2022年11月18日金曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅6④

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2021/06/03/109264/2
薩摩藩の郷中制度(町内ごとに組織する青少年団のようなもの。)は、南方古俗が、なまのまま薩摩藩に組み入れられたのではないか、と司馬遼は私感と前置きして述べている。この南方古俗の特徴は、若者たちが、山火事や海難事故、祭祀などの非日常的な問題に対処する故に、そのための集団教育の場をつくり、担っており、その中心者(薩摩藩では郷中頭)がその責任を負っている。よって、大人は、郷中頭には一目も二目も置き、たとえ十代の青年であっても慇懃に接するとのこと。

この青年に対する大人(体制側)の姿勢は、欧州や伝統的中国から見れば不思議な体制習俗で、後の昭和期の軍部・青年将校に繋がるのではないかと司馬遼は感じている。軍備や戦争という非日常的な仕事は、若者衆の仕事であり、陸海軍大臣は若者衆の代表である。大人(内閣)に対して従うというよりも、若者衆の意見を代表するだけの存在で、代弁者として大人に反対することも厭わない。司馬遼から見れば、戦前の陸軍大臣など、他の文明圏の感覚で言えば、とうてい大人といえるようなタマではないとボロクソである。(笑)

ところで、西郷は幕末の外交戦において、郷中頭だった頃の若者、ようするに町内の後輩を幕僚として使った。西郷従道は、「兄が幕末であれだけ活躍できたのは、私達がいたからだ。」と、言っている。従道は法螺をふいたり自分を大きく見せる人ではないので、司馬遼もこの言葉は正鵠を射ていると思っているようだ。この町内の若者とは、従道、大山巌らを指す。(ちなみに東郷平八郎も同じ町内に生家があるらしい。)

この言と関係するのが、西南戦争である。征韓論で政府を去った西郷に、近衛軍を辞し、付き添ったのは、従道から見れば、”単なる人殺しで信じがたいほどの阿呆”である桐野利秋である。たしかに桐野は幕末の四大人斬りとして、岡田以蔵などと並び称される「中村半次郎」である。桐野は、郷中をさらに藩レベルで組織化した私学校をつくる。従道からすれば、「兄を誤ったのは彼らだ。」ということになる。「翔ぶが如く」を読んだ記憶では、この桐野の阿呆ぶりが鮮明に残っている。司馬遼は時折、こういう阿呆な悪役を設定する。「坂の上の雲」でも、乃木希典の第3軍を窮地に陥れた阿呆な参謀、伊地知幸介なんかもそうである。まあ、作家なので、これは誇張かもしれないが「あり」なのかなと思う次第。

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