2022年11月30日水曜日

お金で読み解く明治維新 2

https://tanken.com/tiken.html
「お金で読み解く明治維新」の最終章は、維新で誰が得をして誰が損をしたのか?という問いかけである。

維新でかかった費用を最も負担したのは、昨日のエントリーにあったように商人である。江戸時代は、商人から税金を取らなかった時代で、時々臨時の「御用金」や「徳政令」が出たものの「いい時代」だった。しかし、その帳尻を合わすように軍費の負担を強いられた。維新後は、さらに幕府や藩が借りていた金を棒引きにされてしまう。「版籍奉還」「廃藩置県」がスムーズに行ったのは、各藩の財政が破綻していたからであり、各藩の藩札や藩債は新政府が肩代わりした。外国への返済は優先的に返済されたが、国内の商人には棒引きにされたので、江戸時代の大商人の多くは維新期に没落するはめになった。大坂の豪商34家のうち、24家が破産、絶家し、明治まで生き残ったのは9家のみだったという。

武士も商人以上に大きな損失を被った。「版籍奉還」「廃藩置県」は、新政府の財源を確保する目的があった。新政府は、旧徳川家や賊軍となった藩かの領地を直轄地(約860万石)としたが、到底足りなかったのである。「廃藩置県」で藩は廃止され、新政府が武士への俸祿を支払うことになった。とはいえ国家支出の30%にも達したから負担が大きい。段階的に減らし、明治9年に廃止し、一時金(俸祿の5年~14年分)を配布した。新政府の官職にありつけたものは、16%(明治14年の帝国年鑑)に過ぎなかった。武士階級が外国の脅威から日本を守るために起こした革命である明治維新だが、武士階級は最も多くを失ったわけだ。

薩長は得をし、旧幕府や会津など東北諸藩は損をしたように思われるが、直後はともかく、世界史的に見ても意外に平等に扱われている。新政府の官僚の3割は幕臣だし、岩倉使節団には14人もの幕臣が含まれていた。南北戦争などでは、南部の政治家や軍人は死ぬまで選挙権剥奪・公職追放されたままで、公共投資も後回し、平均所得も北部の半分以下、生粋の南部出身の大統領が出たのは、150年後のカーターまで待つことになる。日本では、盛岡藩出身の原敬が首相になったのが32年後である。江戸を首都とし、旧幕府・東北を差別するような政策はなく、全国で3番目の東北帝国大学が仙台に設立されたり、優遇されているといえる。これは世界史的には稀有なことらしい。薩長閥の政府高官が多いと言っても、ごく一部の人間で、多くの薩長藩士は他の武士階級同様であった。萩の乱や西南戦争もそういう不満の延長線上にある。

一番得をしたのは、実は農民である。「版籍奉還」「廃藩置県」により、土地は武士(藩)のものから国家(天皇)のものとなった。新政府は、無償でその土地を農民に与えたのである。さらに地租改正によって、年貢が現物から金銭に変わった。土地代の3%という税率は、江戸時代の収穫物の34%程度で同等か若干低い負担率だった。江戸時代は収穫率が上がっても年貢率も上がったのだが、土地代の3%なので、収穫率の上昇はそのまま利益に繋がる。これによって、農業生産が急拡大した。(明治6年と45年の米の収穫量は2倍以上になっている。)明治になって、これは単なる納税方法の転換ではなかったのだ。しかも、農民にも、移動の自由、職業選択の自由も与えられた。GHQの農地改革などとは比べ物にならないほどのダイナミックな「農地開放」が行われたわけだ。明治維新というと商工業の発達ばかりが取りだたされるが、農業の大発展が富国強兵を支えたのである。

著者は、武士階級が自ら既得権益を手放し、国民に各種の自由と権利を与え社会を近代化させようとしたのが明治維新であり、だからこそ国民の多くが新政府が実施した急激な社会変化を受け入れ、団結して近代化に取り組んだのだと結んでいる。…なるほど。

2022年11月29日火曜日

お金で読み解く明治維新

先日市立図書館で借りた「お金で読み解く明治維新」(大村大次郎/ビジネス社)と、海音寺潮五郎の山岡鉄舟にまつわる江戸無血開城の話を、対欧米列強外交と財政面という両面から今日は見てみたい。

慶喜の命を受けて駿府の西郷を訪ねた山岡はその任を全うするわけだが、海音寺の史伝によれば、西郷の方にも思うところがあったようだ。西郷はそもそも武家政治を終わらせるためには、相当大きな血を流す必要がある、そうでなければ人心が改まらないと考えていたのだ。しかし横浜に人を送り判明した各国の外交団の意見は、すでに恭順している前将軍を官軍があくまでも討つというのは不法である、このような不法が行われるならば、軍を持って居留民の保護にあたるという意見が強く、幕府側についているフランスは特に強硬であったとのこと。海音寺の表現によれば、「頭のてっぺんをどやされたような衝撃」を受けたらしい。植民地化を何より避けたい西郷は、方針を変える機会を待っていたのである。そこへ、西郷好みのサムライ・鉄舟が来たというわけだ。

一方、鳥羽・伏見の戦いから、1ヶ月以上たってから官軍は東征に出ている。これには、財政上の問題が大きくのしかかっていた。小栗上野介のところで触れたが、幕府財政も火の車であったが、新政府には、もっと金がなかった。孝明天皇の一周忌を行うことすら出来ない状況だったのだ。新政府側の財政は、越前の由利公正が担うことになった。これは龍馬の招聘によるもので、大政奉還の成立後、危険を顧みず越前に赴いている。龍馬と由利は勝の海軍塾への資金援助以来の旧知の仲で、由利の藩財政建て直しの手腕(農民や商工人に生産資金が不足していることを見抜き、藩の信用創造で藩札5万両を発行。貸し付けた。生産性が上がったところで、生産物を独占的に買い取り、長崎を始めとした通商ルートを開拓し、生糸、茶、麻などを海外に売り、海外から金銀貨幣を獲得し、藩財政を2・3年で回復した。)に惚れ込んでいたのである。その後龍馬は暗殺されたが、鳥羽伏見の戦いの後、新政府の東征の軍費の太政官会議に招集された由利は、300万両は必要と言い、公債を発行し商人に買い取らせることにした。1月29日、二条城に大坂・京都の商人130人を集めた。三井などを為替方(政府取り扱い銀行のようなもの)に任命し利権を与えることで味方に引き入れた。2月11日の時点で20万3512両の献金が集まったが、遠くおよばない。これ以上ぐずぐずはできないと官軍は軍費の算段がつかぬまま進撃を開始した。

官軍は2月7日、布告を出す。①兵糧については沿道の諸藩が一時的に負担、朝廷が後日返済。②幕府の貯蔵金穀を徴収する。③一般人には一切負担させない。④兵士の給料は泊駅白米4合金1朱、休駅は白米2合銭百文とする。進撃の経路にあたる藩には、兵糧を負担するか否かで、「朝敵」か否かを判断する、また1万石あたり300両を上納させた。これに応じない場合も「朝敵」として征伐されることになった。征伐された後、さらに莫大な上納金を取られるわけだ。

西郷らは、駿府で待機していた、というよりは軍資金がなく動けなかったのである。山のような請求書がたまっていたらしい。(笑)江戸城の無血開城が決まっても、江戸に入れなかったのである。4月15日、三井らから4万両の資金を得て、4月21日にようやく江戸に入ったのである。

大法馬金
http://osaka-dokkaiko.blog.
jp/archives/10183580.html
江戸城を開城した官軍は、かつて126個あったが、今は1個になったという「大法馬金」(金貨を作る元:画像参照)を探したが、勝が西郷と話をつけ持ち出していたらしい。旧幕臣や旗本が慶喜と駿府に移る時に百俵以下の者の給料にしたという記録がある。

その後も官軍の軍費不足は甚だしく、江戸の金銀座の接収で得た20万両は、和宮その他の賄料で消えたし、彰義隊掃討戦や幕府が発注していた鋼鉄戦艦の代金やらで、50万両が必要となった。海援隊の陸奥宗光が三井や鴻池などから23万4528両をかき集め、グラバー商会から20万両を借受け、朝廷の手持ち金で補い50万両を準備した。しかしアメリカは「内戦の中立」を理由に軍艦引き渡しを拒否したので、この50万両が浮いた。しかし、あっという間に軍費で消えてしまったという。

戊辰戦争の軍費のため、新政府は内国債を発行、「朝廷の財政が窮乏しているのを知っていながら、財力があるにもかかわらず」、募債に応じないものは、国恩をわきまえない不忠者ゆえ、それ相応の取り計らいをする。」という文言が付け加えられていた。脅迫である。(笑)明治2年の段階で、由利が示した軍費300万両の目標は、267万両にまで達した。これで官軍は函館まで遠征できたのである。由利の予測はあたっている。凄い財政家だったわけだ。

外交と財政、この2つが江戸無血開城という幕末のドラマに隠されていたわけで、なかなか興味深かった。戦争には、とにかく金がかかるのである。

2022年11月28日月曜日

山岡鉄舟のこと

山岡鉄舟の書 https://www.matsumoto-shoeido.jp/collections/902
海音寺潮五郎の「幕末動乱の男たち」を借りたのは、山岡鉄舟の項があったというのが大きい。私は山岡鉄舟が好きで、このブログでも何度も書いている。ところで、海音寺潮五郎のこの本、ノンフィクション的な歴史小説だと思っていたが、史伝文学というジャンルらしい。フィクションの要素を完全に排しているのである。ウィキで調べていて気づいた次第。以上11月22日のエントリーの訂正。

さて、山岡鉄舟の項を読んで、やはり凄い人物であることがわかる。これまで読んできた内容にはない話としては、十五の時に座右の銘二十則をつくったこと。これを一生貫いたのである。大谷翔平選手が高校時代に設定した野球への取り組み目標に近い。やはり一流は違う。

21才の頃、ある旗本の家に友人とともに呼ばれて饗応されたが、主人が自らの健脚を自慢し、明日江戸から成田へ、下駄を履き徒歩で参詣に行く予定だ、誰か同行しないか。鉄舟はただ一人それに応じたのだが、翌朝は激しい風雨で、主人は飲みすぎてしかもこの天候ゆえ行かないという。だが、鉄舟はせっかくだからと、1人で成田を往復する。夜11時に、下駄の歯はみなつぶれ全身にはねが上がり泥だらけになり、その屋敷に帰着報告に立ち寄ったという。この「苔の一念」的な部分が、鉄舟の一生を貫いているわけだ。

講武所の世話役として、熱心に稽古に励んだのはいうまでもない。しかし、小野派一刀流の浅利又七朗にだけは叶わなかった。剣を持つと彼の姿が浮かんで消えなかったという。それを剣禅一味の修行で、彼に勝利したのは45歳だったというから、凄い話である。これも「苔の一念」としかいいようがない。

海音寺の史伝文学として、新たな発見だったのは、1つは北辰一刀流の関係で清河八郎と親密であったという事実。鉄舟にはない魅力があったのだろうが、幕臣として彼の暴発を止める役割をしていたようだが、この事が、勝の後ろ盾だった大久保翁の疑心を生んでいたようで、勝に注意を与えていたようである。

西郷の元へ行く際のなりゆきも発見であった。これまで勝の依頼だと思っていたが、寛永寺で徳川慶喜の警護をしていた高橋泥舟(鉄舟の義兄にあたる)に、慶喜から最初声がかかる。だが、泥舟の警護ははずせないので、誰かいないかと聞くと義兄の鉄舟の名を挙げた。鉄舟は慶喜の恭順の意思を確かめた上で、役に立たない勝ったと後に語られる匿名の上役2人を訪ねた後、勝のもとに行ったようだ。前述のように勝は鉄舟を怪しんでおり、議論をしたうで西郷への手紙を託したようだ。

江戸開城がなった後、山岡は西郷の護衛に着く。恩義を感じての行動である。その後願いで、明治天皇の侍従となるが、10年だけと約束し、きっちり10年間勤め上げている。このあたりの「苔の一念」も見事である。

昨夜は、日本代表がコスタリカに不覚を取った。「苔の一念」で無敵艦隊スペインに勝しかない。頑張ってほしいものだ。

2022年11月27日日曜日

期末試験が完成した日

ここ何日か、期末試験を作っていて、パソコンにずっと向かっていた。そしてついに、倫理・政経とも完成した。私は試験を作るのは嫌いではない。と、いうより大好きな趣味といったほうがいい。ついつい凝ってしまう。この間、天候のこともあるが糖尿病対策の散歩にも行けなかった。

そこで、今日は天気が良いので妻と久しぶりに散歩にでかけたら、家猫がいる家の前から、トラ君がやってきて甘えてくれた。(ここの家猫君たちとは、夏休みの散歩時に何度か合っている)いやあ幸せのナデナデ。猫はかわいい。さて、いつもと違う道を行ったら、ヤギさんがいるお宅を発見。ご主人が小屋の掃除を、子供が鶏の世話をしていた。近くにこんなところがあったとは…。実に驚いた。いい散歩だった。

ベランダでは、妻がせっせと皮を剥いて、ホワイトリカーで消毒した干し柿が夕陽を浴びている。完成が実に待ちどうしい。

というような緩やかな日曜日。今晩は日本代表の正念場、コスタリカ戦である。

2022年11月25日金曜日

マレーシア新首相 タクシン氏

https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20221124k0000m030301000c.html
マレーシアの総選挙で 過半数をとった政党がないまま5日間。すこしヤキモキしたが、国王が、有力な国会議員と懇談後、現状では最大多数の政党・希望連盟のアンワル氏を首相に指名したようだ。マレーシアでは、首相指名権・行政権は国王にある。ただし、国王は議会の多数派の首相候補を追認するパターンが主だが、今回は大局からの判断をされたのだと思う。

なぜなら、アンワル氏は、マハティール首相のもとで副首相を務め、後継者と見られていたのだが、アジア通貨危機の際、財務大臣でIMFの指示を受けようとした際に対立。結局、マハティール氏の強硬策で危機を乗り切った。その陰でアンワル氏は同性愛の罪で逮捕された。

私がマレーシアに在していた前回の総選挙では、マハティール氏は、当時政界にまだ復帰していなかったアンワル氏を自分の次の首相と明言し、歴史的勝利を上げた。しかし、なかなか禅譲しないまま、退陣する羽目になり、後継問題はうやむやになってしまった。とはいえ、前回の選挙では、アンワル氏の存在がかなり大きかったと言えそうである。それくらいの人物なのである。

コロナ禍や世界的なインフレの中で、マレーシアの政治が混迷することは一刻も早く避けなければならない。国民の多くもそう考えていたであろうし、経世済民の思いを強く持つ国王もそう考えられたのであろう。経験もあり、様々な経緯を乗り越えてきたアンワル氏の手腕に期待されたのであろうと思うのだ。マハティール氏も落選し政界を引退するだろうから、アンワル氏が首相になることを、国民の多くは、歓迎するのではないかと思う。早速、ご祝儀相場で、リンギが上がったらしい。(習近平続投決定の時とは違う。笑。市場も好意的だということだ。)

今回のマレーシア政治の動きについて、詳しいJ君の考察を是非聞きたいものだ。

追記:今日の夕食は、マレーシアの前途を祝してナシレマである。この日本で売っているサンバルソースはなかなか辛いっ。

2022年11月24日木曜日

祝 W杯 ドイツ戦 逆転勝利

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221123/k10013901291000.html
ドーハの悲劇のリベンジというのだろうか。W杯日本代表が、優勝候補のドイツを相手に、2-1で後半逆転勝利した。LIVEで見れたわけではないし、最近の代表選手はそれぞれヨーロッパ各地で活躍しており、あまり属性がないので感動も以前のように大きくはないのだが、それでもドーハの悲劇をLIVEで体験した世代として、大いに喜びたいと思う。

森保監督に対して、マスコミもYou Tubeも、かなり風当たりが強かった。これまであまり結果が残せていたなかったからだろう。直前のカナダ戦でも負けたし…。あまりに監督への評価が厳しいかったので、マスコミや有識者のの掌返しが始まるのかと思うと、判官びいきというか、恥を知れと言いたいところだ。私などは、人間の価値基準を「美」においているので、そういう輩は美しくない。大嫌いだ。

ともあれ、日本代表と森保監督にアッパレである。…サウジアラビアの勝利もだけれど、今回のW杯、なかなかの荒れ模様である。

2022年11月23日水曜日

小栗上野介 ヒール考

http://blog.livedoor.jp/sexy2017/archives/35178679.html
どうも「上野介」と言う名前の人物は、日本史上のヒールである。吉良しかり小栗しかり。小栗は2500石の旗本で、以前は豊後守と称していたが、勘定奉行になった際に変更した。そのままで良かったと思うのだが、上野に領地があった所以かと思う。小栗上野介。幕末では、勝海舟と並び称せられる幕臣である。まあ、事実上の政敵であるのだが…。

海音寺潮五郎の「幕末動乱の男たち」(上)の最後に、小栗上野介の話が出てくる。海音寺も小栗のことを決してベビーフェイスだとは見ていない。勝の「小栗は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人に優れて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じ、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一(戦国時代の徳川軍の一番槍をを何度もしたので又一と言う名をもらった武将)によく似ていたよ。一口に言うと、あれは三河武士の長所と短所を両方そなえておったよ。」という批評に海音寺は十分納得している。

つまりは、素晴らしく有能な働きをした幕臣なのだが、幕府への誠忠無二故に、危うく日本を植民地化する可能性も生んでしまった危ない男と言うことである。…たしかに、その通りだと私も思う。

小栗上野介はたしかに有能で、あの幕末時の幕府の財政を立て直したと言われている。学園の図書館から、「お金で読み解く明治維新」(大村大次郎:ビジネス社)という本も借りていて、併読しているのだが、「怪物」と称されている。先に結末を記してしまうと、同じ幕臣でも榎本武揚は箱館戦争で最後まで抵抗したのに許され、新政府に出仕しているのに対し、小栗は戊辰戦争で、無抵抗・恭順だったのに首をはねられてしまう。それだけ新政府にとって恐ろしい男であったようだ。

海音寺の本を読んでいると、勘定奉行や外国奉行、陸軍奉行などを歴任した小栗はかなりフランスの戦略に乗っているのがわかる。フランスもまたロッシュが中心になって幕府にテコ入れをしていく。横須賀の造船所、幕府陸軍のフランス化など。フランスは、イギリスの狡猾な植民地経営ではなく、直接支配的であるというのが、よくわかる。

慶喜が鳥羽伏見から急遽江戸に戻った際、主戦論を主張する。「箱根でも碓氷峠でも防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉ざし、袋の鼠にしてしまう。一方軍艦は長駆して馬関と鹿児島を衝く。こうすれば形成は逆転して幕威はまた振るうに至る。」この戦術を後に聞いた大村益次郎は戦慄し、「これが実行されていたならば我々は生きてはいられなかっただろう。」と言ったと伝えられている。ところが、海音寺は、これはフランス士官の入れ知恵であろうし、天才的戦術だとも言えない。西郷が久光の上京を反対した時、同様に鹿児島が攻撃される可能性を説いている。この戦術は常識的でさえあったのだ。大村益次郎の言も眉唾ではないかと手厳しい。

海音寺は、結局勤王も佐幕もなく、日本を外国の餌食にしてはならないと念じ続けていた勝海舟が幕府側の代表者となり、イギリスの力は利用しても、日本の政体改革は日本人だけでやらなければ面目が立たないとアーネスト・サトーの援助申出を断った西郷が官軍側の代表者となって話合いをつけたことは、日本の大幸運だった。小栗が幕府を代表していれば、また官軍側に小栗のようなイギリスにもたれかかった人物がいたら、真っ二つに引き裂かれていただろうと書いている。

まさに私もそう思う。日本がなぜ植民地にならなかったか、その最大の理由は、武士の存在である。生麦事件のような凶暴な一面と、世界でも類を見ない教養の高さ(勝や西郷の如き人物の存在)、農工商の人々もまた識字率が高く、資本主義的発展も見られた日本は、結局列強の「市場」となることで、まずは災厄を免れたと考えている。小栗上野介の存在は、幕臣としては正義だが、日本という存在から見ると、やはりヒール扱いになるわけだ。(画像を検索していると、上野の地元はさすがにベビーフェイスのようだ。たしかに近代化に寄与していることは間違いない。)

追記:マレーシアの総選挙があり、97歳のマハティール元首相は議席を失い、勝者なき総選挙といわれるほど、与党も野党も過半数を取れず、今は合従連衡に動いているようだ。18歳から投票が可能になって、若者の意志が前面に出てきたという報告もある。もう少し落ち着いたら、我がブログで取り上げたいと思う。

2022年11月22日火曜日

海音寺潮五郎を読む。

学園の図書館で、海音寺潮五郎の「幕末動乱の男たち」(上・下)を借りてきた。私は、この時期の歴史小説しか興味がないのである。(笑)ここで、取り上げられているのは、上巻が有馬新七、平野国臣、清河八郎、長野主膳、武市半平太、小栗上野介。下巻が、吉田松陰、山岡鉄舟、大久保利通、三刺客伝(田中新兵衛・岡田以蔵・河上彦斎)である。吉田松陰と大久保利通を除いて、なんとなくマイナーな感じがいい。

さて、海音寺潮五郎を読むのはかなり久しぶりである。「西郷と大久保」以来かな。幕末の時代小説はかなり読みこんでいるが、やはり絶対数が多いので司馬遼太郎が主である。それから山岡荘八、大佛次郎といったところになる。最近は吉岡昭も含まれる。

今回、海音寺潮五郎を読んでいて、あれっ?と思ったのは、鳥羽伏見の戦いの前後、江戸で薩摩藩屋敷を中心に浪士が集まり、江戸の治安が悪化した件。司馬遼などの記述によれば、これは西郷の陰謀説だったと記憶する。今回、読んだ海音寺潮五郎では、西郷は浪士たちを抑えるため益満休之助(山岡鉄舟と駿府に行く、勝海舟があづかっていた薩摩藩士)を送ったことになっている。(もちろん、彼らを使い挙兵することも念頭にあったと海音寺も書いている。)微妙な相違のような、大きな相違のような…。作者が違えば当然と言えば当然。

また海音寺は、鳥羽伏見の戦いを兵力数から幕府軍有利だった、と見ている。なのに、朝敵の汚名を恐れて慶喜が逃げたという書き方をしている。しかし、薩長土の兵器と幕府軍の兵器の差は大きい。もし戦わば、薩長土が一蹴したような気がする。この辺も司馬遼や山岡荘八、大佛次郎と違うところである。

この本は、資料を丹念に調べ上げたノンフィクションといった色彩が強い。歴史小説のようではあるが、新しい歴史的事実が垣間見えて面白い。

2022年11月21日月曜日

風が吹くとき

昔々、映画館で「風が吹くとき」というアニメ映画を見た記憶がある。おじいさんとおばあさんが、核戦争によって、被爆する話である。

詳細は、以下に詳しい。https://mihocinema.com/kazegahukutoki-54397

先日、ふとこの映画のことを思い出した。戦後70年以上、世界的には様々な戦争があったが、日本は戦争を経験してこなかった。完全に平和が日常化した。だが、台湾有事は間近に迫っているように感じざるを得ない。そうなれば、日本は無関係ではすまないだろう。どういう事態になるのかはわからないが、この「風が吹くとき」同様の核戦争が起こり得るかもしれない。まさか、自分が、このおじいさんとおばあさんに近い年齢になって、そういう危惧にさいなまれるとは思わなかった。

このおじいさんとおばあさんは、政府が助けに来てくれると信じている。(舞台はイギリスの片田舎なのでイギリス政府である。)この頃よりも情報が過多である現在、その政府が全く信用できない存在だと我々は気づいてしまっている。この映画は全く救いようがない内容のだが、少なくとも政府を信じれている彼らの方が、知ってしまっている我々よりは救いがあるように思うのだ。

私などは、悔いのない人生を送ってきた。いつ何時臨終の時を迎えても悔いはない。ただ、多くの若い教え子たちの未来を思うと、いたたまれなくなる。信用できない政府を無理やり信用でもしなければやってられない昨今である。

2022年11月20日日曜日

干し柿

四国にいた時、197号線ぞいの瀬戸町農業公園で、妻が小さな干し柿を見つけた。おそらくは売り物にならないほどの小さな渋柿を、風の強い佐田岬半島で干したものだった。いやあ、これが絶品。ここを通るたびに大人買いをしたものだった。

今年は、妻が自分で干し柿を作ることになった。安い渋柿を見つけては、皮を剥いてリカーでカビが生えないようにして、ベランダに干している。今日の画像参照(拡大可能)。これは今は亡き義兄の遺品である干し魚を作るための網らしい。前回は実際に紐でつるしていたのだが、今回はこういう形で干していた。

これが実に美味しいのである。私たちが日本で最もよく食べる果物といえば柿。年を超えても食べれるように、どんどん作っていく気らしい。(笑)

2022年11月19日土曜日

外資 中国国債売り越しの理由

中国国債を外資の投資家が9ヶ月連続で売り越ししているようだ。国債への投資は、そんなに儲かるものではないが、リスクが少なく安定しているので、機関投資家がほとんどである。

この売り越しの理由は中国の戦争リスクであるようだ。上の画像は、ロシアの国債のチャートで、ウクライナ侵攻のあと暴落しているのが分かる。(ロイター電)機関投資家は、プロが膨大な投資を行うがゆえに、大損するリスクには超敏感である。そこで、今のうちに売り逃げしているようである。

すなわち、彼らの目から見て、中国の台湾侵攻の可能性が高まっているということである。中国メディアは米中の関係好転を必死でアピールしているが、実際のところアメリカは半導体規制を強めていて、ある意味の冷戦状態になっている。中国の共産党独裁の政治リスク(カントリーリスク)、戦争のリスク、冷戦のリスク…。市場は最も敏感に反応している。

先日、日中のなんとなく友好的に見える首脳会談も開かれたが、同時に日本政府内で有事に備えるという話も出ているようだ。

和辻哲郎の「間柄」という概念では、過去の信頼が現在の信頼に結びつくとあるが、東アジアの三国(台湾を除く)の過去(現在)を鑑みるに、およそ信頼をおくに値しないことは明瞭だ。ますます危機が迫りつつある予感がする。

2022年11月18日金曜日

大谷翔平選手のWBC

https://www.sanspo.com/article/20221008-UX5FZG3A25M7HOV7KJSIL3ZMO4/
大谷選手が、大盛りあがりだったMVPを逃した。そりゃあ日本人としては、投手と打者の規定を両方クリアして、あれだけの成績をあげたのだからMVP以上のモノだと思うが、本人は別に賞金が欲しそうでもなく、もうすでに次のために備えているわけで、以外にサバサバしているのではないだろうか。

それよりもビッグニュースは、WBCに参加すると自ら発表したことだ。嬉しいねえ。彼こそ、イチロー以来の本当のサムライなので、侍ジャパンにふさわしい。ただ、松坂大輔がWBCの後、一気に調子を落としたようにならないかが心配である。

どんな活躍を見せてくれるか、今から楽しみである。

司馬遼の歴史の中の邂逅6④

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2021/06/03/109264/2
薩摩藩の郷中制度(町内ごとに組織する青少年団のようなもの。)は、南方古俗が、なまのまま薩摩藩に組み入れられたのではないか、と司馬遼は私感と前置きして述べている。この南方古俗の特徴は、若者たちが、山火事や海難事故、祭祀などの非日常的な問題に対処する故に、そのための集団教育の場をつくり、担っており、その中心者(薩摩藩では郷中頭)がその責任を負っている。よって、大人は、郷中頭には一目も二目も置き、たとえ十代の青年であっても慇懃に接するとのこと。

この青年に対する大人(体制側)の姿勢は、欧州や伝統的中国から見れば不思議な体制習俗で、後の昭和期の軍部・青年将校に繋がるのではないかと司馬遼は感じている。軍備や戦争という非日常的な仕事は、若者衆の仕事であり、陸海軍大臣は若者衆の代表である。大人(内閣)に対して従うというよりも、若者衆の意見を代表するだけの存在で、代弁者として大人に反対することも厭わない。司馬遼から見れば、戦前の陸軍大臣など、他の文明圏の感覚で言えば、とうてい大人といえるようなタマではないとボロクソである。(笑)

ところで、西郷は幕末の外交戦において、郷中頭だった頃の若者、ようするに町内の後輩を幕僚として使った。西郷従道は、「兄が幕末であれだけ活躍できたのは、私達がいたからだ。」と、言っている。従道は法螺をふいたり自分を大きく見せる人ではないので、司馬遼もこの言葉は正鵠を射ていると思っているようだ。この町内の若者とは、従道、大山巌らを指す。(ちなみに東郷平八郎も同じ町内に生家があるらしい。)

この言と関係するのが、西南戦争である。征韓論で政府を去った西郷に、近衛軍を辞し、付き添ったのは、従道から見れば、”単なる人殺しで信じがたいほどの阿呆”である桐野利秋である。たしかに桐野は幕末の四大人斬りとして、岡田以蔵などと並び称される「中村半次郎」である。桐野は、郷中をさらに藩レベルで組織化した私学校をつくる。従道からすれば、「兄を誤ったのは彼らだ。」ということになる。「翔ぶが如く」を読んだ記憶では、この桐野の阿呆ぶりが鮮明に残っている。司馬遼は時折、こういう阿呆な悪役を設定する。「坂の上の雲」でも、乃木希典の第3軍を窮地に陥れた阿呆な参謀、伊地知幸介なんかもそうである。まあ、作家なので、これは誇張かもしれないが「あり」なのかなと思う次第。

2022年11月17日木曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅6③

https://xn--lbrx7b39ff5mg5z
k42a.com/futsuu/futsu1_100/1
yen_hutsuukitte_maejimahisoka
江戸遷都の前に、新政府では大阪遷都の話が大久保から出て、盟友の岩倉を除く京都の公家たちが大反対した。この反対を受けて、大久保は、大阪遷都には莫大な費用がかかることに気づく。そんな混乱時に、大久保の私邸に匿名の投書があった。その文章は堂々たるもので、論旨も明快で、無名の市井人のものとは思えなかった。「大久保市蔵君 座下」の巻頭で始まっていた。関東・東北の土人がなお新政府に疑問をいだき、戦意をもっている時に、江戸の押さえを捨てて大阪に帝都を設けるのは感心しない。大阪に遷都となれば新しく政府の建物を新築せねばならないが、江戸にはそれらが全て揃っている。大阪は帝都にしなくとも衰えないだろうが、江戸は市民四方に離散する。国家のためにはなはだ愛惜にたえない、という内容だった。この投書が、遷都に踏み切った。

この投書は、前島密によるものだった。元幕臣ながら学才をかわれ、郵便事業の研究のために英国へ派遣された郵便制度の父である。後年、大久保は後年、数人の政府高官と維新前後のことを回想していた時、この投書の話が出た。眼の前に前島がいたのだが、彼は功を誇らない人間だったから黙然としていた。同席の人物が、前島からその秘話を聞いていたので、「前島君ですよ。」と言った。大久保は膝を打ち、感嘆してしばらく言葉がなかったという。

まさに秘話。ちょっと驚いた。前島密、さすがである。

2022年11月16日水曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅6②

https://www.sagabai.com/main/3771.html
幕末維新に活躍した藩は、倒幕・佐幕共通して文教熱心であった。旗本八万騎の子弟は全く及ばないらしい。それらの中で、肥前藩は飛び抜けている。弘道館という大藩校があり、小学過程から大学課程まであった。藩士の子弟は、6,7歳で強制入学させたれる。7歳でその過程が終わる。それを終えればいよいよ本格的な課程に入る。25、6歳でやっと卒業である。問題は、それぞれの課程で学業が成就できていない者は先祖代々の家禄の8割を没収されるという激しいもので、当然、藩の役職にもつけなくなる。死ねというのに等しい。

弘道館の学派は朱子学であるが、幕末には洋学コースが加えられた。蘭学寮といい、オランダ語、兵学、兵器知識、航海術、築城術、医学を学ぶ。自然、漢学コースと洋学コースの書生の気風はくっきり区別される。世界観が違うのである。副島種臣は漢学コースの教官あがりだが藩命により長崎で英語を学んだ。大隈重信は洋学コースである。この洋学コースでは長崎で西洋文物を研究し、造船の面では小さい軍艦、洋式大砲や小銃を国産で作るだけの能力を持つに至った。

従順に生まれついた秀才ならいいが、出来ぬ者や覇気に富んだ青年にとってはたまらぬに違いない。大隈重信は、この藩の教育を、同一の模型に入れるもの、「葉隠」などは、実に奇怪な書物で武士は一死をもって藩のために尽くせとあり、藩より貴く重いものはない、釈迦も孔子も楠木正成も武田信玄も、鍋島家に奉公していないのだから尊敬するに足らずと書かれてある。早稲田の建学の精神はこの藩教育を反面教師にしているのではないかと司馬遼は言う。(笑)

とは言え、肥前(佐賀)藩は、孤立主義を取り藩士が志士気取りで奔走することを禁止したが、鳥羽・伏見の戦いの後、新政府は肥前藩の洋式兵器に頼らざるを得なくなった。乞われて仲間に入ったのである。新政府の有能な官僚にこの藩の人間が多いのは、あのクレイジーな教育のおかげということになるのだろう。

司馬遼の歴史の中の邂逅6①

市立図書館で借りた司馬遼太郎の「歴史のなかの邂逅」6巻。特に印象に残った内容を続いてエントリーしておきたい。先日、久坂玄瑞のエントリーで、私は長州人がどうも好きになれないと書いたが、それは戊辰戦争の後、大いに新政府で猟官した権力欲の強さによるところが大きい。しかも汚職にまみれたイメージが強い。これは、薩摩藩の確固とした藩の身分制度とは異なり、比較的自由度が高かったこともあるが、このような土肥をはじめ、藩閥政府が批判されるのは当然かと思うからだ。

まずは、そんな長州藩のある意味影のシンボル的な人物について。白井小助という吉田松陰の五つ年上で松陰の二度目の江戸遊学の時の同期で藩邸で起居を共にした親友といってよい人物である。松陰が伝馬町の獄に繋がれた時、大小も着衣も売り払い差し入れをした。国事犯であった松陰への援助が藩に露呈し、小助は罪人となり国元に帰された。小助はその後許され、再び江戸で洋学を学ぶが、松陰は「志は壮とする。」と言いながら移り気なのでうまくいかないのではないか、と野山獄中から心配している。実際、洋学はものにならず帰国、攘夷戦争や藩内クーデターの騒ぎに奔走した。奇兵隊参謀となり第二次長州征伐を戦い、戊辰戦争でも官軍の参謀として長岡戦争に参加している。

これらの功績で奇兵隊を仕切った山縣有朋は陸軍中将になった。新政府はその運営のために、諸藩から政治と軍事の俊英を募った。小助は、この選にもれた。長岡戦争の時も小助はよく働いた。しかし、指揮能力や作戦応力はあまりなく、自然と山縣が指揮権を握る。小助は山縣の決めた作戦にうるさくケチをつけからんだ。やっかいな荷物であるが、松陰の親友(ちなみに小助は大村益次郎より2才若いが、木戸孝允より7才上、山縣より12才上である。)である大先輩を蔑ろにはできなかった。長州の面々は、新政府に小助にふさわしい職をについて悩んだようであるが、拗ね者の体を示し始め、口舌は常に毒を含み、行動は人の意表に出ていた。軍人や行政官にはおよそ不向きであった。やっと探し当てたのが、司法機関の弾正台(官吏の不正を監視して糺す)であったが、本人が怒声とともに蹴った。小助にとって見れば、自分よりも後輩の、はるかに無学な、出世欲だけがあふれる連中が高位高官になったゆえに、司馬遼の表現では「芸術的拗ね者」になってしまった。

明治になってから、小助は故郷に住み、東京との間をしきりに往復した。東京で大邸宅を構え、爵位を持って日本の要人となっている、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、三浦梧楼、品川弥二郎らをからかうために襲撃していたのである。松陰の親友である小助は、彼らの若い頃の弱みを知っており、松陰門下を呼び捨て好き放題の放言をしつつ暴れまくった。

明治33年、従五位に叙せられた、と最後にある。伊藤や山縣の配慮だろう。従五位は貴族の最下位で、幕末の志士で功ある者にも与えられたようだが、ウィキには明治33年には誰も叙せられていない。白井小助の名を他年度で探したがない。…謎である。

昨日エントリーした会津の秋月悌次郎などと、比較するにもおこがましい人物である。武士としての美しさのかけらもない。従五位など必要ないと私は思う。

2022年11月15日火曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅4③

勝海舟が咸臨丸で渡米した際、最高指揮官は、年下ながら筋目の旗本で長崎目付(=海軍伝習所の所長)となった芥舟(かいしゅう)木村図書(後に摂津守)であった。それまでの伝習所・所長は、自ら生徒として海軍を学んだり(永井尚志)、蘭癖家で新しい科学技術に理解があったり(岡部長常)したのだが、芥舟は実務は知らない。勝は不愉快だったらしい。芥舟は温厚で何も言わなかったが、従者が吠え続けた。この従者が福沢諭吉である。奥医師経由で臨時の従者になることを快諾してもらい、芥舟の飲食から衣服に至るまでの世話をした。この乗船から後年にいたるまで、芥舟は福沢を先生と呼んでいた。人の才を敬する人物であったらしい。維新後は、世を捨てた。福沢は、「痩我慢の説」として、芥舟の倫理観を称え、新政府に優遇され爵位まで得た勝や榎本を批判している。勝と福沢は仲が悪かったが、このような裏話があるそうである。

坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのは、見廻組であるというのが定説である。見廻組は旗本の次男三男という幕臣の組織で、一節には400人いたとされているが、危機意識が低く、新選組などと比べると粗漏の集団であったようだ。その中心者・佐々木唯三郎は幕府から命令を受けた際は腕利きを集めて少人数で行動したようだ。見回組の仕事とされるのは、清河八郎暗殺がまずある。佐々木はかなり卑怯な手を使っている。清河を招待しかなり泥酔させたうえで、路上で挨拶を交わし、編笠を取ろうとした。武士の礼儀として清河も編笠を取らざるをえない。そこを背後から襲わせたのである。龍馬暗殺に関しては、誤情報が原因とされているらしい。龍馬が5000人ほどの志士を集め入洛するという情報があった。実際は、3000人ほどの志士を北海道に送り開拓させようではないかという話だったらしい。とんだ誤解で龍馬は暗殺されたことになる。

蛤御門の変の時、会津藩と薩摩藩が長州を撃退するのだが、当時の京都には薩摩藩の大物はいなかったらしい。久光や大久保、小松帯刀らは薩摩にあった。西郷は流謫中である。どうやら薩摩からの指令で、高崎佐太郎という人物が、会津の秋月悌次郎と接触したようだ。この秋月は、身分は低いが昌平黌の出身で各藩に知己が多いので取り立てられたという人物。ただし温厚でおよそ藩外交には向いていない人であったらしい。彼は高崎を松平容保に繋ぐ。薩摩藩は常に高崎一人で立ち回った。司馬遼は後で藩の方針が変われば高崎に腹を切らせて済ませばいいと考えていたのではないか、また本人もそれを覚悟で薩会同盟を結んだと記している。

この秋月は、後に新政府から官職を得るが、自分だけ官を得るに忍びないと辞する。その後、熊本の第五高等学校で漢文を教授した。ある日、秋月は教壇に立って、本を開けずよほど時間がたってから、「実は昨夜、文久3年以来30余年ぶりの友人が訪ねてきて終夜痛飲してしまった。」と丁寧に一礼して教室を出ていったという。下調べができていないので授業を勘弁して欲しいということである。この友人とは、高岡佐太郎(当時は正風と名乗り、宮内庁の顕官)である。会津人にも薩会同盟のことは黙していたはずで唯一当事者同士だけ故に懐かしく語り合えたのであろう。秋月は、実に人が良い。五高で同僚だった小泉八雲は、近づくだけで暖かくなる暖炉のような人とひどく崇敬していたという。司馬遼は、こういう人物が幕末の会津藩の外交官であったことを思うと、新選組を使う以外は、ほとんど権略的な外交をせず、時勢の中で居すくんだようでもあった会津の京都守護職というものの性格の一部が分かるような気がするとしている。

…全く同感である。秋月悌次郎の人格は素晴らしい。サムライである。

2022年11月14日月曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅4②

http://nikonekosoramame.livedoor.blog/archives/1943333.html
司馬遼の「歴史のなかの邂逅4」で印象に残った話として、河井継之助のことがある。もちろん司馬遼の「峠」は読んだのだが、だいぶ前のことなので忘れていることも多い。

河井継之助は死にあたって、下僕に棺を作らせ、庭に火を炊かせて終夜それを見ていたという。自分の生と死をこれほど客体として処理し得た人物も稀で、身についたよほどの哲学がなければできることではない。長岡藩全体で、陽明学を藩学としていたようだ。こんな藩は他にない。周知のように幕府は林家の朱子学であるが、この件については容認していたようだ。

江戸時代も降るに従って、武士階級は読書階級となり、形而上学的思考法が発達する。幕末ともなると、形而上学的昂奮を伴わなければ動かなくなる。幕末の人物たちはそれぞれ形は違っても、いずれも形而上学的思考法が肉体化しているという点で共通している。志士と呼ばれる人々も、賢侯と言われる大名も、戦国的な私的な野望が全くない。人はどう行動すれば美しいかと考えるのが、江戸の武士道倫理である。また人はどう思考し行動すれば公益のためになるかを考えるのが江戸期の儒教である。司馬遼太郎は、この2つが幕末人を作り出していると言う。

この幕末期の武士の人間像は芸術品とまでいえる。世界に類型のないサムライという美的人間である、と結論付けている。その最高の結晶が、河井継之助だ、というわけだ。

…なるほどと思う。たしかに勝者となった薩長にも芸術的な美的人間はいるが、敗者側にこそ美は輝く。私などは、松平容保とか土方歳三とか、山岡鉄舟とかの結晶が実に美しく見えるのである。

司馬遼の歴史の中の邂逅4①

市立図書館で、司馬遼太郎の「歴史のなかの邂逅」4巻と6巻を借りて読んでいる。司馬遼が様々な雑誌等に寄稿した文章である。4巻の中で特に印象に残った内容をエントリーしておきたい。

黒鍬者の話が出てくる。近藤勇が甲州に向かった時、土方歳三が菜葉隊の支援を頼みにくのであるが、そのトップが江原素六で黒鍬者出身である。戦国期から最下層の御家人として戦場の掃除をしたり、城普請をしたりと現在の工兵隊のような仕事もしていた人々である。この江原素六が幼い頃爪楊枝をつくる内職に励んでいた。この爪楊枝(現在の歯ブラシ)は、古代インドで原始仏教教団の日常規範に入っていたと、法顕の「仏国記」にあるそうだ。中国に伝わり、日本にも仏教伝来とともに伝わったが、中国では一般化しなかった。日本では平安期には貴族や僧侶が使い、庶民にも及んだ。 

さて、ここで唐突に道元の話が出てくる。道元が入宋した際、彼の地で多くを得つつも、少なからず失望した。宋僧の不潔さにである。道元は清潔をやかましくいう人で、正法眼蔵の「洗面」の項において、常に身を清めておくことは仏法の基礎とし、経典に拠りつつ、袈裟の洗濯のしかた、体の洗い方、洗面の方法、手ぬぐいの使い方までくわしく規定している。彼は、宋で仏祖の大道が衰えたとする。僧たちにこの点について問籍(もんじゃく)を試みた。僧たちは失色して度を失したという。

天下の出家・在家、ともにその口気はなはだくさし。二三尺をへだててものをいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。

…道元もなかなか強烈である。

2022年11月13日日曜日

やはりデモクレイジー

https://www.foreignaffairsj.co.jp/focalpoints/2022-7-15-fri/
やはりといか言いようがない。赤い(共和党の)波が、事前の報道で流れていたにも関わらず、民主党側は何かしたようだ。前回同様、今度も様々な策動が後から出てくるだろう。先日エントリーしたように、民主主義はアメリカの根幹だ。この根が腐っている。もうアメリカに未来はないのではないか。我がブログに、アメリカからのアクセスが多いのを良くわかった上で、こう表現せざるをえない。

前回の大統領選の時、トラさんはアメリカの分裂を避けるために、あえて戒厳令を出さなかった。見た目は武闘派だが、民主党の戦争屋とは本質的に違う。だが、今回はどうだろうか。二度あることは三度あるという。2年後の大統領選挙も同様に、デモクレイジーがアメリカでも蔓延する可能性が高い。

ジョン・ロックの抵抗権を共和党支持者は行使するのだろうか。今現在の状況下で捨てるものがない場合は大いに有り得るが、豊かなアメリカでそのような事態が起こることは私は想像しにくい。アメリカが分裂するなどというSNSで予想する向きもあるが、アメリカの混乱はさらに世界情勢を混乱させるだろう。先の読めない状況が続いている。

2022年11月12日土曜日

中村俊輔の引退

海外で活躍した日本人ランキングトップ7というYou Tubeがある。1位香川・2位長谷部・3位中田・4位岡崎・5位長友・6位中村・7位本田となっている。かなり納得できるいい内容なんだけど、私の感覚では、やっぱり1位は中村俊輔なんだよなあ。

https://www.youtube.com/watch?v=e2pcNhrb78Q&ab_channel=%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A7TV

中村俊輔のFKは凄い。凄すぎる。日本人で1位どころか、世界でもトップレベルではないかなあと思う。特に、セルティックでの活躍は素晴らしい。何度見ても鳥肌が立つようなFKを決めている。もちろん、そのための努力がなせる技だ。このあたりは、イチローの野球道とも繋がってくる。

その中村俊輔が26年間の選手生活を終え、引退した。実に幸せな引退だと思う。カズや小野、川口や遠藤、岡崎、長友なんかのビデオメッセージもあって、引退試合も、引退会見も最高に恵まれたカタチだったと思う。やはり多くの選手に愛されていたんだろう。

スポーツ選手は、活躍できる人もいれば、思うように活躍できなかった人もいる。私などは運動が苦手なのでよくわからないが、メンタルやフィジカル、技術などあらゆる面で努力が必要なのだと思う。26年間やり続けたということには、体のケアや食事などの調整も十分にしてきたのだろう。結局努力の積み重ねなのだと思う。これからは後進の指導の道に進むだろうが、是非とも第二・第三の中村俊輔を育ててほしいものだ。

2022年11月11日金曜日

久坂玄瑞の歴史小説を読む。

市立図書館で幕末の歴史小説を借りてきていて、昨日読み切った。古川薫「花冠の志士」である。久坂玄瑞の話である。久坂玄瑞とくれば、吉田松陰の松下村塾、その中でも高杉晋作と並ぶ弟子である。蛤御門の変で死んでいる。吉田松陰という人は、本当に純粋な人である。その弟子であるから、久坂玄瑞も純粋である。純粋であることは美徳だが危険でもある。危機の時代にあって、松陰門下の多くは危険な存在であり散りゆく。意外に生き残ったのは伊藤博文や山縣有朋で先輩の残した遺産をうまく利用していく。

私自身は、長州の志士はあまり好きではない。我がブログの「留魂録」は松陰の遺書からとっているのだが、そのポリシーを好んでいるのであって、吉田松陰その人については、純粋すぎて異常な過激派の親分であると思っている。

この本を読んで、久坂玄瑞についても、結局好きになれなかった。何故だろうか。

長州・毛利家は関ケ原で敗者となり、領地を甚だ削られた。毎年正月には、今年こそ幕府を打ちましょうかと、家老が藩主に尋ねることが儀式となっていたという。積年の恨みをもっていた。後に雄藩となり力を蓄えるのだが、藩としては融通がきくというか、組織としてはタガが外れているところがある。金使いは荒いし、藩士も好き勝手に動くきらいがある。長州ファイブなどはその典型である。慎重なのは、逃げの桂(木戸孝允)くらいで、とにかくぶっ飛んだ人間が多い。要するに、公ではなく私の集団なのだ。

薩摩藩のある意味で統制(というか各人の向かうベクトルが島津斉彬のベクトルに近い)という部分で、長州とは大きく違うように見える。まあ、統制が取れているという意味では松平容保の会津藩。私は、会津のほうが美しいと思う。次に薩摩。長州は全く美しくないと思っている。さらに維新後の新政府での私心に走った姿、傲慢さがさらに評価を下げる。

久坂玄瑞は、蛤御門の変で死んでいるので、維新後の話は関係ないのだが、松陰や玄瑞の純粋性は結局、暴発に過ぎず、無に帰したような気がする。そんな読後感であった。星2つくらいかな。残念。

2022年11月9日水曜日

中間選挙開票に想う

https://www.skyperfectv.co.jp/program/special/st/novhaishin/detail/detail_sub_14.html
最近、我がブログにアメリカからのアクセスが多くなっている。ありがたいことである。アメリカでは現在、中間選挙の開票が進んでおり、さてさてどうなるのだろうか。

私は、何よりも前回の大統領選挙のような不正が行われるのではないかと正直なところ大変危惧している。私はアメリカに何度も足を運んでいるし、アメリカ人の友人も多い。アメリカの国是は、明白なる天命(Manifest Destiny)である。「自由と民主主義」を西進させるというこの志は、ネイティヴやアジアやアフリカから見ると、多少おせっかいな支配する側の論理ではあるが、少なくとも私はアメリカらしい志であると思っていて、嫌いではない。

前回の大統領選では、この屋台骨・民主主義が瓦解した。これに対するショックは大きい。今回も同様のようなことになったら、アメリカへの信頼は完全になくなるだろう。日本は実際のところ、アメリカの一つの州のような存在だ。日本政府への信頼もまた瓦解するだろう。現在の政権は親米色の最も強い宏池会の政権であるからなおさらだ。

2022年11月8日火曜日

紂王と妲己

http://kazatomidori.web.fc2.com/fox/01.html
久しぶりに授業の話をエントリーしようと思う。倫理の授業で、朱子学・陽明学・古学さらに国学とかなり早いスピードで授業を進めていた。古学の系譜の中で、荻生徂徠の古文辞学に、先王の道というのがある。ちょっと世界史を選択している生徒に聞いてみた。「孔子」は何時代?「春秋です。」その前は?「周です。」その前は?「殷です。」その前は?「夏です。」この辺はさすが進学校である。すっと出てくる。荻生徂徠の言う「堯・舜」というのはさらにその前の神話時代の王の名で、孔子が理想とした君主である。

ところで、国学の本居宣長は古事記伝を著した。古事記のほうが日本書紀より優れていることを記しているのだが、中国の易姓革命的記述は日本書紀には見られるが、古事記にはない。つまり漢意(からごころ:外来思想の意味)がないわけだ。ここで易姓革命について質問してみた。まだ黒板(正確にはホワイトボードだが…)に殷も周も書いてある。「殷と言えばとんでもない王がいたが、誰?」これはさすがにすっと出て来ない。だが、世界史が得意そうな生徒に当ててみると、「紂王です。」と出てきた。全クラスで答えてくれた。うむ。いいぞ。ではその奥さんは?「妲己です。」これはさすがに文系クラスの中において超優秀と言われている生徒のみ答えれたのだったが…。おお。よく出たなあと感心した。出たところで易姓革命を語る。世界史組はよくわかっているが、日本史組はあまり知らない。

高校の世界史も日本史もかなり内容が濃いので、選択制になっているが、専門化しすぎて両者に倫理を教えるのにはちょっと難儀する。近代哲学史は世界史組有利、日本思想史は日本史組有利。両者共にある程度知っているのが理想である。今の1年生から歴史基礎(世界近代史+日本史近代史)と地理基礎がそれぞれ2単位で必修になったのだが…。

2022年11月7日月曜日

無神論者のための福音

学園からの帰路、横山駅で黒人の青年がいた。ザックにレゲェの人形がついている。ホント久しぶりに、「レゲェの人形だね、どこから来たの?」と英語で聞いてみた。「ジャマイカだよ。知ってる?」「私は地理の先生だよ。キングストンから?」と受けた。彼はニコッと笑ったのだった。だいたい、こういう場面は私1人であること、周囲にあまり人がいないことが条件。うーん、マレーシアのルーマニア人以来かもしれない。ちなみに、ジャマイカ人と話したのは2人目。このブログの常設ページの「地球市民の記憶」はなかなか増えない。

今日のエントリーは、チェコのプラハの春の話である。佐藤優の「同志社大学神学部」の中で、チェコの神学者フロトーマカの話が出てくる。そもそも佐藤優は高校時代から社青同に関係しており、マルク酒主義者であった。無神論の研究のために神学部に入ってきたそうだ。チェコは、英仏の宥和政策のためにナチスに蹂躙された。その後ソ連によって開放される。よって、ソ連に対しては西側の民主主義国より親和的であった。フロマートカはアメリカに亡命したが帰国する。翌年、共産党の無血クーデターが起こった。ソ連もしくは帝政ロシアと国境を接していないスラブ人国家(ブルガリアやセルビアなども含めて)はソ連に対して好感をもっていた。

フロートマカはチェコの共産化を消極的に支持していた。彼は、本来キリスト教が行うべき、労働者の貧困問題やナチズム、ファシズムへの抵抗を共産主義者が行ったと解釈していた。素朴な唯物論を信奉していた共産主義者は、超越性への畏敬の念も原罪観も持たない。性善説によって組み立てられた社会は、フランス革命のジャコバン党のような恐怖政治になる故に、これを阻止するためにキリスト教徒は全力で働きかけていかねばならないと考えていた。フロートマカは1958年に東独で刊行された「無神論者のための福音」の中で、西側の実存主義者も東側の共産主義者も近代社会で疎外された個々人と類としての人間を開放しようとしている。人間疎外は近代になって起きたことではない、常に人間は疎外された状況に置かれている。イエスを信じることが救済であることを社会主義社会の中で伝えていくことが神学者の使命であると。

また、中世の西ヨーロッパにおいて、ユダヤ・キリスト教の一神教、ギリシアの古典哲学、ローマ法が融合したコルプス・クリッスティヌム(corpus christianum)というキリスト教文明の社会システムが成立し、近代にも世俗化されたカタチでこのシステムは残った。支配者側に組み込まれたキリスト教は、悔い改めを忘れてしまったと。このコルプス・クリッスティヌムの脱構築がロシア革命だとフロートマカは考えた。キリスト教、特にプロテスタンティズムが資本主義社会の矛盾と真剣に取り組み、労働者の境遇を改善する努力をしていればマルクス主義の力はこれほど大きくならなかったはずだと主張する。この状況に悔い改めようとしていないことが最大の問題だというわけだ。

社会主義体制を打破しようとしたハンガリー動乱とは異なり、プラハの春は、「人間の顔をした社会主義」を追求する社会主義体制を前提とした民主化運動である。体制内の異議申し立てである。この「人間の顔をした社会主義」という発想はフロートマカによるところが大きい。佐藤優が彼の思想に惹かれたのがよくわかる気がする。

ところで、私はまだチェコ人と話したことはない。妻とよく話しているのだが、もしヨーロッパにもう一度行けるならプラハ。うん、地球市民の記憶を是非増やしたいものだ。

2022年11月6日日曜日

存在の類比と関係の類比

佐藤優の「同志社大学神学部」を読み終えた。興味深い記述がたくさんあったので記しておこうと思う。まずは、プロテスタント神学上の「存在の類比」と「関係の類比」の話である。

キリスト教には、「神の似姿」という考え方がある。旧約の創世記にあるように、人間は神の似姿であるので、人間は他の生き物を支配する権限を与えられた、というか管理権を与えられた。動物は神が創ったものである。自然全体に拡大すると、神が創った被造物には何らかの目的があるはずで、自然を読み解くことで神の意志を理解できる。だが、被造物の秩序を崩してはいけない。これが「存在の類比」という発想の根拠である。
この「存在の類比」はナチズムに対する有効な抵抗の原理を提供した。ナチスは「地と土」の神話に基づいて、キリスト教を変容しようとした。ナチスは、イエスを理想的なアーリア人種であるという改変を加えようとした。さらにパウロにユダヤ人の奴隷根性が染み込んでいるとしてパウロ書簡を新約聖書から排除した。プロテスタント教会の多くの牧師や神学者(カール・バルトも含む)もなびいた。だが、カトリックは、「存在の類比」を堅持し抵抗する。最も、カトリックは、スペイン内戦ではフランコを指示した。社会主義が自然の秩序に反すると思えたからである。

この「従来通り」で変化がない状況を理想郷にするのは、カトリシズムもプロテスタンティズムも同様なのだが、プロテスタンティズムは現状について別の認識を持つ。人類の歴史はアダム以来、堕落の歴史であり人類史の中で最も悲惨な深淵が1世紀のパレスチナに生じた。神はイエスを派遣し、イエスの力で救済へと引き上げられた。しかし再び人類は堕落していく。だが、救済の原点はイエスにある。その福音にならって行動することが「信仰の類比」である。モーセの十戒で冒頭で、神以外を拝んではならないとあるが、神による被造物であってもそれを人間が拝むと偶像崇拝になる。つまり、「存在の類比」は危険性があり、プロテスタント神学は「存在の類比」を採用しない。また、時代の進展とともに、資本家と労働者の関係やジェンダーなど社会的に形成されたものまで神のつくられた自然であると誤解してしまう危険がある。これらの欠陥を克服するため、神と人間が向き合う「関係の類比」を採用した。これがプロテスタンティズムの行動規範である。

…私はブディストなので、この論理をどれだけ理解できているかは疑問なのだが、キルケゴールの神の前に一人立つ「単独者」という概念が想起された。なるほど、キルケゴールはデンマーク出身なので、プロティスタント神学圏である。

2022年11月5日土曜日

市民大学 アフリカの呪術

市民大学の会場となった関西外大ICC6411教室(楕円形の建物)
関西外大で開催された「呪いの時空ーアフリカの呪術的世界からー」という近藤英俊教授の、枚方市民大学 に妻と行ってきた。今日は京大の公開講座もあったのだが、こちらを先に予約していたのである。近藤先生の講義は、数年前京大で一度お聞きしたことがある。

今日の講義のテーマは、アフリカの呪術的なるものは、頻度こそ違うが日本にもあるということであった。

まずは、ナイジェリアのラゴスでの現地調査で知り得た交通事故の話から始まった。医療従事者の男性が、ありえない状況下で幼児を轢いてしまう話なのだが、父がアジェ(ヨルバ語:英語だとwitch)で呪いをかけられたと信じているという話だった。幸い3日間留置場に入ったが被害者のはからいでそれだけで終わったらしい。近藤先生によると、アフリカでも普段は合理的思考であるが、very strangeな状況下では、呪術的思考のスイッチが入るとのこと。

このスイッチが入る状況について3パターンが示された。その第一は、起こっていることが奇妙であること。米国の文化人類学者の報告からニジェールでの話が語られた。第二は、想定外の事態に遭遇した場合。これは前述のナイジェリアの話、あるいは南スーダンのアサンデの穀物倉庫が崩れて被害に合う人の話。誰しもがその原因がシロアリにあることはわかっているのだが、何故その人に災いがふったのか、それはマング(アザンデ語)である。予想外のことで説明できないことを説明しようとしてしまうわけだ。第三は、こんなはずじゃなかったという状況。特に何故か不幸になってしまうことで、南アの米国の文化人類学者の助手の話。これも不幸になった理由が説明できない故に呪術的思考に陥るという。

なかなか、日本での事例も含めて面白かった。特に参加者にこういう呪術的思考の経験を尋ねて日本との共通性を講じられた。最後に、ナーガルジュナの一眼の亀の話とコンゴ民主共和国のキンシャサのストリートチルドレンでwitchだとされた少年、それを救済しようとする教会の話なども伺った。

実に興味深い内容で、夫婦して満足し帰路についたのだった。

2022年11月4日金曜日

サクラサク 2022.11.4

https://photonorichan.kyo2.jp/e527198.html
朝、学園に着くなり小論文指導をしている女生徒が私を訪ねてきた。D大合格の報であった。面接入試で合格したので、小論文指導は必要なくなったのだが、指導を続けて欲しいとのこと。嬉しいねえ。

昼休みには、また小論文指導をお願いしたいという生徒が現れた。MARCHの一角、経営学部だそうだ。経営学部の小論文指導は初めてである。これまでのテーマを来週持参するとのこと。これを見て、類推し、どんな模擬問題を作ろうか、今から楽しみである。

こうして依頼されることは、それだけ信用してくれているということである。ありがたいことだと思う。

2022年11月3日木曜日

サッカー部 準決勝

我が学園サッカー部はインターハイに続き、全国選手権を目指して、ユニバーシアード記念競技場で、県大会準決勝の日である。相手は、野球でも有名なH学園。

実力は伯仲していた。しかし後半にゴール前の混戦から1点を奪われた。その後も攻め続けたのだがおよばず負けてしまった。サッカーは時間が決まっているので、勝っていると時間稼ぎをするのは常套手段だが、自ボールのコーナーキックで、ボールを何人かで囲うという時間稼ぎを相手校は2回もしていた。ルール上は問題はないだろうが、なんとも後味が悪い。これが学園側がおこなったとしても私は憤慨していただろう。質実剛健の校訓に反するからだ。

なんども惜しいシーンがあった。フリーキックがバーを叩いたときは、前にいるサッカー部員たちとともに頭を抱えた。教え子たちは奮闘していた。いいプレーも度々あった。勝負はまさに時の運である。3年生にとっては最後の試合。青春の輝きを今日も見せてもらった。ありがとう。

ところで、先日超難関私大に合格した三崎高校と縁のある生徒も応援に来ていて、新世紀リーダー塾でともに頑張ったR君が難関国立大学に合格したことを伝えてくれるようにとの報告を受けた。Facebookが閉じられていて心配していたのだが、よかった、よかった。

…これで学園が勝っていれば、と思うのは貪婪というものかと思う。

2022年11月2日水曜日

高橋和巳のこと

市立図書館でまた何冊か本を借りてきた。まずは、佐藤優の「同志社大学神学部」。50歳になったのを機に、若い世代への伝言として、学生時代の話を記した内容である。佐藤優は私より少し若いが、ほぼ同世代である。まだ途中までしか読んでいないのだが、通勤電車の中でサクサク読んでいる。今日は、この中で懐かしい人の名と本の名前が出てきたので、そのことについて記したいと思う。それは、高橋和巳の「我が解体」である。

実は私は紛無派の先頭世代で、しかもノンポリだったので私の本棚にはなかったが、当時の学生の本棚には、かなりの確率でこの本があった。各人が実際のところ読んだのかどうかはわからないが、ある意味、この本が置かれてあること自体がステータスだったような気がする。

本書では、主に丸太町教会において、神学部の学生が「今の教会は礼拝していれば事足りるという姿勢しか無い。反安保の姿勢をはっきり示して教会は立ち上がるべきだ。イエス・キリストに本当に従うということがどういくことなのか、言ってみなさい。」と説教台のマイクをとり牧師に自己批判を迫ったという事件である。(これは高橋和巳全集第11巻から佐藤優は引用している。)この事件をもとに、高橋和巳の思想が示され、佐藤優の見解が示されている。

自己解体を行う場合、解体の力を遥かに凌駕する構想力、平たい言葉でいうならば夢が必要なのだ。その夢は祈りから生まれるのである。高橋は歴史の根底を動かす「祈願の体系」の意味を正確に理解している。…(中略)…ただし、高橋が「祈願の体系」を平和に結びつけようとするときに、微妙な思考停止が起きる。…という具合である。(これ以上記すと無茶苦茶長くなりそうなので、私も思考停止させて頂く。)また気になる内容があれば、エントリーしたいと思う。

2022年11月1日火曜日

サクラサク 2022.11.1

https://www.keio.ac.jp/ja/news
/2008/kr7a43000000rrbi.html
PBT、三崎高校と新世紀リーダー塾繋がりのある学園の生徒が、今日東京の超難関私大の入試でサクラが咲いた。

1学期から小論文や口頭試問の対策を頼まれて、私も真剣に対応してきた。4月に私が来ることを唯一、事前に知っていた生徒である。その彼と関わり、共に頑張ってきた。なにより本人の努力の賜物だが、ほんと学園に来させていただいて良かったと思う。

くしくも合格発表の時間は、私の倫理の授業の時間と重なっていた。これも奇遇としか言いようがない。(笑)休み時間になって、三年生の職員室で、本人は祝福を受けていた。私にも担任の先生を始め多くの先生方から、感謝の言を頂いた。ありがたいことである。彼には大きな志がある。東京で大いに学び、実現して欲しいものだ。