2010年5月7日金曜日

ソクラテスの無知の知を語る


 昨日のブログは見事な駄文であった。(反省)さて、今日は、倫理の教師なら必ず語るソクラテスの「無知の知」について述べたい。旧制高校生愛読の哲学書・阿部次郎の「三太郎の日記」のヘルメノフの言葉の3にこんな一節がある。『自分にとって興味ある対話の題目はただ自己と自己に属するものである。しかしこの題目は他人にとって死ぬほど退屈なものであろう。』教師は、この言葉を常に胸中に秘めなければならないと思っている。とりわけ、倫理という教科は、抽象的な学習内容故に、生徒諸君に「属性」をいかに感じさせるかが最大の課題であると思っている。
 私は、ソクラテスを語る時、まずその容姿から示す。ハゲでワシ鼻で、毛むくじゃらで太鼓腹であったという。実際に黒板に描く。「人類の教師」と呼ばれているが、一方で「アテネにたかるうるさいアブ」とも呼ばれていた。このようにフツーのオッサンに下げまくる。だいたい、ソクラテスがやっていた産婆術などというのは、迷惑千万な行為である。心斎橋を歩いている人々に誰彼となく「嘘をつくことは悪いことか?」などと議論をふっかけるなど、”KY”(空気が読めないの意)としか言いようがない。ここまで落とすと生徒諸君も安心して話を聞いてくれるのである。「けったいなオッサン」という自分に身近な存在となるのである。
 さて、無知の知である。ソクラテスが無知の知を得たデルフォイ神殿の神託『汝自身を知れ』というのは、「身の程をわきまえろ」くらいの意味である。たとえば、”(生徒の名をあげて)誰々がロレックスの時計をしていたらやっぱりオカシイ”やろ?、”私がヘリコプターで通勤するのもオカシイやろ?毎朝ババババババッと音がして、私が降りてくる。オカシイやろ?”といったような具体例を連発する。私の倫理の授業はまさに落語と化すのである。さて、この「汝自身を知れ」を、ソクラテスは、「自分が何も知らないということを知らねばならない。」と解釈したわけだ。哲学史の中で、初めて「自己自身へのコンフリクト」(4月13日付ブログ参照)に立ち向かった意味は大きいのである。「無知の知」…私は、実際に見聞きした生徒の話をすることにしている。

 昔々、私が商業高校で担任をしていた頃(なんと24歳である!)、Sという男子生徒がいた。彼は遅刻の常習犯で勉強もサボりまくっていた。商業高校の良さは、検定など就職に役立つ資格を取れることなのだが、彼は簿記も珠算も何も取らなかった。いや”れなかった”のである。唯一の例外が「情報処理検定3級」というほとんど全ての生徒が取った資格である。で、彼は私にこう言った。「先生、俺は情報処理の才能があると思っています。誰にも負けません。」「…。」ちがうやろと私は思ったし、進路指導の先生もあきれておられた。しかし彼は、頑として情報関係の会社に行くという。進路の先生は仕方なく知り合いの会社を紹介されたのだった。彼のことだ。会社でも同様の自信を披露したに違いない。
 さて4月初旬、彼はOBとして大きな風呂敷包みを持って学校に現れた。情報の先生に”泣き”を入れて、コンピュータ言語の教えを請いに来たのだった。聞くと、会社の人は、彼の自信満々さに、風呂敷にある膨大な言語の本を渡し、プログラミングを命じたそうだ。ところが、当然チンプンカンプン。彼の信用は地に落ちた。しかし、朝早く来て掃除をすることと、会社の人それぞれの好みに合わせてコーヒーを入れれることが、彼の首を皮一枚残してくれたようだ。死ぬ気で一から謙虚に勉強し直して、その後、会社で有為な存在になっていったのである。
 お腹がいっぱいだと、スーパーであまり買い物をしないものである。反対に、本当に空腹な時は、何でもおいしいと感じる。無知の知とはこのような『充実したゼロ』ともいうべき自分自身の、また哲学の原点なのである。S君は、就職直後に、情報処理について無知であることも知らない存在から、一気に無知を知らされたのである。だからこそ、後に一人前になれたのである。
 ギリシア哲学の専門家から見れば、恐ろしいほど低レベルな譬えだと批判されるかもしれない。しかし、少なくとも”死ぬほど退屈な”倫理の授業よりは、はるかに良いのではないかと私は思っている。ちなみに、今日の画像は、ダヴィッドの「ソクラテスの死」私はNYのメトロポリタン美術館で見て感激した思い出がある。やっぱり、ソクラテスは…太鼓腹で…偉いのである。

追記(2014年6月27日):この「ソクラテスの死」という絵画で、ソクラテスの膝に手をおいているのはクリトン。背を向けている赤い服の男がプラトンであるそうな。日経の記事で知った。プラトンの師を追い込んだ衆愚政治への怒りを表現しているのだそうだ。

3 件のコメント:

  1. 私は高校時代に学んだことと大学時代に学ぶことは本当に天と地の差があると考えています。例えば、大学の友人に私がロックやホッブズの勉強をしていると言うと、「あぁ啓蒙主義ね。」という返事がかえってきました。彼らを啓蒙主義とかいう言葉でまとめてしまうのは彼らの思想の1%も理解しているとは思えません。私は彼らがどう語られるかよりも、何を語っているかの方が大事だと思うのです。どんな科目にも言えることですが、高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。
    高校時代にこそ原典を読んで欲しいですね。教科書を覚える暇があればページをめくるだけでも『国家』を読んだらいいのに。

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  2.  哲平さんの「高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。」には全く同感。倫理の教科書などは結局体系つけて哲学史を学べなくなっていると思います。
     それは、カントの純粋理性批判の先天的認識形式を多くの教科書が、はぶくからです。この「はぶき」が、前のイギリス経験論と大陸合理論の繋がりを断ち、後のドイツ観念論、ヘーゲルへの流れを断っています。哲平さんの言うように、一点豪華主義で『原典』という策もありますが、センター試験に対応し、なおかつ哲学史の体系化をはかり、しかも最も重要なこと…それは最大多数の生徒に興味をもってもらい、学ぶ意欲を喚起することを私は重視して授業を組み立てます。哲平さんの言う友人たちのわかったような気にさせる暗記的な倫理、嫌いだなあ。私の目指す高校生の学ぶべき「倫理」について語ると、あまりに文字数制限が多すぎます。またいずれ、書きましょう。

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  3. 哲平さんの「高校の授業は省略されすぎて余計にとっつきにくく、わからなくなっている気がします。」というのは、同感です。本日のブログで私の考えを回答したいと思います。

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