2010年5月4日火曜日

桂小五郎と「男の美学」


 私は「男の美学」という言葉が好きで、前任校の工業高校の卒業アルバムでは、2回作った我クラスのページのテーマともなっているし、本校でも男子には、「男の美学」という言葉をよく吐く。その真意は、男は自分なりの美学を持たないといけないという心情だ。だから、人それぞれでいい。
 ところで昨日、愚妻と日帰りのバスツアーに行って来た。但馬牛のステーキとダンシング・AWABIを食し、温泉に入って、メロンを持ち帰るという、その名も「てんこもり」という”美しさ”のかけらもないようなツアーだった。(笑)唯一楽しみにしていたのは、出石である。前回寄った時は雨でしかも時間がなくて、時計台の写真を撮って終わった。今回は45分ほどあったので『桂小五郎』の出石での隠れ家跡を見てから、その隣の蕎麦屋で出石蕎麦をすすったのである。<今日の写真は桂の隠れ家跡の石碑である。拡大すると字も読めるよう最大画面で設定。>

 桂小五郎という人は、吉田松陰に兄事していたわりに「狂」ではない。常に大局観に立ち冷静である。しかし、松陰の首塚を掘り返し埋葬している熱い人である。医者の息子なのに武士となり、しかも斎藤道場の塾頭で剣豪だったのに、つねに勝負せず逃げるが勝ちだった。(このへんは千葉道場の坂本龍馬、桃井道場の武市半平太もそうである。本当に強いと刀を抜かないのかもしれない。)出石に潜伏したのも、蛤御門の変で長州が敗れ都落ちしたからである。長州戦争では、なんとか長州に帰り、政権の中枢を担い、大村益次郎の力を見いだしている。高杉晋作が好きなようにやれたのも桂の力が大きい。維新後は維新の三傑と呼ばれながらも、西郷・大久保ほどの仕事をしたといはいえないが、岩倉視察団副団長として、議会制度を作るべきであるとの大指針を示し、大久保の中央集権主義と対立しつつも、その基軸を残している。
 後の評価はいろいろで、司馬遼なんぞは「翔ぶがごとく」などでは維新後の桂を嫉妬深い、複雑な性格の男として描いている。この前読んだ『伊藤博文・直話(新人物文庫)』でも、桂小五郎のことは、調整に苦労したと意味深なことが多く書かれている。まあ、伊藤は大久保と近かったし、長州閥の事を非常に気にしていた桂との間に立って大変だったのだろう。西郷や坂本龍馬などが小説やドラマになりやすいのに対して、桂小五郎は、波乱の人生のわりに、常に脇役に甘んじているといったら言い過ぎであろうか。
 桂の美学とは何であったのだろう。蛤御門の変で久坂玄瑞が死に、第二次長州戦争で高杉晋作が死に、死に遅れたという想いがあったような気がする。生き残ったがゆえに特に維新後は、井上や山縣といった金や地位に汚い奴が出てきて、長州のリーダーとしては気苦労の塊だったのであったのだろう。美学を持っていながら美学に殉じれなかった苦しさ…。蕎麦をすすりながら、私はそんなことを考えていた。

 ところで、GWの高速道路は、「狂」であった。我「てんこもり」ツアーバスの運転手氏は、舞鶴道のPAでトイレ休憩を済ませた後、一気に一般道に降り、檄走した。宝塚をワープし、川西市経由で大阪空港の北から梅田に帰着した。あのまま高速を走っていればどうなったか定かではない。一瞬の決断であった。運転手氏の「男の美学」、しかと見せてもらった。

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