積み重ねていく。

 いい授業だった。K老師は、「あんな授業、してみたいですねえ。」と言われていた。私は明日、K老師になんと答えようか。「お互い、あれに近いことやってますよ。」かな…。

2010年5月15日土曜日

ボストンは素敵だ その2


 なんとなく、今日は2つの続編のうち、ボストンの方を書くことにした。アメリカで最初に高校の視察をしたのはボストンの高校であった。レンガ造りの校舎、階ごとに違う色の生徒のロッカー。新鮮な驚きだった。丁重に迎えられた私たち大阪市教員代表団(高校の部)は、まず学校長の説明を受けた。公立高校といっても経営は自立している(入学希望者の数が多いと予算配分が多くなる)こと。優秀な教員をそれによって得、さらに優秀な生徒が集まり、進学実績があがり…。要するに公立高校も常に競争にさらされているわけである。(今から思うと、日本もアメリカに少しずつ近づいている。私の持論としては、もっと進めてもいいと思っている。)当時の私にとっては、衝撃であった。優秀な教員(ゴールデン・アップル賞というのだそうだ。)は給料も相当高いらしい。校舎見学で驚いたのは、保健室である。避妊用具が”It's FREE!”となっていたことである。当時、エイズの問題でアメリカは揺れていた。妊娠し休学中という女子が3名います、と堂々と言われてビビった。学校のカフェテリアでランチをいただき、午後はジャーナリズム専攻の生徒の討論することになった。大阪市の高校の最大の問題点は何かという質問に、当時工業高校に勤務していた私は『喫煙』を挙げた。(団長に後から怒られたが…)彼らは一様に驚き、こう言った。「煙草なんて身体に良くないものを日本の高校生は吸うんですか。我々にとっては、最大の問題はマリファナがです。」おいおい!どっちが身体に悪いねん!と思ったが…。
 視察後、他の先生方はみんなホテルに返り、近隣を散策するという。私は、USSコンスティテューション号博物館へ行くため、1人別行動をとった。ゴールデン・アップル賞をとった中国系の先生の車で送ってもらったのである。アメリカは、軍艦(潜水艦を含む)や軍用航空機の展示がやたら多い。以後アホほど回ることになるが、その先駆け的行動であった。その後、MIT(マサチューセッツ工科大学)の博物館へ向かった。これはタクシーである。<今日の写真は、そのMIT博物館>感激したのは、計算尺の展示であった。昔々親父が計算尺でなにごとか計算していた。不思議なツールである。今は電卓が発達したので、無用の長物になってしまったが、こんなに種類があるものなのかと驚いた。さすがMITである。愚息へのおみやげにミニ計算尺を買った。帰国後、よく見たら日本製だった。ボストン美術館で、ギリシアの本物の壺の美しさに感激し、お袋に、ミュージアムショップで一番高いスカーフを買って帰ったが、これも日本製だった。

 ボストンの街を回るのには、地下鉄が便利だ。ボストンの地下鉄は、”T”と呼ばれている。色分けされたラインが走っている。グリーンラインに乗った時、驚いた。なんと近畿車両製だったのである。(笑)

追記:今日もH鍼灸院に行った。肩も足も腰もボコボコである。H先生曰く、「銭形警部の話、勉強になりました。」とのこと。ブログを読んでいただいていたのだった。
皆さん、どんどんコメントしてください。読者登録も是非ともお願いします。

2010年5月14日金曜日

ボストンは素敵だ 


 先ほどまで、NHKの”世界街歩き”を見ていた。睡眠不足とパンフレット作りで目がショボショボするが新聞のTV欄で”ボストン”と書いていたので、ブログの更新もさしおいて見ていたのだった。今日のブログは、アフリカ日和その2を書くつもりだったが、ちょっと寄り道したい。ボストンは、私の大好きな町である。ニューヨークもシカゴもいいが、ボストンは特別である。初めての海外、初めてのアメリカで訪れた街の1つである。何が良いっていって”人”がいい。礼儀をわきまえた上品な街なのである。早朝、ホテルを出て散歩に出かけた時のことである。ダウンタウンのホテルで横断歩道を渡ろうとしたら、車が来た。あまり速くもない。そしてピタッと停車してくれた。大阪人には信じられない光景であった。ドライバー氏にお辞儀すると、笑顔を返してくれた。そんな街である。
 ちょっと対比してみると、ニューヨークでは、MOMA(近代美術館:ピカソの”アビジャンの娘たち”やダリの”記憶の固執”などの有名な作品がある大好きな美術館である。)を出た時、あるおばあさんがイエローキャブに乗ろうとしていた。時間が少しばかりかかっている。すると、次々と車が後ろに連なり、クラクションが鳴り続けていた。ニューヨーカーはせっかちである。ボストンではありえない。シカゴの交差点では、少しばかりはみ出した車があった。私の前を行くシカゴニアンは、その車のボンネットを一発シバいて人差し指を降った。ドライバーは「すんまへん」という顔をして笑った。シカゴニアンは大阪人である。ボストンではありえない。

 アメリカでは、やたら、「エクスキューズ・ミー」という語彙が使われるが、ボストンの頻度は全米1ではないかと思える街でもある。礼儀正しいのである。<今日の画像は、ボストンでも私の最高のお気に入りの場所で、高級住宅街ビーコンヒルである。TVでも紹介されていた。…なつかしい。>いくらでも書くことがあるのだが、私のCPUの使用%が下がってきた。まもなくビジー状態になりそうである。このボストン話もつづく…とさせていただ…くこ…とに…。
 

2010年5月13日木曜日

アフリカ日和 その1 早川さん


今日も超多忙な1日であった。本校の中学生向け新パンフレットの製作は思いの他はかどってはいるのだが、ついついコンを詰めてしまう。さて、今朝、またまたモーニングを食しながら『世界一周恐怖航海記』を読んでいると(5月11日づけブログ参照)、著者がピーター氏の逝去のニュースを聞いたことが載っていた。(165P)一気にこのトンデモないペシミストのおっさんの旅が、私の時間とクロスした。で、今日は早川千晶さんのことを書こうと思う。早川さんは、刻一刻と移り変わるピーター氏の容体や葬儀の日程、またその様子を日本に知らせてくれた人なのである。<今日の画像は、当然、早川さんである。>

 早川さんの名前は、昔愛読していたバックパッカーの月刊誌『旅行人』で「ナイロビのうわさ」を書いているコラムニストとして知った。毎回1ページに様々なアフリカの情報を書いていたのである。JICAのケニア視察旅行が決定した直後、事前学習として「アフリカ日和」という単行本を買い求め、一気に読んだ。久しぶりに本を開けてみた。驚いたのは、早川さんも「オナトラ船」(4月29日付ブログ参照)のことを書いていることだ。すっかり記憶から飛んでいた。この本で最も印象に残ったのが、「マタトゥ」というケニアの乗り合いバスのことである。ピーター氏と空港で初めて合い、さっそくホテルに向かう中、私はマタトゥを見ては興奮していた。早川さんの本では、派手にペイントし、ガンガンにレゲェを流し、イケメンの助手を箱乗りさせた若者向けのマタトゥのことが載っていて、「おおぅ。凄いマタトゥ!」と声を挙げたような記憶がある。ピーター氏がマタトゥを知っていることに感激してくれたような記憶もある。金沢のT先生もアムス経由の機内で「アフリカ日和」を読んでいた。「向うで早川さんに会いたいねえ。」と語りあった記憶もある。

 早川さんは、世界各地を回っていた元バックパッカー。ナイロビの旅行社(道祖神のDoDoWorldである。)に勤めたあとフリーになった。夫はキクユ人(ケニアで最もマジョリティーな民族)だったと思う。当時、キベラスラムのボランティアをしていたはずだ。(今も継続中である。)キべラスラムでエイズのカウンセリングをしているNGOに行った時、2階のベランダから、延々と続くトタン屋根を見て、「ここが早川さんの頑張っているキベラやねえ。」とT先生と感慨をもらした記憶もある。我々の想いが強かったのか、その早川さんとナイロビでお会いすることができたのである。(今日は極度に目が疲れているようである。よってこの辺で…つづく)

 追記その1:我クラスのOGより、8月末から半年韓国留学へ行くとのメールがあった。相変わらずみんな頑張っている。私の携帯電話は、家を出るたびに着信メールを伝える。なんとかならんのか!
 追記その2:今年の国語科の卒業生が、大挙して里帰りしてきた。みんな髪を染めお化粧もして…。あのクソ真面目だった女の子たちが、”娘たち”に大変身していた。毎年のことだが、感慨無量。
 追記その3:某OGより、国際協力関係のNGOを立ち上げたというメールがあった。充電しようとした瞬間着信した。それはさておき、オイオイオイ…。凄い話である。

2010年5月12日水曜日

銭形警部と少林サッカーを語る


 地理Aで気候の話をしている。ケッペンの気候区分で温帯はCの記号で始まる。Cs、Cw、Cfa、Cfbと4つの気候区がある。温帯とは、最寒月の平均気温が、18℃以下-3度の気候をいう。あとは降水量の季節的変化である。Csは地中海性気候である。小文字がSなので、夏乾燥するという気候である。Cwは、小文字がWなので冬乾燥するのである。こんな風にただ記号の意味を言うだけなら社会科教師はいらない。面白い話を50分にぎゅうぎゅう詰めにするのである。今日のブログでは、まずCwの話をひとつ。一番わかりやすいのは、Cwは香港の気候だと理解させることである。昔は、香港映画が頑張っていた。私の高校時代はブルース・リー全盛であった。最近の生徒は、あまり香港映画といってもわからないらしい。ただ「コートを着たりする香港映画はないよな。」という私の呼びかけには頷いてみせる。だいたいが開襟シャツ姿であり、スーツのビジネスマンはいても、コートまでは着ていることはあまりない。唯一の例外が、「少林サッカー」の兄弟子である。これは何度かTV上映されたので、案外見ている生徒もいる。要するにそういう気候なのだ。昔香港に夏行ったことがあり、200mも屋外を歩くとムッ~とするほどの湿気である。今年の1年生には帰国子女枠で、タイから帰国した日本人男子と、タイに長くいた韓国籍の男子がいる。彼らには、すこぶる判り易かったようだ。大笑いしていた。(タイのバンコクあたりはCwではないが…。)
 実は一番教えにくいのが、CfaとCfbの相違である。fの記号は、1年中雨がフルフルである。3文字目のaとbは、最暖月の平均気温が22℃を越えるとa、未満だとbになる。無味乾燥な説明だと”以上”なのである。まずCwと同様、代表的地域を教えてしまう。Cfaはわれらが大阪。Cfbは、ロンドンやパリである。どう違うのか?実はかなり違うのである。私は、これをいつも「トレンチコート」で説明しする。あの”銭形警部”のトレンチコートというと生徒はすぐ頷く。アニメ大国日本である。
 黒板に”銭形警部”をちょっと真剣に描く。笑いが起こる。トレンチとは、「塹壕」の意味で、WWⅠ(第一次世界大戦をいつも私はこう省略する。)の時、機関銃の登場で硬直した戦いになり、長い溝を掘ったことに由来する。この塹壕で兵隊が着ていたのがトレンチコートなのである。ちょいとばかし、このコートの着こなしについて語る。ベルトは結ばなければならないとか、そしてこれが重要なのだが、傘をさしてはいけないとか…。Cfbの雨は、Cfaのように”ザーザー”降る雨はすくない。霧雨と言うか、”ショボショボ”降るのである。だからCfb生まれのトレンチコートは帽子が付属する。日本で雨の日に、これを着るということは大変なのである。傘をさしてはいけないのだ。雨の違い、かなりステレオタイプの説明だが、気候区の違いの本質である。また、両方とも桜が咲くのであるが、Cfb・イギリスの桜は、花びらが散るのではなく、花を単位としてボトッと落下する。同じ桜でも種類が違うのか風情がないのである。(林望センセイのイギリス本にちゃんと書いてある。)
 
 絶え間ない広範囲な教材研究こそ、社会科教師の生命線である。と、今日は少々高慢に終わってみる。

2010年5月11日火曜日

追想ピーター・オルワ氏のことⅣ


昨日の朝、学校へ行こうと家を出たら、携帯がブルブルと震えだした。高速道路ができて、相変わらず携帯の受信状況がすこぶる悪い(2月11日付ブログ参照)のである。ピーター会(JICAの教員研修旅行でケニアに行った仲間の会)の”福山雅治”といわれた和歌山のI先生からであった。その日は急いでいたので今朝モーニングをしながら読んでみると…。なんと、ピーターオルワ氏(2月16日・17日・3月22日付ブログ参照)のことが乗っている文庫本の情報だった。『世界一周恐怖航海記』(文春文庫)という、”ピースボート”に乗った直木賞作家の本だった。今年の4月10日初版なので比較的新しい文庫であった。
 昨日『聖☆おにいさん』を間違って買ったばかりだが、またまた京橋の紀伊国屋に寄って購入した。京橋から最寄り駅まで、ちょうどピーター氏の話が出てくるところまで読んだ。”水戸黄門のモノマネをやって日本人をわらわせているケニア人”として登場する。(49P)さらに、”著者の講演を聞いて握手を求めてきたピーターさん(ケニア人)”として再登場する。(61P)なるほどページ数まできっちりとI先生のメールどおりである。

 I先生も、『至る所で我々日本人に安らぎと優しさと笑いを与えてくれていた』のだなあと追想されているのだが、私も愛嬌を振りまくピーター氏の在りし日を思い出し、私も全く同じ感想を持つ次第である。著者の奥様にスワヒリ語教室で教えたのもピーター氏だったろうし、ケニアに上陸した後、著者がゲーム・ドライブした際、好感をもったケニア人運転手もピーター氏の会社のメンバーだったのではないかと推測される。本当に惜しい人を失くしたものである。

 まだこの本の途中までしか読んでいないが、帯に「人を呪い、世を厭う作家を感動させた旅」とある。たしかにこの著者:車谷長吉は、ヘンコなおっさんである。だが、彼の人嫌い、なんとなく判る気もするのが自分でも可笑しい。人間は、楽天家を装いながらも厭世家であったりする。ピーター氏は、愛嬌を振りまきながら、ピース・ボートの日本人を結局のところどう見ていたのだろうか。「アフリカ人が日本に学ぶこといっぱいありますね。でも日本人もアフリカに学ぶことがたくさんありますよ。」という彼の言葉の底に、さらに深い真意があったのかもしれない。 

2010年5月10日月曜日

聖☆おにいさん第4巻×2


 先日倫理の授業をしていて、ふと『聖☆おにいさん』の話になってしまった。このマンガ、たしかに凄いのである。ブッダとイエスが東京の安アパートに済み、倹約しながら今の若者風の生活をしているのだが、どうしても覚者と救世主である、そのキャラが出てしまうというオカシサがある。読み解くには、ある程度の仏教やキリスト教的知識が必要である。なので、属性の開発のためにも生徒にお勧めのマンガである。(おもしろいことに本校生徒、特に国語科生徒に読者が多い。)
 4巻では、ブッダの誕生日を祝おうとイエスがブッダに内緒でバイトするのだが、そこにブッダが買い物に現れる。彼は見つかるまいと、するイエスに「父なる神」がハトに化身して現れる。そのハトの言葉が凄い。「滅びよ。」結局ブッダに父なる神であることがばれるのだが…。また、イエスが使徒と共にやっているネットゲームの世界に、ブッダも入れて遊ぶシーンでは、弱い口先だけの魔物が現れる。「馬鹿」とか「トンマ」とかには笑っていたイエスや使徒が、「おまえの父さんデベソ」という言葉には、超過激に反応してしまうのである。「悔い改めよ!」
 ブッダはTシャツをいつも作っている。白地に何か書いてあるのだが、こそっと毎回笑える。

 実は新刊が出ているとの情報を受け、京橋の紀伊国屋で、一番新しそうな巻を買い求めた。なんとそれは以前愚息に借りて読んだ第4巻だった。すなわち4巻が2冊になってしまったわけだ。帰宅時の電車で読んでいたら、なんか読んだ気がするので発行日を見てみると昨年10月。あーあ。第5巻が待ち遠しい。4月発売と予告出てるのになあ。

2010年5月9日日曜日

4通のメールの話


 私のメールアドレスはいくつかある。最も利用頻度の多いのが携帯電話のメールである。これには、仕事関係だけでなく、OB・OG・現役の生徒のメールが入ってくる。それと、自宅のPCのメール。さらには学校の公的な仕事用のメールがある。今日は、最近のこのメールにまつわるいくつかの話をライトに書きたい。
 金曜日、携帯電話にメールが入った。関東の某公立大学に進学したOBからである。国際交流関係のサークルをやっているらしいのだが、突然「30人くらいでやる、なにかいいワークショップありませんかねえ?」と聞いてきた。で、「ウーリーシンキング(4月19日付ブログ参照)覚えているやろう。」と返信した。すぐ「なつかしいっす。副部長からOKでました。」とのこと。なんか、嬉しい。多忙な日々だが、こうして国際協力や、開発経済学やESDやらと大学で関わってくれていることが無性に嬉しい。疲れもふっとぶ。
 同じく金曜日。多忙な中、学校のPCのメールを開いてみると、JICA大阪のセミナーで長年お世話になったMさんが、ご退職されるとの報が入っていた。今度はJICA兵庫に改めて採用されたとのこと。大阪同様JICAの広報や国際理解教育関係の仕事らしい。よかったという想いでいっぱいになった。
 もう一通は、某府立高校の先生からである。例の7月にやる予定の仮想世界ゲームに参加しますとの連絡である。キャッポー!という感じであった。さらに、連休前に着信しており、ネパールへ行かれるとのこと。アチャー、いいなあ、先越されたなあと思って読んでいた。嬉しいメールがあると、ほんとハッピーである。
 さらに帰宅すると、「風の旅行社」から返信が来ていた。愚妻の「結婚30周年ネパールツアー」(5月3日付ブログ参照)発言にすぐ反応して、パンフレットを請求したのだった。その返信である。土曜日にさっそくぶっとい封筒が届いた。ネパール、ブータン、チベット、ラダック…。見ているだけで楽しくなる。愚妻と行くとなればアフリカは無理なので、せいぜいこのチベット仏教圏となるが、1年以上先とはいえ楽しくなる。このわくわく感を引きずって仕事に励むとするか…。
 
 人生、辛いこと、しんどいことが多い。でも何かしらハッピーなことを胸中に秘めて仕事する余裕が大事だと思うのである。

2010年5月8日土曜日

真正面から回答すると…


 昨日のブログに対して読者の哲平さんからコメントをいただいた。全文紹介すると、「私は高校時代に学んだことと大学時代に学ぶことは本当に天と地の差があると考えています。例えば、大学の友人に私がロックやホッブズの勉強をしていると言うと、「あぁ啓蒙主義ね。」という返事がかえってきました。彼らを啓蒙主義とかいう言葉でまとめてしまうのは彼らの思想の1%も理解しているとは思えません。私は彼らがどう語られるかよりも、何を語っているかの方が大事だと思うのです。どんな科目にも言えることですが、高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。高校時代にこそ原典を読んで欲しいですね。教科書を覚える暇があればページをめくるだけでも『国家』を読んだらいいのに。」素晴らしいコメントである。嬉しい。このコメントに対して真正面からお答えしたいと思う。

 まず第一に、『高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。』という点に対して。これはまさに同感である。まあ、現場としては、受験制度とその対応という視点から批判できるが、『倫理』という教科のスタンスから私の考えを述べたい。私は、およそ、西洋思想を理解するためには、2つの軸が必要だと思っている。その1つは、4月13日付のブログで書いた「3つのコンフリクト」である。これはその哲学者が何について語っているかを分類するカテゴリーである。超極論すれば空間的把握である。2つ目は、哲学というのは、過去の哲学者の言に批判をしながら発展してきたという特性があることから、その歴史的な繋がりを系統的に理解することである。私は、生徒には「西洋哲学の木」に譬えていつも今日語る位置を示すようにしている。(東洋哲学の木、またそのでかい枝としての日本思想の枝もある)主に時間的把握である。このように系統立てるのは、高校の倫理と言う教科の学習内容は、大学に行ってから様々な学問を深く学ぶための手助けにすぎないと私が考えているからである。

 「省略」ということに関して言えば、西洋哲学では、カントの純粋理性批判における先天的認識形式を高校の教科書で「省略」していることは大きな問題だと思っている。西洋哲学の木の根元には、ヘレニズム(ギリシア哲学)とヘブライズム(ユダヤ教とキリスト教)がある。それぞれのに系譜的なつながりがあり、私はこの2つには特に時間を使う。この2つをルネサンスが結び付ける。人間と神の関係性に大きな変化が起こり、人間の理性というものへの回帰が始まる。ここで、ベーコン・ロック・ヒュームのイギリス経験論と、デカルト・スピノザ・ライプニッツの大陸合理論の2大潮流が起こる。教科書では、デカルトは「我思う故に我あり」という方法的懐疑で終わっているが、この第1証明の後、神の存在証明(第2証明)、物体の存在証明(第3証明)までやることにしている。でないと、近代科学の土台がわからないからである。これを結び付けるのがカントである。カントは、教科書では善意思とか道徳法則とか、いわゆる「倫理」的な部分のみが強調されているが、これらもイギリス経験論と大陸合理論をカントが批判しつつ合体させた先天的認識形式の生んだものだと生徒に理解させることにしている。すなわち、人間は、「認識」という問題に於いて、まず感性で仮説を立てる。これは、直感であり大陸合理論的である。さらに悟性によって経験によって得たカテゴリーの中にあてはめる。これは経験論的である。この結論(先天的認識形式)によってカントは偉大な功績を積んだわけだが、彼の教えていた形而上学を土台から破壊したことになる。形而上学は実証できない学問であり、先天的認識形式の経験しえない(カテゴリーにない)ことは認識不可能であるという結論と矛盾するのである。そこで、カントは、認識(人はいかにして知るか)という問題では形而上学は破壊されたが、人はいかにして善を行うかという問題を立て分け、道徳という問題においては、絶対的な善を追求するための形而上学を打ち立てるのである。カントは、道徳の問題をイギリス経験論のライン上にあるベンサムやJSミルの功利主義=経験主義的な道徳(幸福=善)を批判したからである。これが、実践理性批判である。要するにカントは自分の教えていた学問を復興するわけである。このカントの「感性・悟性・実践理性」という人間の理性の構成に、フィヒテは絶対的自我を加味し、シェリングは絶対者をさらに加味する。この辺のドイツ観念論も教科書ではぶっとびである。このシェリングの絶対者の概念の矛盾をさらに発展させたものが、ヘーゲルの絶対精神となるのである。近代哲学は、このヘーゲルで一応の完成をみる。現代哲学は、このヘーゲルへの様々な批判という形で、枝を作っていく。1つが、マルクス主義である。弁証法を唯物史観に変え、絶対精神の存在を否定する。さらに生の哲学で、ショーペンハウエルやニーチェが、人間の理性崇拝を覆し、盲目的な生への意思や権力への意思という形でヘーゲルを批判する。さらに、実存主義が、哲学の目的を、長く議論されなかった「自己自身へのコンフリクト」、それも個々の生き方へと転換させていく。この三本の大きな枝の上に構造主義・ポスト構造主義やウィトゲンシュタインの分析哲学、さらにフランクフルト学派やプラグマティズムが乗っている。(この辺はかなり複雑であるが…)これらは、そのまでの西洋哲学の木自体の否定に向かっている面がある。ロゴスの否定。言葉の否定。ギリシャ神話から、明確な言葉として始まった西洋哲学は、その基盤を否定されて行くのである。

 …とおよそ私が倫理で教える西洋哲学の流れを概略した(他に、社会契約思想や実証主義など細かい流れが描き切れていないが…)のだが、私自身がゆずれない部分は省略しないようにしているつもりである。時間的にかなりきびしい。去年は、3単位で、1学期にヘレニズムとヘブライズム、仏教。夏休み補習で中国思想と仏教のつづきと日本の思想の国学ぐらいまでを教え、2学期は、上記近代哲学からフランクフルト学派までをやりきった。さらに冬休みは、日本思想のつづき。西田幾多郎の純粋経験などは、仏教と2学期の西洋哲学史を終えないと絶対判らない。当然、何度も「木」の位置を示し、どの「コンフリクト」なのかも示しながら、もちろん5分に一度笑わせるというポリシーをもって熱演するわけである。
 省略できないところはやはり省略できないのである。ただ、時間的な制約の中、興味を持たせながら出来る限り系統的に、浅くとも将来役立つような授業となると、やっぱり省略してるかなとも思う。とはいえ、OB・OGに聞くと、私のプリントは長期保存版となっているらしく、時折大学の教養課程の哲学の試験やレポートで大いに役立ったという嬉しい話を聞く。まあ、理解度は系統的な位置づけがなされているので、25%くらいかなと思う次第。

 第二に、原典を読む話について。これは昨日の私のブログに書いた、<阿部次郎の「三太郎の日記」のヘルメノフの言葉の3にこんな一節がある。『自分にとって興味ある対話の題目はただ自己と自己に属するものである。しかしこの題目は他人にとって死ぬほど退屈なものであろう。』>のとおりで、おそらく100人に1人くらいの哲学的素養のある生徒にしか「属性が生まれない」と私は考えている。京大や阪大にいくような生徒ならOKかなと思う。弟分のU先生の長男は、府立某有名進学校の生徒だが、1年生の時、倫理は教員がチンプンカンプンな事を一人語り、莫大な範囲の試験をされてサンザンだったそうだ。同じ社会科教員なのにU先生は、倫理だけは私に教授して欲しかったと言ってくれていた。しかし優秀な生徒ならそれもありかもしれない。自学自習できるからである。うちの愚息も岩波文庫のいわゆる原典が本棚にアホほど並んでいる。が、私は、まず属性づくりから始めるべきだと思っている。この辺はプラグマティックである。
 長くなった。ギリシア思想やヘブライズムの系統性、東洋思想の木についても、書きたいのだが、これ以上詳しく書くと小論文になってしまう。このあたりで勘弁していただくとしませう。

2010年5月7日金曜日

ソクラテスの無知の知を語る


 昨日のブログは見事な駄文であった。(反省)さて、今日は、倫理の教師なら必ず語るソクラテスの「無知の知」について述べたい。旧制高校生愛読の哲学書・阿部次郎の「三太郎の日記」のヘルメノフの言葉の3にこんな一節がある。『自分にとって興味ある対話の題目はただ自己と自己に属するものである。しかしこの題目は他人にとって死ぬほど退屈なものであろう。』教師は、この言葉を常に胸中に秘めなければならないと思っている。とりわけ、倫理という教科は、抽象的な学習内容故に、生徒諸君に「属性」をいかに感じさせるかが最大の課題であると思っている。
 私は、ソクラテスを語る時、まずその容姿から示す。ハゲでワシ鼻で、毛むくじゃらで太鼓腹であったという。実際に黒板に描く。「人類の教師」と呼ばれているが、一方で「アテネにたかるうるさいアブ」とも呼ばれていた。このようにフツーのオッサンに下げまくる。だいたい、ソクラテスがやっていた産婆術などというのは、迷惑千万な行為である。心斎橋を歩いている人々に誰彼となく「嘘をつくことは悪いことか?」などと議論をふっかけるなど、”KY”(空気が読めないの意)としか言いようがない。ここまで落とすと生徒諸君も安心して話を聞いてくれるのである。「けったいなオッサン」という自分に身近な存在となるのである。
 さて、無知の知である。ソクラテスが無知の知を得たデルフォイ神殿の神託『汝自身を知れ』というのは、「身の程をわきまえろ」くらいの意味である。たとえば、”(生徒の名をあげて)誰々がロレックスの時計をしていたらやっぱりオカシイ”やろ?、”私がヘリコプターで通勤するのもオカシイやろ?毎朝ババババババッと音がして、私が降りてくる。オカシイやろ?”といったような具体例を連発する。私の倫理の授業はまさに落語と化すのである。さて、この「汝自身を知れ」を、ソクラテスは、「自分が何も知らないということを知らねばならない。」と解釈したわけだ。哲学史の中で、初めて「自己自身へのコンフリクト」(4月13日付ブログ参照)に立ち向かった意味は大きいのである。「無知の知」…私は、実際に見聞きした生徒の話をすることにしている。

 昔々、私が商業高校で担任をしていた頃(なんと24歳である!)、Sという男子生徒がいた。彼は遅刻の常習犯で勉強もサボりまくっていた。商業高校の良さは、検定など就職に役立つ資格を取れることなのだが、彼は簿記も珠算も何も取らなかった。いや”れなかった”のである。唯一の例外が「情報処理検定3級」というほとんど全ての生徒が取った資格である。で、彼は私にこう言った。「先生、俺は情報処理の才能があると思っています。誰にも負けません。」「…。」ちがうやろと私は思ったし、進路指導の先生もあきれておられた。しかし彼は、頑として情報関係の会社に行くという。進路の先生は仕方なく知り合いの会社を紹介されたのだった。彼のことだ。会社でも同様の自信を披露したに違いない。
 さて4月初旬、彼はOBとして大きな風呂敷包みを持って学校に現れた。情報の先生に”泣き”を入れて、コンピュータ言語の教えを請いに来たのだった。聞くと、会社の人は、彼の自信満々さに、風呂敷にある膨大な言語の本を渡し、プログラミングを命じたそうだ。ところが、当然チンプンカンプン。彼の信用は地に落ちた。しかし、朝早く来て掃除をすることと、会社の人それぞれの好みに合わせてコーヒーを入れれることが、彼の首を皮一枚残してくれたようだ。死ぬ気で一から謙虚に勉強し直して、その後、会社で有為な存在になっていったのである。
 お腹がいっぱいだと、スーパーであまり買い物をしないものである。反対に、本当に空腹な時は、何でもおいしいと感じる。無知の知とはこのような『充実したゼロ』ともいうべき自分自身の、また哲学の原点なのである。S君は、就職直後に、情報処理について無知であることも知らない存在から、一気に無知を知らされたのである。だからこそ、後に一人前になれたのである。
 ギリシア哲学の専門家から見れば、恐ろしいほど低レベルな譬えだと批判されるかもしれない。しかし、少なくとも”死ぬほど退屈な”倫理の授業よりは、はるかに良いのではないかと私は思っている。ちなみに、今日の画像は、ダヴィッドの「ソクラテスの死」私はNYのメトロポリタン美術館で見て感激した思い出がある。やっぱり、ソクラテスは…太鼓腹で…偉いのである。

追記(2014年6月27日):この「ソクラテスの死」という絵画で、ソクラテスの膝に手をおいているのはクリトン。背を向けている赤い服の男がプラトンであるそうな。日経の記事で知った。プラトンの師を追い込んだ衆愚政治への怒りを表現しているのだそうだ。

2010年5月6日木曜日

U校のホスト抽選会その他諸々


 今日は学校をPiPiしたのは、19時30分を軽く過ぎていた。外で煙草吸っていた時間と弁当を食べていた時間以外は、1日中仕事をしていた。(疲)とにかく忙しかったのである。朝の職員朝礼前から、放課後のアーバンデール高校(本校のアメリカ・アイオワ州の州都デ・モイン市にある姉妹校。以下U校と記す。今日の画像は、U校のマスコットである。ちなみに”鷹”である。)のホストを決める抽選会の為に、担任の先生方に確認のための名簿を作成。エクセルですぐどうにでも対応できるように作ってあるとはいえ、そこそこ時間もかかる。1時間目は遅刻当番。コンピュータを当番席に移動させ、広報パンフレットづくり。2時間目は中国修学旅行の第1回説明会の資料作り。明日の昼休みに担任の先生方と打ち合わせである。同じくその件で教頭先生とも打ち合わせ。さらに授業のプリントを印刷するため、印刷室に走る。3時間目は、国際交流部長のY先生と、抽選会の打ち合わせ。会場の会議室の黒板に予定を書き込む。さらに中国の交流事業を2つ募集しているのであるが、その整理。4限目・授業。昼休みは弁当をかき込み、R大学の論文大賞の話を某生徒と…。その合間に中国交流の書類を生徒が持ってくる。5・6限目授業。会議室の鍵を開け、照明をつける。抽選会。抽選方法の説明。第1回抽選。今回は、U校から男子7名女子4名の11名の訪問団である。全期間受け入れ可能なホームステイバンク登録者は23名。男子のみ受け入れ限定、女子のみ受け入れ限定、どっちもOKの3種類の家庭があるので、第1回抽選でついた優先順位をもとに、女子4人分を含む、どっちもOK7名分が確定した。優先順位11人以内に入りながら女子限定の1人は残念ながら補欠となる。かわいそうだが、自分で引いたクジである。公平がなにより重要である。今年は、例年になくU校の訪問団が少ない。デ・モインは、向うに行って知ったのだが、全米の保険業界第3位の街で、例のサブプライムローン問題以来不況らしい。もう少し来てくれれば、この子たちもホストが出来たのにと思う…。とはいえ、さすが本校生である。ぐちゃぐちゃ言わない。一度解散したうえで、当選の11名に、名前入りの封筒を引いてもらう。こちらもどんな生徒かわからない。判るのは性別と名前だけ。まさに一期一会である。抽選会が終わって、一息つく間もなく、結果をエクセルで出し、U校生の名前を挿入し一覧表作成である。その後、U校歓迎式典の書類を作る。はぁ~。休み明けはきついのであった。(今日は見事な駄文です。スミマセン…。)

2010年5月5日水曜日

来年は結婚30周年だそうで…


 暑いGWであった。私はと言うと3日に愚妻と日帰り「てんこもりツアー」(5月4日ブログ参照)に行ったくらいで、ひたすら睡眠不足を補っていたような気がする。さて、今日もそんな1日だったのだが、夕食を終えて、愚妻がポツリと言った。「来年の夏は忙しいのぉ?」「例の教員免許次第かな。」(教員免許を10年ごとに更新しなければならないという現場の教師からすれば、愚策中の愚策である。今年がその年なのだが、民主党はこれをやめるといっている。早く改正してほしい。但し、教員免許に6年かけるというさらに愚策を積み上げるのは、愚策を越えた馬鹿策である。)「だったら、来年は海外に出よう。」「…?」「来年は結婚30周年やし。」「なるほど、なるほど…。」「ネパールか、インドか、ベトナムかなあ。」

 愚妻は、中国にしか行ったことがない。(香港も入れて3回行ってるが…。)私や愚息は、やたら海外に出ていくが、きっと不満が永年たまっているに違いない。しかも、一度インド行きの1週間前、信号無視の車にはねられ、怪我で逃している。「お金、一年がかりで貯めるわ。」「…了解。」と、いうことになった。

 行くなら、「ネパール」である。夏は、雨季でヒマラヤを見るには不都合だが、愚妻の大好きなヒンドゥーやチベット密教の世界である。カトマンドゥーか…。いい。いいのである。愚息がすでに行っているのが、ちょっと気に入らないが、アジアで愚息が行っていないところと限定すると、北朝鮮とミャンマーくらいになってしまうのである。来年のことを言うと「鬼」が笑うそうだが、笑われてもいい。かなり楽しみである。
 我が家は、おそらく家計が他の家とは構造的に違うだろうと思う。食費も衣料費もあまりかけない。TVなど未だ14インチのブラウン管である。ステレオも愚息は持っているが、居間にはない。電化製品に金はほとんどかけない。何に金を使っているのだろう。きっと書籍代と旅行代だと思うが、愚妻は、家計を完全に握っており、私にとってはブラックボックス化している。きっと勝算があるのだろう。と、いうわけでGWの最終日に大きな決定がなされたのである。ウフフ。行くぞ、ネパール。

2010年5月4日火曜日

桂小五郎と「男の美学」


 私は「男の美学」という言葉が好きで、前任校の工業高校の卒業アルバムでは、2回作った我クラスのページのテーマともなっているし、本校でも男子には、「男の美学」という言葉をよく吐く。その真意は、男は自分なりの美学を持たないといけないという心情だ。だから、人それぞれでいい。
 ところで昨日、愚妻と日帰りのバスツアーに行って来た。但馬牛のステーキとダンシング・AWABIを食し、温泉に入って、メロンを持ち帰るという、その名も「てんこもり」という”美しさ”のかけらもないようなツアーだった。(笑)唯一楽しみにしていたのは、出石である。前回寄った時は雨でしかも時間がなくて、時計台の写真を撮って終わった。今回は45分ほどあったので『桂小五郎』の出石での隠れ家跡を見てから、その隣の蕎麦屋で出石蕎麦をすすったのである。<今日の写真は桂の隠れ家跡の石碑である。拡大すると字も読めるよう最大画面で設定。>

 桂小五郎という人は、吉田松陰に兄事していたわりに「狂」ではない。常に大局観に立ち冷静である。しかし、松陰の首塚を掘り返し埋葬している熱い人である。医者の息子なのに武士となり、しかも斎藤道場の塾頭で剣豪だったのに、つねに勝負せず逃げるが勝ちだった。(このへんは千葉道場の坂本龍馬、桃井道場の武市半平太もそうである。本当に強いと刀を抜かないのかもしれない。)出石に潜伏したのも、蛤御門の変で長州が敗れ都落ちしたからである。長州戦争では、なんとか長州に帰り、政権の中枢を担い、大村益次郎の力を見いだしている。高杉晋作が好きなようにやれたのも桂の力が大きい。維新後は維新の三傑と呼ばれながらも、西郷・大久保ほどの仕事をしたといはいえないが、岩倉視察団副団長として、議会制度を作るべきであるとの大指針を示し、大久保の中央集権主義と対立しつつも、その基軸を残している。
 後の評価はいろいろで、司馬遼なんぞは「翔ぶがごとく」などでは維新後の桂を嫉妬深い、複雑な性格の男として描いている。この前読んだ『伊藤博文・直話(新人物文庫)』でも、桂小五郎のことは、調整に苦労したと意味深なことが多く書かれている。まあ、伊藤は大久保と近かったし、長州閥の事を非常に気にしていた桂との間に立って大変だったのだろう。西郷や坂本龍馬などが小説やドラマになりやすいのに対して、桂小五郎は、波乱の人生のわりに、常に脇役に甘んじているといったら言い過ぎであろうか。
 桂の美学とは何であったのだろう。蛤御門の変で久坂玄瑞が死に、第二次長州戦争で高杉晋作が死に、死に遅れたという想いがあったような気がする。生き残ったがゆえに特に維新後は、井上や山縣といった金や地位に汚い奴が出てきて、長州のリーダーとしては気苦労の塊だったのであったのだろう。美学を持っていながら美学に殉じれなかった苦しさ…。蕎麦をすすりながら、私はそんなことを考えていた。

 ところで、GWの高速道路は、「狂」であった。我「てんこもり」ツアーバスの運転手氏は、舞鶴道のPAでトイレ休憩を済ませた後、一気に一般道に降り、檄走した。宝塚をワープし、川西市経由で大阪空港の北から梅田に帰着した。あのまま高速を走っていればどうなったか定かではない。一瞬の決断であった。運転手氏の「男の美学」、しかと見せてもらった。

2010年5月2日日曜日

ひとりでは夢を見ないアフリカ人



 NHKのアフリカンドリーム第2回を見た。明日は愚妻と日帰りのバス旅行なのでブログをどうしようかと思ったが、見た直後に記して、5月3日分もまとめて今日書いておきたい。それぐらい良かったし感動したのである。<画像はNHKから借用したもの>
 今回のテーマは「大地の力を我らに」と題し、資源回廊と呼ばれるボツワナからザンビア、そしてタンザニアの3国の取材である。鉱産資源開発には、莫大な資本が必要である。よって、アフリカ諸国は、外国資本に牛耳られてきた。この外国資本とどう向き合うっているかが、今回の番組のコンセプトであるといえよう。
 ボツワナは、ダイヤモンドの産出で世界の30%を占める。とはいえ、単に原石の輸出だけでは利益は少ない。(産出は30%なのに1.5%分)デ・ビアス社に長らく支配されてきた。しかし、採掘権の更新を控えて、ボツワナ政府は、DTC(ダイヤモンドの取引所)をロンドンからボツワナに移すことを条件とした。デ・ビアスは、ロシアやカナダ、オーストラリアなどのダイヤモンド採掘によりシェアが減り、これを受け入れたのである。ボツワナは、これによって、産出だけでなく、加工・流通の利益を享受できることになった。DTCの近郊に多くの加工工場が設立され、農村から多くの娘たちが加工に携わるようになっている。このような多数の労働者創出こそが、開発経済学では重要である。ボツワナの未来は明るい。それに対して、ザンビアでは、未だ外国資本の銅精錬が行われている。大統領選挙でも現職が勝ち、そのままの政策が続きそうである。インドや中国の精錬所の労働者の半分の賃金で働く鉱山労働者の不満は爆発寸前である。とはいえ、装置工業である。ザンビアの1人あたりのGDP増加は、外国資本を排除して精錬所を取り戻しても、そう簡単に向上しないだろう。ザンビアの鉱産資源の罠はまだまだ続きそうである。

 一方、タンザニア北部では、金の採掘が、外国資本によって行われているのだが、「野ウサギ」と呼ばれる現地人による小規模の採掘も行われている。彼らの採掘する金はタンザニア(金の採掘ではアフリカで3位)の40%を占めている。何故彼ら(80万人)とも言われる野ウサギが採掘可能かといえば、ドバイの金の取引所がその門戸を開き誰でも取引できるようにしているからである。金の価格は、衛星TVでタンザニアにも届く。グローバリゼーションの中に彼らも生きているのである。彼らは、単に金で儲けようとしているのではなく、村をつくりコミュニティを大切にしている。村の診療所の井戸も彼らが掘る。タンザニア政府としては税収からいえば外国資本(売り上げの3%が入る)が重要だが、野ウサギたちの力もよくわかっている。結局土地を野ウサギたちに優先的に割り振ることを決定した。さすが、一時大失敗に終わったとはいえ、ニエレレのウジャマー社会主義の国である。部族社会でなく、国民国家であることも大きいのだろう。(そのタンザニア・ウジャマーの原点アルーシャで、5月2日、TICADの会議が開かれ、日本のアフリカへのODA増額が決定された。めでたい。)いつまでも外国資本だけに頼っていてはアフリカの持続可能な開発は無い。多くの雇用を生み、自立した力で自分たちの未来を切り開いている彼らに、私は熱い拍手を送りたい。

 最後に、タンザニアの鉱山の親方の言葉が流れた。感動した一言である。「私たちアフリカ人は、自分ひとりだけでは夢をみれないのです。」多くの部下を養い、診療所の井戸を掘る彼の言葉には、またポリオの壮年をみんなで抱きかかえ新しい井戸の水をふるまう「野ウサギ」の人々には、アフリカの『あたりまえ』が脈々と流れていた。我々が、アフリカ人に学ぶことは多い。

トイレの神様と国際経済の神様


 植村花菜の『トイレの神様』という曲を今日初めて聞いた。愚妻がMDに入れてもらったらしい。2人でH鍼灸院へ行くための車の中で聞いたのだった。なんだかじーんと来た。最近のJポップと呼ばれる曲は英語の歌詞がやたら挿入されていたりして、70年代フォーク世代の私はあまり好きではない。しかし、今日聞いた『トイレの神様』は、最近の小手先で聞かせようとする曲ではなく、「普遍的な」名曲であった。今時の少女から娘になる青年期の葛藤がよく描かれているし、おばあちゃんの「トイレの神様」と「べっぴん」という関西の語彙が素晴らしい。時代は変わろうとも、日本の惻隠の情というか…そういうちょっとシャイな部分が、世代を越えて心のひだに響くのだろう。<画像は『トイレの神様』を歌う植村花菜さん>

 昨日、NHKの「追跡!AtoZ」という番組で、これからの日本の資源外交戦略についてやっていた。概略を説明すると、日本の主要輸出品である自動車産業は、環境を考えて、ますます電気自動車化する。そこで必要なのは、レアメタルとレアアースである。ニッケル・リチウム・コバルトなどのレアメタルは、リチウム電池に必要不可欠である。レアアースは、モーターの磁力アップ(10倍になる)や高温になっても磁力が低下しないために必要不可欠だという。このレアメタル・レアアースの獲得に当たっては、中国が完全に世界をリードしている。特にレアアースは、鄧小平が生前から「中東有石油、中国有稀土」と言い、国家戦略として開発を進め、今や世界の97%のシェアを誇っている。レアメタルも同様にアフリカの採掘権を買いあさり、次世代自動車産業の覇権を握ろうと政官民一体となっている。番組では、ボツワナのニッケル鉱をめぐる中国と日本の力の差を追う話題と、日本の経済産業省がベトナムでのレアアース開発を有利に進めている話題(環境への配慮、技術に関して日本が世界トップレベルであることを交渉材料とした事例)を提供してくれた。
 さて、私が興味深かったのは、政務官(民主党の議員)とレアメタルに詳しい民間人の意見の対立である。政務官は、「ボツワナ等で中国が官民一体になってやっているようにODAを大いに有効活用すべきだ。ベトナムでも活用したい。」と発言した。それに対し、民間人氏は、「ODAも結構だが、環境にやさしい技術をもっと前面にだし、日本にしかできない持続可能な開発をしてほしい。どんどん日本の環境技術力を資源提供国に供与して、共に豊かになろうとする姿勢が重要だ。」と述べた。
 日本という国は、世界的にみると「国家戦略が見えない国」であろうと思う。(もっとも無いに等しいのだろうが…。)善意的に言えば損得勘定だけの国益をあまり表にしない国である。だから、ものすごく好かれないにしても、嫌われない。たしかに国益は重要であろうと思う。アメリカや中国の国益追求は凄まじい。しかし、民間人氏が言うように、(地球市民としての)「心情」に重きを置くほうが、後に真の国益にならないか、と私は思うのである。
 国際経済には神様がいて、毎日きれいに自分の技術と心根を磨いていると、いつか世界中の国々に「信頼される」…。植村花菜さん、次は「国際経済の神様」という歌作ってくれないかな。

2010年5月1日土曜日

大阪-上海・40年の歳月


 今日上海万博が開幕した。NHKをつけたら、アフリカ合同展示館のライブをやっていた。今年の中国修学旅行で”上海万博”をちょっと考えたのだが、中国の人出を考えるとすぐ「没有」(メイヨー)になった。とはいえ、万博はいい。行く予定などないが、ガボン館のジャングルのつり橋を歩きたい。きっと面白いだろうなあと思う。 大阪万博の時は、私は中学1年であった。10回行ったはずだ。部屋に万博のでっかいイラスト地図を張っていた関係で、今でもパビリオンの名前を覚えている。「人類の進歩と調和」…高度経済成長下で、都市の肥大化や交通停滞、公害の蔓延といった課題を抱えた日本が総力を挙げて取り組んだ国家プロジェクトであったわけだが、当時の私にはそんなことを考える余裕などなく、ただひたすらパビリオンをはしごした。結局アメリカ館に行けなかった。何度言っても2時間から3時間待ちだった。月の石を見れなかったのである。とはいえ、後日ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館で、見るだけでなく触ることができたが…。

 万博の一番の思い出は、親父と行った「日立パビリオン」である。<手前の風船アートのような富士パビリオンの向うに赤いUFOのように見えるのが日立パビリオンである。>このパビリオンの売りは、航空フライトシュミレーターだった。今でこそパソコンのソフトで売られているが、当時は夢の技術だったのである。親父は戦時中、海軍の航空整備兵だったので、飛行機好きは私のDNAに入力されているのかもしれない。このパビリオンでは、離陸から着陸まで観客が次々に担当することになっていた。私は、なんとしても着陸の部分を操縦したかった。一度エスカレーターで展望できる3階に上り、エレベーターで操縦フロアに降りるのだが、エレベーターに慌てて乗ろうとすると、親父が「待て、最後に乗ろう。」と言った。なるほど…。で、扉が空いた瞬間、前の操縦席に走ったのだった。運よく、それが着陸の担当席だった。コンパニオンのオネエサンに飛行開始前に決意を述べさせられた。結局、親父のアドバイスを受け無事着陸できて、他の観客から大拍手を浴びたのだった。
 
 きっと、上海の少年たちも胸を躍らせる体験をするのであろう。そんなことを考えて少し笑顔になる。